※ このレポートは、風の学園の学習の一環として、各ゼミ生が担当をして作成しています。



ドイツの地理・歴史

ドイツ・地理】 
[国土]

 ドイツ連邦共和国はヨーロッパの中心部に位置しており、9ヶ国に囲まれている。 つまり北はデンマーク、西はオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス、南は スイス、オーストリア、東がチェコ共和国とポーランドである。ヨーロッパの中心という この位置は1990年10月3日にドイツが統一国家を再建して以来いっそう明確なものになっていて、ドイツはこれまで以上に、東と西、またスカンジナビア諸国と地中海地域 を結ぶかなめとなっており、欧州共同体とNATOの一員としてヨーロッパ中部と東部の 国々へのかけ橋ともなっている。

 ドイツ連邦共和国の領土はおよそ35万7000kuで、北から南までの最長距離は 876km、東西では640kmである。最北端はジュルト島のリスト、東端はザクセン 州のデシュカ、南端はバイエルン州のオーバーストドルフ、西端がゼルフカント(ノルト ライン=ヴェストファーレン州)である。また国境線は全長3758kmに上る。 ドイツの総人口は8100万人で、ロシアに次いでヨーロッパ第2位であり、イタリアが5800万人、イギリスが5700万人、フランスが5600万人で続いている。 しかし面積でみると、ドイツはフランスの54万4000ku、スペインの50万5000kuを下回っている。

[地勢]

 ドイツの風景は変化に富み、人を惹きつけてやまない。山なみは高く低く連なり、高原が現れ、テラス状をなした地域に変わり、丘や山や湖が、ひらけた平野へと展開しているのである。ドイツは北から南にかけて大きく5つの地域に分けられる。北ドイツ低地、 中部山岳地帯、東西ドイツの階段状につらなる中級山岳地域、南ドイツアルプス山麓地帯、 そしてバイエルン・アルプスである。

 北部低地では湖沼が多く、丘陵のつづく乾燥した砂地(ゲースト)や粘度質の土地が 特徴的であって、荒れ地や湿原地帯、あるいは中部山岳地帯に接する南側の肥沃な土地 などが交互にひろがっている。北部地帯の盆地には、二ーダーライン盆地、ヴェストファーレン盆地、ザクセン=テューリンゲン盆地があり、北部では北海沿岸の肥沃な沼沢地帯 が乾燥した砂地の地域のところまで達している。バルト海沿岸の特徴といえば、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州のフィヨルドと、メクレンブルク=フォアポンメルン州の磯浜や干潟である。北海のおもな島々は、東フリースラント諸島のボルクム島、ノルデルナイ島、北フリースラント諸島のアムルム島、フェ―ル島、ジュルト島、またハリゲン諸島、 ヘルゴラント湾のヘルゴラント島などであり、さらにバルト海ではリューゲン島、ヒッデンゼー島、フェーマルン島があげられる。バルト海沿岸は平坦な砂浜のところや岩だらけの断崖の海岸があり、北海とバルト海の間には「ホルシュタイン=スイス」と呼ばれる 低い丘陵地が横たわっている。

 中部山岳地帯はドイツを北と南に分けており、中部ライン渓谷とヘッセン低地は自然が つくった南北交通の要路となっている。また中部山岳地帯はドイツの西部と東部に位置 しており、ライン粘板岩山地に属するフンスリュック、アイフェル、タウヌス、ヴェスターヴァルト、ベルギッシュラント、ザウアーラント、ヘッセン山脈、ヴェーザー=ライネ 山地がこの地帯にある。ドイツの中央には孤島のようなハルツ山脈が連なり、東部には レーン山地、バイエリッシャー・ヴァルト、オーバーブフェルツァー・ヴァルト、フィヒテル山脈、フランケンヴァルト、テューリンガー・ヴァルト、エルツ山脈がある。 南西のドイツの階段状につながる中級山岳地域には、シュヴァルツヴァルトとオーデン ヴァルト、シュペッサルト山脈に囲まれた上部ライン低地や、ハールト山地のあるプフェルツァー・ヴァルト、またアルブ高原のあるシュヴァーベン=フランケン階段状地域が 含まれる。

 ビンゲンとボンの間の狭い谷間の渓谷を通って行くライン川は、ドイツのもっとも重要な南北交通路であり、その両岸にはライン粘板岩山地のやせた高原の土地や人影もまばらな尾根の地域が広がっていて、ワイン栽培と観光客の往来でにぎわうライン両岸の谷に いだかれた地域とは対象的である。

 南ドイツのアルプス山麓地域は、丘陵や大きな湖が多い南部のシュヴァーベン=バイエルン高原に加えて、広い堆積平野、さらにウンターバイエルン丘陵地、そしてドナウ低地を含んでいる。この地に特徴的な景色は、湿原地帯であり、湖(キーム湖やシュタルンベルク湖)や小さな村が点在する穏やかな丘の連ありである。

 ボーデン湖とベルヒテスガーデンの間にあるドイツのアルプスは、アルプス山脈のわずかの部分にすぎず、アルゴイ・アルプス、バイエルン・アルプス、ベルヒテスガーデン・ アルプスぐらいであるが、ベルヒテスガーデン近郊の絵のようなケー二ヒ湖や、ガルミッシュ=パルテンキルヒュンやミッテンヴァルトのような人気がある観光地がある。

[山・河川・湖沼・島


山:

ツークシュビッツェ山     (北部石灰質アルプス)     2962 m
ヴァッツマン山        (北部石灰質アルプス)     2713 m
フェルトベルク山       (シュヴァルツヴァルト)    1493 m
グローサー・アルバー山    (バイエリッツャー・ヴァルト) 1456 m
ヒィヒテルベルク山      (エルツ山脈)         1215 m
ブロッケン山         (ハルツ山脈)         1142 m

ドイツ国内の河川:
ライン川        865 km
エルベ川        700 km
マイン川        524 km
ヴェーザー川      440 km
シュプレー川      382 km

運河:
ミッテルラント運河      321 km
ドルトムント=エスム運河   269 km
北海・バルト海運河       99 km

湖・ダム湖:
ボーデン湖 (総面積)        538.5 ku
ボーデン湖(ドイツ部分)       305.0 ku
ミューリッツ湖            110.3 ku
シュヴァンメンアウエル湖(ダム)  2億500万 立方m
エーダー湖(ダム)         2億200万 立方m

島:
リューゲン島          930 ku
ウーゼドム島(ドイツ部分)   373 ku
フェ―マルン島         185 ku
ジュルト島            99 ku

[気候]


 ドイツは気候的には、大西洋の海洋性気候と東部の大陸性気候との間の、適度に 涼しい偏西風気候の地域に属する。気温の激しい変動はまれで、年間を通じて降水が ある。冬季の平均気温は平野部で1.5℃、山岳地帯で―6℃の間にあり、7月の 平均気温は平野部で18℃、南部の谷間では20℃ある。例外としては、上部ライン 地溝帯のきわめて温和な気候や、また定期的にフェーン現象が起こり、暖かいアルプス の南風が吹くオーバーバイエルン地方があり、されに烈風吹きすさぶハルツ山地は涼しい 夏と雪の多い冬の独特の気候帯をなしている。

[ドイツ・地理についての感想]

ドイツに最初に行ったのはベルリン。
ポーランドから国際列車でベルリン入りとなった。

ポーランド・ドイツの国境でパスポートを見せるので緊張した。
いくら国際列車と行っても国が違うとパスポート検査員の顔つきも違う。
列車は国境から走ること数時間後にベルリンにたどり着いた。
ベルリンからカッセル・ゲッチンゲンへは、ICE(新幹線)で、約3〜4時間で 行かれる。
ドイツの東側に位置するベルリンは、首都ということでドイツ国内からいろんな電車が 発着する。
カッセル・ゲッチンゲンはドイツのほぼ中央にあり、グリム童話で有名なところへは この地から行けば近い。
最後に行ったというより利用しただけの、フランクフルトは国内・国際線とも乗り入れているフランクフルト空港がある。
カッセル・ゲッチンゲンから新幹線で空港まで行かれる。
何年か前までは、フランクフルト中央駅までしか行かれなかったのに今回は初めて新幹線で空港まで行かれた。

設備がほとんど整っていたと思うが、駅から空港の各航空会社までの道のりが長かった。 これも旅の中の楽しみでもあった。
日本に帰ってきてから地図帳で見ると「ドイツはこんなに大きかったのか・・・」と思う。
新幹線に長い間、乗っていたので、ベルリン―カッセル・ゲッチンゲン、
カッセル・ゲッチンゲン―フランクフルトとは、もっと離れているのかと思った。

【参考資料】
・「ドイツの実情」等


【ドイツ・歴史】
[1945年までのドイツ概史

 19世紀にはまだ、ドイツの歴史は西暦9年に始まったとばかり考えられていた。 というものもこの年、ゲルマン族の一部族であるヒェルスカー族の首長アルミニウスが、 トイトブルクの森でローマの3軍団を打ち破ったからである。アルミニウスについての 詳細は不詳だが、初めての国民的英雄とされて、デトモルト近郊には'38年から 75年までかかって、巨大な記念碑が建てられたりもしている。 今日ではもうそんな簡単な見方はしなくなっている。ドイツ民族は数百年にわたる 歴史の経過の中で成立したのである。「ドイツ」という言葉は8世紀に初めて使われたと 考えられており、フランク王国の東部で使われていた言語を指すにすぎなかった。カール 大帝の治世に最大の版図を獲得したこの王国は、ゲルマン語系の言葉を話す諸部族からなっており、大帝の死(814)の後まもなくして分裂したのだが、遺領の分割が繰り返されて西フランク王国と東フランク王国が成立したとき、その国境はドイツ語とフランス語の国境線とほぼ一致していていたのである。それから東フランクの住民の間にしだいに 同族意識が芽生え始め、「ドイツ」という言葉は、言語を意味していたのが、その言葉を 使う人々から、ついには住んでいる地域(ドイツ国)をも指すようになってゆく。

 ドイツに西側の国境は比較的早い時期に確定され、良く安定してもいた。しかし東側は 数世紀にわたって流動的であり、900年頃はエルベ川とザーレ川に沿っていたのが、 その後数百年の間にドイツ人居住地域はずっと東へ広がり、14世紀の中ごろになって ようやく停止したのである。当時確定したドイツ人とスラブ人の国境線は第ニ次世界 大戦まで存続することになる。

[中世盛期]
 東フランク王国からドイツ帝国への移行が普通911年とされているのは、カロリング家の断絶の後、この年フランク公コンラート1世が王に選ばれ、最初のドイツ王と言われているからである。(正式呼称は「フランク王」であり、後に「ローマ王」なっている。 帝国名は11世紀以降は「ローマ帝国」であり、13世紀からは「神聖ローマ帝国」なったが、15世紀にはそれに「ドイツ民族」がついている。)帝国は選挙君主制で、王は高位 の民族から選ばれるが、同時に「血統権」もあって、新しい王は先代の血族でなければ ならなかった。しかしこの原則はしばしば破られて、二重選挙が繰り返されている。中世の帝国には首都というものはなく、王は巡回して統治していたし、帝国の税もなかったので、王の財政は主として信託統治の「帝国領」の負っていた。またその権威が確立している訳でもなくて、兵力と功みな同盟政策があってはじめて、強力な部族大公に敬意を払わせることができたのである。これに初めて成功したのがコンラート1世の後継者、ザクセン大公ハイリンヒ1世(在位919〜936)であり、その息子オットー大帝(在位 936〜973)はさらにこれを徹底させ、各実共に帝国の支配者となり、その強大な 権力が962年にローマで自分を皇帝に載冠させたことにも現れている。

 これ以後ドイツ王は帝位の継承権を持つようになる。そして皇帝の権威は普遍的であるという考えから、西ヨーロッパ全体の支配権が皇帝となる者に与えられるのであるが、 もちろんこの理念は政治的にみて一度も完全な現実となったことはない。教皇に載冠してもらうために皇帝がローマへ行かなければならなかったことが、ドイツ王のイタリア政策が始まる原因となり、ドイツ王は300年にわたって北部イタリアと中部イタリアに対して支配権を主張できたが、これによってドイツ国内での重要問題がなおざりにされることになって、オットー大帝の後継者のころすでに、深刻な威信の低下をまねいたりしている。次のザリエル朝の時代には新たな発展が起こって、ハインリヒ3世(在位1039〜 56)の治世にドイツの王権、皇帝権は最強になり、特に教皇権に対する決定的な優位が 主張された。しかしハインリヒ4世(在位1056〜1106)はこの地位を確保できず 司教叙任の権利をめぐると争い(叙任権闘争)では、表面上は教皇グレゴリウス7世には 勝利したものの、カノッサへ懺悔に行った(1077)ことは皇帝権にとって取り返しの つかない権威の失墜となったのである。皇帝と教皇はこれ以後、同等の権力として対峙 することになった。

