※ このレポートは、風の学園の学習の一環として、各ゼミ生が担当をして作成しています。


ポーランドの地理・歴史

【中世】
 ポーランドの確認できる最古の君主は、966年から始まったピャスト朝のミェシュコ一世になります。しかし、ポーランドの国家形成は、彼の治世が始まった100年以上前から始まっていたといわれています。ミェシュコ一世はキリスト教を受け入れ、洗礼を受けます。これは、神聖ローマ帝国(ドイツ)やボヘミアの圧力に対して独立国家としての地位を維持する目的がありました。その後、ボレスワフ一世勇敢王のポーランドは領地をどんどん広げて行きますが、彼の息子であるミェシュコ二世の時代になると併合した領地の多くは失われ、その頃強大になってきた領主たちの地方分権の動きなどが見え始め、ポーランドの国家は存続の危機に陥ります。

 しかし、カジミェシュ一世復興王の時代になると、再び国家は持ちなおされ、復興されます。が、それも束の間で、彼の息子、ボレスワフ二世大胆王の強引な政治はさらに強力になっていた大領主たちに嫌われ、ボレスワフ二世は陰謀によってくらいを奪われ、ポーランドの国土は若干の侯領に、王や諸侯各国土に分裂し、封建的分立の状態が続きます。この時、南ポーランドのマゾフシェ候が後のプロイセン王国の前身となるドイツ(チュートン)騎士団を、古プロイセン人の討伐と教化のためヴィスワ下流右岸のヘウムノに招き入れます。(彼らは、14世紀に最盛期を迎え、ポーランドのグダンスク港、東ポモージェ地域を征服し、ポーランドを海から遮断します。)
そのころ、他にポーランドには東欧へ遠征にきたモンゴル軍がやってきました。ポーランドは、一時は国内統一を持ち直したものの再び封建的分立の状態が続き、当時の候の1人であったボレスワフ5世純潔候も大きな抵抗を組織できず、統一の期待がかけられていたヘンリク二世敬?候もモンゴル軍との戦いで倒れてしまいます。1242年になるとモンゴル軍は本国で大汗(モンゴル帝国の支配者)が死去し、軍を帰したことによりようやく救われます。しかし、13世紀後半1259年と1287年にも東ポーランドに侵入し、ふたたび東欧への遠征が行われます。ポーランドの人のみならず、東欧の人々はその後も東欧侵略の噂に悩まされたそうです。

 モンゴル軍による東欧の侵入は、攻略した町を徹底的に破壊し、多くの住民を奴隷として家畜などとともに連れ去り、ポーランドも大きな戦禍をこうむりました。しかし、13世紀末までには経済的に立ち直り、14世紀には大きな経済的発展を遂げました。13世紀の経済発展には、「ドイツ法」によるドイツ農民の入植にと、在来農村の改組や新たな開墾が各地の大領主によって熱心に行われたことがあります。このとき、ポーランドの東部で目覚しい開発が行われ、後の首都となるワルシャワなども13世紀末に姿をあらわしています。また、農村のみでなく南ポーランドにおいては、貿易により発展をしました。

 その経済発展を背後に、14世紀中葉になるとポーランドはカジミェシュ三世という、ポーランド史上唯一の大王により、国内統一をなしとげ、相前後して最盛期を迎えます。カジミェシュ三世は北ポーランドのヴワディスワフ一世短躯王を出発点とする国内統一を計り、軍事より外交を重んじ平和政策をとり国内建設に力を注ぎます。また、農地や都市に力を入れるほか、都市を保護・育成し、西欧で圧迫されたユダヤ人を保護し経済発展を図ります。かれは、多くの建造物で首都を飾り、1364年にはクラクフ(ヤギウェオ)大学を創設します。

 カジミェシ三世は、男子の後継者を持たず、甥のハンガリーのラヨシュ王(ポーランドではルドヴィク一世)がポーランドを統治します。しかし、直接統治することはなく、大領主の力が伸び、1384年になると妹のヤドヴィガを女王に迎え、さらに二年後リトアニアのヤガイラ大公と結婚させ、ヤギウェオ家によるポーランド統治と、ポーランドとリトアニアの連合関係が始まります。これまでリトアニアは、キリスト教を受容してなく、ヤガイラ大公はこの時キリスト教の洗礼を受けます。この政略結婚は、両国の国境地方の係争を解決し、同時に両国の共通の敵であるドイツ騎士団への対抗を強めるものでもありました。しかし、リトアニアにはこのポーランド連合やカトリック教会の進出に反対する勢力があり、一時リトアニアは独立をしますが、再びポーランドのマグナートがリトアニア大公であったカジミェシ四世を王にむかえ、長年争っていた領土争いを解決して、両国の連合関係を安定させます。これ以後、この関係は18世紀の「分割」間で続きます。

