2000年度(2001年)フィールドワークベトナム

 東京成田から、ひと飛び。
 ということで、夜の気温が26度の熱帯であるここベト
 ナム南部の都市ホーチミン(旧サイゴン)へとやってき
 ました。思ったより暑くはなく、ちょうどよい暑さで、
 冬から逃げてきた私にとってはちょうどよい感じです。

【旅日記】
 前日の夜遅くにホーチミンに着きました。
 今年は、成田空港からの直行便で、一気にホーチミンタ
 ンソンニャット空港へと乗り入れてきました。成田から
 空路約6時間というところです。現地ベトナムとは、2
 時間の時差がありますので、形的には、4時間の旅にな
 り、その日のうちに着きます。感覚的には国内旅行のよ
 うな感覚におちいります。

 1年ぶりに訪問をした、タンソンニャット空港は、改築
 がされ、とても広くなり飛行機がターミナルビルに直接
 乗り付けられるようになっていました。昔は、飛行機の
 扉を開けると一気に流れこんできたベトナム特有の熱気
 とベトナムスメルは、空港の玄関を出るまでお預けとな
 りました。

 それでも、空港の空気を伝わってくる感じは、日本でい
 うと、石垣島や与那国島の空港のそれ似ています。そう
 いう意味でも沖縄は、より東南アジアに近い地域である
 ということがよくわかります。

 外国に降り立ったら最初にすることは、入国審査です。
 空港が改築されたので、今までの倍近くある入国審査ゲ
 ートは、窓口も多くなり、少々の時間で自分の番になり
 ました。いつもながら、社会主義の国らしく、きちんと
 制服を着込んだ係官は、きびしい表情で、審査をしてい
 ます。ヨーロッパに行ったときもちょこっと書きました
 が、入国審査官の表情は、国によっていろいろです。ド
 イツなどの場合は、非常にフレンドリーですし、ポーラ
 ンドの場合は、やはり旧社会主義国らしく、厳しい感じ
 です。

 こうした入国審査のときの共通したことがあります。そ
 の審査官が、フレンドリーであれ、厳しい顔をしている
 人であれ、審査のときに一言でよいのですが、入国の国
 の言葉で、「こんにちは」と声をかける、必ずニコっと
 してくれます。こんなときほど、挨拶をすることの大事
 さがわかると同時に、多くの国の人が、自分の国の言葉
 に誇りと親しみを持っていることに気が付かされます。

 ここベトナムでも例外なく、ベトナム語で、「シン・チ
 ャオ・アイン」と声をかけると急ににこやかな顔になり、
 日本人なのにベトナム語の挨拶を知っているのかという
 顔つきになります。そして、そのあとに、「気をつけて」
 などと声をかけてくれたりします。そこで、すかさず、
 「シン・カムオン」とお礼を言うと、短い時間ですが、
 今まで、あった緊張感が和らぎます。

 入国審査をすませ、荷物を取り、いざ街へと足を踏み出
 します。ここ数年、現地でのセッティングをお願いして
 いる旅行社の人が迎えに来てくれています。今年もなつ
 かしい顔が来てくれていました。毎年、訪問をしている
 と知らず、知らずのうちにこうした親しい関係ができて
 きます。こうして少しずつ、少しずつ相手の国のことを
 知っていくわけです。他の旅行者を各ホテルに降ろし、
 安い宿を指定している私たちは、最後の下車になりまし
 た。安いと言っても様々な旅を経験している私たちにと
 っては、十分に高級な部類に入ります。そのホテルは、
 宿泊費も安く、サービスのよく、どこへ行くにも交通の
 便のよい所にあるので気に行っています。

 ホテルのロビーに入ると、深夜にも関わらず、さっとボ
 ーイの人たちが荷物を取りに来てくれます。他の国やホ
 テルだと、おそらく、やれチップだ安全対策だで、疲れ
 ることこのうえないのですが、私たちの顔を覚えてくれ
 ている彼らは、お久しぶりでした。お元気でしたか?と
 片言の日本語で、てきぱきとチェックインを済ませてく
 れます。チップなども基本的にはいらないのもうれしい
 です。

