※ このレポートは、風の学園の学習の一環として、各ゼミ生が担当をして作成しています。


アウシュビッツ(オシフェンチム)


 1939年9月の戦闘の後、オシフェンチム市(Oswiecim)を含むその一帯は、ドイツ第三帝国の一部に加えられた。同時にナチスはその名前をアウシュビッツと変更した。アウシュビッツ収容所は第二次大戦中5年間にも及びナチス・ドイツによって占領された国民に恐怖感を与え続けた。そして1939年にはヴロツワフ市(Wroclaw)のSS司令官と警察局に、すでに収容所建設構想が生まれていた。その発端は、シレジア地方の収容者があふれていること、シレジア地方、そして総督管区でのポーランド住民の大量逮捕の必要性だった。
 
 収容所に適した場所を決める為に、いつかの特別委員会が仕事を始めた。そして戦前
ポーランド軍の基地があったオシフェンチム市の軍撤退跡が選ばれた。その基地は町の 人口密集地から離れたところにあって、増設そしてさらに隔離することが充分可能で あった。また、オシフェンチムは鉄道の要衝であった為、交通の便もよかったことも 無意味ではなかった。

 収容所設立命令は1940年4月に下され、その所長にはルドルフ・ヘスが任命された。 この収容所は同年にポーランド人政治犯を収容する為に設立された。6月14日ゲシュタポによってアウシュビッツ収容所の初収容者として、タルヌフ市から728人のポーランド人が政治犯として護送されてきた。当初はポーランド人の虐殺の場として利用する予定で あったが、時間がたつとともにナチスは全ヨーロッパの人間、主にそれぞれの国籍を もったユダヤ人、そしてジプシーとソ連の捕虜をここに送り込みはじめた。収容者はチェコ人・ユーゴスラビア人・フランス人・オーストリア人、そしてドイツ人もいた。収容所が 開放されるまでポーランド人の政治犯もここに送られていた。

 収容所は設立された当時は、14棟の一階建て、そして、6棟の二階建て、合計20棟の 建物があった。41年〜42年には、収容者の労働力を使って、一階建ての建物が全て二階建てに改築され、そして新しく8棟の建物が増築された。 ようするに厨房と管理棟を除いて、28棟の建物がその収容所にあったことになる。 42年には、一時、28万人の収容者が同時に収容されていたことがあったが、平均収容者数は13万から16万人だった。収容者達は地下室と屋根裏を含めた収容者棟に入れられて いた。

 収容者の数が増大と同時に、収容所地域も拡大していった。そして、収容所は巨大な絶滅 工場に変わっていった。オシフェンチムのアウシュビッツ1号は、新しい収容所の建設の 基本となった。41年には1号から3キロ離れたブジェジンガ村(Brzezinnka) で、第2の収容所の建設が始まった。それはその後アウシュビッツ2号と名づけられた。

 そして、42年にはオシフェンチム付近IGフアルベンインドゥストリー工場があったモノヴィツェ村(Monowice)に、アウシュビッツ3号が建設された。それから
、42年から44年にはアウシュビッツ3号の管理下に約40ヶ所のミニ収容所が出現 した。 そこは、収容者たちの労働力を利用した工場・鉄工所、炭鉱の近くに置かれたものである。

 元アウシュビッツ収容所正門には「働けば自由になる」という皮肉なプレートがかかげられている。その門をくぐった収容者たちは毎日労働に出かけ、そして数時間後に帰ってきた。 厨房脇の小さな広場では、SS隊員が何千人もの収容者の数をよりスムーズに数えることが 出来るようにするため、そして、収容者たちがよりスムーズに行進出来るように、収容所の音楽隊が行進曲を演奏していた。



【第4ブロック】
[1階・1号室]
 アウシュビッツ収容所はナチスによって造られ、ポーランド人と諸国民を収容する為の 最大の収容所だった。収容された人々は監禁され、飢え、重労働、医学実験、死刑執行の 手段で虐殺されていった。そして、42年からこの収容所は、ヨーロッパにおけるユダヤ人の最も大きな絶滅センターになった。死を宣告されたユダヤ人の殆どはここに到着して すぐにガス室に送られ、ファイルに登録されずに殺されていった。その為に現在収容所で 殺された人間の数をつきとめることは困難である。しかし収容所問題を長年研究しつづけ てきた歴史学者の発表によると、存在している不完全である資料の研究からアウシュビッツ収容所では約150万人が殺害されたという事がわかった。 ブジェジンカで収集された人間の灰は器に入れられ、殺害された人々の祈念になって いる。

