※ このレポートは、風の学園の学習の一環として、各ゼミ生が担当をして作成しています。


                              沖縄戦

【沖縄戦関係年表】
[日本全体]
1931年            満州事変…関東軍による満州占領計画が進められる。

1932年            「満州国」建国…日本の満州支配。
1937年            盧溝橋事件…中国大陸における本格的な戦争がはじまる。
        12月      南京大虐殺事件おこる。
1939年            第二次世界大戦…ドイツのポーランド侵入に対し、英仏が宣戦、世界大戦へ発展。
1941年   12月 8日   マレー半島奇襲上陸・真珠湾奇襲攻撃…米英に宣戦。
1945年    3月26日   米軍が慶良間諸島に上陸。
         4月 1日   沖縄島上陸。6月23日、日本軍の組織的抵抗終了。
         8月 6.9日 広島・長崎に原子爆弾投下。
         8月15日   日本の敗戦。
         9月7日    沖縄の日本軍、公式に降伏文書に調印。
1946年            日本と行政分離をされアメリカ軍政下に入る。
1948年            通貨を軍票B円に切り替える。
1949年            本格的な米軍基地の建設が始まる。
1972年    5月15日   沖縄の施政権が日本に返還される。



[沖縄近現代史]
1941年            太平洋戦争始まる。中城湾・西表島船浮に臨時要塞建設。

1942年            ミッドウェー海戦


1944年    3月22日   第32軍新設。

         4月10日   沖縄方面根拠地隊(海軍)新設。
         5月      各地に飛行場建設始まる。
         7月 7日   緊急閣議で老幼婦女子や学童、10万人の本土・台湾疎開決定。
         7月      9師団、24師団、62師団、28師団、
                 独立混成第
44、45、59、60、64、旅団着任、第32軍に編成される。
         8月22日   学童疎開船対馬丸撃沈、学童767人犠牲。
        10月10日   米軍機動部隊艦載機、南西諸島を空襲。那覇は9割が灰燼に帰す。
           12日   台湾沖航空戦。
           18日   大本営、捷号作戦を発動。
           21日   米統合参謀本部、アイスバーグ作戦(沖縄攻略作戦計画)を決定。
           29日   21歳〜45歳の男子を防衛召集。
        11月17日   第9師団の沖縄抽出決定。

1945年    1月 3日   米艦載機による空襲。

           10日   第32軍司令部を首里に移転。
           20日   閣議で、「沖縄県防衛強化実施要網」を決定。
           31日   島田叡知事着任。 この月から17歳〜45歳の男子を防衛召集。    
         2月 3日   県下の中学校・女学校生徒の学徒動員強化される。
            7日   県庁、戦時行政に変える。
            9日   県庁、10万人を国頭に移動すること(山原疎開)を決定。
           14日   天皇の「もう一度戦果をあげて」発言。
           15日   第32軍、軍民に戦闘指針を示達、標語は 「一機一艦船、一艇一船、一人十殺一戦車」
                 県下各市町村単位の「国土防衛義勇隊」が編成される。
         3月 1日   大本営、「天一号」航空作戦を決定。
            5日   県外疎開打ち切られる。
           10日   第32軍、伊江島の飛行場破壊を命令。
           14日   沖縄攻略の米軍機動部隊、ウルシー島を発進。
           17日   硫黄島の守備隊全滅。
           20日   大本営、「当面の作戦計画大網」で沖縄作戦を重視する。
           23日   米軍機動部隊、沖縄本島に爆撃開始。
           24日   この日から各学校の女生徒、陸軍病院や野戦病院へ入隊。
           26日   米軍、慶良間諸島に上陸。「集団死」発生する。
                
 ニミッツ太平洋艦隊指令長官兼南西諸島軍政長官、 海軍軍政府布告第一号を公布。
           29日   米軍機動部隊、沖縄本島へ艦砲射撃を強化。
                 この日から各学校の男生徒、鉄血勤皇隊に編成される。
           30日   米軍、南部港川方面に陽動作戦。
         4月 1日   米軍、沖縄本島に上陸。ニミッツ布告を再公示、
                 日本
政府の沖縄における全権限を停止、占領行政をスタートする。
                 この日、米軍は北・中飛行場を占領。

