フィールドワークオシフェンチム1999


 1999年11月19日
 ちょっと時間がかかってしまいましたが、やっと
 インターネットをつなげることができました。
 今、私は、ポーランドの京都と言われているクラ
 クフと言う街にいます。

 ここまでの道のりは、成田から飛行機に13時間
 ほど乗り、ドイツのフランクフルトと言う都市に
 降り、そこからさらに飛行機を乗り継いで、約2
 時間でここクラクフにつきます。ここクラクフの
 街は、東ヨーロッパにおいて唯一戦災を逃れて、
 中世のヨーロッパの街並みがそのまま残されてい
 ます。街全体が世界遺産にも指定をされていて、
 街の中心の小高い丘の上には、バベル城というお
 城がそそりたっています。そのお城を中心にして、
 石畳の通りが放射線状に広がっています。その通
 り基点には、中央広場という、大きな広場があり、
 そこには、大きな教会をはじめとするお土産もの
 を売る市場などがところせましと並んでいます。

 ポーランドという国を聞いて、皆さんはどんなこ
 と知っていますか?
 元社会主義の国だとか、アマチュアスポーツが強
 かっただとか、連帯なんて言う集団があったとか、
 ぐらいでしょうか。ポーランドと言う国に降り立
 って、最初に感じることは、何かなつかしい感じ
 がするということです。街全体の雰囲気だとか、
 人あたりだとか、昔の日本の街的な匂いがプンプ
 ンします。まだまだ、近代的になる途中ではある
 けれど、何か勢いを感じる国です。


 こんなポーランドに私たちが来ている目的は、私
 たちの学校が「平和」というテーマを持っている
 からです。ここポーランドという国の歴史をひも
 といてもらえれば、その意味のいろいろな要素が、
 見えてくると思います。ポーランドの三国分割だ
 とか、第2次世界大戦後の社会主義陣営への組み
 込まれ方だとか、そして、訪問地の一つである、
 「アウシュビッツ」をはじめとするいくつかの収
 容所が作られているとかというように。私たち学
 校としての興味がつきることのない国です。

  今回の私たちの旅の日程は、大きく分けて、3
 つの部分から成り立っています。
 最初の1週間は、ここクラクフにおいてのホーム
 ステイです。ここクラクフに、ヤギゥエ大学と言
 う東ヨーロッパ最古の大学があります。その昔、
 天文学で有名なコペルニクスも学んだこの大学に
 日本語学科があります。今回は、その日本語学科
 の学生の人たちの家にホームステイをさせていた
 だくことになりました。私たちは泊まるところを
 彼らは生きた日本語を聞く機会ということで、こ
 のホームステイは実現しました。
  そして、第2週は、アウシュビッツ(オシフェ
 ンチム)において、ボランティアをすることです。
 これは、日本人としては初めてのことです。
  で最後の週は、ドイツに入り、今年、壁崩壊1
 0周年のベルリンを見、中部ドイツのカッセルと
 いう街でホームステイをし、現地の高校生とも交
 流をして、ドイツとポーランドとの関係や、ドイ
 ツの戦後処理ということについて学びます。
 
  クラクフでのホームステイは、とても快適でし
 た。ポーランドの人たちは、何か、昔の日本の人
 たちのようです。私が高校生だったころ、日本の
 各地を旅行をした時に経験をした感覚と似ていま
 す。見ず知らずの人に対して、長旅をしてきたと
 言うだけで、その昔は、手厚くもてなしてくれま
 した。ちょうど、そんな匂いが色濃く残るクラク
 フでのホームステイでした。大学生たちは、本当
 によく日本語を勉強していて、1年生や2年生で
 も、日常の会話であれば、なんなくこなします。
 また、日本の文化や文学のことを日本人以上に詳
 しく知っていたりします。日本から遠く離れた場
 所で、こんなにまで日本のことを勉強している外
 国人たちがいることにとても驚きました。

  クラクフでの生活体験記はこのあとまた書きた
 いと思いますので、今日ははこのへんで。


 11月20日 
 私たちは、旅に出ると必ずその中で、ホームステ
 イなるものを試みるようにしています。
  なぜ、試みるのでしょうか?
  その地で生活をしている人たちの視点からいろ
 いろなものを見るこれは非常に大切なことである
 と考えています。日本人の目や住んでいるところ
 の価値観などで、考えていたことが、90度、い
 や180度違ってしまうことも多々あります。

  今回の旅では、2回のホームステイを予定して
 います。前半は、ポーランドで、後半はドイツで。
  今日は、前半のポーランドでのホームステイの
 感想をちょこっと書きたいと思います。
  ポーランドでのホームステイは、クラクフにあ
 るヤギゥエ大学の日本語学科の学生さんたちの協
 力があって実現しました。ヤギゥエ大学は、ポー
 ランド最古、いや東ヨーロッパ地域で2番目に古
 い大学で、創設は、1364年と言われています。
 天文学者のコペルニクスや現ローマ法王のパブロ
 2世などが学んだことで有名です。あっそうそう、
 ポーランドにはまだ、正式な私立の大学はないの
 で、ある大学は全部国立です。その大学の中にあ
 る日本語学科は、言語関係の学科の中でも人気の
 ある学科です。もともと、ポーランドの人は親日
 家の方が多くいます。日本がヨーロッパに紹介さ
 れてから、東洋に対する関心は高く、ワルシャワ
 大学にある日本語学科は、もう100年以上の歴
 史を持っています。今回、協力してくれた学生さ
 んたちに聞いたところによりますと、入学の動機
 は、日本語をキャリアアップの道具に使い就職の
 ために使いたいという現実派から、漢字だとか日
 本建築だとか、日本画だとかという、日本文化に
 興味を持ってという人も多くいました。


 
  そして、彼らに共通していることは、みな、日
 本語がとてもうまいということです。2年生ぐら
 いになりますと、流暢な日本語を話しますし、漢
 字まじりの日本語の文章もかなり書きこなします。
 そんな彼らと何日か接させてもらい感じたことを
 いくつか書けば、まず第1に、とても彼らはやさ
 しく気を使う人たちでした。滞在中、本来のホー
 ムステイでは、家の仕事などを手伝うのがふつう
 なのですが、彼らは決して、家事などをやらせて
 くれないのです。
  そして、いろいろなことを話しをしてくれます。
 ポーランドの歴史、文化、言語、最近の社会など
 というように、とてもコミュニケーションをとる
 ことに積極的でした。
  何か、彼らと接していると昔の日本人を思い出
 させます。話しをしていると何かホッとする感じ
 にさせられたのは私だけではなかったようです。
  そして彼らはとても勉強家でした。1年生など
 でも私たち以上に漢字を勉強していたり、日本の
 文学について細かいところまで知っていたりと、
 しっかり勉強をしているという感じでした。大学
 生たちの印象についてはこのへんにして、次回は
 大学生たちの生活や文化、ポーランド社会の中で
 気がついたことなどを報告したいと思います。

  というわけで、今回は、フィールドワークを元
 にした学習の記録化ということについて少し話し
 をしたいと思います。フィールドワークというこ
 とで、意識的にこんな機会を作る場合は、わかり
 やすいかもしれませんが、こうした日常の中での
 学習活動は、多く存在します。ある意味、毎日が
 フィールドワークであると考えてよいと思います。
 毎日、接している人や環境においても少し視点を
 変えれば、十分に学習になり得るはずです。上記
 をした報告などは、約1時間30分ぐらいの時間
 を使って書きましたが、内容を読んでもらってわ
 かったと思いますけれど、学習の内容として、社
 会科の政経や公民、また、内容をさらに深めるこ
 とによって、その調査に費やした時間も含め、歴
 史や地理などにすることも十分可能だと思います。
 日常における活動を学習化するときの重要な点は、
 その動機のつくり方、つまり、学習を開始するた
 めの視点をどう持つかという点です。こうした力
 を養うためには、そんなに特別な方法があるわけ
 ではありません。とりあえずは、私が書いたみた
 いに、自分の行動を観察することからはじめ、自
 分が思ったことを思うがままに書き留めるなどと
 いうことからやってもらえるとよいと思います。

  学習に対する質問がある方、遠慮なく質問を。
  ポーランドは今日は雪です。飯はうまい!特に、
 スープは最高!K君は、きのこスープにはまり、
 毎日食べています。
                 では、また。
                   KAN

 11月21日
 今回の報告は、ポーランドの歴史と街の様子を中
  心に話しを進めていきたいと思います。ポーラン
 ドという国の歴史は、まさに独立の歴史というこ
 とになると思います。確かに、14世紀ごろに王
 国として成立をしたころは、16世紀の末ぐらい
 まで、東ヨーロッパで一番大きな国として君臨を
 していました。しかし、その力を支えていたライ
 麦の景気が下降線になったこともあり、後継者が
 いなかったことなども災いし、肥沃な土地を狙っ
 た侵略者の介入を17世紀以降しばしば経験をし
 ます。中でも、1795年のロシア・プロイセン
 ・オーストリアの三国による第3回ポーランド分
 割によって、ポーランドという国は地図上から消
 滅しました。国が無くなってもポーランドの人た
 ちの独立への闘争は終わりませんでした。第1次
 世界大戦終了間際、そうした闘争の結果、再び国
 を復活させます。しかしながら、ご存知の通り、
 第2世界大戦の口火を切ったナチスドイツによる
 ポーランド侵攻によって、再びポーランドは国と
 しての地位を失います。ナチスに対して、最初に
 抵抗の戦いを挑んだポーランドの勇気は今でもた
 たえられてます。第2次世界大戦中は、ポーラン
 ドの人たちの多くは、レジスタンスとして、反ナ
 チの行動を地下活動として継続しました。
 
  第2次世界大戦終了と同時に再々独立ができる
 はずだったにもかかわらず。ポーランドの地域を
 解放したのがソビエト軍だったため、今度は、社
 会主義の陣営に組み込まれてしまいます。ソビエ
 トの圧力のもとにあったため、真の独立を勝ち得
 るまでには、冷戦の終了を待たなくてはなりませ
 んでした。晴れて民主国家として、ポーランド共
 和国になるのは1989年のことでした。そして、
 今は、今までの遅れをとり戻そうと国をあげ必死
 で近代化を進めています。その結果どんなことが
 起きているかについてはここではあまり深入りし
 ません。ただ言えることは、経済的に豊かになる
 と同時に失うものもあるということです。

  そんな国であるポーランドの今の様子を紹介し
 ますと、今、私たちが滞在をしているクラクフと
 いう街は、ポーランドの中でも第3位ぐらいの人
 口約59万人の都会です。ここ街の様子を言いま
 すと、日本のいわゆる地方の中堅都市とあまりか
 わりません。朝、7時ぐらいから中心に向かう道
 路は、ラッシュの車でいっぱいになります。車を
 買うことはそうたやすいことではありませんが、
 皆、節約をしてマイカーを手にいれています。一
 般市民の主な交通手段は、やはり、公共のバスや
 トリムと呼ばれている市電です。1日、乗り放題
 で、6ゾーチぐらいです。あっ、ポーランドの通
 貨はゾーチと呼ばれている単位で、1ゾーチが、
 だいたい30円ぐらいです。冬は、雪が降ったり
 して、寒いのですが各家庭や公共の施設などには、
 きちんと集中方式の暖房が入っていて、室内は汗
 ばむほどのあたたかさに保たれています。いろい
 ろな施設の開く時間は、朝8時ぐらいから開き、
 職員や店員さんたちはとてもフレンドリーです。
 物価は、日常品を中心にそんなに高くありません
 が、給料等の賃金が安いので、相対的には、70
 年代の日本のような感じです。郊外のスパーマー
 ケットにも行きましたが品揃えは、日本のそれに
 比べてもまったく遜色なく、食料品コーナーなど
 は、むしろ、種類が多く感じられるほどでした。
 中でも、北ヨーロッパの国々には珍しく、生鮮野
 菜などの種類が冬だというのにたいへん豊富にあ
 り、肉中心の食事が多いヨーロッパの国の中にあ
 り、菜食な印象を受けました。ポーランドは、そ
 の昔から、豚の産地として有名で、豚肉料理のい
 ろいろは有名です。日本でもおなじみのカツレツ
 などは、ここポーランドにもあり、一般的なメニ
 ューとして、レストランをはじめとする家庭など
 においても食べることができます。また、寒い地
 方だけにスープなどの種類はたくさんあり、きの
 このスープやあかカブのスープはとてもおいしい
 です。その他、アイスクリームなどもおいしく、
 ウェハースとバニラアイスがサンドイッチになっ
 た、日本風に言えばモナカということになるでし
 ょうか。私はファンになりました。パンなどの種
 類も豊富で、ひまわりの種が入ったパンや黒パン
 など生ハムやスモークチーズなどといっしょに食
 べるととても美味です。ジュース類もいろいろな
 ジュースがあります。私が気にいったのはラズベ
 リーのジュースです。若者たちの間では、野菜の
 ミックスジュースが流行っています。いわゆる外
 資系のファーストフードもマクドナルドはじめと
 していろいろあり、食関係は、お米が食べれない
 以外はほぼ問題なしという感じです。そういえば、
 ソイソース(醤油)は案外普及していて、レスト
 ランにはたいてい置いてあります。
 
  若者たちの娯楽は、パブに行ってしゃべったり、
 読書をしたり映画を観たりということで、いたっ
 て健全、静かという感じです。若者の間で流行っ
 ている音楽は、テクノが1番です。しかし、YM
 Oは誰も知りません。

  街を行く女性や男性は、いわゆるゲルマン系の
 人たちとは違い、スラブ系の少しアジアが入った
 彫りの深い、はっきりした顔立ちの人が多く、皆、
 すらっとした体系とともにとてもハンサムであっ
 たり、キュートであったりします。

