フィールドワーク沖縄2000
  6月12日「沖縄さわり」
 さあ、今日からFW沖縄2000が始まり
 ました。

 梅雨前線を強引に横切った、私たちを乗せ
 た飛行機は、私たちに、まさにジェットコ
 ースター級のスリルとスピード感を提供し
 てくれました。

 初日の今日は、現在の沖縄と言うことで、
 那覇からやんばるのラインをバスで踏破し
 てきました。さすがに少々、疲労したので
 くわしいことは明日から掲載したいと思い
 ます。

 今日は、遅くなりましたので、到着報告の
 みです。

 FWの期間中も教務関係の方の業務は滞り
 なく行っていますので、質問等ある時は、
 メール、FAXなど気軽にどうぞ。
 今年は、メール以外のものも沖縄にいて、
 直ぐに私の手元に届くように段取りました。
 世の中は、本当に便利になりましたね。

    明日からのデリーをお楽しみに。
        KAN

  6月13日「那覇空港」 
  さて、昨日からFW沖縄2000と言うで、
  沖縄に入っていますが、少しずつ、沖縄の
  ことについて話しをしていきたいと思いま
  す。
 
 とりあえずは、現在の沖縄と言うことで、
 今回のアプローチから話しをしていきまし
  ょう。日本の本土からは、昔は船でいくし
 かなかったのですが、現在は、やはり飛行
 機が便利です。羽田からだと約2時間30
 分ぐらい、ちょっと、新聞を読んで、お茶
 を飲んで、音楽を聞いて、ウトウトとして
 いるうちに那覇空港につきます。
 
 1万メートル近い高さを飛んでくる飛行機
 は、あの巨体を微動だせず、時速800キ
 ロメートルから900キロメートルで飛び
 続けます。そうです。東京からは約200
 0キロメートル以上離れています。
 
 沖縄本島に近づくと飛行機は徐々にその高
 度を下げていきます。雲の切れ目からは、
 コバルトブルーの海が見え隠れします。そ
 うこうしているうちにコバルトブルーの水
 の上に亜熱帯地方特有のジャングルを従え
 た、緑濃い島々が見えてきます。中琉球の
 中で一番大きな沖縄本島です。本島が見え
 てくると飛行機は一気に高度を落とし、ま
 さに海面が目の前に広がる超低空で空港に
 入ろうとします。高さにして300メート
 ルぐらいです。
 
 本島の600メートル以上の上空は、米軍
 機の練習空域のため、民間機は、その下を
 飛ばざるを得ないのです。


 
 今回のように、前線などの影響で横風が強
 い日は、ハラハラします。ちょいとエアポ
 ケットにはまって、飛行機ががくんと高度
 を落とせば、もうそこは海面なんですから。
 
 自衛隊と共有している軍民共用の那覇空港
 は、昨年新しい空港になり、地方の空港と
 しては、とても立派な設備になりました。
 立派な待合いロビーを抜け、空港の外に出
 ると、6月の沖縄は、まだ、梅雨が明け切
 らない、ぐずついた天気ではありますが、
 関東から来た、私たち旅人にとっては、十
 分にまとわりつく南国特有の亜熱帯気候で
 はあります。
 
 今年のFWも例年通り、平和ガイドの山内
 さんの笑顔の出向かえで始まりました。
        つづきはまた明日。
          KAN

 
 6月14日「在沖縄米軍」
 今日の沖縄は、昨日までの梅雨空とはうっ
 て変わって、とてもよい天気になりました。
 晴れてはいましたが、風はさわやかで、と
 ても気分のよい1日でした。今日は海の様
 子を見にミーバルという方の行ってきまし
 た。海の話しはまた次のするとしまして、
 昨日の話しのつづきをしましょう。
 
 私たちを待っていてくれた、琉球大学の山
 内さんとともに、私たちを乗せたバスは、
 一路、北の方を目指して走り出しました。
 
 空港から、那覇の市街へ行く道のそばには、
 那覇軍港と言う港があります。ここも米軍
 の基地です。この港は、もう既に移転返還
 が決まっていますが、移転先が決まってい
 ないので、まだ、返還が実現していません。
 
 そうですね、少し基地がなぜ、それも米軍
 の基地が日本にあることなどを説明しない
 といけないですね。
 
 まず、日本の各地に米軍、すなわちアメリ
 カ軍の基地が存在します。これは、日米安
 全保障条約の基づき、極東における安全の
 ために日本の中にアメリカ軍が基地を維持
 することを認めています。今、日本にある
 アメリカ軍の基地の75%が沖縄県にあり
 ます。以下、多い順に、神奈川県、北海道、
 長崎県、東京都、青森県、広島県、静岡県、
 宮城県、埼玉県、山口県、福岡県となりま
 す。
 
 そして、今、沖縄の在駐しているアメリカ
 軍は、海兵隊1万6200人、空軍725
 2人、陸軍875人、海軍2794人、計
 2万7121人(1995年12月現在)
 となっています。この数字からわかるよう
 に、在沖縄の米軍で一番多いのが、海兵隊
 と言うことになります。
 
 海兵隊と言う軍隊について、すこし解説を
 しておくと、アメリカ軍の中で、海兵隊と
 言うのは、先乗り部隊として有名です。世
 界のどこかで紛争が起き、アメリカ軍が出
 動となった場合、24時間以内に現地に行
 き、あとからくる他の部隊のために足場を
 固めておくことが主な任務です。アメリカ
 は、この海兵隊を3つの大きな部隊として
 構成しています。海外において、その1つ
 の部隊の本部を置いているのが、ここ沖縄
 です。
 
 さて、話しをもとに戻しましょう。那覇軍
 港は、このアメリカ軍において、紛争が起
 きたときの軍需用品の補給港としてとても
 重要視してきました。それは、いつもは閑
 散としている港ではありますが、いざ、有
 事と言うことになりますと、たくさんの物
 資を積んでおくことができる広いバックヤ
 ードを持っているからです。
 
 私たちは、沖縄の背骨に相当する国道58
 号線をさらの北上していきます。いけども
 いけども、国道の両脇には、基地が連なり
 ます。
 
  今日の写真は最初のが、那覇軍港です。次
 のは、58号線沿いにある牧港補給基地で
 す。

 6月15日「嘉手納基地」
 今日は、夕方以降に動かなくてはいけない
 ので、早めのデーリーです。
 今日の沖縄は、昨日につづき、よい天気に
 なりました。晴れてはいるのですが、風が
 さわやかなので、あまり暑くは感じません。
 
 今も私の頭の上を、米軍のP−3Cが旋回
 飛行をしていきました。やはり、ここは沖
 縄です。
 
 さて、昨日のつづきをしましょう。私たち
 を乗せたバスは、現在の沖縄を見るべく、
 沖縄の背骨である、国道58号線を北上し
 ていきました。那覇軍港から始まった、そ
 の両脇にある米軍基地は、切れることなく
 つづきます。那覇軍港→牧港補給基地→普
 天間飛行場→キャンプ端慶覧→キャンプ桑
 江→嘉手納飛行場と言うように。各基地の
 機能と役割については、追って話しをさせ
 てもらうとしまして、私たちが昼食をとる
 ために立ち寄った場所は、北谷と書き、チ
 ャンタンと読む場所です。この場所はやは
 り、ハンビー飛行場と言う基地があった場
 所なんですが、返還されて、今は、郊外型
 の店舗が並ぶ、いわゆるモール街を形成し
 ている街です。映画館やショッピングセン
 ターなどもあり、最近の沖縄では、新しい
 娯楽スポットです。


 
 昨日来、基地が返還されたと言うことを書
 きましたが、返還と言ってもここ、北谷の
 場合でも返還をされてから、こうした街に
 なるまでに相当な時間がかかっています。
 なぜ、時間がかかってしまうのかと言うと、
 返還されたところを直ぐに都市開発とかで
 利用できるかと言うとそれは、NOです。
 なぜかと言いますと米軍は、返還だからと
 言って、何も土地整備をして返してくれる
 わけではないからです。特に沖縄では、い
 わゆる都市インフラである水道だとかガス、
 下水道、電気などの設備を敷設する前にや
 らなくてはいけないことがあります。それ
 は、沖縄戦の時に打ち込まれた不発弾の処
 理です。
 
 返還された跡地を利用するためには、返還
 後も一定の時間とお金が必要になってくる
 のです。特にお金は、誰が出してくれるわ
 けのではないので、税金などでまかなわな
 くてはいけないのは当然のことになります。
 
 北谷の某俳優がオーナーのレストランで、
 昼食をとり、すぐそばにある砂辺という地
 区でバスを降りましたここは、極東最大の
 アメリカ空軍の基地がある嘉手納基地の4
 000メートル級滑走路の西のはじに位置
 する街です。私たちの頭の直ぐ上、高度に
 して100メートルぐらいでしょうか、パ
 イロットの顔も見えるような高さを、F1
 5イーグルが離発着の訓練をしています。
 また、砂辺の東シナ海側の海岸は、沖縄戦
 の時に、アメリカ軍が上陸をした南のはじ
 になります。アメリカ軍は、上陸した後、
 直ぐに日本軍が設置した飛行場を利用する
 ことを頭に入れ、この地を上陸場所として
 定めたそうです。
 
 嘉手納基地は、沖縄市、北谷町、嘉手納町
 の三市町にまたがり、その広さは、200
 7万1952平方メートルで、4000メ
 ートル級の滑走路を2本有しています。ア
 ジア地区で何か紛争があれば、必ず名前が
 出てくる、アメリカ軍の太平洋における作
 戦拠点の基地です。
 
 今日の写真は、現在の北谷の街と嘉手納基
 地に着陸しようとしている戦闘機です。


 6月16日「読谷村」
 本当に早いもので、ここ沖縄に来て、早く
 も1週間が経とうとしています。今、沖縄
 はやはり1ヶ月後に迫ったサミットに関係
 する動きが目立っています。7月のサミッ
 トまでに、県会議員選挙や衆議院選挙など
 がはさまれ、何かフル回転で動いている感
 じです。燃え尽きなければよいがなんて思
 って見ています。
 
 サミットの話しや、今日、見てきた南部の
 戦跡、平和祈念館、平和の礎などの話しは
 追って書きたいと思います。
 
 昨日までは、極東最大のアメリカ空軍基地
 である嘉手納基地のさわりを話しました。
 嘉手納までの間には、今回のFWにおいて、
 一つ、テーマになっています。普天間基地
 もありますが、これも後の話しの中で解説
 していきたいので、嘉手納の話しを続けま
 す。
 
 ここ嘉手納には、F15戦闘機をはじめと
 する、RC135電子偵察機、KC130
 空中給油機、P3C対潜哨戒機、MC13
 0輸送機などが常駐しています。
 
 ここ嘉手納基地は、本国よりアメリカらし
 く住みやすいと言うことで、娯楽施設はも
 とより、生活に必要なものは全てあります。
 
 そんな、嘉手納基地を横目で見ながら私た
 ちは、読谷村、座喜味城跡に登りました。
 ここからは、読谷村をはじめとする周辺の
 景色が一望できます。ここ、読谷村は、沖
 縄戦の時、その西側一帯の海岸が、アメリ
 カ軍の上陸地点になりました。先にも書き
 ましたように、この周辺にあった飛行場を
 利用するため、最初の上陸地点になったわ
 けです。そうした関係で、戦後すぐにアメ
 リカ軍によって、村の90%以上が軍用地
 として接収されました。ここに読谷村の土
 地返還運動が開始されます。特に、読谷村
 の土地返還運動の特徴は、日本軍の基地を
 アメリカ軍がそのまま使ったと言う背景が
 あるため、旧皇軍(日本軍)の時代からの
 問題も含まれています。
 
