フィールドワーク「オシフェンチム2001」(アウシュビッツ)−1
Daily Kan’s(現地報告)
【第1日目】
私たちを乗せた飛行機は、いつもよりは警備がきびしい成田空港を無事に飛び立ちました。成田からドイツフランクフルトまでの時間は約11時間30分、フランクフルトから飛行機を乗り継いで、前半の目的地であるポーランドの古都クラクフまで約1時間30分です。合計で正味、約13時間の空の旅です。

この時期のヨーロッパ行きの飛行機は、季節的には観光オフシーズンなので、すいている時期ではありますが、今回のテロ事件の影響でしょうか、いつもよりさらにすいていまして、結果として、一人、一列のような状況でした。まあ、旅人としては、いつもよりゆったりとした環境だったので、飛行機にもかかわらず、長距離フェリーの2等客室という感 じで、ゴロゴロした感じの空の旅でした。

このところ旅慣れてきたせいか、13時間の空の旅といってもペース配分がわかっているだけにさほど長旅という感覚はありません。ご飯を食べて、映画を観て、本を読んで、書類を書いて、少々寝ている間にもうドイツです。ドイツフランクフルトマイン空港は、ドイツ国内のみならず、ヨーロッパ全体の表玄関になっています。ここを経由して、ヨーロッパの各地に飛行機網が広がっています。ある意味、EUの玄関口と言えると思います。広く近代化された空港は、未来都市を思わせます。ここからさらにポーランド航空に乗り換えて、ポーランドの古都であるクラクフという街に向かいます。

いつも来る道なので、慣れた流れで搭乗手続きなどをやるわけなのですが、慣れからくる油断はよくないと気を引き締めて、テキパキと動きました。とは言うものの知ると知らないでは、こと外国においては緊張感が違います。無事にその日の夜8時には、クラクフに着くことができました。その日の夜といってももう既に13時間が経っているので、感覚的には、昼に出て、夜に着いたという感じなのですが、1日近く経っているわけです。1 日得をしたという感じです。浦島太郎的ではありますが。

クラクフ空港では、旧知の現地日本人である中谷さんが我々を待ち構えていてくれました。タクシーに分乗して、今日の泊まりであるホテルへと向かいました。今年もまだ、クラクフには雪もなく、おだやかな気候そうでした。ホテルに着いた我々は、ホテルのレストランで、ヘルバータとジュエクで軽く休息をし明日からの行動に備え、早く寝ました。日本時間、21日の未明ということになります。日本との時差は、日本からだとマイナス8時間。ポーランドからだと+8時間ということになります。

ポーランドコメンタリー
【ヤギェウォ王朝】
1386年から1572年まで続いたポーランド史上最大級の王朝です。

10世紀の後半、オーデル川の東に住んでいたスラブ民族の一つであったポラニェ族が、ピャスト家のミェシュコT世(在位960頃〜992年)によって統一され、ポーランドの大もとが創られたと言われています。当時、直ぐ隣国の地域においては、神聖ローマ帝国が、キリスト教化とともにその勢力を増加させていました。そのためいち早く、対抗的な基盤を作ろうとした、ミェシュコT世は、ボヘミア王の娘と結婚をし、神聖ローマ帝国の影響の強いフランク教会による洗礼を避け、ローマ教会から直接洗礼を受けます。時は、966年です。この年がポーランドがキリスト教を受容した公的な年となっています。その後、カジミェシュV世大王(在位1333〜1370年)のとき、首都クラクフには、ヤギェウォ大学の前身であるクラクフ大学なども設立され、ポーランド中央政府の原型を形作ったと言われています。


王位継承問題などを経て、ポーランド王女ヤドヴィガは、当時共通の敵であったドイツ騎士団に対抗する意味もあり、キリスト教の洗礼を受けた、リトアニア大公国大公であったヤギェウォと結婚をし、国王に即位しました。(在位1386〜1434年)ここに中世の大国であったヤギェウォ王朝ポーランドが誕生したのです。合同をはたしたポーランド=リトアニアは、当面の敵であったドイツ騎士団を退け、北はバルト海から南は黒海、西はアドリア海から東はモスクワ近くまで達する広大な領域を支配下に持つ国家になったのです。   つづく

フィールドワーク「オシフェンチム2001」(アウシュビッツ)−2
Daily Kan’s(現地報告)
【第2日目】
本日は、クラクフの街を視察しました。クラクフの街は、ポーランドの歴代の王様が眠るヴァベル城を中心とした城下町です。14世紀から16世紀にかけてポーランドの首都として栄えました。今日は、午前中にその繁栄を支えた特産物の一つである岩塩の産地「ヴィエリチカ岩塩採掘所」に行きました。この岩塩採掘所は、1000年以上にわたり岩塩を採掘し続けています。そんなに長く採掘した結果として、この街の地下には、何百キロメートルにわたる坑道が走ることとなり、岩塩の需要が、少なくなった今では、その坑内を歩いて見学できるようなコースになっています。

そんな坑道のまったくもって一部である観光コースを回るだけで、約2時間ほどかかります。実際の採掘現場の再現をはじめ、広く広がった坑内には、教会やポーランドの歴史を再現した岩の彫像など、博物館のような趣向になっています。それにしても300メートル以上の地下坑内にある体育館などは一体誰が使うのかと少々不思議な一面はありましたが、こうした内陸部において、人間の命を維持するのに必要な塩は、貴重な資源であったことを理解させます。

岩塩採掘所を見たあと、私たちは、クラクフの旧市内へともどりました。クラクフの旧市街は、街のシンボルであるヴァベル城をその中心におき、周囲を城壁で囲まれた地域です。城壁と言っても今ではそのほんの一部しか残っていませんが、街に入るところの門を守っている砦のバルバカンは、十分な存在感を今でも醸し出しています。当時の建物が多く残る市街は、石畳の路地が迷路のように張り巡らされ、まさに中世のヨーロッパ都市にタイムスリップしたようです。

クラクフ中央駅を出て、街の中心に向かい歩いていくと大きな広場に出ます。クラクフの中央広場です。広場の真中には、その昔、この周辺でできる織物を一手に売買した織物市場の建物が残っています。
今は、1階がお土産物屋さん街、2階が、国立の美術館となっています。広場を囲むように、聖マリア教会、旧市役所跡などの旧蹟がところ狭しと並んでいます。こうした中世の中央広場を形成した街が現存しているのは、ヨーロッパの中でも、今ではたいへん珍しいことになってしまったそうです。証拠に第2次世界大戦の戦禍から免れたここクラクフの旧市街は、1978年にユネスコの世界遺産に指定されてます。

中央広場を抜けた私たちは、王様登城の道である王の道を通り、一気にヴァベル城を目指しました。ポーランド歴代の王様が眠るここヴァベル城は、その時代、時代の城主が贅のかぎりをつくして築城しただけにみるからに当時のポーランドの栄華がしのばれます。16世紀ごろ、小麦の売買で、一時代を築いたヤギウェ王朝時代の部分は、ルネッサンス、ゴシックの両建築が統合され、不思議な重厚さを生んでいます。ヴァベル城から見下ろすクラクフの街は、その南側をゆったりと流れるヴィスワ河をあわせ、まさに中世の街が、時間の空間の中に浮かんでいるようです。

今一度、広場にもどり、聖マリア教会のラッパでの時の音を聞き、中央ヨーロッパ最古の大学であるヤギェウォ大学本部へ向かいました。かのコペルニクスも卒業したこの大学は、今では、ポーランド屈指の総合大学となっています。本部は、博物館となっており、由緒ある大学の歴史を後世に伝えています。

中世の町の探訪を満喫した私たちは、今日の夜からは、このヤギェウォ大学日本語学科の学生たちの家にホームステイをすることになっています。

ポーランドコメンタリー
【シュラフタ】
東ヨーロッパの地域では、多くの場合、そこに侵入をしてきた外来民族によってその地が統治されました。唯一、自前の支配層を持ち、その地域を統治をしたのがポーランド人であったと言われています。その中心となったのが、このシュラフタと呼ばれている土着の貴族たちです。彼らはもともといた住民たちに対して、明確な距離感を持ち、自らを異民族であると信じていたほどでした。彼らが政治的地位を確立するのは、14世紀ごろです。
                つづく

フィールドワーク「オシフェンチム2001」(アウシュビッツ)−3
DailyKan’s(現地報告)
【第3日目】
本日は、昨夜からホームステイをさせてもらっているヤギェウォ大学の学生たちと大学へ、ちょうど日本から来ていたアイヌ語の研究者である村崎先生の授業を学生といっしょに拝聴させてもらいました。以前から興味のあった北方少数民族の話しが、ここクラクフの大学で聞けるとは、まったくもって奇遇なことです。

実はポーランドとアイヌをはじめとする北方少数民族とは少なからずの縁があります。後に国家元首となるピウスツキという人物がいます。彼の兄弟、兄にブロニスワワ・ビウスツキという人がいました。彼は、1900年代初頭のポーランド独立運動の中、ロシア皇帝暗殺の容疑でシベリアへ流されます。元々、民族学者であった彼は、北方に住む少数民族のことを研究します。彼は研究のみならず、少数民族の自立のために学校などを作り、 献身的な活動します。1906年まで極東に残った彼は、最後の2年間を日本で過ごしました。日本では、北海道アイヌのことを中心に多くの研究成果を残しました。

日本に滞在中彼は、アイヌの女性と家庭を持ち、彼の人生の中でもとても安定をした幸せなときを過ごしたと言われています。彼の子孫は、現在でも日本にいらっしゃいます。ということで、そんなポーランドの研究者と日本との関連のことをクラクフの大学で聞けたのは、本当にラッキーなことでした。

ヤギゥエォ大学の日本語学科の学生たちは、日本語を学習しだいして、まだ2年しか経っていない2年生たちではありましたが、皆、流暢な日本語を話し、日本の先生の授業にもかなり食いついていました。

授業を受けたあとは、もう一度、クラクフの旧市街に出て、クラクフならではの伝統工芸物などを見てまわりました。その後、雨が強く降ってきたので、各自、学生の家へと戻りました。 年に1度の訪問ではありますが、彼らの家に泊めてもらうということは、たいへん勉強になります。リアルタイムでの今のポーランドの若者たちのことや社会の情勢などを生の声として聞くことができるからです。今年の話題は、やはり最近のポーランドの政治的な動向でした。今、ポーランドでは、1989年以降、行われてきた民主化の流れが一つの節目に来ています。というのは、民主化されてすぐの90年代前半は、民主化バブルとでも 言いましょうか、ヨーロッパの他の国と比べて、低いコストと質のよい労働力、技術力などによって、一気に発展をしました。
そうした、動きも一段落した、90年代後半では、一足飛びに西側諸国の仲間入りをめざした政府は、日本でいうところの構造改革を少々荒っぽく遂行します。4大改革と呼ばれたその改革は、「行政改革」「教育改革」「年金改革」「保険制度改革」でした。小さな政府にして、社会主義時代の教育制度をあらため、より資本主義的な人材育成に効果のある制度にし、民間の資金が潤沢に流れるよう年金制度等を変えました。

こうした急激な変化は、ポーランド社会に貧富の差を生じさせました。いわゆるセーフティネットとして考えられたことは、EUへの参加です。すべての規格を世界規格にして競争力をつけ、新しい雇用などを生み出し、失業者などを吸収しようと考えたのです。どこかの国と似た状況ではあります。

