※ このレポートは、風の学園の学習の一環として、各ゼミ生が担当をして作成しています。 ベルリンとワルシャワ |
【西ドイツ、東ドイツ再統一への道のり】 [1989年] 1月20日 DDR(ドイツ民主共和国)国家評議会議長エーリヒ・ホーネカーが、壁をそれを建てた条件が変 わらない限 り存在し続けると主張。 2月 6日 射殺命令が廃止される2週間前、逃亡を図った22才の青年が射殺される。 国境での最後の、77番目の犠牲 者となる。 5月 7日 DDRで市町村議会選挙実施。選挙結果に捏造の疑いありとして多くの市民 が提訴。 6月 4日 中国で天安門事件。ドイツ社会主義統一党(以下、SED)指導部、これを 反革命運動と呼ぶ。 7日 東ベルリンで、選挙操作に抗議する集会。警察とシュタージによる120 名逮捕される。 13日 西ベルリンで催されたキリスト教(福音派)信徒大会に、DDRの376人 の市民が参加を許可される。 7月 7日 ルーマニアでワルシャワ条約機構加盟国会議。ゴルバチョフ書記長が、い かなる社会主義国家にも独自の道を 歩む権利があると言明。 8月19日 約900人のDDR市民、「汎ヨーロッパピクニック計画」を利用してハン ガリーとオーストリアの国境を超 えて西側の逃亡を果たす。 24日 108人のDDR市民、ブタペストの西ドイツ大使館から国際赤十字の援助 によってウィーンへ脱出、バスで 西ドイツのニュルンベルグに移送される。 9月 4日 「大量逃亡のかわりに旅行の自由を」をスローガンに、ライプチヒで12 00人がデモ。警察介入せず。 10日 ハンガリーが、1万人のDDR市民のためにオーストリアとの国境を開放する。 (10月末までにこの国境を 超えたDDR市民は合計5万人) 30日 DDR、ポーランド、チェコスロバキアの政府間の合意で、プラハとワルシ ャワの西ドイツ大使館に亡命を求 めてきた全てのDDR市民に、ただちに西 ドイツへ入ることが許可される。 10月 2日 警察の介入によってデモが押さえられる。ライプチヒでの「月曜デモ」が 回を重ねるごとに参加者を増やす。 9月25日8000人、10月2日 1万5000人、10月9日7万人、10月16日15万人、10月23 日30万人。 4日 1万人のDDR市民が遮蔽された特別列車でプラハから出発。 7日 DDR建国40周年の公式祭典に付随する形で、1953年以来最大の全国 的な抗議決起集会が催される。合 わせて1000人が逮捕される。 9日 ゲヴァントハウス常任指揮者マズーア、寄席芸人ランゲ、神学者ツィンマ ーマンそして3人のSED地区書記 長らが、対話と非暴力を訴えるアピール を起章。 18日 エーリヒ・ホーネカーが全ての職から解任される。SED中央委員会、後継 者にエーゴン・クレンツを選出。 21日 作家クリスタ・ヴォルフと数人の仲間が、人民議会議長に宛てたアピール において国家権力の不当介入を抗議。 27日 チョコスロバキアへの旅行者用ビザ取得義務が廃止され、新たに大量逃亡 が始まる。 11月 1日 エーゴン・クランツ、モスクワでゴルバチョフと会談。 4日 ベルリン(DDR)で戦後最大のデモ。約100万人の人々が、SEDの権力 独占に反対し、民主的改革、旅 行の自由、出版の自由、自由選挙を求めて デモ。 7日 DDR政府総辞職。 9日 壁、崩壊。翌10日にかけての夜、DDRは突然西ベルリンと西ドイツへの 国境を開放。DDRすべての市民 に旅行の自由が、即刻認められる。 11日 コール連邦首相、プラント元首相、ゲンシャー外相、モンパーベルリン市 長らの出席した政治集会が西ベルリ ンで開催される。この土曜日だけで1 00万人以上のDDR市民が旅行者として西側に入る。 