フィールドワーク神奈川2000    

 ご存知のように、私たちの学校では、1年を通して3つの大きなフィールドワークを実施しています。私たちの学校において、その最大の学習テーマである、「平和」の問題に関わるこれらのフィールドワークは、日常活動において不可欠なものです。この数年のこれらのフィールドワークを実施して、大きな収穫が膨大な量あったことは他のフィールドワークの報告を見ていただいてもわかると思います。その一つ一つの膨大なデータを今、毎年、少しずつまとめるという作業を各学生たちと行っています。そうした通年の学習活動を通して、見えてきたことは、今やこうした平和の問題は、世界規模であると同時に日常生活に対して密接につながっているということでした。特に経済の問題とは切っても切れない関係になっているのです。こうした構造の中、平和を脅かす存在である軍事との関係はさらに様々な角度から学習をしておかなくてはいけない課題であると理解を深めています。沖縄でもヨーロッパでも東南アジアでも、今や冷戦という過去の遺物が消え去った21世紀になっているにも関わらず、各地域の軍事的勢力は拡大強化こそされていても縮小消去されているわけではありません。

 このような世界の状況が私たちの学校の足下である神奈川という地域において、どのよに関係しているのか、実は、日本の中で沖縄県についで在日米軍の基地が多い神奈川県において、それこそ戦前からのこうした問題に対するつながりは長きにわたる大きな問題であったわけです。私たちの学校の学習方法論の一つに総合から分析へという流れがあります。まさに地球規模の総合的な学習から地域規模の分析的な学習への流れを試みるフィールドワーク、これがフィールドワーク神奈川だったわけです。

 今回のフィールドワークにおいても全国から集まった学生たちは、その足下に基地の問題、民族差別問題等、共通する課題が多く存在することに気づきだしています。地元に戻った学生たちは既に、そうした足下にある課題について学習を開始し出しています。皆さんが、自分の住んでいる地域においてフィールドワーク学習を開始するときの一つのヒントとなってくれるとたいへんうれしいと思います。

 神奈川県でフィールドワークをやろうと考えたとき、軍事の問題、民族の問題ははずせないものであると直ぐに思いました。他にも神奈川という土地がら外国との関係、日本政府との関係、鎌倉時代との関係等様々な学習要素が思い浮かびましたが、やはり、世界的な情勢の中、現代において早急な学習が必要と思われる上記の二つの問題は最優先課題だと思い、その二つの課題に絞ったフィールドワークを実施しました。

【厚木】
 第1日目の訪問先は、神奈川県の中央に位置する大和市(正確には、大和市、綾瀬市、海老名市)にある厚木基地です。大和市にあるのに厚木基地というのはいささか不思議ではあります。厚木基地は、1938年に旧日本軍が航空基地として開設したときから始まり、1941年には、帝都防衛海軍基地として本格的に稼働しだします。その後、1945年には、終戦により連合国軍の中心であったアメリカ軍に接収され、1950年には、アメリカ陸軍からアメリカ海軍にその所属が移管され、以来、アメリカ第7艦隊後方支援基地として機能しています。その間、1971年には、基地の一部が海上自衛隊に移管され、アメリカ海軍厚木航空施設ならびに海上自衛隊厚木航空基地として現在に至っています。

 神奈川県の藤沢駅経由で小田急線に乗り、さらに大和で相鉄線に乗り換え、さがみのという駅で下車をしました。ちょうどこの1ヶ月ぐらいは、7月に沖縄でサミットがあった関係で、今年の訓練ノルマをこなしきれていないアメリカ海軍第7艦隊所属の空母キティーホークの艦載機が、離発着訓練をここ厚木で行っており、その実施時間帯などを省みない実施で近隣の多くの自治体から騒音などに対する苦情が多く発せられている最中でした。駅の改札口を出て、南の方へ向かった私たちは、だいたい10分ぐらい歩いたでしょうか、東名高速道路を横切った頃、正面に厚木基地の正面ゲートが見えてきました。沖縄などのゲートを見慣れているせいか、少しこじんまりとした感じのゲート前ではありました。正面にゲートを見て左に曲がり、フェンス沿いに基地の周りを歩き出しました。基地沿いのフェンスを見たときに思ったことは、沖縄の基地の場合は、基地の中に沖縄の町があるという印象でしたが、ここ厚木では、日本の町の中に基地があるという印象でした。