 1138年に約百年のシャタウフェル朝が始まる。赤髭王フリードリヒ1世(在位 1152〜90)は教皇や北イタリアの諸都市またはドイツにおける最大のライバルで あったザクセン大公ハインリヒ獅子王との争いを通して、皇帝権を再び隆盛へと導いた のであった。けれども、赤髭王の時代に領国の分裂が始まっており、ついには中央政権 の弱体化を招いている。バルバロッサの後継者であるハインリヒ6世(在位1190〜 97)とフリードヒ2世(在位1212〜50)の時代には、強大な皇帝権にもかかわらずこの傾向は続いて、聖界諸候と俗界諸候は半独立の領主となっていった。 シュタウフェル王家の没落(1268)とともに、西ヨーロッパ全体の皇帝権というものは事実上消滅し、諸勢力の内部抗争によって、そのころ西ヨーロッパの諸国で始まって いた国民国家への移行がおこらなかったそのことに、ドイツが「選ばれた国家」となる 原因があるのである。

[中世後期および近世初期]

 ルドルフ1世(在位1273〜91)の即位でハプスブルク家がはじめて王座につく ことになる。皇帝の物質的な基盤は、すでに失われたしまった帝国領ではなく、そのつど の王朝の「家領」であったから、自家の勢力を伸ばす政策が各皇帝のおもな関心事となる のである。

 1356年のカール4世の金印勅書は一種の帝国基本法であり、7人の有力な諸候を 選帝候とし、国王選挙権を認めた上に、他の諸候よりもずっと多くの特権を与えたので あった。この間、伯や貴紳や騎士がしだいに勢力を失ってゆくのに対して、諸都市が 経済力によって影響力を持ち始め、都市同盟の成立によってますます強力になってゆく。 その中でもっとも有力なのはハンザ同盟で、14世紀にはバルト海沿岸の主導権を握る ことになる。

 1438年以降、帝国は形式的には選手君主制を保持してはいたが、実際には、結局 最強の諸侯となったハプスブルク家が王位を世襲している。15世紀には帝国改革の要求が強まり、教皇によって戴冠しない初めての皇帝となったマクシミリアン1世(在位 1493〜1519)が、改革実現の為に努力したものの、成功をみてはいない。 すなわちこのマクシミリアン1世が設立をやって改革した諸機関(帝国議会・帝国郡・ 帝国最高裁判所は帝国が終末をむかえるまで存続してはいたが(1806)、国の分烈 が進行するのを食い止めることはできなくて、しだいに「皇帝と帝国」の二元論が顕著に なり、帝国も諸身分、つまり選帝諸侯、諸侯、諸都市が皇帝に対立するという図式が生まれて、皇帝の権力は皇帝選挙のとき選帝候へ「さまざまな譲歩」をすることにより、制限 され空洞化されることになる。諸侯、とくに有力な諸侯は帝国の権限を削って自ら権力を 増大させたものの、帝国は引き続き統一を保って、皇帝の王冠の輝きはいまだ衰えず、 帝国の理念はなおも生き続けて、その結果が中小諸侯を強大な近隣諸国の干渉から守って いたのである。

 諸都市は経済力の中心となり、増え続ける貿易が巨利をもたらした。繊維産業と鉱業は、 手工業者のツンフト制を越えた、遠隔地貿易と同様の初期資本主義的な特徴を備えていた。 これと同時期に精神的な変革も起こって、ルネサンスとかヒューマニズムと言われているが、この新しく目覚めた批判精神はとりわけ教会の幣害に向けられることになってゆくのである。

[信仰分裂の時代]
 教会に対してくすぶり続けてきた不満が爆発したのは、マルティン・ルターの登場に よって1517年以後急速に広まった宗教改革を通じてであり、この影響は宗教だけで なくずっと広い領域にも及ぶことになる。社会構造全体が揺り動かされ、1522年から 翌年にかけて帝国騎士の乱が起こり、1525年にはドイツ史上最初の大規模な革命運動 である農民戦争が勃発して、いずれにおいても政治的な模索と社会的なそれが一致していたのだが、失敗に終わって流血のうちに鎮圧されたのだった。改革でもっとも得をしたのは領邦諸侯で、目まぐるしい闘いの後、1555年のアウグスブルクの宗教和議によって、 その巨民の宗教を決定できる権利をえらのである。プロテスタントはカトリックと同等の 権利を認められ、これによってドイツの宗教的な分裂が確定した。宗教改革のころ皇帝で あったカール5世(在位1519〜56)は、遺産相続によってカール大帝の時代以来 最大の世界帝国の支配者となってはいたが、対外政策に関心がありすぎてドイツ国内での 支配を徹底させることは出来ず、その退位後、世界帝国は分裂して、ドイツの領邦国家と 西ヨーロッパの国民諸国家がヨーロッパの新しい国家形態を形づくることになるのである。

 アウグスブルクの宗教和議の頃、ドイツは5分の4がプロテスタントだったが、両派の 対立はそれで収まったわけではなく、その後の数10年の間にカトリック教会は多くの 地域を回復している(反宗教改革)。両派の対立はますます先鋭になえい、新教徒同盟 (1608)と旧教徒同盟(1609)という教派党の結成をみるにいたった。さらに ボヘミヤでの地域紛争が30年戦争を引き起こし、それは年を追うにつれてヨーロッパ 規模の紛争となり、政治的、宗教的な対立の激突となったのである。1619年から 1648年にかけて、ドイツの広い地域は荒廃し人口が激減した。1648年の ウェストファーレン条約では、フランスとスウェーデンに領土の割譲を余儀なくされ、 スイスとオランダが帝国の約束から脱退を認められる事になったし、帝国の諸身分は 宗教上と政治上のあらゆる重要な主権を獲得し、また諸外国と同盟を結ぶことも認められたのである。

[絶対主義の時代]
 ほとんど独立国同然となった領邦国家が、フランスにならって絶対主義という政治形態 をとると、支配者は無限の権力を持ち、厳格な行政機構の設立、整然とした財政の運営、 そして常備軍の配備が可能となる。多くの諸侯は自分の領地を文化の中心地にしたくて、 その多くが「啓蒙的絶対主義」の代表者らしく学問や批判的思想を保護したが、それは 自分の権力利害の範囲においてであったのは当然であろう。また重商主義的な経済政策は 絶対主義諸国の経済力を高め、バイエルン、ブランデンブルグ(後のプロイセン)、 ザクセン、ハノーファーなどの諸国は独立した権力の中心となっている。オーストリアは トルコの攻撃をしりぞけ、ハンガリーとこれまでトルコであったバルカン諸国の一部を 獲得して強国にのしあがったが、これに対抗する勢力として、18世紀に、プロイセンが フリードリヒ大王(在位1740〜86)のもと、第一級の軍事大国として成長してくるのである。そして両国とも帝国に属さない領土も持っていて、ヨーロッパの大国政治を 推し進めてゆく。

[フランス革命の時代]

 西からの衝撃で帝国は崩壊した。1798年、フランス革命が始まったのだ。中世初期 から続いていた封建的な社会秩序は市民階級の圧力によって解体されてしまい、権力の 分立と人権がすべての市民の自由と平等を保証する事になる。プロイセンとオーストリアは武力で隣国の情勢に介入しようとしたが惨めに失敗し、かえって革命軍の反撃をまねいている。ナポレオンがフランスで革命の遺産を相続して、その軍隊が攻勢に転じると、 帝国はとうとう滅亡して、フランスはライン左岸を奪ってしまった。そこでこの地域の 領主達の損害を埋め合わせるために大規模な「再編成」が行われたのだが、それは小領主 やとくに聖職者の領地の犠牲に上になされたから、1803年の「帝国代表者会議」に よっておよそ400万人の巨民が領主を変えることになったのである。得をしたのは 中規模の国家で、そのほとんどが1806年にフランスの後押しで「ライン連邦」を結成 したから、この年フランツ2世は退位して、ドイツ民族の神聖ローマ帝国は消滅した。

 フランス革命はドイツには波及しなかった。なるほどフランス革命の数年前から、少数の人々がすでに繰り返し貴族と民衆の断絶を解消しようとしていたし、知識層はフランスでの変革を新しい時代の始まりとして歓迎したけれども、のれにもかかわらず革命が飛び火して来るまでにいたらなかったのは、中央集権的なフランスとは違って、帝国の連邦 主義的な構造が新しい理念の拡大を妨げたからであり、加えて、革命の本家であうその フランスが、敵であり占領者としてドイツに対峙していたからでもある。むしろ ナポレオンに対する戦いから新しい国家運動が目覚め、ついには解散戦争へと高まって ゆく。ドイツがこの状況の中で社会の変革の動きに影響されないはずなかった。まず ライン連邦諸国で、次にプロイセンで(ここではシュタイン、ハルデンベルク、シャルン ホルスト、W・フォン・フンボルトの名を挙げておこう)、改革が始まり、封建的な壁を 決定的に突き崩して、自由で責任を負った市民の社会をつくろうとしたのである。 すなわち、農奴制の廃止、営業の自由、都市の自治、法の下での平等、一般平役義務などの試みがあったのだが、改革の芽の多くは途中で摘まれてしまった。市民の立法への参加はたいてい認められないままで、おもに南ドイツの数人の領主が、おそるおそる自分の 国に憲法を制定しただけだったのである。

[ドイツ連邦]

 ナポレオンに対する勝利の後で、1814年〜15年にかけてのウィーン会議が、 ヨーロッパの新秩序を定めた。しかし自由で、統一された民族国家を望む多くのドイツ人の願いはかなえられず、旧帝国に代わって登場したドイツ連邦は、主権をもった国々の ゆるやかな連合に過ぎなくて、ただ一つの機関であるフランクフルトの連邦議会は、選挙に よる議会ではなく国々からの大使による会議であった。連邦が行動能力をもったのは、 両大国であるプロイセンとオーストリアが一致したときだけであり、約10年間、連邦 議会は統一と自由を指向する運動を抑圧することが使命だと考えていた。新聞雑誌や出版 物は厳しい検閲を受け、大学は監視され、政治活動は不可能にひとしかった。

 この間にも、近代的な経済の発展が始まっていて、反動的な傾向に歯止めをかけており、 1834年にドイツ関税同盟が発足することで、統一国内市場が成立していた。1835年にはドイツ最初の鉄道が開通して工業化が開始されたが、工場の出現によって工場労働 者という新しい階層が生まれて、彼らは初めこそ工場界でこれまでより良い収入を得る事 ができたものの、急激な人口増加によってまもなく労働力の供給が過剰となり、さらに 社会福祉関係の立法もまったくなかったので、その多くはきわめて悲惨な生活を強いられることになるのである。緊張はしばしば暴動となって爆発した。1844年のシュレジエンの織工一揆はプロイセン軍が鎮圧したが、すこしづつしだいに労働運動が形成されてゆくのである。

[1848年の革命]
 1789年の革命とは違って、1848年のフランス2月革命はすぐにドイツに波及し、 3月には全連邦諸国で民衆が蝶起して、驚いた君主たちを多くの点で譲歩させた。5月にはフランクフルトのパウロ教会で国民議会が開かれ、オーストリアのヨーハン大公が 帝国摂政に任命されて帝国中央政府も組織されが、権力がなかったので権威もなく、国民議会で主導権を握っていた自由主義的な中道勢力が、限定された選挙権をともなう立憲君 撞制を主張していた。国民議会には後の政党のはしりも見られるが、保守派から急進的な 民主主義者まで分裂していたから、憲法の制定は難しかった。けれども自由主義的な中道 勢力も、あらゆる勢力にわたって対立が見られていた「大ドイツ」と「小ドイツ」問題、 つまりオーストリアをドイツに含めるか否かという問題の解決が出来たわけではない。 若心の末、民主憲法の制定によって旧勢力と新勢力の合同がはかられ、議会に対して責任のある政府ができるのだが、そのときオーストリアが、1ダース以上もの民族からなっているのにあくまで全体で将来の帝国に参加させるように要求したので、かえって小ドイツ派の意見がとおって国民議会はフリードリヒ4世に世襲のドイツ皇帝を提案することに なった。しかし国王はこれを拒絶した。革命の後押しで皇帝になりたくなかったからで ある。1849年5月に、憲法の実施を「下から」強要しようとしたザクセン、ブファルツ、バーデンなどの民衆蝶起は挫折してしまった。

 これでドイツ革命の敗北は確定的となった。革命の成果の大半はないに等しいものと なり、それぞれの領邦の憲法は反動的な方向に修正された。1850年にドイツ連邦が 復活したのである。