 マグナートと言うのは、大領主のことです。ポーランドの貴族は、シュラフタといいます。大領主から小領主まで一切の区別がなく、経済的に格差が大きくとも爵位制度がなく、全員が法的に平等であり、人口比が高いこと(約8〜10%。フランスでは1〜2%)そして政治的権利を独占していることなどが特徴です。16世紀から18世紀にかけて、ポーランドにはシュラフタが政治の実権を握る貴族(シュラフタ)共和制が成立します。

 16世紀の末に、ポーランドの首都はクラクフからワルシャワに移ります。16世紀中ごろにルブリンの連合によりポーランドとリトアニアの両国は一つの国家になります。それは事実上、ポーランドがリトアニアを吸収したものでした。今後は共同に選出されるポーランド国王は、同一にリトアニア大侯を兼ねることになり、首都をリトアニアに近い東の都市に移しました。リトアニアがポーランドと統合したのは、モスクワ大公国の圧力に自力で抵抗できないことがあり、またポーランドには苦境に立たされているリトアニアを吸収しようという意図がありました。14世紀末から、ヤギウェオ朝により、宗教・言語・諸制度などでリトアニアでポーランド化が進んでいましたが、この連合によりポーランド化はさらに進みました。また、16世紀の中ごろはポーランドの文化と思想と空前の活況を呈した時期でもあり、「黄金の世紀」と呼ばれました。コペルニクスもこの頃地動説を唱えています。経済も、14世紀から始めていた穀物輸出の西欧の需要が高まり、ポーランドは経済的にも発展します。

 穀物輸出は17世紀の初めまで増加を続けますが、その後は停滞します。都市の発展はすでに16世紀後半に停滞しており、領主経済自身も17世紀にはいると行き詰まり、中小のシュラフタの貧弱化が始まります。しだいに、シュラフタはマグナートに寄生して庇護を受ける存在となり、自家の権勢のみしか考えないマグナートの権力争いの手先になります。ジグムント三世の対外政策も失敗し、かつての東欧の大国ポーランドは国際的に守勢に立たされます。ヴワディスワフ四世は、国内で少数派の正教徒と新教徒にたいして宥和政策をとり人心の安定に努めたが、1648年にウクライナのコサックが反乱をおこし、これがもとになりポーランドは「大洪水」に見舞われます。ポーランドはウクライナの反乱に手を貸したロシア軍の侵攻をうけます。翌年にはこれを見たスウェーデンも北方から侵入しました。これを「大洪水」といいます。たちまちポーランドは占領され、滅亡の危機に立たされました。この危機は、1655年末にチェストンホヴァの修道院で生まれた国民的な抵抗と、ポーランドをめぐる国際情勢の好転で、ポーランドはスウェーデンと講和を結びました。しかし、ポーランドは大惨禍をうけ、シュラフタの没落によりマグナートの支配が強まっていました。それまで、宗主権を認められていたプロイセンの独立も承認しました。

 その後、国会は久しぶりにポーランド人のミハウ=ヴィシニョヴィエツキを国王に選び彼の死後、再びポーランドの軍人のヤン=ソビエスキを選出しました。ヤン三世は優れた武名と人柄ゆえにマグナートたちの国会に対しても権威を有し、ポーランドの世襲的な民族王朝の樹立を考えましたが、これはヤン三世をしても困難で、議員の多くは、マグナートばかりでなく、外国使臣にとっても買収の対象になっており、ヤン王ののちポーランドはロシアとオーストリアが推すザクセンのアウグスト二世が王位につきました。彼は外国との取引など様々な陰謀をめぐらし、彼の起こした戦争により初期のポーランドは荒れ、国会はロシアの圧力のもとで開き国民からは完全に支配を失いました。彼の死後、ロシアとオーストリアは彼の子アウグスト三世を推すけれど、マグナートたちの間ではフランスのスタニスワフ=レシチンスキを擁立する動きが起こり、ここに継承戦争が起こりました。結局スタニスワフ派は負け、アウグスト三世が王位につく事になりました。しかし、アウグスト三世は在位中ほとんど遊び暮らし、国政はその寵臣と有力な(ポトツキ家とチャルトルスキィ家)にまかされ、この時代ポーランドは国際的に全く無力な存在でした。