 フェンスには、見覚えのある、「ここから先は軍用地であるという」看板がやはり貼られ、アメリカ軍の基地の存在は、あたりまえといえばあたりまえなのですが、日本のどこに行っても確立されたものだという印象を強く感じました。いつものことながら広々とした基地内には、軍関係者のための多くの施設が存在しています。私たちの目の前に広がっているのは、そんな施設の一つであるゴルフ場でした。建物の向こうには、そろそろ飛行場に離発着する飛行機やヘリコプターの機影が見え隠れしだしています。住宅街と基地とのあいまいな空間をフェンスに沿ってさらに歩いていくと基地の中で引き込まれた線路に打ち当たりました。この線路は、米軍のジェット燃料を輸送するためのものだそうです。遠く沖縄から運ばれてきた燃料は、一度、神奈川県内にある3つの燃料貯蔵施設に蓄えられ、近隣の各基地に輸送されているそうです。ここ厚木基地には、横須賀の田浦からJR等の路線を利用して鉄道で運び込まれているそうです。日本中が、こうした軍事的後方支援基地としての機能を私たちが知らないところで確立されている。ある意味、横須賀からここ厚木までの鉄道は、私たち市民の足と同時にこうした軍事的な施設としての意味も合わせもっているわけです。日常の生活の中に、違和感なくとけ込んでいることに不安を感じました。なぜかそのとき、旧日本軍の柳条湖事件などを思い出したりしてしまいました。米軍基地が何らかの攻撃にさらされるとき、敵は、当然こうした燃料輸送路も破壊しようと考えるだろな、そんなときは、民間人がその鉄道を利用しているしてないなんて関係ないんだろうとおもったりしたのでした。ということは、このルートを利用しているのは、燃料関係だけかもしれないけれど、他のルートを利用して基地に不可欠な弾薬なども基地内で作っていないとすれば持ち込まれているんだなとを気がつきました。おそらくそれは、神奈川の場合は、横須賀から陸路を使いここ厚木まで運ばれているのであろう、一般の国道などを使って、ということはさらに日本中にある基地にこうした燃料や弾丸を補給するためのルートが存在をするということに他ならないわけです。私たちの生活は、こうした軍事の問題と背中合わせになっているわけです。今さらながら、沖縄の問題は、日本全体の問題なんだと実感したのでした。厚木基地上空を旋回する軍用機の音を聞きながら昼食を済ませて私たちは、さらにフェンスの先へと進みました。するとそこは、厚木基地の滑走路の北のはじ、オーバーランの場所へと出ました。ここ厚木基地は、全体の広さが5,064,594平方メートル(横浜スタジアム188個分)です。そこに約2500メートルほどの滑走路を持っています。基地の一周ぐるりは約13キロメートルです。滑走路の南の方には、共同使用している海上自衛隊のP3Cが見えます。アメリカ軍は、ここ厚木では、キティーホークの艦載機F14Aなどの離発着訓練の場として多く使われています。ここ厚木基地において長い間、その問題としてあげられてきたのが離発着訓練にともなう戦闘機の騒音問題です。特に今年は、先にも書きましたように沖縄でサミットがあった関係で、その期間に行うはずであった訓練ができなかった分をここにきてこなしているという現実があります。結果として昼夜をたがわない訓練が周辺に爆音をまき散らしいるのです。今、私たちが立っている所は、ちょうど滑走路の北のはじになります。頭の真上を軍用機が旋回したりしています。その日の風向きによって、離発着の方向が変わるそうです。フェンスを隔てた周りは、ふつうの住宅街です。おそらく、ふつうの生活がそこにはあるのだと思います。こうした、私たちの生活と密接している場所に基地が存在するとその存在意義の比較は、より鮮明に考えることとなります。この基地というものは、私たちの生活の何を守るというか、生活に対して何か利益を還元しているものなのか。ましてや、ここで離発着をしている航空機は、アメリカ軍のものであるわけです。別に日本の軍用機であればよいと言っているわけではりません。何も生みだしていないものがふつうの市民の生活を脅かす意味で存在している矛盾です。この矛盾に誰も気がつかないのでしょうか。滑走路を見渡せる小高い場所に立ち、基地全体を長い間見ていました。もし、日本が紛争に巻き込まれ、敵が大陸間弾道弾のようなミサイルを持っていたなら、必ずここは爆撃をくらうだろうなと思いながら。