[2階・2号室]
 ドイツ第三帝国は様々な宗教・政治思想の人、捕虜と一般市民、強制退去させた町や 村の住民、偶然手入れの時に捕まえた人、そして人種として絶滅させる予定だった人々 をアウシュビッツ収容所に送り込んだ。 SS司令官ハインリッヒ・ヒムラ−はアウシュビッツ収容所をユダヤ人の絶滅センターに選んだ。その動機を所長のドルフ・ヘスは、回想録のなかで次のようにヒムラーを言葉 を引用しながら説明している。「これより東にある虐殺場では、大規模な行動が実現出来ない。そこで私はその目的の為にアウシュビッツを選んだ。交通上の立地条件は有利で、 しかもこの地域を周囲から隔離して、遮断することも可能だ」。42年1月に ユダヤ人の大量虐殺が始まった。最初の死を宣告されたユダヤ人が、シレジア地方と総督 管区(ポーランド)からアウシュビッツに護送されてきた。また、春になるとスロバキア、 フランス、そしてベルギー、オランダのユダヤ人も大量に送られてきた。そして、秋からはドイツ、ノルウェー、北ポーランドとリトアニア、またほかの占領された国々からも ユダヤ人が連行されてきた。

 ナチス・ドイツがソ連を攻撃して間もなく、アウシュビッツにはソ連軍の捕虜もまた収容されるようになった。収容所へ12万人の捕虜が送られてきた。そしてほぼ5ヶ月以内にそのうちの8320人が命を奪われた。ある人は毒殺され、ある人は、銃殺され、残りは 衰弱し、死んでいった。その犯罪の証拠の一つになるのは、その奇怪なる死亡者名簿で ある。 この名簿は博物館に保管され、何ページかの複写が展示されている。 特に着目すべき点は、5〜10分の間に死んでいった捕虜の死に対して偽の原因が書き込んである名簿である。 また、アウシュビッツ収容所は、約21万人のジプシーの虐殺場でもあった。その証拠 の一つは、収容者によって隠されたジプシー収容所の収容者名簿である。その複写も 展示されている。

[1階・3号室]
 アウシュビッツ収容所へ殺害される為に送られてきた人々の殆どは、東ヨーロッパに 移住させられるだけだと信じていた。 特にギリシアとハンガリーのユダヤ人たちは騙され、ナチスから存在しない農場、土地、 商店などを購入した。また収容所に着いた人たちは自分の財産に最も価値のあるものを 持参していた。

 逮捕された人たちの中には、2400キロもアウシュビッツから離れたところから運ばれてきた者もいた。この人たちは、多くは密閉された貨車で、食料なしで旅をさせられた。
貨車に身動きひとつできないほど押し込まれて、オシフェンチムに着くまで7日間から 10日間も旅をさせられた。 列車はオシフェンチムの貨物駅、そして、44年からは、ブジェジンカに特別に設けられた鉄道引き込み線(積み下ろし場)に着いた。ここでSS将校とSS医師が選別を行った。労働出来そうな人たちは収容所に入れられ、仕事が出来ないと判断された人たちはガス室へ行かされた。ルドルフ・ヘス元所長の証言によると、運ばれてきた人間の70〜 75%がガス室へ送られていたという。

 ユダヤ人虐殺行為時にSS隊員に写され、今まで残っている約200枚の写真のうちから、数十枚のドキュメンタリー写真が展示されている。アウシュビッツの「死の工場」の
見取り図には、赤で集団虐殺場が示している。それらは銃殺場・ガス室・焼却炉・死体を 落としあるいは積み上げて焼くための場所を意味している。

[1階・4号室]
 第2焼却炉・ガス室の模型を見ると、地下の脱衣室に入る人々が見える。シャワーを 浴びさせるとSS隊員に騙されていた為、皆、落ち着いている。洋服を脱がされ、シャワー室に見せかけた地下の部屋まで歩かされた。天井には水が出たことのないシャワーが取り 付けてあった。210平方メートル(約636坪)の部屋に、約2000人が押し込まれた。そして、扉を閉じてから、天井の穴からSSの衛生兵がそのなかへチクロンBをした。なかに入っていた人間は、15分〜20分の間に窒息して死んだ。その後、死体から金歯が抜かれ、髪の毛が切られ、指輪とピアスが取られた。そして死体は一階にあった焼却炉 へ、そして死体が多すぎる時には、積み上げる為に外へ運ばれた。部屋の壁には、ある囚人が44年に密かに撮影した写真が展示されている。その写真は、ガス室へ向かう女の 人たちと積み上げた死体を焼く場面である。