            3日   米軍、沖縄本島を南北に分断。
            6日   大本営、「菊水作戦」により神風特攻隊・戦艦大和の出撃を命令。
            7日   米軍、名護に侵攻。
            8日   嘉数高地で日米両軍の一進一退の激戦始まる。
                 米軍、中(嘉手納)飛行場の使用開始。
           12日   大本営、「菊水2号作戦」(航空総攻撃)を実施するが失敗。
                 第32軍、飛行場奪回の総攻撃をするが失敗し、「戦略・持久」作戦を堅持。
                 米軍、沖縄本島の最北端辺土岬に侵攻。
           13日   米軍、読谷に軍政本部を設置する。
           15日   石垣島で米軍捕虜3人を処刑。(石垣島事件)
           16日   米軍、伊江島に上陸。国頭支隊、八重岳陣地を放棄。
           18日   米従軍記者アーニー・パイル、伊江島で戦死。
           19日   米軍、首里北方の日本軍陣地に総攻撃を開始する。
           20日   米軍、日本軍の牧港−伊祖防衛ラインを突破する。
           25日   県庁、繁多川の壕に移動。
           27日   「緊急沖縄南部市町村長会議」を開き戦場行政を協議。
                 県庁
は後に、「沖縄県後方指導挺身隊」に改組。
         5月 4日   大本営の、「菊水5号作戦」と連動した第32軍の総攻撃は失敗。
            8日   シュガーローフの攻防戦始まる。
           11日   米軍、首里防衛線に総攻撃。
           21日   那覇に侵攻。
           22日   第32軍司令部、喜屋武半島に撤退を決定。
           24日   義烈空挺部隊、北・中飛行場へ強行着陸攻撃、一時使用不能 にする。
           27日   第32軍司令部、首里を放棄し南風原を経て摩文仁に撤退を開始。
           31日   米軍、首里を占領。
         6月 2日   八重山で住民をマラリアしょうけつ地域へ強制疎開させる。
            3日   「沖縄県後方指導挺身隊」解散。
            4日   第32軍の残存部隊、喜屋武半島への撤退を完了し新配備につく。
                 米軍、小禄半島に上陸する。

            6日   大田海軍司令長官、海軍次官宛てに訣別電報を打つ。
                 最高戦争指導者会議、「本土決戦」の方針を決定する。
           11日   米第10軍司令官バックナー中将、第32軍に降伏勧告状を送る。
           13日   沖縄方面根拠地隊壊滅、大田司令官自決。
           15日   大本営、「天号作戦」を打ち切り、本土決戦の「決号作戦」に変える。
           17日   牛島第32軍司令官、降伏勧告を拒否。
           18日   牛島司令官、参謀次長及び第10軍方面司令官宛てに訣別 電報を打つ。
                 バックナー中将、真栄里付近で戦死。

           19日   牛島司令官、軍命令を発する、組織的戦闘の終了。
           22日   米軍、アイスバーグ作戦の(沖縄攻略)の終結を公式に発表する。
           23日   牛島司令官、長参謀長、摩文仁軍司令部壕で自決。
                 「義勇兵役法」が公布される。
           25日   大本営、沖縄作戦の終結を公表する。
           29日   久米島の海軍守備隊、住民をスパイ容疑で虐殺。
           30日   米軍、沖縄本島南部の掃討戦終了。
         7月 2日   北部地区の護郷隊解散。
           17日   ポツダム会談
           26日   ポツダム宣言
         8月 4日   米軍、沖縄本島北部の掃討戦を終了。
            6日   広島に原爆投下される。
            9日   長崎に原爆投下される。
           15日   天皇、終戦詔書を放送。石川収容所に沖縄県民代表集まり諮詢会設立について協議する。
           20日   国頭支隊投降。
           24日   渡嘉敷島の赤松隊投降。
           26日   米軍、宮古に進駐。
           29日   真栄里の第32連隊投降。
         9月 2日   日本政府、ミズーリ号上で降伏文書に調印。
            7日   先島・奄美群島の司令官が嘉手納にある米軍司令部で降伏文書に調印する。
        10月 6日   米軍、八重山に進駐。

1946年
         1月29日   GHQ、日本と南西諸島の行政分離を宣言する。

         2月27日   魂魄の搭建立。
         4月      ひめゆりの搭建立。   
             


【体験談】

・洞窟の中(真壁千人壕)

