※ このレポートは、風の学園の学習の一環として、各ゼミ生が担当をして作成しています。 読谷村概況 |
【いろいろな数字】 面積 35.17ku(1999年)(S36までは34.50) 人口 34,206人(1995年)(2000年は32,913人) 那覇市 38.73ku 人口301,928人 茅ヶ崎市(神奈川県の私の街) 35.71ku 人口212,944人 [位置] 極東127度47分17秒 読谷村、恩納村、沖縄市の境界 極西127度42分47秒 残波岬 極南 26度21分27秒 渡具知地先 極北 26度26分16秒 残破岬 [人口密度]863人/1ku[死亡]1人/2.7日[結婚]1組/2日 [人口]4.0人/1世帯[出生]1.2人/1日[離婚]1件/7.3日 [交通事故]1件/6日[水道]303l/1日1人[火災]1件/52日 [教育]生徒24人/教師1人[犯罪]1件/6日[緊急出動]1.3件/1日 [ゴミ]4.4kg/1世帯1日[村税負担*] 28,833円/1人 [予算*]157,268/1人[転入]3.7人/1日[転出]3.3人/1日 [商店]1/17世帯[村職員(行政)]1人/104人 * S55 それ以外はS61年 S60.3 面積内訳(S60年) 雑種地 64.3% 田・畑 10.4% 宅地 9.8% 原野 5.7% その他 9.8% 基地(米軍) 47.8%(1,649ha) 面積(ha) 村の比(%) 瀬名波通信基地 61 1.8 嘉手納弾薬庫 1,145 33.2 楚辺通信所 54 1.6 読谷補助飛行場 191 5.5 トリィ通信基地 198 5.7 [村内の道路状況] 国道 7,652m 県道 12,160m 村道 57,077m 【1口ガイド】 [ガイドブックからの抜粋] ・恩納海岸の南端に位置する。 ・貝塚の移籍が発見されるように、古代から文化が栄える。 ・座喜味城を中心とするなだらかな丘陸地。 ・那覇の壷屋から移ってきた焼物の里がある。 ・読谷山花織(ユンタンジャハナウイ)や喜名焼の伝統工芸が盛ん。 ・丘陸地の先端にあたる残波岬は豪快な景勝地。 ・付近はホテル、公園、ゴルフ場などリゾート。 [遺跡] ・大当原貝塚(ウフトーバルイセキ)・読谷村の通屋部落。北西部の波食崖を埋積する砂丘地の立地。 ・赤犬子遺跡(アカインコイセキ)・飛行場の西南端及び隣接する琉球石灰岩段丘面上の数地点の遺跡群。 [主な見所] ・座喜味城跡 ・やちむんの里(焼物) ゆんたんじゃやきの祭が12月下旬にある。 ・万座毛岬 ・赤犬子宮(アカインコ)(赤犬子=琉球音楽の租と言われる。約400年位前の人) [地勢] ・国道58号線を境にして東は海抜200mの読谷山岳を頂点に南におおむね緩やかな丘陸傾斜地となり、西は焼く130mの座喜味城跡を頂点にカルスト台地(石灰岩台地)が広がり、段丘をもって海岸に続いている。 ・地質的には水の作用でできた地層の琉球石灰第四紀層の血に白亜紀層からなっており、主として珊瑚石灰岩を母岩とする壌土などである。 ・また川沿いの長浜の東表原、萩、川原、高志保の与比原の一部、座喜味の前田原には沖積層が見られる。 [気候(本島)] ・亜熱帯海洋性気候と、東アジア季節風帯に属する。 冬は北東の季節風が吹き、強いあられがまじることもある。(本土は北西風) 夏は南東のモンスーン。 ・一年中亜熱帯性の花が見られ、1月に桜が咲く。 ・「台風銀座」と呼ばれる程台風が多い。 ・開発などによる赤土の影響で、海底まで見えた残波岬も今では数メートルの底しか見えない。 A.I. 【読谷の沖縄戦】 ・ 1945年4月1日、米軍は読谷村を吹く海岸線に上陸した。米軍はここを上陸するのに選んだのは、大軍が一緒に上陸するのに最適な海岸で、北(読谷)、中(嘉手納)飛行場を占領できる好位置であったため。 上陸前に米軍は一斉射撃を行った。 米軍は上陸は、大変な激戦になると考えていたが、日本軍の反撃はほとんどなく、米軍は午前中に北、中飛行場を占領した。同日中に村内全域が占領された。 ・ 読谷村波平にあるガマに避難していた住民は、上陸した米軍に包囲され、三日目には集団自決した、それでも死にきれないものは米軍に救出された。自決の壕は村内だけで、3、4ヶ所ある。一方像のオリと呼ばれるレーダー基地のそばにあるガマに避難していた住民は、米軍に降伏して生還している。 ・ 読谷飛行場は1944年ごろから住民を根こそぎ動員して、日本軍によって建設され、同年秋頃に完成した。しかし軍の都合により放棄されてしまった。そのため飛行場としてではなく、模擬飛行機を置いて敵の目をあざむくのに使われた。そして米軍にたちまち占領され、米軍に利用された。 ・ 戦時中は、飛行場が日本軍の特攻機用の基地としてに利用されると同時に海岸には、海上特攻艇の基地ができた。ここは日本軍にとっても重要な地点で、海上艇進隊が配置された。特攻艇を秘匿する壕は1944年暮れから作られた。特攻艇を使った戦法は敵艇に体当たりするのに等しかったらしい。1945年3月29日深夜に17隻の特攻艇が出撃した。戦果は不明だが米軍側の記録にはさしたる被害は見られない。海上挺進隊は鹿児島県などにも配置されていた。しかしこの作戦はほとんど効果がなかったのは、読谷海岸で証明された。 ・占領後村内に米軍基地が建設された。(嘉手納弾薬庫地区読谷補助飛行場、トリィ通信施設など) O.T. 【読谷と基地】 [概史] 太平洋戦争中の1943年夏から44年にかけて、日本軍が陸軍北飛行場を建設する。 45年4月1日、米軍は、上陸したその日に北飛行場を確保し、滑走路を補修、整備して、戦争終了後も飛行場として使用する。米軍占領時において、村土面積の9割方を接収されるが、山内徳心前村長を中心にして基地の返還運動を村民あげ推進した結果、その占有率は、いまや約45%までになった。 [今現在残っている基地] 1.瀬名波通信施設 61.3ha 2.嘉手納基地弾薬庫 1.066.0ha 3.礎辺通信施設(ゾウのオリ) 53.5ha 4.読谷補助飛行場 190.6ha 5.トリイ通信施設 194.6ha 6.その他 2.0ha 合計 1.568.0ha [各基地の用途等] 1.FBIS(海外放送情報サービス)の基地として知られている。 周辺諸国の放送電波やファクシミリで送られる新聞紙面などを傍受していると言われている。トリイ通信施設への移設を条件にして返還されることが決まっている。 2.嘉手納基地の北側にある。復帰前は、核兵器や毒ガス兵器が貯蔵されていたこともあり、いまでも核貯蔵の疑惑が絶えない施設である。いくつかの市町村にまたがるこの基地の総面積は、約2876万9000平方メートルで、アメリカ空軍、海兵隊、海軍が使用するミサイルなどの兵器弾薬が点在している。沖縄に駐在する部隊への弾薬だけでなく西太平洋全域で活動する米軍への弾薬補給センターにもなっている。1969年には、毒ガス兵器が貯蔵されていることが発覚し、撤去運動によって、1971年に撤去されたと言われている。 3.一部用地の使用期限切れに伴う、「不法占拠」で全国に知られるようになった。 オリ状の巨大な鉄塔が立ち並んでいることから、「象のオリ」と呼ばれている。航空機や船舶などの更新に使われる長距離通信用の電波を傍受する施設である。キャンプハンセンへの移設を条件に返還されることになっている。現在は、民間のコンピューターエンジニヤたちによって運営されている模様。 4.村の中央部、標高70メートル前後の平坦なカルスト台地にある。面積約190万平方メートル。長い間、米軍のパラシュート降下訓練場として使用されてきた。1965年には、落下傘にとりつけたトレーラーが目標地点を外れ、近くで遊んでいた児童が死亡するという事件が起きている。今現在、返還されることが決まっているので、飛行場内に村役場等が建っている。 5.読谷村の西側、東シナ海に面している。冷戦時代は、アジアの社会主義国をにらんだ「情報収集の一大拠点」であった。国家安全保障局(NSA)の活動拠点としても知られていた。80年代中盤よりは、アメリカ陸軍特殊部隊(グリーン・ベレー)も配備されている。ゲリラ活動など特殊任務を遂行する沖縄のグリーン・ベレーは、日本に駐屯するアメリカ陸軍の中で唯一の戦闘部隊である。トリイ通信施設には、在沖アメリカ陸軍司令部も置かれている。 [村の歳入と基地関係収入との関係] 平成11年度 全歳入 13,008,932千円 基地関係収入 1.防衛施設周辺の生活環境等に関する法律 246,564千円 2.基地交付金 236,663千円 3.防音事業関連維持費補助金 40,982千円 4.