しかしながら、急激な資本主義化の痛みを知った国民たちは、もう少しゆっくりでもよいのではないかと考えだしてきています。EUに参加をするためのNATO基準の軍隊の整備や社会主義時代に比べて後退をした社会保障制度などに対して、様々な意見が出されています。

今回の大学生たちと話した中で、やはり彼らが意識をしているのは、失業問題でした。今現在、大卒者をはじめとする若者たちの失業率は、20%を越えているそうです。大学を卒業しても就職できる人は多くないそうです。今、大卒の若者たちは、卒業後は、海外に出て外資系で働くか、国内でベンチャーの新しい仕事を作りだすかなんてことを考えているそうです。一方、国全体としては、何でも欧米化ではなく、ポーランドらしいさを持った社会を時間はかかっても作っていった方がよいのではないかと言う意見も出てきているそうです。そんなことの反映の一つなのかもしれませんが、先日行われた国政選挙では、旧共産党系の流れを持つ、政党が第1党になったそうです。

日本語学科の学生というせいもあるかもしれませんが、日本のことにも興味を持っている人は当然多く、日本が軍隊を持たない国であるということもよく知られています。先日のアフガニスタンの件では、もっと日本らしい貢献の仕方があるのではないかとのことでした。よく見ています。あと、日本と同じように最近のマスコミはあまりよくなく、過度な商業志向に歯止めがかかっていない状況だそうです。おもしろおかしく書くのが主流にな
ってしまっていて、信用おけるニューズが少なくなっているとのことでした。

ポーランドコメンタリー
【ポーランドの選挙王政】
中世におけるポーランドにおいて、特徴的だったことにこの選挙王政というものがあります。1573年以降、全シュラフタによる直接選挙によって国王を選ぶ形をとっていました。シュラフタ民主政と呼ばれたこの制度は、18世紀末まで続きます。この時期、他の国々は、絶対王政であったことを考えるとこうした制度が、この時期に確立されていたことは、画期的なことだったような気がします。
               つづく

フィールドワーク「オシフェンチム2001」(アウシュビッツ)−4
Daily Kan’s(現地報告)
【第4日目】
今年もまた、ポーランドの大学生たちといろいろな話しをしました。彼らは、社会主義のときの教育とその後の教育の両方を経験している世代です。戦前、戦後の日本のように、180度違う教育を経験したのでしょう。彼らの国に対する意識は、どちらかというとまだまだ懐疑的な部分があるような気がします。大学を卒業しても仕事ない現実がある中で、確かに海外の企業などに就職を希望している学生がいる一方で、国に残って何ができるのかを考えている者たちがいるのも事実です。単なる欧米かぶれではないように感じたのは、私だけでしょうか。


学生たちの家でのホームステイもあっという間に終わりが近づきました。最後の日は、午前中は、クラクフにある民族博物館を訪れました。この博物館は、いくつかクラクフにある博物館の中でも私が気に入っている博物館の1つです。中世初期の段階からのポーランド各地の生活様式や民族衣装、伝統工芸などを紹介しています。中でも、私が気に入っているコーナーは、先日のコラムでも紹介をした。日本でいうところの地蔵様のコーナーです。地蔵様と言ったって、何も日本のような地蔵様ではなく、その地にゆかりのある聖人を木彫りにしたものです。


そんな道祖神のような聖人の木彫りが、これまた小さな祠のような箱の中に鎮座をして、街のはずれに安置されています。そうした各地の聖人の木彫り彫像が展示されています。いろいろある彫像の中で、さらに私が気に入っているのは、天使の彫像です。天使なのですが、羽がとれてしまい飛べません。でも、その代わりに大きく広げた手がついています。すべてのものを包みこむような手、寛容を強く物語っています。一日中そこに居て、聖人たちを眺めていたい場所です。


その博物館がある地域は、もとは、クラクフのユダヤ人が多く住む、ゲットーでした。その昔のゲットーは、何も強制収容をされた場所ではなく、中華街のようなユダヤ人街でした。ご存知のとおり、第2次世界大戦後は、ポーランドに住む多くのユダヤ人は、いなくなりました。しかし、今でもこの地区には、再建された東ヨーロッパ最古のユダヤ人教会と墓地が残されています。
民族博物館をあとにして、今日のお別れ会をする会場の中華レストランへと向かいました。今回のホームステイ協力学生たちの他、旧知の学生たちも来てくれて、1年ぶりの再会やら、日本の話しなどでなかなか盛り上がりました。日本語あり、英語あり、中国語あり、ポーランド語ありのまさに国際交流の場となりました。時間は直ぐに過ぎ、お別れの時間になりました。クラクフ駅から、タクシーで、今回の旅、前半最大の目的地であるアウシュビッツのある町、オシフェンチムへと向かいました。何人かの学生たちとは、また近いうちに日本で再会できそうです。

ポーランドコメンタリー
【カトリック教会】
10世紀末に国教となったカトリック教会(ローマ典礼)は、18世紀から20世紀にかけて、苦難な時代を経験してきています。ロシア・プロイセン・オーストリアによる三国分割時代、ナチス・ドイツとスターリン・ソ連の占領下にあった第2次世界大戦中、ソ連型社会主義を押しつけられていた時代、こうした時代の中で、カトリック教会ならびにその聖職者、信徒たちは、非常に厳しい立場に立たされていたそうです。しかし、教会は、こうした苦難な状況の中にあってもその機構と教義、典礼を存続させるため、当時の様々な社会運動の精神的な支えとなるよう努力しながら、その存在を維持し続けていたそうです。結果、89年の民主化と同時に国の政治の一翼を担う勢力の一つとして復活をとげています。

こうしたポーランドカトリック教会の歴史の中で、私がおもしろいなと思ったのは、戦後のソ連の影響下にあった時代です。戦後の領土再編成の結果、国民の90%以上がカトリック教徒の国になったポーランドにおいて、本来、社会主義の政策下では、宗教は邪魔なものになりかねません。しかし、現実から、国民の9割方カトリックであったので、その勢力を無視をして社会主義を押しつけることは、むしろマイナスと判断した同盟国ソ連は、ポーランドにおいてカトリックが存在することを許容しました。カトリック勢力を抱き込むことで政治的にも利用しようとしたふしがあります。しかし、現実には、カトリック勢力などの働きかけによって推進されたポーランドの民主化を押さえつけることはできなかったのです。  つづき

フィールドワーク「オシフェンチム2001」(アウシュビッツ)−5
Daily Kan’s(現地報告)
【第5日目】
今年も1年ぶりのアウシュビッツ訪問です。何度も言うようですが、アウシュビッツという名前は、ナチスドイツが、勝手につけた名称で、オシフェンチムというポーランドのもともとの地名があります。ですから、アウシュビッツは、現在では、ポーランド国立オシフェンチム博物館という名になっています。

現在のオシフェンチムは、ポーランドの重工業の中心都市であるカトビッツの南東、昨日までいたクラクフとの中間ぐらいに位置することから、人口5万人ほどのオシフェンチムの町は、両都市のベットタウンのような感じになっています。オシフェンチムは、その昔から交通の要所として、有名でした。そうした地の利を利用しようとして、ナチスドイツは、ここに収容所を作ったのです。交通の要所であると同時に中心都市からほどよく離れていたこともいろいろな意味で重要でした。

いわゆるナチスドイツの収容所は、ドイツ国内とその周辺の占領国にもいくつも作られました。当初、収容所は、再教育センターと呼ばれ、ナチスドイツの体制に対して反抗する者のたちの収容施設でした。したがって、当初の収容者は、ドイツ人やポーランドのパルチザン、ソビエト兵捕虜などが中心でした。こうした方針が変更というか、より拡大解釈をし強化されたのが、1942年にナチスドイツが行ったヴァーンゼー会議以降であると言われています。この会議は、ヒットラーが中心となって行われていた非公開の会議で、その席上で、ヒットラーが、いわゆるユダヤ人絶滅計画なるものを公言したと言われています。その計画が、彼の側近たちに伝えられたことによって、収容所の性格も急速に変わってきます。ユダヤ人たちを中心とした人間を原料にした資源開発センターのような所へとなっていくのです。

このナチスドイツのユダヤ人に対する政策の特徴はと言いますと、皆さんもご存知の通り、その昔からヨーロッパには反ユダヤ主義というものがはびこっていました。その根底は、ねたみのようなものだと私は思っていますが、当初、ナチスドイツは、ドイツにおいて政権を奪取するための一つのスローガンとして反ユダヤ主義を旗印とします。これは、ヨーロッパの中で、最後に近代化をすすめたドイツという国の歴史が深く関係をしています。

ともかく、ヨーロッパ全体に存在をしていた反ユダヤ主義をうまく自分たちの大義名分として使おうとしていたナチスドイツは、その考えを自分たちのプロパガンタにうまく載せます。


ナチスの反ユダヤ主義と従来あった反ユダヤ主義との決定的な違いは、彼らをナチスドイツにおける、無形、有形の資源として位置づけ、彼らを使い切るという点でした。結果、使いきり彼らの民族が滅亡してもそれはしかたがないとされていました。こうした政策が、具体的な政策として実行にうつされたのが、前述した会議による口頭における命令だったのです。

なぜ、ヒットラーがそこまでユダヤ人を消滅させようとしていたのか、その理由はさだかではありません。このような背景のもと、旧ポーランド軍の兵舎を改造し、本来は、特にポーランド人などを中心とした反体制活動家に対する再教育センターであったアウシュビッツは、ユダヤ人の絶滅センターへとその姿を変えていったのです。


ポーランドコメンタリー
【ポーランドとユダヤ人】
第2次世界大戦以前のヨーロッパにおいて、ユダヤ人が一番多かった国がポーランドという国です。なぜ、ポーランドにユダヤ人が多かったかといいますと、お互いの利害が一致していたということが言えると思います。こうした利害というのは、何もポーランドという国だけでなく、ヨーロッパの各国とユダヤ人たちの間にも似たような関係がありました。

その関係とは、中世のヨーロッパにおいて、その中心国であったポーランドでは、いわゆる社会の商業化が一気に進みます。その結果、今までにない様々な政策的な技術や知識を必要としたのです。当時、キリスト教社会においては、例えばよい労働とされていたのは、農業のような汗をかく仕事でした。そう言う意味において、異端とされていたユダヤ人の人たちは、キリスト教により認定されていない仕事に就くしかなかったのです。今で言えば、ホワイトカラーの仕事とでも言いましょうか、金融業や法律関係や医者のような。当初は、必要とされていないとされたこうした仕事も社会の商業化などが進むにつれ、そうした仕事の必要価値が高まってきます。中世のヨーロッパ社会においていち早く、こうした時代を向かえたポーランドは、彼らの持つ技術や知識や財力に目をつけ、彼らがポーランドに滞在しやすいような、例えば限定付きですが一部市民権や自治権を認めたりと便宜をはかります。かわりに税金を徴収するのですが。

結果、祖国を持たない、ユダヤの民の多くが、ポーランドという国に身をよせるようになるのです。国を持たないユダヤの人々は、原則的にどの時代でも自分たちに寛容である国に対して、一生懸命同化をしようと努力をします。多くの場合、努力の結果、その地において、名声や地位を得ることとなってしまうのです。まあ、このことが多くの場合、その地にもともと住む人たちにねたみを買うこととなってしまうのですが。確かに、ポーランドの場合でもまったく、そうしたねたみが無かったわけではありません。しかしながら、他のヨーロッパの国々に比べれば、自然な同化が一番進んでいた国であったと思います。