 冷戦が終わり、仮想敵国であったソ連も崩壊し、今もってなぜ、こうした軍事力が必要なのか、百歩譲って、自国の防衛のためというのであれば、なぜ、わざわざ極東の日本という国にこうした大きな基地を維持している必要があるのか、せめて縮小撤退をしてもよさそうなもであると思うのだが、この風景がふつうだから、何も疑問は感じないのかな若者たち。学ばなくてはいけないことがたくさんあるなと再確認をするのでした。いろいろなことを再び考えさせられた厚木基地を後にしました。

【横須賀】
 第2日目、今日は昨日の空に対して海です。横須賀という街へ行きます。学校のある鎌倉からは横須賀線という列車に乗っていきます。この鉄道は、横須賀に物資を輸送するためにだいぶ早い時期から開通しました。(1889年)鎌倉の次の駅の逗子から先は、トンネルも多く丘肌に隠れるように線路が伸びています。そうです。横須賀という街は、古くから軍事施設のある要所として栄えました。(1903年横須賀海軍工廠設置)多くの軍事物資を輸送するために鉄道を引き、天然の良港であった横須賀を海軍の基地として長く活用してきたのです。太平洋戦争後は、占領軍が駐留し現在に至っています。横須賀市内には、4カ所、3施設からなるアメリカ海軍横須賀基地ならびにいくつかの海上自衛隊の基地があります。トンネルを抜けると直ぐに横須賀の駅があります。駅前ということであれば、このJRの駅より京浜急行の通っている横須賀中央駅に方がにぎやかです。なぜかスロープのような駅のプラットホームを降り、改札口を抜けるともうその目の前には、港が広がっています。このJRの駅は戦災から免れて、連合軍側が占領後、直ぐに使うためにあえて爆撃しなかったという話しもありますが、昔に近い風情を残しています。港といっても横浜や神戸の港とは少々感じが違います。というのは、駅を出て直ぐ左に広がっている港の中には、左にも右にも灰色をした船しか停まっていません。一目見て、軍艦であるとわかります。様々なタイプの日米の軍艦が停泊しています。特に右側に広がっているドック群には、アメリカや日本の軍艦が修理整備のためにつながれています。戦後、いち早くこれらの設備に目をつけたアメリカ軍は、その施設をそのまま接収して、世界でも有数な艦船修理部を確保しました。その能力の高さは、1991年にあった湾岸戦争のときいかんなく証明されました。ドッグは、港に向かって右の奥からアメリカ海軍横須賀基地の中央に向かって順番に1から6号ドックまであります。この日は、手前の埠頭(ハーバー・マスター・ピア)にアメリカ海軍のミサイル駆逐艦が停泊していました。現在、アメリカ海軍横須賀基地は、空母キティーホークを中心とした空母戦闘団(空母1・航空団1・巡洋艦2・駆逐艦4・原子力潜水艦2・高速支援艦1)が、母港として使用しています。これらの随伴艦の多くは、巡航ミサイル・トマホークの発射装置を持っています。このように冷戦終了後においてもアメリカ軍は、着々と戦力の増強をすすめています。港に向かって左側には、手前に海上自衛隊の地方隊基地があり、その前には、吾妻島という島全体が燃料庫となっている島が浮かんでいます。1号から3号までのドック群を左に見ながら、私たちは横須賀中央の方に向かい歩いていきました。途中、昔EMクラブという米軍施設があった所には、返還されホテルと劇場が建っています。その向かいにあるショッピングセンターの脇をすり抜け、マンションの裏手に回りこみました。見慣れた金網が私たちの目の前に現れます。金網の向こうはアメリカです。小高い丘の上に星条旗とともに国連の旗がひるがえっていました。