 「大洪水」で決定的になったポーランドの衰退は、18世紀の前半行き着く所まで行き着いた感じがありました。この時代はポーランドの政治を動かしていたのは小数のマグナートですが、かれらは勢力争いと国会の自由拒否権濫用のため、建設的な政策は打ち出せませんでした。シュラフタも自分の地位を守るのが精一杯でした。経済や文化は沈滞し国は停滞をつづけていました。



【近代】
 しかし、18世紀の中ごろに入ると、ポーランドは再生の兆しを見せ始めます。伝染病や領主によるブ駅で貧窮していた農業が復興し、都市の人口が増え出し、さらに重要なのはコナルスキの活躍により教育が再び活気を取り戻したことです。コナルスキは国政改革についても意見を展開して注目を浴びます。そして、こうした気運を受けて合うグスト三世の死後、かねてからロシアに接近していたチャルトルスキィ家は一門から、エカテリーナ二世の指示でスタニスワフを王位につけます。スタニスワフ王は改革に対して熱意と見識を持っており、実施しようとしますが、ポーランドの無政府状態を有利とするロシアとプロイセンは妨げようと干渉をします。スタニスワフ王は結局これに屈し、失敗します。

 そして1772年、ポーランドは第一次の分割をされ、領土の一部を三国に奪われます。ロシアはポーランド全土をロシアの保護領にすることを考えていましたが、これを恐れていたプロイセンの工作が実り、オーストリアを加えて行われました。ポーランド国会は、若干の反対はあったものの、翌年これを認めました。第一次分割はポーランド国民に大きな衝撃を与え、これをきっかけに国内では改革の気分が高まり、国会では自由拒否権も行使されなくなりました。また文化が、16世紀の黄金時代を思わせる活況を呈します。この時期の思想や諸科学には啓蒙主義の影響が強く現れ、国民教育の組織で、ヨーロッパで最初と言われる国民教育委員会が1773年に発足し、全国の学校教育を啓蒙主義の精神によって再組織します。改革にあたったコウォンタイもコナルスキ同様、政治改革の分野でも指導的役割を果たします。1788年から91年の露土戦争の影響でロシアの圧力は弱まったときに、ポーランドは再び国王スタニスワフ=アウグストを中心とする国政改革運動が起こり、1788年召集された四年国会は、世論の高まりのほかフランス革命の影響もうけ、根本的な国政改革の検討を続け、1791年5月3日ポーランド国会は、新憲法を採択します。しかし、新しいフランス憲法とイギリス憲法を模範とした新憲法による体制はわずか一年しか続かず、このことを喜ばない、トルコと講和したロシアが攻め込んだことを機に、プロイセンも軍隊を送ります。93年には両国の要求でポーランド国会が開かれ、第二次の分割が決定し、一部の領土をプロイセンとロシアに譲られます。これに対し、コシチューシコの指導のもとに翌年クラクフで決起します。クラクフに続いてワルシャワ、ヴィルノも1ヵ月後に決起し、第二次分割前のポーランド領がほぼ解放されます。ワルシャワには臨時政府(最高国民会議)が設立されます。ポーランドの独立は、今まで政治の中心となってきたシュラフタたちの力では解決できないのは明らかでした。指導者は、二つの方向でゆれます。一つは、西側政府の介入あるいは分割諸国政府の譲歩を引き出す外交政策、もう一つは農民を解放して味方につけ、独立戦争を勝ち抜く社会革命の方向です。前者は保守的なグループが、後者は急進的なグループが追求しましたが、いずれの目標も実現することが出来ず、コシチューシコたちは敗北し、奪還した国土も再び奪われます。

 スタニスワフ王は、最後までポーランド王国の存続についてロシアに期待をしていましたが、1795年、ロシア、プロイセン、オーストリアの間で最後の分割が行われ、以後、1918年までポーランドは123年間の間、ポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアの分割支配下に置かれます。
 