それはある意味、先日話しをしましたポーランドの王政が早くから選挙制をとっていたこと、ユダヤの人々が国を持ってなかったがゆえ古くから家族民主主義をとっていたという民主主義つながりということも無縁ではないような気がしています。          つづく

フィールドワーク「オシフェンチム2001」(アウシュビッツ)−6
Daily Kan’s(現地報告)
【第6日目】
ユダヤ人絶滅センターとして機能しだしたアウシュビッツは、旧ポーランド軍兵舎を改修した1号(オシフェンチム)、2号(ブジェンジンカ)、3号(モノヴィツェ)の3つからなります。

今年の訪問は、2号からの訪問となりました。久しぶりに雪のアウシュビッツになりました。宿舎を出て、1号の前を通り、橋をわたると目の前に列車の終点である2号の駅舎兼監視塔が見えてきます。まさに絶望の終点駅です。ここ2号は、絶滅計画が発されたのに合わせたかのように、1941年から建設がはじまりました。面積約175ヘクタールのこの広大な土地に300棟のバラックが建ち、多いときで、10万人近い収容者が収容されていました。その様は、一つのコンビナートのような人工都市であったのです。

ここでの目的は簡単です。ヨーロッパ中から集められたユダヤ人を中心とするロマなどナチスドイツにとって、資源とされた人々が送りこまれ、その持ち物からは有形の資源となるものを、その肉体からは無形の労働力など効率よく剥ぎ取るための処理工場であったわけです。何万人という人々をまるで、ベルトコンベヤに乗った製品のように価値あるものを取り去っていく様は、合理的な工場の何ものでもありませんでした。

ここでの大きな流れは単純です。敷地の中央に乗り入れた列車から収容者たちは、プラットホームへと降ろされます。10数日間のすし詰めの移動により、この時点において、もう既に命を失っていた者も少なくなかったそうです。列車から下ろされた彼らは、労働力になるかならないかをすぐさま選別されました。選別の基準は、肉体的な労働力となるかならないかの1点のみです。したがって、子どもやご婦人は、そくざに非労働力とみなされました。ハンディキャップを持つ方や老人もそうです。

非労働力とみなされた者は、そのままプラットホームの前方にすすみます。そこで、ある建物へと導かれます。そこでは、旅の疲れを取ってくださいとシャワー室へと先導されます。衣服を脱ぎ、シャワー室の蛇口から出てくるのは、チクロンbと言われる猛毒のガスです。部屋の全員が死亡をしたところで、女性の毛髪など資源になりそうなものは取られ、遺体は焼却炉へと運ばれ焼かれます。焼却後さらに焼かれた遺体から金歯など資源になりそうなものは採取され、骨の灰は周辺の原野に撒かれて、おしまいです。

労働力として認められた者たちも何も希望があるわけではありません。使い捨ての労働力として、重労働を課せられるわけです。食事などの環境も最低限です。倒れればそこで、おしまいです。別にそれでかまわないわけです。最終的な目的は、彼らの絶滅ですから。
そんな、絶滅工場、今年は、駅舎の左手にあるレンガ作りであったがゆえ残った子どもたちを収容していた棟からの見学でスタートしました。火の気もないない棟内では、レンガで仕切られた各区画にベットが置かれています。傾いた木の2段ベットには、数の多くの子どもたちが収容されていたそうです。彼らを何も生かそうと思ってそこに収容していたわけではありません。彼らとて、最終的な場所はガス室であったわけです。家族と引き離され、一人死を待つ、いや、死の意味すらわからない子どもたちの不安と悲しみは、想像を絶します。バラックの窓から見える有刺鉄線と監視塔を見て彼らは何を思ったのでしょうか。

ポーランドコメンタリー
【ポーランドとユダヤ人】
いくつかの時代において、ポーランド人とユダヤ人の間の関係は、変化をしていることは否定できないと思います。さらに、他のヨーロッパ諸国と同様、一般的な大衆意識レベルにおいては、いわゆる反ユダヤ主義も根強くはびこっていたことも否定できないと思います。ただ、前回号にも書きましたように、他の国々とは違い、長い期間、いっしょに生活をしていた結果、自然の成り行きとしての同化かが様々なところで進んでいたということです。こうした背景を頭に入れた上で、もう少し時代ごとの関係について、見てみたいと思います。

両者の関係の中で、その連帯が進んだ時期は、ポーランド社会の中で、ユダヤ人の存在が公的なものとして認められようになってきた19世紀前半のころだと思います。それまでの両者の関係は、ヨーロッパ各地におけるステレオ的な関係に近かったと思われます。中世ヨーロッパにおいて、30年戦争などの機に小麦栽培で財をなしたポーランド地主たちは、様々な分野の管理知識と技術を持っていたユダヤ人たちをいわゆる中間管理職として用立てます。ユダヤ人もその要請に対しておおいに応え、地主と小作人たちの圧力に耐えながらも着々と実績を積み上げていきました。特に、戦争などが起きたときの彼らの資金や食料の調達能力は高く、当時のヨーロッパ社会において彼らの力はなくてはならないものになっていったのです。そうしたユダヤ人たちから、税金が徴収できたポーランド支配階級は、自然の成り行きで彼らの地位を認めざを得なくなっていくわけです。

両者ともある一つの層が中心であるとは思いますが、ともかく、利害が一致し共栄共存をしていたポーランド社会において、異変が起きたのは、周辺各国によるポーランドへの干渉です。3回におけるポーランド分割の時代において、両者は外国からの圧力に対して共同をして戦っています。証拠に19世紀に起きた独立のための蜂起の多くにユダヤ人たちが参加をしています。しかし、こうした友好的な時代はその後、ポーランドの独立が遠のいていくと同時に急速に薄らいでいきました。      つづく

フィールドワーク「オシフェンチム2001」(アウシュビッツ)−7
Daily Kan’s(現地報告)
【第7日目】
子どもたちの収容棟を見た私たちは、中央を左右に走る通りを右に折れて、先ほど書いたセレクションをしたプラットホームに出ました。線路は、自分たちの故郷まで続いているのに再びここから列車に乗り帰ることは決してない。

大人たちの多くは、こうした状況にもうすうす感づいていたにもかかわらず、子どもや老人たちを人質のようにとられていたので、大声を出すことすらできなかったそうです。しかし、こうした思いも想像でしかありません。大人たちの大部分が、帰らぬ人となったため生き証人が極端に少ないのです。

私たちは、貨車から降ろされた収容者たちがたどったと同じ流れで歩きだしました。プラットホーム、SSの医者によるセレクション。労働に不適と判断された人たちは、そのまま前に歩きだします。長いホームのはじからさらに、300mぐらい行きますと、道の左右に煙突のあるレンガの建物が見えてきます。今は、敗走していくナチスが証拠隠滅のためにダイナマイトで破壊をしていったためその残がいしか見ることができません。シャワー室と称したガス室と焼却炉です。一度に数百人の人間を処理できたといわれています。2号には、こんな施設が4つありました。

ガス室跡の先には、戦後建てられた慰霊碑があります。ポーランド語、ドイツ語、ヘブライ語、英語等で書かれた石碑には、2度と繰り返してはいけないとの思いが明確に書かれています。石碑を正面にして、道沿いに右の方に折れます。その周辺には、巨大な水道施設やユダヤ人たちから奪った荷物などを類分けして保管をしておいた倉庫群などが建てられていました。常時、4万人以上の人々が暮らすここ2号は、ある意味小さな街と同じで、最低限の生活インフラが必要であったわけです。しかし、実際の設備は、粗末なもので、その能力も低く、数万人の人たちを生活させるには、不十分な施設であったそうです。

倉庫群の先には、中級規模のガス室、そして、ガス室に送られる前の人々が、検査などに使われた通称「サウナ」と呼ばれる施設があります。このサウナは、今年の4月にドイツなどの資金援助を受け、修復再現された展示施設です。修復再現と言っても元あった場所に残っていたものを修復等して再現したものですので、床の素材などはそのままにし、その上のガラスの板を引きつめ保存されています。サウナの中は、まるで流れ作業の工場のように各セクションが、一つの流れの中に配置されています。

こうした施設群からもわかるようにナチスドイツは、アウシュビッツのような収容所をある意味、工場と見立ていたふしはあります。
ユダヤ人という原料を合理的に活用し切るという感覚です。 しかし、ここアウシュビッツを撤退していくときナチスドイツのSS隊員たちは、証拠隠滅のために多くのものを破壊、延焼させていきました。これは、彼らの意識の中にあった罪悪感を意味していると思います。逆の言い方をすれば、工場に送りこまれてくる材料のような扱いをしないとできないようなことをしていたということでしょう。

サウナを出てしばらく歩くと林の中に小池のような所があります。多くの遺灰を沈めた池です。また、その周辺の森の中では、焼却炉では処理しきれなくなった遺体を野焼きにしたそうです。まだまだ奥のある敷地内を先に進んでもきりがないので、ここらへんで向きを変え、正面の方に向かって足を進めます。このエリヤは偽装のために家族の収容者を住まわせたエリヤです。連合軍側に見せるためのデモンストレーション用の収容所から移動させてきた家族を住まわせ、どこへ行っても大丈夫のようなイメージをつくらさせました。

一般道に突き当たったら右に曲がります。ここのエリヤには、木でつくられたバラックの棟が何回もの修復の結果、存在を維持させられ軒を連ねています。土間づくりの粗末な建物、レンガのストーブと木の2段、3段ベット、藁を引いた寝床、時には馬といっしょに生活をさせられた場所もあります。劣悪すぎる環境、同じ人間同士でなぜこんなことができるのでしょうか。戦争とはいえ、その麻痺した感覚は、何が一体管理していたのでしょう。2号を一周した私たちは、昼食をとった後、アウシュビッツ1号へと向かいました。

ポーランドコメンタリー
【ポーランドとユダヤ人】
前回書いたように第2次世界大戦前のポーランド社会において、少なからず反ユダヤ主義が存在をしていたことは否定できないと思います。しかしながら、他の国とは違い、長い間の共同生活において、自然と同化が進み共存をしていたことも事実です。大戦期においては、ユダヤ系のポーランド人は、全人口の約1割を占めるまでになっていました。中には、改宗をしてポーランド人と婚姻したりしている者も多くいました。そうしたポーランド社会において、1939年、ポーランドに侵攻をしたナチスドイツは、祖父母の代までさかのぼって、ユダヤ人絶滅の網をかけました。結果として、多くのユダヤ系ポーランド人が捕らえられ、強制収容所へと送られたのです。そうしたナチスドイツの行いに対して、ポーランドの人々は、抵抗をしました。そこには、ポーランド人、ユダヤ人という線引きはなかったと聞きます。証拠に以前に話しを聞いた、スモーレニ氏は、ポーランド人のパルチザンで活動をした結果、アウシュビッツに捕らえられていたわけです。私の個人的な気持ちとしては、ある意味、ユダヤ人たちと同様に国を追われたポーランドの人たちは、自分たち自身もそうした民族滅亡の危機に接していたにも関わらず、同様の厳しい状況の中、ポーランドに住むユダヤの人たちに対して、少なからずの援助の手を差し出していたことは、とても価値のあったものであると感じています。
                つづく

