緊急レポート「沖縄在日米軍・嘉手納空軍基地」−1
先日、最初の空爆直前の沖縄嘉手納基地の様子を視察に行ってきました。その時の状況を緊急報告します。

【旅の記録】
私を乗せた羽田発那覇行きの飛行機は、北の方角から徐々にその機体を下げていきました。本来であれば、修学旅行シーズンで賑わっているはずの機内は、良い時間のフライトにも関わらず、だいぶ空席が目立ちます。那覇空港に無事到着をし滑走路を走る飛行機の窓から見える自衛隊の基地では、いつもは格納庫にいる様々な飛行機が滑走路脇にスタンバイをしているように見えました。

空港ロビーを出て、今日の宿までタクシーを利用しました。空港を出ると直ぐ左手に那覇港湾施設が見えてきます。広いバックヤードを持つ那覇港では、何日か前までは、米軍がチャーターしたオーストラリアの民間輸送船に軍事物資の積み込み作業が行われていたそうです。その作業ももう既に終了したのか、今や閑散としたコンクリートの広場が広がっているだけです。宿に荷物を置き、那覇の市内を散策しました。確かに、いつもとは違う静けさが街全体に漂っているようです。いつもなら、修学旅行客や地元の人たちでごったがえしている国際通りやパレット久茂地のデパートなども今一つの人出でした。パレット久茂地の本屋さんで行っていた県産本展をゆっくり見、いつも那覇に来たら立ち寄ることにしているいくつかのお店を回って、明日の嘉手納基地の視察に備え、早めの帰宿をしました。
                          KAN
【嘉手納基地概要】
(Kadena Air Base)

1.所在地
嘉手納町・沖縄市・北谷町・那覇市
2.面積
19,953千u
3.地主数
7,179人
4.年間賃借料
200億3千3百万円
5.主要建物及び工作物
建物:司令部事務所・管制塔・ターミナルビル・格納庫・兵舎・住宅・学校・教会・劇場・銀行・消防署・診療所等
工作物:滑走路(3,689×91m・3,689×61m)、駐機場、エンジン調整場、消音装置(F−15・KC−135・E−3用)、F−15用シェルター
6.基地従業員
MLC1,751人、IHA881人、計2,632人
7.米軍部隊名
管理部隊名:第18航空団
使用部隊名:第18作戦群第18作戦支援中隊、第33救難中隊、第909空中給油中隊、第961空中警戒管制中隊、第12,44,67戦闘機中隊、第623空中管制小隊、第633空輸機動支援中隊、第353特殊作戦群、第82偵察中隊、在沖米艦隊活動司令部、海軍第1哨戒航空団嘉手納分遣隊、その他

         参考資料:「沖縄の米軍基地」沖縄県

【湾岸戦争時の嘉手納基地の仕事】
「砂漠の盾/嵐」作戦
沖縄の米空軍の湾岸危機・湾岸戦争への参加部隊名と人数は、第376戦略航空団(空中給油部隊)170人、第400弾薬整備中隊44名、第603軍事空輸支援群6名、第603空港中隊31名、第603統合航空機整備中隊25名、第603空輸管制中隊19名、第6990電子保安中隊16名、第18戦闘支援航空団6名。  つづく

緊急レポート「沖縄在日米軍・嘉手納空軍基地」−2
【旅の記録】
次の日は、さわやかな秋の1日となりました。日射しは、まだまだ強いのですが、吹く風は、どことなく秋の風となり、南国沖縄とは言え、四季の移り変わりは、確実にあるのです。今日の目的は、極東最大の空軍基地である沖縄嘉手納基地の回りを歩いてゆっくり見ることです。嘉手納基地は資料にもあるようにいくつかの市町にまたがっています。戦前、日本陸軍が使用していた中飛行場を戦後、米軍が占領、拡張して使用しています。一周は約17キロほどで、広さは2007万1952uです。ほぼ東京港区の面積相当です。米軍の軍事行動を前に極東最大の空軍基地は、どのような状況になっているのか、その周辺を探索したいと思いました。

