フィールドワーク「オシフェンチム2000」


【11月22日】
 21日の朝、日本を発ちまして、現地時間の夜20時ご
 ろ、無事に最初の目的地であるポーランド・クラクフに
 到着しました。さっそく現地のコディネイターである中
 谷氏と合流しまして、明日からの活動について打ち合わ
 せをしました。

 今年のポーランドは、暖冬で、出て来たときの神奈川と
 あまり気候の差はないようです。

 ここに来るまでにもう既に14、15時間ぐらいかかっ
 てはいますが、知った道程なので、思うよりは時間は短
 く感じます。細かい報告などはこの後、少しずつしてい
 きたいと思います。が、しかし、今日、クラクフの街を
 視察した後は、ヤギゥエ大学の大学生の家にホームステ
 イをすることになっていまして、その後、アウシュビッ
 ツの青少年センターに移動です。センターでは、確実に
 メールが送れるのですが、土日は、インターネットが使
 える窓口がお休みなので、次の送信は、月曜日になって
 しまうかもしれません。

 もし、その間、通信が途切れてもご了承ください。

 今、こちらの朝早く、メールを書いているんですが、教
 会の鐘の音が街中に鳴っています。
 ヨーロッパに来たという感じです。

                  では、また。
                    KAN

【11月23日】
【旅日記】11月21日
 11月21日に日本の成田を発った私たちは、約12時
 間のフライトの後、ドイツの空の玄関であるフランクフ
 ルトマイン空港にその日の16時ごろに降り立ちました。
 ヨーロッパと日本の時差は、約マイナス8時間半です。
 つまり、日本時間でいうと21日の深夜零時ごろに着い
 たことになります。

 ドイツの真中あたりにあるここフランクフルトマイン空
 港は、ここ数年来る度に設備がドンドン拡張されていま
 す。近未来的なドイツらしいデザインは、目を見張りま
 す。そんな空港の第2ターミナルから、今日の最終目的
 地であるポーランドの古都クラクフという街に向かいま
 す。乗り継ぎをするポーランド航空機のボーイング73
 7は、日本の同機より、なぜか中がゆったりしていまし
 て、日本人との標準的体格の違いなのかと思ったりしま
 す。約1時間30分ほどのフライトで、私たちを乗せた
 飛行機は、目的地であるクラクフという街に到着しまし
 た。

 ここクラクフは、日本でいうところの古都京都にあたる
 歴代の王様が眠るバベル城を中心とした城下町です。
 現地時間の夜8時30分ごろに到着した私たちは、時差
 の関係もあり、突然襲ってきた眠気に早めの退散をし、
 次の日に備えたのでした。

【ピーストラベラー】
 私は、1957年に生まれました。昭和でいうと32年
 の生まれです。戦後十数年というところです。日本がま
 さに戦後の復興のためになりふりかまわず、国民が一丸
 となって、経済復興のための活動をした時期です。

 こうした時期に少年時代を過ごした私が、社会というも
 のを意識しだしたのは、いつ頃だったかといいますと、
 やはり、中学生ぐらいのときだったでしょうか、60年
 代後半から70年代にかけての時代です。テレビや新聞
 の報道は、連日のように、国内では、日米安全保障条約
 のこと、学生運動のこと、労働運動のこと、公害のこと
 などを報じ、国外では、ベトナム戦争をはじめとする冷
 戦によって引き起こされている紛争などをセンセーショ
 ナルに報道し続けていました。こうした状況を眺めてい
 た私は、中学生ながらにも、社会というものは何か得た
 いのしれない大きなエネルギーによって、突き動かされ
 ているんだなと強く感じぜざるえなかったのです。
 
 当時の少年たちの将来の夢は、大きくわけて2つぐらい
 に分かれたような気がします。1つは、やはり、いわゆ
 る学歴社会の流れにうまく乗り、よい大学、よい会社へ
 というコースを確保しようとしている者、そして、もう
 1つは、そう言った流れにはあえて乗らずに独自の路線
 を模索する者という具合です。

 中学生の私は、漠然と思ってました。自分は、組織の一
 員としてやっていくのは難しいだろなと。最終的は、手
 に職をつけて、一人で自立していく道が性にあっている
 と思っていました。でも、当時の私は、それが何に向い
 ているのか予想すらついていなかったのです。

 そういった一つのレールには乗らないであろうと思う気
 持ちは、高校生になるとさらに強まったことを覚えてい
 ます。と同時にもう少し、自分の知らない世界のことを
 学びたいという気持ちも湧いてきました。いろいろな葛
 藤のある中、運よく大学というところに受かった私は、
 4年間のある意味、幸福な時間を確保しました。大学で
 は、当時、興味のあった自然科学のことを学びつつ、お
 金を稼ぐということについても熱中しました。

 大学卒業と同時にひょんなことから教職に就くことにな
 った私は、その経験の中で、様々なことに気がつかされ
 ます。中でもこのあとの私の生き方に大きな影響を与え
 たことは、本人の意志とは、関係なく社会の構造の中で
 つくられる差別の意識でした。当時の日本は、まだ、ま
 だ、学歴信仰が厚く、偏差値絶対主義における序列教育
 がさかんでした。そうした、大人たちが作った仕組みの
 中でたくさんの子どもたちが苦しみ、差別を受けていま
 した。当時のことを皮肉った話しに、「新しい、身分制
 度だ」とまで言われていました。

【11月24日】
 今年のポーランドは、毎日、よい天気が続いてます。
 昼間は、陽が出るとかなり暖かく、昨年の雪の毎日が嘘
 のようです。
【旅日記】
 クラクフ初日の11月22日は、現地のコーディネータ
 ーの中谷氏とともに、古都クラクフの街を探索しました。
 昨日の書きましたように、ここクラクフは、ポーランド
 の首都がワルシャワになるまで、首都であり、遷都後も
 国王の弔い場所として長く、ポーランドの文化の中心で
 ありつづけています。街の中央を流れるビスワ河のほと
 りにある小高い丘の上には、14世紀ごろに建てられた
 ヴァヴェル城がそびえ建っています。第2次世界大戦の
 戦火からまぬがれた中世の城下町は、1978年には、
 ユネスコの世界文化遺産として指定されています。

 また最近では、この街は、映画「シンドラーのリスト」
 でも有名になりました。古くから、ポーランドが執った
 ユダヤ人に対する保護政策により、第2次世界大戦以前
 は、ヨーロッパの多くのユダヤ人がこの国に住まい、こ
 こ、クラクフにも大きいユダヤ人街、「ゲットー」があ
 りました。ゲットーという名を聞くと、ナチスの隔離政
 策を思い出し、収容地というイメージを持ってしまいま
 すが、もともとの意味は、中華街と同じようなユダヤ人
 街をさすものでした。シンドラーの工場があったのが、
 ここクラクフのユダヤ人街の近くでした。

 お城を中心にして、放射線状に広がった道は、石畳で、
 歩くと、靴音が街に響くような街なみです。道の両側に
 ある家々は、13世紀ごろに建てられた家も多く、何回
 かの修復のもと、その街なみが意識的に保存をされてい
 ます。
 朝、ホテルを出た私たちが最初に向かったのは、クラク
 フのもう一つの中心地である中央市場広場です。中央広
 場に出るためには、街の外側を守っている城壁を通らな
 くてはいけません。15世紀に作られたといわれる城壁
 も今やその一部を残すのみとなっています。その残され
 た城壁の一部にあるフロリアンスカ門を通って旧市街へ
 と入ります。門の前には、門を守るような形で円筒形の
 砦、バルバカンが築かれています。この中世の砦、バル
 バカンは、現存するものは、ヨーロッパでもクラクフの
 ものを含めて、3つしかないそうです。
 フロリアンスカ門を抜け、南にほどなく向かいますと大
 きな広場に出ます。ここが、中央市場広場です。広場の
 中央には、ルネッサンス様式の織物会館がデンと建ち、
 その回りを囲むように旧市庁舎、聖マリア教会などとい
 う中世を代表するような建物が軒をならべています。
 この中央広場の回りには、他にもチャルトリスキ美術館
 やヤギェウォ大学の本部など、まさに中世の建物がその
 まま残るテーマパークに迷いこんだようになるのでした。
 そうしたいくつかの建物の中、私たちが最初に訪れたの
 が、チャルトリスキ美術館でした。ポーランド国内最古
 のこの美術館は、14〜18世紀に収集された同家のコ
 レクションを公開しているところです。なかでも、レオ
 ナルドダビンチ作の、「白テンを抱く貴婦人」は、価値
 のある作品の一つです。

【ピーストラベラー】
 新しい身分制度とまで言われた学歴社会の中にあって、
 その制度の中に組み込まれている。むしろ、積極的に荷
 担をしている自分は、一体何だという葛藤にさいなまれ
 るようになっていくのでした。このジレンマの時代は、
 長く続きます。単純に考えた私は、まずは、この制度に
 荷担をしていることから離脱をしなくてはいけないと考
 えました。つまり、所属というか自分の立場を代えれば
 この問題は解決できると考えたのです。

 教職という場を辞して、格好いい言い方をすれば、野に
 下った私は、これで、やっと自由になれたと思ったので
 すが、実際はそんなに甘くはなかったのです。民間の立
 場において、教育という分野に関係をしつづけていた私
 において、ことあるごとに問われたことは、どういった
 立場にたって、人を理解しようとするのか、特に若者た
 ちを理解しようとするのかという点でした。

 16年以上の公教育の間に刷り込まれていた意識の根深
 さをいやっというほど知らされることになるのです。こ
 のことは、自分がいわゆる公的な管理体制から離脱をし
 たことによって、その自動制御の力は、むしろ大きくな
 ったような気がします。つまり、公的な管理がなくても、
 自己管理でそのくらいのことはできるという意識です。
 そこが落とし穴でした。自己が確立していない状態にお
 いて、そういった環境に置かれると人間というものは、
 過去の経験によって培った意識に依存をするということ
 なのです。

 オリジナルな発想を基準にするほど自信のなかった私は、
 知らず知らずにうちに、その基準を既存の公的な基準に
 依存してしまっていたのでした。社会において、有利に
 自己実現をさせるためには、要領よく1点でもよい国家
 的成績を取ることであると。

【11月25日】
 ついに今年もアウシュビッツ(オシフェンチム)にいく
 日がやってきました。いつものように、朝、シャワーを
 浴び、身を清めてから行こうと思っています。
 アウシュビッツのことについては、この後、ボチボチ書
 いて行きたいと思います。

【旅日記】
 チャルトリスキ美術館を出た私たちは、クラクフのシン
 ボルでもあるヴァヴェル城へと向かいました。街の中心
 の小高い丘の上にそびえるお城は、15、16世紀ごろ、
 当時、麦の生産でヨーロッパ屈指の大王国になったポー
 ランド王国の首都にふさわしい贅沢なつくりです。お城
 の中心には、各時代の王様の戴冠式がおこなわれたジク
 ムンド大聖堂が建っています。この聖堂は、3つの礼拝
 堂からなり、その屋根は、金のドームに覆われています。
 
 大聖堂の北側にあるジグムント塔に登りました。眼下に
 広がるクラクフの街は、まるで中世の街のミニチュアの
 ように映ります。大聖堂の地下には、歴代の王様の遺体
 やポーランドが生んだ有名人などの遺体が安置されてい
 ます。中には、日本と深いつながりを持った人物もいた
 りし、古くからの日ポの交流関係をしのばせます。

 うねうねと流れるビスワ河を見ながら、王様の道を歩き、
 再び、中央市場広場へともどりました。平日にも関わら
 ず、広場は多くの人々ににぎわっていました。広場のシ
 ンボルの一つである二つの塔を持つ教会、聖マリア教会
 に入ってみました。この教会の塔では、1時間おきに、
 ラッパによる時報が知らされます。本来の目的は、モン
 ゴル軍が攻めてきたことを知らせるラッパだったそうで
 す。教会の中には、何枚もの壁画に分かれたヴィオット
 ストウオシ聖壇があり、そのきらびやかさと豪華さには
 目見張ります。