 分割三国は、併合したポーランドの地で、それぞれ計画的に資源や労働力、租税と兵員を収奪し、全体として同化政策を追及します。それに対して、ポーランドは蜂起を繰り返し、分割三国も弾圧を繰り返します。しかし、どの蜂起も成功しなかったのは、領主であるシュラフタと農民がどうやって一緒にたたかうか、という問題が解決されていなかったことや、西欧諸国政府との関係、戦術問題に多くの対立があったことがあります。民族解放と、農民解放が実質的に連携したのは1848年以降のことでした。最後に起こった蜂起は一月蜂起でした。1863年か64年に起こりましたが、期待した西側列強の介入も農民層の支持もえられませんでした。

 それ以降から、第一次世界大戦の時期は、政治的には不自由でしたが経済的には黄金時代が始まります。資本主義発展の基礎となったのは、農奴解放にあります。分割三国でそれぞれ、農民を味方につけ反抗的なシュラフタの勢力を弱めるために行われたもので、そのため農民はシュラフタの独立運動よりも分割語句政府を支持しました。が、一時的なもので、多少豊かになり教育を受けた農民は、民族意識に目覚めていきます。一月蜂起後の大きな変化は工業が勃興したことでした。とくに、ロシア領での発展は目覚しいものでした。

 一月蜂起以後、ポーランドの知識層ではポジテヴィズムの思想が流行し、オーストリアでは「三面忠誠主義」というポーランド人はそれぞれの占領当局と協力すべきだと言う考え方が生まれていました。

 しかし1880年代中ごろから、ポーランド人は再び政治的に活発になります。政治活動の中心となったのは、ロシア領ポーランドありました。多くの国際主義、民族主義、左翼、右翼などの近代政党がほぼ出揃います。そのうちの、左翼陣営の一つ、1893年に創設されたロシア領のポーランド社会党(PPS)の指導者にはユゼフ=ピウスツキがいました。彼は、兄のヴロニスワフとともに、1887年のロシア皇帝アレクサンドル暗殺事件に関わった疑いで、シベリアに流刑となりました。ちなみに、ヴロニスワフは、アイヌ研究者としても有名で、来日しています。その後ピウスツキは流刑から戻った後最初の七年間、国内組織を指導します。


【現代】
 ヴロニスワフが来日したのは、日露戦争の直前でした。日露戦争は、ポーランドにも影響を及ぼします。ピウスツキは1904年に来日しました。ピウスツキは、日本の協力によりロシアからの分離を実現しようと考えていました。しかし、日本の援助は実現しませんでした。社会党は、1906年末に分裂し、革命派のピウスツキは将来の軍隊の核を作ろうと、ロシア領では困難なのでオーストリア領に活動拠点を移します。オーストリア領では蜂起を準備するための準軍事団体が許可または黙認のもとに作られ、軍事訓練に励んだ人々は1914年に七千名に達しました。ピウスツキは、指揮官役を務めました。武装蜂起によって独立を回復するには、一つだけ成算がありました。戦争の勃発でした。戦争反対派も存在しましたが、かれらの考えは次第に現実離れをしていきました。

 1914年に第一次世界大戦が勃発しました。ポーランド分割三国は戦線の両側に分かれて戦い、戦場の地と化し、戦争の期間を通じて約200万人のポーランド人は兵士として動員され、互いに撃ち合うよう強制されました。分割三国は、ポーランドを放棄するつもりはなく、それどころかポーランドの再分割を基本的な戦争目標の一つとしました。

 一番ポーランド人を味方につけようとしたのはオーストリアでした。オーストリアはハンガリーとの三重帝国にする構想があり、このためポーランド人の政治活動はしばらくの間オーストリア領に集中しました。そこではポーランド軍団が創設され、その第一旅団長にピウスツキが任命されました。その後第一旅団員はピウスツキ派の中核をなすことになります。この軍団に対して、政府的な役割を担うものとして最高国民委員会が設けられます。この委員会の軍事部を取り仕切ったのはオーストリア領出身で、ポーランド進歩党を率いたシコルスキでした。両大戦間期の政治をいろどるピウスツキとシコルスキの個人的な確執は、このときに端を発します。

