フィールドワークベトナム2000

 1月31日
 さあ、今日からは、海外特派員企画第2弾。
 フィールドワークベトナム編です。
 風にあるフィールドワーク3部作の中の最
 後の地、そこが、ベトナムです。
 風が行っているフィールドワークは、春の
 沖縄からはじまり、秋のアウシュビッツ、
 そして、冬のベトナムと言う3部作になっ
 ています。1年間を通して、参加をする人
 は少ないですが、皆さんも機会があれば、
 1年に1回の割合でも、役に立つと思いま
 すので、奮って参加をしてください。
 参加募集要項はその都度、発表していきま
 す。

 なぜ、この3ヶ所が私たちの学校にとって、
 3部作なのかと言うと、私たちの学校のテ
 ーマが、「平和」であったり、「自由」で
 あったりすることと関係しています。深い
 ところまで説明をすると時間がかってしま
 うので、肝心なところだけ説明をしますと、
 世界において、この3ヶ所は、自分たち自
 身の意志とは関係のないところの意志にお
 いて、人間としての自由を奪われた経験が
 あるところです。しかし、最終的には、そ
 こに住む人たちが自らの手によって、自由
 を奪い返し、人のこころの自由までは権力
 や、外的力では奪えないといいうことを証
 明しました。

 こうした経験を持つ場所に、学校として出
 て行き、そこに住んでいる人たちの視点に
 立ち、生活の中に染み込んだ、自由や平和
 の意志を嗅ぐことはとても重要なことと思
 っているのです。と言うことで、アウシュ
 ビッツからの試みではありますが、そんな
 現場での匂いを少しでも共有化できたらよ
 と、現地からのレポートをしていきたいと
 思います。通信状況などによって、途切れ
 ることあるかもしれませんが、できる限り
 努力をしますので、ご期待を。
 尚、現地でこんなことをリサーチしてもら
 いたいとか、ここははずさずに取材をして
 もらいたいとか言うことありましたら、遠
 慮なくご希望をお寄せください。実現でき
 るよう最大限の努力をさせてもらいます。

 さて、私たちを乗せた、ベトナム航空機は、
 北風吹く日本を後に一路、インドシナ半島
 へと飛び立ったのでした。日本からの飛行
 時間は、約6時間で、ベトナムの商業の中
 心地であるホーチミン市に到着します。ホ
 ーチミン市はその昔、その名をサイゴンと
 言いました。昔の人は、サイゴンと言う名
 の方が、記憶にあるかとは思います。

 ベトナム自身の首都は、北にあるハノイと
 いう街ですが、今回のフィールドワークは、
 南の中心地であるホーチミンを中心に活動
 をすることになりました。今は、冬とは言
 え、赤道に近い南ベトナムは、日本の夏相
 当です。気温的には、毎日、30度近くま
 で温度が跳ね上がります。飛行機のタラッ
 プを降りると、私たちを迎えるのは、その
 南国特有のまったりとした空気です。冬の
 肌をしていた私たちにとって、一気にその
 毛穴を拡張させる熱気は、想像をはるかに
 超えます。そして、次に私たちを襲ってく
 るのは、あのヌックマムの匂いです。ヌッ
 クマムとは、魚で作った醤油です。その特
 有な匂いは、私たちの鼻に忘れていた、昔
 の日本の空気を思い起こさせます。そして、
 私の視覚に訴えるものとして、ベトナム女
 性たちがまとっているアオザイと言う民族
 衣装です。空港の女性職員は全員、このア
 オザイという衣装を身に付けています。チ
 ャイナドレスをワンピースのようにし。サ
 イドに腰のあたりまで、スリットを入れ、
 下に白いパンタロンをはきます。風に吹か
 れながら歩く、彼女たちの姿は、遠くから
 見るとまるで、蝶が、街に舞っているよう
 な、あでやかさを感じさせます。
 
 世界の中で数が少なくなった社会主義国の
 一つであるベトナム、なかなか鋭い目をし
 た、入国管理官のチックを受けて、私たち
 は、ホーチミンの市街へと足を踏み入れる
 ことになるわけです。
 
 私たちの目に最初に飛び込んでくるホーチ
 ミンの姿は?

 と言うことで、実際の紀行報告と同時に、
 ベトナムという国を語るには、やはり、ベ
 トナムという国の歴史を語らなくてはなら
 ないと思います。

 初日の今日はこの辺にして、明日から、毎
 日の紀行レポートと同時に、ベトナムとい
 う国の歴史や生活などについても話しをし
 ていきたいと思います。

 【おたより・学習記録コーナー】
 当然、おたよりにも答えていきますが、こ
 の間、ちょっとせわしいので、控えめにや
 らさせてください。材料はいろいろ持って
 来ているのですが。

             タンビエット!

 2月1日
 こちらベトナムでは、毎日、毎日、大学の
 特設クラスに入れられて、ベトナム語の特
 訓を受けていますが、頭の固くなってしま
 っている私にとっては、馬の耳に念仏、豆
 腐にかすがい状態であります。若者たちの
 吸収力は目を見張るものがありまして、大
 学の先生の指導にも力が入っています。
 ひじょーにきびしい!!!私にとっては。


 さて、今日は、ベトナムの歴史をば少々、
 ベトナムという国は、インドシナ半島の東
 側に南北に細長く伸びた国です。面積は九
 州を除いた、日本の面積とだいたい同じぐ
 らいです。南北に細長いので、北は亜熱帯
 気候で、微妙に四季があり、南は、熱帯モ
 ンスーン気候で、乾季と雨季の二つのシー
 ズンしかありません。今、私たちは、その
 南部にあるホーチミンという都市に滞在し
 ているわけです。

 このベトナムという国は、ある意味、日本
 とよく似た部分を歴史の中でも持っていま
 す。それは、時代的には、13世紀ぐらい
 までの間です。それまでは、日本と同じよ
 うに中国という国の支配権の中から独立を
 試みていた時代です。当時の中国は、自分
 の回りの小国たちを国と認めるかわりに、
 自分たちのグループの一員と位置づけまし
 た。
 
 最初のうちは、中国のまねをして、国の制
 度や生活基盤を作ってきた、日本やベトナ
 ムは、ある程度、国の力がついてきたとこ
 ろで、中国と対等な関係を望み、中国の影
 響下から離脱を試みます。ベトナムの場合、
 15世紀頃までには、こうした試みが終わ
 りに近づき、一つの国として、独立をして
 いく方向になっていきます。
 
 15世紀以降は、ある程度、国としての体
 をなしていくのですが、内乱が続き、なか
 なか、正規なかたちの独立というところま
 でいきません。そんな中、代々のベトナム
 王朝は、国の統一のために、中国をはじめ
 とする大国に力を借りることになります。
 ベトナム最後の王朝と言われている、グエ
 ン朝は、その統一の力を当時、ヨーロッパ
 において、植民地政策をとっていた、フラ
 ンスという国に力を借りてしまいます。フ
 ランスは、ベトナムに大きな影響を与えて
 いた中国をけんせいしつつ、うまくベトナ
 ムに取り込みます。結果として、フランス
 は、19世紀後半には、ベトナムの植民地
 化に成功をします。ここに、ベトナム、ラ
 オス、カンボジアの3国をまとめた形の仏
 領インドシナが成立するのです。