[プロイセンの興隆]
 50年代は経済飛躍の年代である。ドイツは工業国となってゆく。生産の規模はイギリスにはるか及ばないものの、成長率はずっとまさっていた。先端産業は重工業と機械工業 である。プロイセンはドイツ経済の中で優位に立ったが、経済力は自由主義な市民階級の 政治的な自意識をたかめることになる。すなわち1861年にドイツ進歩党が結成され 議会で第一党となると、政府が軍制を反動的な方向へと改革しようとした時に予算面から これを否決したのであった。これに対して1862年に新しく首相となったオットー・ フォン・ビスマルクは力による政治を断行して、憲法で定められているにもかかわらず、 数年の間、議会の承認も得ないで予算を執行したのである。進歩党は議会で反対した もののそれ以上の抵抗はしなかった。

 ビスマルクは内政での不安定な立場を、外交での成果によって固めている。ドイツ・ デンマーク戦争(1864)では、プロイセンとオーストリアはデンマークにシュレース ヴィヒ=ホルシュタインを割譲させて、はじめは両国で共同政治していたが、ビスマルクは最初から両公国の併合を進めていて、オーストリアに対し公然と紛争をしかけた。普奧 戦争(1866)である。オーストリアは敗北してドイツの舞台から去って行かなければ ならなかった。ドイツ連邦は解体し、マイン川以北のすべてのドイツ領邦国家を含む 北ドイツ連邦がとって代わり、ビスマルクが連邦宰相することになる。

[ビスマルクの帝国
 ビスマルクは小ドイツ主義によるドイツの完全な統一に向けて尽力した。スペインでの 王位をめぐっての外交的な駆け引きから普仏戦争(1870/71)が起こると、ビスマルクはフランスの抵抗を撃破し、フランスはエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレ ―ヌ)地方を譲り、また多額の賠償金を支払わざるをえなくなる。戦争によって愛国心が 高揚したこともあって、南ドイツ諸国は北ドイツ諸国とドイツ帝国の成立を締結し、 1871年1月18日ヴェルサイユ宮殿において、プロイセン王ウィルヘルム1世が ドイツ皇帝となることを布告したのである。

 ドイツの統一は民衆の決議による「下から」のものではなく、「上から」の君主同士の 契約によって成立できたのであり、プロイセンの優位は圧倒的だったので、新しい帝国は 多くの人の目には「大プロイセン」と映ったものである。帝国議会は普通・平等の選挙権 によって選ばれ、組閣には何の影響力も持たなかったものの、帝国立法権への参加と予算 の審議権によって政府の行政の実施には関与していた。帝国宰相は皇帝にのみ責任を負い、 議会に対しては責任がなかったけれども、ビスマルクは政策の遂行の為には帝国議会で 多数を得るように努めなければならなかった。各々の領邦では議会を選出する選挙権は まちまちで、ドイツ連邦諸国のうち11の国がまだ納税額による階級別の選挙法であったし、他の4つの国では旧来身分制による議会だった。議会の伝統が強い南ドイツ諸国は、 20世紀初頭に選挙法を改正し、バーデン、ヴェルテンベルク、バイエルンでは帝国議会 の選挙法と同じものにしている。ドイツが近代的な工業国に発展したので、経済で成功 した市民達の発言力が強まったのはたしかだが、一方貴族や、特に貴族出身者が圧倒的に 多い将校団は、あいかわらず社会の指導層であった。

 ビスマルクは首相として19年間にわたって政治を行い、一貫した平和・協調政策をとることによって、新しいヨーロッパの力関係の中でドイツ帝国が確固とした位置をしめる ように努めている。このような視野の広い外交政策とは違って、内政においては時代が 民主主義に向かっていることにまったく無理解な態度を示したのである。彼にとっては や治的な反対派は「帝国の敵」としか思えなかった。自由主義的な市民階級の左派や 政治的なカトリック、またとくに組織化された労働運動に対しては社会主義者鎮圧法に よって12年間(1878〜90)も非合法化するなど、激しく闘ったが結局上手く ゆかなかった。このように急増した労働者階級は、進歩的な社会保障法にもかかわらず、 家から離れてゆき、ついにビスマルクは自分の政策の犠牲となって、1890年若き皇帝 ウィルヘルム2世によって辞職させられることになる。

 ウィルヘルム2世は直接政治を行おうとしたが、知識も落ち着きもなく、行動よりも 失言によって、平和をおびやかす暴君という印象を与えることになり、その治世に「世界政策」を展開したが、ドイツは優位に立っている帝国主義強国に追いつこうとして、 かえってしだいに孤立してしまった。一方内政では、労働者階級に「社会的な帝国」への 賛同をもとめていたが、期待したようにはすみやかな成果が得られなかったので、まもなく 反動的な航路をとってしまうことになる。この時代の宰相は、保守派と市民はからなって いて目まぐるしく変わる連合政権に依存していた。社会民主党は数百万の支持層をもった最大の党であったが、まだ政策への参加からは締め出されていた。

[第1次世界大戦]
 1914年6月28日のオーストリア・皇太子の暗殺から第1次世界大戦となった。 この戦争の責任問題についてはいまなお議論があるところで、ドイツ・オーストリア側 も、フランス・ロシア・イギリス側も戦争したいと意識していたわけではないことは確か であろう。しかし相応のリスクを冒す準備はあったのであり、戦争により追及するべき 目的は最初からはっきりと持っていたので、その実現の為には、軍事的な対決もそれほど 渋々という訳でもなかったのである。ドイツ軍が侵巧作戦で期待していたフランスの早期 降伏は成功せず、むしろマルヌの戦いでドイツ軍が敗北した後では、西部戦線は陣地戦と なって膠着状態におちいり、戦争は軍事的には何の意味もない物量戦によって軍事に多大の損害をもたらすことになる。皇帝は開戦以来、政治を放棄していたし、政治力のない 帝国宰相も、戦争の経過につれて、表向きの司令官であるバウル・フォン・ヒンデンブルク元師と、実際の指揮官エーリヒ・ルーデンドルフ将軍ら軍首脳部の圧力に屈せざるをえなくなる。1917年アメリカが参戦すると、すでに予想されていた結末は動かしがたいものとなり、ロシア革命も東部戦線での和平も、もはや事態を変えることはできなかった。

  国土がまったく疲弊していたのに、ルーデンドルフは状況判断を誤っていて、1918年 9月まで「勝利した上での講和」にしがみついていたが、とつぜん即時停戦を要求した。軍の崩壊は政治の崩壊を意味したもので、1918年11月皇帝は抵抗もせずにあっさりと退位し、諸侯も表舞台を去った。信頼を失った君主制を守ろうとする者もなく、ドイツは共和制になった。

[ワイマール共和国]
 政権は社会民主主義者の手に渡った。その大多数は革命的な考え方をすでに放棄して おり、自分たちの主な使命は、古い国家形態を新しい国家形態へ、整然と確実に移行させることだと考えていた。したがって工業と農業の私有財産はそのまま認められたし、 殆どが共和制に反対の官吏と裁判官も全員が職にとどまり、皇帝の将校団も引き続き部隊 に対する命令権を保持したのである。これに対して革命を社会主義的な方向に押し広げ ようとする極左グループは軍隊によって制圧された。1919年1月に選挙で選ばれた 国民議会がワイマールで開かれ、新帝国憲法を採択したが、制約のない共和主義をめざす、 社会民主党、ドイツ民主党、中央党の3党が議会での多数派だった。しかし20年代には 国民には国会や議会の中で、民主的な国家に多かれ少なかれさまざまな制限をつけて反対する勢力が強くなり、ワイマール共和国は「共和主義者のいない共和国」と呼ばれて、 反対派からは激しく攻撃され、味方からも中途半端な支援しか得られない状態となる。 特に戦後の経済的な困窮と、1919年ドイツが調印せざるをえなかったヴェルサイユ 講和条約の過酷な条件は、共和国というものに深刻な懐疑をいだかせることになり、結果として内政はますます不安定になってゆくのである。

 1923年、戦後の混乱は頂点にたっしたが(インフレ、ルール占領、ヒトラーの一揆、 共産主義者の武装蝶起計画など)、その後の経済の回復によって、一時的な安定がみられて いる。一方、グスタフ・シュトレーゼマンの外交政策は、ロカルノ条約(1925)や 国際連盟への加盟をつうじて、敗戦国ドイツに国際政治の上での同権をもたらすのである。 芸術と学問では「黄金の20年代」が一瞬の輝かしい光をはなっていた。社会民主党員で 初代大統領フリードリヒ・エーベルトの死後、1925年にかつての元師ヒンデンブルクが右派の候補となり、国家元首に選出される。彼は憲法に忠実ではあったが、共和国に 親近感はもたなかった。1929年の世界恐慌によってワイマール共和国の崩壊がはじまる。左派と右派の急進主義者は失業とさまざまな困窮を利用し、議会では過半数をしめて 政権を相当できる党がなくなり、内閣は大統領の支持に頼っていた。極端な反民主主義的 傾向と狂信的な反ユダヤ主義を、表面上は革命的と宣伝していた。アドルフ・ヒトラーの 国家社会主義運動が、これまでとはほとんど注目されていなかったのに、1930年に飛 躍的に努力を伸ばし、1932年には第1党になった。1933年1月、ヒトラーは首相に就任する。しかし内閣にはナチスの党員以外にも、右派の何人かの政治家や無所属の 実務閣僚が入っていたので、ナチスの独裁を阻止できる希望は残っていたのである。

[ナチズムの独裁]
 ヒトラーは連立の相手を直ちに一掃し、すべてのブルジョア政党の同意をえた全権委任法によって、ほとんど無制限の権限を握り、自分の党以外の政党を禁止した。労働組合は 弾圧され、基本的な権利は事実上効力を失い、報道の自由は棚上げにされた。この政権は 好ましくない人物に対して情け容赦もなくテロを行い、また何千人もの人々が裁判も受けずに、急いで建設された強制収容所に姿を消す事になる。議会のあらゆるレベルの委員会は廃止されるか無力となり、1934年にヒンデンブルクが死去すると、ヒトラーは主相 と大統領を自分の兼務し、これで彼は軍の最高統師権をえて、最初はまだある程度独立 していた国防軍も手に入れたのである。

 大多数のドイツ人にとって、自由主義的で民主主義的な秩序を理解しそれがはっきりと 定着するには、ワイマール共和国の数年間は短すぎる事になる。とくに長い間の内政上の 混乱や、流血の市街戦にまで発展していた政敵同士の暴力的な抗争、また世界恐慌によって発生した大量の失業などが、国家権力への信頼感を根底から揺るがしてしまったが、 これに対してヒトラーは、雇用の創出と再軍備計画で経済をふたたび活性化させ、失業を すみやかに減少させたのである。その際、世界恐慌が終息したことも彼にとっては幸い したといえよう。

 最初の頃ヒトラーは外交政策の目標をほとんど無抵抗のうちに完遂できたので、彼の 地位はさらに強まっている。つまり、それまで国際連盟が管理していたザール地方を 1935年に回復し、同じ年ドイツ帝国の国防権も復活させたし、さらに翌1936年 には、1919年以来非武装とされていたラインラントにドイツ軍を進駐させ、1938年にはオーストリアがドイツ帝国に合併された上、ズデーテン地方の併合も西側の大国は ヒトラーに認めることになったからである。国民の各層の人々は独裁に対して勇敢に抵抗 したのだが、このような外交における成功がヒトラーのより広い政治目標の実現を容易に したのはたしかである。

 権力を握るとすぐに、ナチス政権は反ユダヤ計画の実現に着手した。ユダヤ人はしだいに人権と市民権を奪われたので、国外に脱出できる者は、そのようにして災尼から逃れようとした。 同様に、政敵の迫害や言論の弾圧によって数千の人々が国外に脱出に去り、ドイツの 最良の作家たちや芸術家、学者たちの多くも亡命することになる。

[第2次世界対戦と結末]
 ヒトラーはこれくらいでは満足しなかった。ヨーロッパの覇権をめざして敢行するつもりだった戦争の準備をはじめから推し進めていたのであり、それは1939年3月に軍を チェコスロバキアに進駐させたときすでに証明されている。1939年9月1日、 ポーランドへの侵攻によってヒトラーは第2次世界大戦を引き起こしたが、この対戦は 5年半も続いて、ヨーロッパの大半が荒廃し、5500万人が命を失う事になるのである。