 そんなに長い旅ではなかったのですが、気温の変化に体
 がついてこず、早めにベットへともぐりこんだのでした。

 2月19日、二日目の今日は、朝は車のクラックション
 や体操の子どもたちの声に起こされ、ホテルの最上階に
 あるレストランで朝食を取りました。豊富な食べものは、
 私の場合、自分の家にいるより数段快適です。朝から十
 分に栄養をとり、午前中は、いざ,語学研修です。ホー
 チミン市の中にあるホンバン大学というところで、特設
 クラスを作ってもらい簡単なベトナム語会話の講座をお
 願いしています。
 朝のラッシュアワーの中をかきわけて車は進み、大学に
 到着すると昨年もお世話になりましたハイ先生をはじめ
 他の先生方も待っていてくれました。ここでも私たちの
 ことを覚えてくれていまして、今年もよく来てくれまし
 たと、ニコやかに授業ははじまりました。ニコやかな顔
 とは別にきびしーい授業が、今年も。

 初日の担当の先生は、大阪外国語大学でもベトナム語を
 教えたことのある学長のホン先生でした。笑顔できびし
 い授業は、私たちの集中力を途切れさせませんでした。
 久しぶりの脳の活性化は、おおいに細胞を生み出しまし
 た。今日の内容は、挨拶と数と買い物の会話でした。
 ベトナム語の難しいところは、中国語などにもある声調
 です。微妙な音の変化を表現するのは、なかなかたいへ
 んです。似たような音も発声がまったく違かったりして、
 何度、先生に繰り返されたことでしょうか。もっと継続
 的にやらねばとその時ばかりは思うのでした。
 どうにか、1から10までの数などを覚え、午後からは、
 ホーチミンの街の中の探索へと出ました。街のこと、ベ
 トナムの食事のことはまた次のデーリーで書きましょう。

【今日のジャーナル】
 今日のジャーナルというか、現地からの学習報告につい
 ては、ベトナムをめぐるインドシナ半島、そして、日本
 などとの社会的というか、歴史的というか地域構造的な
 話しをしてみようと思っています。

 が、今日は長くなってしまったので、とりあえずこのへ
 んで。

 お暑つうございます。
 毎日、30度近い温度です。
 常夏を過ぎて、暑さでボーっとします。
 でも、毎日、活動をしています。

【旅日記】
 昨日は語学研修の後、コンチネンタルホテルで昼食をと
 り、ドンコイ通りを歩いて、サイゴン大教会、中央郵便
 局を通り、統一会堂を経て、戦争証跡博物館へと行きま
 した。ホーチミン市の街並みは、いくつかの所に、フラ
 ンス植民地時代の建物が残っています。建物自体は、確
 かに古いのですが、ヨーロッパスタイルの建物は、回り
 にある南方の植物とマッチをし、オリエンタルでエキゾ
 チックな風景を演出しています。

 そんな旧サイゴンの街の風景の中でも、私が好きなスポ
 ットの一つが、前出のコンチネンタルホテルの中庭です。
 このコンチネンタルホテルは、今は国立のホテルになっ
 ていますが、フランスの植民地時代からあるホテルで、
 いろいろな場面に登場します。
 確か、カトリーヌ・ドヌーブが出ていた、「インドシナ」
 という映画の中でも、彼女がお茶をしていました。最近
 では、カトリーヌ・ドヌーブは、ダンス・インザダーク
 に出ていましたが、それだとか、ベトナム戦争のときに、
 南ベトナムの大統領官邸を解放したあとの解放戦線の連
 中が、戦車に乗って凱旋をした写真のバックにもこのホ
 テルが写っていました。そんな歴史のあるホテルの中庭
 は、そこだけ時間を切り抜いたようにポッカリとタイム
 カプセルのような空間を残しています。