 ここから、いわゆるベトナムの独立のため
 の戦いというものが起こるわけなのです。
 ベトナムにおける、独立のための戦いは、
 現代まで入れるとすると、4つの段階に分
 けられると思います。
 1.植民地政策フランスからの独立のため
   の戦い。
 2.日本の占領からの独立の戦い。
 3.第2次世界大戦後の大国からの干渉か
   ら独立するための戦い。(特に、前半
   はフランス、後半はアメリカ)
 4.中国などの干渉から独立するための戦
   い。
 ということで、19世紀以降のベトナムと
 いう国の歴史は、国の独立のための戦いの
 歴史であると言っても過言ではないと思い
 ます。そこで、今日は、1の植民地政策フ
 ランスからの独立のための戦いの歴史につ
 いて、少し話しをしましょう。そのために
 は、19世紀以降のヨーロッパの国々につ
 いて少し、解説を加えなければいけないと
 思います。19世紀の後半から、20世紀
 にかけて、ヨーロッパではいわゆる産業革
 命なるものが次々に起こります。この産業
 革命とは、それまでは、工業と言えば、い
 わゆる家内制手工業であったものから、蒸
 気機関などを利用した大規模でかつ合理的
 な工業に転換をはかったことを意味してい
 ました。結果として、イギリスをはじめと
 するヨーロッパの各国は、飛躍的にいろい
 ろな品物の生産力を向上させることになり
 ます。ヨーロッパで最初に産業革命を完成
 させたイギリスという国は、一気に高まっ
 た工業生産能力によって、国内の需要だけ
 では消費しきれなくなった生産物を国外で
 も売りさばこうとします。同時に、その生
 産に必要な原料などの供給も海外にもとめ
 ようとします。
 
 とは言うものの外国の国に自国の製品や原
 材料を優先的に自分の国だけに輸出入させ
 るのはなかなか難しいことです。相手の国
 の状況というものを無視はできないからで
 す。そこで、そうした状況に追随をしたヨ
 ーロッパの国々たちは、軍事力を背景にし
 て、力づくでこうした関係を作ろうとしま
 した。これが、帝国主義と言うやつです。
 しかしながら、国の力が安定している国が
 相手では、多少の軍事力による脅かしでは、
 うまくいきません。そうした中、ヨーロッ
 パの帝国主義の多くの国が目をつけたのは、
 まだ、国の体制が未発達な不安な状態の国
 々でした。

 ヨーロッパのこうした政策に対して、国と
 しての強固な抵抗力のなかったアジアやア
 フリカの国々は、ヨーロッパ諸国の軍事力
 による脅かしの前には、歯が立たず、次々
 に不平等な条約を結ばれ、統治国のあやつ
 り人形になっていってしまったのです。こ
 うした不平等な関係を作られてしまった国
 を植民地と言い、こうした政策を植民地政
 策といます。

 植民地化された国では、統治国の生産物を
 低い関税率で輸入をさせられたり、また、
 逆に統治国に安い価格で原材料や労働力を
 提供させられました。こうした状況が長く
 続くと、植民地では、自分の国に技術力や
 生産力が育たなくなるので、ますます、統
 治国に依存をせざるを得ない状況になって
 いったのです。

 こうした時代背景の中、イギリスより多少
 遅れて、近代化を完成したフランスは、イ
 ンドシナ半島、中でも文化水準が高く、天
 然資源の豊富なベトナムという国に目をつ
 けていたのです。文化水準が高いというこ
 とは、植民地の管理を任せられるというこ
 とであり、米や天然ゴムなどが豊富に取れ
 るということはそれだけ、安く原料を手に
 入れることが可能だということです。

 だいぶ、書いてしまいましたので、実際の
 歴史は明日にします。

 【おたより・学習記録コーナー】
 さっそく、ベトナムフィールドワークに対
 するいろいろなおたよりが、寄せられてい
 ます。特にベトナムという国が、社会主義
 という政策をとっているという国だけに社
 会の仕組みについての質問を多くいただき
 ました。各項目についての調査を開始した
 いと思います。わかり次第報告しますので、
 質問をしてくれた人、楽しみにしていてく
 ださい。
 
 では、今日はこのへんで。
 ゲー!これからベトナム語の復習だ。
                KAN

 2月2日 
 今日もハードワークでした。
 朝8時から夕方の5時30分まで、1日ベ
 トナム語のあらし。シン・チャオからはじ
 まり、タンビェットまで、まるで、語学学
 校の生徒になったような感じです。先生は
 二人いらっしゃっていて、女性の先生はハ
 イ先生と言い日本留学の経験もある、この
 道、30年のベテラン先生と男性の先生は、
 今年日本に留学予定のアジア学専攻のベト
 ナム語の専門家です。30代の若手研究家
 のキン先生です。ともかく形になればうれ
 しいかぎりです。

 さて、昨日の話しの続きです。昨日は、ア
 ジアの国々が、欧米諸国の植民地にされて
 いった背景について解説をしました。アジ
 アの国の中にあって、ベトナムという国は、
 フランスという国の植民地にされたことを
 話しました。1800年代の後半にベトナ
 ムを植民地化したフランスが最初にしたこ
 とは、今現在の首都でもある北ベトナムの
 ハノイに大学を作ることでした。ここで、
 大学などの教育を通じて、ベトナム人のフ
 ランス化を推し進めます。こうした試みは、
 フランスだけに限ったことではありません
 が、植民地の管理をするのは、外国人であ
 る統治国がするより、現地の人間にやらせ
 る方が地元での反発が少ないため、あえて、
 ベトナム人をフランス化させることによっ
 て、インドシナ領全体の管理をさせようと
 したのです。こうした、ベトナム人のフラ
 ンス化政策は、ある一面成功をします。欧
 米文化を信奉した層をつくり出すことに成
 功するわけです。このグループの人たちは、
 どちらかというと自分たちの過去の文化な
 どを否定し、西洋の新しいといわれている
 文化などを積極的に取り入れようとしたグ
 ループです。そして、この人たちは、昔の
 時代に戻るくらいなら、フランス式文化を
 取り入れ、欧米的近代化を進めていった方
 がよいとした人たちでもありました。

 ベトナム人のフランス化は、一方では、も
 う一つの流れを作ります。それは、欧米な
 どの学問を学んだり、触れたりする機会が
 多くなった一部のベトナム人たちに、祖国
 に対するアイデンティティー確立の意識を
 呼び起こさせることになるのです。

 この時期、そうしたベトナムという自国に
 対して、強烈な愛国心を育てた、後にリー
 ダーになる人の一人にホー・チ・ミンとい
 う人がいます。彼は、当時、フランスやイ
 ギリスやアメリカなどの文化や社会に触れ
 る機会を得て、時はおりしも第1次世界大
 戦が終わったばかりの頃の世界の民族自決
 運動を目のあたりに見、祖国ベトナムがい
 まだにフランスの植民地でありつづけてい
 ることにおおいに疑問を持つのでした。
 
 船員の経験を持つ彼は、世界の各地で見聞
 を広めたあと、フランスに腰を据えて祖国
 独立のための運動に着手します。特に自分
 たちの独立運動の理論的な柱を模索してい
 た彼は、1917年にヨーロッパで起きる
 ロシア革命、そして、その指導者であった、
 レーニンという人に強い影響を受けます。
 レーニンの唱えた提言の中でも、ヨーロッ
 パにおいては労働者たち、植民地ではそこ
 で生活を営む民族たちが一致団結をして、
 自分たちの権利を回復し、国として独立を
 していくべきだと言う提言に深い感銘をう
 けます。この頃から、ベトナムにおいて、
 社会主義的理論のもとに独立運動をすすめ
 るための活動が、ベトナムの内に芽生えて
 きたグループと国外のグループが連動しな
 がら運動を開始することとなるのです。

 ホー・チ・ミンをリーダーとするグループ
 は、タイや中国などの国外に拠点を作り国
 内の勢力と連絡を取り合いながら独立運動
 をすすめていきます。こうした独立の動き
 に対して、統治国であるフランスは当然の
 ように弾圧を強めます。一時、勢力的に力
 を強めた独立派の人たちもフランスの弾圧
 や路線の対立などの要因で、1930年代
 後半においては、その勢力を弱めてしまい
 ます。このようにして、太平洋戦争を前に
 して、弾圧や路線の失敗により後退をして
 しまった独立派が息を吹き返すには、日本
 の敗戦という日まで待たなければなりませ
 んでした。