 教会を後にした私たちは、ポーランド最古の大学である
 ヤギウェオ大学の本部へと向かいました。1364年に
 設立のこの大学には、古くは、コペルニクス、最近では、
 ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が学んだことで有名です。
 この日の夜からは、このヤギウェオ大学の日本語学科の
 大学生たちの家にホームステイです。

【ピーストラベラー】
 知らず知らずのうちに使っていた既存のものさしは、再
 び、私の精神を蝕んでいきました。毎日が息苦しくなっ
 ていくのです。このままではいけないと様々な角度から
 社会や人を観ていこうと既成の概念にとらわれない人た
 ちと積極的に交流をしたり、若い人たちと総合的に関わ
 れるようなプログラムを主催したりするようこころがけ
 るようになっていったのです。こうした試みの中、ある
 日、一つのことに気がつきました。それは、自分の意識
 の問題です。自分の意識は自由になっていないのに、自
 由の意志は伝えられないということです。既存の刷り込
 まれた意識から脱しないかぎり、同じことになってしま
 うということです。

 この頃から、私の自由の意志を獲得するための闘いがは
 じまるのでした。

【11月26日】
 久しぶりに雨が降りました。
 本来なら雪になる頃なのですが、雨でした。ヨーロッパ
 の人は、雨でもあまり傘をさしません。せいぜい帽子に
 カッパというスタイルです。日本と違ってザーザー雨に
 はならないのかな。
【旅日記】
 クラクフヤギウェオ大学の大学生たちは、非常に優秀で
 す。日本でいうところの昔の国立大学の1期校という感
 じです。日本語学科の学生たちは、1年生あたりでもか
 なりきちんと日本語が話せます。3年生(5年生まであ
 ります)ぐらいになると流暢な日本語を話せると同時に
 漢字まじりの日本の本を読みこなしています。卒業を控
 えた上級生たちの卒業論文も日本の若者が知らないよう
 な作家たちや古典を題材にして、質問を受けたりすると
 こちらの方がしどろもどろになる始末です。
 今回、私は、4年生のKくんのお宅に滞在をさせていた
 だきました。ご両親と妹さんの4人家族のお宅です。
 Kくんは、日本のことを私よりもよく知っていたりしま
 す。さらに語学は、日本語はもちろん、英語、ドイツ語、
 中国語などを話します。彼とは、夜を徹して、最近のポ
 ーランド社会のことについて話しを聞かせてもらいまし
 た。また、他の大学生たちと話しをする機会やクラクフ
 の観光地ではない所なども積極的に案内をしてもらい、
 とても充実したクラクフ生活を送ることができました。
 
 風の学生たちも各自、大学生のお宅のホームステイをさ
 せていただき文化の違いや人としてのつきあいの共通点
 などを体験してくれたようです。
 
 さて、そんなKくんや何人かの大学生たちと話しをした
 ポーランドの最近の状況を少し紹介しておきたいと思い
 ます。
 
 さて、ある意味、民主化(資本主義化)され10数年経
 ったポーランドは、昔の日本ととてもよく似ています。
 あえて言えば、悪いところを中心にして。資本主義化に
 よって、人々の意識が物質主義に変わりつつあります。
 車を持つ人も増えましたし、テレビは一家に1台以上あ
 るようになりました。急速な資本主義化によって、確か
 に物質的には豊かになりつつありますが、青少年の教育
 の問題や福祉の後退などの問題が発生をしつつあると言
 います。
 
 お金が稼げればよいというお金崇拝主義も広がりつつあ
 るといいます。若者たちの間には、こうした状況の自国
 に対して、チャンスがあれば国外の先進国へ行き、成功
 したいと思っている者も増えているそうです。

 しかし、一方では若い世代の人たちの中には、環境の問
 題などを中心に単に先進諸国の悪いところまで真似をし
 ても意味がないと意識しつつある人たちも少なからず存
 在をしていると言っていました。

 急速な資本主義化により混乱をしているようなポーラン
 ドではあります。確かに各家族の平均的な収入一つとっ
 ても日本の3分の1ぐらいです。金銭的な環境から言え
 ば非常にきびいしいはずです。でも、何か生活には、余
 裕と言うかゆとりが感じられるのは、私だけではなかっ
 たようです。この印象はどこからくるのでしょうか。

【ピーストラベラー】
 自分自身の意思が自由になっていないところに自律的な
 意志は育たないのです。刷り込まれたという自己管理、
 自己規制を取っ払い、自由な意志のもと物事を考え、見
 るという作業をしないと自律的な意識は育っていかない
 ことを自らの体験によって鮮明に意識をしました。この
 経験が、この後の風の学園のプログラムにも生かされて
 いるのです。

 私の場合、こうした意識を知る体験を自分の仕事の中や
 社会的な体験の中で得て、自分自身を変えていくきっか
 けとしていくことができました。こうしたことを教育の
 プログラムの一つとして確立していくには、どうしたら
 よいのかといろいろと考えたのです。

 それには、世界の中でこうした自由の意志を獲得してい
 った歴史を色濃く残しているところに学びに行くことは
 どうなのかと考えたのです。自由の意志の獲得は、自分
 たちの意志とは別の意志により、無理やりに自由を剥奪
 された地域、そして、その権利を自らの闘いによって取
 り返した経験を持つ地。

 自らの自由の意志を獲得することは、自らの意識を平和
 な状態にすること、自分の意識は平和であるということ
 は、どこにいても自律的であるということの証明である。

 そういった、「自由」で、「平和」で、「自律」している
 場所を世界の中で思い浮かべたとき、私の頭の中には3つ
 地域が思い浮かんだのでした。

 「沖縄」(日本)、「アウシュビッツ(オシフェンチム)」
 (ポーランド)、「ベトナム」。

 この3つの地域の歴史は、まさに自由で平和な自律的な
 意識を闘い取ったという歴史です。
 さらに、この3つの地域と日本の関係は切っても切れな
 い関係が存在をしているのです。地球視野に立った総合
 的な未来の学習プログラムになる可能性を感じたのでし
 た。 

【11月27日】
 今日は、朝からオシフェンチム博物館(アウシュビッツ)
 へ行き、ボランティア活動を開始しました。ボランティ
 ア活動と言っても本来は、こちらがいろいろやらなくて
 はいけない立場にあるにも関わらず、手厚く援助してく
 れるのは博物館側です。第1日目の今日は、昨年、私た
 ちが掃除をしたロシア棟の清掃からはじまりました。
【旅日記】
 ポーランドの人たちと交流をしていて、沖縄の人たちや
 ベトナムの人たちと共通しているところがあります。確
 かに観光客として私たちを見ているとすれば、お客さん
 という扱いから予想がつくことではありますが、その分
 を差し引いたとしても彼らは、外国からの旅人に対して、
 とてもやさしいということです。

 ホームステイをしていても、私たちは本来、無理を言っ
 て泊めてもらっているのですから、家事などを手伝うこ
 とはあたり前なわけですが、いろいろやろうとすると逆
 に、何もしないでよいと制止をされてしまいます。家の
 手順というものがあるのかもしれませんが、決して手伝
 わせてくれません。

 また、街の飲食店をはじめとするお店や、各サービスの
 窓口など、それは日本などに比べれば近代化はされてい
 ないと思います。でも、一言、ポーランド語などで挨拶
 を交わすと顔一杯の笑顔で、言葉が通じないことがわか
 っていてもあれやこれや話しかけてきます。

 そうした彼ら言動は、むしろ、人としての余裕すら感じ
 させます。

 こうしたある意味、精神的な余裕というものが、フィー
 ルドワーク3地点において共通して、いつも感ずること
 です。けっして、彼らは歴史的にも物質的にも恵まれた
 環境にあったわけではありません。むしろ、非常にきび
 しい環境の中、独立や自治権を確立してきた経験を持つ
 地域の人たちです。きびしい環境は、人に対して寛容な
 気持ちを育てるのでしょうか。

 月々の給料も安く、物理的な生活環境も決して裕福では
 ないのに、精神的にはとても豊かに見える。日本とのこ
 の差はどこにあるのでしょうか。
 
 しかし、昨日の話しにも書きましたように急速な資本主
 義化により、そんなポーランドの魂もすこしずつ消えて
 いっているような感じがします。物資的な豊かさを手に
 入れることと交換にこうした意識を失っていってしまう
 ことはとても寂しいことだと思いました。ポーランドの
 大学生たちとも率直にそんなことを話しました。

【ピーストラベラー】
 そうした、「自由」「平和」「自律」を知るための旅の
 一つにヨーロッパポーランド「オシフェンチム(アウシ
 ュビッツ)」の旅があるのです。

 皆さんは、アウシュビッツで起きたことを知っています
 か?
 1920年代から30年代にかけて、ヨーロッパのドイ
 ツという国は、遅れてきた資本主義国だったゆえ、自ら
 引き起こしてしまった第1次世界大戦の責任をヴェルサ
 イユ体制の下で、多額の賠償金を支払うという形で償っ
 ていました。アメリカなどの政策によって、どうにか賠
 償責任を果たしていたドイツでしたが、1929年、世
 界を覆った恐慌以降は、賠償金返済がままならなくなる
 と同時に国内における経済不況も抜き差しなら無い状況
 へと悪化の一途をたどります。

 現政権であったワイマール共和派に対する国民の不満は
 募るばかりでした。

 そこに登場したのがヒットラー率いるナチスという政党
 だったのです。
 
 1929年に起きた世界恐慌は、「持てる国」と「持た
 ざる国」の違いをはっきりさせました。自国やその植民
 地の中だけで経済活動をできるだけの力を持った国に対
 し、遅れて資本主義化された国は、そういった市場も資
 源も持ってはいませんでした。結果として、軍事力を行
 使し、そういった当時の世界の序列をリセットしなくて
 はいけませんでした。その代表的な国が、ヨーロッパで
 はドイツでしたし、アジアでは日本であったわけです。

 ナチスがドイツで徐々に力をつけていたころ、同様に日
 本でも財閥ならびに軍部が力を持ち始めていました。
 
 当時の日本は、明治維新以降、富国強兵の国策をとり、
 欧米諸国に経済力や軍事力や技術力を追いつかせるため、
 必死に拡張政策をとっていました。日本の国内における
 独占開発がある程度めどが立つと、当然のようにその視
 線は海外へと向かったのです。日本の財閥たちが注目を
 したのは、中国大陸でした。中国の東北部に満州国とい
 う日本の傀儡国家をつくり、そこを足がかりにして、植
 民地政策を柱とした日本帝国主義を展開していこうと考
 えます。

 そのころ中国における利権を押さえていた欧米諸国、中
 でもアメリカとは、多くの場所でその利害が激しく衝突
 しました。1939年には、日米通商条約を破棄し、日
 本と似たような立場にあったドイツと同盟を1940年
 には結び、ついに1941年には目の前の敵であったア
 メリカに宣戦を布告することとなるのです。

【11月28日】
 ボランティア活動2日目の今日は、久しぶりの晴天に恵
 まれ、すがすがしい気持ちで現場に向かいました。
 博物館では、私たちの担当であるウォパットさんが、作
 業に必要な道具をきちんとそろえ、満面の笑顔で待って
 いてくれました。今日の仕事は、当時の収容所を再現し
 た第7棟の清掃でした。そこには、収容され亡くなった
 多くのポーランドの方々の遺影が飾ってあり、彼らの視
 線のもと身が引きしまる思いで、1室、1室掃除をさせ
 てもらいました。たくさんの団体見学者がいるなか、1
 つの展示棟をわれわれだけで見させてもらえることに感
 謝、いっぱいの気持ちになるのでした。
【旅日記】
 ある意味、精神的に豊かに見えるポーランドでも、先日
 書きましたように若い世代を中心にして、確実に資本主
 義化がすすんでいます。喧嘩を売るような話しですがあ
 えて、ポーランドの若者たちに話しをしてみました。

 苦難の独立の歴史を持つポーランドという国のその精神
 は、ヨーロッパにおいて、一つの売り物になるのではな
 いか?と。
 日本は、形式的な傾向を強めてはいるが、憲法によって
 軍事力の放棄という規定がある。結果として、自衛隊の
 ようなものはあるが、比率だけでいえば、GNPの1
 %以下(一度だけ突破)に軍事予算が戦後押さえられて
 きた。消費だけの軍事予算に投入する分のお金を経済発
 展のために使うことができた。