探索のスタート地点を沖縄市にある第2ゲートとしました。那覇から第2ゲートに一番近いと思われる胡屋の十字路をバスでめざしました。那覇からコザに向かう、国道58号線ぞいには次々と米軍の基地が現れます。牧港補給地区、普天間飛行場、キャンプ端慶覧、キャンプ桑江、どの基地もそのゲート付近は、いつもより警備が厳重になっているように感じました。バスで40分ほど走るとコザの街に近づいてきました。まさに、嘉手納基地の基地前街のようのなっているコザは、1970年12月20日の夜、米兵の交通事故がきっかけになって、住民による反米騒動が起こり、米軍人の車だけが、約90台焼きうちされました(コザ反米騒動)。コザの街の中心地に胡屋十字路はあります。嘉手納の第2ゲート前からのびる空港通り(ゲート通り)とゴヤ大通りとが交差をする所です。胡屋のバス停で下車をしました。運賃は後払いです。商店街のアーケードを抜け、空港通りに出ます。この通りには、ライブハウスや輸入雑貨、米軍放出品などを扱う店が並んでいます。復帰前には、米兵を相手にしたAサインバーなどが建ち並び、賑わっていたそうです。今でもその名残りか、横文字を中心とした看板が目につきます。
その空港通りを嘉手納基地の第2ゲートに向かい歩いていきました。第2ゲートの向こうには、統合サービスエリアが広がっています。統合サービスエリアとは、銀行、診療所、売店、保育センター、体育館、郵便局、劇場、図書館などのエリアです。また、ゲートの右側(北側)は、広い住宅地区が広がっています。国体道路を渡ったあたり、沖縄自動車道路の高架線越しに第2ゲートが見えてきます。ベースに入る車の列でしょうか、Yナンバーの米軍関係車両が空港通り沿いにずらっと並んでいます。いつもよりきびしい検問をしているようです。警戒レベルはチャーリーもしくはデルタぐらいだと思われます。高架線の下に土嚢を積み、防弾チョッキでしょうか重装備の女性の兵士が1人監視をしていました。手元にはスチールデジタルカメラが置かれていました。左手の脇には、日本の警察の車両が置かれていました。ゲートの手前では、米兵が車1台、1台丁寧に検察しています。

【嘉手納基地概要】
[施設の現状および任務]
本島中部の嘉手納町、北谷町、沖縄市にまたがるこの施設は、300mのオーバーランをもつA、B2本の滑走路(A=3,689m×91m、B=3,689×61m)を有し、極東で最大かつ最も活発な米空軍基地です。この施設は、第5空軍指揮下の第18航空団のホームベースです。他のテナント部隊の役割と併せて、防空、反撃、空輸、支援、偵察、機体整備等の総合的な場所となっています。第18航空団の主力は第18作戦群です。この部隊は、F−15イーグル戦闘機をそれぞれ18機、有する3個(第12、第44、第67)の戦闘機中隊、E−3Bセントリー機を有する空中警戒管制中隊、KC−135R機を有する空中給油機中隊等からなります。この施設は、北西側の飛行場地区と南東側の居住地区からなります。飛行場地区の滑走路の南東には、空軍駐機場(F−15イーグル戦闘機、HH−60ヘリコプター、HC−130救難機等)があります。         つづく

緊急レポート「沖縄在日米軍・嘉手納空軍基地」−3
【旅の記録】
第2ゲートの様子を垣間見た後、沖縄自動車道路の高架線沿いに左に折れ、第5ゲートをめざしました。少し行くと左手に沖縄市のスポーツ公園が見えてきます。公園で飲み物を調達して、さらに歩き続けました。夏より涼しいとは言え、日頃の運動不足からでしょうか、どっと汗が流れ出ます。右側を併走している沖縄自動車道の高架線は、基地の中に立っているように見えます。高速道路からのテロ攻撃などは想定していないのでしょうか。高架線の向こうには、広々とした芝生の土地が広がっています。基地と街を隔てる金網には、見慣れた警告文が時折、張られています。このあたりから見るかぎりでは、基地内は平穏そうな雰囲気です。

沖縄自動車道が那覇の方に折れるあたり、山内の交差点では、金網ごしのベース内に小学校が見えてきます。大きなグランドもあります。あまり人影は見えません。そうこうしていると第5ゲートが見えてきました。第5ゲートは、開いていないのでしょうか。車通りはありません。警備も第2ゲートのような物々しさがありませんでした。警備の車両が1台、ゲート前に置いてあるだけでした。第5ゲートを通りすぎ坂を登り切った所からは、小径を右に折れ、住宅街の中に入ってみました。
閑静な住宅街のどん詰まりに基地のフェンスが横たわっていました。基地の敷地内に住宅街が楔を打つように隣接しています。どの家も騒音対策でしょうか、がっちりとしたアルミサッシの窓が取り付けられています。フェンスと道路の隙間は、家庭菜園のようになっていました。また、隣接している住宅街にある駐車禁止などの看板は、全て英語で書かれたものばかりです。フェンスの途中あった基地内に入ることができる扉は、鍵がかけられていましたが、基地内に耕作地かお墓でもあるのでしょうか、基地内に入ってよい時間帯の断り書きが書かれていました。フェンスの向こうには、よく手入れがされた芝生が続いています。その向こうに見えている建物は、兵舎か住居でしょうか。その先にある第18支援群は、見えていないようです。