フィールドワーク「オシフェンチム2001」(アウシュビッツ)−8
Daily Kan’s(現地報告)
【第8日目】
アウシュビッツ1号は、あのよくテレビや映画に出てくる「働けば自由になる」というスローガンの掛かる門がある場所です。今は、当時のレンガ作りの各棟が修復維持をされ、展示棟と管理事務棟として使われ、ポーランド国立オシフェンチム博物館として保存活用されています。

1号の場所には、元々、ポーランド軍の兵舎がありました、その古い兵舎を元にして、改修増設をされ、収容所として使われていました。現在のインフォメーションを通り、私たちは、その門の前に立ちます。現実には、働いても自由になれるどころか、むしろ自由は死を意味していたわけです。門をくぐり、収容所内に足踏み入れます。毎年来ている私にとっては、初めての年に感じたような異様な空気感は、今はもうそうあるわけではありません。かわりに、何か使命感といいますか、日本の沖縄やアジアのベトナムそして、ここポーランドを結びつけている、こうした次元でこれらの空間を見ている唯一の人ということで、各細胞に酸素や栄養分を送りこむ仲介的元素の一人であるような気持ちになります。こうした私たちの動きに対して、いつも目には見えないない国境を越えた何か援助のエネルギーのようなものを感じます。「今年も忘れずによく来たね」という。この感覚は、以前どこかにも書きましたが、沖縄でも、ベトナムでも感ずるその地からわき出てくるメッセージです。やはり何か意味があることなのでしょうか。

ともかく、各収容棟の中で、アウシュビッツ唯一の日本人公認ガイドである中谷氏の説明は、坦々と続きます。彼の話しを毎年聞いていて、本当に感心をするのですが、原則のところはゆらぎなく堅実に話しをし、1年という時間の中で変化をしたところは、変化として率直に話しをする。つまり、いつ聞いても彼の解説は新鮮なのです。これは、ひとえに彼の毎日の努力の積み重ねに違いありません。すごく意味のあることをおごらずえらぶらずに自然体で確実に続けている彼の姿勢には、頭が下がります。こうした日本人がポーランドにも沖縄にもベトナムにもいます。まさに日本の屋台骨を本当の意味で支えている人たちだと思うのです。

いつもの棟を一つ、一つ見たあと、今年の8月にオープンをしたロマの人たちの棟をじっくり見ました。
アウシュビッツと聞くとそこで犠牲になったのはユダヤ人ばかりだと思われがちですが、先にも書きましたようにここに収容された人たちは、ユダヤ人の他にジプシー、ロシア人、チェコ人、ユーゴスラビア人、フランス人、オーストリア人、そして、ポーランド人、ドイツ人と多くの国にわたっています。中でもジプシーと呼ばれていたロマの人たちは、その多くが国籍を持たなかった人たちであったために戦後の追跡調査もままならず、その犠牲者の数は、今だにつかみきれていません。そんなロマの人たちのわずかな跡を新しい棟では紹介をされています。ドイツ在住のロマ出身の方が、資金援助をし建設されたこの館は、視覚的にもとてもよく考え作られていて、ロマの人たちの存在意義を鮮明に描き出しています。

ここまでのフィールドワークにおいて、もう既にいくつかの新しい宿題が出ています。日本の北方少数民族のこと、そして、このロマの人たちのこと、ぜひ皆さんも機会があれば彼らのことを学んでみてください。日本人というものが何であるかよく見えてくると思います。私にとっての原点回帰の一つであるアウシュビウッツ再訪を今年も終え、明日からのボランティアに備えました。

ポーランドコメンタリー
【体制の変換について】
皆さんもよく知っていることとは思いますが、ポーランドという国は、第2次世界大戦後は、東側の国に所属をし、いわゆる社会主義の国でした。その社会主義の国が、1989年より、ポーランド共和国と名称をあらため資本主義の国としてスタートをしたのです。そこで、その移行前夜の話しを少ししたいと思います。こうした、その昔、東側と言われていた社会主義の国々やベルリンの壁が崩壊したきっかけを作ったのは、やはり、当時、ソ連の大統領であったゴルバチョフ氏の宣言であったことは否定できないと思います。彼の宣言を受け、各国の民主勢力が活動を活発化したのだと思います。ただ、歴史が動くときというのは、単純ではなく、そうした要因も含め、当時の市民の意識だとか、社会システムの行き詰まりだとか様々な要因が複合的に絡んでいることも忘れてはいけないと思います。ことポーランドにおいても、特に社会主義体制における経済的な行き詰まりは、限界を越えていて、その解決のためには、社会主義だなんだとイデオロギー的な差異を言っていられるような状況ではなかったわけです。

そんな状況の中、当時の内相であったキシュチャク氏は、状況打開のために、教会関係者、反体制グループをも含めたすべての社会勢力に声をかけ、この局面を乗り切るための円卓会議を開催することを提唱しました。円卓会議という発想がヨーロッパ的ではありますが、実際、この円卓会議は、1989年2月から4月にかけて実施されました。その内容については次回話したいと思います。
               つづく


フィールドワーク「オシフェンチム2001」(アウシュビッツ)−9
Daily Kan’s(現地報告)
【第9日目】
日にちがずれてしまいましたが、6日目は、知り合いのポーランドの方の家に招待され、ポーランドの家庭料理をたらふく食べさせてもらい、大満足の1日でした。子どもたちとの交流もたいへん楽しく、久しぶりの休日を過ごし、旅の疲れを癒し、明日からのエネルギーを充電しました。

明けて、7日目からは、雪の降る中、アウシュビッツでのボランティアが始まりました。今回のオシフェンチムでの宿泊先は、例年とは違い、博物館のすぐそばにあるキリスト教系の団体が運営する話し合いセンターでした。ここも例年利用をしている青少年センターと同じようにアウシュビッツに学習しにくる様々な団体が研修施設として使っています。今回もちょうど、ドイツから教員たちが研修に訪れていました。合間で、こうした各国の教員たちと話しをするのも大切なことです。各自の活動を聞いたりするとおおいに刺激になります。ただ、私たちの活動を説明するのはたいへん骨が折れます。英語などではさらに、ふつうたいへん驚かれます。

今年のボランティアは、先日書きました、新設のロマの棟の掃除でした。今年のボスは、エバさん。2人の息子さんをもう独立させ、ご主人と暮らしていられるこの道8年のベテランの方です。経験済みの作業のため、勝手知ったる掃除の手順で、掲示物のからぶき、床の水ふきといつもの流れで済ませていきます。今年は、新しい棟だった(中だけ)ので、暖房も効いていて、まったく楽チンな作業でした。エバさんの話しによるとよると言っても彼女は、ポーランド語で、私たちは日本語ですからどこまで交流がきちんとできているか、それは????ですけれど、私たちのことは、博物館のどこかで紹介をされているらしく、2年前にあったポーランドの新聞の取材記事なども読まれているようで、へんに名前が知れていて恥ずかしい思いをしました。

急に日本代表みたいな気持ちになってしまうのは、日本人的特性のようです。次の日も続けて、収容者たちの写真が展示をしてある棟の掃除をしました。この写真は、名前や出身、収容された日と収容が終わった日、つまり、死亡した日が記されています。1枚、1枚の写真をふきながら、その日付をみてみると長い人で2ヶ月間くらいです。収容時の写真を見るかぎりでは、健康そうな顔の人も多くいます。そんな人たちがわずか2ヶ月の間に亡くなっていく、そんな環境とは一体どんな環境なんでしょうか。こうして、初期の段階では、虐殺でない証拠として、写真の記録を撮っていたのですが、人数が多くなるとそうした作業は、刺青などで済まされるようになります。

このようにボランティアとは、ある意味、名ばかりで、こうやって私たちは貴重な学習の時間を与えてもらっています。
ちっとも恩返しになっていないボランティアではありますが、毎年、博物館の方々には手厚いもてなしをしていただき、誠に恐縮のきわみです。

そして、今日9日目は、オシフェンチムを後にして、ポーランドの首都であるワルシャワへと移動をする日となりました。オシフェンチムの北西部に位置するポーランド重工業の中心都市であるカトビッツェから、ワルシャワ行きの急行に乗ります。約4時間の列車の旅です。カトビッツェを出発すると列車は直ぐに大平原の中を切り裂くように進みます。ポーランドという名前は平な土地ということから来ていることがよくわかります。こうした平で肥沃な土地は、それゆえ何度も外国からの侵略を受けます。国を奪われても自分たちのアイデンティティーを失わずに再び現在の国を建設していっている不屈さは学ぶところを多く持ちます。

雪原の中をひた走った列車は、夕暮れのワルシャワへとその車体を滑りこませました。大都会の匂いにする日々変化をし続けているポーランドの首都です。

ポーランドコメンタリー
【体制の変換について】
円卓会議では、いくつかの項目について話し合いがされました。言論の自由、自由選挙、司法の独立、上院の新設、大統領制、市場経済、労働組合複数主義、環境保護対策などなどと。こうした国家的な制度の外において、国の運営方針が話し合われ決定をしたことは、周辺の同様な国々に対して、驚きと衝撃を与えました。その後、こうした形態を称して、「フォーラム的革命」などと言われるようになりました。

円卓会議の合意に基づいて、1989年6月に総選挙が実施されました。この選挙では、下院の35%と新しく新設をした上院において自由選挙を認めていましたが、与党であるポーランド統一労働党が従来通り、残りの議席をとり過半数を確保することになっていました。しかし、結果は、予想以上の進展を見せました。自由選挙枠のほぼ全てを改革派の、「連帯」が議席を占め、自由選挙枠において、ポーランド統一労働党は、1議席も獲得することができませんでした。こうした現実は、ポーランド統一労働党の政権統治能力を確実に失わせました。同年7月にヤルゼルスキ氏が大統領に就任し、新首相にキシュチャク氏が指名されるも組閣に失敗し、新たに、「連帯」の顧問であったマゾヴィエツキ氏が首相に着任して、1989年9月、「連帯」系閣僚を中心とした新内閣が承認をされます。ここに東ヨーロッパ初めての非共産党政権が成立したわけです。その後、10月には、経済市場化をめざした、「経済プログラム」の発表、12月には、憲法を改正し、社会主義体制に関する条項を削除、改正などし、国名を新たに、「ポーランド共和国」にしました。

こうした、ある意味、ポーランドらしい変革の形は、その歴史の中にある国王選挙制などの伝統が影響しているのではないかと感じた次第です。
               つづく