 1940年代に入りますと、大東亜共栄圏
 なるものを唱えた日本が、ベトナムの独立
 を助けるという命のもと、ナチスにフラン
 スが敗れたのをきっかけにして、インドシ
 ナ半島を占領します。ベトナムを占領した
 日本は、ナチスに敗れて、親ナチス派が政
 権を握ったフランスをベトナムの統治者と
 して利用しながら二重統治を試みます。こ
 のときベトナムの北部農村地帯では、大不
 作が襲い、日本政府の命令で、作物転換を
 していた北部農家では、大きな損害を出し、
 たくさんのベトナム人の命が奪われます。
 しかし、こうした環境の中、祖国独立のた
 めには、自らの手によって、自由を取り戻
 さなければいないと認識をした多くのベト
 ナム人の人たちが農村地帯を中心にして立
 ち上がり、多くの解放区を手にします。

 1945年になりますと占領国であった日
 本が敗戦をします。この機を逃すまいと独
 立派の人たちは、ハノイを中心に独立のの
 ろしをあげます。30数年ぶりに祖国ベト
 ナムに戻った、ホー・チー・ミン氏を中心
 にして、一気に独立へのステップを駆け上
 がります。この動きに水をさす動きが起こ
 ります。それは、本来であれば、日本軍の
 武装排除など戦後のための準備は独立国で
 あるはずのベトナムの人たちが担うはずな
 のに、第2次世界大戦後、すぐに発生する
 冷戦などの影響のため、その力の綱引きが
 ここベトナムにも現れてしまいます。当時
 のソビエト、中国などの東側と呼ばれてい
 た国と旧統治国であったフランスやアメリ
 カ、イギリスなどの西側諸国の干渉です。
 中でも旧統治国であったフランスとそれを
 援助していたアメリカの干渉は目にあまる
 ものでした。フランス軍は、戦前の利権を
 回復するためにベトナムにおいて、軍事的
 活動を強化しました。

 続きは明日。
 【おたより・学習記録コーナー】
 おたよりの中にあった、ベトナムの生活に
 ついて少しレポートしておきます。今、ベ
 トナムは、ようやっと訪れた平和な時間の
 中、一生懸命、ベトナムならではの近代化
 と呼ばれている国づくりをすすめようとし
 ています。


 私たちが、ホーチミン市に足を踏み入れて
 最初に驚くことは、オートバイの多さです。
 今、ベトナムでは、その庶民の足として、
 オートバイがその主たる地位を築いていま
 す。街の道路という道路は、数百台、いや、
 数千台のオートバイによって、埋めつくさ
 れていると言っても過言ではないと思いま
 す。ベトナムにおいて、オートバイの一般
 的な呼称は、「ホンダ」です。
 
 まだ、信号機などの整備が遅れているホー
 チミン市において、こんな状況の道路を横
 断するのは命がけです。私たちの感覚では、
 一気に走って横断をしたいところですが、
 それは逆に危険です。運転手がとっさには
 よけれないからです。したがって、何百台
 もオートバイが走ってくる中を、遠くから
 運転手に認識させるため、あえて、ゆっく
 りとわたらなければいけません。これは、
 かなり勇気がいる行動です。まさに郷に従
 えの手本のような話しです。

 おっと、また、こんな時間に明日のベトナ
 ム語の予習をせねば、今日はこのへんで。
             KAN

 2月3日
 今日もこちらは暑いの一言です。
 朝晩は、サイゴン河から冷風が吹き、だい
 ぶ、しのぎやすくなりますが、まさに夏の
 日の1日という風情です。

 ここベトナムでは、この2月5日が旧暦の
 お正月にあたり、明日がいわゆる大晦日に
 なります。年末の買出しにいろいろな地域
 から人が集まってきて、日に日にホーチミ
 ン市の人の数が増加をしています。まさに、
 街は年末商戦等でごった返している状態で
 す。

 今日で、ハードな語学研修も無事に終わり、
 多少のベトナム語だったら問題なしと言い
 たいところですが、センスがないのか、せ
 いぜい挨拶と数字を覚えた程度でしょうか。

 さて、今日もベトナムという国の歴史につ
 いて、話しを続けましょう。

 第2次世界大戦が終結し、無事に独立を果
 たせそうであったベトナムに対して、旧統
 治国であったフランスは執拗にその権利の
 回復をせまります。なぜ、こうしたフラン
 スの理不尽な政策に対して、国際世論は、
 抗議をしなかったのでしょうか。それは、
 大戦終結と同時に起きたイデオロギー(国
 家や政治の考え方)の違いによる各国の対
 立です。ロシア、中国を中心とする、当時
 の社会主義国とヨーロッパ、アメリカを中
 心とする資本主義国の対立が深刻化します。
 社会主義、資本主義についての説明は、次
 の機会にゆずります。この対立のことを、
 「冷戦」と呼んでいます。

 大戦終結直後のベトナムは、昨日も話しを
 したとおり、社会主義者の指導者であるホ
 ーチミンが独立運動を率いていました。こ
 のことから、西側諸国(資本主義国陣営)
 は、ベトナムの社会主義化を懸念し、また、
 東側諸国(社会主義国陣営)、中でも社会
 主義国になったばかりの中国は、国際社会
 の中での指導的立場を確立するために外交
 パフォーマンスの駒としてベトナムを利用
 しようとします。ホー・チ・ミンはそのこ
 とは十分に理解をしていて、日本の敗戦後
 ただちに臨時政府を樹立するのですが、こ
 の政府は、社会主義者だけの政府にせず、
 多様な層からリーダーを抜擢し、民主的な
 政府を成立さようと努力をします。しかし、
 状況は多勢に無勢で、特に西側陣営は、ア
 ジアに対して利権を保有し続けたかったア
 メリカが中心となり、フランスを後押しす
 る形をとりました。結果として、強行に干
 渉をしつづけるフランスに対して、ベトナ
 ム側は徹底抗戦でのぞみます。その勝敗を
 決定づけたのは、1954年にあったディ
 エンベエンフーの戦いでした。戦力的には
 劣勢であったベトナム軍は、作戦の巧妙さ
 でこの戦いに勝利をし、絶対的に優位な立
 場で、ベトナムの独立を決定づけるジュネ
 ーブ会議へとのぞみます。

 しかし、先ほど書いた国際社会の状況はベ
 トナムにとって不利な状況でした。アメリ
 カを中心とした西側陣営は、あくまでも社
 会主義国であるベトナムの独立を認めよう
 としないばかりか、南のサイゴン(現ホー
 チミン市)に傀儡の南ベトナム政府を作っ
 てしまいます。また、中国を中心とする東
 側陣営も自分たちの国力の発展を優先する
 がゆえ、ベトナムに対してあいまいな立場
 をとることをすすめました。結果として、
 ベトナムの人たちにとってはまったく不本
 意な結果ではありましたが、これ以上戦争
 を続けたくなかったベトナムは暫定案を受
 け入れます。

 北緯17度線を境にして、北ベトナムと南
 ベトナムの地域にわけ、2年後に総選挙に
 よって統一をはかるというものでした。こ
 うした状況の下、西側陣営の国々は、北の
 ベトナム政府を無視して、アメリカなどの
 経済援助によって、作られた南のベトナム
 政府を承認していきます。ここにベトナム
 の人たちの民意を一切反映しない形で、二
 つのベトナムが形成されていくのです。西
 側陣営の諸国は、最初から2つのベトナム
 を認めない立場をとり、唯一、ベトナムを
 代表する政府は南の政府であるという主張
 のもと、約束をした統一選挙も認めないで、
 居座りを続けたわけです。はじめのうちは
 推移を見守っていたベトナムの人たちも一
 向に改善されない情況、むしろ、南の方に
 おいては、アメリカなどの西側陣営の後押
 しによって作られた政府の政策があまりに
 もひどいものになっていったので、真の独
 立を得るためには、自分たち自身の力によ
 って勝ち得なくてはいけないことを決心し
 つつありました。しかし、ここで独立のた
 めの戦いを拡大することは、一つ間違えれ
 ば、世界最大の軍事国であるアメリカとい
 う国を敵にまわすことになるわけで、今ま
 で以上の犠牲が発生することは目に見えて
 いました。