 ドイツ軍はまず、ポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス、ユーゴスラビア、ギリシアを征服し、またソ連ではモスクワに迫り、 北アフリカではスエズ運河を脅かした。占領地では苛酷な傀儡政権をたてたので、これに 対して抵抗運動が起こっている。1942年にはナチス政権は「ユダヤ人の問題の最終的 解決」を始めたので、捕まえられたすべてのユダヤ人は強制収容所に送られ、殺戮された。 犠牲者の総数は600万人と推定されているが、この想像を絶する犯罪が始まったその年に、戦局は転換して、全戦線でこの時期から劣勢となるのである。 ナチス政権の恐慌政治と軍事的な後退は、国内でヒトラーに対するさまざま抵抗を強めることになり、中心的役割をはたした人々は国民のあらゆる層の出身であった。しかし、 おもに将校団による1944年7月20日の決起は失敗し、ヒトラーは最高司令部での 爆弾による暗殺を免れると、残酷な報復を行って、この暗殺計画に加担した4000人を 越える社会のあらゆる階層の人々を、数ヶ月のうちに処刑した。この反乱での多くの犠牲者の中から、主な人物をあげてみると、ルートヴィヒ・ベック大将、伯爵シュタウフェンベルク大佐、元ライプツィヒ市長カール・ゲルデラー、社会主義ユーリウス・レーバー などである。

 戦争はさらに続く。ヒトラーは莫大な犠牲をはらいながら戦いを続行したが、敵軍が 帝国の全領土を占領するにいたって、1945年4月30日、自殺を遂げた。遺言に よって後続者となったデーニッツ海軍大将は8日後、無条件降伏を受諾した。


【1945年から現在】
[1945年以後の進路]
 1945年5月8日から9日にかけてドイツ軍が無条件降伏をした後、デーニッツ海軍 大将は、最後の帝国政府とともに2週間政権にとどまった後、逮捕された。この後、閣僚達も ほかのナチス独裁の高官たちとともに、ニュルンベルク裁判で平和と人類に対する犯罪という罪で栽かれることになる。

 ドイツでは、6月5日、アメリカ、イギリス、ソ連、フランスの戦勝国が最高統治権を握った が、その主な目的は、1944年9月12日のロンドン議定書とそれに基づいたその後の諸協定に従って、ドイツに関する全決定権をもつことであった。その政策も基本は、 ドイツの領土を3つの占領地に分割し、首都ベルリンも3つに分け、3人の最高司令官に よる管理委員会を設立するということであった。

 占領地域を分けたのは、1914年と1939年のようにドイツがふたたび世界制覇の 力を持つ事を完全に阻止する為である。「トイトニアの征服欲」を将来にわたって封じ込め、 軍国主義の牙城プロイセンを抹殺し、ドイツを大量殺殺戮戦争犯罪の罪により罰し、民主的な精神で再教育することが、望まれたのであった。

 1945年2月のクリミアでのヤルタ会議では、フランスが4番目の管理国として3国に仲間入りして、独自の占領地を配分された。ヤルタ会議では、ドイツの国家としての 独立は認めないが、領土の分裂は避けるという点だけは意見が一致した。とくにスターリンはドイツを経済的な統一体として維持することにこだわったのだが、それというのも ソ連はドイツの侵入によって被った甚大な損害のために巨額の賠償を要求していたので、 それを一つの地域だけから獲得するのは不可能だからであった。モスクワは200億ドルのほかに、全ドイツの工場の80パーセントを完全に引き渡すことも求めていたのである。

 ロンドン議定書とは違ったこの計画が出されると、イギリスとアメリカも自活力があってまとまっているドイツの維持に賛成した。しかしそれは賠償を求めてのことではなく、 1944年は秋頃からルーズベルト大統領が提唱していた全世界的な均衡態勢の枠組の 中で、中部ヨーロッパの安定が不可欠だからである。そこで評判の悪かった1944年 9月のモーゲンソ−・プランを早々にしりぞけたのであった。このプランではドイツ国民 は将来は農業だけで生活し、北ドイツと南ドイツに分割されるべきであるとなっていたのである。

 まもなく戦勝国は、ドイツの軍備の撤廃と非武装化を主張する点だけでまとまっているに過ぎなくかった。スターリンがポーランドや南東ヨーロッパ諸国を直接、軍事的に 解散あるいは征服したあと、徹底的にソビエト化すると、西側戦勝国は不信感を持たざるをえず、ドイツの分割は急速に「死に行く理念のためのリップサービス」(チャールズ・ ボーレン)になってゆくのである。

 1945年5月12日チャーチルはトルーマン大統領に電報を打った。「ソ連軍の前戦に 『鉄のカーテン』が下ろされた。我々には『その背後で何が起こっているのか』分からない」。 その後、西側諸国は心配になって、ライン地方とルール地方についての賠償政策の 決定にスターリンも参加させると、どのような結果になるかを検討したのである。

 その結果、ポツタム会議(1945年7月17日〜8月2日)の本来の目的は、戦後 ヨーロッパ秩序を定めることにあったのが、表面化してしまった緊張を解きほぐすところ か、承認するような協定を結ぶはめになってしまった。つまり、非ナチ化、軍備の撤廃、 経済力の分散、そしてドイツ人の民主主義教育などの問題については意見が一致したし、 さらに西側諸国はポーランド、ハンガリー、チェスロバキアからのドイツ人の立ち退きと いう重大な同意も与えた。しかし、「人道的に実施する」という西側の留保条件とははなはだしく違って、その後のこの退去で約675万人のドイツ人は情け容赦もなく追い立てられたのである。これらの人々もドイツの犯罪の責任をとらされたからであるが、またソ連がケーニヒスベルク(現カリーニングラード)や東ポーランドを占領した結果、ポーランドの西側国境が移動した為でもあった。4つの占領地区を政治的、経済的に統一しておくという最低限の同意だけが達成されて、それぞれの占領国はともかくまずその占領地から 賠償を取り立てることになった。

 しかしこれによって、後の時代が証明するように、基本的な方向づけが行われた事に なる。賠償の取り扱いだけでなく、4つの地区を異なった政治的、経済的な体制で結び つけておくことで、ドイツは世界中でどこよりも冷戦がはっきり現れている国になった。 この間、各占領地区ではどいつの諸政党や行政機構の設立が始まっており、とくにソ連の 占領地区では厳しい指導のもとに急速にそれが行われて、すでに1945年に占領地区 全体に広がりをもつ政党が許可されたり、多くの中央行政機関が設立されたりもしていた。

 一方、西側の3つの占領地区では、政治団体は下から上に発展している。政党は最初に狭い地域ごとにしか許可されず、州の合同はずっと後になってから実現する。占領地区 全体についての行政機関もまだ出来始めたばかりであった。しかし廃墟となった国土の 物質的な困窮は、諸州や地域の枠を越えた大規模な計画によってのみ乗り越える事が できるのに、4戦勝国の管理委員会が機能しなかったので、アメリカとイギリスは経済的な観点から両方の占領地区を合併することを1947年に決定したのである(英米統合 占領地区)。

 占領形態が西と東で対立していて、個々の占領地区で賠償政策の取り扱いがまったく 異なっていることは、地域の発展がまちまちになるという深刻な結果をまねいて、 全ドイツでの財政、税制、資源、生産などの政策が地域別のものになってしまった。 フランスは最初、広範囲の経済管理(英米統合占領地区や英米仏統合占領地区)には関心 を持たなかったし、スターリンはルール地方の共同管理権を求める一方で、ソ連の管理 地区(SBZ)を隔離し、共産主義的な行政政策に西側が介入することを決して認めなかった。ソ連の身勝手な処置に対して西側がなすすべもなかったことは、1946年4月に ドイツ共産党(KPD)とドイツ社会民主党(SPO)がドイツ社会主義統一党(SED) へと強制的に合併させられたことにも見られる。

 ソ連の占領地区が共産主義独裁に変わっていって、1948年の段階ですから自由主義的体制を作ることなど問題にもならなくなったので、イギリスとアメリカは自分たちの 占領地区の合併を強行しようという姿勢を強め始めた。西側占領国にとって重要なのは、 たとえ戦後のドイツがもはや統一して管理できないとしても、少なくとも西側占領地の 困窮や苦しみを救い、自由で民主主義的な国家を樹立することであった。このように冷戦 の開始とドイツの分割は、時間的にはほとんど同時に起こったのである。

[敵国からパートナーへ]
 西側ドイツではアメリカのバーンズ国務長官が、1946年9月6日のシュトゥットガルトで政権の転換を明らかにして、スターリンによるポーランド占領と国境線の変更は仮のものにすぎず、また西ドイツに駐留する西側連合軍は占領と管理の為から防衛の為の 軍隊とするという考えを述べ、ドイツが国家的な報復主義をやめ、協調体制を取る事に 目覚めるのは「寛容な」賠償政策だけである、と演説した。イギリスとアメリカの主導で フランスも結局は反対を撤回して、米英仏統合占領地区がまとまった西側の経済圏として 発足したのだが、それは1948年2月25日にプラハでのクーデターに続いて、ソ連が さらに西に進む危険が生じたので、ついにフランスも西側が連合しなければならない理由を理解するようになったからである。バーンズの考えは、1948年3月17日のブリュッセル条約の成立や、最終的には1949年4月4日の北大西洋条約に実現されてゆく。

 このような条約の共同体が機能する為には、統一された政治的、経済的な機構が西ドイツにあることがどうしても必要である。その為にロンドン6カ国会議が開かれ(1948年2月23日〜3月3日、4月20日〜6月1日)、初めてベネルクス諸国も招いて、 フランス、イギリス、アメリカは西側の占領地域に共通する国家的秩序をつくることに 合意した。

 1948年3月20日・第82回の管理委員会の会議で、ソ連代表のソコロフスキー 元師はロンドンでの交渉についての説明を求めた。そして西側の委員がそれをかわすような返事をすると、ソコロフスキーは退出してしまい、ふたたび現れることはなかったのである。 西側諸国が憲法制定の会議を召集する為に、まだ西ドイツの各州首相を招待する準備を していた頃、スターリンは西側がドイツマルクを導入したこと(1948年6月20日の 通貨改革)をきっかけにして、西ベルリンを封鎖してソ連の占領地域への併合を強要したのであった。1948年6月23日〜24日の夜にかけて、西側と西ベルリンとの間のすべての陸路が閉鎖され、東ベルリンからのエネルギー供給やソ連の管理地域からの食料品が停止される。1948年8月3日には、スターリンは、1949年10月7日に独自の 政府が成立することになるドイツ民主共和国の首都としてベルリンを承認するよう要求 する。しかしアメリカ大統領トルーマンは、西ベルリンは放棄しないし(「1948年には ミュンヘン会議の二の舞は演じない」)、西ドイツの成立も放棄することはない、という 7月20日の自ら声明を強固に守り通した。1949年5月12日まで、西ベルリンは 連合軍の空輸作戦で補給を受けた。西側の政策と生活文化の最前線としての西ベルリンで 見られた具体的な連帯と、アメリカの力の示威運動によって、西ドイツが占領諸国と協調してやってゆこうという姿勢が強められたのである。

[ドイツ連邦共和国の成立]
 すでに1946年以来、西ドイツはアメリカの対害援助(ガリオア計画)を受けていたが、マーシャルの「飢え、貧困、絶望、混乱」に対して闘うプラン(マーシャルプラン)が、ようやく復興を最終的に軌道に乗せる援助(1948年〜1952年までで14億$) となったのであった。ソ連の占領地域で産業の国営化が進行していたとき、西ドイツでは 通貨改革によって「社会的市場経済」のモデル(アルフレート・ミュラー=アルマック 1947年)が次第に成果を上げ始めていた。この新経済秩序は、一面では「資本主義の 墜落」(ヴァルター・オイケン)を予防し、また一面では計画経済の中央集権主義が創造と イニシアチプにブレーキをかけることを防止しようとするものであった。この経済目標は、 ボン基本法における、法治国家と社会国家の原則と、連邦共和国の中での各連邦の成立によって補足される。その際、この基本法はその暫定的な性格を強調するために、意識的に ただ「基本法」とだけ言われており、最終的な憲法はドイツ統一が成った後ではじめて 制定されるべきとされt1949年5月23日、全州議会評議会によつ厳粛な公布を もって基本法は発効した。

 この基本法に西側占領国の考えが多く入っている事は、西側占領国が1948年7月 1日に西ドイツの州首相たちに憲法の制定を委託したから当然であるとして(フランクフルト文書)、しかし同時にその中には、ワイマール共和国と正義にもとるナチス国家から ドイツ人が得た経験が反映してもいるのである。1948年8月10日〜23日にかけてのヘレンキーム湖での制憲会議、ボンでの全州会議評議会(各州議会から選出された65人の議員が1948年9月1日に招集された)は、基本法(1949年5月8日)の中で、 将来の政府、政党とその他の政治勢力に、権利の保護が強調されている原則を義務づけたので、これ以来、自由と民主主義の基本秩序を廃止しようとするあらゆる試みや、右翼や 左翼の独裁で支配しようとする企ては、すべて刑罰に値するものとして禁止されており、 また政党の合法性については連邦憲法裁判所が判断することになっている。