フィールドワーク「オシフェンチム2001」(アウシュビッツ)−10
Daily Kan’s(現地報告)
【第10日目】
本日は、ワルシャワの街をあちらこちらと歩き回りました。まずはじめに訪れたのは、街の中心にあるワルシャワ大学、そして、そのはす向かいにある聖十字架教会、十字架教会には、ショパンの心臓が納められています。そこから車で、街の南のはずれにあるワジェンキ公園へ向かいました。ワジェンキ公園は、18世紀にポーランド最後の王となったスタニス・アウグスト・ポニャトフスキが作った夏の宮殿であるワジェンキ宮殿があった所が公園になっています。一時、荒れ果てたワジェンキ宮殿も見事に修復され当時の美しいたたずまいを復元しています。この公園には、夏になると毎日曜日にコンサートが開かれる広場にショパンの像が立っています。ポーランドは、前述のポニャトフスキー王のとき、ロシア・プロイセン・オーストリアの三国によって、国土を分割され地図上からその名を消滅させられます。そうした、なくなってしまった祖国を憂い、再びの独立を願って、ショパンはいくつかの作品を世に出しています。明らかに、そうした目的がはっきりした作品でなくても、ショパンの多くの作品のバックボーンには、ポーランドに広く伝わる、ポーランド民謡の精神が生かされています。彼の生家のそばには、柳の木が多くあったそうです。このショパンの像には、彼の傍らに風のなびく柳の木が揺れています。しなやかに粘り強く、生き延びてきたポーランドの精神を表すかのように。

ワジェンキ公園を出た私たちは、もう1つの夏の宮殿であるヴィラヌフ宮殿は、17世紀末のポーランド王ヤン・V世ソビエスキが建てた夏に利用する宮殿です。バロック様式で建てられた宮殿は、歴代の所有者たちが収集したコレクション等の博物館になっています。収集物や壁紙のデザインなど思った以上に東洋的なものも多く、当時からのアジア地域との交流をしのばせます。

宮殿を出たところから、初めてワルシャワの地下鉄に乗りました。社会主義時代にソビエトの援助で作られた地下鉄は、空間に余裕のある大きなつくりで、ゆったりとした作りでした。駅の作りに比べて、車両は少々クラシカルな感じでしたが、地下鉄の中では、横浜に10年住んでいたという日本語がペラペラな女性に会い、今さらながら世界はせまいと感じたのでした。
地下鉄中央駅で降り、私たちは、ショパン博物館へとむかいました。 当地のショパン協会が運営をしているこの博物館は、ショパンに関係する様々な資料が展示をされています。私としては、外国の地にありながらも祖国ポーランドのことを思い続けていたショパンの思いが伝わってくる価値ある場所となっています。博物館を出た私たちが次に向かったのは、ヴィスワ川ぞいにある旧市街でした。

ポーランドコメンタリー
【ワルシャワ−1】
ワルシャワという街の名を聞いて、どのようなイメージを浮かべますか?歳というか年代によってそのイメージは、いろいろだと思います。私たちの世代で言えば、ワルシャワというかポーランドという名を聞くと直ぐに思い浮かぶのは、映画監督のアンジェイ・ワイダ氏です。彼の作品の流れとして、ワルシャワという街は、印象に深く残っています。中でも彼の平和関係のいくつかの作品群の中の一つである、「地下水道」はまさにワルシャワを舞台とした映画です。この映画のテーマとなっている、「ワルシャワ蜂起」は、ポーランドの歴史の中で忘れてはいけない出来事の一つであると思います。

ワルシャワ蜂起のことを話すには、第二次世界大戦中のポーランドの歴史概略を説明しないといけないと思います。ご存知のように、第二次世界大戦は、1939年のナチス・ドイツ、ポーランド侵攻によって始まりました。実際、侵攻をしたのは、ナチス・ドイツだけではなく、独ソ不可侵条約の秘密協定によって、スターリン・ソビエトが背後から侵入をしてきていました。第一次世界大戦後、ようやっと再独立を果たしたポーランドでしたが、ここにまた2つの国によって国を奪われてしまいます。ナチス・ドイツは、ポーランドを植民地として扱い、労働資源等として搾取の対象としました。一方、ソビエトは、民族的な差別はしませんでしたが、より政治的に自分たちに近いグループを作ろうと政治的な迫害を強要しました。

こうした状況の中、ポーランド国外と国内における動きは、国外においては、戦前の野党を中心としたグループが、国外に亡命政府を作ります。国外に作られた亡命政府は、イギリス、フランス、アメリカなどの承認を得ます。一方、国内の勢力は、微妙なバランスのもとにありました。というのは、前述したようにポーランドに侵攻をしてきたソビエト軍とは、交戦状態にありました。しかし、国外亡命政府を承認した西側諸国は、大戦の優勢を決めるためにソビエトとの同盟関係を望んでいました。結果として、国外亡命政府は、ソビエトと国交を回復します。この間、ソビエトは、ソビエトよりのポーランド政治グループを育てるための工作を活発にします。このようにして、終戦を目前にして、ポーランド国外においては、西側諸国が承認をする亡命政府、国内のソビエトによって解放されつつある地域には、ソビエトよりの準政府のようなものが準備されました。
                  つづく

フィールドワーク「オシフェンチム2001」(アウシュビッツ)−11
Daily Kan’s(現地報告)
【第11日目】
本日は、実際には、次の目的国であるドイツに向かったのですが、前日のワルシャワの報告がまだ残っていますので、その続きを報告します。ヴィスワ河沿いにある旧市街は、スタレ・ミヤストと呼ばれ、中世のワルシャワの町並みが美しく残されています。残されていると言っても、実は、このワルシャワの市街は、その9割方をナチス・ドイツの手によって第2次世界大戦時に破壊されました。戦後、ワルシャワ市民の手によって、壁のひび1つも修復再現された話しは有名です。今では、ワルシャワの旧市街は、1980年にユネスコの世界遺産に指定されています。旧市街の入り口は、王宮広場となっています。旧王宮の前には、1596年に首都をクラクフからワルシャワに移したジグムントV世の像が立っています。旧王宮の前の石畳をさらに街の中心へと歩いていくと石造りの古い建物に囲まれた旧市街市場の広場に出ます。天気のよい日は、露天のお店などが並び観光客などでにぎわいます。

市場広場から、バルバカンという旧市街を守っていた砦あとを抜け、新市街へと抜ける通りは、アンティークを扱うお店などが並び、私もとても好きな通りです。昨年買おうか迷った、ゴールドのライカは、もう今年はありませんでした。その通りの中ほどにポーランドの生んだノーベル賞化学者、キュリー夫人の博物館があります。小さな博物館ですが、手入れが行き届いて、きちんと整理をされている展示物は、ポーランド語だけの解説ですけれども、彼女が科学というものをいかに総合的な学問であると考えていたかということがよく伝わってきます。キュリー夫人博物館を出て、ワルシャワ蜂起記念碑を横に見ながら、ユダヤ人ワルシャワゲットー駅跡地に立つユダヤ人記念碑を見た後、ワルシャワゲットー記念碑の前に立ちました。戦後の社会主義体制の中、物質的には、さほど余裕は無かったと思います。しかし、こうして壊滅したワルシャワ市街を再建し、戦争いう行為の中で起きた非人間的な歴史的出来事を風化させないためにきちんとした記念碑を建てる。歴史や社会に対する真摯な意識をワルシャワ市民の中に見た気がしました。

ポーランド最後の夜は、ポーランドの伝統料理を出すレストランで夕食をとりました。山岳地方出身のオーナーが経営する山小屋風のレストランでは、生のバンドがポーランド民謡をかなで、厳冬のワルシャワではありましたが、なぜか暖かいものを感じたのでした。
明日は、都市間急行に乗り、陸路ドイツに入ります。列車は、分割、戦争の度に揺れ動いた国境地帯を西に向かってつき進みます。     ドビゼニア ポーランド

ポーランドコメンタリー

【ワルシャワ−2】
ソ連軍におけるワルシャワ解放が迫ったかと思われた1944年8月1日、ポーランド国内に留まっていたと言うよりは、ワルシャワ市民を中心とした市民軍は、ワルシャワにおける蜂起を決意しました。これは、祖国を侵略しているドイツ軍に対して、反撃をすると同時に解放のために進軍してくるソ連軍に対して、独立した1つの国として彼らを迎入れるというポーランドという国の存在を主張するための戦いでした。

しかしながら、タイミングは悪すぎました。ドイツ軍は、ワルシャワ近郊において、最後の補強体制を整えつつありました。ソ連軍は、ワルシャワを通過し、さらに南下をめざそうとしていました。さらに、ソ連は、もう既に戦後処理のことを考えていました。西側諸国に所属をしている亡命政府とつながっていると思われるワルシャワ市民軍は、戦後、東側に所属をさせようと思っていたソ連からしてみれば、煙たい存在でした。ここで、その勢力が小さくなってくれれば、戦後処理がスムーズにいくと考えたふしがあります。証拠に、ヴィスワ河に対岸プラガ地区に陣取ったソ連軍は、進撃を停止し、蜂起に行くすえを眺めます。


結果、63日間続いた戦いは、ソ連軍の大きな支援もなくワルシャワの街は、破壊しつくされました。1万8000人の戦闘員と18万人の市民が亡くなりました。このワルシャワ蜂起では、多くの子どもたちも犠牲になりました。当然、子どもたちは、すすんで犠牲になったわけではなく、おとなたちが決定した政策に従っただけでした。そんな子どもたちを戦いへといざなったと言われているのが、「ワルシャワの子どもたち」という歌です。実際のところはどうであったのか私にはわかりませんが、その歌詞の一部を紹介しておきます。

自由の民はいかなる敗北に遭ってもくじけない
勇敢な民はいかなる苦労も恐れない
ともに勝利に向かって邁進しよう
肩を並べて民は立ち上がる
ワルシャワの子どもたちよ、戦おう
どんな小さな通りであっても
首都よ、われらは血を捧げる
ワルシャワの子どもたちよ、戦おう
君に命令が下ったら、敵に怒りをぶつけよう
                   つづく

フィールドワーク「オシフェンチム2001」(アウシュビッツ)−12
Daily Kan’s(現地報告)
【第12日目】
日にち的には昨日になりますが、ワルシャワ中央駅にて、ベルリン行きの都市間急行に乗った私たちは、ポーランドの大地を西に向かって驀進しました。ワルシャワの周辺にあった雪も西に向かうにつれ少なくなり、まだ緑の牧草が残る草原地帯を列車は走ることになりました。列車が走っているポーランド北西部は、歴史的な変遷を経た土地です。主にドイツとの関係の中で、領土が大きく移動した経験を持つ場所です。北部のバルト海と接する地域は、その昔、ドイツの飛び地であった東プロイセンへの通路であったことから、ポーランド回廊と呼ばれた地域です。また、ポーランドとドイツの国境地帯であるオーデル川・ナイセ川線以東は、第二次世界大戦後中のポツダム議定書の暫定的な処理によって、暫定的には、ポーランド領土とされましたが、最終的に確認をされたのは、1990年のドイツ統一後のドイツ政府との「現行国境の確認に関する条約」の締結後となった場所です。

このように、ポーランドの国境は、第二次世界大戦前後で西から東に250km以上も移動させられました。土地が移動するということは、その裏には、そこに住んでいた人たちの生活も移動するということになるわけで、その事実には様々なドラマがあったと思います。ドイツに入ってから、何度か、旧ドイツ領に住んでいたポーランド出身のドイツの方に会う機会がありましたが、皆さんポーランドのことを悪く言う方はいらっしゃいませんでした。そんなところにポーランドとドイツとの歴史認識の相互理解の深さを感じました。

こうしたヨーロッパにおける列車の旅、特に列車による国境を越える旅は、日本では経験できないだけにとても興味深いものです。飛行機などと違い、たえず生活者の視点で交流できるこうした空間はとても貴重です。席を近くしたポーランドやドイツの方々と片言ではあるけれど会話をしたり、食堂車で料理をつつきながら眺める車窓からの景色、大地に沈む夕日などは最高のプレゼントになります。また、車内での出入国の手続きなどはお国柄も出て、ほどよい緊張感の中、次の国に入ったという新鮮な感覚が残ります。