  治安もよく、いわゆるスリ、カッパライはいま
 すが、ふつうに生活をしている分には何も問題は
 ありません。問題といえば、急速な民主化、特に
 資本主義化によって、実力主義の世界になったた
 め、キャリアがないとなかなか就職ができないな
 ど、こと、自由主義を満喫している若者層と年金
 生活者など社会主義時代を経験している壮年層と
 の意識的なギャップはなかなか埋まってはいませ
 ん。また、最近になって教育問題いろいろ噴出し
 ているようです。まだ、まだ、学歴がものを言う
 部分もあったりしているため、進学ということに
 ついてもかなり熱が入っているようです。
 
  産業的には、東欧の国の中では、農業国ではあ
 りましたが、工業化もかなり進んでおり、技術力
 も高かったので、民主化されたと同時に西側諸国
 からコストの安いポーランド企業に対して、受注
 が殺到しため、一時期バブルのような状態になっ
 ていました。今はそんな状態も一段落し、日本の
 企業などとの自動車などの合弁会社が設立された
 りしています。来年には、西側諸国の連合体であ
 るEUなどにも参加が決まり、着実に国の力をつ
 けつつあります。
 
  使用している言葉は、ヨーロッパの中でも独自
 の言語体系に入るポーランド語です。吃音などが
 入ったりして、日本人にはちょっと難しい言語か
 もしれませんが、ポーランドの人たちから見ると
 国は奪われたが、言葉は守りとおしたという誇り
 ある言語になっています。
 
  日本に対しては親日家も多く、とても親切な方
 が多いです。
  ということで、ポーランドがどんな国か少しイ
 メージが湧きましたか?次回は、今回の旅のメイ
 ンテーマの一つである、「アウシュビッツ」につ
 いて話をします。

  このようにして、自分なりの1年間のテーマみ
 たいなものを設定して、ポーランドなどという一
 つの国について徹底的に調べるということをして
 もらうだけでも、いろいろな分野にわたる学習に
 なり得るということが理解していただけたかと思
 います。上述した話しから、さらに深めて、音楽
 をはじめとする芸術の分野のこと、ノーベル文学
 賞をもらったポーランドの詩人のことなど、一つ
 の分野のことを深めるということによって、学習
 はより総合的になっていくものだと思います。し
 たがって、皆さんも自分が興味がること好きなこ
 とを徹底して追求していくことを薦めます。

           では、また。
            KAN

 11月22日
 さて、今日は、私たち一行が、次なる目的地にし
 ている、「アウシュビッツ」という場所について
 少し話しをしたいと思います。

  最近では、「アウシュビッツ」と聞いてもピン
 とこない人もだいぶ増えてきているようです。
 「アウシュビッツ」という名前は、ポーランド語
 の地名ではありません。当時、ポーランドを占領
 していたドイツ(ナチス)が勝手につけたドイツ
 名です。本当は、「オシフェンチム」という名前
 がついています。したがって、私たちが、22日
 より通っている場所は、ポーランド国立オシフェ
 ンチム博物館となります。このオシフェンチム博
 物館を語るには、いくつかのポイントがあります。
 1.ユダヤ人 2.ナチスドイツ 3.ヨーロッ
 パ(第2次世界大戦)というように、今日は、ま
 ず、ユダヤ人ということについて、話しをしてお
 きましょう。

  ユダヤ人の問題は、奥が深いので、そう簡単に
 は説明をしきれませんが、概略を言うと、ヨーロ
 ッパ社会において、たえず迫害を受けてきた民族
 であるということです。それでは、彼らはなぜ迫
 害を受けてきたのでしょうか。これも、現地での
 ニュアンスではイメージと若干違うところもある
 のですが、日本人の私としては書物からの話しに
 頼らざるを得ないので、本から読んだ知識で説明
 をします。

  ユダヤ人のルーツは、今で言うところのシリア
 ・パレスティナです。紀元前2000年ぐらいか
 ら紀元前538年ぐらいまでの間、栄えました。
 ユダヤ人の人たちは、自分たちの宗教であるユダ
 ヤ教をその生活の基盤として置き、活動をしてい
 ました。ユダヤ教の教えの特徴はいくつかありま
 すが、家族をとても大事にするだとか、ユダヤ人
 だけの神様を持っているだとかです。そんなユダ
 ヤの人たちの環境が著しく変化をするのが、紀元
 後です。シリア・パレスティナの場所は、地図を
 見てもらえればよくわかるのですが、ちょうどア
 ジアとヨーロッパの境目の場所です。したがって、
 両方の陣営にとって、とても重要なエリアなので
 す。両方の陣営とは、アジアの方に住んでるイス
 ラム系の人々とヨーロッパの方に住んでいるゲル
 マン系をはじめとする人々にとって、特にキリス
 ト教がローマ帝国などにおおいて国教として認め
 られるようになると、そのキリストが生まれた聖
 地エルサレムはヨーロッパの人たちにとって、さ
 らに重要な土地となるのです。ここで、ちょっと
 キリスト教のことについても触れておきましょう。
 当初、ユダヤ教徒であるユダヤ人はローマ帝国に
 占領された後、ローマ帝国の同化政策のもと、国
 を維持していました。そうすると、ユダヤのリー
 ダーたちとローマ帝国の間に癒着構造が見え隠れ
 するようになります。そこらへんのことを指摘を
 したのがキリストだったのです。キリストの教え
 は、特に当時、弱い立場にいた人たちの心をとら
 え、急速に浸透します。それをこころよく思わな
 かった人たち(ユダヤ人のリーダーとローマ帝国
 の一部の人たちか?)によって、彼は殺害された
 ことになっています。彼の死後、さらに発展をし
 たキリスト教は、ローマ帝国の中でも無視のでき
 ない勢力として大きくなります。その結果、前述
 したようにローマ帝国はキリスト教を5世紀ごろ
 には、国教として認めることになるのです。この
 ころから、ユダヤの人たちの長い逃亡生活が始ま
 るのです。ローマ帝国に占領をされたままのパレ
 スティナの地では、キリスト教が国教になったが
 故、ユダヤ教は異端にされます。特に11世紀以
 降は、十字軍などの遠征の中、ローマカトリック
 教会において正式に異端のレッテルを貼られます。
 その内容と理由は、1.ユダヤ人はキリスト教徒
 との親交をすることを禁ず。2.土地を持つこと
 を禁ず。(住む所は、ゲットーと呼ばれるユダヤ
 人街のみ)3.キリストを殺した生き証人として
 罪を負い続けろ。4.キリスト教で認めている職
 業につけない。などでした。その結果、住む場所
 を持つことができないユダヤの人たちは、キリス
 ト教の勢力が及ばない地域へと移住せざるを得な
 かったのです。そして、土地を持てないというこ
 とは、生産手段を待てないということにもつなが
 り、生活をしていくためには、キリスト教が認め
 ていない職業、たとえば、金融関係だとか法律関
 係のいわゆるホワイトカラーの職業をするしかな
 かったのです。
  こうした環境の中、ユダヤの人たちは、頼る国
 がないが故の生活環境をつくりあげていきます。
 その特徴的なことは、家族や親戚を大事にすると
 いうことです。頼れるのは肉親だけということで
 す。そして、どこの国へ行っても腕一本で飯が食
 える技術をつけると同時に請われれば、その国の
 ために必死で仕事をやり、長く居住できるように
 することでした。

  そんなユダヤ人たちが脚光を浴びる時代が18
 世紀になるとやってきます。というのは、それま
 では農業が中心だったヨーロッパ社会において、
 商業という新しいジャンルの仕事が発生をしたか
 らです。麦の売買で一気に商業化が進んだポーラ
 ンドをはじめ、産業革命などによって、商業知識
 や管理方法を必要としたイギリス、フランス、オ
 ランダ、そして、最後にドイツというようにヨー
 ロッパの各国において、商業に関する多くの知識
 や技術を必要とする時代が到来をしたのです。そ
 れまで、そういった知識や技術を持っていなかっ
 た各国は、こぞって、厚遇で、否応なしでそうい
 った職業についていたユダヤの人たちを受け入れ
 だしました。こうした、ヨーロッパ各国のユダヤ
 人の同化政策に対して、もしかしたら、自分たち
 の祖国になるかもしれないと思ったユダヤの人た
 ちは、その期待に答えるため、一生懸命努力をし
 ました。結果として、多くのユダヤの人たち、そ
 れなりの富と名誉、そして地位を手に入れるので
 す。

  このことはユダヤの人たちにとって、一見成功
 のように見えました。しかし、各国が、そういっ
 た商業等の知識や技術を自国の力だけで運用でき
 るようになってくるとユダヤのひとたちに対する
 風向きもだいぶ変わってきてしまいました。つま
 り、彼らの成功がもともと住んでいる人たちから
 うとまれるようになるのです。19世紀の後半に
 入るとこうした感情が一気にヨーロッパの各地に
 おいて、反ユダヤ主義として高揚するのです。

  ヨーロッパの中で、国の成立が一番遅かったド
 イツは、産業革命以降、こうしたユダヤの人たち
 の手助けを借りて富国強兵に努めてきていました。
 結果として、ユダヤ系のドイツ人たちが、社会的
 に高い地位を得ていました。それに対する不満を
 うまく利用したのがナチスだったのです。また、
 第2次世界大戦遂行の理由としてナチスドイツが、
 ユダヤ人殲滅を掲げたのは、こうしたヨーロッパ
 全域にある反ユダヤ主義をたくみに利用した結果
 であるといわれています。

  第2次世界大戦以降は、世界中に散らばったユ
 ダヤの人たちの中から、やはり自分たちの祖国を
 作らなければいけないという声が、特にアメリカ
 に渡ったユダヤ人の中から起きます。この運動を
 シオニズムと言います。結果、自分たちの元国が
 あった場所、パレスティナに作ることになるので
 す。しかし、これには問題がありました。第2次
 世界大戦直後のパラスティナは、イギリスの植民
 地になっていました。イギリスはその地をユダヤ
 の人たちに譲ることを了承しましたが、植民地に
 なる前にその地に住んでいたパレスティナの人た
 ちにとっては不満の残る方向でした。土地を返す
 ならユダヤの人たちではなく、私たちに返せと。
 これが、今も続くイスラエルの問題です。

  ということで、アウシュビッツの話しをしよう
 と思ったのですが、ユダヤの人たちの話していた
 ら長くなってしまいました。今日はこのへんにし
 て、続きはまた明日にします。

 「ヨーロッパの街なみは?」という質問がありま
 したので答えておきますね。

 今、私がいるのは、ヨーロッパの中でも北の方に
 所属をする地域です。実を言いますと、北ヨーロ
 ッパの各都市は、第2次世界大戦のときにあらか
 た破壊をされてしまいました。したがって、一見
 中世風の街並みが残っている都市でも、戦後再建
 されたり修復されたもの多いです。しかし、私た
 ちが21日まで滞在をしていた、ポーランドのク
 ラクフという街は、ナチスの本部があったおかげ
 で戦災を免れ、現在までに至っています。このク
 ラクフの街はいわゆる中世ヨーロッパの街の形式
 をそのまま残していると言えます。小高い丘の上
 にお城があり、そのお城を中心にして、放射線状
 に石畳の道が広がり、街の一番外側には、街を守
 るための城壁が巡らされいます。街の建物で多い
 年代は、16世紀ごろのものだと言われています。
 したがって、内部はだいぶ近代的な様式に改装さ
 れていますが、外部の様式は、昔のままで、ゴシ
 ック調あり、バロック調ありという感じです。特
 にこの地域は地震のような災害があるわけではな
 いので、古い建築物が100年単位で残っていま
 す。夕暮れの街を石畳にコツコツと靴の音を響か
 せながら歩き、「ジェンドブリ」(ポーランド語
 でこんにちは)と言って、石造りの古いカフェに
 入り、コーヒーを頼んだりして、人の行き交いな
 どを見ていると、自分が東洋人であることをしば
 し忘れてしまうのでした。

 ヨーロッパ等に関する質問お気軽にどうぞ。ただ
 し、ポーランド中は、回線状況があまりよくない
 ので、3日に1度ぐらいのアクセスです。お許し
 あれ。

            ドビイゼェニア!
              KAN

 11月23日          
  22日号では、アウシュビッツ(オシフェンチ
 ム)の話しに入る前に、ユダヤの人たちの話しで
 終わってしまいました。今日は少しでもアウシュ
 ビッツの話しに触れることができればよいと思っ
 ています。がどうなることか・・・。

  当然、アウシュビッツを作ったナチスドイツの
 ことも話しをしなくてはいけないと思います。ド
 イツと言う国は、ヨーロッパの中において、神聖
 ローマ帝国ということで、長い間、ローマカトリ
 ック教会の直轄地という立場にありました。この
 ことは、当時のローマカトリック教会おいては都
 合のよいことでしたが、ドイツ人の独立の意思に
 は逆らえず、西ヨーロッパにおいて最後に産業革
 命をなしとげ、富国強兵を突き進んでいたプロイ
 センが中心となって、1800年代の後半にドイ
 ツ帝国の成立を見ます。このことから分かるよう
 に、ドイツという国は、ヨーロッパの中にあって、
 遅れてやってきた国なのです。先行しているイギ
 リスやフランスやオランダなどに一気に追いつこ
 うとして、1900年代初頭、軍事力をつけたド
 イツは、侵略戦争を起こします。いわゆる第1次
 世界大戦というやつです。しかしながら、ドイツ
 の思惑とは別に、全ヨーロッパを巻き込んだこの
 戦いは、複数の国どうしの総力戦になり、また、
 物資豊かなアメリカの参戦など予想外の展開の結
 果、ドイツは敗北します。敗北の結果、ドイツは、
 ベルサイユ条約によって、天文学的な数字の賠償
 金請求を連合軍側にされるなどして、1800年
 代後半から1900年代初頭にかけ作り上げた、
 国家的な地位を一気に低下させます。第1次世界
 大戦後、ワイマール憲法という世界でも先駆的な
 民主主義的憲法下において作られた新ドイツは、
 民主国家としての模範的な国に生まれ変わったか
 に見えました。しかし、現実は、高額な賠償金の
 返済問題などが国家の財政を圧迫しつづけ、国民
 が抱く、未来への展望を打ち砕きつづけました。
 ドイツ国民における敗北的な意識にさらに拍車を
 かけたのは、1929年にアメリカにおいて起き
 た世界大恐慌と無策な政治を繰り返したワイマー
 ル共和国政府でした。