 しかし、南の人たちを中心とした南ベトナ
 ム解放戦線の人たちは、自由を得るための
 独立戦争に挑むことに決めたのです。解放
 戦線側は、ある意味、しろうとの集団だっ
 たにもかかわらず、よく戦い、南ベトナム
 政府軍に対して有利な状況を作りあげてい
 きます。彼らのとった作戦は、徹底したゲ
 リラ戦でした。解放勢力に押され、なおか
 つ、腐敗政治を拡大していった、南ベトナ
 ム政府に対して、その最大の支援国である
 アメリカは、間接支援に見切りをつけて、
 1965年ごろより軍事力を中心とした直
 接支援にのりだすことになるのです。

 アメリカがとったこの軍事的支援は、宣戦
 布告なき戦争と言われています。つまり、
 西側陣営の代表国であったアメリカは、ベ
 トナムの政府は自分たちが承認をした南ベ
 トナム政府しかないという立場をとってい
 たため、内戦の支援という形をとったわけ
 です。そして、戦いの大儀は、「自由を守
 るための戦い」として、ベトナムが社会主
 義化したら、次々とアジアの国は社会主義
 の国になるというドミノ理論などというも
 のを掲げて、各国の理解を求めたのでした。


 ここに、いわゆるベトナム戦争というもの
 が開始されていくのです。しかし、ベトナ
 ムの人たちにとってみれば、長い戦争の一
 部分であったのです。

 ベトナム戦争の話しは、また、明日にまわ
 しましょう。

 【おたより・学習記録コーナー】
 ここでは、昨日の続きで、ベトナムの人た
 ちの生活ぶりについて、話しをしましょう。
 ホーチミンの市街に足を踏み入れるとどき
 もが抜かれるのは、オートバイの多さであ
 るといいました。次に気がつくのは、歩道
 などの上で開店されているいわゆる露天商
 の多さです。中でも一番多いのが、食堂と
 いうか屋台というか、日本で言うところの
 一膳飯屋のたぐいです。その種類も豊富で、
 定食屋からそば屋まで多種多様です。定食
 屋のことをベトナム語でコムといいます。
 また、そば屋は、うどんはフォーといい、
 ラーメンはミーといいます。


 昼の飯時は、どのコムも大繁盛です。まあ、
 厳密に言えば、地元の人に人気のあるとこ
 ろ、つまりおいしいところと今いち、人気
 がないところはありますが、ともかく、歩
 道いっぱいまで、なぜか風呂で使うような
 プラスティックの小さないすにテーブルを
 出し、みんな、かっこよく言えば、オープ
 ンカフェのような状況で飯を食っているの
 です。例えば、定食屋の場合のシステムを
 説明しますと、店の入り口にショウウィン
 ドウのようなガラスのケースがあります。
 その前に立って、かたわらで待ち構えてい
 る、お兄さんかお姉さんに、ケースの中に
 あるおかずを指ししめします。


 おかずの種類は豊富で、肉類は、とり、牛、
 豚、それらが焼肉のたれのようなもので炒
 めあったり、野菜と炒めて、肉野菜炒めに
 なっていたり、肉じゃがのようなものや、
 レーバー炒めや角煮のようになっていたり、
 また、魚もフライや焼き魚みたいになって
 います。その中から、自分の好きなものを
 トッピングし、サイドで漬物など頼みます
 とお皿に山盛りになったご飯の上に、それ
 らのおかずをのせいっちょ出来上がりとい
 う感じで、座った席まで持ってきてくれま
 す。それに、鶏がらなどでだしをとった、
 野菜のスープなどがつき、飲みものもつけ
 て、だいたい10000ドンぐらいです。
 ドンはベトナムの貨幣で、1万円が、約1
 30万ドンぐらいです。1万円両替すると、
 100万円札の束が2つほど重ねたぐらい
 の札束を手にすることができます。つまり、
 10000ドンは、約100円ぐらいとい
 うことになります。定食フルセットで、飲
 み物つけて100円ぐらいというところで
 しょうか。味は、人気のあるコムはどこも
 折り紙つきで、1度食べたら病み付きにな
 ること請け合いです。参加者のM君は1日
 の大部分の飯をコムやそば屋で食べ、1日
 の食費を300円以以下でキープしていま
 す。

 さて、明日はそば屋について話をしましょ
 う。では、また明日。
               KAN

 2月4日
 今日、こちらベトナムは旧正月によるとこ
 ろの大晦日ということになります。
 
 アジアの国々は、旧正月を新年として向か
 える国もまだまだあります。ここベトナム
 では、旧正月のことをテトと呼び、日本の
 新年と同じ、もしくはそれ以上に街は華や
 ぎます。日本の年末と同じように、街には
 新年の品物を求めて、近辺の町や村から多
 くの人たちが集まってきます。ベトナムで
 のお正月商品の中で、特徴的なものは、お
 正月のお飾りでしょうか。日本でいうとこ
 ろの門松に相当するのは、南ベトナムの場
 合、金柑の木です。金柑の実がたくさんな
 っているものほど、価値が高く、街のいろ
 いろなところで、周辺の農家から持ち込ま
 れた、金柑の木が売られています。日本の
 昔の正月風景が見られるような気がしまし
 た。


 さあ、ベトナムの歴史の中で最大の山場、
 それは、やはりアメリカが戦争に参加をし
 たベトナム戦争ということになるでしょう
 か。

 昨日そのさわりの部分まで話しをしました。
 続きを話しましょう。傀儡の南ベトナム政
 府を支援していたアメリカは最初のうちこ
 そ、軍事顧問などという名称で傀儡政府の
 南ベトナム軍の支援をしていました。とこ
 ろが、ゲリラ戦術で徹底抗戦をしてきた解
 放戦線に対して、南ベトナム政府軍は、な
 かなか成果を上げることができませんでし
 た。そうこうしているうちに、昨日も書き
 ましたように、南ベトナム政府が政治的に
 腐敗をしてきてしまいます。南ベトナム市
 民の支持も得られなくなっていってしまい
 ました。そこで、現政権による南ベトナム
 政府の維持をあきらめたアメリカは、南ベ
 トナム政府の大統領を変えると同時に解放
 戦線に対して軍事的優位を作るため、紛争
 介入の糸口を探っていました。
 
 1964年に北ベトナムトンキン湾で起き
 た事件をその口実にして、1965年より
 アメリカ軍の本格的投入がされたわけです。
 投入の理由は、昨日書きましたようにベト
 ナムにおけるアメリカが承認している国が、
 内戦によって干渉されているので、それを
 支援するということと、ドミノ理論の最初
 のスタートラインとして、アジアの社会主
 義化を防ぎ、資本主義国の自由を守るため
 ということになっていました。

 1965年の段階で、アメリカ軍の投入は、
 18万人を越え、以後、66年には48万
 人、そして、最大時には、54万人にまで
 達しました。

 アメリカ軍の正規投入により、戦局が大き
 く変わるかに見えましたが、戦局はアメリ
 カが思っていたほど、南ベトナム軍優位に
 はなりませんでした。それにはいろいろな
 理由がありました。まず、戦略的には、解
 放戦線側が徹底したゲリラ抗戦に出たこと
 です。アメリカ軍の過去の戦いぶりは、沖
 縄戦の時にもわかるように、圧倒的な物量
 によって、その機動力にものをいわせた消
 耗的作戦でした。そのアメリカは、ベトナ
 ムのようなジャングル地帯や山岳地帯での
 局地戦は不得意だったのです。ここらへん
 のイメージは、映画「プラトーン」のイメ
 ージと重なります。機動部隊をうまく生か
 せないアメリカ軍は、しばしば前線に孤立
 し、解放戦線側に包囲されてしまったので
 す。