その昔は、そうは簡単には行き来ができなかったであろうポーランドとドイツの国境なども今では、多くのポーランド人、ドイツ人が気軽に行き来をしています。野生の鹿も出る森林地帯を抜け、オーデル川の鉄橋を渡るとあと小1時間で、ドイツの首都ベルリンに着きます。街や建物の作りも心なしか、ポーランドのそれとは変わります。
ポーランドでは、どちらかというと有機的なというかアジア的な臭いが多少残っているのですが、ドイツは、よい意味で無機的なというか質実剛健な気風が漂います。街を走る車も、言わずと知れたドイツ車ばかりです。すっかり陽が落ちたベルリンズー駅に列車は、その車体を滑りこませました。東西ドイツ統一後の再首都であり、EUの中心的な場所ともなろうとしているここベルリンは、想像以上の大都会であり、さらに今もって毎年、毎年その図体を膨張させ続けています。駅を出た私たちは、ベンツのタクシーに乗り、旧東ベルリンの地域にある今日の宿へと向かいました。

ドイツコメンタリー
【ベルリン−1】
ベルリンという都市の名を聞くとその多くの人は、やはり東西ベルリンのことを思い浮かべると思います。その昔、東西ドイツという2つのドイツということに対しても当然、心に引っかかるものがあったのですが、さらにその東ドイツの中の、そのまた一都市でありながら、東西の分けられている都市があるということ、そしてその境目にはコンクリートの壁が存在しているということ子ども心に、一体どうなっているんだと長い間、疑問の一つとして残っていました。

ベルリンという都市をイメージするには、都市に対するある種ヨーロッパ的なイメージをまず作らなくてはいけないと思います。日本の場合、都市というと神奈川県の中の横浜というイメージになります。むしろ、江戸時代や戦国時代の都市のイメージと言った方がわかりやすいのかもしれません。特にドイツの場合、ヨーロッパの中でも最後に国家になったという歴史を持つだけに、各王家が、自分たちの城を中心にして領土を広げていき、その地を都市国家として発展させていったという歴史があります。もともとプロイセン王の首都であったベルリンは、まさにベルリンという町、そのものが国であったわけです。その後、様々な経験を経た、ベルリンという町は、ドイツ連邦の中にある巨大な都市国家としての地位を築いていきます。ドイツの中にあり、ベルリンは、ベルリン=一つの国家という図式を確立してきたのです。

ドイツの中にあり、有数な巨大都市国家の一つであるベルリンは、ドイツが帝国として一つの国として統一されたことにより、連邦、帝国の首都、帝都という称号も手に入れます。ドイツという国にとって、まさに特別な地となったわけです。このことは、ヨーロッパの他の国からみたときも同様であったと思われます。ヨーロッパのという地域の中でも特別な場所、それがベルリンであったのではないかと思います。証拠に1945年、第二次世界大戦後、ポツダム会談により、ベルリンの街は、米、英、仏、ソの連合国側4ヶ国により、分割占領されることとなりました。
                     つづく

フィールドワーク「オシフェンチム2001」(アウシュビッツ)−13
Daily Kan’s(現地報告)
【第13日目】

今日は、ドイツ中部の町であるカッセル市にドイツ新幹線であるICEを使い移動をしました。おそらく最新車両と思われる新型のICEは、旧タイプに比べ、若干席の数を増やしたように感じましたが、それでも座席回りはゆったりしていて、日本の新幹線よりは、居住性は高いと思います。ドイツの鉄道会社DBは、いつものようにまったく正確で、きっちり定刻に到着し、定刻に出発します。途中、旧東ドイツの地域は、昨年よりさらに都市インフラの整備がすすみ、見た限りでは、旧西ドイツ地域の風景と何ら変わらなくなってきています。

昨日は、1日かけベルリンの街を探索しました。早起きをして、旧東ベルリン地域にある宿の近くの地下鉄の駅へと向かいました。ベルリンの街では、地下鉄Uバーン、地上の電車Sバーン、そしてバスと街の中を網の目のように交通網が覆っています。乗車券も全車種共通の1日券や半日券などあり、その日の目的によって使い分ければ、とても便利です。地下鉄を乗り継いで私たちが最初に向かったのは、東西ベルリン時代、東西を行き来するため許された唯一のゲートの1つであったチャリーチェックポイントです。当然、今では、その周辺の壁はなくなり、チェックポイント前後にあった監視塔やゲートもなくなって、あるのは、チャーリーチェックポイント壁博物館と壁の跡を表す線が路上に残っています。

壁博物館は、さすが観光コースの目玉にもなっているようで、ツアーのバスなども続々乗りつけてきます。展示物は、壁に関わる品物や出来事についての記録が展示されています。初めて訪れたころに比べて、確かに展示物などは充実してきているように感ずるのですが、内容的には、西側の体制が正しかったというような雰囲気が強くなっているように感じました。そういう意味では、第二次世界大戦後のドイツというのは、連合軍、特にアメリカに占領をされたわけで、日本と環境はよく似ています。結果として、ドイツも急速にアメリカンナイズされ、アメリカの影響を強く受けたわけなのですが、もしかしたら自分たちが選んでしまったナチスをより強く否定するために日本よりももっとアメリカ化が進んでいたのかもしれません。そう言う意味では、もう少し、東西の事実背景をもとにバランスのよい主張にした方が、今的であると思いました。

展示物を見たあとは、博物館から数分歩いた所にある、現在唯一残っている壁がある場所の一つを訪れました。壁が崩壊してから10数年あまりしか経っていませんが、都市開発の流れの中、壁が現存している場所は、もうほんの数カ所になってしまいました。もう何度も見に来ていますが、何度みても本当に薄っぺらいコンクリートの壁です。西側の経済的な攻撃の前に、こうした物理的な障害を作り防御しなくてはいけなかった東側、大人げないと言えば、両者ともと思いますが、当時の発想としてこうした子どもじみたい応酬しかできなかった事実を次の世代の者たちがきちんと学んでほしいと思います。
壁を見たあとは、博物館のそばに今年作られたユダヤ人博物館を見に行きました。今年作られたベルリンのユダヤ人博物館は、欧州一の規模を持つ、ということは世界最大級ということでしょうか、ユダヤ人の歴史を古代から現代まで展示解説してあります。入り口にあたる建物は、旧ベルリン市博物館です。そこから入り、地下の通路と展示室を抜けて、新しく建てた本館の方へと見学をすすめるようになっています。アメリカでテロ事件があったせいか、厳重な入室チェックのあと中に入りました。各展示室をつなぐ通路は、斜めになっていて歩きづらく、コースはまるで迷路のようになっています。こうした作りは意図してわざと作られているそうです。ユダヤ人の苦難の歴史を表現しているとのことでした。ホロコーストのコーナーは思ったほど大きくありませんでした。むしろ、ユダヤ人の苦難の歴史の中の1つというように坦々と表現されていました。展示解説は、全体的には、ヨーロッパにあるステレオタイプのユダヤ人像も含め、素直に表現し語られているように感じました。こうした立派な博物館がヨーロッパのそれもドイツという国に作られるということは、いろいろな意味を感ぜざるにはいられませんでした。日本にはありませんね。こうした博物館は。

ユダヤ人博物館を出た私たちは、今度はSバーンに乗って、今、ベルリンで注目をされている現代アートのデザイナーたちのブランド家具などを集めたデパート、シュティルヴェルグへと向かいました。ドイツのこうした日常生活品のデザインは、実に質実剛健で、無駄のないシャープなデザインが多いのです。がしかし、最近では、どうやらアジアン風味の有機的なデザインも現れだしているようです。丸井の家具館のような感じでした。

その後、ちょっと遅めの昼食をとり、本日最後の見学場所であるペルガモン博物館へと向かいました。デパートからは距離的に少々離れていたので、タクシーを使いまして、せめて挨拶と行き先ぐらいはドイツ語でとお願いをしたところ、うまく通じました。どうやら運ちゃんは、ドイツ語がわかると思ったらしく、その後、ドイツ語でいろいろと説明をしてくれたのですが、当然のようにまったく解らず、相づちを打つだけの会話となりました。トホホ。

別名博物館の島と呼ばれる「ムゼーウムスインゼル」に、このペルガモン博物館はあります。この博物館で度肝を抜かされるのは、入ってすぐの正面に再建されているこの博物館の名にもなっている古代ギリシャ、ペルガモンの「ゼウスの大祭壇」です。発掘された大理石をそのまま積み上げて再現をしてあるこの祭壇、入ってきた多くの人が息をのんで立ちつくす姿にその凄さがわかります。この祭壇を見ているだけで、小1時間の時間があっと言う間に過ぎ去ります。他にも「ミトレスの市場門」、古代バビロニアの「イシュタール門」「行列通り」など紀元前の巨大遺跡がそのまま再現されています。他の展示物も観て回るとゆうに3時間以上の時間を必要とします。その昔、ベルリンをヨーロッパの3大都市の一つと言ったことがよくわかります。こんな文化遺産をここまで運び込むパワーは、善いにしろ悪いにしろ、相当な力であったことに違いはありません。
久しぶりの大都会にクラクラしながら宿へと戻りました。

                  つづく

フィールドワーク「オシフェンチム2001」(アウシュビッツ)−14
Daily Kan’s(現地報告)
【第14日目】
ドイツ中部では、メルヘン街道の中心街である、カッセル市、ゲッチンゲン市に滞在し、クリスマスの時期のドイツの人たちの生活に触れます。

先に訪れたカッセル市は、グリム兄弟が長く住んでいた町として有名です。もうドイツでは、クリスマス週間に入っており、夕食を食べに出かけたダウンタウンの街は、歩行者天国となったメインストリートのあちらこちらに出店がならび、平日の夜にも関わらず、たいへんな人出となっていました。明けて次の日は、ICEの駅だと一駅ベルリン側にあるゲッチンゲン市の町に移動する前に、カッセル市の西側にあるヴィルヘルムスヘーエ公園に行きました。この公園内には、中世のお城を再現した美術館や宮殿、また山の頂きには、ヘラクレスの像などとその昔のドイツを思い起こさせる源風景がいたる所にあり、公園内を観て歩くだけで1日かかります。市内を走る路面電車(トラム)に乗り、山の頂上にあるヘラクレスの像から街に向かってゆっくりと歩きました。公園内を通り街までと続く道は、市民の散歩道として、きちんと整備されていて、公園の風景や回りの牧草地帯の風景などを見ながら、途中途中にあるベンチやレストランなどで休憩をとりつつ回れるようになっていて、休日には多くの市民のレクリエーションの場として利用されています。

