フィールドワーク沖縄2002 bP | ||||||||
今年のフィールドワーク沖縄は歩くと決めていました。なぜ、歩くと決めていたかというと、今まで、移動はバスやタクシーなどを多く使っていたので、フィールドワークに重要な距離感や土地勘というものが頭に入っていなかったからです。その土地の歴史や文化などを知ろうとするとき、多くの場合、書籍や資料によって、情報を得ることが私たちはできます。しかし、その中に書いてある各土地にまつわる様々な情報は、その土地に元々存在しているその土地ならではのいろいろな要素から成り立っています。例えば、その時、アメリカ軍は、この町の南西部から侵入してきたと書いてあったとします。確かに、地図などを読み取る力がある程度ある人は、その地形から、おおよその理由が推察できるとは思います。でも、6月の沖縄の気候はどうであったか、こうした勾配の所を数10キログラムの荷物を持って移動したときの疲労感はどうであったのかなどまでシュミレーションし、南西から侵入してきた理由を考えることができる人はそう多くはないと思います。歴史的出来事があったときに近い環境で、実証実験をしてみる。そこから新たな疑問や仮説が生まれるてくると思うわけです。そんな理由で今年は、少し汗をかいてみようと思ったのでした。 【第1日目-1】 いつもながら、梅雨時の神奈川から、同じ梅雨時とは言え、もう梅雨明け近くの沖縄に来るとその温度差にびっくりします。飛行機を降りると湿気を帯びた熱い風が頬を撫でます。「これが沖縄だ」と感じる瞬間です。この時期に沖縄に来るとまず気にかかることは、今年の雨の量です。なぜ雨の量が気になるかというと、島国である沖縄はその飲料水の多くを北部に降る天水でまかなっているからです。北部のダムがこの時期の雨によって満水にならないとこの後の夏を乗り切るのはたいへんなことになります。沖縄の人たちにとって、水は貴重で、こうした生活用水の他に沖縄の基幹産業である観光業にも影響を及ぼします。水不足では、リゾートホテルも形無しになってしまうからです。今年も私たちが訪れる直前に降った雨によってどうやら貯水率が60%を越え、夜間の出水制限は回避されたとのことでした。そして、今年もう一つ気になっていたことは、今国会で審議をされている有事関連法案に対する沖縄の人たちの反応です。昨年末は、アメリカでのテロ事件の影響を受け、沖縄の観光が大きな打撃を受けました。これも沖縄に米軍基地があるが由の影響です。このことは、逆の見方をすれば、ヤマトの人間は、米軍基地があることはその場所の安全保障にはならないということをよくわかっているということの証明です。つまり、わかっていながら、その危険の種を沖縄という場所の押しつけているということになると思います。もし、米軍基地が日本の安全保障を担っていてくれているのだとすれば、有事に沖縄ほど安全な場所はないからです。何ていっても日本国内にある米軍基地の70%があるわけですから鬼に金棒です。 とともかく、初日の本日は、明日からの活動に備えて準備をすることにしました。宿に荷を置き、昼食をとりつつ、歩くのに必要な資料やら不足していた道具やらを調達しに沖縄のメインストリートである那覇国際通り方面へと向かいました。まだ、梅雨が明けていないせいか、いつもであれば観光客でいっぱいの国際通りもあまり人がいず、スイスイと歩くことができました。私が最初の向かったのは、国際通り中程にある平和通りです。この通りの300mほど入った左側に何屋といいましょうか。雑貨屋というか、金物屋というか、日用雑貨品を取りそろえた昔風スーパーがあります。ここには、沖縄ならでは昔風のものから現在のものまで揃っているので沖縄で必要な生活用品を買うためにいつも立ち寄ります。いろいろあるコーナーの中で、今回は関係ないのですが、気に入っているのはお鍋のコーナーです。そこには、沖縄ならではのお鍋である油鍋が、大小取りそろえてあり、その不思議なフォルムと材質は、何度見ても飽きません。そこでちょこっと消耗品を購入し、さらに平和通りの奥地へと足を踏み入れました。途中に何軒かあるバック屋さんが目当てです。暑い沖縄で歩くとなるとバックは重要です。一般に考えれば、歩くわけですからデイバックのようなものがよいと考えられますが、背中にフィットしてしまう背負うタイプのバックは今一です。汗で背中がびっしょりになってしまうからです。かといって、ショルダーのようなバックだと片方の肩だけに重さがかかってしまい歩きづらいことになってしまいます。いくつかのお店を回って最後、オバーが一人でやっている間口一間ほどの小さな店に入ったところ、理想に近いバックを発見しました。なぜかカナダのメーカーです。一見、ただの袋ですが、うしろにルーズな背負いひもがついています。ルーズなので、背負っても背中にはフィットしません。