 
 そして、アメリカと戦うことを決心をした
 ベトナム側は、今までは南の解放戦線が中
 心だった部隊に対し、北の正規軍を投入す
 ることも覚悟したのです。結果として、ア
 メリカ軍側が予想していた以上の戦力と物
 資が供給され、思った以上の成果を思うよ
 うに出すことができなかったのです。

 そして、さらに駄目押し的要因は、2つあ
 ります。当然といえば当然なのですが、前
 線における兵隊の意識の問題です。解放戦
 線側は、自分たちの国の真の独立と自由を
 得るための戦いであったのに対し、南政府
 側およびアメリカ軍は雇われ兵士であった
 り、直接、自分の国とのかかわりが見えず
 らい代理戦争であったりしたので、士気の
 低下は否定できませんでした。

 これらのことは、もう一つの要因とも関係
 します。北ベトナム政府とアメリカ政府の
 政策の決定の仕方の違いです。当時、刻一
 刻と変化をする現場(戦場)における政策
 決定が柔軟であったのは、アメリカよりむ
 しろ、ベトナムであったのです。アメリカ
 の場合、過去に1度も戦争に負けたことの
 ない国であったがゆえ、そのプライドが今
 までとは違う、このベトナム戦争に対する
 意識決定を絶対的に遅らせる結果になりま
 した。

 1967年テト。
 解放戦線側は、一気に戦局を有利にすすめ
 ようと大攻勢をかける決断をします。19
 67年1月末に計画された、この作戦をテ
 ト攻勢といいます。この頃になりますと、
 農村山岳部を中心に解放戦線側の解放区は
 確実に増加をしており、都心近くの地域に
 おいても、昼間の顔は南ベトナム政府であ
 っても夜は解放戦線側の町であったりして
 いました。こうした背景をもとにして、解
 放戦線側は一気の攻勢に出ようとしたので
 した。

 計画どおり実施をされたこの攻勢は、実質
 的には解放戦線側にとっては、あまりかん
 ばしいものではありませんでした。という
 のも、思った以上に南ベトナム政府軍側が
 戦闘士気が低かったために、勝利をしすぎ
 て最前線と後方の支援部隊の間に距離があ
 いてしまい細長い戦闘地域を形成すること
 となりその間に南ベトナム政府側に入られ、
 最前線部隊が孤立するという状況になって
 しまいました。結果として、優秀だったゲ
 リラ部隊とその指導者を失うこととなるの
 です。

 しかし、この攻勢は違う意味で、ベトナム
 側の勝利を早めることになります。当時、
 世界は60年代の後半です。第2次世界大
 戦の頃にくらべて、各種のマスメディアが
 たいへん発達をしていたわけです。とりわ
 け、テレビなどの代表される映像メディア
 は、リアルタイムでドンドン放映される状
 況になっていました。当然のように、ベト
 ナムで起きている、特にアメリカ軍の行動
 などが連日、メディアの対象として取り上
 げられたのは言うまでもありません。アジ
 アの片隅で広げられている自国の軍隊の行
 動の様子を見せられら西側諸国とりわけア
 メリカの市民の人たちは、こう思ったので
 した。「うまくいっていると政府から伝え
 られたベトナム戦争は、悲惨な戦いではな
 いか」と。

 【おたより・学習記録コーナー】
 ここでは、ベトナムの人たちの暮らしぶり
 について話をしています。昨日はコムと呼
 ばれる大衆食堂の話しをしました。今日は
 その続きで、ベトナムの人がよく好む食べ
 物の一つであるそばについて話しをしまし
 ょう。

 ベトナムにはいろいろな麺類があります。
 中でも一般的なのは、米を材料にしたうど
 んのようなそばである、「フォー」と小麦
 を材料にしたラーメンのようなそばである、
 「ミー」がその代表です。どちらも鶏がら
 のスープをベースにした透明のスープに、
 いろいろな具を入れ食べます。

 フォーに牛肉を入れたものは、「フォー・
 ボー」といい、鶏肉を入れたものを、「フ
 ォー・ガ−」といいます。他にも、五目そ
 ばやワンタンメンなどそのバリエーション
 は多彩です。そして、ミーにも同じような
 バリエーションがあります。麺の種類とし
 ても他に春雨みたいなものや、焼きそばな
 どいろいろな形のものがあります。

 そうした、そばに注文と同時につく、もや
 しや春菊のような野菜などをお好みでトッ
 ピングし、味付けは人によっては、とうが
 らしやヌックマムなどを足して、自分流の
 味にして食べています。あっさり味のこれ
 らの麺は毎日食べてもあきがこず、なかな
 か麺ロード探求者としてはグットな食べ物
 です。

 これらのそばはそば専門の屋台などで一杯、
 5000ドンから7000ドンぐらいで売
 られています。50円から高くても90円
 ぐらいでしょうか。フォーのお店もやはり、
 地元の人に言わせると年によって、人気の
 店があるらしく、どこがうまいかは地元の
 人に聞くの一番だそうです。

 ということで、今日は大晦日なので早めの
 デーリーでした。

        シン・カム・オン!
           KAN

 2月5日
 さて、本来であれば土、日は休刊日なので
 すが、今回は、特別報道といことで発行を
 させてもらいますね。そのかわり、このあ
 と、ホーチミンを離れて、地方に行くため、
 もしかしたら通信環境が悪く、通信不可に
 なってしまうかもしれません。ホーチミン
 に戻ってきたら復活できると思いますので、
 その時はご容赦のほどをお願いいたします。

 今日は、こちらベトナムは正月元旦です。
 昨日の大晦日は非常に盛り上がっていまし
 た。街のいたるところに出店が出、街のい
 ろいろなところが電飾で飾れ、零時近くに
 なりますと、ホーチミンのメインストリー
 トでは、花車や竜のパレードがくりひろげ
 られ、カウントダウンと同時にサイゴン川
 に花火が打ち上げられるという趣向にホー
 チミン子たちは、おおいに満足をした様子
 でした。

 街のいたるところは、いつも以上の人出で
 バイクと人の洪水の中、身動きすらできな
 い状態でした。

 という具合で、ベトナムは旧正月ではあり
 ますが、無事に2000年を迎えたのです。

 ここでまた、ベトナムの歴史の話しに戻り
 ましょう。
 
 1967年、まさに今から33年前のテト
 の攻勢でした。作戦としては、思った以上
 の成果を上げることができなかった作戦で
 はありましたが、この攻勢の状況が世界の
 マスメディアに載ったことによって、西側
 の諸国、特にアメリカではその影響は大き
 なものでした。ベトナム戦争が思ったほど
 うまくいっていないという印象を広げると
 同時に、当時、西側世界を覆っていた、オ
 イルショックなどの不況もあいなって、ア
 メリカ市民の中にここのまま戦争を続けて
 いてよいのかという声があがりだしたので
 す。

 現実、当時のアメリカでは、反体制運動や
 クロンララのような自由教育運動などのよ
 うな大衆的な運動も盛んになり、軍事的な
 らびに経済的な国としての負担も予想以上
 にかかっていったのです。

 そして、ついに1969年、アメリカの大
 統領ニクソンはアメリカ軍の撤退を発表す
 るのです。しかし、撤退を発表したにもか
 かわらず、アメリカはこの敗戦を有利にな
 ものとするために、B52による北爆と呼
 ばれる爆撃は継続しました。

 そして、アメリカはこの戦争から手をひく
 ために、自分たちを正当化する理由をいろ
 いろ考えます。撤退の理由としては、2つ
 の理由を掲げました。1つは、今までアメ
 リカが支援をしてきた南ベトナム政府(サ
 イゴン政府)は、もう十分に独り立ちでき
 るほどに成長したので、今後はアメリカの
 特にアメリカ軍の支援は必要なくなった。
 そして、もう一つの理由は、デタント、デ
 タントとは、緊張緩和政策といい、今まで
 は、西側諸国(資本主義国)と東側諸国
 (社会主義国)がいがいみあっていたが、
 これからは少しフレンドリーにやりましょ
 うという、アメリカからの提案でした。こ
 のことにより、ベトナム戦争の大儀であっ
 た、東側からの攻撃の防御のため戦争と言
 う意味づけは薄らぎ、アメリカ軍も撤退し
 やすい環境となるという考えでした。