 その中庭にあるテラスにテーブルを出し、そこで、お昼
 のランチなどを食べると1日中、ボーっとしていたくな
 ります。大理石のタイルのフロアーはひんやりとし、生
 い茂った南国植物の間からは、南の国の強烈な太陽光線
 の木漏れ日が、ゆらゆらし、木立の間からは、絶えず小
 鳥のさえずりが聞こえてきます。

 中でもスコールが降った直後の中庭は、木々についた水
 滴がキラキラと光り、雨で冷やされた風が頬をなぜる感
 じがとても心地よいわけです。

 さらにうれしいことには、ここのレストランのランチメ
 ニューは、ほぼフルコースで5万ドン、日本円に直して、
 約500円です。でも、私の場合、ランチではなく、カ
 リーガーを食べるのが楽しみではあるのですが。ちなみ
 にカリーガーとは、チキンカレーのことです。

 昼飯のことだけでこんなに書いてしまいました。
 この後の博物館のことや、夜に食事に行ったレストラン
 で聞いた、民族音楽のことなど、初日だけでも書くこと
 が山のようにあります。おそらく帰国してからも当分、
 旅日記を書くことになるかとは思います。お許しのほど
 を。
【今日のジャーナル】
 昨日も予告をしましたように、20世紀の世界の構図を
 説明するにあたっては、資本主義、特に帝国主義のこと
 を説明しなくてはいけなくなります。

 最近の日本では、伝えていないが悪いのか、わざと拒否
 をしているのか、よくはわかりませんが、若い世代の人
 を中心に、そういった20世紀の構造の中心に日本とい
 う国があり、戦争という問題に深く関わったということ
 が、忘れ去られようとしています。

 この傾向は、少々、心配です。20世紀の日本の行いを
 きちんと記憶に残す。これは、大切なことであると思い
 ます。そのためにも、少なからず、日本も関わった、イ
 ンドシナ半島のこと伝えていかなくてはいけないと思っ
 ています。

 まあ、伝えると言っても、世界的視野から、アジア的視
 野から、日本的視野から、そして、世界の最近の経済的
 視野からなどとその切り口は、たくさんあるわけで、こ
 のことだけの一つのヒント的解説集を作ってもだいぶ量
 がかさむことになると思います。
 理想を言えば、十分に時間をかけて、こうした資料集を
 学校編著で作れればと思うのですが、少しずつ実現して
 いきたいと思っています。そこで、今回も少しばかり言
 葉足らずですが、チョコと話しをしてみたいと思います。
 どうも能書きが長いですが。

 では、少しベトナムの歴史を復習してみましょう。
 ベトナムの中世までの歴史は、日本のそれと多少似てい
 ます。日本もベトナムもいわゆる、中国という国の影響
 を色濃く反映しています。

 どちらの国も、国として認めてもらうために、当時の中
 国に対して、多くの貢物などをし、金印などをもらおう
 とするわけです。まあ、中国に認めてもらうということ
 は、中華グループの一員となるという意味なのではあり
 ますが。したがって、中国の方から見れば、言い方は悪
 いのですが、手下の国が増えたという感覚ですから、あ
 くまでも自分たちのコントロールの下という意識です。

 それが、日本もベトナムも徐々に国力がついてきて、い
 つまでも手下では駄目なので、真の独立をめざそうとい
 うことになるわけです。それまでは、様々なシステムや
 技術が真似であったのをオリジナルのものへとしていこ
 うとなるわけです。その自立の年代のはじめは、ベトナ
 ムの場合は、10世紀ごろになります。その後、何度か
 中国に攻められるわけですが、本格的な独立を得るのが
 15世紀ごろになります。

 ちょうどこのころ、ベトナムと日本や琉球との関係は、
 かなり行き来がありました。特に琉球では、このころの
 ベトナム産の陶器が、数多く、琉球の城跡から発掘され
 ています。
 