 今、特に近年、ポーランドでは、EUに参加をするため
 もあるけれどその参加基準を満たすためなどと言いなが
 ら軍事予算は、国家予算のどのくらいを投入しているの
 かと聞けば、15%だと言う。もっと、平和をセールス
 ポイントにした外交はできないのかと問うた。若者たち
 は、素直に新鮮で新しい発想だと答えた。

 国家の安全保障の問題がからみ、かつ、ヨーロッパの場
 合、地続きでお互いに攻める、攻められる経験を多くし
 ているだけに簡単な話しではないと思う。

 返す言葉で、日本は、軍事的にはアメリカに守られてい
 たからだとも指摘をされる。いろいろな意味で、重要な
 課題であると感ずる。たかが民間の一高校のプログラム
 であると笑う人もいるかもしれない。しかし、実際の現
 場にいる身から言えば、もしかしたら、21世紀の日本
 のあり方を占う意義を持った重要なプログラムなのかも
 しれないと思ったりしている。

 オシフェンチム博物館(アウシュビッツ)で掃除をして
 いると毎日、日本人を含め世界各国から見学者たちが来
 ている。でも、博物館で、博物館の側からボランティア
 などをしてアウシュビッツを観ているのは、年間の中で
 も私たちだけだそうだ。活発に動いているドイツでさえ、
 若者たちは、平和に関係する学習は飽きてきたというそ
 うだ。

 国の方針として、平和国家を明言している国は、世界で
 も唯一の国の一つであろう。その意志に基づいた行動は
 十分に世界の中でも価値があるものであると確信した。

【ピーストラベラー】
 アメリカに宣戦布告した日本は、1942年には、その
 戦争目的を本来の目的からカモフラージュするために、
 「大東亜共栄圏」なるスローガンを掲げ、欧米諸国に占
 領されているアジアの国々の解放のために、日本は軍隊
 を動かすと主張する。

 本当の意味は何てことはない。欧米諸国の代わりに日本
 が宗主国になるということだったのです。同年の6月に
 は、日本の補給路をかけたミッドウェーの戦いにおいて、
 大敗北をきっします。以後日本は、物量作戦で押し切る
 アメリカ軍を中心とした連合軍の前に対抗するすべを失
 っていきます。

 1945年、2月にはアメリカ軍の硫黄島上陸、そして、
 4月には、沖縄戦の開始、8月には原爆の投下、8月1
 5日に終戦を向かえ15年近く続いた、日本帝国主義時
 代の戦争の歴史に終止符を打つことになるのです。
 
 時を同じくして、ヨーロッパ戦線では、どういった動き
 があったのでしょうか。ヒットラー率いるナチスは、1
 925年以降、単なる右翼集団から政治的大衆団体、つ
 まり、公の政党として活動をしだします。まず彼がした
 ことは、ワイマール体制化において、なかなか評価され
 なかった婦人層ならびに青年層、そして、中産労働者層
 を支持者として取り込むことでした。婦人層においては、
 婦人層の待遇に理解をしめし、青年層に対しては、流行
 のファッション、メディア、演出などを通じて、一つの
 ブームとして取り込み、中産労働者層に対しては、現ワ
 イマール体制指導者は、ユダヤ系に牛耳られている政権
 だから、本来のリーダーであるゲルマン系にとり戻そう
 というスローガンを掲げ支持者を拡大します。

 ベルサイユ体制や世界恐慌で痛めつけられ続けたドイツ
 国民は、夢と希望を語るナチスの政策に次第に取り込ま
 れていきます。よりましな政権に希望を託す意味もあり。

 そうした大衆的政治活動を遂行すると同時にナチスは現
 実主義的したたかさも持っていました。与党である社会
 民主党と当面の組織的対抗馬であった共産党の仲が悪い
 ことを利用して、各地方選挙では、徹底的に暴力的な手
 法を駆使して、共産党を封じ込めます。

 共産党と手を組むことに消極的だった社会民主党の消極
 性も手伝い、地方選挙レベルにおいても徐々にナチスは
 勢力を拡大していきます。そしてついに、1932年の
 国政総選挙では、国会議員230名を獲得し、第1党と
 なるのでした。

【11月29日】
 本日は、オシフェンチム博物館におけるボランティア最
 終日です。今日の作業は、ハンガリーの棟でした。ハン
 ガリーは、アウシュビッツに一番多くのユダヤ人が連れ
 てこられた国でした。
 私たちのチームのボスは、ウォパットさんと言う50代
 後半のご婦人でした。お子さんが4人い、旦那さんが早
 くに亡くなったので、女手で子どもたちを育てきたそう
 です。博物館の仕事ももう十数年になるそうです。
 ポーランドの肝っ玉母さんという感じのパワフルな母さ
 んでした。作業が終わり、棟の外に出ると青空が広がっ
 ていて、とてもすがすがしい気持ちで最終日を終えるこ
 とができました。
【旅日記】
 大学生宅での滞在を終えた私たちは、次に今回の旅の最
 大の目的地であるアウシュビッツ収容所跡のあるオシフ
 ェンチムという街へ向かいました。アウシュビッツとい
 う名称は、ナチスドイツが勝手につけた名称です。本来
 は、オシフェンチムという名がついた町です。収容所跡
 は、ポーランド国立オシフェンチム博物館として世界遺
 産に指定されています。
 
 ポーランドの南部に位置するこの場所は、クラクフの北、
 カトビッツの南、2つの都市の中間ぐらいに位置し、そ
 の昔から、ドイツ方面、オーストリア方面、ロシア方面
 へとつながる鉄道の要所として知られていました。

 当時は原野の中の小さな町でしたが、今は、カトビッツ
 への通勤圏内なので、近郊住宅街のような雰囲気です。
 私たちが滞在をしているのは、そんなオシフェンチムの
 町の中、博物館へ車で5分ぐらいの所にあるドイツとポ
 ーランドが協力して設立運営をされている国際青少年セ
 ンターというところです。言うなればユースホステルの
 ようなところですが、木材を主にしてつくられたおしゃ
 れな建物です。ここには、ポーランドの青少年たちをは
 じめ、特にドイツの青少年たちは、学校のプログラムの
 一環として、アウシュビッツの学びに利用されています。
 毎年、私たちが訪れるころも、ドイツの高校生や大学生
 たちが訪れていて、夜遅くまで、ディスカッションをし
 ている場面に出くわします。

 私たちはこのセンターを拠点にして、博物館の見学やボ
 ランティアを行っています。

【ピーストラベラー】
 国会において第1党となったナチスは、ワイマール憲法
 の弱点であった大統領特権などたくみに使い、ヒットラ
 ーを首相に押し上げます。首相になったヒットラーは、
 手に入れた警察権力を駆使して、共産党員などナチスに
 とって不利益な勢力を排除していきます。

 1933年には、ナチス以外の政党の活動を禁じ、一党
 独裁の道を築きあげていきます。不況対策のために軍事
 産業を筆頭に多くの公共事業を展開し、みせかけ的では
 ありましたが、景気の回復を演出します。1934年に
 は、大統領亡き後、ヒットラーは大統領の地位も手に入
 れ、ここにドイツ第3帝国の成立をみます。

 ヴェルサイユ条約によって手かせ足かせになっていた賠
 償責任を一方的に破棄し、再軍備を宣言し強力に推進し
 ます。1936年には、アジアにおける持たざる国であ
 った日本と防共協定を結び、40年には、これにイタリ
 アを加えた、日独伊三国同盟の結成がされます。

 ヨーロッパにおける勢力序列をリセットするための準備
 がある程度終わったドイツは、1938年に小手始めと
 して、隣国のオーストリアを併合します。国際世論の出
 方を様子見します。当時、1917年に革命を起こし、
 社会主義政策だったゆえ恐慌の影響を受けず、着々と国
 力をつけていたソビエトの進出を恐れた西側諸国は、そ
 の進出の防波堤とするためドイツの暴挙をある程度黙認
 してしまいます。

 この国際世論の動きを見たドイツは、1939年には、
 絶対にあり得ないといわれていたソビエトとの不可侵条
 約を締結後、一気にポーランドへと侵入します。日本の
 大東亜共栄圏と同じようにナチスは、各国に対しては、
 ヨーロッパの利益をユダヤ人から取り戻すとスローガン
 を掲げ、自国では、ヨーロッパのリーダーとして選ばれ
 ているのはゲルマン民族であると気勢を上げるのでした。

 今度の侵攻に対しては、西側諸国ももはや黙っているこ
 とはできず、イギリス、フランスがドイツに宣戦布告を
 するのでした。1939年9月3日、第2次世界大戦(
 ヨーロッパ戦線)が開始されたのです。

【11月30日】
 昨日までのボランティア活動のせいか、体の節々が痛い。
 これはどうしたことでしょうか?まあ、何日か経ってか
 ら痛くなるよりはましですか。
 今日は、オシフェンチムから列車に乗りワルシャワに移
 動でした。ポーランドの首都であるワルシャワは、人口
 165万人の大都市で、根っからのいなか人間である私
 は、都会の喧騒に右往左往するばかりです。
 歩いている人の早さもこころなしか急ぎ足に見えます。
【旅日記】
 ポーランドでの生活もだいぶ慣れてきました。いろいろ
 な習慣の違いなどは当然のようにあるわけですが、生活
 の流れそのものは、日本に似ているところもあるので慣
 れればそんなに気になりません。やはりだいぶ違うのは、
 食生活ということになるでしょうか。

 ここはヨーロッパなので、主食は、やはりパンかポテト
 ということになります。レストランに入ってもパンかポ
 テトをつけるかどうか聞かれます。あと以外なことに米
 もあるレストランは多いです。ただし、米はイタリア米
 という感じで、ぱさぱさしていますが、あと最近のヨー
 ロッパのレストランでは、醤油をおいてあるところが多
 いです。米といい醤油といい、ポーランドでは案外、ア
 ジアン風味が浸透しています。

 主食のパンは、とても種類が多く、毎日違う種類のパン
 を食べてもそう飽きがきません。よくかんでいるとパン
 によって味がだいぶ違います。中でも私が気に入ったパ
 ンは、ゴマのパンです。ゴマがパンの中と外にまぶして
 あって、ちょっと固めなのですが、よくかんでいるとじ
 ゎーっとゴマの味とパンの味が混じりとてもこうばしい
 味になります。

 おかずはいろいろあります。
 最初に出てくるのは、やはりスープです。いろいろな種
 類がある中で私たちの一番人気はやはりキノコのスープ
 です。家やお店によってもその味は多少違いますが、そ
 のクリミーでキノコの濃くのある味は、病み付きにさせ
 ます。
 メインのデッシュも様々あります。
 ポーランドは元来、農業国であるので、食材はおそらく
 他のヨーロッパの国と比べても遜色はないむしろ上かも
 しれません。有名なのは、豚肉です。豚肉料理はトンカ
 ツがとても有名で代表的なポーランド料理の一つです。
 
 他にも牛肉のひき肉とキノコや野菜を入れて、ゆでた餃
 子のようなものがあったり、ロールキャベツのようなも
 のやハンバーグ、そして、ラーメンのようなパスタが入
 っているスープのゆうなものがあったり。そして、付け
 合せには、冬のヨーロッパには珍しく、生野菜、ブロッ
 コリー、キャベツ、トマトなどもつきます。

 私が気に入ったのは、鶏肉でした。照り焼き風にした鶏
 肉は、別に醤油で味付けをしているわけではないのに香
 ばしく、パリパリした皮がとても食欲をそそります。

 ポーランドの人たちのメインの食事は、お昼の食事です。
 朝と夜は軽めですが、昼は、多くの人は家にもどり3時
 ぐらいにゆっくり食べます。食事の後は、カーバ(コー
 ヒー)かヘルバータ(お茶)です。手作りのケーキもお
 うおうにしてつきます。お茶は家によってブレンドされ、
 その家ならではの味があります。

 食事の時間は家族が揃い、おしゃべりをしながら過ごす
 のがふつうです。何にか豊かな感じがします。

【ピーストラベラー】
 1940年41年と近代的な兵器で武装をしたナチスド

 イツは破竹の勢いで、西ヨーロッパを侵攻していきまし
 た。41年には、大方の西ヨーロッパを占領したナチス
 ドイツは、41年6月には、ソビエトにも侵攻をはじめ
 ます。