ドイツコメンタリー
【ベルリン−2】
1945年8月のポツダム協定によって、ドイツならびにベルリンの4ヶ国(米・英・仏・ソ連)による分割統治が決まります。この協定の表面的な目的は、ドイツの非ナチ化、軍備の撤廃、経済力の分散、ドイツ人の民主主義教育でした。ドイツ全体の分割統治と同時に、プロイセンの象徴でかつ原動力であったベルリンを機能させない形にすることは、連合国側の安全保障としては不可欠でした。しかし、最終的に4ヶ国に共通してあった思惑は、経済的な保障の確保でした。したがって、当初の各国の最終的な目標は、再統一させるものでした。しかし、時間が経つにつて、そうした思惑のボリュームというかスタイルが少々食い違ってきました。
アメリカ、イギリスは、戦後のドイツを自由主義社会の新しいマーケットと考えていましたし、ソ連は、ナチスによって受けた甚大な被害を大きな賠償保障によって取り返そうと思っていました。また、フランスは、大きな市場というよりは、ヨーロッパの歴史の中で、何度も痛い目に合わされたドイツの復活そのものを根絶させたいと思っていました。そう言う意味では、米、英、ソは、どちらかというと早期の統一をはかり、大きな経済的見返りを期待していた節があります。その早期の統一に対して疑問呈したのが、フランスでした。当時のフランスのドイツに対する敵意は、強く、そう簡単には統一を受け入れる状況ではありませんでした。そうしたフランスの態度に対して、より広い占領区を欲していたソ連は、狭い形での統一占領形態を嫌います。まあ、ある意味、大きな統一を希望していたのは、この時点では、米英よりソ連であったと言えます。

しかし、ある程度の規模の経済的な見返りを強く希望していた米英は、1947年初頭には、仏ソ連を置き去りにして、自分たちの占領区だけの統一を実施します。この背景を理解するためには、この年の3月にアメリカ大統領トルーマンによって発せられた、トルーマン=ドクトリンならびに、それを受けて、その6月にアメリカ国務長官マーシャルによって発表されたマーシャル=プランを知らなくてはいけないと思います。この中身は、簡単にいうとアメリカの市場をソビエトを代表する社会主義陣営にとられないようにするための封じ込め作戦といったところです。こうした米英主導型のドイツ管理方針の結果、ドイツ全体を統一しようと言っていたソビエトは実質排除され、同様に統一そのものに難色をしめしていたフランスの意見も通らせませんでした。最終的には、1948年3月20日に開催中であったドイツ管理4ヶ国理事会において、先の西ヨーロッパ諸国6ヶ国のみの参加で開かれたロンドン会議の西側中心のドイツ管理方針に対する説明をソビエトが求めたところ、西側が応じなかったので、これを理由にソ連代表が退席をします。この後、この4ヶ国理事会は2度と開かれませんでした。

ここにドイツの統治方針をも含めた、世界の冷戦体制が明確になっていったのです。ドイツにおいて、この具体的な形が、この後始まる、「ベルリン封鎖」であり、「ベルリンの壁」となるわけです。

                 つづく

フィールドワーク「オシフェンチム2001」(アウシュビッツ)−15
Daily Kan’s(現地報告)
【第15日目】
昨日の夜、カッセル市からゲッティンゲン市へと移動してきました。ここゲッティンゲンは、古くからヨーロッパ3大数学大学の一つであったゲッティンゲン大学があることで有名です。明治以降、日本からの留学生も多くい、中部の街としては、日本ともなじみの深い街であります。大学を中心とした街は、その周囲をその昔、城壁で囲まれていた中世ドイツの典型的な都市の一つです。

帰国までの数日間を私たちは、このグリム兄弟が教鞭をとったことでも有名なゲッティンゲン大学のあるこの小さな街で過ごします。泊まりは、レンガ色の屋根が続く町並みの中にある、小さな民宿です。昔使っていた民家をそのまま、小さなホテルにしたその民宿は、自家製のパンやジャム、ハムなどで持てなしてくれる朝食が町でも有名な宿です。午前中は、夜露で濡れる石畳の街をコツコツと靴音を響かせながら旧市街の中を歩き回りました。大学の町だけあって、若者たちが多く、とても活気があります。

旧市庁舎前にあるマルクト広場には、がちょう姫リーゼルが立っています。カッセルと同じようにゲッティンゲンの街でもいたる所にクリスマスの出店が出ています。さらに大道芸人たちが街の角でパフォーマンスをくりひろげています。そんな出店の中の一つの軽食屋さんで、焼いた特大ソーセージをはさんだホットドックをほおばり、午後からは、町の郊外にある友人の家へと向かいました。町からアウトバーンを使って、小1時間の小さな村は、牧草地の中に忽然と現れました。村の直ぐ裏手では、大きな風力発電の風車が回っています。今、ドイツでは、反原子力ということで、風力をはじめとする代替エネルギーの開発がさかんに行われています。郊外へ行くと至る所に風力発電の風車が立っています。友人宅に着き一休みしてから、その風車を見に、牧草地の中を横切って向かいました。

見える感じとは違い、実際の距離は、かなりあり、帰るころにはあたりは真っ暗になってしまいました。おまけに雨も降りだし、これは厳しいと思ったところ、隣の村のとあるお宅にお邪魔をして、車で送ってきてもらいました。友人宅では、スイス風の料理をごちそうになり冷えた体がホカホカになりました。友人ご夫妻は、二人とも一度社会に出てから、また、専門職の資格を取るために学校に入り、その資格を生かした仕事に就きなおしています。日本と違い、本人にやる気さえあれば、そうやって、社会人になってからもキャリヤを積み、転職しながら自分のやりたいことをやっていける社会はなかなか魅力的です。しかしながら、現在のドイツは、東西が統一され、東西間の経済的な格差や就業機会格差なども問題とされています。でも、ドイツの人々は、「統一されてたかが10年ではないか、やっと1つのドイツになり、親戚や家族が自由に東西を行き来できるようになった、その平和の方が重要だ」と言います。やはりドイツの人たちにとって真の戦後は、統一によってもたらされたということなのでしょうか。

ドイツコメンタリー
【ベルリン−3(ベルリン封鎖)】
1948年6月にベルリンにおいて、ソ連が実施をしたベルリンの西側占領地区に対する電気・ガスの供給停止、西側からの鉄道・道路・運河の全交通路の遮断のことをベルリン封鎖と言います。

まあ、当然のように、ソ連がここまでのことをやるには、相当の経過と理由があったわけです。ふつう歴史上の何か出来事があったときは、一方的な行動原理で事が起こされることはまれです。中には、独善的な指導者のもと倒錯的な勘違いで事が起こされる場合もありますが、こうした場合はまれです。したがって、このベルリン封鎖においても何もソ連が一方的に行ったわけではなく、西側のアクションに対する東側の対応の1つとして行われたと考える方が自然です。特に、日本などに伝わってくる情報の場合、日本が西側諸国に所属をしているだけに、西側的立場に立った報道しか入ってこないので、その点をさっ引いて情報を吟味する必要はあります。

ことの起こりは、戦後ドイツにおける通貨問題でした。敗戦国であったドイツの本来の通貨は、まったく信用を失っており、通貨としての価値を持てないでいました。早く経済的な活動等を安定させたいと考えていた連合国側は、そのための通貨改革を実施します。その改革の形態は、米・英・仏の3ヵ国が管理をしていた西側とソ連が管理をしていた東側とでは違いました。ドイツの西側だけでも早く経済的に安定をさせ、西側諸国における新しい市場として機能させたかった3ヵ国の思惑は的中しました。西側戦勝国がバックについた通貨改革は、西ドイツの人々に安心感を与えて、新通貨によって取引がされるな否や、豊富な品物が西ドイツ中に出回り出しました。西側ドイツの経済復興の始まりです。このように、早くドイツの西側を西側諸国の経済圏の組み込みたかった、米・英は、先手、先手で経済政策を実施していったわけです。それに対して、ソ連は、絶えず苛立っていたことは容易に想像ができます。

こうした動きの中で、無視できない地域が、このベルリンであったわけです。と言うのも何度も言うようですが、ベルリンは、終戦当時でさえ、1つの州に匹敵するほどの200万人市民を抱える大都市であったわけです。ベルリンを押さえるということは、大きな市場を確保することになるわけです。したがって、ソ連は、ベルリンを東側として吸収したかったし、米・英は、西側経済圏として確保したかったわけです。ですから、早くから西ベルリンは、西側ドイツの動向と連動して動きました。通貨改革のときも同様です。特に西側ドイツにおける通貨改革の成功が伝えられているだけにその恩恵を早く受けたいと西ベルリン市民は考えました。しかし、現実は、西側と東側の両方の通貨が混在しているベルリンでは、思ったような効果が現れませんでした。勢い、西ベルリンの多くの市民が、早く西側経済基準に到達したいとソ連に対して背を向けはじめていました。この事態を重くみたソ連は、ベルリンが西側経済圏に組み込まれてしまうことを防ぐため、東ベルリン側にあった電気、ガス、水道等の公共インフラの提供を断ち、さらに交通手段の通路を遮断したのです。要は、西ベルリンを兵糧責めにして、ベルリンはあくまでも4ヶ国統治であるべきだということを主張したわけです。

こうした封鎖行為そのものは、国際政治や財政政策上からみれば、さほど不思議な対応ではなかったのですが、西ベルリン市民の市民感情は別でした。このことにより、西ベルリン市民の反ソ感情が高まり、西側、特にアメリカに対する期待感は大いに盛り上がったのです。その期待感に対して、アメリカは応え、大規模な空輸作戦で西ベルリンの生活援助をしたのです。この行為は、特に西ベルリンの一般市民において、親米派を増やす一因となったわけです。

1949年5月12日、米ソの長い秘密会議の結果、ベルリン封鎖は終了します。その後、1949年5月には、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が10月には、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立することとなります。こうして、単一の国家として戦後復興するはずのドイツが、経済的、政治的に分裂をされ2つのドイツとして戦後を歩むこととなったわけです。なんか、2つの陣営がお互いに利益が出るようきっかけを自演し、暗黙の了解による和解劇のような気がするのは私だけでしょうか。

                  つづく

フィールドワーク「オシフェンチム2001」(アウシュビッツ)−16
Daily Kan’s(現地報告)
【第16日目】
今日は、ゲッティンゲンの市の博物館を中心にして、街の中をはじからはじまで歩き回りました。博物館の説明によると街は、ゲルマン族の砦の1つとして、14世紀中頃に作られ、その後、町として発展してきたそうです。町に必ずある市の博物館は、どの町に行ってもとても興味深いものがあります。その多くの場合、先土器時代から始まり、近代という流れの解説がなされています。古代の始まりは、どの国のそれと同じように、旧石器時代、土器時代、青銅器時代、鉄器時代とおもしろいようにその変遷は、各国共通です。人類の発想というか行動様式においてそのパターンは、一致をしています。このことは、人類の大元は、いっしょであったのかということを彷彿させます。また、こうしたドイツの各都市の博物館の1つの特徴は、ナチスドイツ時代の説明をどう扱うかという点です。ここゲッティンゲンの博物館では、1957年にゲッティンゲン宣言ということで、ゲッチンゲン大学の先生などが、原子力研究を平和目的だけに利用しようと運動をしたり、新しい市庁舎の前には、広島広場などがあることからもわかるように、平和という問題については高い関心を持っているようです。そうした背景からか、博物館の中にあるナチス時代の解説も他の街のそれより、いくぶん詳しく展示解説されているような気がします。