 読谷村の土地返還運動については、多くの
 書籍がありますので、機会がある時にでも
 読んでみてください。読谷村周辺の基地な
 どの位置を確認した私たちは、読谷村役場
 へと向かいました。読谷村役場は、先に書
 きました土地返還運動の一環として、いわ
 ゆるアメリカ軍基地内に建てられています。
 そこは、読谷補助飛行場と呼ばれる基地で
 す。1960年代後半には、さかんのパラ
 シュートの降下訓練がされました。人間だ
 けでなく、トレラーや戦車なども降下され、
 1965年には、子どもがその下敷きにな
 り死亡すると言う事件がおきています。読
 谷村役場に立ち寄った後、私たちは、19
 96年に軍用地の使用期限問題で話題にな
 った、通称「ゾウのオリ」へ向かいました。


 
 通称「ゾウのオリ」と呼ばれているこの楚
 辺通信所基地は、全方位で長距離通信の電
 波を傍受するアンテナ施設です。96年の
 時は、その中にある民間の土地所有者が、
 もう土地を貸さないと国に訴えでたことに
 より、一時、その土地を日本国が不法占拠
 すると言う形になりました。(不思議なこ
 とにアメリカ軍が使っている土地なのに借
 り主は、日本国政府になっている)その時
 に税金8000万円で作った、強化プラス
 ティック製の防御柵は今でも残っています。
 国は、法律を変更して使えるようにしまし
 た。ここらへんの問題は重要なので、来週、
 話しをします。
 
 今週はこのへんで、では、また、来週。
 
 今日の写真は、読谷(ヨミタン)の座喜味
 城から見た風景と、「ゾウのオリ」です。


 6月19日「沖縄北部訓練基地」
 今日、こちら沖縄は、朝のうちは少し雨が
 パラつきましたが、午後からは晴天の真夏
 日となりました。たぶん、梅雨開けも間近
 だと思います。
 
 FWも第2週目に入りまして、実践的な動
 きに変わりつつあります。すこしずつでは
 ありますが、メンバーが取材をしてきたニ
 ューズを紹介していきたいと思います。
 
 で、Kan’sニューズの方は、金曜日か
 らのつづきをもう少し話しをしていきたい
 と思います。
 
 そうそう、読谷村と言えば、キロロが出た
 街です。2年前にやはり、FWで読谷村に
 1ヶ月近く滞在したおり、村の有線放送が、
 キロロの新曲が出るときに宣伝をしていた
 のが印象に残っています。
 
 「ゾウのオリ」からもう少し下ったところ
 に、トリイ通信基地があります。この基地
 は陸軍特殊部隊の駐屯地として有名です。
 陸軍特殊部隊は、別の名をグリーンベレー
 と言い、6名で一つのチームを作っていま
 すが、一人一人がいろいろな分野の専門家
 集団で、6名ずつのAチームとBチームが
 セットになって、紛争が起こりそうな地域
 に先に潜入し、現地でゲリラ部隊のような
 軍隊を組織することを任務としています。
 沖縄のグリーンベレーには、アメリカ軍だ
 けでなく、アメリカの軍事同盟に参加をし
 ている様々な国の特殊部隊が訓練にきてい
 ます。
 
 トリイ通信基地を横目で見ながら、また、
 嘉手納基地のフェンスに沿って北上をしま
 した。途中、嘉手納基地全体を見渡せる小
 高い丘によりました。この丘は、以前より
 安保が見える丘と言うことで、嘉手納基地
 のビューポイントとしてにぎわっている場
 所です。最近、目の前に鉄筋の壁が、思い
 やり予算により、作られてしまい少々視界
 が遮られますが、それでも離発着訓練をし
 ているハリヤーやF15を間近に見ること
 ができます。まあ、嘉手納基地が見えると
 言ってもあまりの広さにその4分の1が見
 えているに過ぎませんが。思いやり予算に
 関しては、これもまた別の機会に説明をし
 たいと思います。
 
 嘉手納をあとにした私たちが次に向かった
 のは、海兵隊が沖縄に建設をした最大のキ
 ャンプであるキャンプ・ハンセンです。最
 大のキャンプと言うだけあって、ゲートの
 ところから中を見ても何も見ることができ
 ません。そこで、私たちは脇に回り込み、
 金網のフェンス越しに中をのぞき込むこと
 にしました。目の前には、将校クラブ、遠
 くには、その昔、155ミリりゅう弾砲の
 訓練により赤茶けた山肌をさらす恩納岳、
 ブート岳を真正面に見ることができます。
 ここキャンプ・ハンセンは、その北にある
 キャンプ・シュワーブとつながる沖縄本島
 北部最大の訓練地域を持つ基地です。この
 訓練エリアの中では、機関銃などを使った
 実弾訓練をはじめジャングルを想定したゲ
 リラ戦の訓練、155ミリりゅう弾砲を実
 際に発射をする以前までの訓練、(以前は
 実際に打つところまでやっていたが、周辺
 の人々の反対によって、実弾演習は、日本
 の他の演習所に移転をした)など、アメリ
 カ軍いわく、非常に高度な訓練を十分にで
 きていると言うところです。
 
 雨の降りしきる中、数名の兵隊たちは、訓
 練が終了したあとも黙々と走り続けていま
 した。キャンプ・ハンセンを見た後、私た
 ちは、その北方にあるキャンプ・シュワー
 ブの海岸部へと向かいました。キャンプ・
 シュワーブは、多くの武器が貯蔵をしてあ
 る地域です。以前は、ヤギが飼われていた
 ことから、化学兵器や核弾頭まで貯蔵され
 ているのではないかと言われていました。
 そのキャンプの東側のエリアが、辺野古と
 言う場所です。今、その海辺の地帯に、新
 しくヘリコプター基地を作る話しが持ち上
 がっています。これは、普天間基地が日本
 に返還される代わりにその移転先として、
 この地域が指定をされたからです。この問
 題の経緯もまた、後ほどの話しの中で詳し
 く話しをしたいと思います。当然、移転、
 反対派、賛成派が存在していて、その背景
 も複雑です。
 
 賛成、反対はともかく、こうした問題を考
 えざるを得ない形に沖縄と言う場所がなっ
 ていること自体に、私は少々、腹が立つわ
 けです。ここらへんのことについては、F
 W中もしっかりリサーチしてきたいと思っ
 ています。


 
 海上ヘリポート基地建設予定地の辺野古ビ
 ーチをあとにして、私たちは、山を越え東
 シナ海側に出ました。そこには、今回のサ
 ミットの会場であるブセナビーチがありま
 した。白い砂浜でできた小さな岬全体が今
 回のサミットの会場になっています。もう
 既に、周辺は、開催1ヶ月前にもかかわら
 ず、厳戒態勢で、検問等の警備が敷かれて
 いました。サミットについての話しももう
 少し後でしたいと思います。
 
 ブセナビーチを後にしてこの日の宿泊地で
 ある沖縄市へと入ったのでした。沖縄市は、
 その昔の名をコザと言い、日本復帰前に起
 きたコザ騒動の場所として、また、嘉手納
 基地、沖縄ロックの発祥の地などとして名
 が知られています。
 
 だいぶ、長くなりました。
          今日はこのへんで。
             KAN
 写真は、安保が見えずらくなった丘からの
 嘉手納基地と辺野古のビーチから見たキャ
 ンプ・シュワーブです。

 6月20日「南部戦跡」
 本日はとてもよい天気で、日差しの強いこ
 と、強いこと。と思ったら、こちらは梅雨
 が開けていました。外を歩いているだけで、
 やけに顔が日に焼けてしまい。浅黒くなっ
 てしまっています。私ほどの歳になってき
 ますと日焼けによるシミ、そばかすは、一
 度できると回復をすることがなくなってき
 ますので、たいへんです。まさに寄る年波
 には勝てないと言うところでしょうか。
 
 さて、今日からは過去の沖縄と言うことで、
 特に太平洋戦争、それも沖縄戦のことにつ
 いて、16日に回りました南部戦跡のコー
 スをもとにして話しをしていきたいと思い
 ます。
 
 しかし、第2次世界大戦だ。太平洋戦争だ
 と言ってもピンと来る人たちが少ない時代
 になってきています。日本が今から50数
 年前にアメリカやイギリスなどと戦争をし
 たと言うこと自体、知らない世代が増えて
 いると聞きます。当時の戦争はなぜ起きた
 のかと言うことなども少し触れないといけ
 ないかもしれません。
 
 1929年の世界大恐慌以降、欧米諸国は、
 自国の経済を守るためにいわゆる保護政策
 をとりました。アメリカはニューディール
 政策、ヨーロッパの多くの国はブロック経
 済と言うような、これは、自国の産業や消
 費を確保するために、自分の国や植民地の
 中で、経済を回していこうと言うものでし
 た。広大な国土を持つアメリカや多くの植
 民地を持つ、ヨーロッパの国々は、自国や
 植民地の中で商品を売り買いしたり、原料
 を加工していけばふつうの経済活動は維持
 できたのです。
 
 それに対して、遅れて資本主義化した、日
 本やドイツは、恐慌以降、自国内だけでは、
 さばききれない商品、そして、それを作る
 ために確保したい原料などを売ったり、買
 ったりする植民地などを持っていませんで
 した。これが、いわゆる、「持てる国」と、
 「持たざる国」の差です。ともかく、そう
 した状況を打開するために、持たざる国々
 は、新しい市場や原料を確保するためにも
 う既に、国として成立している地域に侵略
 をはじめたのでした。ドイツの場合が、ポ
 ーランドでしたし、日本の場合は、中国だ
 ったわけです。
 
 前置きだけでやけに長くなりました。
 つづきは明日。
           KAN

【FW通信】
 6月19日(月曜日) 晴れ
 
 迷った
 
 今日は県立図書館に行く予定だったんだけ
 ど道に迷ってけっきょく図書館には行けま
 せんでした。しかしその途中の道でおもし
 ろいのを見たのでその事を書きます。まず
 は川でカニを見てそしてへんな魚をみまし
 た。その魚はなぜか水がないところをはっ
 てうごいてたんです。しかもその魚はあな
 をほってその中に入り顔だけ出していまし
 た。へんな魚もいるもんだなあと思いなが
 らまた図書館を探して歩き出しました。途
 中で門の上にあるシーサーを写真にとりな
 がらノロノロ歩いていると、どっかの坂の
 上にでて景色が良かったので写真にとりま
 した。その写真をのせます。まあ明日は中
 村家にいってシーサーの写真をとってのせ
 ます。
         宮古島 太郎



 うだる
 
 壷屋を歩いていたら、あっちこっちでシー
 サーが「アハーッ」という感じで笑ってい
 ましたシーサーって毛むくじゃらで暑苦し
 い感じだ。「うはーっ」という笑顔も・・
 ・。でも全身ツルッツルですずしい顔のシ
 ーサーっていうのもいかがなモノか・・・
 もはやシーサーじゃないか。おいなりさん
 か。そんな事を考えながら国際通りに出ま
 した。炎天下の下、道路は渋滞していて暑
 苦しくてしょうがない。フラフラしながら
 歩いていると、突然タクシーが恐ろしいス
 ピードで歩道に乗り上げてきて、はねられ
 そうになりました。(そんな目に3回会い
 ました。)いくら暑くたって周りちゃんと
 見ないとなあ、うん。と肝に命じたのに暑
 さにはかないません。はい。
           