 はじめのうちは、大きな打撃を受けていたソビエト軍も
 冬の到来とともに徐々に反撃をかえしします。ソビエト
 領内に深く侵入をしたナチス軍は、かえって戦線を拡大
 しすぎ、補給路を断たれだします。そこにシベリアの厳
 しい冬が到来します。1942年11月のスターリング
 ラードの反撃を境にして、ソビエト軍が優勢になってき
 ます。

 開けて43年の2月には、ソビエトに攻めていたナチス
 ドイツ軍は、ついに降伏をします。東側でのナチスドイ
 ツ軍の敗戦を知り、西側でも連合軍側は、フランスノル
 マンディに上陸作戦を敢行します。このシーンは、昨年
 公開された映画、「プライベートライアン」などで記憶
 がるかとは思います。ヨーロッパの西と東から連合軍に
 攻められたナチスドイツは次第に追い詰められていきま
 す。1945年5月7日ついにナチスドイツは降伏しま
 す。既にヒットラーは4月30日に自殺をしたあとでし
 た。枢軸国側で最後まで残った日本が降伏したのがこの
 後の8月15日ですから、この1945年に第2次世界
 大戦が終了したこととなります。開戦後6年の月日が経
 ったわけです。

 ただ、破壊だけの6年間だったわけです。

【12月1日】
 オシフェンチムのそばの駅からワルシャワ行きの都市間
 特急に乗った私たちは、ポーランド平原のど真ん中を突
 きって、約3時間の列車の旅でまさに大都会ワルシャワ
 についきました。昔の日本で言えば、上野駅に上京して
 きたような感じです。都会は何でもあるので、便利は便
 利です。今、滞在しているフランス系のホテルもそんな
 に高い料金ではなく、日本にあるところのビジネスホテ
 ル級ですが、部屋は、シックなトーンでまとめられ家具
 類もシンプルかつ機能的なものです。久しぶりにテレビ
 を観たら、いきなり、日本のニュースやポケモンやアニ
 メをやっていました。そうそう、インターネットも直ぐ
 に使える環境です。
 昨日の夜は、旅の中休みということでワルシャワの日本
 料理レストランへ行きました。そこはオーナーとシェフ
 が日本の人なので、日本とまったく同じものが食べれま
 す。日本食は、やはり食べ物の王様です。すべてによい
 という感じです。ポーランド人が、板さんにスシ!一人
 前と言いながら、出てきたスシを、「おーっ!これこれ」
 と言いながらハシでつまむ様子は、何かおもしろいもの
 です。
【旅日記】
 ポーランドの生活事情をもうすこしつづけましょう。
 ポーランドの人たちの日常の足は、車もだいぶ普及して
 きていて、一家に1台に近づきつつあります。でも学生
 をはじめとする街の人の主な足は、トラムという市電で
 す。1回乗ると市内どこまで乗っても2ゾーティ(1ゾ
 ーティ=約30円ぐらい)ほどです。停留所のそばには、
 必ずキヨスクがあり、そこで乗車券を買うことができま
 す。「ポロシェン イエデン ビレット」「イレ コシ
 ュツトウイエ イエドノ?」「ドウバ ゾーティ」「
 タク タク」「ジンクーイエ バルゾ」という具合で乗
 車券を手に入れるわけです。停留所で待っていますと2
 両編成でちょっとおしゃれな路面電車が走ってきます。
 電車に乗りますと、直ぐに電車の中にある自動検札機に
 自分で検札を入れます。これをしていないと検札がきた
 ときに罰金を取られます。

 市内を網の目のように走っているトラムは、とても便利
 な乗り物です。電気じかけですから排気ガスも出さずエ
 コロジカルでもあります。

 お店も様々な種類のお店が並んでいます。郊外には、モ
 ール形式のスーパーマーケットもだいぶでき、各品揃え
 も豊富です。特に生鮮食料品、衣料品などは十分にあり
 ます。

 物価は、贅沢品でなければ衣食住に必要なものを中心に
 そんなに高くありません。日本の3分の1ぐらいでしょ
 うか。ただ、給料も日本の3分の1ぐらいなので、生活
 実感としてはあまり変わらないと思います。が、決定的
 に違う点は、昔の日本もそうでしたが、無駄使いはしな
 いという点だと思います。以前の書きましたように自分
 の家で作れるものは作るという意識は、まだまだ残って
 います。

 あっそれと、教育費、大学の授業料などは基本的に無料で
 す。奨学金制度も充実していてやる気さえあればかなり
 学習を続けることができます。

【ピーストラベラー】
 第2次世界大戦のヨーロッパを考えるとき、忘れられな
 いはユダヤ人の問題です。

 ユダヤの人たちの問題は、遠く5世紀の始めごろキリス
 ト教がローマ帝国の国教となるころまでさかのぼります。
 
 その起源を紀元前2000年ごろまでもどることができ
 るユダヤ人たちは、中東地域を中心とした遊牧の民でし
 た。紀元前1000年ごろには、ヘブライを中心とした
 地域にユダ大帝国を築きます。しかし、紀元後まもなく
 ローマ等の侵略の前に自国の領土を失っていきます。

 さらに、前述したようにローマ帝国の国教がキリスト教
 になると異端であるユダヤ教徒は、次第に迫害され土地
 を追われる身となるのです。この時点でかなりの数のユ
 ダヤの人たちが離散をしたにも関わらず、11世紀の十
 字軍の時代に入るとその迫害の度合いは、激しさを増し
 ます。

 1215年当時の第4回ラテラノ公会議では、キリスト
 教徒との親交を禁ず。ゲットーへの強制隔離。キリスト
 処刑の生き証人。東ヨーロッパなどへの追放などが言わ
 れてしまいます。

 しかし、歴史の運命は皮肉なもので、14世紀になると
 ヨーロッパ全体において商業化が進み、弁護士だとか会
 計士だとか金融に詳しい人材を社会が必要としてきます。

 当時のキリスト教においてその職業観の外に置かれてい
 たこれらの職業は、土地をもたぬユダヤの人たちにとっ
 ては選択の余地のない生きるための職業でした。14世
 紀に麦の売買で巨額の富を築いていたポーランド王国は
 そうした人材を必要としたヨーロッパで最初の国でした。
 1334年には、限定付きですが、ポーランド王国はユ
 ダヤ人に市民権を与えます。

【12月2日】
 今日はワルシャワの街をあっちこっちと探索をしました。
 ポーランドの首都であるワルシャワは、闘いの歴史の街
 であると言えるでしょう。
 特に1944年、第2次世界大戦末期におきた蜂起は歴
 史に残る蜂起でした。ナチスドイツが劣勢になったのを
 受けて、市民が一斉に蜂起をしました。あまりの壮絶な
 抵抗のためナチスもあわててワルシャワの街すべてを殲
 滅しようとしました。しかし、市民の援軍にくるはずの
 ソ連軍が、ビスワ河の対岸で、戦後の西側、東側の政治
 的な綱引きのもと様子見の状態になり、西側の支援を受
 けて動いていたレジスタンスを結果として見殺す形にな
 ってしまいます。
 ワルシャワの市民は、街の地下にある地下水道を巧みに
 利用して勇敢に戦いました。この様子を映画にしたのが、
 ポーランドの誇る映画監督アジェイ・ワイダさんの、「
 地下水道」です。

 戦いの主な場所であった旧市街は、このときの戦いで9
 割近くが灰となりました。しかし、市民の人たち熱い思
 いのもと戦後、大部分が修復され、旧市街全体が世界遺
 産に指定されています。
 
 また、戦前、ヨーロッパの中で、多くのユダヤ人、むし
 ろユダヤ系ポーランド人がいた地域もここワルシャワで
 した。当時のゲットーを囲んだ壁も一部残り、戦時中、
 多くのポーランド人、ユダヤ人が亡くなりました。
 その他にもロシアなどの占領をされていた時代のこと、
 ショパンとの関係などまさに19世紀から20世紀初頭
 にかけてのヨーロッパの重要な歴史が凝縮されている街
 です。
【旅日記】
 そして今回の旅の最大の目的地であるアウシュビッツの
 ことを少し話しをしておきましょう。
 アウシュビッツという名前は、ナチスドイツがあとから
 勝手につけた名前なので、昔からある街の名前は、以前
 書きましたが、オシフェンチムという名前があります。
 アウシュビッツ収容所の跡地は、ポーランド国立オシフ
 ェンチム博物館となっています。この場所は、東ヨーロ
 ッパにおける鉄道における交通の要所でここから、ヨー
 ロッパのいろいろな町へ鉄道でいくことができます。こ
 した、交通の便がよく、都市から離れているところにあ
 えて収容所を作ったわけです。ナチスドイツにおける収
 容所とは、その初期の段階では、ドイツ国内における、
 政治犯など反体制派の再教育センターという位置付けで
 した。

 1940年当時、ポーランド軍の官舎を改造してつくら
 れた現アウシュビッツ1号は、ポーランド人の政治犯を
 投獄するために使われていました。それが、1942年
 ごろより、ヨーロッパ中のユダヤ人を絶滅させるための
 場所の一つとして機能していくのです。ここで覚えてお
 いてほしいいことは、アウシュビッツに収容され死んで
 いった人種としては、当然、ユダヤ人の方々が一番多い
 わけですが、他にもポーランド人、ジプシー、ロシア人、
 チェコ人、ユーゴスラビア人、フランス人、オーストリ
 ア人、ドイツ人もいました。1941年頃までのアウシ
 ュビッツ1号では、平均して、13,000人〜16,
 000人ほどの収容者が随時収容されていました。
 ユダヤ人絶滅計画が進行した41、42年には、1号か
 ら約3キロメートルほど離れたビジェンカ村に第2号が
 建設され、さらに42年には、モノヴィツェ村を中心に
 して小さい収容所がいくつか建設されました。

 結果として、ここアウシュビッツでは、45年に解放さ
 れるまでにまだ確かな情報が少ないというか、一家が全
 員殺されていたりすることが多いので、生前の存在すら
 確認できないという事情を考えても、確実に150万人
 以上の方が殺されていると言われています。

【ピーストラベラー】
 ヨーロッパで最初に市民権を得ることができたポーラン
 ドに多くのユダヤ人が移住をします。この後、より商業
 化すすんだ多くの国が、ユダヤ人優遇して市民として迎
 え入れます。16世紀オランダ、17世紀イギリス、1
 8世紀フランス、19世紀プロシアというように。いく
 つかの国へ迎えいれられたユダヤ人たちは、その国を自
 分の母国とするためにたいへん努力をします。ユダヤ系
 ○○人をめざし、その地に溶け込もうとします。

 しかし、そうした努力が、19世紀の後半から裏目に出
 るようになります。始めのうちは、そうしたノウハウの
 無かった各国も、そこそこ自国の人間に商業的な処理能
 力が培われるてくると当時、あたまをもたげてきていた
 民族主義も手伝い、ユダヤ系○○の人の手から主導権を
 とり戻そうという動きが活発化してきます。ユダヤ系の
 人たちは、早く受け入れてくれた国に対して同化をし、
 信頼を得ようと一生懸命やっていましたから、地位や名
 誉もそこそこ認められるようになっていたのです。

 少なからず、そんな彼らに対するねたみのようなものが
 あったことも否定できないと思います。後から来て、ホ
 ワイトカラーの仕事をし、豊かになっていく彼らをなか
 なか認めることができなかったのではないでしょうか。

 そんな、ヨーロッパ中の雰囲気を鋭く嗅ぎ取ったのがヒ
 ットラー率いるナチスだったのです。第1次世界大戦前、
 のドイツでは、近代化をヨーロッパの先進諸国の中では
 最後に推し進めた関係で、ユダヤ人の登用を積極的に進
 めていた結果、多くのユダヤ系ドイツ人が誕生しかつ、
 社会的にも重要なポストについていました。そうした影
 響を受けた多くの人が第1次世界大戦後のワイマール体
 制下にはいたといわれています。そのことをヒットラー
 は、ユダヤ人の手からゲルマン民族の手に国政を取り戻
 そうと宣伝したのです。そうした彼の主張が、まだ、民
 主化が遅れていた層の人たちを巧みに取り込んでいった
 ことは、以前書いたとおりです。