 中国からの本格的な独立を果たしたベトナムは、北には
 中国があるので、進出することができず。また、西には、
 山脈があるため、海沿いを南へと進出拡大していきまし
 た。特に南部に広がる、メコンデルタ流域は、自給自足
 の要である米の生産ということから考えても、とても重
 要な地域で、18世紀には、その重要な部分を手に入れ
 ます。このことが、インドシナ半島全体におけるベトナ
 ムのその後の位置を決める大きなこととなっていくので
 した。

         全然、進まない。
            すまない。
                 では、また。
                 明日。
                  KAN

 ホテルの玄関を一歩出ると、そこは喧騒の空間です。
 このパワー、このエネルギーはどこから湧き出てくるの
 でしょうか。人々は、休みなく活動をし続けています。
 暑さなど関係のないエネルギッシュな動きに、「みんな
 生きてるな」と感ずるのでした。有機的な街です。ここ
 は。
【旅日記】
 昨日はリラクゼーションタイムで話しが終わってしまい
 ました。ランチの後は、戦争証跡博物館を訪れました。
 コンチネンタルホテルから、サイゴン教会を通りすぎ、
 統一会堂の直ぐ裏手にこの博物館はあります。

 フィールドワークなどで、初めての場所に訪れるとき、
 その場所の地理的なことだとか歴史的なことだとか、町
 の概要を知るために、最初に訪れる場所として、様々な
 博物館や役場などは重要です。こうした場所は、その町
 のいろいろな情報が集まっている場所なので、その後の
 行動予定を考えるにあたり、とてもよい参考材料になり
 ます。

 ここホーチミン市にある戦争証跡博物館は、その名前の
 とおり、ベトナム戦争の歴史について、当時の資料など
 をもとに解説をしている場所です。博物館そのものは、
 日本などにある近代的な博物館に比べれば、モダンな感
 じは受けませんが、歴史を忘れないよう、一生懸命に運
 営をしているという心意気は伝わってきます。

 ホーチミン市を訪れる、大部分の旅行者が訪れていると
 思います。日本人をはじめとして、フランス人、アメリ
 カ人、ドイツ人などと様々な国の人たちが、館内の展示
 物を食い入るように見ています。この博物館に展示をし
 てある物は、まさに欧米諸国が、アジアの国を植民地化
 していった、そのプロセスです。ベトナムの人たちの闘
 いそのものが、古い言い方になってしまいますが、そう
 した欧米帝国主義との闘いであったことがよくわかりま
 す。
 アジアの小さい国が、こうした状況に追い込められ、独
 立を勝ち取るためには、多くの犠牲を払わざるを得なか
 ったことがひしひしと伝わってきます。この歴史を見て、
 アジアを植民地化した経験を持つ、日本を含めた、欧米
 諸国の人たちはどう思うのでしょうか。ちなみに19世
 紀以降のベトナムの独立戦争の相手は、フランス、日本、
 アメリカなどです。ただ、直接的に戦った国はこれらの
 国ですが、間接的にこれらの国を支援をしていた国まで
 含めれば、世界を相手に戦っていたということになるで
 しょうか。

 博物館を見て、いつも思うことは、いわゆる帝国主義の
 国々は、ここまでベトナムという小さな国の自由を奪う
 ことが、どれだけの意味があったのかという思いです。
 中でも最大の敵であったアメリカなどは、何を理由にベ
 トナムでの戦争に荷担介入していったのか、まったく、
 よくわかりません。彼らは、「自由を守るため」と言っ
 ていたようですが。わざわざ、人の土地まで来て、もと
 もと住んでいる人の生きる自由を奪っておいて、何の自
 由を守ろうとしたのでしょうか。まあ、わかりやすいで
 すが、自由ではなく自国の利益を守るためということだ
 と思います。

 ベトナムでの独立の闘いにおいて、日本も様々な形で関
 わっていたことは否定のできない事実です。応援という
 よりはむしろ、奪う側として。博物館を見にきている日
 本の若い人が無邪気にアメリカ軍の兵器の前で、記念写
 真を撮っています。ベトナムと日本の関係を少しでも知
 ってもらえるとたいへんうれしいです。