ここアメリカ海軍横須賀基地は、アメリカ海軍第7艦隊の事実上の母港がおかれています。第7艦隊の業務範囲は、東はハワイから、西は喜望峰までという広大な範囲を受け持っています。基地内には、この第7艦隊の司令部の他に後方支援部隊の各司令部や修理部、病院、学校、娯楽施設などが整っていると言います。また、これらの多くの施設の整備拡充には、日本からの思いやり予算なるものがだいぶ貢献をしているそうです。基地内の人口は、軍関係の家族、日本人従業員、乗務員などを合わせて、約16,700人以上の人が暮らしているそうです。いつも素朴に思います。この多くの人たちは一体何のために日本にいるのでしょうか?一昔前であれば、冷戦の最中、仮想敵国が攻めてくるのを自由主義陣営のリーダー国として守っているなんて理由があったかもしれませんが、今はその仮想敵国はありませんし、日本という国を単体で考えても今、日本という国を侵略しようと考えている国は世界の中にはそうはないように思えます。逆に考えれば、冷戦が終焉した後にも関わらず、日本にアメリカ軍の基地を置き続けなくてはいけない他の理由があるのではないかと思われることと、置くことによる何かうまみがあるからなんだろうなと想像がつきます。でもいつも思います。沖縄にしても厚木にしてもここ横須賀にしても、基地の回りは、金網一つでふつうの市民の生活があるエリアということです。ここの金網の後ろは、マンションであったり、一般の市民が集うショッピングセンターだったりします。しかし、この金網の中には、様々な兵器や戦争を遂行するための情報などがぎっしりと詰まっています。前にも書きましたが、湾岸戦争のときは横須賀基地からも多くの艦船が出撃していきました。敵が大陸間弾道弾を持っていれば、当然、出撃基地であるここも狙われたに違いないと思います。ただ単に敵が、そういったミサイルを持っていなかったということと遠くに離れていたということだけです。さらに、もしそういった状況になり基地だけを攻撃目標にされたとしても被害が金網の中だけで終わるはずもありません。また、こうした攻撃は戦時中だけに考えられるもなののでしょうか。もし、遠征している軍隊がその先の地域で、そこに住む人たちの意に沿わない行為をしていたとすれば、その実行部隊である軍隊は報復の一つの目標になりはしないのでしょうか。さらに、平常時においても基地内にある様々な兵器などは、暴発や事故を起こす可能性はないのでしょうか。化学兵器であればこんな金網関係ないと思うのです。ということで、基地が、それも市内の中にあるというだけで市民は、こんなにも大きな危険と背中合わせで生活をしているという事実をみんな知るべきだと思いました。少し話しは飛躍しますが、合わせて、こうした基地を日本の各地に存在させている日本や日本人は・・・。一つ間違えれば、ある意味、加害者であるかもしれないと思ったのでした。複雑な思いを心にして、正面ゲートの方に回りました。横須賀基地の正面ゲートは、国道16号線に面しています。都会に近いせいか、今まで見たいくつかの正面ゲートに比べて、立派なような気がします。大学や研究所に入るような雰囲気です。当然、許可書のない人が中に入ることはできません。出入り口ではMPがチェックをしています。出ていく者は簡単なチェックですが、中に入る者には、かなり入念なチェックをしています。カメラを構えて撮影をしようとしているとこっちに向かって鋭い視線を向けてきました。今、横須賀基地をめぐっては、いくつかの問題があります。思いつくままに書きますと、1.基地内にある兵器の問題。特に核兵器も搭載可能なトマホークの配備です。