 そして、ヨーロッパ全体としてもナチスドイツがオース
 トリアを併合したころまでは、各国における反ユダヤ主
 義もあり、ナチスドイツの追求が手ぬるくなったのです。

【12月3日】
 昨日、2週間近く滞在していました。ポーランドにse
 e youを言い、国際特急に乗り、ワルシャワから一
 路、ドイツの首都ベルリンをめざしました。
 朝焼けの光の中、列車は疾風のごとくポーランドの大平
 原を突き進んでいきました。途中、列車の中での出国、
 入国も無事に済ませ、旧東ドイツの地域を進んだ列車は
 定刻にベルリンズー駅へとその車体を滑り込ませました。
【旅日記】
 アウシュビッツに来てその歴史を知ることも大切ですが、
 その前提として重要なことがあります。きびしい言い方
 になるかもしれませんが、アウシュビッツは、涙を流す
 場所でもなく、同情をする場所でもないということです。

 確かに、当時のアウシュビッツは地獄そのものです。地
 獄であれば悪いことをした人が行くので、まだ救いがあ
 るかもしれません。ここで殺されていった人たちの多く
 が、ユダヤ人であれポーランド人であれ、何も罪がない
 人たちなのです。ですから、私はアウシュビッツに入れ
 られていた多くの人たちを囚人と表現することには抵抗
 感があります。もともと囚人でも何でもない一般の市民
 であったわけです。

 一般の人たちが、ただ、ユダヤ系であったとか、ただ、
 ジプシーで国を持っていなかっただとか、ただ、彼らを
 助けたという理由のみで連れてこられ、殺される意味も
 知らずに家族を引き離されて死んでいったのです。

 ナチスドイツは、彼らを単なる使い捨ての労働力、資源
 とみていました。したがって、彼らの生きるかどうかの
 審査基準は、資源として利用できるか否かだったのです。
 当然、労働力として利用できない者は、イコール死を意
 味していました。ヨーロッパの各地からだまされている
 と承知ながら、命令に従うしかなかった、自国を持たぬ
 ユダヤの人たちは、貨車に乗せられこの地へと連れてこ
 られました。引き込まれたプラットホームに降ろされ、
 飲まず食わず立ちっぱなしの旅を何日間も強要された人
 の中にはもう既に息絶えていた人もいたそうです。でも、
 これからの地獄を知るくらいなら先に死んだ方が楽だっ
 たのかもしれません。まず、整列をさせられます。セレ
 クションです。

 SSの医師の前に出て、彼の判断で必要か不必要か決め
 られます。まさに顔色一つです。資源の価値があると思
 われた者は、右の収容棟へと進みます。資源の価値が認
 められなかった者、老人、婦人、子どもたちはそのまま
 前に進みます。ここで引き離された家族は2度と再会す
 ることはなかったわけです。無用とされた者たちは、そ
 の先にあるシャワー室と称する建物へと入らせられます。
 
 長旅、ご苦労様とねぎらいの言葉をかけられ、どうぞ、
 シャワーでも、脱いだ服は分からなくなりますから番号
 札のあるところにかけ番号を覚えておいてくださいなど
 と、さも先がるようにいい安心させ、シャワー室へと入
 れます。偽装で作ったシャワーの蛇口から出てきたのは、
 温水ではなくチクロンBという猛毒のガスだったのです。
 子どもだけは助けほしいと多くのご婦人が子どもをさし
 上げたまま亡くなっていたそうです。
 その後、死体から貴金属、頭髪など金目のものは全部は
 ぎ死体を焼却炉へと運んだそうです。
 燃やした遺体は、灰にして近くの畑や川や原野に撒かれ
 たそうです。計算つくされた合理的な流れ、まるでオー
 トメーションのように処理をしていった。殺人工場と言
 われるゆえんはここにあるのです。

【ピーストラベラー】
 努力をして、地位や信用を得るとうとまれる。いじめの
 構造に似ています。自分の国の経済だとか社会の流れが
 うまくいかなくなると人は攻撃材料をつくります。この
 構造は、ある意味、ユダヤ人の問題だけではありません。

 今、現在においても世界の至るところで同じような構造
 が存在します。

 第2次世界大戦後、多くのユダヤ人の人たちは、他の国
 に同化をする方向性をあきらめて、自分たちの国を作ろ
 うとします。この主張をシオニズムと言います。戦後、
 ちょうど彼らの聖地であるエルサレム周辺を領地をして
 いたイギリスが、その統治権を彼らに譲ります。これで
 ユダヤの問題は、解決したかと思われました。しかし、
 現実はそうはうまくいかなかったのです。

 エルサレム周辺の土地を占領し、植民地化していたイギ
 リスの利権は、中東に眠る原油でした。その資源を見越
 して、当時、住んでいたパレスチナの人々から土地を奪
 っていたのです。パレスチナの人たちから見れば、ユダ
 ヤ人に土地を与える前に、パレスチナの人々に土地を返
 せと当然の主張をしました。エルサレム周辺にユダヤ人
 たちがいたのは、1500年ほど前であるからです。

 戦後、ユダヤ系の人が一番多く住んでいる地域は、アメ
 リカです。ユダヤ系アメリカ人は、アメリカと言う国に
 対してそれなりの発言権を持っています。アメリカの大
 統領が中東問題を重要視するのはそんな意味もあります。

 しかしながら、こう言った世界のいろいろなところにあ
 る紛争の構図を見てみると、共通なことがあるのに気
 が付かされます。それは、多くの場合、今現在先進諸国
 と呼ばれている国々が、その国の経済的発展のためにそ
 の昔に起こした行動が、何年、いや、何十年、いや何百
 年後かにおいて、そのしわ寄せというか、ゆがみとして
 作用し、その地域の紛争の原因となっているということ
 です。

 そして多くの場合、経済的な発展のために力技でその活
 路を開こうとするとき、必ずそのときの指導者は、大衆
 を煽動するためのもっともらしい大義名分を掲げるとい
 うことです。みんなの共通の敵である弱い集団を作るこ
 とも忘れません。この構図はしっかりと理解しておく必
 要があります。敵の集団にするためには、きちんとまじ
 めにやっているものほどかっこうな材料となり得ます。

【12月4日】
 昨日は、ベルリンの街を探索しました。
 メインはやはり東西ベルリンを分けていたベルリンの壁
 を見ることでした。今となっては、若い人たちを中心に
 なぜ、壁を作る必要があったのかその意味すら過去のこ
 とになりつつあります。
 まさに、あなたの過去など知りたくないわっていう感じ
 です。でも現実には、ほんの10年前まで冷戦という、
 ドイツの人たちには関係のない紛争のためベルリンに壁
 が作られ、国すらも2つに分けられて、その間、同じ民
 族どうしで多くの犠牲をだいしたわけです。
 確かに、ヨーロッパにおけるドイツは、アジアにおける
 日本のように第2次世界大戦におけるそのきっかけを作
 った国ではあります。でも、その戦争責任と冷戦による
 分断は何も関係がありません。
 冷戦の終了とともに、東西ドイツ、東西ベルリンは一つ
 になりました。ドイツの本当の戦後が始まってやっと1
 0年です。ベルリンの街は、来るたびに発展をしていま
 す。EUのリーダー国として、その影響力は絶大です。
 ヨーロッパ全体がよい方向で発展してくれればと思いま
 した。

 壁のチャリーチェックポイントに博物館があります。
 毎年、その博物館を訪れます。今年は、日曜日というせ
 いもあったかとは思いますが、いろいろな国から見学者
 が訪れていました。こうしたことに関心のある人が世界
 中にたくさんいればいるほど、くだらない過ちは2度と
 繰り返されないのではないかと思いました。
【旅日記】
 アウシュビッツで起きたことは、犠牲者の人数の誤差は
 あるにしろ、数には関係なく起きたことに重要な意味が
 あると思います。最近でもちょっと大げさなんではない
 かなどという人もいたりします。私は、昨年、元博物館
 の館長であり収容者であるスモーレニ氏と話しをした時、
 彼の左腕にしっかりと残ったアウシュビッツでの収容者
 番号の刺青を見たとき、ここで起きた事実をきちんと理解
 しなくてはいけないと悟りました。

 数の問題ではないのです。起きたという事実なのです。
 この構造は、今だに世界の多くのところで繰り返されて
 います。確かに、ナチスは、ここアウシュビッツをつく
 るとき、近代的な都市計画のもとに収容所をつくりまし
 た。今でも一つの街づくりのモデルとして教材になるほ
 どです。しかもそこで殺人の陣頭指揮をとっていた人た
 ちも家に戻れば一般の市民だったわけです。近代的で、
 科学的な技術、そして、普通の人、そんなものが組み合
 わさってもそこに正しい魂を吹き込まなかったら、単な
 る殺人工場になってしまう事実です。

 そうならないために私たちはどうしていったらよいので
 しょうか?そのことを考えるための出発の地、そこがア
 ウシュビッツなのです。

 ポーランドの人たち、自分たちも独立のためのための闘
 いをし続けてきました。でも、自分たちの意識の中にあ
 る反ユダヤ主義のため自国の中でこうした事業を許して
 しまいました。経験したポーランド人たちはこのことを
 必死で世界に伝えようとしています。でも、資本主義
 化の荒波の中でその意志も切れ切れになりそうです。

 世界のそうした経験を持つ多くの国がもっと自国の闘い
 の歴史に自信を持ち連帯すべきであると思いました。
 
 ポーランドにしても沖縄にしてもベトナムにしてもそう
 いった価値観が残っているうちに。

 そんな意識の一つの表現として私たちは、毎年、アウシ
 ュビッツで形ばかりのボランティア活動をさせてもらっ
 ています。そのことについて明日は書きましょう。

【ピーストラベラー】
 20世紀に起こっている紛争の多くの原因が経済的な力
 関係によって起きたということは分かってきてくれたか
 とは思います。

 構造的な部分だけを言えば、経済的な豊かさを求め、そ
 の利益を独占していく歴史の繰り返しと言えるでしょう。
 その典型的な一つの形が、日本、ドイツをはじめとする
 帝国主義でした。じゃー、勝った連合国側には帝国主義
 はなかったのか?ないどころか、帝国主義国として世界
 に名をはせたのが、イギリスであり、アメリカである他
 のいくつかの近代的といわれた国家であったわけです。

 先に軍事力を行使し、結果として負けた国の帝国主義は
 全体主義に通じたので悪い資本主義で、勝った国の帝国
 主義は、民主主義だったからよい資本主義という見方に
 かなり無理があるように思います。

 なぜなら、なぜこの後、よい資本主義であるはずのアメ
 リカが、朝鮮戦争をし、ベトナム戦争をして、湾岸戦争
 をしたのか、イギリスがフォークランド紛争をしたのか、
 NATOがコソボを空爆したのか。よい資本主義なら、
 これらの行為は許されるのか。きちんと考える必要があ
 ると思います。

【12月5日】
 昨日は、ベルリンからさらに移動をして、最後の目的地
 である。ドイツ中部の町、カッセルというところへ来ま
 した。ベルリンからここカッセルまでの移動は、ドイツ
 の誇る新幹線ICEに乗り北ドイツの草原を時速250
 キロメートルで突っ走ってきました。日本の新幹線に比
 べて室内はかなり余裕のあるつくりで、各自の席まで、
 希望があれば車掌さんが飲み物などを運んできてくれま
 す。べルリンからカッセルのまでの大部分は、昔の東ド
 イツだった場所です。何年か前に通ったときは、道など
 の公共施設の老朽化が目立っていましたが、今年はもう
 既に新しい施設に生まれ変わっていました。各家々も西
 ドイツ風のモダンな感じに修復された家も多くあり、統
 合後の息吹を感じさせます。あと、ドイツの中を移動を
 していて目立つのは、風力発電の風車です。何十という
 数の風車が、林のように立つ姿は、未来的ではあります。
 ドイツの地方都市の文化とポーランドの地方都市の文化
 などを比較してみたいと思っています。
【旅日記】
 ボランティアといっても3日間だけですから、たいした
 仕事にはなっていないと思います。でも、博物館の人た
 ちは、私たちの希望を受け入れてくれます。
 仕事の多くは、博物館の展示棟の掃除です。特にオシフ
 ェンチム博物館は、1号、2号とその広さも広大で、わ
 ずかな現場職員だけでは、全体のメンテナンスもたいへ
 んだと言います。今年の私たちの仕事も、昨年、私たち
 が清掃したロシア棟の掃除から始まりました。床のモッ
 プかけから始まって、展示ケースの掃除、収容者の人た
 ちの遺留品の清掃と、本来であれば、どれも貴重な資料
 であるわけで、私たちのような者が直接触れることなど
 おこがましい物ばかりです。今年、清掃を受け持たせて
 もらった中でも印象に残ったのは、7号棟の清掃でした。
 7号棟は、ポーランド人の収容者の方々の記録を中心に
 展示をしている棟です。中の1室に、当然、観光客は入
 ることのできない部屋ですが、当時の収容部屋を再現し
 た所がありました。なんの造作もほどこしていない木を
 組んだだけの3段ベット、寝返りもうてません。麻布の
 ような毛布一つです。11月のポーランドはもう既に厳
 冬です。火の気のない室内は、防寒を考えた服装をして
 いる私たちでも寒いものです。