 チクロンBという毒薬は、デゲッシュ社が生産し、41年〜44年の間にそれで 約30万マルクの利益をあげた。 アウシュビッツだけで、42年〜43年の間に2万キログラムのチクロンBが使用 された。ヘス元所長の証言によると、約1500人を殺すのに6〜7キログラムの毒ガス が必要だった。開放後、収容所の倉庫には使用されたチクロンBの缶の山が残り、中身の 入った缶もあった。陳列戸棚にはチクロン結晶のほかに、アウシュビッツ収容所からデッサウのデゲッシュ社へ毒ガスを取りに行かせた命令書が何枚も展示されている。

[2階・5号室]
 アウシュビッツ収容所が開放された時、ソ連軍が倉庫で袋に入っていた約7トンの髪の毛を発見した。それは本来ならば収容所管理局がドイツ本国にあった工場へ送って儲けようとしたものだった。専門家による髪の毛の検査によると、その中にはチクロン化合物に 毒性をもたらすシアンが発見された。そしてその髪の毛を使って、ドイツの会社はマットレスと布地などを作っていた。 また、殺された人々の死体から抜かれた金歯は、金の延べ棒の形で、ドイツ中央衛生局 へ運ばれた。 人間の灰は肥料として使われたり、または近くの川・池に投げ捨てられたりした。

[2階・6号室]
 収容所に送られてきた人々が持参したものは分別され、SSや国防軍や一般市民が利用 する為に倉庫からドイツ本国へ運ばれた。勿論、毒殺された人々のものも収容所のSS隊は利用していた。奪った荷物を積んだ列車が、立て続けにドイツ本国へ向かっていたにも かかわらず、倉庫はいつも満杯で、その間には分別しきれない荷物の山が出来ていった。 オシフェンチムにソ連軍が接近してくるとともに、倉庫から価値の高いものが運び出されるペースが早くなった。開放日前に、犯罪の跡を消すという目的で、SSは倉庫に火をつけた。35軒の倉庫のプロックから6軒だけが残り、そのなかから何万個の靴・ブラシ・ 洋服・眼鏡などが発見された。


【第5ブロック】

 このブロックには、開放後に発見された。被害者の所持品が展示してある。ブラシ類、 靴、所有者の名前と住所が書いてあるトランク。ボール、身体障害者の義手と義足などで ある。


【第6ブロック】
[1階・1号室]
 アウシュビッツ強制収容所に送られてきた収容者の一部は、選別なしで直接収容所へ入れられた。大部分は飢え、死刑執行、重労働、拷問、不衛生などの理由によって、死んでいった。選別の時に労働に耐えうると判断され、収容所に送られたユダヤ人もいた。 収容者たちは、収容所に送られてきた日に収容所管理局長から「お前たちに出口は一つしかない。焼却炉の煙突だ。」と言われた。新しく到着した収容者達は、洋服とその他のものを 取り上げられて、髪を切られ、消毒を受けて、そして囚人番号を付けられ登録された。 各収容者達は3ポーズの写真を取られ、43年からは、その代わりに左腕に刺青を入れられた。囚人番号は刺青されたのは、アウシュビッツ収容所だけだった。
 収容者達は逮捕内容と
収容所へ連行された理由によって、色別の三角形のワッペンで識別された。その大半は、 政治犯を示す赤のワッペンを付けていた。縞模様の囚人は何週間ごとに、または何ヶ月ごとに着替えをもらえることが出来たが、収容者はそれを洗濯することは出来なかった。それはいろいろな伝染病が流行する原因となった。特に、チフス。そしてカイセンが流行して いた。

[2階・2号室]
 アウシュビッツ収容所のファイルには、男女合わせて40万人の囚人のデーターが入れられていた。そのうちアウシュビッツや他の収容所へ移送後、あるいは撤退の時に34万人が命を奪われた。収容者にとって一番の苦しみは、囚人数を確認する為の点呼で あった。点呼は時には数時間、または十数時間も続けられた。例えば、40年7月6日の点呼は19時間も続けられた。収容所当局は、懲罰の為の点呼も度々行った。その時には 収容者達はかがんだままの姿勢で、または数時間も手を上げたまま、その点呼を受けなければならなかった。

