※ このレポートは、風の学園の学習の一環として、各ゼミ生が担当をして作成しています。 沖縄の産業 |
【沖縄の産業の一特色】 27年間にわたる米国統治に終りを告げ、沖縄が日本に復帰して四半世紀が過ぎた。沖縄戦から数えると、50年を超える。日本への復帰に際しては、基地に依存する経済から脱却して自立経済を建設するという事が大きな課題だったが、復帰から25年たった今も、産業の振興、とりわけ物的生産部門の振興が見られない。米軍統治下で形成された産業構造は変わっていない。 最近の第1次産業は、花卉などを中心に県外出荷が目立っているものの、県内総生産に占める割合は低下傾向で推移している。第2次産業も、製造業が少なくて、建設業が多いのが特徴である。戦後の米軍基地の建設過程で建設業が肥大化して、復帰後も大量の公共事業が投入される中で建設業の肥大化が進んだ。それに対し、第3次産業は一貫して上昇傾向にある。 米軍統治のもとでも、沖縄は基地経済脱却・自立経済建設を目指したことがある。戦後、1950年代に入ると沖縄の経済もかなり復興したが、1955年、琉球政府は戦後初めての「経済振興第1次5ヵ年計画」を策定した。そのなかで琉球政府は、この繁栄は「基地としての特異性からくるもの、すなわちガリオア援助と建設工事を含めた基地収入によるものであって、われわれの産業から根強く生まれたものではなかった」として、生産業を振興することによって、基地経済から脱却して自立経済を建設しよう、と強く訴えた。そして58年、外資導入を図るため沖縄の通貨はドルに切り替えられ、アメリカ資本がセメント業に進出した。一方、本土資本も進出し、大型製糖工場、パイン加工工場などがつくられた。現在ある企業の多くは、このころ設立されたものが多い。 しかし当時、基地経済はすでにしっかり根付いており、琉球政府の熱意を持ってしても、基地経済の構造を変えることはできなかった。その後、沖縄経済はますます基地への依存を深めていった。基地建設ブームの中で、軍雇用者所得、軍用地代、軍人・軍属の消費など、基地は莫大なドルをもたらし、沖縄経済を支えた。しかしそのドルは、製造業の振興にはつながらず、輸入刺激型の為替レートのもとで輸入業の隆盛をもたらした。また1960年前後に生まれた製造業も、そのいくつかには保護措置がとられたものの、その本土製品に押されて伸び悩んだ。 ベトナム戦争で基地収入が増えると、沖縄経済は活気を帯びた。基地経済は基地収入に左右される。戦争となれば基地収入が増え、景気はよくなる。しかし平時に戻れば、基地収入は減り、基地経済は縮小した。基地収入が増えても物的生産部門が弱いため、輸入が増えた。金が落ちてもすぐ本土に流出するという経済構造で、基地経済は「ザル経済」ともいわれた。また農業は零細で、他産業との所得格差も大きく、兼業化が進んだ。そして農業労働力の流出も進み、基地経済のもとで農業は次第に衰退していった。 【復帰後の沖縄産業】 「自由貿易」とはいうものの、税制・金融上の優遇措置を加味したものにとどまり、さしたるメリットがない。規制緩和、分権化の課題を国でなく沖縄でも先行的に実施いたいという。しかし、国際都市沖縄を実現するための、規制緩和は企業に厳しく迫る一面もある。政府は沖縄側の問題提起に応じて「沖縄政策協議会」を設置した。沖縄の製造業は中小零細企業が多い、県内市場も狭い。企業を発展させるには、県外市場進出、しかし、沖縄の小さな企業が独自で本土市場を開拓するのはリスクが大きい。 こうした状況を打開するため、総合産地問屋としての沖縄県物産公社などが作られた。「沖縄初〜本土行き」を具体化するのが物産公社である。また、第1次産業部門などでは、花卉栽培を先導してきた沖縄県花卉園芸農協の「太陽の花」(ブランド名)・サトウキビの高能率生産システムの確立をはじめ、「特色ある亜熱帯農業の確立」が沖縄農業の大きな課題として掲げている。 観光客の数はこのところ大きく伸びた。復帰直前は20万人台だったのが、日本に復帰した1972年には観光客数は増加した。観光は公共事業、基地と並んで沖縄経済を支える主要な柱となった。修学旅行も年々増えている。沖縄戦・基地問題を学び、伝統工芸、ダイビングなど、体験型の修学旅行が主流となってきている。 全国に広がった「おこし」のルーツは、沖縄が日本に復帰するころ、本土資本による大掛かりな土地買占めに対して立ち上がった八重山の「しまおこし」運動だという。しまおこしの「しま」は「島」でなく、「自分たちの生活空間」といった意味である。 