 ワイマール憲法は、立法の際に国民の良識を素朴に信頼していたので、その第76条で、当時の世界でもっとも自由だとされたこの憲法を廃止する権利を、憲法を敵視しようとする者達に正式に認めてしまっていた。そこで基本法の第79条では、あらゆる国家権力が 人権の保護を変更することを禁じ(第1条)、また同様に民主的、社会的、連邦的な秩序を 廃止することも禁じたのである。(第20条4項)

 これらの責務はナチスの独裁を経験したことの直接的な反映であった。1945年の後で活躍した「戦後初期の政治家」の大多数は、ナチスによる困窮と苦境を経験しており、 今やドイツの再建にあたって、1848年と1919年の精神と、1944年7月20日の「良心の反乱」の中から、民主主義的な伝統をくみ取ったのである。彼らすべてが世界の目の前に「これまでと違うドイツ」を体現してみせ、占領諸国の尊敬を勝ち得た。初代連邦大統領テオドール・ホイス(CDU)、「経済の奇跡」の「機関車」といわれたルート ヴィッヒ・エアハルト(CDU)などの人々、そしてまた野党(SPD)の偉大な指導者達、クルト・シューマッハ−、エーリヒ・オレンハウアー、また世界主義者であった カルロ・シュミットなどが、西ドイツの新しい政党をはっきりと性格づけている。彼等が ドイツの共同発言権や政治的な影響力を一歩、一歩広めていって(占領条例、ペータースベルク協定、ガット加入、欧州石炭鉄鋼共同体加盟)、1951年7月には、イギリス、 アメリカ、フランスがドイツとの戦争状態が終結したことを宣言し、ソ連も1955年の 1月25日にこれにならったのである。

[西側との融合とヨーロッパとの協調による安全保障]
 1963年までドイツの外交、内政に強烈な人格的影響を与えたアデナウアー連邦首相 は(「首相に強い権限を与えた民主主義体制」)、平和と自由のうちにドイツを再統一する事 を最大の政治目標としており、その為に欠くことができない前提が、大西洋安全保障共同体への西ドイツの加盟であった。1955年5月5日に連邦共和国が主権を回復すると 同時に、西ドイツの北大西洋条約機構への加盟が実現した。この機構は欧州防衛共同体 (EVG)の構想がフランスの反対で日の目を見なかったので、決定的な守りの盾になる はずではあったが、それと平行してさらに、共産主義に対する防波堤としての欧州共同 を強化すること(ローマ条約1957年)にも拍車がかかっていた。

 アデナウアーはモスクワに強い不信感を持っていたので、1952年にスターリンが オーデル・ナイセ線までのドイツを中立状態で統一させると提案した時、西側と共に これを拒否したのである。アデナウサーにとって、この独裁者の提案はあまりに不透明 であり、まじかに迫っている連邦共和国と西側との融合をその為に危険をさらずことは ない思えたのであった。1953年6月17日に東ドイツで自由の抑圧と「ノルマに よる酷使」(ハンス・マイヤー)に対する民衆の蝶起がソ連の戦車に鎮圧された時、この 疑いがまさに正しかったことが明らかになった。けれどもまた、モスクワが参加しなければドイツ問題のいかなる実質的な動きもありえない事もはっきりしたから、冷静に国家の ことを考えれば、ヨーロッパの最強国としてのソ連との外交関係の樹立が望ましかった。 アデナウサーは1955年9月にモスクワを訪問して、その目的だけではなく、ドイツの 戦争捕虜の最後の1万人と、民間人およそ2万人の釈放を成し遂げたのである。

 1956年11月のハンガリーでの民衆の蝶起をソ連の軍隊が鎮圧し、「スプートニク・ ショック」(1957年10月4日)があったことは、ソ連の力が著しく強力のなっていることを示したし、それはまた東ドイツで社会民主社会を建設する中で一層強制的な措置がとられたことも現れているが、とくにスターリンの後続者二キタ・フルシチョフはベルリン最後通牒を発して、西側連合国が西ベルリンから6ヶ月以内に撤退するよう勧告したのである。

 しかしこれがきっぱりと拒否されたので、フルシチョフは西ベルリン問題では柔軟路線に転じとうとしたのであり、事実、フルシチョフが1959年にアメリカを訪問することによって、両国の間の雰囲気は著しく改善されている。(「キャンプデービットの精神」)。 少なくとも、アメリカ大統領アイゼンハワーがベルリンでのソ連による法の侵害はそれほど重大なものではなく、ドイツ国外での武力紛争の原因になると考える必要はない、と 発言してボン政府をがっかりさせたのはたしかである。

 ジョン・F・ケネディが大統領に就任して、アメリカの政治のトップに世代交代が起こると、アメリカのヨーロッパ政策に対するアデナウアーの影響が大幅に薄れて、ベルリンの安全についてのボン政府の不安は増大してくる。ケネディは3つの「原則」(1961年 7月25日)で、西ベルリンへの自由な通行、西側連合軍の駐留、西ベルリンの安全を 保証したが、ベルリンの壁の講築(1961年8月13日)の時には、外交手段を通じての抗議や象徴的な威嚇以上のことはしなかったのであった。遮断施設や立ち入り禁止地帯、 また強制によって、東ドイツに反対する「足による意思表示」つまり西への逃亡は弾圧 された。壁がつくられる前に300万人近くもの人々が東ドイツを離れ、1961年7月 だけでも3万人を超える人々が逃げ出して来たのである。

 「壁」によって両国はそれぞれ権利を主張する地区の間に境界を決めることになった ので、ドイツ問題は解決されはしなかったが、調整されたといえるだろう。核問題が 手詰まりの状態だったから、1962年のキューバ危機があっても、両大国の間に協調の 進行は断続せざるをえないのであった。

 したがってボン政府はさらに真剣に独自の道を探さなければならず、事実、しばらくは ワシントンと一線を画して、「フランスとの友好の夏」によって外交を捕った。すなわち、 1963年1月のエリゼ条約の締結でアデナウアーとドゴールは独仏友好にとくに重きを 置くことになったのである。条約調印に数ヶ月先立って、1962年、ドゴールは熱狂的な歓迎の中ボンを公式訪問して、両国関係の新しい性格を強調する為に「偉大なドイツ 国民」について語った。「人は」とこの将軍は言う、「第2次世界大戦を、罪としてよりも 悲劇として見なければならない」。

 西への協調政策と共に東ヨーロッパとの関係においても雰囲気が和らいでおり、 1963年12月アテネで、NATOは「大量報復」の代わりに「段階的対応」という 新しい戦略を打ち出すことによって、緩和政策のシグナルを送ったのである。

 硬直している正面をもっと軟化させる為に、西ドイツは少なくともソ連の前面にある 東欧諸国との関係改善を模索しようとする。アデナウアーの後続者である。ルートヴィヒ・ エアハルトとクルト・ゲオルク・キージンガ−は、東ドイツを外交的に承認するのを阻止 しようとするハルシュタイン原則を公式には破棄しないままで、中部ヨーロッパにおける 厳しい現実を見定めながらその政策を立案したのである。この路線はとくに、1963年 7月15日にエーゴン・バールが「接近による変化」というスローガンによって打ち出していた野党SPDの新しい外交政策路線への回答でもあった。

 ドイツの通商代表部をブカレストとブタペストに設置することで見通しがあかるくなり始めた。まず西側諸国が、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)と欧州原子力共同体(EURATOM)また欧州経済共同体(EEC)を統合して、欧州共同体をつくるための共同 作業を促進しいている。(1965年4月8日)。そして、イスラエルとの外交関係の樹立は全アラブの反対を受けたけれども、ドイツの協調政策の重要な一歩とはなった。 それから1967年の初め、ボン政府はルーマニアと外交関係を結んで、同年7月には ボンとプラハに通商代表部が設置されることになったのである。

 1967年12月のハルメル報告は、西側の同盟のふたつを目的として、軍備の強化と、 それに平行して東側と対話する用意があることを確認しており、少なくともいっそうの 緊張緩和を目指しているといえよう。1967年ボン政府は、ベオグラード政府が東ドイツを承認したことで途絶えていたユーゴスラビアとの外交関係を、ふたたび再開した。

 また、ポーランドからは武力放棄の協定を外交レベルで討議しようという提案がなされている。

 ヨーロッパの近隣諸国との関係改善や西側国家共同体への参加とならんで、アデナウアーはすでにユダヤ民族への補償をとりわけ重視していた。600万人ものユダヤ人がナチによる組織的な絶滅運動の犠牲となっていたのである。とくに初代西ドイツ首相とイスラエル首相ベン・グリオンが個人的に密室な関係にあったことは、ユダヤ人とドイツ人 との融和の始まりに決定的な影響を与えており、両国首相が1969年3月14日に ニューヨークのウォールドルフ・アストリア・ホテルで会談したことは忘れてならないことであろう。アデナウサーは1961年、議会を前に強調した。「物質的な補償を行って はじめて、ドイツ連邦共和国はドイツ人がナチスの過去から完全に決別したことを証明 できるのである」。すでに1952年にイスラエルのユダヤ人に難民の為に、定住援助を 支払うという最初の協定がルクセンブルクで調印されている。ドイツの全賠償は総額 900億マルクにもおよんだが、そのおよそ3分の1はイスラエルとユダヤの諸国体、 とくに全世界の迫害されたユダヤ人のための被害基金であるユダヤ人賠償請求会議への ものである。両国の外交関係は1965年ようやく樹立された。

[東の隔離強化にも負けず進む両ドイツ間の対話]
 東ドイツは離間措置をさらに強化し(例えば、連邦共和国と西ベルリンとを行き来する ときのパスポートとビザの義務づけ)、さらにワルシャワ条約機構がプラハの改革政策 (1968年のプラハの春)を鎮圧したにもかかわらず、社会主義地域の団結を掲げる「ブレジネア・ドクトリン」は、始まってしまった緊張緩和の進行を全面的に押し戻すことは できず、1969年4月にボン政府は東ドイツとの間に、国際法上での承認のレベル以下で、条約の締結を行うと提案した。

 もちろん両ドイツ間の取り決めは、ソ連の了承をあらかじめ得ておかなければ成功は 期待できなかったから、そのソ連から武力放棄条約がボンに提案されると、1969年 10月21日に発足したSPDとFDPの連立政権は、いわゆる「新東方政策」を急速に 明確なものにしてゆくことになる。

 その数ヶ月前(1969年3月5日)に、アデナウアーのころからすでに東西協調を 明確に支持していたグスタフ・ハイネマンが大統領に就任している。その側には、ヒトラーの独裁に対して抵抗活動をした男、ヴィリー・ブラントが連邦政府のトップに立っており、連邦政府は全ヨーロッパの平和秩序の構築にそのエネルギーをそそいだ。世界政治の 情勢は好都合な状態で、モスクワとワシントンは戦略兵器削減交渉(SALT)を行って おり、NATOが兵力削減交渉を提案していたこともあって、1969年11月28日、 ドイツ連邦共和国は核不拡散条約に調印することになった。総じて新しい政府は、大連立での内政の騒動の後(ベトナム戦争、非常事態法、アウシュビッツ裁判、議会外反対派「APO」、学生の文化革命)では、導入した協調政策をはっきり成功させなければならないという重圧の下にあったのである。

 モスクワとワルシャワに対して武力不行使の交渉が始まっているころ、ボンと東ベルリンもいっそうの協調の可能性を探り合っていた。1970年3月19日、両ドイツの首相、 ブラントとシュトフが、エアフルトではじめて会談している。第2回目は、同年3月21日、カッセルで行われ、さらに8月にはモスクワで武力不行使と現状承認にかんする条約が調印されており、両者はこの条約で、「誰に」対しても領土の要求はしないことを確認 したのである。モスクワで取り交わされた「ドイツ統一に関する覚書」の中で、連邦政府は「ドイツ民族が自由な自己決定によってその統一を取り戻す」ことができる平和な状態 をヨーロッパの中で確立しようとする目的と、この条約とは矛盾しないと明言している。 続いて同年12月7日、ワルシャワ条約が調印されたが、その中では現在の国境線(オーデル・ナイヒ線)の不可侵が確認されている。ワルシャワとボンは、互いにいかなる領土的な要求も持たないことを保証し、両国の協力関係を改善する旨を発表しており、また、 人道的な扱いについての「通知」で、ポーランド政府はドイツ人のポーランドからの出国と、ドイツ人家族の再会を赤十字をつうじて行うことに同意した。

 条約の批准を可能にするために、フランス、イギリス、アメリカ、ソ連によるベルリン協定が調印されたが、それによればベルリンは西ドイツの一部ではないけれども、同時に ボン政府がベルリンの代表権を持つ事も認められている。さらに西ベルリンと西ドイツの間の「結び付き」は改善される必要があり、東ベルリン・東ドイツと西ベルリンの関係も 強化されるべきであるとされた(1971年12月17日の通過協定調印)。このような 平和緊張緩和へのドイツの努力が世界的に認められたからこそ、ヴィリー・ブラントに ノーベル平和賞が授与されたのである(1971年)。