 現場での戦闘と同時に、1968年からは、
 パリで外交的な話し合いも断続的にベトナ
 ムとアメリカの間で行われました。しかし、
 南ベトナムを1つの独立国家として見てい
 たアメリカは、執拗に、2つの政府を認め
 た上での終戦を主張しつづけました。これ
 では、もともと1つの国であったベトナム
 の人たちからしてみれば、到底、受け入れ
 られない道理でした。

 そうした、外交的膠着状態の中、前線では、
 特にサイゴン軍の士気が低下をしてきてい
 ました。と言うのは、彼らはアメリカから
 の資金援助のもと雇われた兵士であったた
 め、その親方が手を引くとなると戦闘意識
 が低下をするのはしかたがありません。そ
 うした様子を感じとった解放戦線側は、1
 975年3月、一気に全国を解放するため
 の攻勢に出ます。結果として、ベトナム各
 地のサイゴン軍側の拠点は次々に無抵抗に
 近い形で、解放されていきました。そして、
 最後についに1975年4月30日、解放
 軍がサイゴン(現ホーチミン市)にある大
 統領官邸(私たちが泊まっているホテルの
 直ぐ北にあります)に突入をして戦争は終
 結しました。


 これが、いわゆるベトナム戦争という戦い
 のあらましです。ベトナム独立の父と呼ば
 れる、ホー・チ・ミンは終戦を見ずに亡く
 なりましたが、現在でも彼が残した、「独
 立と自由ほど尊いものはない」とい言葉と
 ともにベトナムの人たちの間にその精神は
 生きつづけています。

 ベトナム戦争にかかわる周辺の話しまだま
 だ、たくさんあります。中でも日本との関
 係だとか、世界の中でのベトナム戦争、特
 にベトナムという国は、今まで一度も負け
 たことのなかったアメリカという国を負か
 した国際的な意味だとかというように。
 
 話しが長くなってしまうので、今日のとこ
 ろはこのくらいにしておきます。ベトナム
 戦争に関する質問ある方、遠慮なくご質問
 ください。

 【おたより・学習記録コーナー】
 ベトナムの街で見かける特徴的なものの話
 しをしてきました。バイク、屋台、さて次
 に何を話しましょうか、ベトナム人につい
 て少し話をしておきましょう。ベトナムと
 いう国は、実は、50以上の民族が集まっ
 た多民族国家です。一番多い民族は、キン
 族という人たちです。キン族をはじめとす
 るベトナムの人たちの顔の感じは、日本人
 とまったくそっくりで、日本語を話す人な
 どは、日本人と間違えてしまうほどです。
 本屋さんなどで、芸能関係のグラビアなど
 を見ると、タレントとして人気のあると思
 われるスターの顔は、女性の場合は、ノリ
 ピー顔で、男性の場合は、どちらかという
 とあまい感じの顔ということになるでしょ
 うか。

 街ですれ違う人は、必ずどこかであったこ
 とがある人的な感じの人が多く、うーん、
 誰だっけと考えると、そうだ、近くの中華
 料理屋の人だとか、本屋のだんなさんだと
 いうことになるのです。

 そんなにそっくりな、ベトナム人と日本人
 ですが、街を歩くとなぜか、日本人とわか
 ってしまう場合が多いのです。不思議なこ
 とです。まあ、私の場合は、なぜか視線を
 はずされてしまう場合が多いのですが。

 今回のメンバーの中でもI君の場合、怖が
 られるか、きやすく声をかけられるケース
 が多く、怖がられる場合は、893さん的
 な見られかたをし、フレンドリーな場合は、
 ぼられそうになるという具合です。私とI
 君が一緒に歩いている、まずは不思議な恐
 怖感を与えるらしく、道が開くわけです。

 キン族の他には、人数的には、中国系ベト
 ナム人やクメール族、ムオン族、ターイ族、
 タイ族、ヌン族、山間部では、モン族やザ
 オ族がいます。こうした多民族国家である
 ベトナムは、その指導者であるホーチミン
 氏亡き後も、引き続き一つの国家として維
 持をきちんとしていることは、いかにその
 政策がよかったか思わせます。

 明日からはベトナム、メコンデルタの中心
 地にあるベンチュという街に行きます。う
 まくしたら報告できると思いますのでお楽
 しみに。

         シン・カム・オン
           KAN

 2月8日
 どうもお暑つうございます。
 ということで、こちらベトナムは、冬季と
 は言え、連日、30度を越える暑い日が続
 いています。昨日までは、私たちは、今ま
 でいたホーチミン市から、さらに80キロ
 メートルほど南に下ったところにあります
 ベンチュという街を訪れていました。ベン
 チュという街は、ベンチュ省(県に相当す
 る)の省都です。ベンチュは、いわゆるメ
 コンデルタの河口に位置し、三方を河に一
 方を海に囲まれた島のような省です。


 この省は、今はベトナム一の果樹の栽培で
 有名になっています。中でもココナッツや
 パイナップル、マンゴなどの出荷ではベト
 ナムでも有数の出産地です。こうした現在
 の特徴とともにこのベンチュという地域は
 もう一つの伝統的な特徴を持っています。
 それは、ここ南部において、独立のための
 運動組織がいち早く立ち上がった地域であ
 るということです。

 ベトナムにおいて、1930年代以降、独
 立のための運動といえば、先日書きました
 ように社会主義的革命運動と重なるわけで
 す。運動のリーダーであったホーチミン氏
 は、その運動の理論的柱として社会主義的
 な方法をとります。しかし、彼のするどか
 ったところは、社会主義的手法を取り入れ
 つつも、ソビエトなどが行った形態をうの
 みにしなかったところです。彼はどのよう
 な場合においてもベトナムに合った形の社
 会主義的運動を展開するよう心がけていた
 点です。

 ベトナムならではの環境に合わせて、柔軟
 に理論を運用していく包容さと全体を見渡
 すことのできる先見性をかねそなえていた
 人だったと思います。そんな彼は、193
 0年代において、現在あるベトナム共産党
 の前身をベトナムに設立します。でも、1
 930年代においては、ベトナムにおいて、
 社会主義的運動と独立運動とがうまくかみ
 合って動くというところまではいきません
 でした。

 この頃のベトナムにおいては、まだ、社会
 主義的運動をベトナムという地域において、
 その地域に合った形で運用されるべきであ
 るという見解まで、ベトナムにいる社会主
 義者たちのあいだで共通に理解されていな
 かったため、先日も書いたように、柔軟に
 運用しながら独立運動と連動させていこう
 と考えていた、ホーチミン氏と当時、社会
 主義的運動の指導的立場をとっていたソビ
 エト(現ロシア)からの命令をそのまま実
 施をしようとした若手指導者たちとのあい
 だに意識ギャップができてしまっていたり、
 ベトナムがインドシナ半島で独立するため
 には、フランスのその他の植民地であるカ
 ンボジアやラオスとどのように協力をして
 いくのか、この2国に対しては、今までの
 ベトナム自身の対応の悪さもあり、また、
 フランス統治時代に入ってからは、フラン
 スがこの2国の管理をベトナム人にやらせ
 たという経緯もあったりし、3国の当時の
 環境ではなかなか、独立運動を集中的に行
 うことができづらかったのです。