 この中での生活、ある意味、本当の囚人の方が楽だった
 かもしれません。何年かの刑期を終えれば、外に出れる
 かもしれません。でも、収容者たちは何も分かっていま
 せんでした。あるのは、絶望だけです。未来のない恐怖、
 これは、あまりにも過酷です。

 そして、廊下には、亡くなった方のたくさんの遺影、初
 め来たときは、恐怖で一杯でした。しかし、何度か来る
 につれ、ああ、今年も来てくれたんですかと迎えてくれ
 ているように感じました。この感覚は、毎年、沖縄でガ
 マに入るときの感覚と似ています。
 
 対した役にも立ったいないにも関わらず、学芸員の人、現
 場の人たちは、今年も来てくれたんですかとニコニコ顔
 で、私たち迎えてくれます。ポーランドの側からアウシ
 ュビッツを見る。この感覚の重要性がここにあります。
 一つ間違えると行きずりの観光客として、単に同情の念
 であったり、過去の出来事であったりしてしまいます。
 少ない時間ではありますが、瞬時でもポーランドの人た
 ちとこの空間を共有化することによって、現在進行形の
 意志に変わるのです。

【ピーストラベラー】
 平和な状態を破壊している社会的な構造の問題について
 は様々な範囲にその考察が及びますので、この場では、
 資本主義経済の問題を抜きには考えられないということ
 だけを言うに止めておきます。関心のある人は、私のゼ
 ミもしくは、自分なりに調べたりしてみてください。
 
 そこで、視点を少し変えて、日本という立場からこうし
 た構造を少し考えてみたいと思います。
 先日も少しばかり書きましたが、日本の明治以降、第2
 次世界大戦終了までの歴史は、まさに外国との紛争の歴
 史です。当時の国の政策が、「富国強兵」であったこと
 からもはっきりとわかるように、日本という国にとって
 近代化とは、欧米なみの経済力を持つということだった
 わけです。欧米が通った道を短時間でトレースすること
 が、近代化であったわけです。すべてにおいて、徹底的
 に真似をしました。その手始めが強国たる国は、強力な
 軍事力を持っていなければいけないというものでした。
 
 日清・日露のころの紛争は、経済的侵略政策の一環とい
 うよりは、そこまでの難しい経済戦略を考えての動きで
 はなく、単純に力の誇示であったように思います。その
 後、徐々につけてきた経済力とともなって、資本主義的
 帝国主義的な傾向を強めていったと思います。

 ここで、きちんと知っておかなければいけない日本の立
 場は、いろいろな異論はあると思いますが、ここまでの
 動きは、日本の都合のみです。つまり、その結果がどう
 であれ、力を加えた方の側であるという事実です。
 このことはきちんと知っておかなければいけません。何
 もその地域からの要請を受けて、日本という国が動いた
 わけではないということです。

【12月6日】
 最終目的地であるドイツ中央部の街、カッセル、ゲッチン
 ゲンは有名なメルヘン街道の中心地でもあります。
 グリム童話発祥の地であるこの街道沿いには、グリム童話
 に関係するたくさんの名所旧跡があります。
 ここカッセルには、かつて、グリム兄弟が住み、町にグリ
 ム兄弟博物館もあります。隣の町のゲッチンゲンには、そ
 の昔、ヨーロッパ三大数学大学と呼ばれ、グリム兄弟も教
 鞭をとったゲッチンゲン大学があります。明治時代には、
 日本からも国費留学生を迎えていたそうです。

 昨日は、カッセルの街を中心に探索をしました。
 クリスマス週間で、街はいつもより華やぎ、ダウンタウン
 は、多くの出店でにぎわっています。おととい街の様子を
 探索した私たちは、昨日は趣向を変えて、ドイツの野山を
 探索することにしました。ここカッセルの小高い丘の上に
 は、ヘラクレスの像が立ち、そこからふもとまでの一帯を
 一つの公園とした場所が広がっています。夏であれば、像
 から一番下のヴェルヘルムス城まで、人工ではありますが、
 滝が流れます。
 冬とは言うものの、今年は、暖かったせいか、紅葉の後に
 散った枯葉が、緑の芝の上に残り、秋色のグラディエーシ
 ョンを残しています。茶色の絨毯の上をサクサクと音をた
 てながら、のどかな探索コースを歩いきます。森の影から
 古城が顔を出します。まるで、中世の映画セットの中に迷
 いこんだかの思いです。

 森と泉に囲まれて、静かに眠るブルーシャトーと思わず、
 古い曲を思いだすのは、私だけのようです。
 かつての栄華を思い出させる各年代の古城は、きちんと
 復元され各年代の美術品などを納めた美術館になっていた
 りします。そこらへんの演出はこころにくいものがありま
 す。また、各美術館の所蔵品は、目を見張るものがあり、
 絵画マニアならずとも驚嘆してしまいます。
【旅日記】
 ポーランドの人たちの側に立って、平和の問題を考える。
 仮にそれが一瞬であったとしても立場を変えて、平和の問
 題を考えてみることは、一般的な平和という価値観が相対
 的な傾向を持っているだけに重要な視点と思っています。

 しかしながら、先にも書きしたようにポーランドにおいて
 も若い世代の人たちを中心にして、市場経済的価値観への
 意識の変化によって、そうしたポーランドならではの平和
 観が薄らぎはじめていることは確かだそうです。平和でな
 ければ、経済的活動もままならないのですが。

 本当に短い、私たちのボランティア活動もあっと言う間に
 終わり、今年も1年間分のたくさんの宿題をもらって、オ
 シフェンチムの街をあとにしました。
 その後は、ワルシャワを経由してドイツに入ります。

【ピーストラベラー】
 日本人として、第2次世界大戦までの紛争などに対して、
 どのような立場で考える必要があるのか。いろいろな思い
 を加味すると複雑な話しになるので、社会科学的な単純構
 造で話しを進めていきましょう。ともかく、明治維新以降
 の日本は、富国強兵政策の元、欧米諸国なみの経済国をめ
 ざして、資本主義的発展を推進したことは事実だと思いま
 す。結果として、当時の他の大国と呼ばれた国と同じよう
 な発展経過をトレースするわけです。供給過剰ならびに需
 要拡大のため、国内だけでは、その発展形態を維持できな
 くて、市場ならびに資源をもとめて海外覇権へと駒をすす
 めるわけです。この流れは、そう特別なことではありませ
 ん。様々な国が、同様の歴史を踏んでいるわけですから。

 一つの見方として、近代国家(?)の歴史の必然性だから
 しかたがないという考え方もあるかもしれません。その犠
 牲の上で、日本をはじめとする先進国家とよばれている国
 々が豊かな生活をしているわけで、そこで例えば、日本人
 が暮らしているのは現実なのだからと自己正当化すること
 はたやすいことですし、じゃー現実、今の生活の水準を何
 年か前に日本人全員が戻してまで、今までの歴史を顧みろ
 とするのも非現実的かとは思います。

 だからこそ逆に、過去にあった日本の立場というものを明
 確に覚えておくことは大事かと思うのです。さあ、そこで、
 クローズアップされてくるのは、加害者たる日本と被害者
 たる日本ということになると思います。これもなかなか難
 しい問題だと思います。非常に相対的な問題だからです。

 どういったスパーンで、当時の情勢を見るかそこがポイン
 トだと思います。

 資本主義、帝国主義を社会の発展形態としてその経過は必
 然だからしかたがなかったんだ言えば、当時の日本は、大
 国の身勝手な自国中心主義の犠牲になったわけで、日本の
 政府もそう言った世界の競争の中、生き残るにはしかたが
 なく、国民のために選択をしたのだと言うでしょう。また、
 ただ単純に人類にとって、こうした資本主義的な発展は必
 然なのだから、資本主義的な競争原理の秩序を乱した日本
 は、資本主義陣営にとって不利益な存在であり、その方法
 は、仲間の秩序を乱す勝手者という見方もあるでしょう。
 ということは、人類にとって、資本主義的な発展は有効な
 のかどうかという視点まで広がってしまうので、あえてこ
 こでは、広げて話しをすることはしません。
 むしろ、国民とか日本人一人、一人がどう考えるかという
 点、すなわち、社会の構成員は、人間一人、一人であると
 言う原子論的な立場に立って考えてみたいと思います。

 ここでの考え方のヒントとして、よいか悪いかはまだわか
 りませんが、一つの例として、ナチスドイツの場合を出し
 ましょう。ドイツは、第1次世界大戦後、ワイマール憲法
 と言う、当時としては、非常に民主的だといわれた憲法の
 元、社会復興を目指していました。しかしながら、いろい
 ろ経過はありましたが、結果として、ナチス党を1932
 年の総選挙で第1党にします。その後の流れは、皆さんも
 よく知っての通りです。この事実は、戦後のドイツを長い
 間苦しめます。国民が選挙の結果として、ナチスをヒット
 ラーを信任した結果引き起こした大戦という位置づけにな
 ったのです。

 戦後、国民一人、一人が戦争を引き起こした責任というこ
 とを問われることになったのです。ただし、ここで知って
 おいてもらいたいことがあります。それは、旧ドイツの人
 たち全員がこの問題をきちんと考えなくてはいけなくなっ
 たのは、東西統一後です。それまでは、旧西ドイツの人た
 ちが中心となってこの問題を考えてきています。旧東ドイ
 ツでは、国の体制が社会主義になってしまったために、歴
 史観がリセットされてしまい全体主義に勝利をした側とし
 て、東ドイツを組み込んだので、戦争責任に対する考えが
 西ドイツほど進んでいませんでした。そう言う意味では、
 本当のドイツの戦後は、統一後と言うことになるかもしれ
 ません。ともかく、戦後の旧西ドイツでは、国民一人、一
 人が、戦争責任をどう取るのかということが問われる事態
 となったわけです。

【12月7日】
 一昨日の山歩きがたたりまして、体中がいたみます。
 日本の風呂に入りたいのでした。
 こちらでは、多くの場合がシャワーが中心でして、バス
 タブはついているときもあるのですが、日本の湯船のよ
 うに、ゆっくりつかるという感じではなく、浅めの湯船
 の中で波打ち際みたいな状況になってしまうのです。
 ああ、ゆっくり肩までつかってみたい。
 昨日からは、カッセルから移動してその隣の町のゲッチ
 ンゲンに滞在をしています。街の中にある民宿のような
 ところ、といっても小さなホテルのような感じですが、
 ふつうの家で部屋数が多いような宿に滞在しています。
 一つ、一つの部屋は、まるで自分の部屋のような感じで
 す。
【旅日記】
 ポーランドとドイツの間は、様々な交通路で結ばれてい
 ます。国と国が陸続きで続いている感じは、回りが海で
 囲まれている日本ではなかなかイメージができないもの
 だと思います。いくつかの選択肢の中から、ここ数年の
 私たちは、鉄道で国境を越えることにしています。
 鉄道での出入国を経験したいということと同時に、飛行
 機などでは、見ることのできない地上での変化を実際の
 目でみたり、地元の人たちと、じかに交流ができたりす
 る楽しみがあります。