  世界恐慌は、第1次世界大戦に敗北をしたこと
 によって、市場も資源も持たないドイツは、他の
 国々がとった保護政策の前にはなすすべがありま
 せんでしたし、共和国政府は党利党略に走り、国
 民の不満を省みることはしませんでした。そうし
 た、国民の意識の政治離れの合間を縫うように力
 をつけてきたのが、あのナチスだったのです。ヒ
 ットラーを党首にするナチスは、1930年代に
 入るとドイツ国内において着々と力をつけてきま
 した。彼らが掲げた政策の中で中心になるものは、
 婦人青年層の社会的地位の向上、ユダヤ系ドイツ
 人に牛耳られてしまった国政の奪還、不況対策な
 どでした。こうした分かりやすい政策を前面に出
 し、当時としてはたいへんめずらしい、ラジオの
 番組など新しいメディアやショーアップされた演
 説会、奇抜なファッションなどを巧みに利用し、
 ついには、1933年の国政総選挙で第1位とな
 り党首のヒットラーは首相にまで登りつめます。
 首相になったヒットラーは、すぐに警察権力の掌
 握に乗り出します。警察権力を手中に入れたヒッ
 トラーは当面の敵であった社会主義者たちを徹底
 的に弾圧し、共産党などを非合法化します。地方
 選挙においてもこうした公的権力をたてに使い、
 ナチスは得票率を増やし、地方レベルにおいても
 与党としての地位を築いていきます。そして、元
 軍人のヒンデンブルグ大統領の死後、大統領の地
 位も手に入れ、首相と大統領の権限をかねる総統
 という地位につくのです。ここに、ドイツ第3帝
 国が完成し、いわゆるファシズムの時代が開始さ
 れたのでした。総統についてからのヒットラーは、
 自分の直属の部下であるSS隊(親衛隊)を中心
 に身の回りをかため、自分にはむかう者は次々と
 消しながら独裁体制を固めていったのです。
 
 こうした、ナチスの政策の中にあって、戦争を遂
 行していくための大義名分が、ユダヤ人の抹殺だ
 ったのです。時はちょうど、ヨーロッパの中で、
 反ユダヤ主義が高揚していた時期です。自分たち
 の行為を正当化するために、ナチスは反ユダヤ主
 義を利用したのです。ただ、他の国の反ユダヤ主
 義と決定的に違かったことは、ユダヤ人をはじめ
 とする少数民族の人たちを使い捨ての労働力と位
 置付け、最終的には全員を殲滅し、地球上からい
 なくさせることを目標にし、なおかつ、そのプロ
 ジェクトを国家的な規模で周到に準備計画をし実
 行をしたというところです。この計画が実行に移
 されたのは、ドイツで1942年に行われたバー
 ゼン会議以降だと言われていますが証拠はありま
 せん。

  今回、私たちが来てるアウシュビッツは、19
 40年に作られます。当初は、ナチスの政策に反
 対をするドイツ内外の思想犯やポーランドのレジ
 スタンス、ドイツでの一般の犯罪者などを対象に
 した、思想再教育センターでした。こうした、性
 格が変化をするのが、上述した1942年のバー
 ゼン会議以降だと言われています。それ以降は、
 ヨーロッパの各地にいたユダヤ人たちを中心にジ
 プシーの人たちなども続々と送りこまれてきます。
 特にユダヤの人たちは、東方に理想的な土地があ
 るので、そこを開拓すれば皆さんにその土地をさ
 しあげますなどと言う、嘘の契約書などを作成し
 連れてこられています。


  ここオシフェンチムは、交通の要所で、ヨーロ
 ッパのいろいろの場所から、列車で来ることがで
 きます。こうした、人里から離れていて、交通の
 便がよいところをあえて選んでいるわけなのです。
 アウシュビッツは3つの部分から成り立っていま
 す。1940年の最初の段階では、旧ポーランド
 軍が使っていた兵舎を改造して、そのまま使って
 いたオシフェンチム(アウシュビッツ1号)とビ
 ルケナウ・ブジェジンカ(アウシュビッツ2号)、
 ここは、1941年以降、急増する収容者をより
 たくさん収容するために建設をされました。そし
 て、少し離れたモノヴィツェ村には、工場を中心
 としたアウシュビッツ3号が建設をされました。
 収容所1号には平均して13,000人から16,
 000人の人が、2号には10万人近い人々が収
 容されていたとされています。アウシュビッツで
 の犠牲者の数は、残念ながらいまだに正確な数が
 分かっていません。それは、家族全員が死んでし
 まっているため誰がいたか分からないということ
 や(沖縄戦と似ている)戦後すぐにポーランドが
 東側の国になってしまい資料が公開されなかった
 ことなどが理由です。しかし、少なからず100
 万人以上の人が亡くなっていることは確実視され
 ています。

 1942以降、アウシュビッツに来るユダヤ人の
 数は急増しているのですが、ここで、確認をして
 おきたいことは、ナチスドイツは、ユダヤ人の人
 たちを資源として考えていたふしがあります。し
 ぼりとれるだけしぼりとり、最後は使い捨てとい
 う感じです。と言うのは、ユダヤ人のまつわるす
 べての物を有効利用するためにありとありゆるシ
 ステムを作りあげています。持ってきた貴金属は
 すぐに換金したり金塊にしたり、収容者の髪の毛
 をじゅうたん屋に売ったり、無償の労働力を有効
 に使うために工場をオシフェンチムの回りにつく
 ったり、そして、最初のうちなどは、死んだユダ
 ヤ人一人一人に対して、嘘の死因を書いた死亡証
 明書を家族に出していたりと、また、各収容所、
 特に2号などは、すべてのことがスムーズに運ぶ
 ために、線路の引き込み線の位置から死体を焼却
 した灰の廃棄まで、一つの都市機能として計画的
 に配置されていました。つまり、当時の国家プロ
 ジェクトとして、坦々と遂行されていた感じがす
 るのです。


 ヨーロッパ各地からすし詰め状態の貨車で連れて
 こられたユダヤ人たちは、2号の場合、収容所の
 中ほどに作られた、全車両から全員が一斉に降り
 ることができるプラットホームに降ろされます。
 もう既に息絶えていた者もいたと言われています。
 ホームに降ろされるとすぐに選別が始まります。
 選別の基準は、労働ができるかできないかの1点
 のみです。SSの医師がその顔色だけで判断をし
 ました。他、初めから労働力にならない者たち、
 すなわち、女性、子ども、ハンディキャップを持
 っている人たちは有無を言わずに労働力外と宣告
 されました。選別を受け、労働力とされた者は、
 収容棟へ、労働力外と通告された人は、ホームを
 さらに前へ進むと、左右にガス室がありました。
 皆、旅の疲れをシャワーで流してくださいと言わ
 れ、ガス室へと連れていかれたのでした。その後
 は、死体は焼却され、灰は回りの野山に捨てられ
 たそうです。労働力とされた者たちを待ち受けて
 いた環境も劣悪なものでした。そのことについて
 は、収容者の一人であった、博物館の元館長であ
 るスモーレニ氏の話しをもとに後ほど解説したい
 と思います。


 今年で3回目になるアウシュビッツではあります
 が、この地に立つ度に思う変わらない気持ちは、
 底なしの絶望感です。自分がここにいることを誰
 も知らないままに死んでいかなければならない、
 未来に待ち受けているの不可避な絶望的な死だけ
 です。そして、こうした気持ちと同時に浮かびあ
 がってくる人間のおろかさです。

 そして、回を重ねるごとに思うこともあります。
 それは、来る毎に、外から見ている者から内から
 見る者に自分が変わってきていると言うことに気
 が付かされます。特に今年は、短い時間ではあり
 ましたが、博物館を守っている職員の人たち、そ
 れも現場で保守をしている人たちと仕事をする機
 会に恵まれました。モップをかける。雪をかく。
 そんな地道な仕事をしている人たちの中に、世界
 に対して、平和の意思を俺たちは守っているだと
 言うプライドをひしひしと感じました。

 と言うことで、今回はアウシュビッツのことを書
 きましたが、アウシュビッツやナチスドイツ、ユ
 ダヤ人のことは多くの本が出ています。機会があ
 るようでしたら何か一冊本でも読んでみてくださ
 い。また、質問がある人は、遠慮なく質問くださ
 い。見たり、聞いたりしてもらいたいことがある
 人は、私がポーランドにいるうちに質問ください。

 さて、今回の話しの中から、どのくらいの学習の
 ヒントを見つけてくれましたか?
 「ヨーロッパ史」「ドイツ史」「ユダヤ史」「ナ
 チスドイツ」「社会主義」「都市計画」「法律」
 「統計」「ポーランド史」「第1次世界大戦」
 「第2次世界大戦」「産業革命」「世界恐慌」
 そしてさらに、これらの一つ一つにサブ分野が広
 がっているはずです。これら一つのテーマを掘り
 下げるだけでも十分な学習活動になるはずです。
 まずは、最初の一歩を踏み出してみましょう。
              では、また。
               KAN

 11月24日 
 不思議なもので、日本から10000キロメール
 近く離れているはずなのに、そんなに遠くまで来
 たと言う気がしません。飛行機を使えば24時間
 以内に家に帰ることもできるし、インターネット
 で送れば、文章や画像も一瞬にして送れますし、
 電話だって、まるで市内にかけているような感覚
 で、話しができます。本当に地球が狭くなったと
 言う感じです。昔にはなかったこんな環境が、世
 界の紛争解決の一つの方法になってくれるとよい
 と思うのですが。次に私が考えていることは、世
 界に対してのこちらからの発信です。それも、み
 んなからの。皆さんの持つ可能性や行動力の高さ
 を常々思います。ある意味、私なんて、そんな皆
 さんの豊かな発想や行動力によって、楽しまさせ
 てもらっているだけです。申し訳ない。と言うこ
 とで、少々、遅れ気味ではありますが、24日号
 です。

 23日号では、アウシュビッツの話しをしました
 が、話しを聞いただけでは、本当にそんなことが
 あったのか?となかなか実感が湧いてこないと思
 います。そんな方は、来年ぜひ、このフィールド
 ワークに参加をしてみてください。さて、ここで
 もう一つ知っておいてほしいことは、実はこうし
 た大虐殺は、何もアウシュビッツにおいてだけで
 はありません。何かこうした紛争が世界のどこか
 で起きると、同じようなことが発生しています。
 また、こうしたことは今だに世界のどこかで起き
 ている可能性が大きいです。たとえば、つい先日
 あった、東ティモールやコソボでの紛争時など、
 一方向性だけのマスコミの報道だけでは見えてこ
 ないものはたくさんあります。したがって、私的
 には、できるかぎり現場に行ってこの目で見ると
 言うことがしたいわけなのですが、ジャーナリス
 トではないので、今日行く(教育)というわけに
 はいきません。どうやったら真実を見抜くことが
 できるようになるのでしょうか?これは、ちょっ
 と宿題にしておきます。

 今日は、私たちが今、オシフェンチム博物館(ア
 ウシュビッツ)でやっている仕事について話をし
 ておこうと思います。ここオシフェンチム博物館
 において、働いている人は250人ほどいます。
 皆、アウシュビッツで起きたことを世界に伝えつ
 づけるため誇りを持って仕事をしている人たちば
 かりです。その中の一人に、私たちの旅のサポー
 トを毎年してくれている中谷さんがいます。彼は、
 神戸の出身で、ポーランドに来て9年です。ポー
 ランド語が堪能で、ポーランド人の奥さんとの間
 には、二人のお子さんがいます。今、彼は、奥さ
 んの実家がオシフェンチムにあったこともあり、
 ここオシフェンチムに住んでいます。彼は、オシ
 フェンチム博物館におけるただ一人の国家公認の
 日本人ガイドです。日本人ガイドだからと言って
 特別枠で採用されたわけではなく、他のポーラン
 ド人ガイドと同じように、ポーランド語での試験
 に見事合格をして採用された人なのです。オシフ
 ェンチム博物館には、こうしたガイドの他に、博
 物館の運営を支える様々な職種の方々がいます。
 事務仕事をしている人から現場で保守管理をして
 いる人まで。

 今回、私たちはそういったいろいろな仕事の中で
 も現場の保守管理をしている人たちと一緒にわず
 かばかりのお手伝いですがさせてもらっています。
 本来であれば、1号、2号すべての保守管理をや
 っているため、山のような仕事があるそうです。
 特に外回りの保守管理は、毎日、世界中の人たち
 がひっきりなしに訪れるため、一生に1度これる
 かどうかわからない訪問者の方々が、無事に見学
 できるよう環境を常に保たなければいけないので
 す。今回は冬のために室内が中心の仕事になりま
 したが、外回りにおいても本来は、草刈や落ち葉
 の清掃など汗をかく仕事が山のようにあり、今後
 も機会あるようでしたら、是非、力を貸してほし
 いと言うことでした。