建前上、日本には核兵器が持ち込めないことになっていますが、事実上母港になっている横須賀基地に核兵器はなく、出撃の度に他のどこかの基地に立ち寄ってから核兵器を搭載して再出撃をしていくということは考えにくいと思います。2.基地内にある湾の埋め立て。アメリカ軍側は、基地内は軍の自由に使用してかまわないという見地から、日本の地方自治法などを無視して埋め立て工事を実施しています。3.これも基地内工事に関してですが、トマホーク艦などを接岸させるために、桟橋を勝手に延長しています。4.放射能汚染。横須賀基地に寄港する潜水艦は、原子力潜水艦です。1年のうちの多くの期間、何隻かの原潜が修理等のために寄港しています。その間、ある意味、わかりやすいのですが、故障しているから整備にくるというところで原子炉等の故障もあると思います。結果として海を汚染している可能性は大です。5.横須賀だけではないのですが、日本にある各地のアメリカ軍基地において、化学兵器の問題なのか建築資材等の問題なのか、私にはよく知りませんが、重金属などよる土壌汚染が多く見つかっています。ここ横須賀基地でも12号バース付近で深刻な土壌汚染が見つかりました。6.これも横須賀基地だけの問題ではないのですが、思いやり予算の問題です。97年度における横須賀基地に投入されている思いやり予算は、約470億円です。もし仮にこの470億円が、基地のためではなく、横須賀市のために使われたならどのようなことができるでしょう。基地があることによってもたらされる地元への利益とないことによってもたらされる利益などを前述した危険度なども数値にしてじっくりと比較検討する必要はあると思います。ゲート前を通過して、東側から基地を見ようと対岸の三笠公園に向かいました。三笠公園には、自衛隊の宣伝施設の一つである旧日本海軍の戦艦であった三笠が記念艦として置かれています。ここから基地内を眺めると、その中央付近にこれも思いやり予算で最近建設された住居棟が目の前に見えます。まあ、マンションです。思った以上に東京湾側に向かって広く突き出しています。三笠の主砲が基地に向いていたのには少々笑えました。公園を後にしまして、昼食にカレーなどを食べ、そう言えば、今、横須賀では、海軍カレーなるものを大々的にキャンペーンしています。旧日本海軍では、有事でもすぐに食べられるカレーがよく食事に出てたからだそうです。どぶ板通りに向かいました。横須賀だけではなく日本各地の基地の前には、門前街のように基地前街ができていました。基地に出入りする軍人を相手に商売をする街です。その昔は、ここどぶ板通りもそうしたアメリカ軍人を相手にした酒場などが多くあり、他の街とは違った空間を演出していました。しかし、今では、日本の経済力が強くなるのと並行して、環境の整った基地の中から物価の高いの日本の外の街に買い物やお酒を飲みに出る軍人は少なくなりました。したがって、昔はそんな怪しい街であったこの界隈も今では、健全で横須賀や市外から訪れる観光客などのスポットの一つになっています。この街の有名なおみやげ用品の一つにスカジャンなるジャンパーがあります。空軍などが使うフライトジャンパーに刺刺繍をほどこしたものです。龍などありまして少々派手ですが、勢いはあります。横須賀の下町界隈をブラブラしたあと、最後に基地の全景を見ようと、基地の西側にあるホテルの最上階へと向かいました。そこから見る基地の全景は、日本の中にある何か違う世界を垣間見るような気がしました。出たり入ったりしている灰色の軍艦たちを見て、この風景が恒久化しないことを祈りました。