12日 西ベルリンだけで50万人のDDR市民が訪れる。西ドイツへの検問所に5 0キロを越す車の列。 13日 SED政治局員ハンス・モードロウを首相に選出。 16日 コール首相は、「政治的、経済的システムの根本的改革」がDDRにおいて 実行されるなら、経済的支援をす る用意があると表明。 (20日 ルーマニアで、チャウシェスクがいかなる改革も拒否) 23日 SED、エーリヒ・ホーネカーを除名処分。 27日 ライプチヒの「月曜デモ」で、20万の参加者は主としてドイツの国家連 合を要求。「我々は一つの国民だ」 のスローガン。 28日 コール首相、「ドイツと欧州の分断を克服するための10項目計画」を作成。 12月 3日 クレンツ政治局員辞職。 5日 数都市で、市民・検察官・警官が共同してシュタージの文書類の廃棄を阻 止。 8・9日 SED臨時党大会で、ベルリンの弁護士G・ギジを新党首に選出。 11日 DDRでの大規模デモで、ドイツ統一を要求するグループが増加。 22日 コール連邦首相とモードロウ首相の間で協定が結ばれた後、ベルリンのブ ランデンブルグ門の歩行者用検問所 が開放される。 (25日 ルーマニアのチャウシェスク夫妻、軍により処刑される) 29日 モードロウ他の新年メッセージに、「終らんとする1989年は、平和の革 命の年として我々の国の歴史に残 るだろう。」 [1990年] 1月 この1ヶ月間でドイツ‐ドイツ間の訪問者数が1800万人を超えた。9 84万953人のDDR市民が西ベ ルリンを訪問し、同時期に832万30 85人の西ドイツ人がDDRを旅行した。 2月16日 ベルリンの帝国議会議事堂からチェックポイント・チャーリーまでの2キ ロメートルの壁が撤去される。 24・25日 ドイツ社会民主党(SPD)の党大会が44年ぶりにDDRの国内で開催され る。(東西に分断されたのちの ソ連の占領下にあって、SPDは共産党と合併 させられ、ドイツ社会主義統一党となるが、この党は実質的に 共産党であ った)党首にI・ベーメを選出。ヨーロッパ統合の前段階としてドイツ統 一を支持。 3月 1日 「ドイツのための同盟」(DA「民主主義の出発」、DSU「ドイツ社会同盟」、 CDU「キリスト教民主同 盟」の3党による同盟)が、選挙スローガン「3 月18日には社会主義を終らせなければならない!」を発表。 6・7日 第18階人民議会(これが最後となった)は開かれ、DDRで最初の労働組 合法を含む14の法律を採択。 9日 DDRの選挙管理委員会は、3月18日の選挙には24の党と政治団体が候 補を立てることが認められた、と 発表。1220万の有権者は、DDR人民 議会の400の議席(これまでは500)いついて意思を表すこと になる。 一議席を獲得するのに投票数の0.25%が必要となる(基本法に定める 「5%以上獲得した党でな いと議席を得られない」、いわゆる5%条項は適 用されない)。 14日 ボンでドイツ統一のための専門者会議「四プラスニ」が開催される。参加 者は四戦勝国(米英仏ソ)および東 西ドイツの代表。 (15日 ゴルバチョフ、ソ連邦初代大統領に選出される) 18日 DDRにおける最初の民主的な自由選挙が実施(投票率93.6%)され、 キリスト教民主同盟(CDU)が 第一党となる。 4月 9日 DDR最初の民主的政府誕生。政権はCDU、DSU、DA、SPDに他のリベ ラル派を加えた大連立政権。 首相にDDRのCDU党首R・ド・マイツォー レ. 23日 ザクセンの工業都市カール・マンクス・シュタッドで行われた市の名前に 関する投票が公開された結果、約7 5%が1953年まで使われていた名 前ケムニッツに戻すことに賛成であることが判明。 