 ベトナムでの戦争の構図については、また次の機会にで
 も話しをしましょう。

【今日のジャーナル】
 ベトナムという国の植民地化されるまでの独立の過程の
 中で、その流れはある意味、一般的ではありますが、お
 おまかな流れをまとめますと、その影響を強く受けてい
 た中国という国に国として認められようとする時代、次
 にその影響下から脱しようとする時代、そして最後に、
 小中国化(大国主義)になろうとする時代という流れに
 なると思います。この流れの中で、言える特徴的なこと
 は、欧米諸国に植民地化されるまでのベトナムにおいて
 は、中国化がその独立の過程に沿って進んだということ
 です。

 この傾向は、何もベトナムだけのことではありません。
 日本などの中華グループに属していたいくつかの国が、
 グループからの自立を目指すがゆえ、中国化をすすめた
 のです。この心理は、当時、日本やベトナムが、手本と
 していた近代的な国が中国であったわけですから、自立
 して中国と同じぐらいのことはできると言わなくてはい
 けなかったからだと思います。

 この体質は、現在のいろいろな国が、アメリカという国
 の影響下から脱しようとするとその地域でよりアメリカ
 化が進むこととも似ています。

 19世紀に入ってからのベトナムは、より進んだ中国化
 体制を作ることによって、逆に中国からの自立化をすす
 めます。そして、さらに、インドシナ半島における小中
 国化もすすめるわけです。このように、インドシナ半島
 における周辺各国を取り込んだリーダー化を進めること
 は、一方では、ベトナム国内における統合化、統一化を
 進めることとリンクします。インドシナ半島におけるリ
 ーダー国化と国の統一、その2つの目標を進めていたと
 ころに、欧米諸国の干渉がはじまるわけなのです。

               今日はこのへんまで。
                では、また明日。

 昨日は、メコンデルタの街、ビンロン、カントーに行っ
 ていたため、デーリーが送れませんでした。
 申し分けない。

【旅日記】
 戦争証跡博物館を見た後は、徒歩にて、ホーチミン市の
 目抜き通りであるドンコイ通りへ向かいました。この通
 りには、多くの土産物屋やホテル、レストランがならん
 でいます。一軒、一軒見て歩き、気にいった品物があれ
 ば、値段の交渉をして買う、こんなショッピングの楽し
 い通りではあります。本日の目当ては、ベトナムならで
 はの民族衣装であるアオザイを購入するために通りの終
 わりごろにあるお店へと向かいました。購入と言っても
 アオザイの場合は、オーダーで作ってしまった方がお得
 です。自分の好みの生地を選び、採寸をしてもらって、
 約3日間ぐらいでできあがります。値段もオーダーなの
 に30ドル前後ですし、何よりも自分の体にジャストフ
 ィットしているので、着心地は満点です。

 このアオザイという民族衣装は、ベトナムの様々な場所
 で見ることができます。基本的には、女性の衣装なので
 すが、男性用もあります。

 着こなしの基本は、白いパンタロンのようなズボンの上
 に腰の少し上までスリットの入ったチャイナドレスのよ
 うな上着を着ます。遠くから見ると蝶々がヒラリ、ヒラ
 リと舞っているように見えます。ベトナムの女性の間で
 は、昔から、アオザイの似合う女性になることが素敵で
 あると言われていました。体の線が目立ってしまうアオ
 ザイを着こなすには、日ごろから注意が必要だというこ
 とです。そのせいかわかりませんが、ベトナムの女性は、
 みなとても姿勢よく、オートバイなどに乗っているとき
 でさえ、スッーと背筋を伸ばして乗っています。