         灰美朱華寿 静


 シーサー
 
 今日は、最初の予定では、図書館に行く予
 定でユースホステルを出発しましたが、途
 中道に迷ってしまい、たどり着けなかった
 ので予定を変更して、シーサーを探すこと
 にしました。那覇市は、店が多くてなかな
 か見つからなくて、7、8体くらいしか見
 つかりませんでしたが、同じシーサーでも、
 家によってそれぞれ違っていて、けっこう
 楽しめました。また、家には必ずついてい
 ると思ったシーサーがついていなかったり、
 家にしかついていないと思っていたシーサ
 ーが橋についていたりと、自分の予想とか
 なり違っていたので、もっと詳しく調べて
 みようと思いました。その他にも変わった
 色のチョウがいたり、見たことのない野菜
 があったり、地面をはう魚がいたりと、初
 めてみるものがいっぱいありました。その
 後、歩きすぎて熱射病になりかけたので、
 タクシーで帰りました。

 P.S今日の一言・・・暑くてつかれた。
     
        めんそーれ吉田

 グスク
 
 まえがき
 沖縄県内と、鹿児島県の一部の地域には数
 多くの城(グスク)が存在する。その数は
 二百以上とも言われている。此等は十世紀
 以降に盛えた豪族、按司の居城である。座
 喜味城のアーチ門などからは、当時の隆盛
 と共に、琉球石炭岩を用いた石積み技術の
 熟達ぶりが見てとれる。主な技術に、野面
 積み、あいかた積みなどがある。以上数回
 に渡り、主要なグスクを取り上げ、具体的
 に紹介していく。乞うご期待。
 
        はなれもん
 

 千羽鶴
 
 6月16日は沖縄戦で亡くなった方々の資
 料館、ガマなどへ行った。今年も魂魄の塔、
 ひめゆり資料館の2箇所に各千羽鶴をおい
 た。魂魄の塔、ひめゆり資料館での感想と
 しては、我々と同じ年で、これから先まだ
 やりたいことがあっただろうのに本当にか
 わいそうだったと思う。これから先二度と
 こういうことがないように。
 
       沖縄好き&祈り鶴好きより

 6月21日「アメリカ軍上陸」
 真夏、真夏の沖縄から汗をふきふき、お送
 りしています。
 なぜか、沖縄の空を移動する雲は、その動
 きがすごく速いです。
 
 
 最近、去年、訪れたお店に顔を出している
 んですが、どのお店でもなぜか顔を覚えて
 いてくれていて、「去年、来てくれていま
 したよね」って声をかけてくれます。
 
 
 神奈川の方では、なかなか顔を覚えてもら
 えないのに不思議です。
 
 
 と言うことで昨日のつづきです。いわゆる
 市場の取り合いによって、始まった戦争で
 したが、日本が勝ったと言われていいるの
 は、奇襲で勝った初戦だけで、その後はじ
 り貧の戦いになっていきます。連合軍側の
 物量や情報量の前に日本はなすすべがなか
 ったのです。1945年、3月硫黄島を占
 領した米軍は、慶良間諸島を経由して、同
 年4月1日に沖縄本島への上陸作戦を敢行
 します。
 
 私たちが最初に向かったのは、西側にそん
 な米軍の上陸地点、東側に当時、日本軍の
 司令部があった首里城を一望に見ることが
 できる浦添城跡(前田高地)です。無血上
 陸に近かったアメリカ軍が、日本軍の一斉
 の反撃を食らったのが、この前田高地に至
 るまでの西側のラインです。ここを米軍に
 突破される5月6日までの段階で、アメリ
 カ軍の戦死者は、2521名、それに対し
 て、日本軍の戦死者は、2万6535名で
 した。このエリアにおける戦闘の巻き添え
 を食った住民の戦死率は、嘉数の集落では、
 53.8%、前田の集落では、59.2%
 にものぼりました。


 
 
 このラインを突破されると司令部のある首
 里までは一直線でした。日本軍はこのあと
 の対応を迫られました。日に日に戦況が悪
 化し、主力部隊を失いつつあった日本軍は、
 首里の司令部を中心にして、もはや陥落寸
 前で、敗戦濃厚でした。もし、この時敗戦
 を認めていたら、この後の1ヶ月の間に起
 きた数々の悲劇はくい止められていたかも
 しれません。しかし、追いつめられたにも
 関わらず、日本軍は、「南部へ撤退し徹底
 交戦すべし」と決定しました。あえて、住
 民が多く住む南部に向かって戦線を拡大す
 ることを決めたわけです。
 
 
 なぜ、日本軍はこうした時間かせぎのよう
 な住民をも巻き込んだ持久戦に出たのでし
 ょうか。
 
 
 つづきはまた明日。
          KAN 
 
 FW通信6月21日号
 特集「沖縄らしい建物」
 「中村家住宅」
 ・約280年前の代表的な沖縄の農家国指
  定重要文化財中村家住宅


 
 中村家住宅は戦前の沖縄の住居建築の特色
 を全て備えている建物です。沖縄本島内で
 このように屋敷構えがそっくり残っている
 例はきわめて珍しく、当時の上層農家の生
 活を知る上にも、貴重な遺構であるという
 ことで、昭和31年に琉球政府から、昭和
 47年に日本政府によって国の重要文化財
 に指定されました。
 
 ・中村家概要
 今から約500年前中村家の先祖賀氏は、
 忠臣かつ琉球王国きっての築城家としても
 その名をとどめていた護佐丸(中城城主)
 が読谷(本島中部)より城を中城に移した
 時、共にこの地にその師匠として移ってき
 たと伝えられています。その後、護佐丸が
 勝連城主の阿麻和利(あまわり)に滅ぼさ
 れてしまうと、中村家の先祖も離散の憂目
 にあいました。1720年頃、ようやくそ
 の家運を盛り返し、この地方の地頭職(本
 土の庄屋にあたる役職)に任ぜられました。
 
 6月20日(火曜日)晴れ

 中村家
 
 今日は、昨日書いたとおり中村家のシーサ
 ーを見に行きました。今日は昨日と同じ位
 暑くてたいへんでした。
 中村家のシーサーは、そこらへんの家の門
 にあるようなのと違いおにのような顔をし
 ていました。シーサーの写真を何枚かのせ
 るのでくらべてみてください。あと中村家
 の中に二階があってハシゴに登るなとか書
 いてなかったから登っちゃって写真とかと
 ってたらおばちゃんがきたんだけど怒られ
 なくて沖縄の人は、心が広いなあと思いま
 した。
         宮古島 太郎


 グスク
 
 第一回首里城@
 
 現在の県庁所在地、那覇市の北東部には、
 琉球王国の王都首里がある。13世紀から
 14世紀にかけて、按司(豪族)たちが勢
 力争いを繰り広げた末、尚巴志が全土を統
 一し、琉球王国を建国した。以後琉球処分
 (廃藩置県)までの400年以上に渡り、
 首里城は尚氏一族んも居城であった。
 首里城は其の正殿の他に、寺院、数々の門
 があり、その何れも趣向を凝された、中国、
 韓国風の建築が目をひく。しかし、第二次
 大戦時に、日本軍司令部が置かれたことも
 あり、正殿は大破した。1992年に、首
 里城の最も美しい建築物は蘇り、首里城公
 園の一部として、重要な観光地となってい
 る。

         はなれもん
 中村家
 
 今日は、昨日に続いてシーサーを探しつつ、
 中村家に行きました。沖縄は梅雨明けした
 らしく、昨日に続いてとても暑かったです。
 向かう途中何度か迷ったり、バスをのりま
 ちがえたり
 しましたが、なんとか今日は、中村家にた
 どりつきました。
 中村家のシーサーは、鬼のような顔で、今
 まで見てきたシーサーとは少し違っていま
 した。その他に、仲村家の中にも入れまし
 た。国の重要文化財に指定されているくら
 いだから、すごく古くて汚い所なのかな、
 と思っていたら実際は、広くてきれいだっ
 たのでおどろきました。屋根裏に登るはし
 ごがあったので登っていたら英語で注意書
 きがしてあったらしく、注意されました。
 その後、急に雨が降ってきそうになったの
 で、いそいで帰ってきました。

         めんそーれ吉田

 図書館について
 
 沖縄県立図書館と那覇市立図書館は隣同士
 にあり、県立は毎週火曜日、市立は毎週月
 曜日が休館日である。
 県立で文化(衣食住)を調べたかった。県
 立はそういった衣食住関係の本はみつから
 なかった。他の本はあったけど。また明日
 にでも行って調べてみよう。
 沖縄の図書館(市立)はいろいろな分野の
 本がびっしりと並んでいた。でもうちの方
 の市立図書館とくらべると、本の量が少し
 すくないような気がする。でも本屋には、
 たくさんの本がそろっていておもしろい。
         
 沖縄好き&折り鶴好き 

 6月22日「南風原陸軍病院」
 さすがに、ここ沖縄の夏は半端じゃないで
 す。梅雨が開けたと思ったら焦げるような
 日差しが突き刺さります。同じ、日本とは
 思えない南国の日差しに、本土の夏と言う
 よりは、ベトナムの乾季を思い出させまし
 た。
 やはり、日本は思った以上に広い国です。
 
 1ヶ月後に迫ったサミット、一体何の目的
 で開かれるのか、定かではないままに準備
 はドンドン進んでいます。今日のニュース
 では、サミット会場になる建物は、何百億
 も使って作ったのにも関わらず、開催後の
 利用予定は一切入っていないと報じていま
 す。
 
 サミット開催が本当に沖縄にためになるの
 でしょうか。
 
 と言うことで、ここ沖縄では明日は、慰霊
 の日です。慰霊の日についての報告は、特
 派員の報告がありますので、待っていただ
 くとして、私は昨日のつづきを話しましょ
 う。
 
 昨日は、敗戦の濃くなった日本軍が本来は、
 降伏をしてもおかしくなかった状況にも関
 わらず、南部への撤退を選択したと言うと
 ころまで話しをしました。
 
 では、なぜ、日本軍は降伏をしなかったの
 でしょうか。答えは明確です。本土決戦の
 準備ができていなかったからです。中でも、
 天皇の疎開場所の準備が終わってなかった
 からです。つまり、本土決戦のための時間
 かせぎを沖縄でやったわけです。ここに沖
 縄戦のことを捨て石作戦であると言う理由
 があります。
 
 浦添城趾(前田高地)を後にした私たちは、
 当時の日本軍が南下したラインに沿って、
 南に移動をしました。私たちが次に訪れた
 のは、南風原(はえばる)陸軍病院壕跡で
 した。この病院はもともとは、那覇にあっ
 た陸軍病院が、空襲ともに移動してきて、
 疎開をしていた学校がさらに焼けたために
 近くにあった丘を中心に掘られた壕に移設
 されたものでした。
 
 はじめは、内科が中心であった病院は戦局
 が進むにつれて、外科が中心の病院になっ
 ていきました。その壕の内部は、病院とは
 ほど遠い状態で、まさに地獄絵と化してい
 たそうです。そこに、看護婦として動員さ
 れたのが、ひめゆり学徒隊だったのです。
 
 町立の南風原文化センターの展示物を見、
 私たちは当時の壕の一つである20号壕に
 向かいました。地盤が悪く、中に入ること
 はできませんでしたが、入り口からのぞき
 こむ中は、湿気た空気に満ちた暗黒の世界
 でした。
 