5月 6日 DDRにおいて市長村選挙が実施され、3月18日の国政選挙に比べるとポ イントを落としたものの、SDU が第一党となった。 17日 通貨、経済および社会の同盟に関する条約が両ドイツ間で調印される。 6月27日 DDR政府、ドイツ国内にある国境でのドイツ人の人物検査を廃止。 7月 1日 両ドイツ間の条約発効。国立銀行はドイツ連邦銀行に通貨高権を委譲。DDR におけるドイツマルクの導入。 DDRマルクとドイツマルクの交換レートは 4千マルク(年金受給者は6千マルク、子供は2千マルク)まで は1対1、 これを超える預金は2対1。 8月29日 コール首相と連邦洲政府首脳は、1990年10月3日を両ドイツ国家統 一の日とすることで合意。 31日 ゲンシャー外相、統一ドイツの兵力を37万に限定すると表明。 同日、ショイブレ内相とウラウゼDDR国家書記長が両ドイツの統一条約に 調印。「すべてのドイツ人にとっ て喜びと確信の日」(ショイブレ内相)。 9月12日 「四プラスニ」折衝の終結。7ヶ月に及ぶ折衝の末、6カ国の外務大臣が 「ドイツに関する最終的取り決め条 約」に調印した。四戦勝国の連合国施 設・組織の解体・対外国境線が確定したことの承認、ドイツのNATO 加盟、 ABC(原子力・生物・科学兵器の略)兵器の不所持、ドイツの統一と主権が その内容。 23日 DDR国内に駐留するソ連軍の撤退に関する条約が調印され、ドイツ政府 が120億マルク支払うことで決着。 10月 3日 ドイツ統一の日。0時をもってドイツ連邦共和国基本法へのDDR加入が執 行された。 参考文献等「ドイツを知るための60章」 明石書店 【 ベルリンレポート】 ベルリンは、大変広く、パリの8倍!はあるそうだ。ドイツ共和国の首都にふさわしく、みどころも多い。ガイドブックには、全てみてまわるには、最低3−4日必要と書かれている。実際には、5日間とか1週間くらいいるのではないだろうか…・。 とはいえ、今回のフィールドワークで、ベルリンを見られるのは、約1日!なんという強行軍。 というわけで、ベルリンの中でも、ごくごく限られたところを中心にレポートする。 まず、なんといっても東西に分断されていたエリアに興味がある。 1989年まで28年間ものあいだ、東ドイツのなかに、ぽっかりと西ドイツのベルリンが壁に隔てられて、存在していた。地図で、その様子をみると、無作為にギザギザに囲われたとしか思われず、とても不自然だ。 壁が崩れて、ことしで12年。東側のベルリンは急速に開発が進んで、壁があったのがほとんどわからないような風景が広がっている。 泊まるホテルである、フォーラムホテルベルリンにも程近い、Mitte(ミッテ)地区は、廃虚ビルを改造した無国籍カフェやミニシアター、フリーマーケットが開かれている。 西側ベルリンの中心である、カント通りとウーラント通りの角にオープンしたシュティルヴェルクは、デザインショップとして、新しい感性を発信している。 もともとベルリンは、かつて東のパリと呼ばれ、芸術の都として、由緒正しく伝統のある街。 美術館や博物館も目白押しで、どれを観たらいいのか迷うほど。 ここでは、長年ドイツに行っているY氏おすすめのペルガモン美術館についてすこし。 ペルガモン博物館 1909−1921年にかけて建てられた。トルコにあった、ペルガモン王国の遺跡を19世紀にベルリン美術館が発掘し、その出土品をもちこんだもの。なかでも、発見時のままの規模で復元されている、ペルガモン神殿のゼウスの祭壇は必見。その他、ヘレニズム芸術の見事な彫像や紀元前6世紀の古代バビロニア王国のイシュタール門も見事。入り口で日本語の解説テープを借りられる。9:00−17:00 無休と月曜休みの説あり。