【湾岸戦争時の嘉手納基地の仕事】
「砂漠の盾/嵐」作戦
第18保安警察中隊13名、第18補給中隊9名、第18輸送中隊6名、第6005空軍郵便中隊第2分遣隊3名、第33航空救難中隊3名、第1962通信群2名、合計353名。この中で、最も大きな部隊を派遣したのは、当時戦略空軍に所属していた空中給油部隊でした。総勢で170名の派遣でした。その部隊は、現在第18作戦群の第909空中給油中隊として組織されています。 つづく

緊急レポート「沖縄在日米軍・嘉手納空軍基地」−4
【旅の記録】
住宅街を抜け、少し大きめの通りに出ました。通りに沿って、坂を下っていきます。前方には、広く東シナ海が見えてきました。右手は、道と基地の間に広い谷間が広がっています。遠く道路とは反対側の基地内の嶺には、教会らしき建物が見えます。さらに坂を下っていきますと、広い道路に出ました。道路沿いに砂辺方面へと降りていきました。大きな通りと基地の間は、昔、川が流れていたのでしょうか。せまい谷間になっていました。基地の中側の向こう斜面には、いくつかの亀甲墓が見えています。ちょうど、発掘作業をしているところのようです。発掘の状況からして、古い亀甲墓のようです。谷の斜面を埋めるようにいくつも連なっています。基地の中の遺跡のようです。谷向こうには、貯水池でしょうか広い池も見え隠れしています。一気に坂を下りきると国道58号線にぶつかりました。

国道に突き当たって右に曲がりました。嘉手納基地からの戦闘機等の発着において、騒音被害が大きい砂辺地区です。そうこう思い出しているところ、轟音を立てて、2機のF15イーグルが飛び立っていきました。右手に基地のフェンスをしたがえ、今度は北上していきます。右手のフェンスの中は、遊歩道か何かになっているのでしょうか、散歩をしている人たちをみかけました。何か前方の方が、騒がしくなってきました。嘉手納基地の第1ゲートが見えてきました。
ゲートの入り口手前には、日本の警官が立っています。そして、ゲートへの進入路の入り口には、迷彩服を着た米兵が3名立ち、事前のチェックをしています。やはり、完全装備の他にデジタルカメラを手に持っています。ゲート前は、どこのゲートもYナンバーの軍関係車両が数珠つなぎになっています。基地内に入る車を1台、1台丁寧にチェックをしています。うすぼんやりとゲートを眺めていたら、警官に呼び止められました。ゲートを眺めている人をチェックしているそうです。

そのまま、58号線を渡り、嘉手納の滑走路下に向かって歩いていきました。陽もだいぶ上がり、夏のような日射しが容赦なく降り注ぎます。

【嘉手納基地概要】
滑走路の北西、嘉手納町屋良側は、空軍の大型機や海軍航空施設地域となっています。KC−135空中給油機やP−3Cオライオン対潜哨戒機等の駐機場やエンジンテスト場があります。E−3B空中早期警戒管制機もこの地域に駐留しています。なお、1996年12月2日の沖縄に関する特別行動委員会(SACO)の最終報告において、嘉手納飛行場におけるMC−130航空機を1996年12月末までに、海軍駐機場から主要滑走路の北西すみに移転することが合意されたことに伴い、同年12月中旬までに海軍駐機場から約2,500m離れた滑走路北西側への移転が完了しました。
その他、SACOの最終報告では、海軍の航空機(P−3C)についても、現在の海軍駐機場から、主要滑走路の反対側に移転することが合意されています。 つづき

緊急レポート「沖縄在日米軍・嘉手納空軍基地」−5
【旅の記録】
58号線沿いに少し歩くと、滑走路の真下あたりに出ます。読谷方面を向いて、左の東シナ海側には、芝生の中に台形の小山が並ぶ燃料タンク群があります。右手は、滑走路の東シナ海側の一番はじがあります。滑走路自体は、小高い丘の向こうに隠れ見ることはできません。丘の向こうにC関係の輸送機でしょうか、灰色の尾翼の一部がチラッと見えていました。その時の風向きによって、飛行機の離発着の方向は変わりますが、この時点では、ちょうど、右方向から左方向に向かい離陸をしていました。おそらく、嘉手納所属のF15イーグルでしょうか、2機ごとに海方向に向かって4機ほど、飛び立っていきました。