 特に今回の私たちのボランティア活動は、他の国
 の人たちの場合、技術系の高校生などは、施設内
 のフェンスを作ったりなどしているそうですが、
 日本からのボランティアは、博物館開設以来、初
 めてだそうです。したがって、私たちもかなり緊
 張をしてやらさせてもらっています。私たちの仕
 事は、展示物の清掃と整理です。この仕事は、な
 かなか有益です。なぜ有益かと言うと、今、博物
 館に展示をしてあるいろいろな品物、当時のまま
 のオリジナルの物をじかに見たり触ったりするこ
 とはできません。しかし、私たちは、立ち入り禁
 止の展示場の奥まで入り、オリジナルの品物を自
 分の手で清掃すると言う機会を得れました。この
 ことは、少なからず当時の人たちの気持ちのはじ
 に共有感が芽生えます。つまり、これらの品物を
 実際に使っていた人たちがいたと言うこと、そし
 て、この人たちの後ろには、たくさんの家族がい
 たと言うこと、でも、この人たちの多くは、亡く
 なっていると言う事実。この痛みは、とても重要
 な気がしています。こうした場に来ると、とかく、
 「私たちはこうした時代や場所に生まれなくてよ
 かったわ」と言うような第3者的な気持ちで終わ
 ってしまいます。そうではなく、自分自身の気持
 ちとしてとらえ、そして、自分とし何をやってい
 くべきなのかと言う実践のスタートラインにして
 もらいたいのです。

 また、今回のもう一つの貴重な体験は、ポーラン
 ドの人たちが、こうした戦争遺産をどう位置づけ
 守り伝えようとしているのかと言うことを現場の
 人たちからじかに見たり、聞いたりすることがで
 きたと言うことです。少なからず、ここオシフェ
 ンチム博物館で働いているすべての人たちが、こ
 うした仕事に関わっていることに対して、とても
 プライドを持っていると言うことです。どのセク
 ションの人たちもこの仕事に関わることで、自分
 たちが何をしていくべきかと言う自覚を強く持っ
 ていると感じました。
 
 私たちがボランティアを終えるにあたって、担当
 の現場の人たちは、是非、来年も力を貸しにきて
 くださいと言ってくれ、また、今年、皆さんの気
 持ちを十分理解しましたので、来年はもっと特別
 な機会も用意して、おこしをお待ちしています。
 と言ってくれました。実は、博物館には一般に公
 開をしていない当時の貴重な資料が、まだまだ、
 山のようにあります。その修復なども非公開のセ
 クションではしています。今年の参加者たちの心
 意気が通じ、来年はそんなセクションにも関わる
 ことができそうです。来年もまた多くの参加者が
 あることを願っています。


 さて、横須賀のM君からのお便りにお答えをして
 おきたいと思います。
 
 そうです。今、ヨーロッパの若者の間ではテクノ
 が流行っているのです。しかし、石野卓球は、今
 のところ知っている人には出会っていません。さ
 らに、日本のミュージシャンの名前そのものが、
 ジャンルを問わず、まったく知られていません。
 無念ではあります。しかしながら、今日、ポーラ
 ンドのラジオを聞いていたら、なんとYMOが流
 れているではありませんか。しかし、歌がついて
 いて歌っているのは、たぶん ポーランドの歌手
 だと思います。ということは、どうも日本の音楽
 のカバーは流行っている可能性は高いと言うこと
 です。でも、現地の人はそれが日本の音楽である
 と言うことは知らないと言うことなのではないで
 しょうか。音楽以外のジャンルでは、案外、日本
 文学関係の人や建築家など、オリエンタルカルチ
 ャーを自分の作品の中に生かしている人は名が知
 られています。

 あと、おまけですが、今、ヨーロッパで大ブーム
 になっているのは、「盆栽」です。どこの国に行
 っても、「盆栽」の専門雑誌が書店で売られてい
 ます。理由はよくわからないので、誰かに聞こう
 と思っています。理由わかる人いるようでしたら
 メールください。

                では、また。
                 KAN

 11月25日
 早く、実際に日にちに追いつきたいと思っている
 のですが、フィールドワーク期間中は知っている
 人は知っているように案外忙しいので、1日フル
 回転です。でも、こうやって1日のことを振り返
 って、記録を書いたり、便りや質問をくれた人の
 レスポンスを書いたりすることは楽しいことです。
 すべてokというわけではありませんが、こうし
 て皆さんとインターネットを通じてつながってい
 る感覚は、世界のどこにいても連帯を感ずるもの
 です。科学の発展はすごいものがありますね。
 本当は文章だけでなく画像も送りたいのですが、
 こちらの回線状況があまりよくないので重いもの
 が送れません。お許しを。

 さて、今日は日々の会話の中で感じたポーランド
 人気質でも書いてみたいと思います。皆さんの友
 人にポーランドの方はいらっしゃいますか?私た
 ちが出会った人たちを順に紹介をしていきたいと
 思います。

 ポーランドに入って最初に話しをしたのはポーラ
 ンド航空のカウンター職員でした。彼女たちは、
 チェックイン時間よりかなり早い時間に着いた私
 たちに対して、いやな顔一つせず、時間外のチェ
 ックイン作業をサッとやってくれました。ポーラ
 ンド航空の機内乗務員の人たちはとても愛想がよ
 く、変にマニュアル化されていない人当たりのよ
 さがありました。クラクフ空港に到着し、入国審
 査を受ける時、審査官は、元社会主義の国らしく、
 軍人のような気難しそうな顔をしている男性でし
 たが、「ドブリィ・ヴィェチュル」(こんばんは)
 と言うと急に笑顔になり、にこやかに入国審査を
 終えてくれました。そして、ホテルまでのタクシ
 ーの運ちゃんは、笑顔で、私たちの荷物を運び、
 ポーランドのいろいろなことを言葉が通じないに
 も関わらず、私たちに説明をしながらホテルまで
 連れていってくれました。そして、ホテルのフロ
 ントのお姉さん方は、当然のようににこやかにチ
 ェックインを済ませてくれました。ドアマンのお
 じさんは、きびしい顔でニコリともせず、黙々と
 荷物を運び直立姿勢で私たちをエレベーターまで
 案内をしました。ホテルのレストランのお兄さん
 やお姉さんたちは、にこやかに私たちを向かい入
 れ、メニューに対する質問も片言の英語で丁寧に
 説明をしてくれました。

 そして、ホームステイを受け入れてくれた大学生
 たちです。彼らのことは以前書きましたので、あ
 まり詳しく書きませんが、一様に、勉強家で人情
 家で親切でした。

 次にオシフェンチム博物館、ここでは、館長、学
 芸員、ガイド、現場保守担当、窓口、食堂などの
 各セクションの人たちと会話をしましたが、皆、
 自分の仕事に誇りと自信を持っているように感じ
 ました。外からの訪問者である私たちに対して、
 何の疑いもなくオープンに接してくれ、本来であ
 れば一般の人には、話したり見せたりしないよう
 な物でさえ、私たちに触ったり見たりさせてくれ
 ました。

 あと、街の中の人たちは、皆、東洋人それも日本
 人がどうやら珍しいようで、街中の人が振り返っ
 て私たちを見ていきます。人によっては、驚いた
 ように唖然とした顔つきで私たちの顔をまじまじ
 と見ていく人もいます。でも、「ジェン・ドヴリ
 ィ」(こんにちは)と声をかけるととたんに人な
 っこい笑顔にかわり、いろいろなことを話しかけ
 てきます。時々、日本にとても高い関心を持って
 いる人などもいて、学生であれば日本のアニメや
 ゲームについて、一般の人であれば、盆栽やマッ
 サージなどについての質問が殺到する時もありま
 す。

 と言うことで、ここまでのところのポーランドの
 人たちに対する印象は、中には悪い人もいるので
 しょうが、私たちが出会った人たちは、とても感
 じがよく、世話人で人情家の人たちが多くいたよ
 うな感想を持ちました。そうした環境の中、私的
 にはとてもホッとできる国のような気がしました。
 リラックスでき故郷に帰ってきたような感じです。
 ある意味日本の昔のような感じなのかもしれませ
 ん。

 一様に好感が持てるポーランドの人たちではあり
 ますが、ちょっと心配になることがあります。今
 はまだゆっくりとした近代化の中で古きよいもの
 も残しながら発展をしていると言う感じなのです
 が、聞くところによると社会的な問題として、現
 在の日本が抱えているような問題が、そろそろ、
 各地で発生をしだしているとのことです。こうし
 た近代化にともない人の心が、過疎化してしまう
 のはしかたがないことなのでしょうか?日本やア
 メリカの悪いところは極力まねせずに暖かい心を
 残しながら、バランスのよい発展をしていってほ
 しいと思いました。

 さて、次回は実際にアウシュビッツに収容さてい
 た元博物館館スモーレニ氏のインタビューの話し
 をしたいと思います。

 
             それではまた。
            「ド・ヴィゼニア」
               KAN

 11月26日
 今日は、ポーランドの南のエリアをカバーしてい
 る新聞、「カゼッタ・クラコスカ」と言う新聞の
 取材を受けました。今回の旅の目的やオシフェン
 チム博物館でボランティアをしての感想などを聞
 かれました。明日の朝刊に写真入りで掲載される
 そうです。街で会う人の反応が変わるのでしょう
 か。ちょっと楽しみではあります。

 さて、今日は、ここオシフェンチム博物館の元館
 長で、本人もアウシュビッツに48ヶ月の収容経
 験があるポーランド人、カジメール・スモーレン
 氏のインタビューを紹介したいと思います。氏は、
 ポーランドが社会主義の時代から、氏たちが経験
 してきたことを後世に伝え残すため献身的な活動
 を継続的にしてきた方です。今回、初めて、氏の
 左腕に当時の収容者番号の刺青を見、現場にいた
 者ならではの説得力ある話しに昨年以上の衝撃を
 受けました。氏は、今回、ドイツでの講演を早め
 に切り上げ、私たちのために戻ってきてくれてい
 ました80歳近い高齢にも関わらず、昨年と変わ
 りない包容力と寛容さは話しを聞く者の意識を集
 中させます。今回の彼のインタビュー、まだ、う
 まくまとまっていませんが伝え聞いたことを中心
 に羅列していきたいと思います。


 氏は、1940年7月6日に、以前から行ってい
 たレジスタンス活動を強化しようとナチスの侵攻
 によって領土を奪われたポーランドから以前から
 行っていたフランスへ活動拠点を移動させるため
 移動している最中にゲシュタポによって捕らえら
 れました。当時、彼の年齢は19歳だったそうで
 す。

 何日か拘留されたあと、まだ、収容施設が整って
 いないアウシュビッツに連れてこられました。そ
 の際、収容者の一人が脱走をし、彼らは18時間
 に及ぶ点呼を受けたそうです。

 最初の彼らの仕事は、元ポーランド軍の兵舎であ
 った施設を改装することと他に新しい収容棟なら
 びに施設全体の基礎工事をすることでした。収容
 所における生活は凄惨をきわめました。すし詰め
 状態の収容所内は、床もベッドもない状態で、床
 にわらを引いて、20畳ぐらいの部屋の60人ぐ
 らいの人が寝ました。トイレも下水道施設が整っ
 ていないので、ただ、穴を掘っただけのトイレで
 した。しかも何十人もの収容者が朝の一時だけ使
 用を許されたので、一人あたりの使用時間は数秒
 でしかありませんでした。さらにたいへんだった
 のは食事です。朝は、色のついたお湯のみ、昼は
 腐った野菜のスープ、夜は250グラムのパンと
 色のついたお湯、小さなバターか人工に作られた
 ハチミツでした。収容者の間では長く口の中に残
 るパンのハジが人気があったので、全員に必ずハ
 ジが行き渡るようにカットの仕方を工夫しました。

 時々、収容所の脱走を試みる者がいましたが回り
 は何重にもSSの警戒網が引かれていて、見つか
 ることの方が多かったそうです。見つかると拷問
 室に連れていかれ、数日の拷問のあと、ピエロの
 ような格好をさせられて、所内を戻ってきたこと
 を知らせる行進をさせられ、数日のうちに見せし
 めのため公開絞首刑にされたそうです。

 はじめのうちは肉体労働が中心であった氏は、途
 中からドイツ語が分かることから、収容者の名簿
 を作る仕事につくようになりました。この仕事に
 つくことによって、何人の収容者がどこから運ば
 れてくるのか分かるようになりました。この中で
 明らかになったことは、1000人の収容者が来
 ても名簿は500人分しか作らないと言うことで
 す。つまり、残りの500人の人の名簿は必要の
 ないことを意味していました。

 1942年のバーゼン会議以降は、ヨーロッパ各
 地からユダヤ人が送りこまれてくるようになりま
 した。それに先だち、1号だけでは手狭になった
 アウシュビッツに、2号(ビルケナウ)が作られ
 ることになりました。と同時に、大量に送りこま
 れてくる収容者を合理的に処分するための方法を
 実験するようになりました。それがガスを使う方
 法でした。

 1941年秋、その最初の実験が、アウシュビッ
 ツ11号館の地下室を使って行われました。対象
 になったのは、250人の病人と600人のソビ
 エト軍捕虜でした。地下室に押し込められ、チク
 ロンBと言う毒ガスを使い実験は実施されました。
 なぜ、氏たちが気が付いたかというと、SS隊の
 連中がガスマスクを持って、11号館に入ってい
 くのを見たからです。しかし、当時は何をしてい
 るまでは分かりませんでした。実験は、24時間
 では全員を処分することができず、再度、ガスを
 投入し全部で48時間かけ、確実に実験を終了し
 ました。この結果、ビルケナウに4つのガス室と
 その付属の施設がつくられることとなるのです。

 1942年1月のバーゼン会議のあと、2月から
 は続々とユダヤ人の人たちがアウシュビッツに送
 りこまれてくるようになります。そして、実験ど
 おりに労働力とみなされなかった人たちの処分が
 遂行されていったのです。その事実を知った、氏
 たちはこのことを何とかして、外の人たちにしら
 せようと様々な努力をしました。タバコの紙に暗
 号を書いて、持ち出すなどし、いろいろな工夫を
 して情報を外に流しました。外で待ちかまえてい
 たパルチザン(レジスタンス)の連中がその情報
 を持ち帰り、地下祖組織を通じて、全世界にリー
 クしました。