施設区域取得事務委託金 500千円 5.財産運用収入(基地関係のみ) 529,367千円 合計 1,054,076千円 (歳入総額に占める割合=8.1%) K.Y. 【読谷村の産業】 <生産物> [工芸品] やちむん ガラス工芸 花織 [農産物] サトウキビ 紅芋 キク [畜産] 豚 鶏(卵)ヤギ 馬 肉用・乳用牛 [漁業] タイ類 ハタ類 他 [工芸品] <やちむん> 読谷村には現在、40名余りの陶工が工房をかまえ、33の窯元があり、約20億円の収入をあげている。 陶工の中には金城次郎氏や、大嶺實清氏、またガラス工芸の第一人者、稲嶺盛吉氏なども村外から集められた。現在やむちんの沖縄最大級の生産の場となっており「やむちんの里」とも呼ばれている。 <花織> 読谷の花織は「読谷山花織」(ヨミタンザハナウイ)とかつてよばれ、現在も織られている花織のことである。 村内には3つの工房と花織センターという施設があり、116名の組合員を抱えている。 [漁業] <全般> 漁業量は年をおって、ほぼ減少傾向。 タイ・ハタ類などが多い。(ただし昭和59年までのデータ) [農産物] <サトウキビ> 作付面積、生産農家ともに上昇傾向。ただし、キクの生産が増す事によって、生産の第一 位であったサトウキビと入れ替わっている。基地の返還や米軍の容認によって生産が増し ているのかもしれない。 <紅芋> 独自の改良を重ねる事によって、特産品になるに至った。加工品も生産している。 [畜産] <全般> 農家の数自体は減少傾向にあるが、家畜の頭数にかぎっては増えている部門もある。 極端な例としては、農家の数が約1/14になっていながらも生産量が50%近く増して いるものもある。(鶏・豚などがその傾向にある)ヤギ・馬は減少。 H.T. 【読谷村の文化】 ・ 読谷村は600年以上昔、琉球の人々が異国との交易を行っていた所で、これによって北の国、南の国の船を受け入れ、豊かな文物の交流に潤い、富の恩沢を受けたと伝えられている。 ・ 読谷村は「ユンタンザー」という品種のサトウキビや「ユンタンザコーヂャ」という米などをもたらした。 ・「ユンタンザー」:「シマウージ」ともいわれ、茎が竹のように細く、固く強靭な根を張るサトウキビ。このサトウキビは、その名称が示すとおり、※「ユンタンザマジリ」からもたらされた物で、昔の沖縄のサトウキビはもっぱらこれであった。 ・「ユンタンザコーヂャ」:「コーヂャグミ」(コーヂャ米)とも呼ばれ、稲穂の先に長い禾(のぎ)を付けた米。なお当時すでに新種がそれにとって代わり、殆ど「コーヂャ米」は栽培されなかった。 ※ 昔は読谷村のことを「読谷山」と書いて「ユンタンザ」と呼んでいた。また、「マジリ」は「間切り」の事で今の村にあたる。 ・ 読谷村には、美しい色合いの模様をちりばめた「読谷山花織」や、シャム南蛮をほうふつさせる「喜名焼」などがある。 「読谷山花織」(ユンタンザハナウイ):冬の着物で、袷(あわせ)に仕立てなければならない織りである。伝統的な物では、黒に近い藍の地色を主体に、何色かを使ったタテ系で縞や格子を織り、艶のあるヨコ系で「花ぐあ」と呼ばれる点を浮かせ模様を織り出している。 ※ 読谷山花織は、戦後技法を知る織り手もなくなり一度ほろび去り、幻となっていたが、與那嶺貞(よなみねさだ)によって再び復元された。(與那嶺貞は、1999年5月21日文化財保護審議会によって。重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定するよう有馬文相に答申された。これは、復元に成功した日から実に40年近く過ぎてからの事である。) ・「喜名焼」:喜名という部落で焼かれたもので、300年以上も前から作られていたと言われている。また、壷屋の親元であるとも言われ、今はなくなった読谷窯がそのまま、那覇の壷屋移っていたとも考えられている。 ・ 読谷村の文化は「コーヂャ米」や「ユンタンザー」や「読谷山花織」、「喜名焼」など小規模ながら特異な文化圏に形成していたように思われる。読谷村文化の特徴を一口に言うと南方的性格を濃く持っているということにあたる。そしてこれは、昔の沖縄の貧しい固有の文化にどれほど生彩を与え、また賦活したか、琉球文化を知る上でも重要な存在だと思われる。 T.K. |