 それども、はじめて野党に転落していたCDUとCSUには交渉の結果は実りの少ない ものに思えていたのが、ブラントに対する建設的不信任投票は249対247で否決されてしまう。1972年5月17日、連邦会議がソ連およびポーランドとの条約を批准した際、大多数のCDUとCSUの議員は棄権した。このようなこともあって連邦会議は条約についての「解釈決議」の中で、この条約が平和な統一ドイツの再生とは矛盾しないことを確認しているのである。

 東方との諸条約は、最終的には両ドイツ基本条約によって完成されるが、そのための 会談と交渉は1972年の6月から続けられていた。1972年12月14日、ヴィリー・ ブラントが首相に再選された後では、同年12月の条約調印には何の差し支えもなかった。 条約では、両国は武力による威嚇やその使用を互いに放棄すること、両ドイツ間の国境が 不可侵であること、また両国の独立と自決を尊重することなどを明記しているし、また、 実務的、人道的な問題を調整する用意があることも確認しており、両国関係が特別な性格をもつので、通常の大使館ではなく「常駐代表部」を設置するという合意にもいたっている。また条約締結に当たって西ドイツ側は覚書を手渡して、ドイツ統一の意志は変わらないことを強調し、統一という目的と条件が矛盾しないことをバイエルン州政府は連邦憲法 裁判所に認めさせたりもした。連邦憲法裁判所はそれに加えて、ドイツ帝国が国際法から 見て存続しており、ドイツ連邦共和国はその一部分であり、東ドイツは外国ではありえず、 国内であることも確認したのである。

 1973年にはチェコスロバキアと西ドイツの間にプラハ条約が調印され、その中では、 1938年のミュンヘン協定は「この条約によって」無効となることが確認されており、 また国境の不可侵と武力の放棄もこの条約にうたわれている。 一方、ウイーンでは武力削減交渉(MBFR)が始まっていて、ソ連とアメリカの間で核戦争防止協定が成立し、ヘルシンキでは35ヶ国が全欧安保協力会議(CSCE)を 行っていたが、東西ドイツの関係は基本的には変わらなかった。すなわち東ベルリンは 基本条約につづいて結ばれた個々の協定によって物質的、経済的に利益をうける一方で、 イデオロギー上の境界は慎重に守りつづけたのであり、東ドイツ憲法の改正によって 「ドイツ民族の社会主義国家」という言葉は消えたが、その代わりに「労働者と農民の 社会主義国家」とされたし、また「全ドイツ民族に平和と社会主義の将来への道を開く 責任を負っている」という文言も削除されている。

 それにも関わらず、スパイ事件(ギョ−ム事件)のために辞任したヴィリー・ブラントに代わって、1974年5月16日に首相に就任したヘルムート・シュミットも、融和 政策の継続に努力する。すなわち東ドイツはスウィング規定によって西ドイツから認められていた信用割り当ての最高額を定期的に8億5千万マルクまで超過することができたのだが、それが1981年まで延長されたのである。

 また、さらに東ドイツは、自分達の側を政治的に閉ざしておきながら、西側からさまざまな財政援助を受けた通貨協定によって大きな利益を得ていた。ヘルシンキでのCSCE 最終文書(1975年)でも、国境通過交通の自由と、人権と市民権の尊重が約束された 程度だったので、失望したのは規則、恣意的な入国禁止、ライプツィヒ見本市を訪れる人の入国拒否などが廃止されることはなく、東ドイツに対する批判的な報道は、西側ジャーナリストの国外退去をもって報復されたし、東ドイツのシンガーソングライターである ヴォルフ・ビアマンが市民権を剥奪されたことは、社会民主統一党(SED)政権の国際的な信用を失わせる事になったのだった。にもかかわらず、西ドイツは東ドイツの人々のために融和と団結の政策を堅持し続けたのであり、1978年には、西ドイツの巨額の 資金援助による、ベルリン・ハンブルク間のアウトバーンの建設や、西ベルリンへの通過 水路の修理が合意されているし、さらに東ドイツの政治犯を自由にする為の支払いも続けられたので、最終的には3万3755人の政治犯と別れ別れになっていた家族を一緒に する為の25万人の出国に、35億マルク以上を東ドイツに支払ったことになるのである。

[「ミサイル競争」対緊張緩和政策]
 西ヨーロッパで協調が促進されている一方で、緊張緩和の十年間が終わるころから80年代の初めにかけて、東ヨーロッパでは新しい紛争が次々と起こり始めていた。ソ連軍の アフガニスタン侵攻やポーランドでの戒厳令の布告、また新中距離ミサイル(SS20) の東ドイツとチェコスロバキアへの配備も加わったので、東西関係の雲行きは悪化して、 対立の激化へと後戻りする危険が迫ってきたのである。

 安全保障上のバランスが不安定になる危険に対して、NATO陣営も1983年以降 ミサイルを増強する決定をしたが、同時にソ連に対して軍備管理交渉を提案した。 (NATOの二重決議)。またアフガニスタン侵攻に抗議して、アメリカ、イギリス、 カナダ、ノルウエー、西ドイツは1980年のモスクワでのオリンピックをボイコット している。

 この状況下で、新しい動きを打ち出したのが、アメリカ主導のいわゆる「ゼロオプ ション」で、ソ連の中距離ミサイルを撤退する見返りとして、NATOもパーシングU 型ミサイルと新型巡航ミサイルの配備を断念するというものであった。

 シュミット首相は、安全保障上の空白を避けるためにソ連に遅れをとらないように 軍備増強を主張するかたわら、両ドイツの関係ができるかぎり傷つかないように配慮してもいて、国家元首であり党書記長であるホーネッカーが東ドイツ国民を固有の国籍をもつ ことを要求し、訪問者の最低両替率が大幅に引き上げられたにもかかわらず、東ドイツを 訪れたが、結局はホーネッカーから実質的な譲歩を引き出す事は出来なかった。彼の政権 がますますイデオロギーに固執するようになったのは、とくに隣国ポーランドの状況を 反映しており、そこでは多くの国民の間で抗議運動が増大して、経済改革、自由、軍縮が 求められていたからである。

 しかしミサイル競争で権威が失墜したのは東側だけではなく、ボンでもFDPが経済 政策の転換を決めて連立から脱退したあとで、SPDの底辺部分が平和運動や労働組合の 圧力でNATOの二重決議を断固として支持するシュミット首相に従わなくなった。 こうして1982年10月1日、ヘルムート・コールがキリスト教民主・社会同盟、自由 民主党による連立政府の新首相となって、ボン政府の安全保障政策を堅持し、フランス、 アメリカと緊密な関係を維持しながら、統一ヨーロッパも強化と安全のために努力をつづけるのである。暴力的な平和運動のデモにもかかわらず、ヘルムート・コールの政権は 動揺することもなく、1983年11月に連邦議会が軍備増強を承認したことで、西側同盟の信頼感が増し、NATOの危機も回避されたのである。

 しかし80年代の半ばにはもう、米ソ両国は新らたな軍縮のための話し合いを始めるのであり、その後まもなく西ドイツに新しく配備されていたミサイルがふたたび撤去される ことによって、「より少ない武器で平和を創ろう」(コール首相)をモットーに、軍縮は 初めて現実のものとなる。

[東ドイツ崩壊からドイツ統一へ]
 1949年10月7日に生まれた東ドイツはモスクワが創りだしたものである。そこで 東ドイツははじめから共産主義独裁であり、ドイツ社会主義統一党の支配がその基盤で あったが、統制経済、秘密警察、社会主義統一党の一党独裁、厳しい検閲などが、市民と 権力機構との間をしだいに疎遠にしていった。けれども生活に必要な基本的な物質や社会 資本が非常に安価だったことは、閉塞状態にあるシステムに柔軟性を与え、社会のいわゆる 小さな隙間の部分ではさまざまな生活形態を可能にしており、スポーツでは東ドイツは 国際的に大きな成果を上げて、「働く者」の気持ちを埋め合わせ、満足感を与えたりもしている。彼等はソ連への巨額の賠償にもかかわらず、東側のブロックではすぐに最高の工業 生産と生活水準に達していたのであるが、精神的、文化的な指導と監督についての反応に なると、個人的な世界に閉じこもってしまうだけであった。

 年度計画以上の達成とか、生産競争の勝負などというプロバガンダや、反帝国主義的な 憎悪を植えつける教育が学校、職場、軍隊が表面的には行われていたが、その裏では西側を経済的にはるかに凌ぐという当初の目標はフィクションにすぎないとする見方が次第に 広まってゆく。資源の枯渇、無謀な産業活動による環境破壊、中央集権性と計画経済に よる生産性の減退によって、SED政権は公約をさき延ばしせざるをえなくなり、西側 からの巨額な財政上の借り入れ回数はますます多くなって、消費物質については場当たり 的な方策しか打ち出せなくなったのである。生活水準は低下し、インフラストラクチャ− (住宅、交通施設、環境保護施設)は老朽化した。

 すべての国民に対してスパイの目を光らせ、洗脳を行い、なりふり構わず連帯をアピールするばかりの「労働者階級とそのマルクス・レーニン主義の党」(東独憲法第1条)の 指導権というものは、とくに若い世代には口先だけの虚言に過ぎないと思われたのであった。これに対して国民は、自己決定権、共同決定権、とりわけ個人の自由と消費物質の 量と質の向上を望んだのである。

 ミサイル配備、アメリカ政府の人工衛星による防衛システム(SDI戦略防衛構想)の 構築、そして東ドイツの絶え間のない小細工(ブランデンブルク門の側に第2の壁を建設 するとか、ベルリンへの空路の妨害など)が、外交全体の雰囲気を冷たくする一方で、 東ドイツ市民はその指導部を苦境に陥れていた。すなわち、出国を希望する東ドイツ市民が、西側への出国が最終的に認められるまでは、東ベルリンにある西ドイツ常駐代表部 から退去するのを拒否した事件などがその例である。また、東ドイツの人々の困窮が緩和 されるようにと、西ドイツ政府が何度も巨額の貸付けを行うように銀行に動きかけると、 モスクワは社会主義の内部崩壊につながるのではないかと懸命を示したが、エーリヒ・ ホーネッカーは1984年SEDの党中央機関紙『ノイエス・ドイッチェランド』紙上 で、「社会主義と資本主義は火と水のように融合不可能である」と、懸命の解消につとめる のであった。しかし、公式にみせる自信くらいでは、東欧諸国での革命運動によって全社会主義ブロックがしだいに守勢にまわっていることを、覆い隠すことはできなかったので ある。オタワのCSCEの会議(1985年)で、東側の人々には言論や旅行の自由が 与えられていないと非難されると、ホーネッカーはその非難をはねつけたが、それは プロガンダであり、嘘にすぎなかったのである。

 1985年初めから、ますます多くの人々が東ドイツにある西ドイツ常駐代表部や プラハのドイツ連邦共和国大使館に駆け込むようになっていたが、まもなくすると、3月に死去したコンスタンティン・チェルネンコの後継者として、ミハイル・ゴルバチョフが ソ連共和党書記長に就任して、自由を渇望している東ドイツ市民にとって大切な希望の星となってゆくことになる。

 1986年、ゴルバチョフは今世紀末までに核兵器を廃止することが最重要の政治課題 であると明言した。ゴルバチョフ書記長がアメリカのレーガン大統領とジュネーブやレイキャビクで首脳会談にのぞんだことや、ストックホルムでの信頼醸成と軍縮についての 会議(CSBM)、欧州通常戦力消滅(CFE)のための準備交渉などは、新たな対話の 為の準備となった。これらによって両ドイツの間で文化や芸術、教養や学問の領域での さまざまな交流も促進されたし、協力して環境保護を行う枠組みとなる協定も結ばれ、 また1986年には、ザールルイとアイゼンヒュッテンシュタットが両ドイツの間で初めて姉妹都市の関係を結んだ。このようなゴルバチョフは両ドイツにとって希望の星となったけれども、SED指導部はゴルバチョフのスローガンである「ペレストロイカ」と 「グラスノスチ」の勢いに押されるのを恐れて、ソ連社会でも民主的でSEDの理論的 指導者であったクルト・ハーガーは、隣の家が壁紙を張り替えるから自分の家もそうする必要はない、と公式見解を唱えたのである。

 そのような態度によって東ドイツの指導部がいかに人々の期待を裏切っていたかは、 8月13日のベルリンの壁記念に、東ベルリンで抗議デモが発生したことが証明している。 ホーネッカーが交渉のためにボンを訪問したとき(1987年)、ヘルムート・コールは このお客に対して、ドイツ分割の継続を批判してこう言った。「我々は現在の境界線を尊重 はするが、分割については平和的な方法で、また協調を進めることで、解消することを望んでいる」。(中略)「我々の国民の生活基盤を維持することに、我々は共通の責任を負って いる」。