 中でもベトナム国内においては、若手運動
 家たちからの突き上げをくい、ホーチミン
 自身がモスクワで、しばし、隠遁生活を強
 いられます。その間、ベトナムでは、モス
 クワからの指導型の運動を展開をするも現
 場、特に国民からの支持をなかなか得られ
 ず、若手活動家たちは少々過激な動きをし、
 これがフランス当局の取締のよい言い訳を
 つくらせてしまい、多くの指導者を弾圧で
 失ってしまいます。結果として、1940
 年代はじめにおいて、ベトナムの独立運動
 は、少々、停滞してしまいます。

 その危機を救ったのは、やはり、ホーチミ
 ン氏でした。よき指導者のいないままでの
 独立運動は前進が難しいと理解した多くの
 国民たちが、ホーチミン氏の帰国をうなが
 します。30数年ぶりに祖国の土を踏んだ
 ホーチミン氏は、当時、ベトナムを占領し
 ている日本が近く敗戦すると読み、そのと
 きが、独立運動において一つのチャンスで
 あると考え、そのための準備に着手します。

 1945年、8月、ホーチミン氏の予測の
 通り、日本が敗戦をし、この機会を待って
 いた、ホーチミン氏たちベトナム人民は独
 立のための蜂起をベトナム各地で起こしま
 す。中でも、この8月に起きたハノイでの
 蜂起は、ベトナム8月革命と言い、ベトナ
 ムにとって重要な記念日になっています。
 この蜂起に勝利をした、ホーチミン氏たち
 は、1945年9月2日、ベトナム民主共
 和国が設立されるのです。この政府の形態
 は、何も社会主義国ではなく、国の様々な
 階層から指導者を集めた、きわめて民主的
 な民主共同政府だったのです。

 世界の各国がこの政府を独立国として承認
 をしてくれたのであれば、このあとのベト
 ナム戦争は起こらなかったのです。ここか
 ら先の話しは、先日の話しとして続いてい
 きます。

 こうし、北の方の動きと連動して、早い段
 階から社会主義的な運動に呼応した南の地
 域が私たちが訪れた、ベンチュとい場所だ
 ったのです。当初、小さな集団であったベ
 ンチュの社会主義者たちは、農村の中で実
 践的学習活動を展開していきます。そうし
 た日常活動が認めれていき、段々とその勢
 力を拡大していきました。そして、2つの
 ベトナムを作られてしまった頃、当然のよ
 うにベンチュの社会主義者たちは、解放戦
 線の運動に参加をしていくのです。ベンチ
 ュにおける解放戦線の戦いの特徴的なこと
 は、そこの住む人たちが、一致団結をして
 祖国の独立のために戦ったという点でしょ
 う。中でも婦人や老人たちの用意周到な戦
 いぶりには驚かされました。

 戦う武器の少なかったベンチュの人たちは、
 時にはの野山にある蜂の巣などもその戦い
 の武器として利用しました。また、ココナ
 ッツ椰子の葉っぱで作った偽の戦車や大砲
 を先頭にして、竹やりやなたなどで、アメ
 リカ軍などと戦いました。対アメリカ戦に
 おいて、ベンチュの解放戦線は3万人近い
 犠牲者を出しています。しかし、最終的に
 は、敵を追い出し、ベンチュを解放するこ
 とに成功します。

 私たちは、ベンチュの博物館で、当時の解
 放戦線を知っているランという女性に話し
 を聞く機会を得ました。正月早々に訪れた
 私たちに対して、坦々と当時の話しをして
 くれました。話しを聞いていて、一番印象
 深かったことは、博物館の中にあった、当
 時、それも一番戦争が激しかった頃の写真、
 前後の写真が戦闘における激しさをあらわ
 していたものであったのに、1枚だけ当時
 のランさんも含めた若者たちが、楽器演奏
 を楽しそうの奏でているものがありました。
 その写真を見たとき、それまでは、きびし
 い表情で説明をしていた彼女が、ふっと、
 とてもなつかしそうで、彼らは私の同級生
 です。と言ったとき笑顔を作りながらも目
 のふちを赤くしたのでした。

 たぶん、これは私の推測ですが、この写真
 に写っている友人たちの何人かは、戦争の
 犠牲になっているような気がしました。そ
 のランさんの涙を見たときに、ここベンチ
 ュの歴史を私は理解したような気がしまし
 た。

 ここベンチュでは、その他にもおもしろい
 体験をいくつかしましたので、次の機会に
 話しをしたいと思います。

 【おたより・学習記録コーナー】
 今日は前段の話しが長くなってしまいまし
 たので、ベトナム社会の話しはお休みしま
 す。あとは、ベトナム語の話しもしたいし、
 書きたいことはたくさんあるのですが、時
 間がないので少々小出しにします。
             では、また。
               KAN

 2月9日
 皆さんこんにちは!
 こちらホーチミン市は朝からガンガンに暑
 いです。街は朝一番からいつもの活気に満
 ちています。今日は、いろいろ動かなくて
 はいけないので、早めにデーリーを書いて
 おきます。

 昨夜は、今回のフィールドワークの準備な
 どでお世話になっているホーチミン在住の
 日本人の孝之くんと最近のベトナム事情に
 ついて、様々な話しを聞きました。話しの
 内容を思い出すままに書いておきますね。

 今、ベトナムの市民の間で話題になってい
 ることは、カフェのチェーン店がホ−チミ
 ン市に出現し、そこそこ儲かっているらし
 い。ホンダオートバイの精密なコピーバイ
 クが出回っていて、その価格がホンダの半
 額で手に入ると言うこと。ホーチミン市に
 地下鉄が作られるらしい。今年の乾季はや
 けに涼しい。2000年を記念をし、ホー
 チミン市では観光に力を入れたが、あまり
 実益はなかったらしい。以前はだいぶいた
 ストリートチルドレン系の子どもの数がだ
 いぶ減った。中流以上の家庭の収入は伸び
 ている。インターネットの利用については
 何か監視がついているらしい。最近は交通
 事故は増えてきていて、警察も呆然とたた
 ずむケースがままある。結果としてホーチ
 ミンでは、ヘルメットをかぶる人が増加中
 である。ホーチミン市在住の日本人の数は
 ここの1、2年は2000人ほどで横ばい
 状態である。ホーチミンで1ヶ月暮らすに
 は、家賃などを含めて、500ドルぐらい
 は必要である。でも、ないならないなりに
 どうにかなる国であるベトナムは。公務員
 の汚職には厳しい国である。携帯電話が急
 速に普及しだしている。ホ−チミン市の人
 口は600万人になったらしい。衛星放送
 は限られた公共施設でないと見ることがで
 きない。

 では、次に昨日書きました。ベトナムの地
 方都市事情の追加を書きたいと思います。
 私たちが訪れたベトナム南部の街ベンチュ
 は、街の周りをココナッツ椰子の木々で囲
 まれた、熱帯地方ならではの環境の中、街
 のいたるところに、メコンの支流が流れこ
 んでいます。河に面したとところにある家
 は、日本の水郷地帯と同じに、玄関が河に
 面していて足がわりの船が係留されていた
 りします。そんなベンチュで私たちは何気
 ない路地へと足を踏み入れてみました。