 真壁では千人壕というのがあって、そこに入りました。民間人はいなくて、兵隊だけがたくさん入っていました。そしたらアメリカーに、迫撃砲をうちこまれて、壕のワクがこわされて入り口がふさがれ、出入りができなくなりましたが、アメリカーのために、ここで友だちが1人焼き殺されて死にました。それで、わたしたちは奥に行って、20日ぐらいそこで生活していました。壕の奥は水もありました。負傷者は入り口にいて全滅しましたが、友軍は奥にいました。それから千人壕からちょっとはなれた壕にうつりましたが、そこは民間人も友軍もごっちゃになっていました。大きくて、何百人も入れるので、ずいぶん大ぜいの人がいました。友軍よりも民間の人がずっと多かったんですが、そこで大変なことを見ました。四つか五つになっていたと思いますが、男の子がおりました。その子は、親がいない、といって泣いていました。子どもは入り口のほうにいましたが、壕の上には穴があいていました。そしたら、友軍の兵隊が、「この子の泣き声が敵に聞こえる、泣き声が聞こえたら私たちも大変である。この子をどうしるか、親はいないか…」と言いました。兵隊の声にだれも返事をする人はいません。それで、兵隊たちが中にはいって、殺ったんです。少し明るかったんですね。上に穴があいていたから。連れていって、三角布で首をしめたんです。民間の人はそれを見て、みんな泣いていました。首をしめるのは現に見ましたが、怖かったもんですから、最後まで見ることはできませんでした。
                                       儀間トヨ(当時19才)

・壕追い出しのショック

 戦いに追われて壕を転々とし、心が枯れ木のようになっていました。摩文仁国民学校に友軍が入って来た時は炊き出しをしたり、供出をしたり、徴用にもいって兵隊さん達に協力したつもりだったんですけれども…。首里から敗残兵3名に壕を追い出されたこともありました。自分達を守りに来たと思った兵隊に、こうした仕打ちを受けるとは夢にも思いませんでした。
                                       大屋ミキ(当時30才)
                          
・人間でなくなる日

 日本の兵隊が来て、「ここは何名いるかときいたが」お母さんがあんまり口がきけないもんだから、「フィフィ」と言ったんです。「ハイハイ何ですか」という意味ですが、だが、すぐ斬ったらしいですね。首がユキ姉さんのうえにとんでいったので、騒いで、わたしのすぐ下の妹が弟をおんぶしてですね、逃げて、わたしのところへ行こうとしているとちゅうで、前新川小の門の内にひっぱられてですね、弟をおんぶしている妹を刺したから、妹は手をはなしたらしいんです。妹のほうはですね、三ヵ所刺されていまして、腸があちらからも出てこちらからも出ていましたが、弟のほうは、うんと強く刺されて、長く切ってですね、これは腸がばらばらに出ておったんですが、早く死にました。
 2人があんまり水をほしがったので、水を汲みにでかけました。わたしはその時末の弟と与那城の子と三人が、道にそったところに並んで死んでいるのを見ました。2人とも大きく腹を切られたとみえて、腸や胃などが、ぜんぶ出ていました。また水汲みに行きますとき、ユキさんたちのお父さんはガジマルの木によりかかって、あぐらをかいて、坐ったまま首を斬られて、お金こんなに抱いて、首もこんなに抱いて、こんなにして。わたしは、「ハッサミョー!おとうさん、ここでやられたたんですね」と言っただけで、もうどうすることもできません。銀バエがたくさんおとうさんにたかっていましたですね。             
 井戸まで行ったら、この井戸のそばの道に幸重さんがねておったですよ。「もうあんたも亡くなりましたね」と、もうそれだけです。妹と弟は、1人は四時間、1人は三時間生きていました。水を飲まして、2人手をにぎって、もう死ぬまえガチガチガチガチふるえてですね、「姉さんはどうするつもりね」と言うので、「姉さんも追っていくから何も心配しないで楽になりなさいね」と言って寝かしたんですが、1人はあんまり苦しがってですね、ガチガチしながら大きな声をだして泣いて、死んだんですよ。
                          
                                       前田ハル(当時19才)

日本兵に壕から追い出された住民

マヤー壕にいた時は、夜になってから家へ帰って炊事をして、よかったわけですが、そこへ兵隊さんが軍刀を抜き、振りかざして3回も来ておったんですよ。この陣地はわたしらが使うから地方住民は出なさいといってですね、まあ2回までは頑張って、出たら死ぬからといって、畳を持って来て、口を塞いでですね、そうしたら後になったらこの畳も兵隊さんが軍刀で切りさばいてですね、もう酷いこと、地方民を圧迫してですね、それでみんな出たですよ。そこを出たら、アメリカの飛行機は低空でですね、非常に危なかったんですよ。でも仕方ないですから、アダン葉の下に穴を掘っていたんですよ。

                                      「沖縄県史」(第9巻)より


【感想】
 日本兵によって殺された人がたくさんいて驚きました。
                                          00年度生 E・I

              
            参考文献 「歩く・みる・考える沖縄」沖縄県高教組南部支部 平和教育研究委員会編