[2階・3号室]
 死刑執行とガス室に次いで効果的な収容者の虐殺方法は、労働であった。収容者たちは様々な 分野の仕事をさせられていた。最初は収容所の増築作業という仕事だったが、次第に、収容者たちの労働力をドイツ第三帝国の産業が利用し始めた。仕事は休息なしでいつも走りながら行わなければならなかった。仕事のテンポの速さ、食糧不足、そして厳しい拷問、死亡率を高めた。労働班が収容所に戻る時、手押し車には収容者の死体が積まれ、そしてスコップで殴られた負傷者もなかには混じっていた。 特に重労働であったのは、地ならし機の仕事で、その模型が展示されている。

 オシフェンチム付近のモノヴィツェに、合成ゴムとガソリンの工場「ブナ・ヴェルケ」を建設しIGファルベンインドゥストリーは、優先的に労働力として収容者を利用した。
3年の間にその「ブナ」工場では、3万人のアウシュビッツ収容所の収容者が死んでいった。アウシュビッツ収容所管轄下のミニ収容所の殆どは、シレジア地方の炭鉱、鉄工所と 工場の近くに設立された。収容者たちは石炭採掘な軍事工場、火薬工場などの建設作業にかりだされた。

[1階・4号室]
 収容者の1日の食事量は、1300〜1700カロリーに過ぎなかった。朝食として 500ccのコーヒーと呼ばれた液体、昼食として1リットルの殆ど水のような腐った 野菜で作られたスープしかもらえなかった。夕食は300〜350グラムの黒パン、 3グラムのマーガリンと薬草の飲み物だった。重労働と飢えによって体は完全に衰弱した。 収容者たちは栄養失調になり最後は死だった。展示されている写真は、開放後に撮られた 23〜35キログラムまで痩せ飢えた女性収容者の写真である。

[1階・5号室]
 現在では収容所で毎日起こっていた悲惨な場面を想像することは難しい。収容者の中にも いた画家たちは、当時の雰囲気を作品で現そうとした。それらは、彼等が残した証言で ある。収容所内の生活を生々しく現している。 博物館にはたくさんの元収容者たちの絵が保管されている。

[1階・6号室]
 収容所で最も大変な運命にあったのは、妊婦と子どもだった。彼等は最初、直接ガス室 行きとなった。その後は子どもだけが収容される事もあった。 それは主にユダヤ人とジプシー、そしてポーランド人とロシア人の子どもたちだった。 しかし、子どもとはいえ、大人と同じように収容所の規則に従わなければならなかった。 また大人と同じように政治犯としてファイルに入れられた。

 ある種の子どもたち(例えば
双子)は、犯罪的な医学実験の材料にされた。ほかの子どもたちは重労働をさせられた。 SSの医師が子どもたちの選別を行って、その子どもたちに心臓へのフェノール注射を行い殺害 したケースもある。

 収容所に連行された子どもたちはしばしば政治犯として登録された。それらの写真、そして 、ソ連軍によって開放された子どもたちの写真が展示されてある。



【第7ブロック】
[1階]
 収容所の住居状況はいつも悲惨だった。最初の収容者たちは、コンクリートの上に置いてあった藁の上に寝ていて、その後マットレスが配給された。40〜50人用の部屋には、 通常200人の収容者が住んでいた。その後に作られた3段ベットも住居状況を改善した わけではなかった。たいてい一段ごとに2人の収容者が寝ていた。掛布団は汚れた穴だらけの毛布だった。SSに協力した囚人だけが部屋を持つ事が出来た。

 本収容所では、殆どの収容者は2階建てのしっかりした造りの建物で生活していたが、 ブジェジンガの場合は沼地に建てられた基礎なしの粗末なバラックだった。実物の2分の1のスケールで作ってあるブジェジンガのれんが造りのバラックが展示してある。

[1階・6号室]
 ブジェジンガのれんが造りと木造バラックの模型と写真が展示されている。

[1階・7号室]
 オシフェンチム一帯の湿度の高い気象、劣悪住居環境、飢え、防寒の役目は果たさず ろくに洗濯も出来ない囚人服、それと鼠と虫。これらの要因は伝染病の原因となり、多くの収容者たちに死をもたらした。収容所内の病院がいつも満杯だった為、治療を受けるためにそこへ入った収容者たちも、治療を受けられず帰るしかなかった。それを解決する為に、 SS医師たちは本当の病人と病気が回復期の患者の選別を病院内で定期的に行っていた。 同じく、ほかのブロックの囚人たちの間でも選別が行われ、衰弱した者、そして回復する 見込みのない囚人たちはガス室に送られたり、病院で心臓へのフェノル注射を打たれたり して殺された。病院は、「焼却炉の玄関」と囚人たちに呼ばれていた。