 1945年ドイツの敗戦が濃くなってくるとSS
 はアウシュビッツの施設に爆薬をしかけ証拠を隠
 滅し逃げていこうとしていました。氏たちもポー
 ランドの東にある他の収容所に移送される予定で
 したが、ソビエト軍に占領されていたため急きょ、
 オーストリアにあるアルプスのふもとのイーベン
 ズー収容所に移送されました。移送は、1945
 年1月15日から、マイナス28度と言う極寒の
 中、4日間徹夜で歩き、4日間屋根のない貨車で
 運ばれ、フラフラの状態で到着しました。そこで
 は、寒さと飢えのために3000人〜4000人
 の人が亡くなりました。しかし、遺体を燃やす燃
 料もないために死体は野積み状態でした。

 氏たちは1945年5月6日、アメリカ軍によっ
 て解放されました。19歳で囚われてから50ヶ
 月後のことでした。

 解放後は少しずつ体力を回復し、当初から興味の
 あった法学関係の勉強をするため大学へ行き、卒
 業後、裁判所で働きました。その間、並行して、
 ナチスの戦争犯罪の立証のため証言者、研究者と
 して活動をしてきました。

 氏は言いました。
 ビルケナウの広いプラットホームに降ろされた収
 容者たちは、直ぐにセレクションにかけられ2度
 と再会することができない家族との別れが待ち受
 けていました。家族どうしが互いに自分たち親兄
 弟の名前を大きな声で呼び合う、その声が今でも
 私の耳に焼き付いています。

 私は、もし、こうした感情や憎しみや自分が体験
 をしたことだけで、この事実を記憶に留めておい
 ただけでは、時間が経つにつれて、薄らでしまう
 と思った。だから、証拠をかため法的な処置をも
 ってして、ナチスがやったことを次の世代に対し
 て伝えていかなくてはいけないと思った。

 ある意味、世界中の人がアウシュビッツなどであ
 ったことを知ったりすることによって、個人個人
 が、平和のための実践をスタートするきっかけに
 してもらえたらうれしいと。

 予定の1時間を大きく上回る、2時間半のインタ
 ビューになりました。昨年と同様、日本から来た
 私たちに対して、大きな包容力で最大限の支援を
 してくれました。機会がある方は、是非、1度会
 ってみてください。

 
              ではまた。
               KAN

 11月27日
 ここ、ポーランドオシフェンチムにもうれしい知
 らせが続々届いています。みんな、よくがんばっ
 てくれていますね。私としてもサポートのしがい
 があります。私でできることであれば、何でもし
 ますからどんどん遠慮なく言ってきてくださいね。

 明日は日曜日なので、デーリーKan'sはお休
 みさせてもらいますが、ここでどうにか、実際の
 日にちに追いついたということになるでしょうか。
 しかし、このあと、ポーランドの首都ワルシャワ
 を経て、ドイツの首都ベルリンに乗り入れ、最後
 はドイツの間中へんにあるカッセルという街にい
 きます。そのため、通信状況がこの後どうなるか
 わからないのでその時はご了承くださいね。今回
 の旅の中で、通信環境でわかったことはモジュラ
 ージャックよりも場所によっては音響カプラの方
 が利用価値が高いかもしれないと言うことです。
 今でも音響カプラって売っているのかしら?それ
 もいくらぐらいのものなのかね。知っている人い
 たら情報をくださいね。

 今週最後のデーリーは、ポーランドの料理につい
 て少し話しをしましょう。ポーランドにおける主
 食はやはりパンです。でも案外レストランにはラ
 イスがあったりします。それもそんなにパラパラ
 のお米ではなく、しっとりめです。まあ、そうは
 言っても主食はパンです。いろいろな種類のパン
 がありますが、ふうつ食事の時に食べるパンはフ
 ランスパンを柔らめにしたようなパンです。あと、
 ちょっとしたおやつのように食べるパンとして菓
 子パンみたいのがあります。中でも私が気に入っ
 たのは、マーマレイドのようなジャムが中に入っ
 た菓子パンです。これと紅茶の組み合わせはなか
 なかグットです。紅茶と言えば、私的には、コー
 ヒーより紅茶の方がポーランドの水に合っている
 ような気がしています。硬水だとか軟水とか言う
 のが関係をしているのでしょうか?あと、朝、と
 かの付け合せとしては、必ず、チーズとハムが出
 ます。チーズもいろいろ種類があるのですが、表
 面がスモークされたチーズは香ばしくて美味です。
 また、ハム類も生ハム、サラミと肉屋さんにいく
 とその種類の豊富さには驚きます。中でもハジに、
 全体でみれば表面にブラックペッパーなどの香辛
 料をちりばめているタイプのハムはあきがこず、
 食べやすいです。


 昼食、夕食のバリエーションは豊富で、私たちが
 滞在している青少年文化センターの夕食も、1週
 間近くいるのですが同じものは2度出ていません。
 サイド関係としては、大きく別けて、スープ類と
 野菜と肉をアレンジした付け合せ類が主です。ス
 ープはさすが寒い国だけあって、種類が豊富です。
 以前紹介をしたように、赤かぶのスープ、きのこ
 のスープ、マカロニのスープ、トマトのスープ等
 です。いろいろある中で、私が特に気に入ったの
 は、鳥ガラのベースのスープの中にラーメンのよ
 うな細く長いマカロニをそばのように入れたもの
 です。よくだしが出ていて、体にもよいそうです。
 そして、野菜類の付け合せもいろいろあります。
 冬なのに真っ赤なトマトやきゅうりの生野菜もあ
 ります。また、じゃがいもは、やはり、副主食と
 言う感じで、マッシュポテトありフライドポテト
 ありと多くの場面で出てきます。温野菜もたくさ
 ん出ます。中でも、紫色をしたキャベツをちょっ
 とすっぱくした物や、キャベツと人参、たまねぎ
 などを炒めたものなどはよく出ます。

 そして、メインの食べ物ですが、やはり肉料理が
 中心です。中でも豚肉と鶏肉はなかなかのもので
 す。豚肉の場合は、代表的な食べ方は、以前にも
 紹介をしたように、カツレツです。あとは、ポー
 クソテイ、ハンバーグ、それとメンチカツみたい
 なものもあります。鶏肉もなかなかのもので、特
 に私が気に入ったのは、手羽先の照り焼きです。
 別に醤油で味つけをしているわけではないと思い
 ますが、非常に香ばしく、皮のパリパリした感じ
 がとてもおいしい照り焼きソテイは、3日に1度
 は食べたいメニューです。あっ、それから、串に
 さした焼き鳥みたいな食べ物もありました。さし
 てある肉は、豚肉なのですが焼かれて適度にスモ
 ークされている感じが間にはさんである長ねぎの
 あまさとマッチしてこれまた、いけます。

 デザート関係は、以前、話しをしたアイスをはじ
 めクレープや新鮮な果物などが出ます。果物で1
 番多いのはりんごですが、オレンジやぶどうなど
 もよく食卓にのぼります。オレンジで気に入った
 種類がりました。それは、形は日本のみかんその
 ものなのですが、味はオレンジと言うやつです。
 ちょっと小ぶりなんですが、とてもおいしかった
 です。

 その他のところでは、ポーランドの北部の方では、
 特にクリスマスの時に鳥ではなく鯉を食べる習慣
 があるそうです。また、魚も案外食べるようです。
 それとジュース類もいろいろなジュースがありま
 す。中でもブルーベリー系のジュースは色は同じ
 グレープ系の色をしているのですが、3種類から
 4種類の実が存在しています。

 ということで、案外、日本的な味覚が多い、あっ
 そうそう、醤油はどのレストランにいってもかな
 らずあります。ポーランドの食事は、他のヨーロ
 ッパの国の食事と違って、あきもそうこず苦労が
 ないと言うことになります。

 しかし、ごはんがなつかしい!月曜日のワルシャ
 ワでは、日本食レストランに行くことにしていま
 す。ラーメンと餃子を食らう予定。
              では、また。
               KAN

 11月29日
 旅先で、訃報を聞くことほど悲しいものはないで
 す。私の恩師の一人である方が、亡くなられそう
 です。この学校を創るために大きな援助をしてく
 れて方の一人でした。なかなか恩返しもできずに、
 恩人たちが逝ってしまうことほど悔しい思いにな
 ることはありません。

 今日、今回こちらでたいへんお世話になっていま
 す中谷氏と話しをする機会ありまして、先日らい
 委託されていた、本年、一昨年のアウシュビッツ
 のフィールドワークの報告を大学入試のプレゼン
 テーションに使った学生からの手紙を紹介しまし
 た。氏は、目を潤ませながら、「本当にうれしい、
 本当に、こういった学校が日本にあることは宝で
 す」とおっしゃってくれました。

 私たちの学校は実はこうした表面には出てこない
 たくさんの人たちの援助の賜物として存在してい
 ます。ですから、この私たちの学校がその主体者
 である皆さんの存在を無視をして運営をされたり、
 そこらへんにある既存の学校と同じような価値観
 でふうつの学校になり下がってしまったのでは、
 体を張って援助をしてくれている方々に申し訳な
 いと思ってしまうのです。案外、私、浪花節なも
 ので。ちょっと、説教臭くなってしまい申しわけ
 ないです。


 
 さあ、今日は、1週間、滞在をしましたオシフェ
 ンチムを後にしまして、ポーランドの首都ワルシ
 ャワに移動をしました。ワルシャワまでの移動の
 足は、鉄道を使いました。ポーランドの場合、鉄
 道はすべて国鉄で、民営の鉄道はありません。線
 路はいわゆる広軌の線路で、広い幅の線路が大平
 原をまっすぐに切り開いています。国内にある鉄
 道網は、かなり発達をしていて、運行時刻もかな
 り正確に動いています。冬場においてもその保守
 管理は行き届いていて、急な大雪でも降らない限
 りは、雪などに関係なく正確に動いています。

 駅の窓口で、切符を買い、改札もない駅のコンコ
 ースを抜け、直接フォームに出ます。そして、フ
 ォームにすべりこんでくる列車に乗ると言う感じ
 です。走っている電車の種類としては、近郊の街
 を結んでいるローカル線と大中都市を結んでいる
 都市間急行という種類です。私たちがポーランド
 で乗る列車は、主に後者の都市間急行と言うやつ
 です。全体で電気機関車を先頭にして、6両から
 7両編成ぐらいでしょうか、1等と2等があり、
 すべてコンパーメント方式の個室です。1つの個
 室には、6つの座席が3つづつ向かい合わせにな
 っていて、その一つ、一つの部屋はヨーロピアン
 の雰囲気をかも出しています。

 また、つないでいる都市の距離によって、レスト
 ランまたは軽食車両が連結されていて、ポーラン
 ドの大平原に沈む太陽を見ながら、飲むお茶の味
 はこれまた格別です。急行列車の場合、走る列車
 の速度は、見た目では時速約130キロメール以
 上は出ているような気がします。回りに家などの
 建てこんでいる場所はなく、大草原の中をひたす
 らぶっ飛ばしていると言う感じで、対象物がない
 にもかかわらず速く感じると言うことはだいぶス
 ピードを出しているのだと思います。

 あっそうそう、駅には改札がないので、検札は必
 ず車内であります。車掌さんは女性の方も多く、
 元社会主義ならではの伝統だと思います。
 
 今回は、そんなポーランド国鉄(PKP)に雪の
 11月に乗ったわけですが、よく暖房の効いた車
 内と違い、ポーランド大平原が白く輝いた風情は、
 緑の世界とは違った、車窓の世界が広がっていま
 した。時々通る、小さな村の踏み切りでは、子ど
 もたちが手を振ったりして、飛行機では味わうこ
 とのできない身近な生活がここにあります。

 私たちを乗せた、都市間急行(IC)は、定刻ど
 おりに無事、ワルシャワ駅にその車体をすべりこ
 ませました。

 こんな私たちに旅の面白さを伝えくれる列車の旅
 ですが、今、自由化になったポーランドでもその
 存続の是非をめぐって、民営化かそのままかとい
 う論争が湧き上がっているそうです。日本のJR
 も国鉄から民営化されて経過を持っているだけに
 そのよかったところ悪かったところを日本のこと
 などを参考にして、対処してくれればよいなと思
 いました。

 横浜のY君からのおたよりです。
 ポーランド、特に元社会主義国の映画事情につい
 てです。

 ここワルシャワの場合、映画の封切り状況はあま
 り、日本と変わりません。今、若い人たちの間で
 流行っているのは、先日の大学生仲間では、「マ
 トリックス」だそうです。中には11回観たと言
 うツワモノもいました。そして、ご指摘のポスタ
 ーですが、確かに、手書きのポスターなんですが、
 なんと言うか、劇画調というか漫画チックな仕上
 がりになっています。色はやはり原色使いが主で
 す。ちょっとけばい感じです。