入館料は、4マルクと8マルクの説あり。 ベルリンの壁について ベルリンの壁博物館 ドイツ統一前に、西側からの観光客が東へ入るときの検問所であった、チェックポイント・チャーリー。そこから南に50mほどいったところに壁博物館がある。1961年にベルリンの壁が築かれた当初や、壁を越えて、東から脱出した人々の様子などがパネルで紹介されている。チェックポイント・チャーリー周辺では、東西が分断されていた様子を建物や雰囲気で感じ取れるそうだ。9:00−22:00 無休 7.5マルク ブランデンブルグ門 これも東西分断の象徴的存在。1788−1794年にかけて建築家ラングハンスが、アテネの神殿の門を手本にして造ったもので、ドイツ古典主義建築の代表。第2次大戦で、全壊したが、1957と1990に復元された。ここを起点に東へ延びている1.5kmの大通が、ウンテル・デン・リンデン。「菩提樹の下で」という意味で、その名の通り、並木道と壮麗な建物が続く。 この終点に、アレクサンダー広場がある。1805年に、 ロシア皇帝アレクサンダーT世のベルリン訪問にちなんで名づけられた。ここの一角に泊まるホテル フォーラムホテル・ベルリンがある。 ベルリン小史 ベルリンの名が初めて文書にでるのは、1237年、シュプレー川のほとりの小さな漁村としてだった。 15世紀半ば ホーエンツォレルン家のブランデンブルグ選帝候が自国の首都に定めた。 18世紀 プロイセン王国が興るとその首都として発展。 初代王フリードリヒT世は、市街地の拡大に力を注ぐ。 フリードリヒ二世は、文学・哲学・芸術に関心を示し、ウンテルデンリンデンの整備やブランデンブルグ門の建築を開始し、ベルリンをパリやウィーンと並ぶ、文化の都に育てあげた。 1920年代後半 ワイマール共和国のもと、最盛期をむかえる。 1945年 ドイツが無条件降伏すると、ベルリンは分割され、4カ国の共同管理下におかれる。 1989年 ベルリンの壁崩壊。 1991年 再び首都になり、現在にいたる。 ラフながら、今の私のベルリンへの見解をあげてみる。 とってもホットで目が離せない場所だということ。 毎日毎日変化しているということ。 中世にまでさかのぼる歴史と伝統の上に、あるいは共存する形で、現在があること。 だから、過去と現在の混在あるいは、未来までもがそこにいるかもしれないと感じる。 ベルリンで暮らしている人のHPを読んでいて、思ったこと。 壁はなくなっても、どこかに壁は残っている。心の中に、言葉にはされないところで。 あるいは、むき出しに。東ドイツのころからあり、今もあり、常連の人すなわち東側の人しか入れないような店があるという。壁そのものは崩壊して12年。でも、28年間存在したものは、そう簡単には消えないはずだ。多分、徐々に姿を消していくのだろう。その消えていく壁の影を見たい、感じたいと思っている。決して消えない壁や傷もあるし、それを忘れないために残すことも必要だ。日々、おそらくものすごいスピードで変わっていくベルリンをこの目で見て、感じて、考えて、また次の行動へとつなげていこうと思っている。 参考文献等 インターネットHPなど M.K. 【ワルシャワレポート】 ・人口 1,635,000人 国土の中央東部平原に位置し、ベルリン・モスクワ・プラハなどへ通じる国際列車が通じ、市の 南部にはオケンチョ空港がある。また、プラガ地区の河港には東ヨーロッパの経済上、重要な役割 を果たしている。機械製作・自動車・電気機器・化学・印刷などの工業も盛んで、右岸のジェラニ・ プラガ地区がおもな工業地帯である。 ・ 歴史 1596年にクラクフからワルシャワに遷都され、1611年に正式に首都になる。 