 このような生活基盤の保障に前進をもたらしたのが、レーガンとゴルバチョフの間で 行われたINF条約の調印であった。この条約で両国は、ヨーロッパに配備してある 500キロから5000キロまでの射程距離を持つ両国のすべてのミサイルを、3年以内 に撤廃することになった。西ドイツもこれに呼応じて、自国のパーシングIA型ミサイル 72基を廃棄する準備があることを発表している。

 全般的な緊張緩和は、東ドイツで自由の拡大と改革の要求を強めることになって、 1988年初めには東ベルリンで「下からの教会」の平和運動の支持者120人が逮捕 されると、その逮捕者のためにゲッセマネ教会で代願礼拝が行われ、2000人以上が 参加して、2週間後にはその数は4000人にもなった。またドレスデンでは警察が人権や 言論、出版の自由を求めるデモ隊を追い散らしたりしている。5月にはホーネッカーは、 ソ連のヤゾフ国防相が訪問した機会をとらえ帝国主義の危険を力説して、ワルシャワ条約 機構の強化を要請したのであった。

 コール首相は旅行規制が多少緩和されたことを評価しながらも、1988年12月の ドイツ連邦議会における所信表明演説の中で、東ドイツでの改革の努力の弾圧を憂慮する 表明をなすことを、避けて通るわけにはいかなかった。しかし国家元首であり党書記長で あるホーネッカーにとっては、新しい市民運動はただ「急進派の攻撃」にすぎなかった ので、壁の撤去が繰り返し要求されると、1989年1月にこう答えている。「反ファシズムの防護壁は」、「それが構築された諸条件が変わらない限り存続するのであり、50年も 100年でもありつづける」だろう。
 ゴルバチョフが「欧州共同の家」構想を語り、ヘルムート・コールが「数十年におよぶ ヨーロッパの硬い表皮が破れようとしている」と希望に満ちて断言しているときに、 東ドイツの指導部が強精で頑固な態度を取ったことは、東ドイツ住民の怒りを増大させる ことになって、一時閉鎖を強いられたほどであった。

 1989年9月にハンガリーが出国を希望している東ドイツ市民に国境を開いたので、 数千人がオーストリア経由で西側へ脱出できたのだが、このようにワルシャワ条約機構の 原則が破られたので、東ドイツではさらに多くの人々が抗議行動をおこす勇気を奮い起こすことになり、教会外の団体でもそのような行動が増加した。東ドイツ指導部が1989年10月初めに虚飾に満ちた建国40周年を祝ったとき、ライプツィヒを中心に大衆の 抗議が発生していたのである(「我々が国民だ」)。

 SED政権の基盤をまだ守ろうとするなら、最後の手断は辞任しかないとホーネッカーはついに観念した。そしてエゴン・クレンツがSEDの後続書記長兼東ドイツの国家元首となったが、その「転換」の約束も彼の人間性に対する不信感のために反古となって、 事態の展開に押された閣僚評議会とSEDの政治局は辞任してしまう。この非暴力の「隠やかな革命」は国家組織をいわば麻痺させたので、SEDベルリン地区書記長のシャボウスキーが旅行の自由の新しい規定についてあいまいな発表をすると、1989年11月 9日の夜からベルリンでは大量の越境が起こった。当局は茫然と眺めているばかりだった。 もう取り締まる法がなかったからだ。壁は開かれた。そしてすぐに取り払われ、コンクリートの小片となって記念品として世界中で売られている。

 壁が開かれたという知らせをコール連邦首相はワルシャワで聞いた。滞在を一日中断 してベルリンに取って返した彼は、シェーネベルガー市庁舎のバルコニーから2万人を 前に語りかけた。彼は注意を促す。この幸福な瞬間にも落ち着きを支援に感謝しよう。 そして首相は声高らかに言った。自由の精神が全ヨーロッパを平和、安全、安定のための ドイツとポーランド間の協力の拡大と強化について宣言文に署名したのだった。

 東ドイツでの変革によって、数十年来の非願であるドイツ再統一のチャンスが訪れた。 けれども慎重さも必要であった。フランスとイギリスからすれば統一は「まだ現実的では ない」ものであったし、ゴルバチョフはブッシュ大統領とのマルタ沖での船上で行われた 米ソ首脳会談(1989年12月)で、ドイツ問題を人為的に促進することは疑問があると釘を刺し、また東ドイツ自体もモドロウが新政権を樹立して、急速な改革の要求と国の 独立維持の希望を両立させようとしていた。そこでコール連邦首相は、統一という目標に 近づくために、10項目プログラムを打ち出し、国家連合という構造を持つ共同体を条約 によってつくることができるはずだと考え、その前提条約として東ドイツの政治的、経済的システムを根本的に変える必要があるとしたのである。コール連邦首相が考えていた のは、ECとCSCEによって決められていた全ヨーロッパの発展の枠内で、東ドイツと 直接交渉をするということであった。その際交渉に具体的な期限を設定しなかったのは、 統一のプロセスの初めからすでに様々な国で言われていた、ドイツが大国としての役割を 果たそうとするのではないかという不信感を、増大させないようにするためである。 ふたつの国がひとつになる道のりが遠そうに思われたのは、ゴルバチョフが1989年 12月のソ連共産党中央委員会でもまだ、モスクワは東ドイツを「見殺しにはしない」 だろう、と確約したからである。ゴルバチョフは言う。東ドイツはワルシャワ条約機構の 戦略的な同盟国であり、ふたつのドイツは存在では変更されるべきではない、それでも 両国は平和的に協力しながら発展することが十分可能である。

 とくに統一の進度と内容については、東ドイツの人々自身が決めるべき問題であると コール首相は考えていたが、政治では時間的な進展をコントロールできなくなっていた。 東ドイツの人々は新政権に不信を持ち、西側の魅力は増して、全体に不安定な状態が急速 に広まっていった。しかしゴルバチョフはまだ統一に消極的な態度を捨てなかったのだが、 それというのもポーランドとハンガリーにはモスクワの指導力はまったく及ばなくなっており、ルーマニアではチャウシュスクの失脚目に見えているので、東ドイツのワルシャワ 条約機構からの離脱は安全保障のバランスを崩すことになるからであった。また西側からも、統一にあたっては「ドイツの近隣諸国の正当な憂慮に配慮すべきである」(ベーカ 米国務長官のベルリンでの演説)とする忠告もあったのである。結局、統一問題には現状の国境線の変更は決して伴わないこと、統一した場合NATOの枠を旧東ドイツ地域に 拡張しないこと、これらにボン政府が同意することによってのみ、統一の進行は継続できることになった。アメリカのブッシュ大統領はドイツがNATOにとどまるという条件 統一に賛成している。東ドイツに民主的で合法的な交渉相手を確保するために、1990年3月18日、東ドイツでは40年ぶりにはじめて自由な選挙が行われて、キリスト教 民主同盟、ドイツ社会同盟、民主主義の出発、社会民主党、自由民主党からなる大連立 政権の首班にロター・デ・メジエールが就任すると、ボン政府は彼と共同して、1990年7月1日に経済、通貨、社会の統一を行う予定で合意した。それは東ドイツにはひとつの国家として存続する経済的な基盤がもはや失われていることと、東ドイツ市民の大多数 が連邦共和国と一緒になると決心していたことが、誰の目にも明らかだったからである。 1990年8月、人民議会はできるだけ早く東ドイツが西ドイツと合体することに賛意を表明して、同年8月31日にはそれを取り決めた「統一条約」が、東ドイツのクラウゼ 内閣官房長官と西ドイツのショイプレ内相によって調印の運びとなり、東ドイツの連邦 共和国への加入は、条約の基本法23条にそって1990年10月3日に成立したので ある。そして東ドイツのブランデンブルク、メクレンブルク=フォアポンメルン、 ザクセン、ザクセン=アルンハルト、テューリンゲンの諸州がドイツ連邦共和国の州と なった。首都はベルリンと定められ、基本法が若干改正された後、加入諸州で発効する ことになる。

 統一が可能となったのは、1990年7月にゴルバチョフがモスクワとスタブロポル (コーカサス地方)でコール首相と会議した際両ドイツの統一に賛成したからであるが、 その前提条件となったのはドイツがABC兵器を持たないこと、兵力を37万人に消滅 すること、東ドイツにソ連軍が駐留している間はNATOの軍事的な枠組みを東ドイツの 範囲に及ぼさないことであった。ソ連軍は1994年の終わりまでに撤退することが合意 され、その際コール首相はソ連軍の帰還後に必要となる措置に財政的援助を与えることを 承諾した。ゴルバチョフの賛成によっていわゆる2+4条約の調印も可能となり、ソ連、 アメリカ、フランス、イギリスと両ドイツの代表が、東ドイツとドイツ連邦共和国の領域、 そしてベルリンからなる統一ドイツの成立を公式に承認し、ドイツの国境線が最終的な ものであることが認められたのである。また特別で、歴史的な背景をもつポーランドの 安全保障の要求を考慮に入れて、ボン政府とワルシャワ政府は補足条約の中で領土の不可侵と主権を相互に尊重することを確認しあっている。

 統一条約と2+4条約の批准によって、戦勝4ヶ国の「ベルリンとドイツ全体」についての権利と責任の崩壊とともに失った、内外の要件について完全な主権を回復したことになるのである。

[将来への転換]
 ドイツ統一の樹立と厳しい政治的な変化は、東欧の共産主義国家の崩壊をもたらしたが、 その後で連邦政府とそのパートナーはまったく新しい課題に直面したし、将来においても 直面することになるだろう。

―新しい連邦諸州の再建は進められなければならないし、ドイツの内的な統一は実現されなければならない。
―欧州連合はさらに発展を続け、強化されるべきである。
―広範囲な平和と安全保障の構築がなされ、保持されなければならない。

 国家的な使命やヨーロッパ的な使命、あるいは全世界的な使命というものは、互いに 不可分に結びついているものだから、新しい諸州の再建と強化は、ヨーロッパ統合のプロセスの中での強い結束がなければ成功しないし、またヨーロッパは、中欧、東欧で改革を 行っている国々に門戸を開放することがなければ、みずからの新しいつくりかたを維持 することできないだろう。中欧、東欧の国々が経済的にも政治的にも、一歩、一歩、 ヨーロッパ規模の機構と大西洋を越える機構に近づくようにしなければならない。この 意味で1994年6月24日、コルフ島での欧州連合とCIS諸国の間の友好協力協定が 調印されたのであり、ドイツがソ連に包括的な援助を行ったのも、民主的な改革の成果と、 政治的な価値観を新たに共有することについて、連邦政府が重大な関心をもっているからである。かつてのソ連と今日のCIS諸国に対するドイツの支出と約束された援助額は、 1989年の終わりから1994年の終わり現在で、900億マルクを越えているが、
CIS諸国における政治的、経済的な改革の発展のためにドイツが援助を行うときには、 その大部分についてヘルメス輸出保険が471億マルクにもおよぶ信用保証と保証をして いる。さらにドイツ人は自発的に募金運動をしてロシアの人々を支援しており、1990年から1992年までの私的な募金は6億5000万マルクに達しているのである。

 1994年8月31日に、ドイツに駐留していたロシア・最後の部隊の撤退式が、 コール首相とロシアのポリス・エリツィン大統領出席のもとに行われた。ドイツ統一の 時点で、およそ34万のソ連兵と21万人ほどの家族の東ドイツにいた。連邦政府が ロシア軍の撤退を支援するために支出した金額は総額146億マルクに達しているが、 その大部分はロシアやベラルーシ、あるいはウクライナに帰還した兵士たちのための、 4万5000戸の住宅の建設にあてられたのである。

 国家の支出については徹底的に引き締め措置をとっているが、連邦政府は開発途上国 への財政上の責務は引き続け揺れないつもりである。経済的な生活基盤と共に、そこに 住んでいる人々の社会的、政治的環境もふくめて改善することを目指しているので、援助を受けている国が人権を尊重しているかどうかが、連邦政府が途上国への援助を実施する 場合の重要な基準となっている。

 ドイツは国連への分担金の支払いでは世界第3位で(国家予算の8.9%)、NATOの 予算の22.8%、西欧同盟の28.5%も支出している。このことはすでに、2国間や 多国間の分野でこれまでの政策を続けることによって、安定と平和の維持に寄与すると いう、連邦政府の意志を数字の上からも強調しているのであるし、またその結果として 国連安全保障理事会の常任理事国へドイツは名乗りを上げているのである。また国連事務総長の求めに応じて、1993年に夏にドイツ国防軍の輸送中隊ははじめてソマリアの 「安全な地域」への国連ブルーヘルメットの出動に参加したのだった。この参加はドイツ 国内で政治的に問題があるとして議論されたが、しかし1994年7月に連邦憲法裁判に よって下された判決は、国連安全保障理事会の決議を実行に移すために、NATOと西欧 同盟が行動する範囲での出動なら、ドイツがその兵力を参加させるのも認められるとした。 同様に、カールス・ルーエにあるこの連邦憲法裁判所の判決では、国連によって編成された平和部隊にドイツ軍が参加することも認めたのである。