 1915年、初夏になるとドイツ=オーストリア軍の攻勢で東部戦線の形勢が逆転し、10月末までにドイツ軍はポーランド王国の大部分、オーストリア軍はルブリン(現在ではウクライナに近い東部の都市。当時はポーランドの中央部から少し南よりの都市。)を占領します。ドイツ占領地域の行政は、総督ベーゼラー将軍にゆだねられました。かれはかなりの程度ポーランド人の要求にこたえ、大幅な政治活動の自由などが許され、ポーランド人の政治生活の重心がしだいにオーストリア領からドイツ占領地域に移りました。

  1916年には、ドイツとオーストリアは、立憲君主制のポーランド王国を創設すると宣言を発表しました。これは、オーストリアの三重王国構想が交代したことを意味していました。これは、ドイツがポーランドの人的・経済的資源を収奪するためのことでした。1917年1月には臨時国家会議が招集され、一連の行政機関が設置され、ピウスツキが軍事部を主催しました。しかし、3月になると、ロシアでは二月革命(ロシア暦で二月)が勃発し、ソビエトは「ポーランドは国家的・国際的に完全に独立する権利を有する」と発表しました。ペトログラードには「ポーランド最高軍事委員会」が設置され、ピウスツキは名誉議長に選ばれました。一方、スイスのローザンヌには右翼の国民民主党のドモフスキが「ポーランド国民委員会」を樹立していました。国民委員会は西側協商国の支援のもとに解決を図ろうとします。やがてパリに居を移し、外交を計る一方国内にも国民民主党の組織を通じて一定の基盤を築き上げ、相対立する二つの政府組織が形成されました。

 1918年、11月にポーランドは念願の独立を達成しました。独立直後のポーランドは、ピウスツキの大きな個人的権威のもとでポーランド人が独立国家の諸課題に取り組んだ1918年から22年、議会民主主義体制のもとで通常の国家生活を営もうとして失敗した22年から26年と言う風に分けることが出来ます。議会民主主義は、1926年の5月にピウスツキによるクーデターを引き起こすことになります。

 「5月のクーデター」は成功し、ピウスツキは自分の考えどおりに外交政策と軍制改革を実施します。しかし、どちらもあまりよいとはいえない結果でした。30年には独裁的内閣をしき、35年には独裁憲法を制定しました。しかし、ピウスツキ体制はファシズムではありませんでした。良くも悪くも「サナツィア体制」と呼ばれるこの時期の政治には特定のイデオロギーがなく、人種主義的傾向はほとんどありませんでした。

 ピウスツキは35年に亡くなりました。その後は、ポーランドは再び不安定な時代に突入し、後継者問題により諸勢力の対立が激化し、ファッショ的独裁の恐れが出てきました。大恐慌はポーランドでも猛威をふるい、社会紛争がどっと発生し、外にあっては国際情勢の悪化に伴い戦争の危険が感じられました。1938年、3月にドイツがオーストリアを併合したとき、ポーランドはこれを支援する行動を取り、同じ月にポーランドはリトアニアを一方的に事実上の衛星国としました。9月にミュンヘン危機が勃発すると、ドイツの片棒をかついで、チェコスロヴァキアの解体に加わり、一部の領土を奪い取りました。

 そして、ドイツはチェコスロヴァキアを解体するとポーランドに矛先を変えます。1938年、いわゆるポーランド回廊を縦貫する自動車道路の建設許可を求めました。これは、ポーランドにとってドイツの保護国となることを意味しかねないものでした。翌年ポーランドはこれを拒否しました。ドイツの脅威を、それほど真剣に受け止めていませんでした。そして、1939年9月1日同年に不可侵条約を破棄したドイツが、ドイツ系住民を虐待を保護すると言う名目でポーランドに侵入します。

 イギリスとフランスはこれに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発しました。ポーランドはこれに楽観的気分で挑みましたが、3週間でポーランドは壊滅し、ドイツと不可侵条約を結んでいたソ連に占領されました。ポーランド人は独立の文化的存在としては計画的に抹殺さえようとし、それは民族としての生存危機以外の何者でもありませんでした。もっとも悲惨な扱いを受けたのはユダヤ系市民でした。ユダヤ人は、ゲットーに閉じ込められた後、1942年には大量殺戮が実行され、オシフェンチムなどに絶滅収容所が設けられヨーロッパ各地のユダヤ人が送り込まれました。絶滅政策の犠牲となったユダヤ人は、ポーランド出身者のみでも270万人にのぼり、700年の歴史を誇ったポーランド=ユダヤ社会は、わずか数万人を残して滅び去りました。