 ヨーロッパの国々は、各都市間を国際特急が結んでいま
 す。1等、2等という区分けになっていて、個室ごとの
 車両になっています。駅には改札口はなく、窓口で切符
 買い、直接プラットフォームに行きます。日本のように
 一段高くなっているプラットフォームやたいらのままの
 フォームなどいろいろです。個室におちついたころ、車
 掌さんが検札にやってきます。車掌さんはどこの国でも、
 とてもフレンドリーです。みな、口々にこんにちわは、
 日本語でどう言うのだとかいろいろ質問をしていったり
 します。日本で同じみの車内販売は、ポーランド国鉄の
 場合は、すらっとしたお姉さんが、ガラガラを引いてや
 ってきます。ドイツDBの場合は、車掌さんがオーダー
 を取って、飲み物などを持ってきてくれます。

 特急車両で一番雰囲気があるところは、やはり食堂車で
 す。日本では、少なくなってしまいましたが、ちょっと
 したレストランの雰囲気の中、移り変わる景色を眺めな
 がらの食事やお茶は、旅に来たことをあらためて実感さ
 せます。

 今回の路線は、まさに北ヨーロッパの大平原の中を突き
 進みます。地平線の向こうまで、麦や牧草の平原が広が
 り、朝早い時間だと、朝靄の中、東の丘の向こうから、
 紫、オレンジ、赤と刻一刻と色を変える太陽が姿を現し
 てきます。平原全体が金色に染まると遠くには、逆光の
 中、教会の塔や打ち果てた古城が黒いシルエットとなっ
 て浮かびあがります。

 白樺の林を通りぬけるとき、運がよければ、近くを鹿の
 群れが並走するときもあります。踏み切りのそばの家で
 は、子どもたちが、走る列車に向かって、ちぎれんばか
 りに手をふります。

 国境が近づいてくるとその手前の駅で、審査官が乗り込
 んできます。初めにポーランドの審査官が、おもおもし
 い装備をして、審査にきます。一人、一人のパスポート
 をコンピュータの端末で確認をしていきます。終わると
 汽車のマークの入った検印をガシャンと打って終了です。

 ポーランドとドイツの国境は、河で区切られています。
 10数年前では、この国境を越えるというか西側の人間
 が、このルートを通ることは、不可能に近かったと言い
 ます。よほどの人間でないと通行ができなかった国境で
 す。今は、一旅行者である私たちも自由に行き来ができ
 るのです。自由に移動できる平和がここにあります。
 河を越えるとドイツの審査官が今度は入国の審査にやっ
 てきます。ポーランドの審査官にくらべるとラフな感じ
 で、あっさりとOKがでます。

 ドイツに入ると車窓が、だいぶ変わります。以前は、ま
 だ、旧東ドイツの雰囲気がだいぶ残っていましたが、年
 々、西ドイツのような雰囲気に変わってきています。
 街づたいに特急は走る続けます。一層大きな大都会に入
 るとそこがベルリンです。まったくもって大都会です。

【ピーストラベラー】
 旧西ドイツの人たちは、個々が自分たちの戦争責任とい
 うことに対して向き合わなくてはいけなくなりました。

 若い世代の人たちの間では、何で自分たちの親の世代が
 犯した過ちに対して、自分のたちの世代まで責任が問わ
 れるのだといぶかった者たちも多くいたそうです。
 しかしながら、最終的には、親たちの世代の過ちについ
 ても自分たち若い世代もドイツ人として引き継いで、責
 任を果たしていかなければならないとしたそうです。

 ドイツの人たちが最初の行ったことは、近隣の国に対す
 る加害者としての意識の確認でした。自分たちが、近隣
 の国や他の民族の人たちに対してどのような迷惑をかけ
 たか、そして、そのことに対してどういった謝罪をすべ
 きかという活動でした。一つの例としては、大戦の歴史
 からもわかったかと思いますが、隣の国であり一番干渉
 をしたポーランドに対しては、ドイツとポーランドでは、
 同じ歴史認識を持った社会の教科書をつくり使うことを
 実践したりしました。

 ヨーロッパの場合、国どうしが陸続きであり、今までの
 歴史の中で、お互いに攻めたり攻められたりという関係
 が多く存在しているので、こうした紛争の解決を合理的
 に処理して、次にいかなくてはいけないという傾向は確
 かにありはします。しかし、少なからずナチスドイツが
 したことに対しては、ドイツという国はその誤りを国民
 一人、一人が認めたところから平和に対する意識がスタ
 ートをしていると思います。そのことが本質としてよい
 か悪いかの分析は、わきに置いておいて。
 

【12月8日】
 早いもので、FWオシフェンチムも大詰めになってきま
 した。昨日は、最後の街であるゲッチンゲンの街をゆっ
 くりと歩いて回りました。
 
 市立博物館や楽器博物館などを見ました。市立博物館に
 は、ナチスドイツ時代の記録などもきちんと残してあり、
 意識の高さを感じました。街に郊外にヒロシマ通りとい
 うのを見つけ、日本とのつながりがどうもありそうです。

 大学付属の楽器博物館は、古楽器を中心に様々な楽器が
 展示をしてあり、たいへん興味がそそられました。中に
 日本の楽器として、三味線、三線、琴、尺八が展示をさ
 れていましたが、確かに文化的には中国の一部ではある
 のですが、中国の楽器の一つのような展示に仕方がして
 あったので、ちょっと残念でした。

 夜は、ドイツの方のコーディネーターのファミリーと交
 流会を開き旅の感想などを話しました。さあ、また、空
 の人となって日本に帰ります。  see you!
【旅日記】
 ベルリンという街は、今やヨーロッパ一の大都会と言っ
 よいと思います。
 しかし、この街の歴史も様々な歴史を抱えています。特
 に第2次世界大戦後の40数年は、西側陣営と東側陣営
 の力の綱引きの最前線として、注目を浴び続けました。
 その一つの象徴的なものが、有名なベルリンの壁という
 ものです。まさにベルリンの町を東西に仕切ったコンク
 リートの壁は、長きにわたり多くの問題を私たちに投げ
 かけました。壁の話しは、戻ってからしたいと思います。

【ピーストラベラー】
 戦争を結果として起こしたときのその国の国民の意識と
 いうものが、勝った国であれ、負けた国であれ、いつし
 かは問われるものであるとうことは話しをしました。

 戦勝国の場合、勝ったが故に、そこらへんの分析が甘く
 なるかとは思います。同じような殺戮を犯していても、
 その行為が英雄的な行為として評価されてしまうことさ
 えあります。そう言う意味では、勝った、負けたという
 立場から戦争責任などを考えるのでは、人類にとって不
 十分な考察だと思います。そこらへんのことももどった
 ら、もう少し深めたいと思います。
 ちょっと尻切れですが、ひとまず。
                アウスビータゼン!

【12月11日】
 外国に行って帰って来る度につくづく日本という国は
 よい国だと思います。
 何と言っても食べ物がおいしいということ。
 これは、人生において非常に重要な要素です。
 様々な食材を食べる。当然、味覚のセンスが磨かれる。
 すると、一つことを多様な視点で見ることができるよ
 うになる。本来、日本人は、分析力の鋭い人たちであ
 ったはずと思います。

 西洋化が全て悪いとは言いませんが、悪いところまで
 真似をする必要はないと思うのですが、いかがでしょ
 う。
【今日の1日】
 8時間半の時差は、いかんともしがたい時差ボケを残
 します。なるべく時計を見ないようにしているのです
 が、突然、眠気が襲います。気を失うような眠気です。
 旅の残務整理や今年中に終えておこうと思っている仕
 事の山にアタックを開始しました。
 でも、突然の眠気、きびしい。
 ともかく、目前にある一つ一つのことを無理なく片付
 けるのみと山を切り崩しています。
【旅日記】
 旅日記そのものは、まだ、ベルリンの着いたばかりの
 ところなので、もう少し続けます。
 ベルリンの街は、今やドイツ連邦共和国の首都として
 機能をしだしています。ドイツの首都だけでなく、E
 Uの中心としての機能も果たそうとしています。
 
 そんな大都会ベルリンですが、第2次世界大戦の敗北
 の後、首都ベルリンは、西側は、米・英・仏の三国が
 管理し、東側は、ソ連が管理をするという形になりま
 した。どうしてそうなったかと言うと冷戦という問題
 がそこにはありました。この西側の国と東側の国の考
 え方の違いは、この後、ベルリンに壁を作るところま
 でいくわけです。

 冷戦と言っても今は、もうなくなってしまったので、
 ピンと来る人も少なくなってしまったと思います。
 少し説明をしておきます。
 西側の国とは、アメリカ、イギリス、フランスなどの
 いわゆる資本主義の国々を指します。それに対して、
 当時、ソビエトや中国を代表とする社会主義国の国々
 を東側と言いました。
 当時風の言い方をすれば、考え方(イデオロギー)の
 違う、2つの陣営が綱引きをしていたとでもいいまし
 ょうか。大戦終了間際ではそう表だった動きはなかっ
 たのですが、全体主義がなくなった後、世界において、
 この二つの陣営の主導権争いが顕著になっていきます。
 大戦後から1960年代にかけては、その争いが世界
 の各地で激化し、ここベルリンにおいても東側からの
 亡命者の窓口になっていた西ベルリンに対して、東側
 は、スパイ活動の防止のためという名目で、1961
 年、東側の手によってコンクリートの壁が作られまし
 た。

 なぜ故に、資本主義と社会主義が、こうした形でいが
 みあわなくてはいけなかったのか、冷静に考えてみま
 すと、本当にイデオロギーの対立だったのか、むしろ、
 そういった仮の対決構図を演出し、ともに利害を確保
 しようとしたのではないかとさえ思えます。しかし、
 こうした対立によって、無益な戦いを強いられた地域
 が数多くありました。朝鮮半島しかり、インドシナ半
 島しかりです。

 こうした構図の中作られたベルリンの壁は、冷戦の終
 焉とともに1989年に打ち壊されました。今では、
 ベルリン市内の中に壁が残っている場所は、ほんの少
 ししかありません。市民の多くもどこに壁があったの
 か、忘れてしまっている人たちも多くなりました。唯
 一壁が残っている場所に地下鉄を乗り継ぎ、行ってみ
 ました。そこは、東側と西側が捕虜などの交換をする
 ために設けていたゲートがあった場所です。チャーリ
 ーポイントと言います。残された監視塔のわきには、
 壁博物館が建設されています。私たちが訪れた日には、
 世界中から来た観光客によって、たいへんにぎわって
 いました。大国間の都合でいくら壁を作っての人の心
 までは縛ることができなかった一つの証明の場所とし
 ておおいに活躍をしています。平和のコンセプトを学
 ぶのには、とても大事な場所となっています。

【12月12日】
【旅日記】
 昨日は、ベルリンの壁について書きました。
 西側、東側諸国の対立による冷戦の結果、壁が作られた
 と言いました。西側(資本主義国)、東側(旧社会主義
 国)。この二つの体制がなぜゆえに対立をしたのか。

 資本主義と社会主義ということについて少々説明が必要
 かとは思います。詳しいことは各自で学習してもらうと
 して、この二つの社会に対する考え方の特徴点は、資本
 主義は、自由競争を原則とした利潤追求方の社会。社会
 主義は、原則的に国などが統制をして計画的に経済活動
 などを進めていく体制です。

 この両方の考え方、一長一短あるので、どちらが正しく
 てどちらが間違っているという言い方は難しいと思いま
 す。産業革命以降の資本主義の発展の結果、帝国主義や
 植民地政策、現代であれば環境破壊などを生んできてい
 るわけですから悪い部分も目立ちますし、旧社会主義に
 おいてもソビエトの崩壊などからわかるように、大衆の
 心をつかむまではいかなかったようです。

 また、別の考え方としては、資本主義と社会主義は、も
 ともと対立するものではなく、一つの直線上にあり、資
 本主義のより発展したかたちが社会主義であるという見
 方もできます。現在でも進んだ資本主義の国では、年金
 制度や健康保険など福祉や教育と言う分野などでより社
 会主義的な政策がとられています。