でも、肩からずれないように微妙にカーブがつき、2本ある背負いひもの長さが調節してあります。上部の入れ口には、手提げ用のストラップもつき、表にはファスナー付のサイド収納もついています。一目で気に入り、購入することにしました。千と七百円でした。平和通りを出て、国際通りの県庁側にあるパレット久茂地なるデパートをめざしました。途中、様々なお店がならび買い物心をくすぐります。思わずワールドカップ記念でカナリヤイエローのTシャツを買ってしまいました。風水的も黄色はお金を呼ぶらしいので、風水によって作られた那覇の町に似合うだろうと手にとってしまったわけです。 またまた、強敵な店が現れました。東京にも支店がある沖縄物産専門のわしたショップです。今、学園でも沖縄文化の紹介の一環で沖縄物産を提供していることもあり、沖縄物産には目がいってしまうのです。不覚にも店内に引き込まれてしまいました。あれやこれや試食し、最後にシークワァーサージュースを飲み干し退散しました。ようやっと目的の場所に到着しました。那覇の総合デパート、パレット久茂地です。ここにある本屋に来沖すると必ず立ち寄ります。ここの本屋は、まず沖縄関係の本が一番充実しているのです。はじめ、沖縄コーナーに立ち寄り、新刊の本をチェックします。沖縄は、沖縄関連の現地本の出版がとても多く、神奈川では手に入らない本がたくさんあり、あれもこれも欲しくなってしまうわけです。後、内の方では、もう手に入らないような本もあったりして、探索する楽しみもあるのです。でも、今回は、明日からの行動に備えて、地図関連を買い揃えました。よし、これでok!準備完了。 つづく |
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フィールドワーク沖縄2002 bQ | ||||||||
【第1日目−2】 ● 肉食って力蓄える 気がつくともう夜です。飯を食わねばいけない。那覇の街には、様々な料理の食堂やらレストランやらが軒をならべています。食べたいものによって、その日に行く場所が決まります。今夜は、明日からの行動を考えて何か力がつく物でも食したいと考え、宿の近くにある洋食屋に行くことにしました。アメリカのある都市の名前がついたそのレストランは創業40年をむかえた老舗です。肉料理と海老などのシーフードを揃えたその小さなレストランは、扉を開けるとよい感じで歳をとったアメリカンレストランの雰囲気が目に飛び込んできます。店の片隅に置かれたレコード仕様のジュークボックス、BGMには、ジャズが静かに流れています。40年前と言えば、まだ、沖縄が占領をされていた時代です。当時、米軍が米軍関係者が入っても大丈夫な飲食店などに対して、Aサインという許可書を出していました。Aサインのお店なら安心というわけです。今ではただの記念品ではありますが、店によっては、そんなAマークの許可書を貼ってある店もあったりします。席につくと、テーブルにキャンドルライトを灯してくれます。照明を落とした店内にジャズの低音が心地よく響きます。さて、何を食べようかとメニューを見ます。何と40周年記念で全品半額ではありませんか。明日からのことを考え、迷わずステーキにしました。サラダ、スープ、飲み物、デザート、ライスはなぜがチャーハンも可のフルセットで、定価が1000円そこそこです。その半額!幸せ!食べ物が安い土地に行くと、本当に幸せな気分になるのは私だけでしょうか。十分にエネルギーを補充して明日にそなえたのでした。 【第2日目−1】 ● 太陽と水、まさに太陽は強敵 ● 三歩進んで二歩下がれ |
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フィールドワーク沖縄2002 bR | ||||||||
【第2日目−2】 ● 基地は思った以上に広いのです。 ● まだまだ金網は続きます。 ● 学校の後ろも家の後ろもずーっと金網なのです。 |
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フィールドワーク沖縄2002 bS | ||||||||
【第2日目−3】 ● ハイビスカスは揺れ、馬はいななく。 ● 十分に夏を思うのは旅人だけなのだろうか? ● クライマックスは突然に |
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フィールドワーク沖縄2002 bT | ||||||||
【第3日目−1】 ● 嘉手納基地の回りの町は、ドーナツのような町になってしまっているのです。 ● 漁港に来たら、お刺身定食。 ● 砂漠に水、人にはうっちん茶。 |