      つづきはまた明日。
        KAN
 FW通信
 6月21日(水) 晴れ
 
 グスク
 第一回 首里城A


 
 首里城公園で最も目を惹くのは、やはり王
 族の住居であった正殿であろうが、国内に
 は其の他にも数々の造形物がある。
 先ず目に付くのは門だ。最も有名なのは守
 礼門だろう。鮮やかな赤と金、それだけで
 一つの城(グスク)ほど存在感がある。此
 れは、中からの使者(冊封使)の訪問を迎
 えるために造られたものだ。
 観会門もまた客人を迎える門だった。此れ
 は、王族や国賓のみの利用で、一般の官吏
 はやや離れた久慶門を利用していた。この
 他にも、美泉にちなんで名付けられた瑞泉
 門城内からの、時刻を告げる鐘の音が聞こ
 えた老漏刻門、建築資材を運び込んだ木曳
 門など大小10以上の石造の門がある。
 
 園比屋武御獄石門は、やや特殊だが、城
(グスク)にとって非常に重要な、拝所を兼
 ねていた。王が城外に出る時には、此処に
 立ち寄り、道中の安全を祈願したと言う。
 信仰を重んじた琉球の人々にとって、拝所
 は、侵しがたいものの象徴だったのだ。

         はなれもん

 壷屋焼
 
 今日は、シーサーについて調べるために、
 この前たどり着けなかった図書館にもう一
 度行って見ることにしました。途中またし
 ても道に迷っていたら、壷屋焼物博物館と
 いう所の前に出たので、ためしに入ってみ
 たら、壷屋焼の作品などがたくさん展示し
 てあったり、昔の家の模型などもあったり、
 映像で壷屋についての説明をしてくれたり、
 瓦や壷を実際にさわれたりもして楽しめま
 した。しかし映像の説明が沖縄語で何を言
 っているのかよくわからなかったです。そ
 の後、居酒屋のおばちゃんに道聞いたりし
 ながら道に迷いつつもなんとか図書館にた
 どり着き、シーサーについて調べてユース
 に戻りました。

 シーサーの歴史
 
 シーサーの始めは、石獅子といわれ、15
 世紀末に権力を象徴したり守護する目的で
 中国からもたらされたようです。17世紀
 末から村落の守護や火災除けのために各地
 で石獅子がつくられるようになりました。
 壷屋で焼き物のシーサーがつくられるよう
 になったのは、瓦葺きが普及しはじめる明
 治以降で、瓦葺き職人が作る屋根獅子も普
 及したのは同じ時期だそうです。(明治の
 頃のシーサーは顔だけのシーサーで今のよ
 うな全身のシーサーがつくられたのは大正
 から昭和にかけて作られたそうです。
 
        めんそーれ吉田

 図書館
 
 今日はおととい行こうとした図書館を再度
 めざしましたがいつものごとく道に迷いま
 した。国際通りをトボトボ歩いていると前
 方に焼き物博物館があったので入ってみま
 した。中で壷の歴史みたいなのがやってて
 見たら沖縄の方言でしゃべっててなにを言
 っているのかわからなくて寝てしまいまし
 た。そして壷屋から出てからまたも道に迷
 っているとおなかがすいてきたので居酒屋
 にはいり、マグロ丼を食べてそこのおばさ
 んに道を聞きました。おばさんの言う通り
 に歩いていると、おお、あそこは図書館と
 書いてあるではないか。僕らは(めんそー
 れ吉田と急ぎ足で図書館にむかいました。
 ついに念願の図書館についたのです。めで
 たしめでたし
 
        宮古島 太郎

 交通について
 
 昨日は、図書館についての話だったので今
 日は、交通について話したいと思います。
 沖縄本島は、戦前は電車があったのですが、
 50数年前の戦争で、アメリカ軍によって
 電車をこわされ、今はタクシー、バス、一
 般車が多い。時にバスは那覇市内は200
 円、市外へ行っても(近くても)千円でお
 つりがくる位です。那覇空港から首里城公
 園近くまで、「都市モノレール」というの
 が今建設されています。できるのが今から
 約三年後だと思います。今の沖縄で、バス、
 車が多い中、モノレールを乗る人はいるの
 でしょうか?本土では、いろんな所に短い
 電車や長い電車が走っているのでちょっと
 考えられない事です。
        
        沖縄好き&折り鶴好きより

 
 6月23日「ガラビ壕」
 あまりにも暑い1日でした。
 今日、6月23日は、沖縄にとっては特別
 の日です。慰霊の日と言い、沖縄戦が終わ
 った日とされています。ただ、本当に今日
 でよいのかと言う見方もあります。そこら
 へんの話しは、特派員の報告がありますの
 で、読んでください。
 
 と言うことで、私たちは朝から、県主催の
 慰霊祭のある摩文仁の丘に行き、その足で
 魂魄の塔により、最後、那覇映画祭を観て
 帰ってきました。1日行動だったので、F
 W通信を作っている時間がありませんでし
 た。来週、お送りしますので、1日休刊で
 す。申し訳ないです。
 
 南部戦跡の方の話しを続けましょう。
 南風原の陸軍病院壕をあとにして、私たち
 は、野戦病院として使用されたガラビ壕へ
 と向かいました。ガラビ壕は、東西に二つ
 のガマの出入り口があり、全長500メー
 トル以上ある自然洞窟で、新城(アラグス
 ク)分院側をヌヌマチガマ、反対側をガラ
 ビ壕と呼んでいます。


 
 私たちはこのガマをヌヌマチ側から入り、
 ガラビ壕側へ抜けると言う横断を敢行しま
 した。この野戦分院には、軍医1名、看護
 婦3名に衛生兵、女子学徒5名が派遣され
 ていました。
 
 壕内には、竹や木で出来た蚕棚のような二
 段ベットや、茅や藁を敷いた土のベットが
 あり、数百人にのぼる負傷兵であふれかえ
 っていたそうです。女子学徒をはじめとす
 る看護関係者は、24時間体制で、そうし
 た暗闇の中、不眠不休で活動をしたそうで
 す。壕の中の様子があまりにも悲惨だった
 ため、むしろ、真っ暗だったから救われた
 と言う声もあったほどです。
 
 こうしたガラビ壕にいた者たちにとって運
 命の日は、5月末にやってきました。首里
 から摩文仁への司令部撤退にともなっての、
 「独歩患者は、原隊に復帰しろ、歩けない
 者は処置する。学生は本部に戻って指示を
 待て」と言う命令でした。
 
 原隊に復帰をしろと言っても、もう既に原
 隊はなく、どこに行けばよいのかわからな
 い状態でした。また、数百人にのぼる重傷
 患者は、青酸カリなどによる自決が強要さ
 れました。さらに、女子学徒は、戻った本
 部において、6月4日には病院の解散が命
 じられ、突然、南部の戦場に放りだされる
 こととなったのです。
 
 外の明るさと対比をしてあまりにも深い暗
 さ、さとうきび畑の一部にぽっかりと開い
 た、黒い口の中に入っていきました。湿気
 の多い空気が私たちを包みます。腰をかが
 まないと前に進めないせまいところも多く
 あります。重傷患者を担架に乗せ、どうや
 って、こんなせまいところを運搬したので
 しょう。ぬかった泥に足を取られながらも
 ガマの際深部にきました。懐中電灯の灯り
 を消してみました。一寸先も闇とはこのこ
 とを言うのでしょうか。何も見えず、ただ、
 上から滴る水滴の音だけが、洞窟に響きま
 す。当時は、患者たちのうめき声でそんな
 音も消されていたでしょう。


 
 毎年、沖縄に来てガマに入ると、忙しかっ
 た1年の生活の中で忘れてしまっていた平
 和への意志が甦ります。
 
 外の光りが見え、外気の臭いがしてきて、
 はじめてホッとします。でも当時は、外よ
 りまだ中の方が安全だったと言います。戦
 争は、全てのことを逆さまにするものだと
 思いました。
 
 ふつうのことがふつうでいられる世界これ
 はとても大事なことだと思います。
 今週も週末になってしまいました。
         つづきはまた来週。
           KAN

 
 6月26日「平和祈念館」
 毎日、同じことを言っているようですが、
 本当に暑いですわ。本州の夏がまとめて3
 個ぐらい来たような感じです。
 
 サミットの警護に日本中の警察が動員され
 ていますが、この暑さの中、北の方から来
 た人たちは、絶対にきびしいと思います。
 検問をやっていた北海道警察の人は、うつ
 ろな表情をしていましたから。
 
 一方では、もう既にテロリストが100名
 前後、沖縄に結集して、どこかに潜んでい
 るなんて、情報も飛び交っています。でも、
 この暑さじゃ、隠れているには、辛すぎま
 す。きっと、どこかでリゾートしているに
 違いないと私は見ていますが。
 
 衆議院選挙も終わり、そのことについては、
 また別の機会にすこし話したいと思います。
 
 さて、南部戦跡ツアーのつづきです。
 まさに、私たちは、日本軍が南に向かって
 退却をしていったのと同じコースを南下し
 ているわけなのです。ガラビ壕を出た私た
 ちは、泥だらけになりながら、次の目的地
 である摩文仁の丘に向かいました。途中、
 昼食をとり、平和祈念公園のはずれにある
 韓国人慰霊塔へと足を向けました。この韓
 国人慰霊塔は、今まで公園の敷地の外にあ
 りました。それを、公園の境の線を広げる
 ことで公園内に入れることになったそうで
 す。この塔は、戦争時に強制的に連れてこ
 られた朝鮮半島の人たちの慰霊塔です。碑
 文には、はっきりと虐殺されたと言う文字
 が刻み込まれています。


 
 その塔の直ぐ前に、新しく建て直させた沖
 縄県立平和祈念館があります。とてもきれ
 いな建物です。以前の建物とは雲泥の差で
 す。きっと中身もより一層充実したものに
 なっているに違いないと思い、足を踏み入
 れました。

 事前に読んだ資料には、日本兵が住民を脅
 かしているジオラマを排除したと記されて
 いました。沖縄戦におけるもう一つの悲劇
 はここにあったわけです。撤退をする軍と
 避難をする住民が同じ壕に逃げ込んだ。こ
 のことによって、多くの悲劇が生まれまし
 た。壕の奥の安全な場所に軍隊が入り、入
 り口近くの危険な場所に住民。そして、壕
 から出て、終戦を知った住民が、まだ、壕
 に隠れている近所の人に教えにくるとそれ
 をスパイとして、住民どうしに殺させたり
 した。こんな話しが、沖縄のいたるところ
 に残っています。生き残った方の方も多く
 の方が苦しい記憶を残してしまっているの
 です。
 
 戦後、そんな村社会にいたたまれなくなり、
 沖縄をあとにした方々が多数いたと聞きま
 す。戦後は直ぐにはこないのです。
 
 新しい祈念館はすべてがデラックスで、い
 わゆる最近の器機を駆使したディスプレー。
 でも、何か伝わってこないのです。マブイ
 が。なぜでしょう。少し、時間をかけて考
 えてみたいと思います。


 
 ツアーはも少しかかります。
 もう少々のおつきあいのほどを。
              KAN
 
 
 FW通信
 6月22日(木曜日)晴れ
 
 寝てしまった
 
 明日6月23日は慰霊の日とかいうやつで
 す。6月23日に何があったかというと、
 実はよく知らないんですが、聞いたところ
 によると、日本軍の司令官が死んだ日らし
 いです。で今日はこの慰霊の日のことを調
 べる日だったんですがいつのまにか寝てし
 まい起きたら夕方の6時でした。それで結
 局なにも調べることができず、今日はこん
 なに短くなってしまったわけです。