1772年、1792年、1795年の3回に渡って、ポーランドは分割され消滅するが、1807年ナポ レオンの後押しでザクセン家のフリードリヒ・アウグストがワルシャワを支配し、「ワルシャワ公国」 創設。オーストリアと戦い、ポーランドの大部分を開放したが、ナポレオンの没落によウィーン会議で消滅した。 1882年ワルシャワで初の社会主義党(プロレタリアート党)発足。 1939年独ソ不可侵条約締決。ドイツ軍、ポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発する。19 44年、ナチス・ドイツにワルシャワ市民が一斉蜂起なしたことにより、20万人以上の人々が犠牲に なり、8割以上の建造物が跡形もないほど破壊された。 戦後、ワルシャワに戻った市民の手によって、破壊前に画家が書いた絵や写真をもとに忠実に再現され、バロック様式やゴシック様式の昔ながらの町並みが再びワルシャワの待ちに現れるようになった。 ・ワルシャワという名の由来 その昔、まだ未開のヴィスワ川沿いに貧しい漁師が住んでいた。当時、このあたりは背の高い植物が茂っていて、魚の格好の棲み家だったので、漁師は毎日仕事に精を出していた。ある朝、漁師は網にかかった人魚を生け捕りにした。それは下半身は魚だが、上半身は美しい女性だった。驚いた漁師は人魚を家に連れて帰ったが、なんとか川に返して欲しいと懇願され、結局は川に返してやることになった。それ以後、漁師の家の周りにだんだん人が住み付くようになり、魚がよく売れるようになってその漁師は裕福になっていった、その漁師夫婦の名が、ワルス(Wars)とサワ(Zawa)で、これがワルシャワの始まりだと言われている。そしてワルシャワ市の紋章は人魚をデザインしたものになり、バスやトラムの車体に描かれている。 ワルスとサワが双子の兄弟だったという説もあるが、言語学的な見地からワルシュ(Warsz)という人名から派生したという事だけは間違いないという。 ・ワルシャワ中心部 ワルシャワはヴィスワ川を挟んで東西に市街に広がっている。川の東岸はプラガ地区という住宅街で、ワルシャワで紹介されるプライベートルームはこの地域に集中している。だが、発砲事件が起こり治安が悪いことも有名。川の西側にあるワルシャワ中央駅付近には旧市街や博物館など、観光スポットが集まる街の中心部となっている。 ワルシャワ中央駅の南を東西に延びているイエロゾリムスキェ通りと分化科学宮殿(大人・学生10、子供3z)のところを交差するのがマルシャウコフスカ通り。 マルシャウコフスカ通りとイエロゾリムスキェ通りが交差するデフィラト広場に37階建ての高層ビル文化科学宮殿がそびえたっている。搭の高さは234m、総床面積12万3000u、部屋の数は3,288もあり、内部には科学アカデミーを始めとする各種研究所、ポーランドテレビ、3,000人を収容できるコンベンションホール、コンサートホール、映画館、劇場などが入っている。 スターリンの贈り物として1952年から4年もかけて建てられたもので、建物それ自体はワルシャワ市内のどこからでも目に付き、いい目印になるのだが、高層建築の少ない調和の取れたワルシャワ市内の町にはどうも似つかわしくない権威主義的な建物ともいえる。「ソビエトの建てたワルシャワの墓石」などと皮肉った呼び方をしている人もいる。また宮殿内には科学技術博物館(大人5、子供・学生2.5z 月休)があり、電話、レコーダーなどの通信機や印刷機器、自動車、古いカメラ、天文観測機などが常設展示されており、ポーランドの科学技術がひとめでわかるようになっている、反対側には進化博物館(大人4、子供3z 月休)があり、小さいながら恐竜の化石や多種類の昆虫の標本が充実しており、様々な企画展示も行われる。 