 ほかの収容所と同じようにアウシュビッツ収容所でも、SSの医師は収容者たちを犯罪的な医学実験の材料として使っていた。例えば、第10ブロックにはカール・クラウベルク 教授とホルスト・シューマン博士は、スラブ民族の生物学的な絶滅方法の研究のために、 男女の断種実験を行っていた。ヨセフ・メンゲル博士は遺伝学や人類学として、双子や 身体障害者を使った実験を行っていた。アウシュビッツ収容所では、ほかにも新しい薬の 投与の実験などいろいろな実験が行われていた。収容者たちの皮膚に有害物質を塗布、皮膚移植を行っていた。実験中に死亡した者は数百人にのぼり、生き残った人々にもいろいろ 障害が残った。



【第11ブロック「死のブロック」】
 第10と第11ブロックの中庭は、両側から高い壁で区切られていた。第10ブロックの窓に付けてある木の板は、そこで行われていた死刑執行を見られないための措置だった。 「死の壁」の前でSS隊員が、約数千人の収容者たち、主にポーランド人を銃殺した。

 第11ブロックの中庭では、鞭打ちなどの罰も執行されていた。
第11ブロックは、収容所から隔離された収容所内の刑務所であった。その1階と地下はそのまま残されている。

[1階]
 死の壁の右側にある最初の部屋は、SS隊員が勤務していた。その他の部屋には、臨時裁判の判決を待っていた収容者たちが監禁されていた。臨時裁判官はカトヴィツェ市(Katowice)から収容所に来て、左側の最初の部屋で2〜3時間の間に数十〜百数十の死刑判決を下した。死刑の判決を受けた収容者たちは、「死の壁」の前へ連行されていった。

 銃殺される前には、廊下の真中にある脱衣室で裸にならなければならなかった。銃殺される予定だった収容者が少なかった時には、その脱衣室で死刑が執行されたこともあった。

 左側の最後の部屋には、臨時裁判や地下で行われていた選別、そして第11ブロックの 銃殺場画を描いた元収容者シヴェク(W・Siwek)の絵の複写が展示されている。 収容者たちの組織的虐殺は、SSが用いた懲罰制度とも関係していた。収容者はささいな事によっても、懲罰を受けた。りんごを拾うこと、労働時間中の排泄、自分の金歯を一切れ のパンと交換する事、そしてSS隊員に能率が悪いと判断されるなどの理由である。 懲罰には、次のようなものがあった。鞭打ち、抗に吊す(後ろ手に縛り、体を吊す)、 第11ブロックの特別監房ブロックへの移送、過重労働、懲役点呼、懲役班への入隊など だった。このうち鞭打ち台、移動縛り首台、抗が展示されている。懲罰班に入れられた収容者たちは、食料を減らされ、最も体力を酷使する仕事を課されていた。右側にある最後の 部屋には、アウシュビッツ収容所に送られた政治犯の運命に関する資料が展示されている。

[地下]
 ここでは、41年9月にチクロンBを使って集団虐殺の実験が行われた。その時、 約600人のソ連軍捕虜と収容所内の病院に入院中の250人の患者が殺された。

 地下にある監房には、収容者、収容所付近の収容者を助けようとした一般市民、収容者の脱走 の仕返しとして餓死を宣告された脱走者の仲間、収容所の規則に違反したとSSにみなされた収容者などが入れられた。

 地下の監房では、「地下の掃除」と呼ばれる選別を定期的にSSが行っていた。選ばれた 収容者は懲役班に行かされるか、または銃殺された。地下では3種類の監房を見ることが出来る。その多くは尋問中の収容者が入れられた監房である。18号室は餓死を宣告された収容者 がいれられた監房の1つである。他人の身代わりになって死んだ、ポーランド人の マクシミリアン・コルペ神父も41年にそこに入れられた。20号室の監房に入れられた収容者たちは窒息で死ぬ事もあった。21号の壁には監禁中の収容者が残した落書きが残っている。22号室には、90×90センチメートルの「立ち牢」があり、ここには一度に 4人が収容された。

[2階・抵抗運動]
 収容者たちは生命の危険に瀕ししながらもSSに対して抵抗運動を試みた。収容所付近に 住んでいるポーランド人と密かに連絡をとり、収容所内の食料品や薬を送り込むように したのである。収容所からはSS犯罪の資料が外に流された。収容者・SS隊員の名簿も 外に送られていた。それらの資料などナチスに見つからないように特別に作られた容器に 入れ、暗号で手紙が送られることもあった。 収容所内では反ナチスの連帯感を高めるための、いろいろな活動が水面下で進行していた。文化的活動や宗教的な活動も行われていた。アーティストたちは密かに創作活動も していた。