 ルーマニアに逃れた大統領と政府は、収容所へ入れられ、イギリス、フランス政府と国外に逃れた有力政治家の間では、亡命政府を形成する動きが出てきました。亡命政府はフランスが敗北した後、ロンドンに移りました。亡命政府は、戦前と比べると急進的な陣容でした。
 独ソ戦の開戦後、亡命政府はイギリス首相チャーチルによってソ連との国交を回復します。各地に抑留されていたポーランド人は「特赦」され、ポーランド人部隊の結成に同意したものの、ソ連に帰属した東方領土をめぐって次第に悪化したものの、ソ連との同盟関係を重く見た西側政府は亡命政府に自重を要望しました。しかし、1943年4月にドイツが、スモンレスク郊外のカティンの森においてソ連によって殺害されたと推定される数千のポーランド人将校の死体を発見したと発表したことは、両国の関係をいっせいに緊張させました。その後、亡命政府が国際赤十字に調査を依頼した直後、ソ連は亡命政府に外交関係の断絶を通告し、亡命政府の立場は急速に悪化しました。

 その後、ソ連当局によってほとんど全幹部を処刑され、解散を命じられたポーランド共産党は1942年に「ポーランド労働者党」という名のもとに再建されました。この党はソ連との有効と幅広い民族統一戦線を標榜したが、他の組織の協力を得られませんでした。
国内では、ソ連から送り込まれた指導者がゲシュタポに逮捕された後、後任の書記長にゴムウカが選ばれました。この宣言に基づいて、労働者等とその他の群小勢力からなる「国内国民評議会」およびその武装力「人民軍」が発足しました。

 1944年、ソ連軍によるワルシャワ解放が目前に迫ったかに思われた8月1日に国内軍はソ連軍の来援を期待して、しかし、ソ連軍司令部に事前に連絡することなしに蜂起を指令します。子供を含む市民全体が蜂起に加わり、闘ったがソ連軍は蜂起の勃発を知りながらヴィスワ川を超えず、20万人の死者を出した蜂起鎮圧後、ドイツ軍はワルシャワ市街を徹底的に破壊しました。亡命政府はソ連軍がヴィスワ川を渡って入ってくる前に、自力でドイツ軍から首都を開放し、戦後に向けて亡命政権側の発言力を確保しておこうと目論んでいたのですが、失敗しました。国内軍は、解放地域においてもソ連軍や国民解放委員会に厳しく弾圧され、亡命政府は国内の権力基盤を奪われたばかりでなく、西側政府の指示を受けていたミワコイチクが首相を辞任したことによって、国際的に孤立を深めました。

 国民解放委員会は、1944年7月モスクワでオスプカ=モラフスキを議長とし国内国民評議会とソ連で作られた愛国者同盟からなる組織で、7月27日からはルブリンで政府業務を開始しました。国民解放委員会は、同年12月に臨時政府に改組され、翌年1月に解放された首都に移りオスプカ=モラフスキを首相とした挙国一致政府が発足し、新政府は連合国政府の承認を受けました。亡命政府は帰国を拒まれ、戦前あまり影響力のなかった共産党がキーポストを握りこれ以降ポーランドは社会主義的な発展の道を歩みます。

 これは、ポーランド人が望んだものでなく、戦争に勝利した三大国共通の意思としてポーランドに押し付けられたものでした。ソ連は、ポーランド解放作戦に250万の兵員を投入し、44〜45年にはあわせて400万のソ連兵がポーランド領を通過したことを尊重して、西側諸国はこの地域にソ連の優越した影響と責任を認め、ヤルタ協定が結ばれます。ポーランドはこれにあがらうことは出来ませんでした。

 現在のポーランドの国境は、この時定められました。西方はポツダム会談において、東方はソ連との協定によって定められました。人口は、戦争によって22.2%を失いました。これは、人口比率だとヨーロッパ最大でした。

 ポーランドは、共産党の独裁体制がしかれ、非共産党系抵抗組織はスターリン直接の指示のもと、最大の抵抗組織「国内軍」に関わったものはナチスの手先と称して厳しく追及され、約5万人が逮捕され、多くがソ連奥地に流刑されました。また、治安機関(警察、軍隊)は取り締まるために異様に膨れ上がりました。