     宮古島 太郎

 慰霊の日
 
 今日は、明日が慰霊の日ということなので、
 慰霊の日について調べて見ることにしまし
 た。慰霊の日の様子については、また明日
 書きますが今日は簡単な歴史について書き
 ます。
 もともとの慰霊の日は、日本の軍司令官、
 牛島司令官が自決した日で、帝国陸軍の最
 後を象徴する史実とみて、旧軍関係者がこ
 れを記念日として定めたといわれています。
 しかし、6月23日を慰霊の日とするのに
 は、様々な意見があります。まず初めに司
 令官の死んだ日は6月23日とされている
 が、米軍が司令官の死を確認したのは6月
 22日とされていて矛盾がある。また6月
 23日という日を、沖縄戦の終結日とする
 のは適切ではない、という意見もたくさん
 あります。沖縄戦のなによりの特徴は、日
 本軍、米軍、沖縄住民の三者をまきこんだ
 日本では前例のない国内戦であって、そし
 てなにより「軍人よりも一般住民が多く死
 んだ」ことだと考えられている。そこで軍
 隊史観よりも民衆の側から見た戦史の方が
 普遍性が大きいといわれている。そこで6
 月23日のほかに、守備軍の組織的抵抗が
 終わった日「6月19日」や米軍の勝利宣
 言あるいは作戦終了宣言を区切りとする「
 6月21日」や「7月2日」が妥当だとい
 う意見などが言われています。と、こんな
 感じで調べていたら寝てしまい、気が付い
 たら6時になっていたので、今日はここで
 終了です。
 
 グスク
 
 第一回首里城B
 首里城の中心は、いびつな四角形をかたど
 る、正殿・北殿・南殿・奉神門、そしてそ
 れらに囲まれた御庭(ウナー)である。そ
 れらは、王の生活と、摂政の場であると共
 に、各地の使節の歓迎にも用いられた。北
 殿では中国からの冊封使(さっぽうし)を、
 南殿では薩摩藩からの使者を迎えた。また
 御庭では歓迎の各種セレモニーが行われた
 という。

 建物は其々、私生活と行政との区分が為さ
 れていたが、特に顕著なのは正殿だ。正殿
 は3階建てで、1階はシチャグイと呼ばれ
 る行政の場で、中央の御差床(ウサスカ)
 に王が座して政を行ったという。2階はウ
 フグイといい、王家と女官たちの生活の場
 で、男子禁制とされていた。3階は、風通
 しを良好に保つための屋根裏部屋だ。正殿
 は1989から3年間かけて修復され、琉
 球王国の栄華を其のままに留めているかの
 ようだ。しかし、今だ戦火に散ったままの、
 貴重な資料がある。現在其れらの修復、回
 収作業は寄付でまかなわれている部分は多
 い。
       はなれもん

 
 6月27日「平和の礎」 
 今日も1日、いろいろな所を歩き回りまし
 た。那覇市の資料室をはじめ、知り合いの
 中学生と話し、近所の親父さんとは、石垣
 島のマラリアの話しを聞き、最後は、ちょ
 っとディープな話しでしたが、沖縄の今後
 について、沖縄の経済から沖縄独立論まで、
 いろいろな角度から、沖縄で活動している
 人たちから話しを聞くことができました。
 
 これらの話しも量と言い、内容と言いとて
 もおもしろい話しばかりですので、すこし
 ずつまとめて話しをしていきたいと思いま
 す。
 
 では、もう少し、沖縄南部戦跡ツアーにお
 つきあいください。県立の平和祈念館の前
 に広がる、石碑は、平和の礎(いしじ)と
 言います。1995年に太平洋戦争・沖縄
 戦終結50周年記念事業として、@沖縄戦
 などで亡くなった20万余りのすべての戦
 没者の追悼と世界の恒久平和を祈念する。
 A地上戦の戦場となり、貴い人命とかけが
 えのない文化遺産を失った戦争体験の教訓
 を継承する。B訪れるものに平和の尊さを
 感じさせ、安らぎと憩いをもたらす平和学
 習の場とする。これらのことを目的として
 設置をされました。今年も新たに判明をし
 た方の氏名が刻みこまれていました。そう
 した中で、一番、氏名が多いのが、やはり、
 一般の民衆の方々の氏名でした。


 次に私たちが向かったのは、ひめゆりの塔
 でした。戦況の悪化にともない、軍は、そ
 の戦力の一部として、学生たちを徴用しま
 した。学生と言っても、今で言うところの
 中学生に相当する子どもたちです。生徒の
 戦場への徴用は法的根拠がなかったために
 志願と言う形をとりました。建前上、保護
 者の承認をへてと言うことでしたが、皇民
 化教育を徹底的にされていたため、多くの
 保護者は、お国のためならしかたがないと、
 多くの子どもたちが軍に動員させられまし
 た。男子生徒は、「鉄血勤皇隊」、女子は、
 「学徒看護隊」としてです。
 
 中でも沖縄女子師範学校と県立一高女を中
 心とした、「ひめゆり学徒隊」は、当時の
 沖縄の中でもエリートの家庭を中心として
 いただけにその動員率は高く、それが多く
 の犠牲者を出す結果となりました。ひめゆ
 り学徒隊は、先日話しをしました南風原陸
 軍病院とともに行動をしていました。南部
 の最南端にある喜屋武岬そばにおいて、6
 月18日、突然、ひめゆり学徒隊に解散命
 令が出されます。突然、激戦地のど真ん中
 で解散し、頼れるべき組織がなくなってし
 まった彼女たちの多くは、解散後、その命
 を失うことになるのです。
 
 現在、最後の避難壕であった第三外科壕の
 上に、「ひめゆりの塔」が立っています。
 そばには、生存した同窓生たちが、設立し
 た、「ひめゆり平和祈念資料館」が建って
 います。そこには犠牲となった少女たちの
 遺影が置かれています。みんな、ふつうの
 女子高生です。なぜ彼女たちが、14、1
 5で命を断たなければいけなかったのでし
 ょうか、彼女たちの写真を見る度に胸がし
 めつけられます。
 
 明日は最後の地、魂魄の塔です。
         また、明日。
          KAN
 FW通信
 6月23日(金曜日) 晴れ
 
 熱射病
 
 今日は昨日言った通り、慰霊の日というこ
 とで、平和祈願公園で行われる、慰霊祭を
 見に行きました。とのかく、今日は慰霊祭
 があるせいか道がとても混雑していて、途
 中でタクシーから降りて歩くことになりま
 した。歩いていても、人がたくさんいて沖
 縄にきて初めてあんなたくさんの人に会い
 ました。会場についたらすごい人で、また
 今日に限って今までに一番暑い日だったの
 で、またしても熱射病になりかけました。
 その後、式が始まり、沖縄県知事の話や森
 首相の話をボーっとしながら聞き、途中後
 ろのおっさんがやじをとばしていてそれが
 頭にガンガンひびいて少しイライラしなが
 ら式が終わりました。その後、この前雨で
 見れなかった平和のを見てから昼食をとり、
 魂魄の塔を見て帰りました。魂魄の塔は、
 人がたくさんいて、花や弁当や飲み物がい
 っぱい供えてあって、この前行った時とは
 ずいぶん感じがちがいました。

        めんそーれ吉田
 
 慰霊の日
 
 今日は慰霊祭に行ってきました。慰霊祭に
 森首相が来てしゃべっていたのですが、人
 がじゃまでぜんぜん見えませんでした。慰
 霊祭の後に平和のいしじを見にいきました。
 平和のいしじには、おじいさんやおばあさ
 んがいっぱいきていて、お供え物をいっぱ
 いおいてありました。その後は魂魄の塔に
 いってそこにもおじいちゃんおばあちゃん
 が来ていて、手を合わせていました。  

        宮古島 太郎


 
 
 ◇MABUI◇
 
 沖縄各地で、多くの人が、“平和”と向き
 合うであろう日、那覇市内で、ある映画が
 上映された。
 MABUI―1998年―沖縄映画
 6月23日、沖縄での日本軍の組織的な戦
 闘は終結したものの、やんばるの壕では5
 歳の少女が、14歳の兄セイシュウと、其
 の友人で15歳のタケの見守る中、命を落
 とした。収容所で、家族と再会、新しくア
 ヤとブンキが家族に加わり、貧しいながら
 も徐々に生活を建て直してゆく・・・。そ
 んな戦後を描いた映画だ。ラストシーンで、
 セイシュウとアヤが、アメリカに旅立つタ
 ケを見送った場所は、現在広大な嘉手納基
 地の一部となっている。沖縄の、マブイ
 (魂)と身体は切り離されたまま。沖縄戦
 は未だ終わらない。

        はなれもん。

 6月28日「魂魄の塔」
 
 本州の方は、まだまだ梅雨モードで雨が降
 っているみたいですが、沖縄は、やはり、
 すっかり夏になっています。逆に夏本番の
 水不足が懸念されています。
 
 ただ、ここまで暑いとあきらめがつくと言
 うか、ふっきれて、暑さどうぞいらっしゃ
 いと言う感じでなります。まあ、さすがに
 沖縄の人とは言え、昼間の時間に外を出歩
 いている人はあまり多くなく、日暮れとと
 もに人が出てくると言う傾向はあります。
 
 夕暮れ時のけだる暑さの中をフラフラ歩い
 ていると、体にまとわりついてくるような、
 熱気に今さらながら南国にいると言う実感
 が湧いてくるのでした。
 
 さて、今日は、平和ツアーの最終回です。
 ひめゆりの塔を後にした、私たちは、その
 すぐ東南の方向に位置する魂魄の塔に向か
 いました。この慰霊塔の直ぐ後ろは、もう
 これ以上は逃げることのできない米須海岸
 です。南へ南へと逃げたきた、民衆や軍人
 たちがもうこれ以上は逃げれない最終の場
 所としてひしめき合ったのがこの場所でし
 た。当然、軍人、民間人の分け隔てなく、
 海からは艦砲射撃、空からはナパーム弾、
 陸からは戦車とありとあらゆる方向から玉
 が飛んできたのでした。


 戦後、ここの地域が、収容所になったとき、
 畑を作るために土地を整備しようとしたら、
 次々と遺骨が掘り出され、バラバラの遺骨
 を頭蓋骨と大腿骨があるものを一体として、
 数えたら、3万5千体にものぼったと言い
 ます。これらの遺骨を集め、慰霊塔にした
 のが、ここ魂魄の塔なのです。ここ地域は
 最後の激戦区であったため、アメリカ兵も
 含めた戦死者の数ではありますが、ここで
 もやはり圧倒的に数が多かったのが、住民
 たちであったわけです。
 
 生き残ったのい方々も、逃げるさなか家族
 がバラバラになったりして、自分の家族が
 どこで亡くなったかわからなかったり、家
 族全員が全滅しているために、親戚がここ
 ら辺で消息を断ったとしかわからない方々
 が多くいます。そう言う方々にとって、こ
 の場所は、まさに最後の地なのです。自分
 の家族や親戚の方の遺骨の一部がこの中に
 含まれているはずなのです。
 
 国の方針で、その遺骨の一部が強制的に国
 立公園の方に移された、現在でも遺族の方
 々にとっての本当の意味での墓標は、ここ
 であり続けているのです。毎年、6月23
 日になると沖縄の、いや、全国から関係者
 の方々がこの地に慰霊のために集まってき
 ます。たくさんの花に囲まれた塔の回りで
 は、1年ぶりに家族に再会したかのように、
 多くの方々が、この1年間の家族の様子を
 報告しています。
 