[点呼広場]
 点呼の時には、SSが収容者の数を確認していた。同時に移動絞首台または集団絞首台 (その復元は広場にある)が置かれ、見せしめの為の死刑執行も行われた。集団絞首台は 43年7月19日、3人の脱走者を助けた、そして収容所周辺の一般市民とコンタクトをしていたという疑いを受けて、12人のポーランド人が吊された。

[焼却炉・ガス室]
 焼却炉は収容所を取り囲む鉄線の外にある。その入口の前には、絞首台があり、47年 4月16日にはアウシュビッツ収容所元所長、ルドルフ・ヘスの死刑執行が行われた。

 焼却炉の中の最も大きな部屋は、はじめ死体安置所であり、その後ガス室に改造された。ここでは41〜42にわたって、ソ連捕虜としてシレジア地方のゲットーから運ばれてきたユダヤ人が毒殺された。
奥の部屋は、3台あったうち2台の焼却炉が残っている。そこでは1日に350人の 死体が焼かれた。1台の炉には同時に2〜3人の死体が入れられた。焼却炉自体はドイツのエルフルト市のトップ・ウンド・ゼーネ社が製造した。同じ会社は42年と43年 にブジェジンガにも4軒の焼却炉の炉を設置した。その社名は炉の一部分に書いてある。 その焼却炉は40年から43年まで使用された。



【アウシュビッツ2号・ビルケナウ・ブジェジンガ】
 本収容所から3キロメートルほど離れたブジェジンガ村には、アウシュビッツ2号、 ビルケナウが設置された。その収容所の面積は約175ヘクタール(約53万坪)で、 300棟以上のバラックがあった。そのバラックは全て現在まで残っているわけではない。 殆ど完全な形で残っているのは45棟のレンガ造り、そして22棟の木造の囚人棟だけで ある。焼かれたかまたは破壊されたバラックは、レンガ造りの煙突しか残っていない。

 その数は、収容所がいかに大きかったかを物語っている。 ビルケナウ収容所はいくつかの管区に分割されていた。44年8月の点呼で収容者の数は 男女合わせて10万人に達した。この収容所には水がなく、衛生的に欠陥があり、鼠の 大発生が収容者の生活環境をさらに悪化させた。ナチスは殆どの虐殺設備をビルケナウに 設置した。4棟の焼却炉・ガス室に改造された農家・そして死体を焼く為の野外焼却場で ある。

 SSの中央衛兵所の塔からは、その最大の絶滅収容所全体が見渡させる。真正面には 収容者を選んだ鉄道の引き込み線がある。ブジェジンカには、当時のままの囚人棟が残されている。レンガ造りのバラックは、引き込み線の左側にある。湿地の上に基礎なしで建てられたバラックである。殆どのバラックには床がなく、多くは地面が土泥下していた。

 レンガ造りのバラックには、女性の収容者が収容されており、3段ベットで、しかも腐った 藁の上に寝かされていた。1段ごとに約8人が寝ていた。木造バラックは(引き込み線の 右側)もともと52頭用の馬小屋であったのだが、多少改造されて約1000人の収容者を 収容する為に使われていた。その真中を暖房用の煙突が通っている。

 鉄道の引き込み線の一番奥には、2棟の焼却炉・ガス室がガレキの形で残っている。 それらは撤退するSS隊員によって、犯罪の跡を消す為に爆破された。しかし跡を見る だけでも、死刑を宣告された人たちが裸になった地下の脱衣室、そしてガス室がはっきりわかる。一階には5台の焼却炉の跡とそのレールもはっきり見える。

 第4焼却炉・ガス室は44年にあった、ユダヤ人の特別労働班の反乱の時に完全に 破壊された。

 第2と第3焼却炉の間には、元アウシュビッツ収容所のナチス政権下犠牲者国際記念碑がある。その記念碑は、67年に除幕された。



【アウシュビッツへ行っての感想】

 1号の「働けば自由になる」というゲートの前に立つと「今年も来たか」という 気持ちになる。最初に行った時は1号と2号のあまりの広さにビックリした。

 今は博物館となっているが、収容者たちが実際使っていた棟の中に、大量の刈られた髪の毛、眼鏡、カバンなどがある棟などは展示されている。量以上にまだあるらしいが、展示できずにいる。 選別された人たちから取り上げた実際のものは、当時のまま、だいぶ色はあせてはいたが、そのままの状態で保管され、展示されていた。特にカバンは持ち主の住所、名前がはっきりと残っていた。住所やらが書かれていて戦後何十年も経っているのに当時のまま残されているのにもビックリした。 実際使っていた棟がそのままの形で残されているということにビックリした。