 しかし、ポーランド人は抑圧的な支配に断固として抵抗し、1956年のポズナン暴動以来、ポーランドでは政府と知識人・労働者の間で度々紛争が生じました。しかし、70年代後半から始まる「オポジツィア(反対派)」の運動や、6月事件を契機に「労働者擁護委員会」などが結成され、労働者の運動を支援しました。このグループの周辺にグダンスクの自由労組設立委員会が発足し、ここからワレサをはじめとする連帯の活動家が登場します。

 「連帯」の運動は、妥協を拒まず、粘り強く相手と交渉しながらほとんど血を流さずに巨大な体制の転換を成し遂げました。80年8月、グダンスクの労働者達は「工場間ストライキ委員会」を結成し、ワレサが委員長に選ばれました。ストライキ委員会は工場に立てこもり、要求として二十一か条を発表しました。中でも強く求めたのは自由労組の承認でした。当初、参加は20くらいでしたが、最終的には500を数えました。反体制の知識人は、労働者に専門家の立場から協力し、追放はされなかった(と、言うよりはすることが出来なかった)ものの圧迫されていたカトリック教会も支援を惜しみませんでした。8月31日、政労間の「グダンスク協定」が成立し、ストは終結します。政府は自主労組の設立を認め、9月17日「自主労組・連帯」が発足し、ワレサが委員長に就任しました。しかし、翌81年、ヤルゼルスキ政府は「戒厳令」(戦争状態)を布告しました。

 さらに82年には「国家転覆の意図」があるという名目で、連帯を非合法化し、ワレサを含むメンバー達は約6800人が拘留されました。連帯は戒厳令にゼネストで答えることになっていましたが不発に終わりました。弾圧を免れた勢力はカトリック教会のみでした。戒厳令について、西側諸国は激憤をひきおこし、アメリカ政府は大使を引き上げ、などの措置をとりました。しかし、これによってソ連の軍事的介入はありませんでした。

 戒厳令は83年7月22日に、十分な準備措置を取ってから解除されました。ポーランド政府は、その少し前にワレサを釈放していました。戒厳令後はヤルゼルスキの独裁的傾向が見られました。しかし、ソ連でもゴルバチョフによる「ブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)」の見直しを唱えたこともあり、ポーランドの政府は円卓会議構想を発表、翌89年には政府と反対派が一つの円卓を囲んで交渉に入り、「連帯」は合法化され、6月の選挙で圧勝し、統一労働者等による政権の独占に終止符が打たれました。東欧ではじめて自由選挙を実施し、以後「東欧革命」のモデルとなりました。ワレサは、大統領に就任しました。

 「連帯」政権は、成立後早々、経済の建て直しに立ち向かいました。ポーランド経済は、それまでに対西側債務が膨張しつづけ90年末には400億ドルを越えるまでになっていました(しかし、91年4月のパリ・クラブでポーランドの対外債務のうち、50%削減することになります。94年のロンドン・クラブでは民間債務の45パーセントを削減することになりました。)。これに対し「連帯」政権は早くから限界が明らかになっていた計画化経済から、市場化に転換する急進的な改革を推進しました。具体的な内容は「計画化経済時代の行政的な経済管理機構の解体」「価格の自由化」「貿易の自由化」「競争原理の導入」「国有企業の民営化」「私企業の育成」などです。

 しかし、このプログラムの実施後急激なシステム転換に伴う混乱が目立ちGDPは30パーセントも減少し、失業者は急増、国民の消費水準は明らかに低下しました。国民の不満は高まり、そうした不満票を集め93年9月の総選挙では旧左翼系の「左翼民主同盟」が第一党に、その翼賛政党であった農民等が第二等へと躍進し、左翼連立政権が誕生しました。しかし、95年には大統領選で旧左翼系のクワシニェフスキがワレサを破り。現在も大統領です。しかし、連立政権の手中にも苦境を一挙に好転させうる具体的政策はないようです。

 ポーランドは1991年にチェコスロヴァキア(当時)、ハンガリーとの間でEUの前段階と言われる連合協定を締結しました。ポーランドは94年の4月にEUへの正式加盟を申請し、20世紀以内の加盟が期待されていましたが、現在の所まだ加盟していません。


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