【川崎】
 第3日目、今日は、川崎という町を訪ねます。川崎は、京浜工業地帯の真ん中の街です。1960年代からの日本の高度成長を支えた街と言っても言い過ぎではないと思います。多くの工場などが集中したこの地域の歴史は、近代化を駆け抜けた日本の歴史と色濃く重なりあっています。戦前、戦時中を通しての軍需産業、工場地帯であるがゆえに重点的に行われた爆撃、戦前、戦中、戦後と労働力確保の問題などとからんだ在日韓国・朝鮮人、日本の様々な地方からの出身者らとの関係。川崎という町を知ることは、日本の一つの顔を知ることだと思います。

 私たちが初めに訪れたのは、川崎市平和館です。武蔵小杉の駅から徒歩で10分ぐらいでしょうか。綱島街道沿いにある中原平和公園の中にあります。この公園は、元は、アメリカ陸軍印刷局があった所です。この印刷局では、戦争時における心理作戦のためのビラなど、情報攪乱のための印刷物を多く刷っていたところだったそうです。ベトナム戦争時には、何億枚におよぶビラの印刷などしていたそうです。1975年に返還された後、川崎市が公園として整備し、1992年からはこの平和館を開設しました。この施設は、川崎市民が平和で、よりよい暮らしを考えるための拠点として造られたそうです。館内は、川崎市と戦争の関係についてや日本の戦争の歴史、世界の戦争の歴史、戦争と人間の関係、現代の戦争、平和維持への取り組みなどが、いろいろな器具や資料を通して理解できるように展示されていました。とても中身が濃く、一つ一つの展示物の説明に目を通すと1時間ぐらいの時間では足りません。午前中いっぱいをあてて、一つ一つの展示物に目を通しました。川崎市に限らず、日本、いや世界のあらゆる地域が、平和のための努力をしているにも関わらず、今現在においても世界のどこかで紛争が起きている。人間はそんなに愚かなものなのでしょうか。平和な状態はよいと誰もが願っているにも関わらずです。今年も、コソボでは、NATOによる空爆がありました。これにしてもそうです。アメリカをはじめとする欧米諸国、特に戦場となったことを経験している欧州の国々は、軍事による解決は解決にならないということをあれほど経験しているにも関わらず、軍事力を行使して解決しようとしている。正当化させるための理由は、人道的な処置と言っている。空爆によって、同じ命の重さを持った人間が多く死んでいるにも関わらず。こうした、平和に対する考えは単なるロマンティズムなのでしょうか。しかし、今や昔の西側諸国が仮想敵国としていた東側陣営はないわけです。何ら軍備を拡張する理由はないと思うのでした。ましてや戦う理由は。平和館を見学した私たちは、南武線に乗り川崎駅へと向かいました。

 川崎駅は、1872年の品川・横浜間の鉄道開通とともに誕生しました。川崎の町は昭和以降は、前にも書きましたように、重化学工業の中心の町として発展し、戦災の打撃にも負けず、日本の工業の中心都市として発展しました。近年は、内陸部を中心にして、東京のベットタウン化が進み、川崎市全体では、人口124万人を越える日本でも有数な大都市となっています。川崎駅周辺で昼食を取った私たちは、次の目的地である川崎区にある田島地区に向かいました。駅からバスに乗り、10分もかかるかどうかぐらいの距離です。ここ田島地区、中でも桜本、浜町、池上町には、多くの在日韓国・朝鮮人の人たちが住んでいます。


日本と朝鮮との関係一部
16世紀末     豊臣秀吉軍侵入
1876年     日朝修好条規
1885年     天津条約
1894年     日清戦争
1895年     下関条約
1904年〜05年 日露戦争
1904年     第1次日韓協約
1905年     ポーツマス条約
          桂−タフト協定
          第2次日韓協定
          韓国統監府設置
1907年     ハーグ密使事件
          第3次日韓協定
1910年     韓国併合
          朝鮮総督府設置
          日本の朝鮮半島植民地化達成
1914年〜18年 第1次世界大戦
1931年     満州事変
1937年     日中戦争
1938年     朝鮮語使用の禁止
1939年     強行連行始まる
1940年     創氏改名
1941年     太平洋戦争
1945年     終戦

 植民地化された場所から、宗主国はすべてのものを搾取しようとします。資源、土地、食料、労働力などなど、根こそぎ奪われた朝鮮の人たちの一部は、生活の糧を確保するために日本へと渡ってきました。日本人がいやがる仕事につきました。

 友好的な関係にあった日朝関係が、明治以降の日本の近代化とともに崩れていきます。世界の一等国になるためには、アジアの中で支配的な位置を占めなくていけないという錯誤感のもと、日本以外のアジアの諸国を見下すような何の根拠もない差別意識が国民レベルにまで浸透していきます。

 日中戦争が始まると日本人の労働者が兵隊にとられ、労働力が不足してきます。労働力として、朝鮮半島から強行に連行されてきます。
 
 戦争が終わり、故郷に帰国しようにも故郷に生活の基盤なくなってしまっていたり、引き続き朝鮮半島で起きる冷戦の綱引きなどによる政情不安などによって、帰りたくても帰れないという状態の人々が多数発生する。