まさに頭の真上を飛んでいく戦闘機は、まるでおもちゃのジェット機のようで、操縦席に座るパイロットの影も見えるようです。戦闘機が通過をした後は、雷のような轟音が襲ってきます。音が去った後も耳に残響音が残ります。こうした、滑走路の真下に位置する砂辺の町は、騒音による生活への支障は、容易に想像がつきます。嘉手納のロータリーの方に向かいさらに進みます。滑走路を過ぎ、少し行くと第4ゲートがあります。やはり、ゲートの付近は、警戒もきびしく、フェンスの向こうを巡回の兵士が、トラックで乗り回っていました。嘉手納のロータリーを過ぎ、コザ方面に右折をします。遠ざかっていた滑走路がまた道沿いに見えてきます。見えてくるといっても、今度はフェンスではなく、いかにも分厚そうなコンクリートの塀が延々続きます。日本の思いやり予算によって作られたこのコンクリートの壁を見たとき、毎年見ているベルリンの壁やワルシャワに残るユダヤ人たちを押し込めたゲットーの壁を思い出します。
意味なく作られた強固の壁は、それがコンクリートであれ、レンガであれ、似たような性格を帯びるものなのでしょうか。無機質で陰湿な壁、壁、壁。

道をコザ方面に進んでいきますと、壁と道の間に黙認の耕作地のような部分が発生し、さらに進むとそこが、小高い丘のような場所を作っているところの出ます。その丘の高さは、ちょうど目の前にあるコンクリートの壁を越えるぐらいの高さです。壁ができる前は、もっとよく基地内が見えたそうです。がしかし、広大に広がる嘉手納基地を一望、一望といっても実際に見えているのは、その4分の1ぐらいだそうです。ともかく、2つの滑走路や駐機庫などを見ることができます。この丘のことを、「安保の見える丘」などと呼んでいます。まあ、コンクリートの壁ができてからは、「安保が見えづらくなった丘」などという人もいますけれど。

【湾岸戦争時の嘉手納基地の仕事】
「砂漠の盾/嵐」作戦
次に大きな人員を派遣したのは、第603空輸支援群関係です。総勢で81名の派遣でした。湾岸戦争時では、輸送部隊が各地で動員されたといわれています。彼らは、湾岸地域で空輸作戦に直接従事するための人員として、かり出されたわけです。3番目に多くの人員を派遣した部隊は、第400弾薬整備部隊です。44名が、2160万ポンド(約9800トン)の弾薬や弾薬部品を嘉手納から湾岸に運び、作戦を支援しました。第18保安警察中隊は、13人の滑走路防衛隊をサウジアラビヤに派遣しました。

人数は、少なかったですが特筆すべき部隊の派遣として、第1962通信群(現在の第18通信中隊)からの派遣があげられます。この部隊は、戦略空軍を支援するために派遣を要請されました。50以上のコンピューター端末や各種通信装置の整備の任務にたずさわったといわれていますが、実際は、空爆を行った重爆撃機や給油機の支援が主な仕事であったようです。       つづく

緊急レポート「沖縄在日米軍・嘉手納空軍基地」−6
【旅の記録】
丘の目の前には、2本の滑走路が伸びています。
風向きによって、離発着の方向が変わります。幅の広い北側の滑走路は、05L/23Rと呼ばれ、長さが約3690m、幅が約91mあります。幅の狭い南側の滑走路は、05R/23Lと呼ばれ、長さは同じですが幅は、約61mとなります。どちらも在日米軍最大の滑走路です。おもな施設は、空軍の管理下にありますが、海軍機に対してもサービスをしているそうです。それでは、丘から見える範囲で、ぐるりと基地を見渡してみましょう。見渡すといっても一つ一つの建物や飛行機は豆つぶぐらいにしか見えないので、おおよその配置です。

まずは、丘の右手(西側)を見てましょう。滑走路手前の第4ゲートと挟まれているCエリアと呼ばれている地域です。一番手前右側にあるはずの整備工場は、ちょうど木のかげで見えません。その前は、P3Cや空中給油機の駐機場になっています。何機かの飛行機が連なって駐機中でした。このCエリアは、海軍のP−3Cオライアンのオペレーション区域で、第1哨戒空団沖縄分遣隊、哨戒航空中隊などが使用しています。Cエリアの後ろには、サービスエプロンがあり、その向こうには、海軍の司令部、沖縄海軍基地嘉手納海軍航空基地の施設や本部のあるサンソネ・エリアというのがあるはずですが、見えません。 そのエリアの南の部分に、かつては戦略空軍ならびに戦術空軍の部隊がいましたが、現在は、第909空中給油中隊と第961空中警戒管制中隊が残っていると言われています。
サンソネ・エリアの前(南側)、滑走路をはさんだ前あたりの緑が生い茂ったあたりは、ゴルフ場だと思います。そのわきには、家族住宅地区が広がっているはずです。そして、さらに左手、ちょうど丘から真南方向でしょうか、そこには、第603空輸支援群のANCターミナルなどが見えています。