 こうした、様々な色合いのアオザイをベトナムの女性は、
 普段着、訪問着などとして欠かさず着こなしています。
 そんなアオザイ姿の女性に目がくぎ付けになるのは、女
 子高生たちのアオザイ姿です。白いアオザイが、制服に
 なっているのです。彼女たちの登下校時間に出くわすと
 本当に驚いてしまいます。多くの学生たちは、自転車に
 乗って登校してきます。長いアオザイのすそをヒョイと
 手で持って、器用に自転車に乗ってきます。町々の至る
 ところから、白いアオザイ姿の女子高生が集まってきま
 す。日本のミニスカ女子高生を見慣れている者としては、
 なぜか新鮮に映ってしまいます。
 そんなアオザイですが、近年の欧米化にともない着こな
 せる女性が少なくなってきていると聞きました。その土
 地の環境に合った形で発展してきたアオザイ、長く残っ
 てほしいと思うのは私だけでしょうか。

 そうしたアオザイやお土産を手に入れることのできるド
 ンコイ通りではありますが、気になることがあります。
 毎年来る度にいわゆるアジア雑貨なる店が増えています。
 今、日本では、ちょっとしたアジア雑貨ブームです。ベ
 トナム風の雑貨もごたぶんにもれず日本でだいぶ人気が
 出ています。こちらに来るときも、飛行機の中には、ベ
 トナムの生活雑貨の購入が目的らしい女性のグループが
 大勢乗り合わせていました。彼女たちは、いろいろな雑
 貨マニュアルのようなものを広げ、そのお店の位置を一
 生懸命チェックしていました。こうした動きもベトナム
 のことを理解してもらうことの流れの一つであれば、た
 いへんうれしいことなのですが、前に書いたように最近
 ベトナムで、ドンドン増えているベトナム風日用雑貨の
 店のオーナーの多くが日本人であると言います。つまり、
 日本でブームになっているので、日本人向けに日本でデ
 ザインされたものが、ベトナムの匂いを少しかけ、日本
 人のオーナーのお店で伝統的なベトナムの雑貨として売
 られているのです。

 この構造をどのように考えればよいでしょうか。商売だ
 と言ってしまえばそれまでですが、少々、後味の悪さが
 残ります。いくら儲かってもその大部分が、日本に戻っ
 てくるわけですから、他人のふんどしで相撲をとってい
 るような感覚に私はなるわけです。ベトナム本来のもの
 で、日本人が見ても価値がるものはもっとあると思うの
 ですが。

 さて、そうこしてドンコイ通りを探索した私たちは、宿
 舎に戻ったのでした。

 ベトナムに来て欠かせないものの一つにベトナム料理が
 あります。ある意味、毎日が食い倒れのような旅ではあ
 ります。次はそこらへんの話しをしましょう。

【今日のジャーナル】
 19世紀前半のベトナムは、先日書きましたように、ベ
 トナムという国自身の統一とインドシナ半島全体におけ
 るリーダー性の確立を目指したわけです。がしかし、こ
 の試みは、うまくいきませんでした。その理由は、2つ
 ありました。1つは、インドシナ半島を自分たちの市場
 として勢力圏に入れたがっていた中国の動き、そして、
 もう1つは、欧米の侵略です。

 欧米諸国の中でも、ベトナムに興味を示したのは、フラ
 ンスという国でした。産業革命が進んだヨーロッパにお
 いて、化学製品として必要だったゴムと米をはじめとす
 る豊かな農作物がその搾取の対象となりました。185
 8年ごろには、その侵略も本格化しました。そうした動
 きに対して、自分たちの属国であるとしていた中国との
 間に清仏戦争が起きます。近代兵器の前になすすべのな
 い中国軍は敗れ、1887年には、完全にフランス領イ
 ンドシナ連邦が成立してしまいます。

 ベトナムの植民地化は、ベトナムに対して、決定的な変
 化をもたらしました。それは、中華グループからの離脱
 でした。西洋の植民地に組み込まれたことによって、皮
 肉にもベトナムが目指していたいくつかのことを担わざ
 るを得なくなってしまったのです。それは、フランスは、
 ベトナムだけを植民地化したのではなく、周辺のカンボ
 ジアやラオスも含めて植民地化をしました。他の小国の
 管理をベトナムにやらせようとしたのです。そして、今
 まで大きな影響を受けていた中国式のシステムを止め、
 ヨーロッパスタイルへと変更させるのです。これらのこ
 とは、前述した、プロセスは違いますが、ベトナムが目
 指していたものと近いものになってしまったのです。