 1号から3km離れた2号にある縦長の大きな建物は何だろう・・・?と思っていたら、 トイレ、ベット専用の棟だった。

 ここにはヨーロッパ各地から何万人もの人たちが連れてこられて、どんな思いだったのだろう・・・と思うと悲しいです。
                                                   99年度生 Y・U

【使った資料】
 ・ポーランド国立オシフェンチム博物館パンフレットより



【実際この収容所に収容されていた方にお話しを聞かせていただいたので紹介します】


 私たちがお話しを聞かせていただいたのは、元当博物館館長であるカジェメシ・スモ―レンさんという方です。

 スモ―レンさんは、1921年ポーランドに生まれです。1940年7月、雲ひとつなく、35℃あった暑い日、当時19歳だった彼はゲシュタポに連行され、そのまま、約5年間にわたってこの収容所に実際収容されていた方 です。

 なぜこの収容所に連れてこられたかというと、1940年フランスで活動していて ポーランド軍に参加しようとして、隣国のスパイ容疑で捕まってしまいました。当時、 ポーランドはドイツに完全に占領されていたので自国で活動できず、フランス軍と合同で ドイツに対して戦っていました。

 連れて来られた後はどんなことがあったかというと、貨物列車で連れて来られた人達は 入口で働ける人と、女性や子供、病気の人など働けない人とに選別をさせられ、「働けない」 と思われた人は、ガス室へ送られました。この時、家族も引き離されてしまうので、名前を呼び、探す声が途絶えなかったそうです。ガス室へ送られた人たちは、ガス室とは知らず、「長旅で疲れたでしょう。ゆっくりシャワーでも浴びてください」と言われつつ、中へ入ってみるとシャワーが出てきたことのない穴からは「チクロンB」が出てきて、数分の間に中にいた人全員が亡くなったそうです。

 1940年6月にポーランド人が始めて収容所に来たそうです。はじめに
髪をかられ、腕に入れ墨番号を入れられたそうです。最初に連れて来られた人たちは、4ケタの数字を、 あとから来た人たちは数字とアルファベットを、胸にも番号を入れられた人もいた そうです。

 身体の弱い人たちは、囚人病院へ連れて行かれました。皆、病院に連れられて行くことを恐れていました。なぜならばガス室の一歩手前であることを意味したからです。 収容所での生活は、一般に夏は朝4時半、冬は朝5時半起床で、起きたら必ず掃除をさせられた後、1日中働かされました。寝るときはひとつのベットに2、3人が一緒に寝かされたそうです。1部屋に約60人の収容者が床に寝ていたそうです。また多くの収容者が "ノミ"にやられたそうです。食事は朝食500mlのお湯にコーヒーのような粉末で色つけをしたもの、昼食はスープ(ジャガイモまたはキャベツ)1杯、夕食は250gのパン、これは翌朝と兼用で、時々のソーセージなども出たそうです。それからパンは誰もハジの部分を欲しがっていたそうです。なぜならばハジの部分の固いところは口に残るので、胃に満足感を与えられたからだそうです。だから切り分ける時には、均等に工夫をしハジの部分が順に回るようにしました。切る人が責任を持ちましたが、そのパンとは各部屋に1個というわけではなく、他の部屋も回ってくるので自分たちのところにくるまでには少なくなってしまったそうです。時々バター、マーマレードなどがあったそうです。貨物で来た人から食料を貰い、昼食のスープの中に入れたそうです。(通称ライター)

 食事の時は皆、
1列に並んで食事をしたそうです。 朝と夜、1時間半の間にトイレ時間というのがあったがそこで、体力が弱っていた人はトイレの 中に落ちてしまう人もいたそうです。

 収容所での仕事内容は、スモ―レンさんはドイツ語ができたので、最初にやらされたのは収容者の名簿の作成補佐でした。これは逃亡を防ぐ為に人数確認チェックをやると同時に、強制労働をさせるための元の職業を書き、それに基づきいろんな仕事をさせていたそうです。また、収容所内の人数が増えないように、ガス室送りの判断にも使われたそうです。こういう書類の多くは、ナチスが逃げていく時に破棄してしまいましたが、その記憶は、戦後、ナチスの犯罪を立証するための重要なものになりました。この仕事をしていた為、いつ命を狙われてもおかしくなかったそうです。その他の仕事は、収容者の手による2つ目の収容所を造らせるというものもありました。これはポーランド人が住んでいた村を壊し、そのレンガを使って建てられました。また、殺した人を焼いたりすることまでやらされていたそうです。このような時に収容者を見張る役目は、刑事事件犯罪犯した囚人が行っていたそうです。