 塔の裏手に広がる青い海を眺めます。時は
 同じ頃、真夏の太陽が照りつける真っ青な
 海、そして、白い珊瑚礁、今、見れば、ま
 さに南国の風光明媚な海岸線でしかありま
 せん。でも、当時、やっとの思いでここま
 でたどり着き、海を見た時に、その海を埋
 め尽くす敵の軍艦、そして、背後からせめ
 てくる戦車、まったくの絶望感だけが支配
 した空間であったでことは間違いなかった
 と思います。
 
 55年前、ここ沖縄であったことは、間違
 いなく事実です。現在を生きる私たちが、
 昔はきびしかったね、とか、当時に生まれ
 なくてよかったとか言うことは簡単なこと
 です。問題は、こうした悲劇の場所は、昔
 を懐かしんで、悲しむ場所ではないと言う
 ことです。歴史は、人の後に作られていき
 ます。人、一人一人の意志が集まって、歴
 史や社会は作られていくわけです。つまり、
 こうした過去の事実から学んで、自分自ら
 の意志で、生きていくことをしていかなく
 てはいけないと思うのです。
 
 ここ沖縄は日本人にとって、その一つ場所
 ではありますが、自分は何ができるのか、
 自分はこれから何をしていくべきなのか、
 そんなことを考えるスタートの場所だと私
 は思うのでした。
 
 長くなりましたので、今日はここまで。で
            は、また明日。
            KAN

 6月29日「ゴーヤチャンプル」
 ホット、ホット、ホット!!
 今日も1日、活動、活動。
 今日は、前沖縄県知事の太田さんたちが立
 ち上げた、沖縄国際平和研究所の設立講演
 に行ってきました。
 講演に先だって、沖縄在住のミュージシャ
 ンの演奏があり、沖縄音楽の歴史の断面を
 見聞きすることができました。
 そのあとは、鎌倉在住の作家、井上ひさし
 さんの話しでした。日本国憲法の話しで、
 天皇制を維持するために現憲法をマッカー
 サーが推した話しや、世界平和会議で、世
 界の国の憲法の中に日本の第9条と同じも
 のを織り込むことが目標になった話しなど
 を聞きました。なかなかおもしろかったで
 す。
 
 平和ツアーの話しが一段落しましたので、
 今日からは、少し生活の話しをしていきた
 いと思います。生活の話しと言うことにな
 れば、その中心はやはり食の世界と言うこ
 とになるでしょうか。


  沖縄での食べ物と言うと、その代表は、豚
 肉関係とそばと琉球野菜なんて言うことに
 なるでしょうか。初回の今日は、琉球野菜
 を中心とした大衆的食事です。琉球野菜の
 代表的なものは、最近では、本州でも見る
 ようになりましたニガウリ。沖縄では、ゴ
 ーヤと言います。このゴーヤはいろいな調
 理の仕方がありますが、よく出てくるのが、
 ゴーヤチャンプルと言うメニューです。チ
 ャンプルとは、まぜたと言う意味で、この
 ゴーヤと豆腐と玉子を混ぜた炒めものです。
 味は、少々、苦みがあり、初めての人は好
 き嫌いがはっきり出ます。沖縄では、暑さ
 対策の食べ物として有名です。そして、沖
 縄の野菜と豚の足を煮込んだ定食が、煮付
 けです。豚の足と大根や人参や、昆布など
 をだし汁でゆっくり煮込んだ煮付けです。
 おでんより薄味の沖縄風煮付けは、食欲の
 ない時などにはうってつけです。沖縄では、
 食堂で、ゴーヤチャンプルや煮付けを頼む
 とご飯と汁が必ずつきます。そして、定価
 は、だいたい500円ぐらいです。
 
  腹が減ってきたので、つづきは明日。
           KAN

 FW通信
  6月26日(月曜日)晴れ
 
 国際通り
 
 今日は、国際通りをまわりました。国際通
 りとは、那覇市のメインストリートといわ
 れている道で全長約1、6kmの道路の両
 側にデパートや映画館、民芸品店、レスト
 ラン、郷土料理店、ライブハウスなどがな
 らんでいました。この通りが生まれたのは、
 第二次世界大戦の直後で、芋畑や基地の中
 に細々と県道が伸びるだけの湿地帯だった
 が、米軍に町を占領された人々はこの県道
 沿いにテントを張り、たちまちストリート
 を作りあげた。まるで奇跡的な発展をとげ
 たところから「奇跡の1マイル」と呼ばれ、
 沖縄復興のシンボルともなったそうです。
 実際見て回ったら、本当になんでもあり、
 店もいっぱいあって全部回りきれませんで
 した。人も、地元の人や、観光客、外国人
 が入り乱れていてまさに「国際通り」の名
 の通りのにぎわいようでした。
                
       めんそーれ吉田


 
  
 国際通り
 
 今日は国際通りにいみやげを買いに行きま
 した。今日もとても暑くて疲れました。国
 際通りに、なんか変なりゅうの置物があり、
 なんでシーサーじゃないのかなと思いまし
 た。みやげやの人はいい人が多くて、大体
 のところがまけてくれました。やっぱり沖
 縄のひとはいい人が多いなあと思いました。
           
       宮古島 太郎

 
 6月30日「ソーキ」
 今日は、ちょっと夜にかけて隠密行動をし
 なくてはいけないので、早めのデーリーを
 送らせてもらいます。

 ここ那覇では、最近、だんだんと知り合い
 が増えてきまして、街を歩いていても声を
 かえられることが多くなってきました。で
 も、多くの人が、私が誰だか知らないわけ
 で、相手も誰なのか私も知らないと言う関
 係です。昨夜も行きつけの食堂で飯を食っ
 ていまして、隣に座った紳士と何げなく話
 しをしていました。彼が立ち去った後、店
 の人に、「今の人誰?」と聞きましたら、
 沖縄電力の社長と答えが返ってきました。
 げっ、沖電と言えば、沖縄で最大大手の企
 業です。名刺を渡しておけばよかったと、
 後のなって後悔したのでした。

 沖縄の街では、こうしたことがよくありま
 す。飯屋で、気軽に話しをしていた人が、
 どこかで見た人だなと思っていたら、新聞
 に出ていた人だったりします。琉球には、
 もともと、階級的なものが存在しましたが、
 そんなことを感じさせない街の雰囲気では
 あります。

 昨日は、沖縄の食文化の一つとして、沖縄
 野菜を使った料理の代表作である、「ゴー
 ヤチャンプル」と、「煮付け」を紹介しま
 した。

 今日は、次に豚肉について、少し話しをし
 ましょう。那覇の中央にある牧志の公設市
 場に行きますとところせましと豚のいろい
 ろな部分の肉が売っています。

 血は血イリチー、内臓は中身ー(ナカミー)、
 足はティビチ、耳はミミガーと呼ばれてい
 ます。こうした、豚料理で一番耳にするの
 は、ソーキ汁、ソーキそばだとか言うソー
 キと言う言葉です。ソーキとは豚のあばら
 です。いわゆるスペアリブと言うことにな
 るのでしょうか。軟骨が柔らかくなるまで
 煮込んであるソーキは、豚肉らしい味の一
 品です。

 今度、公設市場の写真を撮ってきますので
 お楽しみに。

 最後にちょっと学習がらみ、このデーリー
 は、ある意味、みんなに提供をしている教
 材と言う要素も含んでいます。デーリーを
 読んで何かを学んでくれれば、それも学習
 としてもらってかまいません。中には、月
 の学習記録の中にデーリーを読んで、これ
 これこういうことを考えたと報告をしてく
 れている人も何人かはいますが、まだまだ
 少数です。社会や理科の単位が少ない人な
 どは、このデーリーをうまく使って、苦手
 教科の克服に活用してください。

      では、また来週。
          KAN

 7月3日「表現の自由」
 今日、こちら那覇は、久しぶりの雨になり
 ました。梅雨が開けてからは、ずーっと晴
 れの日がつづき、木々も少し、バテ気味だ
 ったので、まさに天からの休息と言う感じ
 です。

 今、沖縄では、沖縄サミットを前にして、
 様々な催し物が開催されています。いわゆ
 る政府中心のものから民間のものまで、ち
 ょうど、昨日も私の知り合いの、沖縄のミ
 ュージシャンである海勢頭 豊さんが実行
 委員長を努める沖縄映画祭2000の最終
 日がありました。

 最終日の出しものは、「ナイフ」「サイゴ
 ンからの旅人」と言う、ベトナム映画と、
 写真家石川文洋さんとキャスターの筑紫 
 哲也さんとの対談でした。

 前出の2本のベトナム映画は、その脚本、
 構成ともなかなかよく、限られた技術や道
 具の中で、工夫しながらいろいろな効果を
 考えてつくってあり、とても好感が持てま
 した。

 「サイゴンからの旅人」は、8月に東京で
 もやるそうですから、あらすじを教えてお
 きます。ベトナム戦争の最終段階において、
 サイゴンを陥落させるため、おこなったホ
 ーチミン作戦の中、戦闘で友人を失った、
 主人公が、戦後、その友人を埋葬したとこ
 ろに行き、友人の遺骨を友人の親と婚約者
 に届けると言う、道中を様々な、ハプニン
 グ等を通して、ドキュメントタッチで描い
 たものです。

 この作品の中で、印象に残った点は、ベト
 ナムの人たちの心の中に残っている戦争へ
 のいろいろな思いと、それにどう関わった
 のか、そして、現在、人々はどう生活して
 いるのか、案外、正直な気持ちが表現され
 ていたような感じでした。

 あと、自分なりにうれしかったのは、今年、
 ホーチミン市立大学で受けた語学特訓が多
 少、生き残っていて、映画中の会話の一部
 が聞き取れたと言うことです。

 そして、二人の話しは、映画や報道の検閲
 と言うところが印象に残っています。検閲
 と言うのは、映画や報道写真などの表現に
 ついて、国など権力を握っているものが、
 都合の悪いところを規制しカットさせるこ
 とです。ここ何年かの試みの中、いわゆる
 自由社会と呼ばれている資本主義社会の中
 では、「表現の自由」の権利が大幅に確保
 され、一見、国家が介入する検閲と言う行
 為が薄れたように見えます。しかし、実際
 は、違う形の検閲が浸透してきていると二
 人は言っていました。それは、市民や制作
 者の側の自己規制と言う検閲です。例えば、
 石川文洋さんは、たくさんの戦場の写真を
 命がけで撮影してきています。中には、目
 をそむけたくなるようなシーンも入ってい
 たりします。

 この問題は、私がいつも言っている。自由
 の裏表の問題と共通していると思います。
 法律として、自由が十分でなかった時代、
 その権利を獲得するための闘いは尊く、重
 要でした。しかし、あり程度の自由が、法
 律として、保証をされた後は、今度は、そ
 れを運用する人それぞれの意志の自由度が
 計られるのです。自由の意志を自分の自律
 した意志として主体的に運用をしていかな
 いと、本来、個人の自由を保証するために
 存在をしている法律が、個人の自由を縛る
 ものに変わってしまうのです。


 そうした、素材に対して、最近では、こう
 した素材を市民に提供をすると残酷だとか、
 怖いだとかで批判がくると予想し、制作者
 側で、市民やスポンサーに気兼ねをし、事
 前にストップをかけてしまうのだそうです。
 近代社会において、今後、考えていかなけ
 ればならない重要な課題でしょう。