おりしも、ここ数日のドイツのテレビニューズでは、アフガニスタンにドイツ軍を派遣するのかしないのということが、論議されていました。採決結果として、僅差で派遣することが決まったようですが、日本以上に市民レベルでの運動討議は、さかんに行われているようでした。今回のアフガニスタンへの関与について、ヨーロッパ諸国は、大前提として、あくまでの話し合いによる解決が優先されるべきで、軍事力による解決は、最後の最後だという立場をとっています。しかし、日本などの報道では、そうした前提のことは報道されず、後半のアメリカなどの軍事制裁を支持するといわんばかりのところだけが強調されています。旅人の私が、朝夕のテレビニューズを観ただけでもそうした背景がわかるのに、日本の報道陣たちは、意識的にその点を省いているのでしょうか。ことドイツにおいては、ナチス時代等、近代において、ヨーロッパの他の国に対し、多大な損害を与えたことをとてもよく自覚しています。そのため、そうした損害に報うことは、政策として優先的な課題として常に上がってきます。証拠に例えば、隣国ポーランドとの関係などについては、様々なレベルで、戦後の共通理解を深めるための努力をしています。特に教育的なレベルをとても重視しており、歴史教科書を共に作っていたり、アウシュビッツ等の強制収容所などのへのスタディーツアーなどは、一般化されています。確かに、そうした背景には、ヨーロッパ合理主義などの考え方も見え隠れしはしますが、少なからず国の政策の一環として、こうした姿勢を戦後ながくとり続けていることは、日本も見習うべき点は多くあると思います。

その他、この町の博物館は、陶器やガラスなどの工芸のコーナーなども充実しています。中でも陶器などについては、日本の影響も受けていることなどが解説されていたりして、民間レベルの文化交流パワーは思った以上の力を持っているななどと感心をしました。博物館を出た私たちは、旧城壁跡を歩き、街を一周した後、マルクト広場手前にて、小型の観覧車を発見!。子どもたちに紛れて並び、2回も車上の人になったのでした。木造の準手製のような観覧車は、回る度にギシギシと音を立て、変にスリルがあって、思わず子どもたちといっしょに歓声を上げる始末でした。きっと、子どもたちは変な東洋人の集団と思ったに違いありません。観覧車を堪能した後、一度宿舎へと戻りました。
夜は、ドイツ最後の夜となるので、やはり最後はドイツ料理ということで、旧市庁舎の地下にあるレストランへと向かいました。ドイツの多くの町の場合、旧市役所などの地下には必ず、ドイツ風のレストランがあります。そこでは、その地域の郷土料理をはじめ、伝統的なドイツ料理を食べることができます。中でも、やはりソーセージの盛り合わせなどは、最高の味で、付け合わせのポテトと思わず、大食いをしてしまうのです。

ドイツコメンタリー
【ベルリン−4(ベルリンの壁)】
ベルリンの壁が、作られだしたのは、1961年8月13日でした。いわゆる2つのドイツが成立してから、12年後です。この年月からもわかるように実際に壁が作られるまでにそれ相応の時間が経過しています。ということは、その間に壁などという形では、見ることのできない応酬が、米・英・仏とソ連との間であったことは想像に容易いと思います。したがって本来であれば、そうした特にアメリカとソ連の細かいやり取りについても説明をしないと壁建設の背景が見えてこないと思います。しかし、ここでは、紙面が限られていますので、思いつくことだけをピックアップして紹介することだけにとどめます。

まず、壁を作りという手法について一言、目的はともかく、自分たちの街の回りに壁を作るという行為そのものは、上記のゲッティンゲン市の城壁の例からもわかるように、ヨーロッパにおける都市において、その都市の財産や市民を守るため壁を構築するということはある種一般的な行為であると言えるでしょう。まあ、発想としては、十分に考え得ることの1つであったと思います。

次にこの12年間の間に世界では、朝鮮戦争をはじめとする冷戦の結果のホットウォーが世界のいくつかの場所で吹き出していました。つまり、第2次世界大戦終了間もないころは、具体的な対立としては解りづらかった東西対立構造が、より具体的な形で見えてき定着してきたころだったのです。こうしたバックボーンを背に東西ドイツは、その各占領国の手によって、衛星国としての形を着々と作り上げられていっていました。ある意味、西と東ということで、大きく2つに分けられていた地域では、こうしたお互いの動きが日常の生活の中では見えづらくなっていたので、そうした政策は確実に両地域市民の中に浸透していっていました。こうした構図が簡単にはあてはまらなかったのが、ここベルリンであったのです。

なぜ、あてはまらなかったのかというと、先日の書きましたように、1つの都市であるにも関わらず、その大きさが1つの州に匹敵するほどの都市がゆえに他の地域からは独立させ、連合国4ヶ国が共同統治をすることになったわけです。したがって、ベルリンは、ドイツの中に浮かんだ孤島のような、連合国による無国籍の占領国であったのです。このことは、ドイツ国民の中にあって、唯一、ベルリン市民は、西と東の情報やらシステムやらを共用化できる立場にあったということを意味していたのです。証拠に49年に成立させられた西ドイツでは、西側陣営での役割分担ならびに資本主義型発展などを着々と実施されていきましたし、同様に東ドイツにおいても遅ればせながら模範的ソ連型社会主義化が粛々と進行させられていきました。

こうした状況の中、ソ連はあくまでもベルリンの4ヶ国統治を主張し続けました。壁を作る直前まで、ソ連は、ベルリンを独立させた形の自由都市化を主張します。このソ連の自由都市化提案の最後通牒は、1961年6月にウィーン行われたケネディ=フルシチョフ会談だったと思います。ソ連からの最後の提案に対して、同年の7月25日、ケネディは、放送を通じて、事実上、この提案を蹴ります。この対応に対し、東側が動き出したのです。
                つづく

フィールドワーク「オシフェンチム2001」(アウシュビッツ)−17
Daily Kan’s(現地報告)
【最終日】
長いようで短かったフィールドワークアウシュビッツも今日が最終日となりました。今夜の飛行機で、私たちは日本へ戻ります。

飛行機に乗るまでには、まだだいぶ時間があるので、午前中はゲッティンゲン最後の探索へと向かいました。街の南側にある楽器博物館を訪れました。正式には、ゲッティンゲン大学音楽研究室付属楽器博物館といいます。1200点を越す世界中の楽器が展示されています。私も何度か訪れてはいるのですが、常駐している学芸員の先生は、とても物腰柔らかく、最初に丁寧に全体像について説明してくれます。その後は、各自、じっくり自分のペースで観ることができます。様々な地域の様々な楽器が展示をされているわけなのですが、中でも目を引くのは、やはりアジアの楽器です。ただ、アジアの楽器とは言うもののそのルーツは、中近東の方にあったりしていて、ある地域を中心に同心円状に広がったりしています。広がる過程の中で、その地域ならではの工夫がされ、オリジナルの形になっていったものも少なくありません。そう言う意味では、アジアの中で広がっている多くの楽器がいろいろな共通項を持っています。いくつかある楽器の中でも玄を使ったものや、竹を使用したものは、その弾き方からして似ています。

楽器博物館を見学し、昼食をとった後、いよいよ本日飛行機に乗る、フランクフルト・マイン空港へと向かいました。ゲッティンゲン駅からICEに乗って、直接、空港駅へとアクセスできます。時間にして約1時間ちょっとです。今回のFWは、ちょうどアメリカで、テロ事件が起きた後だっただけに多少の不安はありましたが、逆にこんなときこそ、日本の外から、こうした事件を他の国の人たちはどのように見ているのか、知るのによい機会だと思い、思い切って実施をしました。思っていた通り、こうした事件に対して、ヨーロッパの人たちは、ヨーロッパならではの意見をしっかりと持っていました。そうしたいろいろある意見の中で、やはり共通してあった意見は、「平和」の状態を維持していくのには、そこに住んでいる人々の主体的な働きかけが不可欠だということです。そして、その働きかけの方法は、軍事的な力による維持は限界があるということ、やはり、その根底で重要視されることは民主的な解決が原則であるということでした。

いよいよ、年が明けて2002年から、ヨーロッパの多くの地域で、EU共通通貨であるユーロが使われます。今まで以上にヨーロッパは、ヨーロッパ連合としての共同体意識が強くなると思います。EU諸国の中でも統一され人口的にもEU内屈指の大きな国になったドイツは、そのリーダー国としての責任が増すと思います。2度の世界大戦で、ヨーロッパの他の国々に対して多大な損害を与えたドイツは、そうした過去の総決算としてリーダー力を発揮すると思われます。まさに当時、持たざる国の筆頭国であったドイツと日本、その後の生き方において学び合う点は多く存在すると思います。そうした視点からもこれからも長く、市民レベル、一学習者レベル、一生活者レベルなどの視点から、ドイツのみならずヨーロッパの各国を見ていきたいと思います。
ドイツの大平原の沈む夕日が、私たちの背を照らしはじめました。あと数十分で機上の人となります。今年も多くのことを学ばせてくれたポーランド、ドイツ、また来年まで。

ドイツコメンタリー
【ベルリン−5(ベルリンの壁)】
事実上、西ドイツと東ドイツということで、2つの陣営が、暗黙的にドイツを分け合ったわけでしたが、そううまく分け合うことができなかったのが、ベルリンであったわけです。当初、ソ連側は、ベルリンを国家から離して、自由都市として独立させようと提案をしていました。しかし、西側は、たとえその半分であってもベルリンを西側の市場として組み込むことを主張しました。結果、交渉は決裂したのです。

自由都市として独立させることができないと解るとソ連は、ベルリンの自由さが鼻についてきます。ベルリンの自由さとは、ベルリンでは、東西の人間が自由に行き来できたということです。このことは、東ドイツ、すなわち東側においていくつかの不利益さを発生させました。1つは、経済の問題です。西側の貨幣の持っている者が東側に来ると西側の貨幣の方が強いので、とても有利です。逆に言えば、西側の連中が東側で消費をするということは東側の貨幣に損失を与えるということになるわけです。結果、東側はマルクは大きく損失しました。2つ目は、人材の損失です。東ドイツにおいて、育てた優秀な人材が、ベルリンを通じて、西ドイツのいろいろな地域に流失してしまう。そして最後に、これは簡単なことですが、ベルリンにおいて、様々な点を西と東を比較することができてしまう。このことは、一見、物質的に豊かな西側、西ドイツの方が、よい国に見せる効果が十分にあったということです。


こうした状況は、東側、東ドイツにとっては、国造りのペースを乱す目障りなことでしかなかったわけです。そこで、東側は単純に西側が見えなくなるようにする方法を考えたわけです。当初、文書レベルでは、西側との国境を東側の管理下に置くというものでした。それが管理下に置くことの具体的な方法ということなったとき、コンクリートの壁で、視界を遮るという行為になったわけです。この方法は、簡単で実効性の高い方法でした。結果、東側の人々は、西側の方には目が行きづらくなり、東ドイツの社会主義的政策の発展に集中するようになるのです。

このことは、西側にとってもある意味、利益がありました。壁を作ったのは、東側であるので、その行為に対する多くの非難は東側に向けられました。そうした声の影で、実益として、西ドイツ、西ベルリンを実質、自分たちの経済圏に明確に編入することに成功したわけです。証拠に壁が作られたとき、ベルリン市民の多くは、当然、アメリカ軍をはじめとする西側連合国各国が動き壁を撤去するような動きをすると思っていましたが、そうした動きは一切なく、むしろ壁を作ることを容認するような態度であったのです。こうして、戦後冷戦下における2つの陣営の暗黙のバランスゲームは、この後、28年間にわたり続くのでした。
                おわり