 と言うことで、今夜は、ワルシャワにある東京と
 いう日本料理屋に行き、ラーメンと餃子とおにぎ
 りを食べました。日本はよいですな。

          この後、また洋食ですわ。
              KAN

 11月30日
 11月最後の日になりました。
 こちら、ワルシャワでは日本と比べて時差が、マ
 イナス8時間ほどあります。日本が30日の夜8
 時ぐらいだとしますと、こちらは30日の午前0
 時と言うことになるわけです。ですから、こちら
 の例えば夕方の5時ぐらいになりますと、日本時
 間の夜中になるものですから、突然、眠くなり意
 識を失うような睡魔に襲われるわけです。もう、
 こちらに来て、だいぶたちますので、時差ぼけも
 解消しつつありますが、ふと、こちらの夜中に目
 がさめてしまうことがあります。そして、こちら
 から電話をかけたりする時は、なかなかそのタイ
 ミングが難しく、こちらの朝早くから夕方にかけ
 ての時間でないと日本の生活時間に合いません。
 その点、インターネットはとても便利がよく、い
 つメールを出しても相手に、とりあえず、迷惑に
 はならないので、少し気が楽ではあります。イン
 ターネット事情に関して言えば、先日も書きまし
 たが、ここポーランドでは、コンピュータそのも
 のの普及は、だいぶ一般的ではありますが、イン
 ターネットへの接続と言うことに関してはプロバ
 イダーそのものの数が、まだ少ないために、アク
 セスポイントがあまりありません。私の使ってい
 るプロバイダーのアクセスポイントもドイツには
 あるのですが、ポーランドにはまだないため、安
 定したアクセス状況を確保するには、日本のアク
 セスポイントに直接アクセスした方が確実です。
 まあ、それにしてもインターネットを使えること
 は便利であることには違いがありませんので、よ
 りよい使い方をこれからも考えていきたいと思い
 ます。

 さて、30日の私たちは、ポーランドの首都であ
 るワルシャワの街を散策しました。ワルシャワの
 街は、今や180万人近い人が住む大都市です。
 街の雰囲気はよくも悪くも、日本の東京や横浜と
 まったく変わりません。しかし、このワルシャワ
 の街も多くの歴史を持っている街です。特に、第
 2次世界大戦中は、数々の話しが残っています。

 先日のポーランドの歴史の中でも触れましたが、
 特に第2次世界大戦の時のポーランド、中でもこ
 こワルシャワはナチスドイツに徹底的にやられま
 した。大戦の口火を切ることになったナチスドイ
 ツのポーランド侵攻に対して、ポーランドは果敢
 にも抵抗を挑みましたが、その機械化部隊の威力
 に対しては歯がたちませんでした。その際、ナチ
 スは、ワルシャワの市街地の95%を破壊しまし
 た。それだけでなく、ポーランドの各地にあった
 ポーランドの芸術や文化まで根こそぎ破壊もしく
 は略奪し、ポーランドと言う国そのものを歴史か
 ら抹殺しようと試みました。こうしたナチスの侵
 略に対してポーランド国民はレジスタンスとなり
 地下活動を中心としたゲリラ活動で抵抗をしたわ
 けです。

 そして、ここワルシャワでは、もう一つの悲劇が
 ありました。それは、戦前、ヨーロッパの中では、
 1番多くユダヤ人が住んでいた地域であったと言
 うことです。ポーランドになぜユダヤ人が多く住
 んでいたかと言うと、ポーランドの歴史でも少し
 触れましたが、ヨーロッパの諸国の中で1番最初
 に商業化が進んだポーランドでは、そのノウハウ
 を持っていたユダヤ人たちについて条件付きでは
 ありましたが、他の国よりいち早く、彼らの同化
 政策を実施していたからです。しかし、ここで間
 違っていけないことは、だからと言って、ポーラ
 ンドにはユダヤ人迫害が無かったかと言うとそう
 いうわけではありません。しかし、ヨーロッパの
 中ではユダヤ人にとって比較的住みやすい国であ
 ったのです。結果として、戦前においては、ヨー
 ロッパの中では1番多くユダヤ人が住む国であっ
 たのです。ですから、その首都であったワルシャ
 ワには、ゲットーと呼ばれるユダヤ人街をはじめ
 とするユダヤ人たちがたくさん住んでいたのです。

 ゲットーと言う呼び方を聞くと皆さんは直ぐにナ
 チスドイツの政策の一つであった強制収容を思い
 出すと思いますが、最初の意味は、中華街のよう
 な、ユダヤ人の人たちが多く住む街と言う意味だ
 ったのです。それが、ナチスドイツのユダヤ人絶
 滅計画が遂行される過程において、ゲットーは、
 ユダヤ人の強制収容地へとその意味を変えていく
 のです。

 ワルシャワの町にも当然のように、こうしたゲッ
 トー存在していました。大戦前では、その同化政
 策の長い歴史の中で、ポーランド人とユダヤ人が
 一緒に生活をしていました。しかし、ナチスに占
 領されてからは、ワルシャワに住んでいるユダヤ
 人は、皆、このゲットー地区に押し込められます。
 最初は広かったゲットー地区も年を追うごとに狭
 められ、最後には、レンガの壁まで作られ他の地
 域から遮断されます。そして、ナチスのユダヤ人
 絶滅計画が実施されるのです。ここポーランドワ
 ルシャワのゲットーからも多くのユダヤ人がアウ
 シュビッツ他の収容所へ移送され帰らぬ人たちと
 なります。その数、30万人余と言われています。
 結果として、戦後のポーランドには、ユダヤ人は
 皆無になったのでした。


 今日、その壁が唯一残っているところへ行ってき
 ました。今、その壁を守っているのは、元ポーラ
 ンド軍兵士だったおじいさんだそうです。彼は、
 そうやって、ユダヤ人の人たちが連れて行かれた
 とき、残念ながら、ポーランドの人たちも自分た
 ちも戦争によって、多くの犠牲を払っているにも
 関わらず、阻止をすることができなかったことを
 悔やみ、戦後、その歴史の記憶を忘れないために
 ゲットーの壁を守り続けているのだそうです。

 そして、もう一つ、ワルシャワの歴史で忘れては
 いけないのが、1944年の8月にワルシャワ市
 民がナチスに対して蜂起をした、ワルシャワ蜂起
 です。この蜂起は、ナチス崩壊まじかと判断した
 市民たちが、地下の下水道などを利用して徹底し
 たゲリラ戦をしかけた蜂起でした。ワルシャワ市
 民は勇敢に戦ったのですが、直ぐそばまで来てい
 たソ連軍の援護を受けることができず、20万人
 の犠牲者を出し敗北しました。この蜂起の内容は、
 ポーランドの生んだ代表的な映画監督、アンジェ
 イ・ワイダ監督の、「地下水道」と言う作品を観
 てもらえれば参考になると思います。機会があれ
 ば観てみてください。

 そんな、「平和」に関する様々な歴史を持つワル
 シャワの街も、戦後、復興を願う市民の努力によ
 って戦前の景観に忠実に再現した旧市街を中心に
 して、また、多くの美術品なども修復され今日に
 至っています。こうした経験をしたワルシャワだ
 けに伝わって来るものはたくさんありました。た
 だ、そうした多くの記憶が、街の発展とともに薄
 らいできていることも事実です。今、多くの市民
 は、そうした記憶をどのようにして次の世代に伝
 えていくのか思案をしている最中と聞きました。

 
               では、また。
                KAN

 12月1日 
 さあ、今日からはもう12月になってしまいまし
 たね。1年は、本当にあっと言う間ですね。
 特におとなになってからの月日が経つのは、まっ
 たく、早いものです。皆さんも悔いのない人生を。
 私の場合、好きなことしかしていないので、あま
 り悔いはありませんが。

 「ベルリンは今日は雨だった」
 と言うことで、私たちは、2週間いましたポーラ
 ンドにさよならをして、ドイツの首都ベルリンへ
 と旅を進めました。

 さよならはいつも悲しいものです。でも、今回の
 ポーランドの旅は、とても充実していたので、満
 足感が漂いました。中でもポーランドの大学生の
 家にホームステイをさせてもらったこと、アウシ
 ュビッツでボランティアの仕事をやらせてもらっ
 たこと、ポーランドの勉強をしたり仕事をしたり
 している、ふつうの人たちと時間と空間を共有化
 できたことは、とてもよい体験になりました。
 学生たちは限りなく純朴で親切でしたし、アウシ
 ュビッツの博物館の保守点検をしている現場のお
 じさんやおばさんたちの自分の仕事に対する限り
 ない誇りを分けてもらいました。この2週間は、
 本当に密度の濃い時間だったと思います。私たち
 の旅の報告を読みながら、ポーランドやアウシュ
 ビッツに対して興味を持った人は、機会があると
 きに、関係する本や映画や音楽などを読んだり、
 観たり、聞いたりしてみてください。そして、そ
 感想などをちょこっとでよいですから、ご報告く
 ださい。

 そして、今回お世話になりました。中谷さんをは
 じめ多くのポーランドの人たちが是非、来年もも
 っと多くの人でお越しくださいと言ってくれまし
 た。行ってみたいと思った人、今日から、少しず
 つでよいからお金を貯めておいてください。損は
 絶対にさせませんので。

 たくさんのポーランドの人たちの熱い思いをお土
 産にして、私たちを乗せた、都市間急行は、朝も
 やのワルシャワ駅を定刻どおりに発車しました。
 今日は、列車で国境を越える鉄道の旅です。時間
 にして約6時間の車窓の旅です。ワルシャワ駅を
 出ると列車はすぐに、限りなく地平線の向こうま
 で続く穀倉地帯の中をひたすら、西を向かい走り
 続けます。始めは雪原だった畑が途中から、緑色
 のじゅうたんに変わりました。ところどころには、
 白樺の木が林を作っています。緑の草原に時々、
 島があるようにレンガの壁に白い窓枠の入った、
 まるでレゴで作ったような家からなる村があらわ
 れます。飛行機に乗っていたのでは知ることので
 きない農村の暮らしがここにありました。

 1時間半ほど走ったでしょうか、ちょうどお昼に
 なりました。車両の中ほどにある食堂車両にお昼
 ごはんを食べに行きました。食堂車の両脇の窓か
 らは、果てしなく続く緑のじゅうたんが見えます。
 ところどころには、林が点在しています。雲の切
 れ目から太陽の光線が、その大地をスポットライ
 トのように照らしています。こうしたロケーショ
 ンの中で、スープを飲み、パンを食べ、お茶をす
 すります。こんな機会をジンクゥエン!神様。

 あっと言う間に列車は国境地帯へと差しかかりま
 す。今や、自由化が進み、西側の諸国の一員にな
 ったポーランドとは言え、列車の中での出国審査
 は、少々緊張します。国境手前の駅で、審査官が
 乗り込んできました。先頭車両から順に審査を開
 始します。緑のベレー帽をかぶった兵士のような
 制服を着た審査官が、何人かで乗客の一人、一人
 のパスポートを審査しスタンプをニコリともしな
 いきびしい表情で押していきます。審査を終えた
 審査官に、「ジンクゥエン」と言うとはじめて、
 「ポルシェ」とニコリと微笑んでくれました。無
 事ポーランドの出国審査が終わると、窓の外は昔
 の非武装地帯を横切っていました。日本のように
 島国でない場合、当然国境は、陸続きにあるわけ
 です。国境だからといって、何か線が引いてある
 わけではありません。ポーランドとドイツの場合
 は川を隔てて、何キロぐらいでしょうか、緩衝帯
 のような部分が存在します。ドイツの側に入って
 きますと今度は、ドイツの係官による入国審査が
 車内で行われます。こちらは、ポーランドの出国
 審査に比べれば、とても簡単です。二人連れの係
 官が、簡単にパスポートをチェックに来るだけで
 す。ドキドキしているうちに列車は、ポーランド
 からドイツへとその車体を滑りこませました。ド
 イツとポーランドの関係が良好な証拠でしょうか、
 昨年より、審査の流れや車両の受け渡しがとても
 スムーズだったように感じました。日が暮れた、
 5時16分に私たちを乗せた、都市間急行は、終
 点のベルリンズー駅へと到着しました。

 ベルリンの壁崩壊10周年を迎えた、ベルリンの
 街は、首都機能の完全移転を来年に控え、昨年に
 増し、その規模をアップしているように感じまし
 た。1999年のベルリンの印象については、ま
 た明日、話しをしましょう。

 今日は、本年同じく大学の推薦合格を果たした3
 年生のI君とベルリンで合流をしまして、その合
 格体験を聞きました。その詳しいことは、また、
 進学を考えている人のために今年の他の卒業生の
 皆さんにも協力をしてもらって、別に機会に報告
 をしてもらうとして、1つだけメッセージを、「
 なせばなる。やる気になればいつからでも遅くな
 い。すべての人にチャンスはあると思って間違い
 がない」「ありのままの自分に自信を持って、是
 非、いろいろなことにチャレンジをしてほしい」
 とのことでした。
 卒業後のことでいろいろ迷っている人、夢を実現
 できるよう必ず力を貸します。早ければ早いほど
 準備に時間がかけれますので、遠慮せずに柳下ま
 でご相談を。

               では、また明日。
                  KAN

 12月2日
 今日からはドイツの旅ということになってきます。
 まず、始めに今回の私たちの旅はなぜ、ポーラン
 ドとドイツと言う2つの国にまたがった旅行にな
 っているのでしょうか?この設定は何も偶然では
 ありません。

 この2つの国の関係は、以前にも両国の歴史の中
 で多少話しをしましたが、特に第2次世界大戦以
 降はこの2つの国は、加害国、被害国の関係にな
 っているわけです。つまり、この2つの国の間に
 は戦後補償と言う問題がいろいろな形で存在をし
 ているわけなのです。その問題と言えば、例えば、
 経済的な補償の問題や歴史認識の問題なのです。

 こうした点について、特に加害国であるドイツが
 ポーランドやヨーロッパの他の国に対してどう言
 ったことを行っているのでしょうか。今、ここに
 ちょうど、ドイツの新聞があります。その中で、
 ドイツが第2次世界大戦中に強制労働などによっ
 て被害を与えた人たちに対して、補償すると言っ
 ているのですが、最初の提示額は、80億マルク
 と書いてあります。日本円に直すと、5600億
 円です。これは、強制労働に対する補償のみです。
 どこかの国も同じようなことをしたのですが、今
 だ、被害国の強制労働については明確な補償をし
 ていません。また、歴史認識などと言う点につい
 ては、ドイツとポーランドでは、一緒に歴史の教
 科書を作り、学校の授業で使っています。どこか
 の国は、近現代の歴史の授業すらあまりやりませ
 ん。一体、この違いはどこから来るのでしょうか?
 