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フィールドワーク沖縄2002 bU | ||||||||
【第3日目−2】 ● 夏の日射しはますます強く、まさに基地は陽炎。 ● 琉球の空は沖縄の空にあらず。 ● 観覧車が回っているのか、目が回っているのか。 |
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フィールドワーク沖縄2002 bV | ||||||||
【第3日目−3】 ● 歯医者の看板は目立つのです。 ● 漂流者は漂流船に吸い寄せられる。 ● 故郷は金網の中。 |
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フィールドワーク沖縄2002 bW | ||||||||
【第3日目−4】 ● 銃剣とブルドーザー 【第4日目−1】 ● パイプラインは波乗りだけではない。 ● 外人住宅は暑いらしい。 |
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フィールドワーク沖縄2002 bX | ||||||||
【第4日目−2】 ● ポトス?!本当にお前はポトス? ● ヘビーな森。 ● サンマフライ定食 |
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フィールドワーク沖縄2002 bP0 | ||||||||
【第4日目−3】 ● 完全復活! ● 読谷、北谷、嘉数と歩いてきたわけだ。 ● 軍隊は国民を守ってはくれず。 |
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フィールドワーク沖縄2002 bP1 | ||||||||
【第4日目−4】 ● 街のオアシス ● 直登、直登、また直登。 ● いつ来てもザワザワと風は流れる。 |
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フィールドワーク沖縄2002 bP2 | ||||||||
【第4日目−5】 ● 山を越え、谷を越え。 ● スイマディチャヌアタイカカイガヤー? ● 首里城到着、でも、終点は始点。 |
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フィールドワーク沖縄2002 bP3 | ||||||||
【第5日目−1】 ● 南へ、そして南へ。 ● 城夏にして草青みたり。 ● 宇宙船「地球号」 |
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フィールドワーク沖縄2002 bP4 | ||||||||
【第5日目−2】 ● 十字路は交通の要所。 ● さとうきび畑のフィールドオブドリーム ● 森は語らず。 |
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フィールドワーク沖縄2002 bP5 | ||||||||
【第5日目−3】 ● 何が大事で、何が不要か。 ● サウナ効果! ● 私は女優 ● ナイスバッティング! 目取真を通り、玉城村の船越へとたどりつきました。船越小学校では、小学生たちが野球の練習をしていました。メンバーの顔を見てみるに、上級生が下級生に教えている様子です。ちょうど僕らが小学生のころにやっていた野球の形態です。最近は、スポーツ何とかがあって、いわゆる大人の指導者がいる場合が多いと思います。そのこと自体は別に悪いことだとは思わないのですが、放課後、学校の校庭で、上級生と下級生がこうして野球をやる風景があってもよいと思います。その昔、沖縄の高校野球は、甲子園で1勝をあげることが悲願でした。今では、東京、神奈川のようなたくさんの高校がある都道府県を押しのけて、優勝や準優勝などをするほどの実力県となりました。せっかく出た甲子園の土を検疫法の関係で沖縄に持ち帰ることができなかった時代もありました。純粋に子どものころから自分たちで楽しむ術を知っているのかもしれません。それが実力の秘密でしょうか。小学校を過ぎ、そのまま進めば、左手の奥にアブチラガマ(糸数壕)があるのですが、今日は、右手に出て、前川を通り、本日の最終目標地である玉泉洞へと向かいました。船越側からはなだらかな登り、そして、前川側は玉泉洞までのなだらかな下りです。しかし、私の足は限界が近くなってきていました。左足のふくらはぎがヒクヒクとつりだしました。でも、目標の場所は目の前です。丘を登り切ったところからは、眼下に太平洋が夕日にキラキラとはえています。痛い足を引きずりながら、県道17号線へと出てきました。左折をしたら目の前が玉泉洞でした。だいぶきましたね。 つづく |