 バスを降りた私たちは、この桜本で民族に関係なくふれあえる場をつくる運動の中心として活動をしている、「川崎ふれあい館」に向かいました。この日はちょうど、在日韓国・朝鮮人高齢者と世代と民族をつなぐ交流クラブである、「トラヂの会」の交流会の日でした。近くの昔幼稚園だったところで、交流会は開かれていまた。寸劇や歌と踊りでおおいに盛り上がっている交流会に私たちも合流させてもらいました。参加者の多くは、女性の方々でした。皆さん、暖かく突然の来訪者である私たちを迎え入れてくれました。次から次へと、「さあ、お菓子を食べなさい、リンゴもあるよ。」とあれもこれもとすすめてくれます。年頃は皆さん、60代から70代ぐらいのご婦人たちです。中には80代の方もいらっしゃいます。いっしょに踊りの輪に入れてもらったり、挨拶をさせてもらったり、おしゃべりに参加をさせてもらったりしました。日本語と同時に韓国・朝鮮語も飛び交い彼女たちにとって、心休まる場所であることが直ぐにわかりました。彼女たちは何をどう考えても苦労しているはずです。思い切って、となりのお母さんに聞きました。「それゃ、確かにたいへんだったけど、今は、しあわせよ」と笑って答えてくれました。

 私たちにわざわざ時間を作ってくれました。ノウさんとキムさんが話しをしてくれました。60代、70代のご婦人です。お二人の経験はだいぶ違います。共通の部分をいくつか紹介しておきましょう。朝鮮半島から日本に来た経過は、そのニュアンスは人により多少違います。半ば強制的に連れてこれた人と自分から来た人がいるということでした。でも、知っておかなければいけないことは自分から来たとはいうものの、自分の故郷を離れざるを得なくしたのは、日本の植民地政策であったことは忘れてはいけません。そして、差別は本当に厳しいものであったということです。しかし、日本人の中にもきちんとわかっていて、差別なくやさしく接してくれた人もいたということ。日本が戦争に負けたということは、日本人が自分たちのことを省みるうえでも必要だったのではないか。現在、若い世代の人たちは、なかなか難しい。何世代にわたって日本に住んでいるので、若い人たちは日本式の生活の方が楽である。日本に同化することに対して、古い世代としては違和感があることは否定できないが、子どもたちがその道を選んだらそれはそれで認めたい。今では、昔ほど日本の中でも差別も薄まってきてはいる。孫たちが日本の学校で本名で通したとしてもいじめられるようなことはなくなってきている。早く、南北の朝鮮が統一してもらいたい。ここトラヂの会では南北の出身に関係なく仲良く楽しんでいる。日本の若い人たちとこうして話しができる時間があることは、とてもよいことだ。他にもいろいろと話しを聞くことができました。お二人とお話しをしていて強く思ったことは、寛容さと包容力です。このことは他のところでも書きましたが、沖縄の人たち、ポーランドの人たち、ベトナムの人たちみんなに共通しているオーラです。どう考えてもたいへんな苦労、悔しい思い、自分の力ではどうにもならない理不尽さなどを経験しているはずです。不自由な生活ばかりをしてきているはずです。でも、心はすごく自由な臭いで満ちあふれています。憎しみは解決にならないことを実感します。様々なヒントと宿題を頂きました。

 降り出した雨の中、今回の機会をセッティングしていただいた川崎市ふれあい館に挨拶をし、帰途につきました。反省会をかねてセメント通りの焼き肉屋さんでちょっと早めの夕飯を食べて、今回のフィールドワーク神奈川2000を終了しました。

 学ばなくていけないことが本当にたくさんあります。何を今まで勉強していたんでしょう。日本のこと、韓国・朝鮮のこと、沖縄のこと、アジアのこと、ヨーロッパのこと、世界のこと、私たちの学びの旅はまだまだ終わりそうにはありません。日本人にとって、いや、人にとって忘れてはいけない大事なことがたくさんあります。日々の生活や自分の身の回りのことで精一杯であることもよくわかります。でも、こうした大事なことが時間の経過とともに風化していってしまう。これだけは何が何でもくい止めなくてはいけません。戦後55年、今や若い世代の中では、日本の戦争の歴史すらその知識になくなってきています。現代に関係がないことではないということをほんの少しでも伝えていくことができればうれしいかぎりです。