 その後、両氏と歓談をする機会を得ました。
 両氏とも風が注目し、行っていること、
 「沖縄」「ポーランド」「ベトナム」「日
 本」「ドイツ」と言う視点について、非常
 に重要であると言う共通の認識を示してく
 れ、それを高校で行っていることに驚いて
 いました。ちょっと、うれしくなりました。

 あーっ、沖縄の文化に触れる時間がなくな
 ってきてしまいました。食文化の次なる柱、
 「そば」について書こうと思ったのに・・
 ・。

 つづきは、また明日。
           KAN

 7月4日「沖縄そば」
 やばい!
 台風が近づいてきています。
 まだ、沖縄で台風に遭遇したことはないの
 ですが、半端じゃないらしいことだけはわ
 かっています。

 さすがに地元の人たちは、慣れていて、
 「もうそろそろ、1回ぐらい台風がこない
 とね」とか言っています。なぜかと言いま
 すと、理由はいくつかありまして、一つは、
 夏の水不足の解消です。そして、もう一つ
 は、珊瑚の活性のためにです。島の回りの
 海が、夏の暑さで温度が高温になると珊瑚
 が育たなくなるのだそうです。だから、時
 々、台風による海流の拡散によって、水温
 を下げる必要があるのだそうです。

 あっ、そうそう、それと、沖縄の家々は鉄
 筋コンクリートづくりの家が多くあります。
 昔の家は、屋根を低く押さえ、家の回りを
 石垣で囲った形式です。どちらも台風対策
 のためだそうです。本土の私たちから見る
 と鉄筋の家だなんて立派だなと思いがちで
 すが、別にデラックスなのではなくて、生
 活の知恵と言うことなのですね。台風が来
 る度に建て替えていたら経済的にもたいへ
 んですからね。

 さて、次は、沖縄の文化、食編で、そばで
 す。沖縄では、そばをよく食べます。一言
 でそばと言ってもいろいろなそばがありま
 す。一番ポピュラーなのは、沖縄そばと言
 うやつです。沖縄そばの特徴を羅列すると、
 小麦粉だけでできた太くて平たく黄色ぽい
 色をし、波打った麺をしています。豚とカ
 ツオでとっただしに塩と少しの醤油で味付
 けをした汁です。具は、豚肉とカマボコが
 多いです。薬味は、紅しょうがと小ネギで
 す。人によっては、食べる時にコーレーグ
 ースーや七味などをかけて食べます。

 上でも書きましたように、沖縄の場合、そ
 ばと言ってもそば粉は一切使っていません。
 小麦粉を使っているので、沖縄そばと言う
 言い方が、オリジナルと言えそうです。

 さらに沖縄そばと言っても、その地域によ
 っても上記で書いた感じのものばかりでな
 く、そばの形状一つとっても次のような特
 徴を持っています。本島北部:極太・平・
 真っ直ぐ、本島中南部:中ぐらい・平・ち
 じれ、宮古地方:細く・平・ウエーブ、石
 垣地方:細く・丸・真っ直ぐと言う具合で
 す。
 
 ですから、那覇などでは、沖縄そばと看板
 が出ている他に、さらに詳しく、石垣そば
 だとか宮古そばなどと看板を出していると
 ころも少なくありません。あとは中に入っ
 ている具によって、ソーキそばだとか、肉
 そばだとかと言うバリエーションがありま
 す。

 食べ慣れてしまうと1日1回は、そばが食
 べたくなってしまいます。私などの場合は、
 そばとジュウシーと言う混ぜご飯をいっし
 ょに頼み、食する場合が多いです。当然、
 お店の数も多くあり、店、店でも味が違い
 ます。私がよく行くそば屋は、みの屋と平
 和食堂です。

 皆さんの地元にも何か、名物の麺料理はあ
 りますか?

       では、また。
       明日。
           KAN

 7月5日「島唄」
 早いもので、沖縄からの報告も今週いっぱ
 いとなってきました。毎日、あっち、こっ
 ちと行き、いろいろな物を見、いろいろな
 人の話しを聞き、みんなに伝えたいことは
 山のようにあるのですが、伝えきれません。
 サミットが近づいてきている現在もここ沖
 縄では、様々な事件が起きています。

 私としても、もう一歩、二歩も踏み込んだ
 取材がしたいのですが、時間があまりにも
 足りません。まさに、毎日が学習の連続で
 す。膨大なデータが蓄積されていっていま
 す。戻ってからこれをまた分析していきた
 いと思っています。

 みなさんも沖縄やサミットのことに関係し
 た学習を何か挑戦してみてください。よく
 沖縄などに初めてきた人たちが言います。
 「自分たちの国のことを何も知らなかった
 のが恥ずかしい」と、まさに無知の知です。
 別に沖縄のことだけではありません。自分
 の住んでいる地元のことも大切です。何で
 もよいので、知ると言う行動を開始してみ
 てください。

 今度、神奈川でのフィールドワークも計画
 しています。そんな時は、ぜひご参加を。

 さて、沖縄からの報告に入りましょう。昨
 日までは、食について話しをしました。沖
 縄野菜、豚肉、そばなどについてでした。
 今日は、芸能と言う側面から少し話しをし
 てみたいと思います。いわゆる沖縄出身の
 ミュージシャンは、ここ数年、一気に増え
 ました。安室さんやスピード、ディアマン
 テス、マックス、知念さん、ビギン、キロ
 ロなどと言うように。ここに来て、なぜ故
 に沖縄のミュージシャンが多く受け入れら
 れるようになってきたのでしょうか。

 沖縄の芸能、特に歌謡と言う点においては、
 二つの大きな流れがあります。一つは、そ
 の昔から脈々と流れる島唄を代表する琉球
 歌謡、最近では、三味線などをメインとし
 たその独特な旋律をみなさんも1度、2度
 は聞いたことがるかとは思います。サザン
 などもよく使っていたりします。琉球歌謡
 については、今でも沖縄の庶民の間では、
 確実な人気を維持しています。街に出れば、
 いわゆる民謡酒場なる沖縄民謡をメインの
 ショーにしたお店がいたるところにありま
 す。別に、こうしたお店だけでなく、人が
 何人か集まれば、三味線や笛、太鼓のでき
 る人が必ずいて、にぎやかなセッションに
 なることはしばしばです。

 離島に行き、夕暮れ時に街の路地裏の家か
 ら流れてくる三味線の音色などは、鳥肌も
 のです。

 そうした、琉球民謡の流れに対して、もう
 一つの流れは、戦後の占領軍であるアメリ
 カ文化の影響を受けた音楽、そして、南米
 などの移民先に国から流れてきた外国音楽
 です。アメリカ文化の影響をうけた音楽と
 しては、ロックやジャズは、本土のそれと
 は、スパイスの違う味を醸し出しています。
 中でもロックは、基地の街であったコザを
 中心に広がりました。アメリカの占領時代
 に芽吹いた沖縄ロック文化は、そのハング
 リーで力強いリズムを、多く発信し続けま
 した。紫だとか言うグループを知っている
 でしょうか。
 
 そして、最近、ちょっと注目しているのは、
 沖縄ジャズです。ライブを聞かせる店も多
 くあり、ちょっとしたレストランや喫茶店
 もジャズアレンジされていたりします。


 こうしたことからもわかるように、沖縄と
 言う場所は、日本の中においても、有数な
 芸能の国であると言うことが言えると思い
 ます。なぜ、沖縄で芸能がさかんになった
 のかと言うといろいろな説がありますが、
 これと言った武器を持っていなかった琉球
 の人たちは、新しい来沖者に対して、こう
 した芸能なので接客し、平和な関係を保と
 うとした表れだったとも言われています。

 始めに書きましたように、古い沖縄芸能の
 伝統や新しい芸能をミックスしたものを自
 然な感覚として身につけた若者たちが、日
 本全体のミュージックシーンに進出してい
 るわけなのです。これは、まさに沖縄でよ
 く言われる、テンプル(ミックス、ゴチャ
 まぜ)な状態であると言えるでしょう。

 皆さんも機会あるようでしたら、沖縄音楽
 に触れてみてください。私のお勧めは、安
 里 勇の「潮騒」です。

         では、また明日。
           KAN

 
 7月6日「ウタキ」
 台風が近づいているわりには、夏日が続い
 ています。サミットが近づいてくるにした
 がい、警備の厳しさなどで、生活に支障が
 出始めています。昨日、話しをした会社経
 営者は、「まあっ、これで台風でも来て、
 東京開催になれば、それが一番だね」など
 と言っていました。

 昨日の夜は、週間金曜日と言う雑誌の主催
 したフォーラムに参加をしてきました。出
 演者は、前読谷村長の山内徳心さん、沖縄
 の芥川賞作家、目取真俊さん、人材育成コ
 ンサルタントで在日3世の辛淑玉さんの3
 人でした。

 まあ、当然、サミットに関係しての沖縄情
 勢の話しではありました。話しの内容は、
 ・サミットはアメリカの軍事プレゼン
  テーションである。
 ・沖縄は、植民地化されている。
 ・運動には生活者の視点がなければい
  けない。
 等でした。

 私的には、もう一歩踏み込んでくれれば何
 て思いました。彼らが話しをした日本や沖
 縄の構造的な問題までは、賢明な人たちは
 わかっている部分です。で、問題としては、
 それを打破するためにどういった行動をし
 ていくつもりなのかと言うことが聞きたか
 ったのですが、ちょっと踏み込み不足だっ
 たような気がしました。特に、ウチナンチ
 ュー(沖縄の人)の山内さんと目取真さん
 は、元教師と教師と言うことで、どうにも
 先生の臭いを引きずっていて、発想がある
 意味、まじめ過ぎると言うか、一般的な感
 じがしました。今までの既存の発想では、
 現在の日本や沖縄の状態を転換していくこ
 とが難しいのはわかっているだけに。

 確かに、沖縄だけでなく日本全体が、経済
 優先の価値観で覆われてしまっていて、ま
 さに、アメリカなどの資本のもと間接的に
 統治をされているようなものですから、日
 本全体が植民地と言うか、占領中と言うか、
 そんな状態なのは確かです。そういった、
 アメリカなどによる間接統治みたいなかっ
 こうにされていると言うことを国民に気が
 つかないよう、アメなどをちらつかせなが
 ら戦後の日本はやってきているので、それ
 が目的なのだとすれば、ある意味成功して
 いるのかもしれません。すごく、皮肉った
 見方ですが。

 会の後、地元の人たちと会についての話し
 をする機会を得ました。「経済的な自立な
 くして、平和の話しはできないよね」と言
 った地元の人の言葉がやけに印象的でした。

 さて、また、いつもの話しに戻りましょう。
 昨日は沖縄の芸能について話しをしました。
 追記ですが、前出の辛さんが芸能について
 コメントをしていました。そう言う考え方
 もあると言うことで紹介しておきます。在
 日朝鮮人の人たちが、差別を受けている社
 会の中で、生きていくためには、スポーツ
 とか芸能とかと言う分野で実績を残してい
 くしかなかった。沖縄の芸能がもてはやさ
 れる最近は、何かそんな風潮と重なると。

 今日の話しは、沖縄の神々の話しです。沖
 縄の島々には、今なお、沖縄独自の祭礼な
 どが多く残されています。その精神的中心
 をなしているのが、ウタキの神々です。ウ
 タキとは、村の背後にある森の中にあるそ
 の村独自の聖地です。