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フィールドワーク沖縄2002 bP6 | ||||||||
【第6日目−1】 ● ゴーヤはイボイボを見ればわかるのだ。 ● 獅子は動かないけれど景色は動く。 ● 山は山。 |
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フィールドワーク沖縄2002 bP7 | ||||||||
【第6日目−2】 ● ああ、お金はあるのに・・・。 ● 明日は慰霊の日 ● 沖縄的なごみの時間 |
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フィールドワーク沖縄2002 bP8 | ||||||||
【第6日目−3】 ● 体験しないとわからん暑さ。 ● 時は流れど、記憶は残さねば。 ● 海の上を歩いては行けない。 ● 今は、夢も希望もある。 |
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フィールドワーク沖縄2002 bP9 | ||||||||
【第7日目−1】 ● 6月23日「慰霊の日」 ![]() ● 加害の意識 本日の目的地は、まずは昨日到着した摩文仁の丘です。ちょうど今頃は県主催の慰霊祭が行われているころだと思います。今年も小泉さんは来ているそうです。彼の中では、有事関連法案と慰霊祭は別物なんだろうな、いや同一直線上なのかと国政に複雑な思いをめぐらせつつ、バスセンターへと向かいました。摩文仁の丘に行くためには、まず那覇から糸満行きのバスに乗り、糸満でバスを乗り換えて行きます。バスには年輩の方々が多く乗っていられます。一番多い組合せは、オバーとオジーと孫というようなグループのような気がします。那覇を出たバスは、昨日まで私たちが歩いた道をドンドン進みます。途中、糸満のバスセンターで摩文仁の丘行きの臨時バスに乗り換えました。この日は、多くの臨時バスが出ています。途中からも多くの年輩の方々が乗り込んできては、各慰霊碑があると思われるバス停で降りていかれます。やはり、今日は特別の日です。そうこうしているうちに昨日、ヨロヨロしながら歩いた最後の坂をバスは勢いよく登り、平和祈念堂入り口前へと到着しました。もう既に公式式典は終わってはいますが、続々と人々が平和の礎の方などに向かっていました。バスを降りた私が最初に向かったのは、平和祈念資料館の方でした。資料館も観るつもりではありますが、その前に入り口の手間左にある韓国人慰霊塔です。こんなに人でごったがえしている公園内にありながら、いや正確には公園内ではありません。公園に隣接している場所にありながらもひっそりしています。この時期、必ず来る場所の一つがここです。ここで思うことは、日本人としての加害の意識を忘れないためです。帝国主義・植民地政策等、学ばなくていけないことはたくさんあります。 ● 伝える努力 |
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フィールドワーク沖縄2002 bQ0 | ||||||||
【第7日目−2】 ● 魂魄 平和祈念公園から少し戻り、米須の部落を過ぎたひめゆりの塔の手前の路地を左手に曲がります。一帯は、さとうきび畑が広がる南部らしい風景です。ゆるやかな坂を下って行くとこんもりと木が茂った一画に出ます。慰霊の日である今日は、回りにひっきりなしに人々が集ってきます。広場の少し入った所に石を積んだ、丸い小山とその上に魂魄と書いた石の碑がのせてある慰霊塔があります。これが、「魂魄の塔」です。この一帯は、まさに最後のどん詰まりで、しかも平坦な土地ゆえ、これと言って身を隠すところもなく、米軍の砲火によって多くの住民犠牲者を出した場所です。戦後、米軍の命令で住む場所をここ米須原に移動させられた真和志村民は、食料確保の農作業をするためには、周囲に散乱する遺骨の収集から始めなくてはいけませんでした。地元の人たちと真和志村村民たちは、米軍にかけ合い許可得、この地に1946年2月27日、納骨所を完成し、「魂魄の塔」と命名しました。塔には、この地の周辺で戦争の犠牲となった3万5千柱の遺骨が納められていました。沖縄最大でかつ最初の慰霊塔であると言えると思います。多くの住民の犠牲者は、行方不明のまま亡くなっています。そうした方々の遺族にとっては、この塔が唯一の慰霊の地になっているわけで、公の慰霊祭が摩文仁に移ってしまった今でも、沖縄県民にとっての魂の故郷は、ここであると思います。 ● 非戦の心 ● 2002年夏でした。 |
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