デフィラト広場は旧政権時代には装甲車が待機していたが、今では自由市場となっている。人々が商品を持ち寄って勝手に売っているだけだが、活気があり、ロシアやルーマニアからもここで商売をするために出稼ぎにきているようだ。売られているものは様々で、衣料品・おもちゃ・食器・各種機械部品・食料品など。旧ソ連軍の軍服まで並べていることもある。 このあたりには、デパートやレストラン、カフェ、ホテル、商店などが軒を連ね、ワルシャワで最も賑やかなエリアになる。 交差点南には、西側に色々なお店やレストランなどが並び、北に行くと右側にはワルシャワ最大級のデパート、ツェントルムがある。 デパートの東側に、東西に走るイェロゾリムスキェ通りと並行して延びているフミエルナ通りがある。デパートSMRKから5分ほど歩くと、再び大きな交差点に出る。南東の角にある巨大な建物はポーランド統一労働者本部跡で、現在は証券取引所となっている。その向こうには、国立博物館(大人9、子供・学生5z*土曜は無料 月休)と軍事博物館(大人5、子供・学生2、カメラ・ビデオ5z 月火祝休)の建物が並んでいる。国立博物館は古代ギリシア、ローマ、ビザンチン時代の美術品やポーランド美術、15世紀以降のヨーロッパ絵画などのコレクションが収められ、現在も収集が続けられており、8世紀のフレスコ画やルーベンス、レンブラントなどのオランダ絵画は必見である。入り口のすぐ右の展示室には8〜13世紀のキリスト像も十字架に架けられ、槍で突つかれた様子をリアルに再現してあって、クリスチャンでない人は少々カルチャーショックを受けるかもしれない。 この国立博物館の東隣にある軍事博物館の中庭には実物の兵器が展示してある。 第2次大戦当時の戦車や大砲、戦闘機、艦載用の魚雷発射管、さらには最近のミサイルやジェット戦闘機まで並べられている。 交差点を左折して、北へ向う新世界通りに入ると、途中でクラクフ郊外通りと名前を変えて、旧市街の入り口、王宮広場まで延びている。イェロゾリムスキェ通りから王宮広場まで2km弱。 イェロゾリムスキェ通りから美しい建物の並ぶ新世界通りに入り、右手に郵便局がある角を右折し、Ordynacka通りをヴィスワ川へ進むと17世紀初頭にクラクフの騎士オストロフスキが建てたバロックスタイルのオストロフスキ宮殿内にはショパン博物館(大人7、子供4z 日・祝休み)がある。国内外から熱心なファンが詰め掛ける博物館で、ショパンが最後に使ったプレイエル製のピアノを始め、2500点を超える関係資料、写真が残されている。5年毎(5と0のつく10年)に開催されるショパン国際ピアノコンクールの間は、普段は公開されない貴重な資料なども見る事ができる。この博物館は、館内に本部が置かれているショパン教会によって運営されており、建物の1,2階を博物館として一般公開し、3階はコンサートホールとして使用されている。 北へ5分ほど歩くと、聖十字架通りとの交差点に出る。ワルシャワ蜂起の際の戦闘により、新世界通りの71棟ある建物のうち65棟までが破壊されたという記録があり、信じられないかもしれないが、現在建っているこの通り沿いの建物ほとんどが戦後再建されたものである。交差点の北東角にあるネオ・クラシック様式のビルが現在ポーランド科学アカデミーの建物、スタシッツ宮。このすぐ北側は小さな広場になっていてコペルニクス像がある。コペルニクス像の向かいに立っている聖十字架教会はショパンにゆかりの深い教会で、本堂の左手前にある石柱の下には、ショパンの心臓が埋められている。第2次大戦中ドイツ軍は他の建物同様、この教会も爆破し、その際にほぼ3分の1が破壊されショパンの心臓も持ち出された。だが、戦後教会は建てなおされ、心臓は1945年10月17日ショパンの命日に元の場所に戻された。