その左側には、日本の思いやり予算などで作られて、駐機場がづらりと並んでいます。ちょうどのその後ろ側(南側)は、スタート地点であった第2ゲートがあるあたりです。基地のサービスエリアが集中しているのもここあたりです。



さらに目を左の方(北東)に移すと滑走路の東のはじに空軍の主要航空機部隊すべての司令部である第18作戦群司令部と嘉手納の「槍」である第12、44、67戦闘機中隊などの戦闘機部隊のオペレーションビルが見えています。その裏手は広大な家族住宅地域となっています。そして、一周回ってきた、丘の左手、嘉手納基地の北側には、これまた広大な弾薬庫地域が広がっています。そう言えば、弾薬庫地域と滑走路の間には、米軍の住居地域はないです。あたり前か。

【嘉手納基地概要】
嘉手納飛行場における常駐機種
・F−15C イーグル 戦闘機 約54機  つづく

緊急レポート「沖縄在日米軍・嘉手納空軍基地」−7
【旅の記録】
空爆前夜でありながら、思ったより静かな嘉手納基地でした。もう既に開始の準備が整ったということなのでしょうか。まあ、彼らは戦争のプロなわけで、平時からそのための訓練をしているのですから、戦時になったからといって慌てたりしないということなのですね、きっと。後でわかるのですが、この日は、勝連町のホワイトビーチに米軍佐世保基地を母港にする揚陸艦フォートマクヘンリーと掃海艦2隻、そして、横須賀基地に配備されているミサイルフリゲート艦バンデグリフトの計4隻が入港したとのことでした。その後を追うように佐世保基地所属の強襲揚陸艦エセックスと揚陸艦ジャーマンタウンも同ビーチ沖をめざしているそうです。ホワイトビーチに接岸したこれらの揚陸艦は、物資や車両などの積み込み作業が行われているそうです。

こうした動きを見てみるに、坦々といいますか、着々といいますか、マニュアル通りに戦争のための準備は進んでいるわけなのです。嘉手納基地をはじめとする沖縄の米軍基地を見るにわかったことは、実際の攻撃に参加をすることもさることながら、後方支援部隊としての軍事物資や人のバックアップをかなり意識的にしているということです。近代戦争の多くが、いわゆる国家間の総力戦となった意味がよくわかります。今やある限られた地域だけで戦争が行われるのではなく、地球規模での軍事行動が、ある意味一般化していることの表れだと思います。

また、その他の印象としては、ベトナム戦争などのときのように、こうした米軍の戦争準備に対する大衆的な運動は、あるのかないのか、こうして見ているかぎりでは、基地の周辺では、これといった動きは見られませんでした。ということで、駆け足のミニフィールドワークでしたが、皆さんはどうのような感想を持ちましたか?立ち去ろうとしたら急にF15や民間風の輸送機などの発着が多くなってきた嘉手納基地をあとにしました。
【嘉手納基地概要】
嘉手納飛行場における常駐機種
KC135−Rストラトタンカー空中給油機  約15機
E−3Bセントリー    空中早期警戒管制機約 2機
HC−130ハーキュリーズ  救難機    約 5機
MC−130ハーキュリーズ  特殊作戦機  約10機
HH−60ペイブ・ホーク   救難機(ヘリ)約 9機
C−21リアジェット     汎用機    約 4機
C−12ビーチクラフト    輸送機    約 2機
P−3Cオライオン      対潜哨戒機約3〜10機

【湾岸戦争時の嘉手納基地の仕事】
「砂漠の盾/嵐」作戦
嘉手納のE−3空中警戒管制機(AWACS)も湾岸戦争に参加したと理解されていましたが、そうではなかったそうです。さらに、湾岸だけでなく、他の基地に派遣された部隊も多くあったそうです。グアムのアンダーセン空軍基地やニュージャージー州のマウガイヤー空軍基地には、嘉手納から輸送部隊強化のための人員が送りこまれたそうです。


残った部隊の中の後方支援活動で、注目すべきものは、第18補給中隊から供給された200万ドル相当の化学戦争用の防御装置や軍服などの供給事実です。このことによって、嘉手納基地では、常時、化学戦に備えた装備などを準備していることがわかります。

           参考資料:「沖縄の米軍」高文研
                       終わり