 教育システム、文字など今まで、中国式であったものが、
 続々とフランス式に変更されました。ここで、また、注
 目に値するのは、あのフランス革命を経たフランスとい
 う国が、宗主国となったという点です。

               今日はこのへんまで。
                では、また明日。

 昨日、今日とベトナムの南部にあります。メコンデルタ
 を中心に探索しました。
 車で、ほんの数時間南に下っただけなのに、太陽の日差
 しは、数段強くなり、クラクラ状態になりました。

【旅日記】
 旅の楽しみと言いますか、その土地の文化を知るうえで
 大事なものの1つに、食べ物があります。

 ここベトナムも、食べ物の宝庫であることに間違いはあ
 りません。主食は米ですが、おかずのバリエーションは
 1回の旅では、到底、食べきれません。今回の旅で食べ
 た物を思い出すだけ書いてみますと、
 チャー・ゾー
 ゴイ・クォン
 ゴイ・ゴー・セン
 ゴイ・ガー
 ザウ・ムォン・サオ・トイ
 トム・スー・ハップ・ヌック・ズア
 トム・サオ・バップ・ノン
 トム・カン・ヌォン
 カー・コー・ト
 カー・タイ・トゥオン
 エック・チン・ボー
 オック・ハップ
 ハウ・ヌォン
 フォー
 ミー
 ミエン
 コム・チン・タップ・カム
 バイン・セオ
 スップ・マン・クア
 ラウ・イェー
 バイン・フラン
 というわけで、名前がわかったものだけでこんなにあり
 ました。他には名前が分からないものまで入れるとこの
 倍ちかくは、食べ尽くした感じがします。ベトナムの代
 表的な、食べ物とすれば、生春巻きと麺類は、王様級で
 しょうか。今回の旅では、シーフードと鍋ものに初トラ
 イを多く試みました。魚介類は、特に海老・蟹・貝類の
 新鮮さには、驚きます。ホーチミンの場合は、海や河が
 近いせいでしょうか。
 
 海老は、中くらいの大きさのテップと大きい手長海老の
 トム・カングがあります。味的には、小さい海老をココ
 ナッツジュースで蒸したものが、海老の味が凝縮されて
 いておいしかったです。また、今回の初物は、蒸したタ
 ニシ、ハマグリのワイン蒸し、焼きカキでした。中でも
 ハマグリは、予想通りの味でプリプリした身を口の中で
 かむとジュワ―と海の味が口中に広がります。焼きカキ
 も予想以上のボリュームで怖さより食欲が勝ったという
 感じです。

 そして、今回の初ものグランプリは、ヤギ鍋でしょう。
 やみ鍋ではありません。ヤギ鍋です。ここ数年ホーチミ
 ンでは、モツ鍋のような人気が続いているそうです。

 ヤギ鍋屋は、街角に忽然と姿をあらわします。そう、露
 天なのです。歩道の部分に風呂場で使うプラステックの
 椅子をならべ、土鍋に入れたヤギ肉をつつきます。近く
 までよると、早くも私たちの姿を見つけたおばちゃんが、
 こっちの席があいているわと手招きします。「チャオ・
 チ」(本当は、あばちゃんの場合は、チャオ・バなので
 すが、あえて、こんにちは、お嬢さんとみのもんたのよ
 うなのりで近づきます)「シン・ロイ・シン・チョー・
 トイ・セム・トウック・ドン」(ヤギしかないので、メ
 ニューもらってもしかたがにのですが)「チョー・トイ
 ・ラウ・イェー」「ニョー」なんてことを言っています
 と土鍋にヤギ肉と野菜の入ったものがガス台つきで、持
 ち込まれます。煮立ってきたところで、豆腐、野菜、油
 げみたいの、シナチクなどを入れて、煮えたら、ゴマベ
 ースにたれにつけて食べます。こってりとした味にただ
 でさえ暑いホーチミンの夜が倍増します。でも、へんに
 後を引く味で、次々にやぎ肉などを追加しまして、気が
 つくと夢中で骨付のヤギ肉にむしゃぶりついている有様
 です。