地元の人はもちろん、このショパンの心臓への参拝者が絶えない。 ここから先、通りはクラクフ郊外通りとその名を変え、旧市街の入り口である王宮広場まで延びており、北上すると右手にワルシャワ大学の正門が見える。大学構内の一番奥にあるのがカジミエーシュ宮殿(無料 土日休)で、ワルシャワ大学の一部で現在は博物館として公開されている。ここには1817年ワルシャワ・リツェウムという中・高等学校と音楽学校が置かれ、1823〜29年にショパンも学生として学んだという。また、宮殿の別館にはショパン一家の第2の住居跡がある。 ワルシャワ大学のそばにあるヴィジトキ教会は後期バロック様式の建物で、18世紀に建てられた。ワルシャワ大学内に中・高等学校(リツェウム)が置かれていた頃、当時学生だったショパンがこの教会ミサでオルガニストをしていたと言われている。 ワルシャワ大学から少し北に、ゲートをライオンの像と兵士達に厳重に守られた「ラジヴィヴ宮殿」があり、ここは現在ポーランドの大統領官邸として使われている。 ラジヴィヴ宮殿の反対側には広大な公園が見えてくる。18世紀に当時のポーランド王アウグスト2世が開いたサスキ公園だ。公園の東側にあるピウスツオ元師広場には無名戦士の墓がある。ここは過去に他国との数々の戦いで祖国のために命を落とした無名の墓で、左右両側を2人の儀礼用軍装に身を包んだ衛兵が直立不動で立っており、毎時ちょうどには衛兵の交代が行われる。この交代劇はワルシャワ名物ともなっている。毎年、ワルシャワ蜂起記念日の前日、7月31日の夕方に無名戦士の墓の前でセレモニーが行われる。 そのサスキ公園に隣接してたっているのが国立劇場(大人5、子供・学生2.5z 土〜月休)で、7〜8月のオフシーズンを除き、国立バレエ団や国立オペラの定期演奏会が開かれる。1825〜33年に建築家コラッツィが建てたこの劇場も正面外壁を除き、第2次大戦で焼失してしまったが、現在は残った部分を元に復元された。劇場内には博物館があり、ポーランドオペラに関する資料が公開されている。 王宮広場に中央を見上げるように高い石柱の上で十字架を手にして建っている像は、ポーランドの首都をクラクフからワルシャワに移したジグムント3世である。この王は約400年前にクラクフからワルシャワに遷都した。 右手奥の建物は旧王宮(大人9、子供学生4z *日曜は特別ルートを無料で開放 月祝休み)で現在は博物館として公開されている。 王宮広場から旧市街へ入ってすぐ右側に聖ヤオ大聖堂があり、ここは歴代の王の載冠式や憲法宣言式など、数多くの歴史的行事が行われたワルシャワで最も古い教会になる。14世紀に建てられ、ワルシャワで最初にオルガンが作れたのもこの教会である。 ここからやや左手に入って行くと、旧市街になりしばらく進むと露天やカフェの並ぶ華やかな広場に出る。ここが旧市街の中心旧市街市場広場で、広場の一角にはワルシャワ歴史博物館(大人5、子供・学生2.5z 月祝休)がある。ワルシャワの歴史をわかりやすく展示した博物館で、小さい建物だが第2次大戦に関する展示には驚かされる。戦後すぐに撮影されたワルシャワ市内の写真を何点も見る事が出来るが、どれもこれも戦災によって破壊しつくされた建物しか写っていなく、この写真が現在あるような状態にまで復元されたのかと思うと感動せずにはいられないだろう。日曜以外は20分ほどの大戦の記録映画が上映される。 中世からの建物がそのまま残っていた旧市街と新市街周辺は第2次大戦におけるワルシャワ市街戦で、徹底的に破壊し尽くされたが、戦後、首都の復興にかけるワルシャワ市民の情熱は、この町並みを見事に復元させている。 参考文献等「地球の歩き方・ポーランド」ダイヤモンド社など 96年度生 S.K. |