 小川を渡り、軒先と軒先が触れてしまうほ
 どの空間しかない細い路地に入ってみまし
 た。平屋建ての小さい家々が、軒をつられ
 ています。どの家もコンクリートやレンガ
 のようなものでがっしりとつくられた家で
 す。路地に面したところに玄関のような窓
 のような、はたまた土間のような部分があ
 り、ここから、直接居間のようなところに
 入ります。床は、タイルのようなもので張
 られている場合が多く、子どもたちは素足
 でそのひんやりさを楽しんでいます。フル
 オープンにされている各家々の窓からは、
 テレビやラジカセの音が大音量で流れてい
 ます。若者たちの多くは、洋もの系ポップ
 スを好み、親父たちは、日本で言うところ
 の演歌調の音楽をたしなんでいます。ちな
 みにベンチュの最近の娯楽スポットはカラ
 オケルームです。そんな軒先すれすれな路
 地をさらに先に進むとまず最初に私たちに
 気づいたのは、猫のタゥンちゃんでした。
 日本のように太った猫はいません。みな、
 野生系の引き締まった体をしています。ベ
 トナム猫語で、「ミャング、ミャング」と
 挨拶をすると短く、「ミャ!」と挨拶返し
 があり、あんたらにかまっている時間はな
 いとばかりにさっと次の路地に消えてしま
 いました。そんな私たちの背後に視線を感
 じました。軒先のテラスで、ばあ様が宇宙
 人を見るがごとく、私たちを凝視していま
 した。「あんたら何者!?」。もしかした
 ら、ばあ様にとって初めての外国人だった
 のかもしれません。自分たちに似ているよ
 うで違う人たち。座った椅子から中腰の姿
 勢のまま、固まって動きません。「シン・
 チャオ!」と挨拶をすると、おばあの顔が
 ホッした安堵の顔に変わりました。にゃっ
 と笑い。「あんたら、どっから来たの?」
 みたいなことを言っています。「トイ・ラ
 ー・ニャーパン」というとばあ様は、さら
 に顔をクチヤクチャにして、フレンドリー
 な仕草をしてくれます。でも、きっと日本
 がどこにあるかは知らないに違いありませ
 ん。そんな、ばあ様とバイバイして、われ
 われは、さらに路地奥へと足を踏み入れま
 した。若者たちが集会をしていました。若
 者たちはさすがに恐れを知らず、私たちを
 見つけると口々に、「アロー、アロー」と
 声をかけてきます。そこで、「シン・チャ
 オ!」などと返答をすると、皆、最高に不
 思議そうな顔をして、お互いの顔を見合い
 あっています。
 
 次に私たちの前に現れたのは、4、5歳の
 子どもたちです。彼らは、サンダルをボー
 ル代わりにして、ぬいぐるみのミーちゃん
 といっしょに路地一杯をグランドにしたサ
 ッカーを楽しんでいました。サッカーは、
 今、ベトナムで一番人気のあるスポーツで
 す。街々の路地や歩道では、子どもたちが
 いろいろなものをボールの代わりにして、
 サッカーに興じています。子どもたちは、
 私たちの存在を気づかないのか、目に入ら
 ないのか、無心にサンダルを蹴りあってい
 ます。その風景をカメラに撮ろうとレンズ
 を向けると、私たちの存在に初めて気がつ
 き、レンズの前に直ぐに集まってきました。
 レンズを通して見た彼らの瞳には一点の曇
 りもありません。「アイン・バオ・ニュウ
 ・トイ?」「ボン」「バー」と元気な声が
 返ってきました。ぬいぐるみのミーちゃん
 に別れをつげさらに進ます。


 角を曲がった。椰子の葉っぱで四角く囲っ
 たものが見えました。親父がしゃがんでい
 ました。目と目が合いました。親父がにゃ
 っと笑った。思わず、「シン・チャオ」と
 言ってしまいました。そこは露天便所だっ
 たのです。あわてて視線をそらし、さらに
 先へと進みました。
 
 すると今度は、人の顔をした、太郎左右衛
 門のような犬が、まとわりついてきました。
 でも、ベトナム語でほえてくるから私には
 彼らの言っていることが理解できませんで
 した。かろうじてわかったことは、ここは
 俺様の場所だ勝手に入るなと言うことでし
 た。犬たちがいた場所の直ぐ際を小川が流
 れていました。そこには、アヒルのような
 にわとりような鳥が行水をしていました。
 さらに進むと墓場が現れました。どうやら、
 土葬のようです。はかばかしくないので、
 小走りに墓場を抜けました。するとそこか
 らは、ジャングルでした。


 家もまばらになりました。細いジャングル
 の中の一本道をテクテクと歩きます。椰子
 の木の間からこぼれてくる南国の太陽光線
 は、私の体を射抜くように鋭く、体中の汗
 腺と言う汗腺から一気に汗が噴出してきま
 す。ジャングルの林の向こうからは、キキ
 キキキキと言う、鳥たちの叫び声が聞こえ
 てきます。完全に迷ったようです。市街か
 らたかが数十分のところでである。プラト
 ーンのワンシーンを彷彿します。少し小走
 りに走ってみました。ジャングルを走るチ
 ャーリーシーンかはたまた、それを追いか
 ける解放戦線か。ともかく、ハードワーク
 であることに違いはありません。

 また、犬にほえられました。
 家がありました。ジャングルの中に忽然と
 現れた家です。玄関先で意を決して声をか
 けてみます。「シン・ローイ!!」怪訝そ
 うな顔をしたお婆が、私たちを出迎えまし
 た。「シン・ロイ」「トイ・ムオン・ディ
 ー・ヅングフォー」すると、お婆は、どう
 もこんなことを言っているようです。「あ
 ー、ダメダメ、私は外国語は一切、話せな
 いんだから」といいながら、私たちと片言
 のベトナム語で話している。結局、近所の
 人がみんな出てきました。中に英語が話せ
 るお嬢さんが登場。彼女の家は、このジャ
 ングルに忽然と現れた、鉄筋コンクリート
 2階建ての高級住宅、英語を話せるという
 ことは、英語圏の国でかせいできたのか?
 ともかく、街まで戻る道を教えてもらい。
 ジャングルの小道を街に戻ったのでした。

 となりの家の路地をまがったり、墓場を越
 えたら、そこは別世界だったのです。

 あー長くなってしまった。
           続きはまた明日。
             ではまた。
              KAN


 2月10日
 寒いね。日本は。
 どうしたことでしょう。毎日30度の国か
 ら、一気に3度の国へと戻ってきました。
 あまりの寒さに思わず、南の国に住みたい
 と思ったのです。

 まだ、もう少しベトナムと言う国に関して
 書きたいことがありますので、もう少しベ
 トナム特集を続けたいと思います。

 今日はベトナム語の基本について話しをし
 たいと思います。ベトナムで使われている
 ベトナム語は、ハノイを中心とした北の言
 葉でした。

 ベトナム語の中で、一番難しいのは、声調
 と呼ばれるアクセントです。6つの声調が
 あり、maと言う言葉一つとっても@ ま
 っすぐにマー A 下げてマー↓B 上げ
 てマー↑ C ゆっくり下がったあとで再
 び上がる↓↑ D はねるように高いとこ
 ろで終わる。 E 低いところからはじま
 り、のどをしめて、さらに低く終わる。
 全部、マーではありますが、意味は全部違
 うと言うことになるのです。この声調がき
 ちんと表現できないと思うように意味が通
 じません。

 次に基礎構文ですが、
 【AはBです】
 トイ・ラ・ニャッパン
 私は日本人です。
 【Aは〜をします】
 トイ・ディ・ハノイ
 私はハノイへ行きます。
 【Aは〜をしたい】
 トイ・ムオン・アン・カム
 私はご飯が食べたい。
 【Aは〜できる】
 トイ・ノイ・ディユック・チュング・ビエット
 私はベトナム語を話せます。
 【AはBですか?】
 A・ラー・B・ファーイ・ホン?
 【Aは〜しますか?】
 A・コー・ディ(行く)・ハノイ・ホン?
 こんな感じです。
 挨拶と数字を紹介しておきましょう。
 1.チャオ・オン(こんにちは)
 2.オン・コー・ホーエ・ホン?
   (お元気ですか?)
 3.カム・オン・バー,トイ・ホーエ
   (どうもありがとう、元気です)
 4.コン・バー?
   (で、あなたは?)
 5.ザ・カム・オン・オン
   (どうもありがとう)
 6.トイ・タン・ホーエ
   (私も元気です)
 7.タン・ビェット・アイン
   (さようなら)
 1=モツ
 2=ハイ
 3=バー
 4=ボン
 5=ナム
 6=サウ
 7=バーイ
 8=タム
 9=チン
10=ムオイ

 と言うことで今日はまだ、旅疲れが残るの
 で、このへんにさせてもらいます。
       セー・カップ・ライ
          KAN