 ただ、こうしたドイツの戦後補償処理について、
 特に経済補償については、すべての問題がこれで
 片付いているわけではないことを知っておいてく
 ださい。確かに、補償の額やその継続期間は、ど
 こかの国に比べれば確実にやっています。しかし、
 そこには、隠れた2つの課題が存在します。1つ
 は、東西ドイツのこと、そして、もう1つは、E
 Uにおけるリーダーシップの問題です。

 東西ドイツと聞いてピンときた人はいるでしょう
 か、先日のちらっとそんなことを書きましたが、
 ナチスドイツの敗戦が濃くなった1945年には、
 連合国側は、ドイツの敗戦後の管理の仕方などを
 決めていました。連合国の中身は、イギリス、フ
 ランス、アメリカなどを中心とする資本主義陣営
 と当時のソビエト、いわゆる社会主義陣営という
 ことになります。第2次世界大戦が終わると同時
 に世界は、こうした2つの陣営の綱引きが始まっ
 てしまっていたのです。結果、ドイツは、西側に
 所属をする西ドイツと東側に所属をする東ドイツ
 の2つのドイツ、さらに首都であったベルリンは、
 その都市だけ独立したような形のまま、都市その
 ものが、西ベルリンと東ベルリンと言う、2つの
 陣営が占領統治する国と地域になってしまったの
 です。確かに戦争を起こした当時国である責任は
 ありますが、そこに住んでいる一般市民の土地等
 の財産まで取ることは戦勝国とは言えできないは
 ずです。(ここで沖縄のことを思い出した人は鋭
 い)この2つのドイツができてしまったことによ
 って、ドイツの戦後処理は複雑になってしまいま
 した。戦後処理の責任を担っていたのは、主に西
 ドイツでした。社会主義陣営に属した東ドイツは
 全体主義のナチスを倒したのは、新生社会主義ド
 イツであるので、自分たちはもう違う国だと言う
 立場をとったため、戦後補償にはタッチしなかっ
 たのです。1990年には、そんな2つのドイツ
 も統一され、ある意味、真の戦後を迎えることに
 なるのです。と同時に東側においても戦後処理の
 問題が発生してくるのでした。

 そして、もう一つの課題は、経済がらみの課題で
 す。戦後順当に経済復興をはたしたドイツは、ヨ
 ーロッパの中でも再び、リーダーシップを取る国
 に育ちつつあります。しかし、ヨーロッパの中で、
 ドイツがリーダーシップを取るには、絶対にクリ
 アしておかなければいけないことは、やはり、大
 戦において迷惑をかけた近隣諸国に対する補償問
 題です。ヨーロッパにおける信頼を得、EUなど
 においてリーダーシップを確保するために、前述
 したようにドイツはお金には糸目をつけずに戦後
 補償をしているのです。結果、近隣のヨーロッパ
 の諸国は、よいか悪いかはよくわかりませんが、
 ドイツをビジネスパートナーとして信頼しつつあ
 ります。まさにヨーロッパ合理主義と言ったとこ
 ろでしょうか。

 だいぶ話しが膨らんでしまいましたので、今日の
 話しにもどしましょう。
 今日、私たちが最初に訪れた所は、当時、西と東
 に分けられてしまったベルリンにおいて、その行
 き来のチェックポイントであった場所に作られて
 いる壁博物館です。あっ、壁と書きましたが、1
 960年ごろには、西側の影響力を恐れた東側が、
 ベルリンの中央に、人々の行き来が、できないよ
 うなコンクリートの壁を作りました。つまり、西
 側に所属をしていた西ベルリンの街は、コンクリ
 ートの壁によって、封鎖された状態になっていた
 のです。家族を引き裂かれてしまったドイツの人
 たちが、西側に戻ろうとしてもそれは、容易では
 ありませんでした。中には、強引に戻ろうとして、
 東側の壁の前で射殺されて人たちもいたのです。
 2つの陣営の国と国の見栄みたいなもので、自分
 たちの人生を翻弄されたドイツの人たち、特に東
 側の人たちは、いろいろな方法で西側に脱出をし
 ようと試みました。その歴史がつづられている博
 物館です。結果として、ソビエトの崩壊に伴い、
 ベルリンの壁そのものが1989年にぶち壊され、
 1つのドイツが復活するわけですが、人々の心ま
 では、物理的な壁では区切ることができなかった
 と言うことです。博物館を見た後、私たちは、メ
 モリアルとして残してある壁を見にいきました。
 本当にうすっぺらいコンクリートの壁です。こう
 した人間の行為を見る度に、なんて人間はおろか
 なんだろうと思うのです。やっている本人たちか
 らして見れば、両者とも正義なのだろうけれど、
 よく考えてみれば、両者ともに何の利益もないこ
 とは明白なのに。


 その後、私は、ドイツの凱旋門であるブランデン
 ブルグ門を見、周辺にあるドイツ建築やフンボル
 ト大学、ペルガモン博物館などを見て宿泊先へと
 もどったのでした。

 横須賀のM君、今日CD屋を見てきました。
 テクノコーナーがありました。大量のCDが置か
 れていました。日本のレーベルであったのは、ケ
 ン・イシイのみです。カール・コックスもお薦め
 コーナーに新譜が置かれていました。まだ、若者
 たちと話しをする機会がないのでリサーチは行っ
 ていませんお楽しみに。

 語学と言えば、英語だけでなく、いろいろな言語
 があるわけですが、いくつかの国の言語を1度に
 学習すると言うのも面白いかもしれません。ちょ
 うど、今、私たちはそんな状態です。英語、ポー
 ランド語、ドイツ語と言うように3カ国、いや、
 日本語もあったので、4カ国ですか1度に理解し
 ようとしています。挨拶一つとっても、「こんに
 ちは」「ジインドブリ」「グーテンタッグ」「グ
 ットモーニング」ってな具合です。最初は聞き取
 れなかった外国の言葉が4日目ぐらいから少し、
 耳についてきます。もっと長く居れば、ある日、
 突然、話せるようになるんですかね。

              じゃーまた。
               KAN


 12月3日
 ドイツと言う国に対する印象はいろいろあります。
 皆さんは、ドイツと言う名を聞いたときに、どん
 なイメージを持ちますか?
 一般的なドイツに対するイメージで、一番多いの
 は車などをはじめとする工業機械の精密さや正確
 さだと思います。例えば、最近の日本でもだいぶ
 見かけるようになった、BMBやベンツ、オペル
 などと言う車、あっそうそう、ポルシェもそうで
 す。これらの車に対するイメージはどのようなも
 のですか?日本では、輸入車と言うこともあり高
 級車と言うイメージを持たれがちではありますが、
 当然、国産車であるこちらでは、一般的にいろい
 ろなところで走っています。タクシーやバスはす
 べてベンツですし、ワーゲンなどは本当に庶民の
 足と言う感じです。ともかく、日本におけるドイ
 ツと言う国の一番のイメージは、こうした工業製
 品の優秀さから来る、まじめで固い国であると言
 うことが多いのではないでしょうか。

 まず、ここドイツに来て、最初に感じたことは、
 何か日本的であると言うことです。他の国にはな
 い共通点がいろいろあります。例えば、こんな時
 は、日本だったらこんな風に言われるなとか、こ
 うした場合は、こうした対処が一般的だとか、細
 かいところだと、ホテルの部屋だとかであれば、
 こうした所にこんな物があると便利だなと思うと、
 案の定あったり、テレビのコマーシャル見ている
 と、そのつくりが日本とそっくりで、ギャグの落
 とし方も予想がついたりしてしまうのです。街の
 中でも、お店の品物の並べ方とか安売りの仕方な
 ど、ベルリンのデパートなどでは、回りの人がド
 イツ人と言うだけで、雰囲気はまるで一緒と言う
 感じです。もしかして、日本人とドイツ人が入れ
 替わっても分からないと言う感じなのです。


 なんで、こんなにまで、日本とドイツの感じが似
 ているのかちょっと考えてみました。
 地理的な環境は、方や島国であり、方や大陸の国
 であるわけですから、これはどうもダイレクトな
 要因ではないかもしれません。私なりに理由を2
 つほど考えてみました。それは、ドイツ人と日本
 人の先天的要因、そして、もう一つは、両者の後
 天的な要因、まあ、前者の先天的要因などは、あ
 る意味、私なんぞは予想もつかないので、後者を
 中心に考えてみたいと思います。後者もさらに2
 つに分けることができると思います。1つは、ち
 がっった地理的環境だったにも関わらず、その物
 理的作用によって似た国民性が作られた。そして、
 もう1つは、歴史的な要因、歴史の作用の中、似
 た局面で似た選択をせざるをえなかったので、結
 果として似てしまった。

 地理的要因としては、確かに、ドイツは大陸であ
 ったし、日本は島国であったためその環境は大き
 く違いました。しかし、ドイツの場合、以前その
 歴史でも書きましたように神聖ローマ帝国であっ
 たがため、他の国と陸続きではありましたが、独
 自の文化や考え方を取らざるをえない精神的島国
 であった可能性はないでしょうか?結果として、
 そのヨーロッパにおいて、産業革命や国家形成は
 他の国に遅れ、たえずどこかの国を追いかけるか
 っこうになったのです。ここらへんは、鎖国をし
 ていたがゆえに近代化に乗り遅れた日本ともよく
 似ています。

 となると、日本の場合、江戸時代は一切の欧米化
 はなかったわけですから、明治以降の欧米化によ
 って日本社会がヨーロッパの国々、中でも同じ富
 国強兵路線をとっていたドイツと似たのはよく理
 解ができます。すると、ドイツが日本に似ている
 のではなく、日本がドイツに似ていると言うこと
 になりますね。では、今の日本的な文化の多くは
 実は、欧米的な文化の模倣にすぎないと言うこと
 になります。確かに、日本の文化や考え方の多く
 は、その時々の近代的国、昔であれば、中国であ
 ったり、今、書いているヨーロッパであったり、
 最近のアメリカであったりとするようにいろいろ
 な国の真似の文化がミックスされていることは否
 定できません。

 歴史的要因はどうでしょうか、先にも書きました
 ように、世界の歴史の中で、国が同じような判断
 する局面と言うものを両国は多く経験をしていま
 す。その中で似ような判断をしているわけなので
 す。これが、いわゆる両国における国民気質なる
 もので、そうなっているのか、それとも、日本の
 場合、明治以降の欧米化教育の中で、ご存知かと
 は思いますが、明治以降の日本の教育の手本は、
 ドイツの教育でした。多くの国民に、ドイツ的価
 値観が刷り込まれたのか。

 何か書いているうちに、それがよいことであるか
 悪いことであるかは別として、日本人のいわゆる
 欧米化の歴史の中で、ドイツ的な社会観や価値観
 が、多くの日本人において自然に受け入れられた
 のではないかと思ってきました。と言うことは、
 ある意味、教育の成果であったとは思いますが、
 明治以前までにあった日本人の気質がそのドイツ
 人の気質とあまり違和感がなかったと言うことに
 なります。そうすると、そう言った下地が、欧米
 との交流のなかった日本においてどうして形成さ
 れていたのかと言う点が問題になってきます。

 それまでの、日本は仏教、儒教の社会であったは
 ずです。そうした生活の中で、庶民の意識の中に
 そう言った価値観がなぜ形成されたのか、いや、
 こう言った考え方もあります。日本人は、過去の
 物にはこだわらない新しもの好きである。さらに
 よい言い方をすれば、その時代時代に合わせた生
 き方ができる柔軟的合理主義者。でも、お金の有
 効な使い方を知らないケチ。なんて言う風に。

 だいぶ、話しがあっちこっちに飛んで収拾がつか
 なくなってきました。ドイツと日本を比較してい
 たのに、日本人のアイデンティテイーの問題にま
 で発展してきてしまったので、ここらへんの論議
 は皆さんの意見なども参考にして、展開していき
 たいと思うので、尻切れトンボですが、ここらへ
 んで強引に終わりにします。

 で、と言うことで中身のことはともかく、このよ
 うにして学習を展開していくと、次から次のよう
 にテーマが出てきてしまうと言うことを知っても
 らいたかったのですが、ちょっとでも伝わりまし
 たでしょうか?一つの発想の例として参考にして
 もらえるとうれしいです。

 誰か、日本とドイツのいろいろなことの比較をし
 てレポートで出してくれるとおもしろいですが。

 
 でも、考え方のオリジナルってどこにあるんでし
 ょうね。こんなイメージの学習方法だって、同じ
 発想は世界の至るところにあるんですもの。
 人間の考えることってどこでも同じなのかな。

 今、読み直していて、また、いろいろなことが思
 い浮かんでしまった。仏教や儒教のことも要素に
 あるみたいだ。
 
 今日、私たちはドイツのフランクフルトにほど近
 い、カッセルと言う街にいます。グリム童話で有
 名な街です。しょうど、鎌倉ぐらいの規模の市で、
 私の生活圏規模としては最適な大きさの街です。
 ここの報告やドイツの新幹線ICEに乗った感想
 などはまた明日、書きます。

                では、また。
                 KAN

 12月4日  
 さて、私たちの旅もだいぶ大詰めにかかってきま
 した。皆さんに私たちの旅の臨場感が少しでも伝
 わっているでしょうか?家に居ながらにして、私
 たちと一緒に旅をしているような気持ちになって
 くれれば幸いです。