[欧州連合への道]
 1993年の初めから共通の域内市場が当時の12のEC参加国に開かれた。この市場は3億4500万人のヨーロッパ人を、地球上でもっとも購買力のある経済圏としてまとめようとするものである。スイスを除いて欧州自由貿易連合(EFTA)諸国(オーストリア、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、アイスランド、リヒテンシュタイン)は欧州共同体と合体がその第一段階に入ったので、EC諸国間の資本の移動には自由に なり、参加国間の経済政策の協調と各国中央銀行間の協力が強化されている。1994年 1月1日から、欧州通過機関(EMI)は第二段階として欧州中央銀行の設立の準備を しているが、場所はフランクフルト・アム・マインが見込まれている。第三段階は通過 統合の最終段階であり、それを開始すればやり直しはきかないのであるが、その決定は 一番早ければ1996年の終わりになるだろう。そしてその際、通貨がしっかり安定し 国家財政が健全であることが、予定されている完全な経済、通貨統合の確立のための前提
となるのである。

 連邦政府にとっては、1991年のマーストリヒトでの首脳会議で経済通貨同盟条約が 取り決められただけでなく、さらに欧州共同体がいっそう強化されるため、ひとつの屋根である欧州連合が合意された事が、とりわけ重要なことであった。この条約は1993年 11月発効している。連邦政府の考えでは、共同体の強化はその拡張と平行しなければ ならないのであって、かつてのEFTA諸国の参加の後に、中部、東部、南東部ヨーロッパもやや長期的にみてEUに招き入れられなければならないのである。

 したがって1994年12月にエッセンで21カ国の首脳が参加した開催されたEU 首脳会議では、欧州協定によってEUに結びついた改革中の東欧と中欧の6カ国(ポーランド、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア)のような国々が、 欧州連合へ参加する道を開く事ができるコンセプトが決定されたのである。EU白書に よれば1995年のなかばまでには、東側の隣人への必要で適切な措置がまとめられる ことになっている。向こう5年間にはEUはこれらの国々に少なくとも106億マルクの 支援を行うはずである。

 1996年には政府間会議が予定されており、そこでこれまでの経緯を批判的に見直し、 必要とされるEU加盟国間の協力の改善が決議されることになろう。1995年1月1日 にフィンランド、オーストリア、スウェーデンの加入によりEU加盟国は15カ国に 増えた。1995年4月からシェンゲン協定が発行して、ドイツ、ベネルクス3国、フランス、スペイン、ボルトガルの国境では国境検問がなくなったが、その代わりに域外に 対しての国境では、パスポートと通関手続きは厳しくされている。必要な準備が終われば さらに多くのEUの国々が、シェンゲン協定を同じように実行に移すことになるだろう。

[経済面での統一]
 東西ドイツの同北のプロセスは、ヨーロッパ・統合の枠組みの中で、東欧諸国の国家 体制の崩壊がもたらす世界的な政治、経済構造の再編と平行して行われている。

 旧東ドイツの計画経済を社会的市場経済に転換し、順調に動かすということは、歴史上 例をみない未曾有の試練である。あおのために必要なのは西側から東側への急激な資金の 移動だけではない。政府の支出は1994年末までに総額6400億マルクに達しているし、1995年の末には総額は8400億マルクにまでなる見込みではあるが、同時に また経営陣を全面的に変えることも必要なのである。旧東ドイツの多くの企業はきわめて 悪い状態にあるので、引き続き存続させることは無責任となる。新しい諸州の経済構造を 改革するために重要な役割をはたしたのは信託公社であり、その活動が停止した1994年末までに、この信託公社は1万4000の会社を民営化し、その際企業の売却収益は およそ650億マルクで、また2070億マルクの投資の確的を取り付けた。さらに 150万の雇用が確保されるのは信託公社の達成したとくに重要な成果なのであり、それというのも経済の変革によってとりわけ雇用の機会が激減することになり、人員削減が頻 繁に行われる中で多くの職場が失われたからである。そこで連邦政府は統一以来、巨額の 財政措置で新しい雇用の創出に力をつくしてきたので、新しい諸州で経済成長がめざましく促進されただけででなく、とくに労働市場への積極的な政策による働き掛けのかいもあって、1995年初めから失業率があきらかに減少する傾向になっているのである。

 1994年の終わりまでに連邦政府の資金で新諸州の300万戸が改修され、15万戸 ほどが新築された。老朽化したかつての帝国鉄道には1994年も含めて250億マルクが、荒廃した設備の修理のために支出され、帝国鉄道と連邦鉄道の合併については、西の 水準にあわせるために2002年までにさらにおよそ700億マルクの出費が予定されて いる。電気通信の分野では巨額の投資によって、1997年には95%の家庭で電話が 設置されるはずである。
 とくに中小企業はこの数年、新諸州の建設にあたって機関車の役割を果たした事が実証 されており、46万人以上の人が自営業を始め、そのうち手工業分野だけでも14万人を 数える。また、つぎに挙げるような内容の援助と助言も新諸州における投資活動を支えて いる。

―自己資本援助計画。これは連邦政府の財源により行われる。
―1990年から欧州復興計画による24万件の支援融資。
―「共同任務としての地域経済構造の改善」。財源は連邦、州、欧州連合が共同で負担する。
―復興金融公庫の中小企業を対象とした支援計画。

 3年前から東ドイツの経済全体は成長軌道に乗っている。1994年には国内総生産は 8.9%伸び、1995年には8%〜10%の上昇が見込まれているから、新諸州は欧州 連合の中でもっとも成長率の高い地域なのである。1994年のこの地域での消費者物価 の上昇はたったの1.8%にすぎず、収入と年金はしだいに西ドイツの水準に近づいて いて、1995年の中頃には西ドイツの約84%に達するであろう。多くの産業分野 (例えば建設業、手工業など)は今日しだいに地元の需要で成長できるまでになっているが、就業者1人当りの生産性が低いということも一困となって未だに問題を抱えている 分野もある。それでも1991年にまだ西ドイツ企業の31%に過ぎなかった東ドイツの 生産性は、1994年にはほぼ52%にはなったのである。

 1995年の初めから、新諸州は他の連邦諸州との通常の財政調整に含まれることに なった。それまでは「ドイツ統一」基金が新諸州の財政的な能力を保護してきたので あった。

 新諸州の建設にともなう巨額の費用を埋め合わせるために、また連邦の連邦の実質 借り入れを無限に膨らませないために(債務返済費用は連邦財政のおよそ20%を占める までになっている)、1995年1月1日からドイツでは統一協力税が賃金税や所得税、 法人税の7.5%にもなっている。ただし低所得者層はこの税を免除されている。

ドイツにおける産業立地の確保]
 連邦政府は徹底的な節約により財政の再建に着手し、来年度以降の新しい負債を大幅に 減らそうとしている。国際通貨基金の統計によれば、統一による歴史的な試練にもかかわらず、ドイツの新規責債は西側の国々の平均を下回っているのである。

 すでに1994年から見られていた経済の成長傾向は今年に入っても続き、1995年 の成長率はドイツ全体で3%と予測されている。中でも、東ドイツの経済活動は8%〜 10%にも達成すると予想されているが、この成長の光景にはヨーロッパのパートナー 諸国の景気の回復があった。このような回復によって、ドイツの投資財への需要が相当に高まったこと、またこれに加えて、賃金交渉での労使双方の方針が穏当なものであった事 も挙げられ、その結果1994年には製品当たりの人件費が連邦共和国歴史の中ではじめて前年を下回ったのであった。これによって世界市場でのドイツ製品の競争力は相当に 向上したのである。連邦政府は産業立地国としてのドイツが、国際的大企業にとってだけ 魅力的であってはならないと考えている。産業立地確保法においては資産と資本金が一定の限度を越えない中小の企業に対して、税制上の優遇措置を明文化している。事業所得税の最高税率47%へと引き下げられ、株式会社と有限会社の法人税率では、社内留保利益 に対して45%、配当金に対して30%にまで軽減されている。

 公共支出比率については、1992年に50.5%になり、今世紀末までにはドイツ 統一の前の45、8%程度に低下するだろう。公共支出の構造は、技術革新、投資、雇用 に積極的な効果がでるように変えられなければならないし、すべての補助金の見直し、 行政の効率化なども考えられている。そうじてすべての変革は社会的市場経済の原理が ふたたび有効にはたらくようになることを目指している。

 産業立地国としてのドイツの地位を確保するための政策は、ただ経済的な方法によるだけでなく、90年代をつうじてひとつひとつ実現されてゆく社会政策的な施策も含まれている。予算節約、財政再建、経済成長の促進などの計画は、一部の公共支出の大幅な削減をともなってもいるが、ドイツ連邦共和国の産業立地国としての魅力を維持する為の政治のさまざまな多くの政策の一例にすぎない。この数十年の硬直化と誤った方向への発展を 是正することは、おおきな経済的、社会政策的な試練となろう。

[政治的安定の中で]
 ドイツ人の圧倒的多数は国家の統一を積極的に支持しているが、当然のことながら東西のドイツ人の多くの間では、西ドイツの人々が東ドイツのなめに行った貢敵について、 さまざまに評価が分かれている。40年以上も分断の中で生まれた違和感は、新しい始まりというものは持つ陶酔感に代わって何ができるかという冷静な判断が加わったことも あって、今日では次第に薄れてきている。東と西との生活環境を早急に同化させようと 口先で言うことは簡単だが、現実は違うということが理解されてきた。今日では実際の 成果に目が向けられるようになり、そのために新諸州の建設の進展に満足している人々の 数はしだいに増え、その数は現在全人口の60%以上にもなっている。

 SED支配の時代をきちんと整理する中で非常に難しい課題は、いわゆる政府犯罪を 法的に裁く事で、これは今も続いている。例えば、ベルリンの壁と鉄条網の周辺で発砲 することを命じた政治的責任者の罪は、どのように裁かれるべきなのだろうか。また東 ドイツの国家公安局(Stasi)の膨大な資料を見ると、心痛むものがある。多くの 東ドイツの人々は公安局が自分達にかんしてどのようなデータを保存していたかを知ろうと資料を閲覧する。そして信頼を寄せていた相手が自分を見張っていたことを発見して いるのである。

 外国のメディアは1994年を通じて、繰り返しドイツの政治状況が不安定のなる危険性について議論していたが、そうでないことは多くの選挙の結果が裏付けており、極右勢力は連邦議会で議席を得てない。1994年10月16日に行われた連邦議会選挙の公式 結果では、CDU/CSUが41.5%、SPD36.4%、FDP6.9%、同盟90/緑の党が7.3%、PDS4.4%であった。世論調査機関のアンケートによれば ドイツ国民の圧倒的多数が民主主義に信頼を寄せているのである。

 ドイツ人も外国人も、この数年ドイツで見られた排外的でしばしば極右的でもある暴力行為に強い衝撃を受けた。けれども、連邦政府と連邦諸州やほとんどすべての社会的に 大きな組織のさまざまな努力のおかげで、そのような行動を押さえ込むことができ、 1994年から95年にかけてのあらゆる選挙では、外国人の排斤と極右主義がドイツで いかなる政治的は支持も受けていないことがはっきりとしたのである。現在、連邦政府の 関心はトルコの国内紛争がドイツの地で闘われることを防ぐことに集中している。

 1995年5月8日、第2次世界大戦から50回目の終戦の日がめぐってきた。記念の 式典を行った時、戦争が多くの積のない人々に恐ろしい苦しみをもたらしたこと、平和を 求め続ける政策が今日世界でもっとも安定した民主主義国家に数えられ、国際社会に 対する責任を果たしていることに思いを新たにしたのである。

[ドイツの歴史・概史の感想]
45年までの間にいろんな出来事があった。
こんな出来事があったとは全然知らなかった。
ドイツはすぐにでも独立をしたかったと思うが当時はそうもいかなかった。
いろんな共和国やら、革命の時代やら・・・。
1945年当時からドイツではいろんなことがあった。
今まで45年からの歴史なんか全然触れなかった。しかし、このドイツのまとめやっていく間に次から次へといろんな歴史がわかってくる。
難しいからあんまり歴史などには触れたくはなかったけど、まとめをやっていく間に 戦後50年もの間にドイツで何があったかということが分かった。
ベルリンの壁の博物館に行って、いろんなことが分かった。壁が取り壊される前、 ドイツ人や何故こんなことがあったかとか。

【参考資料】
 ・ドイツの実情等

                                     99年度生 Y・U