 最近、わかってきたことは、当時の冷戦構造に関して言
 えば、ふつうに考えればあたり前と言えば、あたり前な
 のですが、資本主義、社会主義の対立と言うよりは、世
 界の大国というか二つのグループが、そのグループの利
 権などの利害を守るための、まあ、言ってみれば縄張り
 争いのようなものだったということです。お互いのグル
 ープの結束を強めるには、お互いの敵愾心というか、敵
 をつくった方が話しがわかりやすいということだったん
 だと思います。

 その二つのグループの敵愾心がぶつかり合う最前線が、
 ベルリンの壁だったのです。

【12月13日】
【旅日記】
 今やEUの中心地として整備されつつある大都会ベル
 リンを後にして、ドイツが世界に誇るICEという新
 幹線に乗って一路、ドイツ中部の街、カッセルをめざ
 しました。カッセルならびに隣のゲッチンゲンの街は
 以前にも紹介をしたようにドイツメルヘン街道の入り
 口の街です。グリム童話発祥の地として有名です。
 
 途中、ICEは、北ドイツの大平原を弾丸のように突
 き進みます。最初の2時間ぐらいは、昔東ドイツと呼
 ばれた地域です。残りは西ドイツの地域です。この大
 平原の中、冷戦当時は、国境を境にして、両陣営の機
 械化部隊やミサイル基地が互いに核弾頭付きミサイル
 をつきあわせていたそうです。
 力対力の奇妙なバランスの中、見せかけの平和が維持
 されていたわけです。

 定刻通り、1分の狂いもなくICEは、目的の駅に滑
 り込みました。ドイツの鉄道は、日本の鉄道に負けず
 劣らず、実に時間に正確です。時刻表通りの運行です。
 
 カッセルの街は、人口約20万人ほどの中部の中都市
 です。大都会ベルリンから移動してきた私たちにとっ
 ては、街の広さが把握できるくらいのちょうどよい規
 模でへんに安心するのでした。

【12月14日】
【旅日記】
 ドイツ中部の都市、カッセル市とその隣のゲッチンゲン
 市は、現代芸術の街、大学の街として、ドイツ内で有名
 です。今回の旅では、ゲッチンゲンの街の中にある小さ
 なホテルに腰を据えて、街およびその周辺を歩くという
 作戦を立てました。新幹線や飛行機で移動をしていると
 広範囲に有名なところを観るということはできますが、
 なかなかそこに住んでいる人たちの息づかいまで聞くこ
 とはできません。特に風でのフィールドワークの目的の
 一つとして、生活者の視点から物を観るということがあ
 ります。そこに住んでいる人と同じような目線で、その
 場所を見るということは私たちフィールドワーカーにと
 ってはとても重要なことです。

 街の人たちが乗っている市電に乗り、街の食堂で飯を食
 い、街の雑貨屋で買い物をする。こうした日常における
 何気ない動きが新たな発見を呼びます。

 例えば、今回、ゲッチンゲンで訪れた2つの博物館は、
 新しい発見をさせてくれました。一つは、ゲッチンゲン
 市の市立博物館に入ったときです。以前、カッセル市の
 市立博物館に入ったとき感じことなのですが、市の歴史
 を展示してあるコーナーにおいて、当然、ナチス時代の
 コーナーがあるわけですが、あまり大きく扱っていなか
 ったのです。しかし、ゲッチンゲン市の市立博物館の歴
 史のコーナーでは、かなり大きくナチス時代のことを扱
 い、かつ、ユダヤ人のことについても一つのコーナーを
 有していました。市によってのこの違いは何でであろう
 と強く思いました。もう少し、ナチスの時代のこと、各
 街の歴史などを掘り下げて調べる必要があると感じまし
 た。そして、大学付属の楽器博物館に行ったときは、休
 館日だったのに見学をさせてくれたのはうれしかったの
 ですが、アジアの楽器のコーナーで、中国の楽器の中に
 日本の楽器が含まれていたこと、琉球の三線が中国にな
 っていたことを発見し、ドイツから日本を見たとき、そ
 んな見方ばかりではないとは思いますが、やはり、中国
 文化圏の一部の日本という見方が学術レベルであるのか
 と思いました。21世紀に日本の価値というものを知っ
 てもらうことの大事さがあるような気がしました。

【12月15日】
【旅日記】
 12月のヨーロッパ、特にクリスチャンが多いドイツで
 は、1年の中でもやはり特別な月と言えるでしょう。
 いつもなら、だだ広い街の広場も、いたるところに露天
 の店がたちならび、クリスマス商品をはじめ、日常雑貨
 品など所狭しとならべられています。12月に入ると毎
 日のように、クリスマス開始の日だとか子どもにプレゼ
 ントをあげる日だとかというようにクリスマスイベント
 の日がつづきます。

 このように生活の一部としてキリスト教的な生活習慣が
 根付いているヨーロッパにおいては、社会の物の考え方
 の土台においてもこうした考え方を無視することはでき
 ないと思います。その昔、まさに、ここドイツで起きた
 30年戦争のとき、デカルトさんが、「方法序説」を唱
 え、宗教と科学の分離をすすめましたが、生活の中に染
 み込んだ宗教観までは、無くなりはしませんでした。

 ドイツの街には多くの教会があります。日曜日ともなる
 と大勢の街の人たちが礼拝に訪れています。最近の若い
 人たちの間では、形だけの教徒もだいぶ増えたそうです
 が、年輩の方々を中心にその習慣は、息長くつづいてい
 ます。

 カッセルの街は、そんなクリスマスの露天が立ちならぶ
 ダウンタウンには、いくつかのデパートや商店が軒を連
 ね、メインストリートには、おしゃれな市電が走ってい
 ます。街の中の移動であれば、この市電に乗ればだいた
 いのところに行くことができます。デパートなどは、日
 本と同じようにクリスマス商戦のまっただ中で、いろい
 ろな品物のセールをやっています。公共の乗り物などの
 料金は、日本に比べだいぶ安いですが、他の物の相場は
 だいたい日本と同じぐらいです。食べ物は、値段的には
 日本とあまり変わりませんが、量はだいぶ多いです。日
 本の大盛りぐらいです。さすが、ハム、ソーセージの国
 だけあって肉類の種類は豊富です。
 料理の仕方は、ハムなどをそのまま食べる他、そうした
 肉類をシチューのようにしたり、クリームソースでから
 めたりした形式が多いです。魚は、当然のように日本に
 比べたらその消費はだいぶ少ないようで、街の中にも魚
 屋さんは、あまりありません。でも、最近では魚のフラ
 イやシーフードサラダを食べさせるファーストフードが
 すごい勢いで伸びているそうです。カッセルの街にもそ
 のお店があり、魚とライスが食べたくなると私もそこに
 立ち寄るのですが、年輩の方々を中心にしていつもにぎ
 わっています。野菜類は、あまり生で食べる習慣は無さ
 そうで、ふつうは、茹でてあったりスープに入っていた
 りします。取れなくはないと思うのですが、生野菜は体
 が冷えるからだめなのでしょうか。

 あと、食料で圧巻なのは、主食のパンです。パンは、す
 ごく多くの種類があり、この旅でも同じパンは2度は食
 べなかったような気がします。食パンのようなものあり、
 フランスパンのようなものあり、クロワッサンのような
 ものありと。中でも私のお気に入りは、先日も書きまし
 たようにゴマ入りの黒パンです。

 街には、当然のようにドイツ家庭料理のレストランの他
 に、イタリアン、中華、なぜか多いのはトルコ料理店な
 どがります。戦後のドイツでは、ナチス時代の選民思想
 を反省し、多くの移民を受け入れてきました。その結果、
 様々な国の人が生活をしています。そのせいで、レスト
 ランもいろいろな国のレストランがあります。日本食レ
 ストランは、まだまだ高級レストランのようです。

【12月18日】
【旅日記】
 ようやっと旅日記も最後になりました。
 私たちが最後に滞在をした町は、カッセルのすぐ隣の
 町であるゲッチンゲンという町です。ここには、その
 昔、ヨーロッパ三大数学大学と言われた大学の一つで
 あるゲッチンゲン大学があります。明治維新まもなく
 の頃は、日本から何名もの国費留学生がこの町を訪れ
 ていたそうです。また、あのグリムさんが先生をして
 いた大学でもあります。大学を中心にした若者の多い
 町です。

 ここでは、小さな民宿のような宿を借りまして、各自
 が自由に町周辺を歩くことにしました。
 ドイツの町で気がつくことは、町の中にゴミが落ちて
 いないということです。

 町のいたる所に分別ゴミのボックスがあります。今や、
 ドイツは、ヨーロッパの中でも環境国としての地位を
 確立しています。つい先だっても近い将来には、原子
 力発電所を全廃すると国が発表していました。しかし、
 これは、現地ドイツでも大方の意見として少々無理が
 あるんじゃないのかという声も出ていました。ただ、
 代替エネルギーに関しては、かなり本気でいろいろな
 ものを試しているようです。中でも風力は、来る度に
 風車の数が多くなっているのは確かです。でも風力だ
 けでは、足りないので他の方法もだいぶ検討されてい
 るそうです。現実的には、足りなくなって分はフラン
 スから買うという話しもあったりして、まだ、不確実
 な要素が多そうです。

 今回の旅をしていて、気になったことがあります。そ
 れは国の規模ということです。例えば、1997年の
 統計を紹介しますと、我が国、日本は、人口12,5
 64万人面積378千平方キロメートル、ポーランド
 人口3,865万人面積323千平方キロメートル、
 ドイツ人口8,207万人面積357千平方キロメー
 トル、フランス人口5,861万人面積552千平方
 キロメートルという具合です。いわゆるEUに参加を
 しているヨーロッパの国の中では、ドイツは一番人口
 の多い国になります。二番手のフランスは約6000
 万人ぐらいです。やはりこれは、一つのグループの中
 においては、数が多いということは発言権を持つとい
 うことなのではないかと思ったのです。ここにドイツ
 の矛盾と合理性が潜んでいるような気がしました。

 矛盾とは、ナチスドイツの負の遺産です。ナチスドイ
 ツのヨーロッパで一番になると言う野心によって、引
 き起こされた第2次世界大戦、一番になると言う野心
 を持ってはいけないこと。でも、EUの中では、一番
 人口も多く、自国の経済的な地位をヨーロッパの中で
 確保していくには、ある程度のリーダーシップも発揮
 しないといけない。そのためには、早急に過去の負の
 遺産を清算しなくてはいけない。そして、EUの中で
 リーダー国になる。

 ドイツの人たちは、やはり皆勤勉です。朝も早くから
 働き、時間にも正確です。よい例が列車です。日本の
 列車と同じように数分の狂いもなく時刻表通りに運行
 されています。戦後ドイツの人たちは、周辺の国々に
 対して、いかにしてもう迷惑をかけずに経済的にも発
 展をするのかという相反する課題を克服するために懸
 命に努力をしてきました。独企業が海外に進出するとき
 は、自国内よりきびしい環境規制をかけたり、他の国
 の人の移民を積極的に受け入れたりなどして。こうし
 た動きは、国民一人一人が戦争加害者としての意識が
 なければできないことです。

 われわれがアウシュビッツに行ってきたと言えば、そ
 れはよいことだと返事がかえってきます。中国、朝鮮
 で日本が行ったことを勉強してきたと外国人が言った
 とき、それはよいことだと何人の日本人が言えるでし
 ょうか。ある側面、日本人は、アジアの中で加害者で
 あったという事実は消すことはできないと思うのです。
 
 ドイツという国は、21世紀において、否応なしにヨ
 ーロッパのリーダー国となる宿命をおっているような
 気がします。そう言った役割の自覚の中、ある意味、
 経済的合理性なのかもしれませんが、過去に行った過
 ちを繰り返さない意味も含め、他国がやらない課題の
 多い問題などにも積極的に関わっているような印象を
 受けました。

 ドイツのことに対してももっと、もっと踏み込んだフ
 ィールドワークをしていきたいと思っています。ドイ
 ツの若者たちと協同のプロジェクトでもできたらいい
 ななどと思っています。よい提案がある人はドンドン
 言ってきてください。来年のFWに積極的に組み込ん
 でいきたいと思っています。

           では、今年はこのへんで。
            再びアウスビータゼン。
            ダンケ シェン!