 さて、今日は、私たちの1日の生活と言うか、暮
 らしぶりなどもおり混ぜながら、報告をしていき
 たいと思います。

 今日、12月4日は、ベルリンからICE(ドイ
 ツの新幹線に乗って、最終的な目的地であるドイ
 ツの真中へんにあるカッセルと言う町に行きます。
 カッセルと言う町は、童話で有名なグリム兄弟の
 出身地として有名です。そのすぐ隣にある町のゲ
 ッチンゲンと言う町は、日本ともゆかりのある町
 です。その町にあるゲッチンゲン大学と言うのが、
 その昔、ヨーロッパの3大数学関係の大学の一つ
 で、明治維新を向かえた日本の留学生たちにおい
 て、一時、数学を学ぶのであれば、ゲッチンゲン
 大学へと言う道があったのです。また、カッセル
 はあのメルヘン街道の一番、南にあたる町で、こ
 の街の周辺には、ヨーロッパの昔話しに出てくる
 古城も多くあり、神秘的な匂いを漂わせている地
 域です。

 小雨の降る中。私たちは、ベルリンズー駅へと向
 かいました。向かうと言っても、荷物が多いので、
 タクることにしました。タクると言ってもこれが
 大変なわけです。今度は、ドイツ語で運ちゃんに
 言わなくていけないわけです。「グーテン・モー
 ゲン」「バーリン・ツヮー・バンホフ・ビッテ」。
 変に気取って、英語風な言い方をするとまず通じ
 ません。むしろ、コテコテのローマ字読みと言う
 か、カタカナ読みをした方が通じます。また、ド
 イツの場合、多くの移民の人たちを無条件で迎え
 入れた経験があるため、運ちゃんは外国の人が多
 く、ベルリンの地理にうとい人が多いです。この
 傾向はアメリカなどの場合も似ています。そのた
 め、はじめての街の場合は、地図を用意して指し
 しめした方が確実に目的地に着くことができます。
 
 どうやら、朝のラッシュアワーの渋滞も抜け、無
 事に駅につきました。と、ここで忘れてはいけな
 いのが、チップです。まあ、チップを出さなかっ
 たら、怒るかと言うと決して、そんな、ことはあ
 りませんが、まあ、日本ではないので、当地の習
 慣に従います。アジアの国の場合、基本的にはチ
 ップの習慣はありません。一般的にチップの額は
 全体の10%程度です。

 さあ、今日は都市間急行ではなく、ドイツが誇I
 CEと言う新幹線に乗る旅です。日本の新幹線の
 ように特別な軌道を走っているわけではなく、在
 来線も走っている線路を兼用しながらの運行です。
 外観のスタイルは、日本の新幹線のようなあでや
 かさはないものの、質実剛健のドイツ気質がよく
 出ています。楔形をした先頭車両は、一切の無駄
 を省いたシンプルなデザインです。まるで、BM
 Wを電車にしたような感じです。ドイツ鉄道(D
 B)は、本当に時刻に正確です。これほど時刻に
 正確な鉄道は、世界広しと言えども、ドイツと日
 本だけだと思います。定刻通りにホームに滑りこ
 んできたICEに乗り込みました。シックな色に
 統一された車内は、座席の間隔も広く、ゆったり
 しています。座席の配置はワンフロアーの中でい
 ろいろあります。向かい合わせに位置や個室や一
 人席のように、1等車両には座席の背にテレビが
 ついています。

 また、指定席の予約状況は確実で、日本から予約
 を入れた、私たちの座席もきちんと確保されてい
 ました。ヨーロッパの鉄道は、基本的には改札は
 なく、自分で機械を使って、パンチを入れるか、
 車掌さんが検札に来るかです。無事、席に落ち着
 いたころ、女性の車掌さんが検札にきました。車
 掌さんは、軽食などの配達人も兼ねていまして大
 忙しです。でも、とても愛想はよく、必ずよい旅
 をなどと言葉をかけていきます。お昼頃になりま
 した。鉄道ファンの一人であるK君は、すかさず
 食堂車へと向かいます。品のよい家具で固めた食
 堂車は食堂車と言うよりは、レストランそのもの
 です。安いメニューから高いメニューまで、いろ
 いろそろっていて、お金のない人は人なりに、ま
 あ、私たちのことではありますが、十分、雰囲気
 を堪能できます。

 さすがに、時速250キロメートルで、ぶっ飛ば
 すICEは早いもので、旧東ドイツ地域をあっと
 いう間に通過して、気がつくと、目的地間じかに
 なっていました。大都会のベルリンから離れて、
 ローカルな景色に触れると田舎者の私なんぞは本
 当にホッとします。それにしても、毎年来る度に、
 旧東ドイツ側の特に、高速道路などのインフラ整
 備の早さはたいしたものです。ICE沿いにも多
 くのアウトバーンが新しく作られていました。

 13時16分の定刻に、私たちを乗せたICEは、
 カッセル中央駅に到着をしました。町の回りは、
 緑の丘陵地帯に囲まれた、とてもきれいな町です。
 荷物に引きづられながら、今日の宿であるホテル
 へと向かいました。街はもうクリスマス一色で、
 年末のヨーロッパならではの雰囲気を満載してい
 ます。

 さて、次回はそんな、ヨーロッパのクリスマスに
 ついて報告したいと思います。

           See You !!
              KAN

 12月6日 
 さて、12月はヨーロッパの国々にとって重要な
 月です。それは、言わずと知れた、クリスマスが
 あるからです。日本の正月、むしろ、それ以上に
 街や家々が華やぎます。ここドイツも当然のよう
 に、神聖ローマ帝国だっただけにキリスト教との
 関係は切っても切れない関係であるわけです。当
 時、世紀で言うと13世紀、14世紀において、
 また、11、12世紀ごろに設設立された国々に
 おいて、国家として、王国として他の国々に認め
 られるためには、ローマカトリック教会のおすみ
 つきが必要であったのは言うまでもありません。
 そのために、多くの国王たちは、まず自分たちの
 国の宗教をキリスト教に改宗し、布教のためと命
 うって、近隣の領土を確保し、豊かな財源や特産
 物を確保した上で、それらを献上品として、ロー
 マカトリック教会に差し出したわけです。その貢
 献度によって、いろいろなランクの認可をローマ
 カトリック教会は出したのです。1度認可を受け
 れば、その国の国王は、神様公認の国王となり、
 領民からしてみれば、自分たちの国王は、神の代
 弁人になり、はくがつくわけです。

 そう意味あいもあり、ドイツは長い間、神聖ロー
 マ帝国として、ローマカトリック教会の直轄地と
 して温存されたのでした。この関係は長くローマ
 カトリック教会に経済的かつ権力的な繁栄をもた
 らしました。しかし、それと同時に、癒着も発生
 させ、本来のキリスト教の教えを逸脱させること
 になるのです。

 そのカトリック教会の癒着に対して、物を言った
 のが、いわゆる宗教革命と言うもので、その最初
 の首謀者が、マルチン・ルターと言うドイツのお
 坊さんだったのです。彼らのことをプロテスタン
 トと呼んだことは皆さんも知っているかとは思い
 ます。16世紀に起きた宗教革命は、このあと、
 ヨーロッパ全体を巻き込んだ問題へと拡大してい
 くのでした。尚、プロテスタントの人たちは、こ
 の経過からもわかるように、彼らの主張は、「昔
 のキリスト教へ戻れ」、つまり、原点に戻れと言
 うことだったのです。ある意味、超保守派の人た
 ちであったわけです。
 
 と言うことで、現在ドイツでは、地域によって、
 カトリックの人たちとプロテスタントの人たちと
 いうように住み分けてはいますが、こと、クリス
 マスになりますと、両者共通の年間一大イベント
 のため、国をあげての盛り上がりを見せるわけで
 す。12月に入りますと、毎週末には何らかのイ
 ベントがあります。

 一般の家々も、自分の家の出窓などに、クリスマ
 スイルミネーションなどを飾り、そのデザインの
 工夫など暗に競い合っています。村では、今年は
 だれだれの家のイルミネーションが一番だと言う
 具合に、また、子どもたちもそれを見に行くこと
 を楽しみにしています。


 そして、街の盛り上がり方はなかなかすばらしい
 ものがあります。どの街にもふつう、中央広場な
 るものがありまして。ある時は市役所前だったり、
 ある時は、中央駅前だったりするのですが、とも
 かく、広場には、たくさんの出店が出ます。お菓
 子屋あり、ピザ屋、ハンバーグ屋、アクセサリー
 屋、バー、パン屋、刃物屋、おもちゃ屋、メリー
 ゴーランド、観覧車ありと言うように。百店以上
 もあるでしょうか、その競いあったクリスマスイ
 ルミネーションは、その一画をまるで、おもちゃ
 箱か宝石箱かをひっくりかえしたようなきらびや
 かさで飾っています。

 日本人がお正月に、日本人たることを思い出すか
 のごとく、ドイツの人たちは、クリスマスにキリ
 スト教の国であることを思い出すのだそうです。
  
  冬のヨーロッパは、さすがに寒いですが、むしろ、
 この時期だからこそ、一度、訪れる価値があるの
 かもしれません。

 ここ、3週間近くも、日本語以外の言語をに日常
 語として、使わなくてはならない状況は、十分に
 自分の語学力を高めています。これと言って、学
 習をしたことのない私が、駅やお店で、知らず、
 知らずのうちにドイツ語で用をたしていたりする
 と、われながら関心するものがあります。学習の
 原則は、こんなところにあるのではないでしょう
 か。知らず、知らずのうちに学んでいる自分がい
 る。皆さんも一度、そんな環境を意識的に作ると
 よいかもしれません。日本語の通じない国にあえ
 ていくのもよい機会かもしれません。でも、お米
 と味噌汁とおしんこが食べたい。カツドンもラー
 メンも。

               では、また。
                KAN

 12月7日
 さて、いよいよ、フィールドワーク「オシフェン
 チム99」(アウシュビッツ)もヨーロッパ最後
 の夜になりました。街は、クリスマスへ向け、日
 に日に、そのせわしさを増しています。

 いつものことですが、過ぎてしまえばあっという
 間の3週間ではありました。日本とは、まったく
 違う生活環境、言語などの中で、よくぞ、まあ、
 3週間もやってこれたもんです。

 特に日本の中のフィールドワークとは違い、言語
 と言う問題は、大きな壁であったはずです。しか
 しながら、不思議なもので、主に英語づけの毎日
 ではあったわけですが、それがポーランド語であ
 ってもドイツ語であっても相手が何を言おうとし
 ているのか、細かいニュアンスは難しいですが、
 大まかな意味はだんだんわかってくるのです。と
 言うのは人間のいろいろな場面における表現には
 共通のものが多いのです。

 フィールドワークも終わりに近づくと、あれもや
 ればよかった、これもやればよかったと後悔ばか
 りが先に立ちます。やり残したものもたくさんあ
 るわけなのですが、今回の旅の収穫の一つは、何
 と言っても、ポーランド人、ドイツ人、日本人等
 と言う、多くの国の人たちと話しができたと言う
 ことです。このことはとても重要な気がしていま
 す。国や人種や生活習慣が違がくても、人間とし
 ての基本の部分において、共通理解が十分にコミ
 ュニケーションによってできると言うことです。

 証拠に、ポーランドで私たちのことを取材してく
 れた新聞は、私たちの活動の原則的な部分を十分
 に理解をした記事を書いてくれましたし、ドイツ
 では、交流をしているボルドー高校の校長先生は、
 われわれと同じくする共通理念において、教育は
 発展していくべきだと言ってくれました。これら
 の経験は、世界が共に発展をしていくためには、
 まだまだ、いろいろな障害はあるものの、時間を
 かけて話しあっていけば、調和への可能性がある
 ことを示唆しているように思えます。

 少しばかり大きな話しになってしまいますが、風
 の学園は少なからず、世界的な視野と近い将来、
 必ず世界的な評価を得る可能性を持つ学びの場で
 あると言うことを知っておいてください。

 したがって、私たちの学校は、あくまでも世界標
 準であって、日本標準ではないのです。日本の基
 準にあてはまらなくてあたり前なのです。小さく
 まとまった日本式の学校を目指しても意味がない
 ことを肝に銘じておいてください。

 と言うことで、世界をまたにかけて活動している
 学校である、風の学園、ヨーロッパの教育関係者
 の人たちと話しをしても、まったく遜色のない、
 むしろ、世界で同じことをやっている学校はない
 と言うことで誇りに思ってよいと思います。所属
 していることをドンドン宣伝してもらってokで
 す。

 それでは、また、日本でお会いしましょう。

 と言うことで、フィールドワークなどの場合、や
 っている時よりも、やってからの事後報告がたい
 へんなわけです。今回などは、時間数的には、寝
 ているとき意外は、学習の連続です。例えば、前
 述した言語などは、仲間といる時以外はすべて、
 日本語以外の言語を使わなければ、飯も食えない
 わけです。1日、6時間としても6×21日で、
 126時間分に相当するわけです。しかし、時間
 だけを書いても単位として認定をするわけにはい
 きません。学習記録にその学習内容が書かれてい
 なければいけないわけです。そこで、参加者たち
 は、その学習内容まで吟味することを希望される
 わけなのです。また、単に言語だけというだけで
 はなく、その時、外国の人たちと話しをした内容
 によっては、社会や理科の学習内容を含んでいる
 場合もあるのです。

 今回のフィールドワークにおいて、学習ポイント
 として重要な点は、やはり、文化比較と言う点に
 なると思います。特に、テーマの一つである、平
 和観などに対する文化比較は大切だと思います。
 それをどのような形で、表現をし、記録として残
 すか、ここが大事です。人とは違うポートフォリ
 オを残す、ここが私たちの学校の醍醐味です。夏
 の沖縄のフィールドワークのポートフォリオ作り
 まだの人は、今からでも遅くないですから、少し
 チャレンジしてみてください。

 さて、こうした視点は、何も学校主催のフィール
 ドワークだけではありません。自分が日常で行っ
 ている学習活動も視点を変えれば、無限の可能性
 を持っているといえると思います。ここらへんで
 よしとせず、とことん追求してみてください。あ
 る日、突然、学習道が見えるはずです。そうした
 ら、免許皆伝なんですが。

            アウスビータゼン!!
               KAN