 私も何度か、各村のウタキに足を踏み入れ
 たことがあります。その場所には、一本の
 大きな木があり、その根本にイビと言われ
 る小さな香炉が置いてあるだけの場所です。
 しかし、その場所は、ふつう、泉が湧きだ
 していて、うっそうと茂ったジャングルの
 樹海の中、ぽっかりと開いた、何かこう懐
 深くにいだかれたような場所です。そして、
 不思議な安心感が漂います。

 こうしたウタキにおいて、沖縄では、女性
 たちが中心となって、そこに宿る様々な神
 々に対して、季節を通じ祭祀が行われます。
 しかし、最近では、その行事をとり仕切れ
 る人がいなくなってしまい、もう何年も休
 んだままの祭祀もあると聞きます。

 こうしたウタキの中でも本島の中で、重要
 な聖地と崇められているセイファーウタキ
 に行った時、不思議なパワーが自分に降り
 注いでいるように感じたのは気のせいだっ
 たでしょうか。振り返るとそこに白い着物
 を着た、ノロと呼ばれる女性が立っていま
 した。

         では、また。
          明日。
          KAN

 7月7日「沖縄−日本−アメリカ−世界」
 さーて、いよいよ沖縄からの報告も押し詰
 まってきました。まとめと言う意味も含め
 て、少し、ここ1年のサミットと沖縄県内
 の動きについてまとめおきたいと思います。

 ・サミット主会場が、沖縄に決まる。
 ・「基地問題が解決しないかぎり沖
  縄には行きたくない」と言うクリ
  ントン米大統領発言と、それをき
  っかけにして、普天間基地移設問
  題が急展開する。
 ・「周辺事態法」「国旗国歌法」「
  組織犯罪対策法」などの法案が成
  立。
 ・稲嶺恵一知事ら県幹部による平和
  祈念資料館の展示内容改ざん問題。
 ・2千円札の図柄に守礼門が決まる。
 ・沖縄北部振興策に10年間で1千
  億円。
 ・普天間基地の移設先として辺野古
  海岸域を稲嶺知事が打ち出す。
 ・名護市議会による受け入れ決議、
  と岸本建男市長による受け入れ表
  明。
 ・ヘリ基地反対協によるリコール運
  動の展開とその失敗。
 ・琉球大学の教員による「沖縄イニ
  シャチブ」の提起。
 ・公的機関から一坪反戦地主排除決
  議。
 ・「沖縄の教組と沖縄タイムズ、琉
  球新報は共産党が支配している」
  と森善朗幹事長が発言。
 ・小渕恵三首相の死と森政権の誕生。
 ・沖縄における自公連立体制の確立
  と県会議員選挙における保守の大
  勝。
 ・県主催の「戦没者追悼式典」に米
  軍四軍調整官の初参加。
 資料引用「沖縄タイムズ」

 こういった沖縄をめぐる流れを見ていて、
 いくつかのことに気がつかされます。

 一つは、ある意味、当然と言えば、当然
 なのですが、沖縄−日本−アメリカ−世
 界と言う連関が存在すると言うことです。
 沖縄で起きていること日本全体で起きて
 いること、アメリカの動き、世界の動き
 は、一つ、一つを見るとバラで動いてい
 るようにしか見えませんが、なんだかん
 だと言って、全ての動きがつながってい
 ると言うことです。

 そして、次に言えることは、上記の逆の
 ことになりますが、全体像が見づらいよ
 うな構造を作っている。

 三番目に、その動きすべて共通している
 ことは、経済と軍事力です。
 
 さて、一つの問題提起です。
 経済と軍事力の関係があからさまになっ
 たのは、皆さんもご存じの通り帝国主義
 ならびに植民地政策の時代です。当時は、
 急速に発展をした資本主義の結果、余剰
 した商品を売りさばくための市場や不足
 した原料を求めて、宗主国たちが、アジ
 アをはじめとする発展途中の国々に対し
 て、その強大な軍事力を背景に侵略を展
 開していました。

 まあ、当時はあまりにもあからさまだっ
 たので、経済と軍事力の関係はよく見え
 ました。しかし、2度の世界大戦を経験
 した先進諸国と呼ばれている国々は、そ
 の後の資本主義経済を発展させるために
 は、軍事力に頼った発展の仕方は、人類
 にとって、多くの不利益さを発生させる
 ものであると反省をし、国連などの諸機
 関を世界レベルで創設しました。表面的
 な形としては、ともかく、各国は軍事力
 に頼った経済発展は望めないと言う立場
 にたったはずです。

 いくつか材料を出しましょう。
 ・冷戦が終わった。
 ・経済保証のためとは言え、あから
  さまな軍事活動は、国連などがあ
  るためにできない。
 ・でも、先進諸国は、世界の経済を
  独占し発展させたい。
 
 ちょっと難しいですね。
 とても矛盾している話しだからです。第
 2次世界大戦以降の世界は、各国の経済
 発展のためには話し合いでやっていきま
 しょう。と言う合意ができているはずで
 す。だとすれば、過度の軍事力は必要と
 しないはずです。

 でも、沖縄には米軍の基地があります。
 さらに基地を増やそうとしています。
 経済と軍事力の関係を国民の目からそら
 せようとしています。一体、なぜでしょ
 う?

 簡単には、答えが出ないと思います。こ
 れを機会にいろいろ考えてみてください。

          では、また。
           来週。
           KAN

  
 7月10日「パジャマ」
 昼間は、きっと日本中が暑いんでしょう
 ね。あの冬の寒さはいったいどこにいっ
 てしまうんですかね。
 
 でも、こうした四季の変化が日本人の物
 の考え方の元になっていることは確かで
 すね。

 そういった日本ならではの物の考え方の
 他に、国の欧米化に伴い起きる変化と言
 うものには、何か周期性と言うか、法則
 性みたいなものがあるような気がします。

 先日も那覇の市民会館で、ここ100年
 間の世界の社会変化を写真で展示してあ
 る催し物を見てきました。日本の大正時
 代の街の様子を映した写真を見て、驚い
 てしまいました。以前、ベトナムからの
 報告の時に、「今、ベトナムの若い人の
 間では、パジャマを外出着として出かけ
 るのが流行っている」と報告をしたと思
 います。

 なんと、日本でも大正から昭和の初期に
 かけて、若い女性の間で、パジャマを着
 て外出をするのが流行っていたんです。
 写真では、約80年も前の写真であった
 わけですが、その中で、歳の頃なら、1
 7、8歳ぐらいの少女たちが、今の同年
 代の女の子たちと同じような表情で、微
 笑んでいるんです。そんな、写真を見て
 いて時間とか時代って、本当におもしろ
 いな、その人の人生において、本当に一
 瞬、一瞬なんだなと思いました。

 今度、機会があったら、みんなもおじい
 ちゃんやおばちゃんの青春時代の話しを
 聞いてみてください。話しをまとめて、
 レポートでも出してくれたりしたら最高
 です。

 こんな、話しをし出したもう一つの理由
 は、先日、私たちが拠点にしているユー
 スホステル(これもまた、知らない人が
 多くなっているけれど)で、若い人たち
 が集まって、沖縄の話しをしていたので
 すが、何気にその話しを聞いてい
 たんですが、「なんで、日本にアメリカ
 軍がいるんだ?」て言うような話しをし
 ていたんです。「いつから日本にアメリ
 カ軍が駐屯しているの?」と言う誰かの
 質問に対して、「それはよ、ペルーが来
 てからだから明治からか」。何てことを
 言っているんです。

 これは、ある意味、特殊な例なのかもし
 れませんが、第2次世界大戦終了から5
 5年、年々、日本がその昔、戦争を起こ
 したこと自体を知らない世代が確実に増
 えているのでしょうか。ここ沖縄におい
 ても、沖縄戦の悲惨さを知っている若者
 の層が確実に減少していると聞きます。
 確かに、平和だと思われる時代が長く続
 くことはよいかもしれませんが、過去の
 歴史、特に、日本が関わった歴史につい
 ては、若者とは言え、忘れてほしくはな
 いと思うのです。いつまた、同じ、愚か
 なことが繰り返されないと言う保証はど
 こにもないのですから。

 少し、親父モードですが、日本人として
 大事なことのような気がして。

          KAN

 
 7月11日「高い山に登ると遠くが見える」
 1ヶ月間のフィールドワークを終えて無
 事に帰鎌しました。

 毎日の報告でも書きましたように、今年
 のこの時期の沖縄は、とてもおもしろか
 ったです。細かい分析の報告はおいおい
 やらさせてもらうとしまして、印象に残
 ったことを忘れないうちに書き留めてお
 きたいと思います。

 やはり、沖縄と言う場所は、日本の切り
 はと言いますか、日本の今の状態が凝縮
 して見え隠れしている場所と言えると思
 います。本土の方で、日々生活をしてい
 ると、その日々の生活の中に埋没をして
 しまい、今、日本や日本人が世界の中な
 どで置かれている状態が見えなくなって
 しまいます。

 すこし離れて眺めれば、何かおかしいと
 気がつくようなことでも、回りが全部同
 じことをやっていると、気がつかないし、
 むしろ、自分の方がおかしいと思うよう
 になってしまうと思います。

 この1ヶ月、沖縄と言う場所から、ヤマ
 トの方を眺め、また、世界の国を眺めて
 いました。すると、今の日本と言う国が、
 いかに、自分の意志で動いているのでは
 なく、世界(ある一部の国々)や日本の
 中の一部の人たちの意志やシステムによ
 って操られているかがよく見えてきてし
 まいます。

 今回、沖縄で開かれるサミットにしても
 そうです。7月の風だよりにも書きまし
 たように、サミットが開かれることによ
 って、沖縄の人が受ける恩恵は、あまり
 にも小さいものです。でも、サミットは
 沖縄で開かれるのです。

 沖縄と言う場所に関わるようになって早
 いもので、10年近くの月日が経ちまし
 た。その間に、沖縄の本土化は、物質的
 にも精神的も急速に進みました。ある意
 味、逆の考え方をすれば、日本の都道府
 県の中で、唯一、最後に残された日本の
 政府から操ることのできない場所だった
 のかもしれません。そのように考えると、
 まさに、戦後の日本政府による総決算、
 日本の中にある主体的な意志を持つ最後
 の砦を崩す作業のように見えてきてしま
 います。

 昨日も書きましたが、沖縄生まれの人で
 さえ、若い世代の人たちは、戦争のこと
 は語れなくなってきていますし、今度の
 サミット誘致など、その背景を眺めるに
 優先順位は、お金だったことがよくわか
 ります。

 日本の政府は、日本の中において目の上
 のタンコブであった、沖縄と言う場所に
 おいて、徹底した戦後国家教育とお金攻
 撃で、沖縄の魂を抜き去ろうとしました。
 その経緯がよくわかります。とすれば、
 ヤマトの私たちはとうの昔にたましいを
 抜かれてしまっていたのでしょうか。

 今回、そんなことをつらつらと考えてい
 ました。少なからず、私の回りには、沖
 縄の人、本土の人を含めて、そんなこと
 に気がついている人が少なからず存在し
 ています。いろいろな分野の人たちが気
 づきはじめています。そんな人たちの共
 通の話題は、次に行動として何を起こす
 のかと言うことです。「自律(自立)の
 ためのアクションプラン」「自己決定権
 確立のためのアクションプログラム」

 風が追い求めているものとかなり重なり
 合います。私たちは、日本の学びグルー
 プの沖縄なのかもしれません。切り崩さ
 れないように頑張ろう。

          では、また。
           明日。
           KAN