 約1万人の囚人名簿の中に薬で殺された人の名前もありました。

 収容所から少し離れた所に、SSの軍服や武器などを入れておく倉庫があったのですが、そこで管理を任されていた収容者もいて、そこに入る鍵をコピーしておき、SSが休みの日に忍びこみ、軍服を着て武器を持ち、所長の車を奪い、4人の収容者が収容所を出ることができた事件などもありました。 軍服を着て所長の車に乗っていたので、誰もそれが収容者とは気づかず、スムーズに通る事ができたのだそうです。こうした脱走事件の後は必ず、他の収容者たちは点呼をさせられました。一番長い時間では18時間もさせられていたそうです。終了後、建物の中に入ったそうです。点呼中にひとりでもいないと、建物ではないところへ連れて行かれ、食事は5〜6日まったく無かったそうです。

 またスモーレンさんたちは、収容所の状況を外に知らせる為に、巻き紙タバコの紙や、ロウソクをとかし、情報を書いた紙を入れ、固めなおし、土に埋めておいたりしました。収容所などの証拠が残るものを全て壊してしまう計画もあったのですが、そういう情報も彼らの努力によって外に伝えられていた為、ラジオで全世界に流れてしまい、失敗に終わったと いうことです。

 解放された状況は、1945年1月にソ連軍がもうそこまで迫ってきていたので、マイナス28℃の真冬日の日、アウシュビッツから移動をさせられました。オーストリアのイーベンズー収容所に移されました。イーベンズー収容所へ行くまでは、歩いて行き、野原で寝たそうです。昼間を中心に歩かされたそうです。夜、歩かない理由は誰かが逃げてしまうのを防ぐ為だったそうです。食事はパン・缶詰を食べて、それ以外では雪を食べたこともあったそうです。そこはアルプスのふもとにあり食料が全くなかったので"飢えの収容所"とも呼ばれ、3000〜4000人もの人が飢えで亡くなったそうです。そして、この収容所に連れてこられて約4ヵ月後の1945年5月に、アメリカ軍によって解放されたそうです。解放された直後は、収容者全員、とても弱りきっていました。スモーレンさんは生きていることは奇跡だったと言いました。解放されて彼がいちばん最初に食べたのはおかゆのようなものだったそうです。栄養失調状態だったので、油物などはしばらくは一切口にすることができなかったそうです。そして少しずつ体調を元に戻していった そうです。

 解放されてからどんなことをしていたかというと、大学の法学部に入り、刑事犯罪などを勉強し、その後、クラクフの裁判所で働き、戦争犯罪者の調査をする機関でも、資料作りの仕事などをしていました。これは、物的証拠をもとに裁判をする為の重要な物でしたが、収容所での体験を思い出す辛い仕事でもありました。

 途中から収容者に入れ墨で入れられた囚人番号、
スモーレンさんの左腕にも4ケタの数字のあとが残っていました。 身体の傷がだんだんいえてくると、それらのことも事実として冷静に見られるようになったそうです。収容所から開放された後、収容所跡を博物館とする仕事もしました。現在は引退して、敷地内に 住居があります。

 このような事実を次の世代に伝えていくと同時に、アウシュビッツを訪れた人たちが、悲しむばかりではなく、平和とは何かということや、このようなことを二度と起こらないためはどうすればいいのかということを考えてもらうために、これらの仕事を続けてきたのだと言っておられました。収容所が当時のまま残されているのもその為でしょう。




【スモーレンさんの体験を聞いて】

 スモーレンさんと最初に会った時の印象は、優しい人だなと思った。

 彼は、仕事でドイツへ行っていたのだが、私たちの為に戻って来てくれたらしい。うれしいことです。

 50ヶ月間、実際アウシュビッツ収容所にいた人である。 2回ほど話しが聞くことできた。通訳の中谷さんを通じての談話ではあったが興味深い話しばかりだった。

 もっと、 いろいろ話しを聞きたかったけど時間があんまりなかった。

 2回目の来訪の時に千羽鶴を渡した。喜んでくれた。収容所の何箇所かに千羽鶴を
置いた事を中谷さんが通訳してくれて、彼はとても歓迎してくれた。

 当時の情報を流したとされているものをコピーしたのを見せてもらった。あと、 右腕に残った4桁の数字も見せてもらった。

                                              99年度生 Y・U