【経済成長率】 復帰後、沖縄県の社会・経済の水準を本土なみに引き上げるために政府は沖縄振興開発10年計画を第1次(1972〜1981)、第2次(1982〜1991)、第3次(1992〜2001)に渡り、継続・実施している。この結果、県民総支出は復帰から1992年度までの20年間に実質値で約3.2倍に膨れ上がり、この期間の年平均経済成長率も6.1%で全国の3.9%を上回った。 県経済は1989年度に全国の4.5%をかなり上回る実質6.1%の経済成成長になったが、その後は我が国の景気停滞の影響を受けて下がり、1992年度は全国なみの0.7〜0.8%である。県民一人あたりの所得は、復帰の1972年度には全国平均74万2千円に対し、44万5千円で全国の6割の水準にしか過ぎなかったが、経済の成長に引っ張られ、1986年度には7.6割にまで達した。しかし、その後は伸び悩み、1992年度は全国287万9千円に対し、沖縄は7.3割の209万9千円である。全国ランクで見た県民の所得水準は、戦前・戦後、復帰後を通して相変わらず最下位のままである。 県民所得の分配構造をみると、雇用者所得(雇われて資金をもらっている者、会社・団体の役員を含む)は全国73.3%に対し、61.6%と低いが、企業所得は全国16.5%に対し27.0%、財産所得も全国民間法人9.3%に対し、農家や小商いの個人企業所得が17.4%と高いのが特徴である。財産所得の高さは、米軍からの軍用地料収入に頼る個人地主や市町村など、沖縄の特殊事情が映し出されている。 【家計−全国最下位の貯蓄高−】 県民が消費行動を通し使う支出の合計は、民間最終消費支出(家計支出)と呼ばれる。これに県や企業などの支出を足した県民総支出の中でみると、県民の家計支出が56%前後の大きな割合を占めている。その額は1兆8080億円である。 家計調査によると、1993年の勤労者世帯の実収入(税引き前の勤め先からの所得、配偶者の収入、臨時や預金収入など)は、月平均で42万6千円となった、実収入に対する実支出は33万6千円で、そのうち食料、光熱、娯楽費などの生活費に使われた「消費支出」は28万2千円、残り5万4千円は所得税や社会保障費などいわゆる税金を負担した「非消費支出」である。消費(生活)支出の内訳は、食料費に22.7%、交通・通信費9.6%、教養・娯楽費7.4%、住居費6.9%、光熱水道費などの順。実収入から非消費支出を差し引いた手取りとなる可処分所得(消費支出の他、貯蓄にもまわされる)は近年増加している。 【国が支える県の台所事情】 県の財政は、復帰後、国の積極的な支援を受けて順調に成長してきた。1992年度の普通会計決算を。復帰の1973年度と比較すると歳入額は約5.3倍の5663億円、歳出額は、約5.5倍の5602億円に拡大している。財政規模(歳入・歳出)を全国で比較すると第34位、県民一人あたりの所得額は全国平均を上回る第22位である。 歳入の内訳は、県税など県独自の「自主財源」が22.2%を占め1257億円、国からの国庫支出金や地方交付税などの「依存財源」が77.8%の4406億円。歳入の特徴は歳入総額を占める自主財源比率が全国に比べ著しく低い点で、1992年度の自主財源比較は、全国51.8%に対し、先の22.2%と半分以下である。「3割自治」という言葉があるが、県の自主財源比率は復帰以来、それより低い2割自治が続いている。 依存財源の構成をみると、国庫支出金(国が使途を指名して地方自治体に配分する資金)の割合が4割近くを占めていたが、復帰から7年目を境に、替わって地方交付税(国から配分され自治体が自由に使える資金)の割合が増えている。 歳出構成を目的別にみると、他府県と同様に住民の日常生活に関係の深い教育費や土木費が半分を占め、次に全国よりは高い農林水産業費が続いている。歳出を性質別にみると、沖縄県を含め全国的に公共事業やその他の投資的経費が増加しているが、全国に比べ沖縄は人件費など義務的経費が高い。 県財政のほかに、国から沖縄へ支出される沖縄関係経費がある。1995年度の当初予算値では、沖縄開発庁、防衛庁、農林水産省などが計上する経費の総額は4827億円、うち開発庁の予算が6.5割近くを占めている。沖縄関係経費には、各省庁の沖縄に対する振興開発事業、教育振興、公共事業などが計上され、沖縄開発庁(沖縄総合事務局)がまとめ役となり、沖縄の振興開発を支援している。 【感想】 沖縄は、基地経済から独立して、国際都市沖縄を目指すということを考えた。確かに沖縄は本土にはない、観光地、文化などがあり、自立できる要素はいくつかある。 00年度生 T.U. 参考文献等 観光コースでない沖縄(高文研) |