 最後にミーと呼ばれる、小麦の麺を入れて、とんこつラ
 ーメンのようにして汁まで胃袋におさめます。ヤギ汁の
 ような風味に体中に力がみなぎります。私的には、雑炊
 かおじやを作りたいところなのですが、米がないのが残
 念でした。

 食べ物の話しをすると終わらないです。
 ぜひ、皆さんも一度、食道楽の旅、ベトナムへ。

【今日のジャーナル】
 ある種、近代民主主義の発端となったフランス革命を経
 験しているフランスの植民地政策はしたたかでした。最
 初にハノイに大学を作り、フランス式の小官僚を育てま
 す。そこで、育てたベトナム人たちを、各地域に派遣し、
 統治をさせたのです。権力を得たベトナム人の中には、
 そこそこ裕福になる者も誕生しはじめます。結果として、
 ベトナム人の中にもここままでいいんじゃないかと思う
 ものも出てきました。昔のような野蛮な国よりましだと。

 こうした、教育の成果は、何も従順なベトナムを育成し
 たばかりではありませんでした。勉強をすることで、様
 々な西洋の考え方を学んだ者の中には、民族自決、民主
 主義、社会主義などにも理解をしめす者も出てきました。
 つまり、フランス化は、逆の意味で、愛国者を育てるこ
 とにもなったわけです。

 その代表的な人物の一人として、ホー・チ・ミン氏がい
 るわけです。ただ、彼の場合は、そうした学習環境に恵
 まれていたというわけではなく、むしろ、自学自習で、
 知識などを得るため、船員となって母国を出、旅をしな
 がら学んだ人でした。

 ホー・チ・ミン氏などの呼びかけに応え、ベトナムにお
 いてもフランスからの独立のための運動が活発化しまし
 た。がしかし、路線や組織の問題で、1930年代後半
 には、運動が停滞します。

 そうこうしているうちに、太平洋戦争が勃発し、日本に
 よるアジアの解放などというたわごとにも踊らされつつ
 も、やはり、真の独立は、自らの闘いで取り戻さないと
 達成できないと悟ったベトナム人愛国者たちは、194
 1年、ホー・チ・ミン氏を呼び戻しました。

              では、また。
              明日。


 今日は1日自由行動でした。
 私は昔プロのためのリサーチをしていました。
 ホーチミンの友人に会ったりしまして、いろいろなベト
 ナム情報を入手しましたぜ。
 カルロス・ゴーンにも会いましたぜ。でも話しはしませ
 んでした。
【旅日記】
 2日目は、朝9時から恒例のベトナム語会話講義です。
 今年もホンバン大学の日本語コースの中に、無理を言い
 まして、語学研修時間を設定してもらいました。
 
 大学へ行くと、昨年と同じ顔ぶれの先生方が出迎えてく
 れました。ハイ先生も元気そうで、あれから1年も経っ
 たとは思えない再会でした。
 
 昨年、担当をしてくれたキムダイ先生は、所用があった
 ため、学長のホン先生が、直接に指導をしてくれました。
 ホン先生は、日本の外語大学でも教えていたことがあり、
 日本語を交えながら、きびしい授業を展開してくれまし
 た。それにしても、私としては、2年目ということで、
 もう少しさまになる予定だったのですが、何も蓄積され
 ていないことが露呈しまして、汗だくな授業でした。

 今年は、ベトナム人の学生で、初級の日本語会話を履修
 している学生たちとも交流する時間があり、彼らの積極
 的なアプローチの前にタジタジとなったわけです。

 ベトナム語は、もともとは、漢字を中心とした言葉だっ
 たのですが、フランスの植民地時代にローマ字が導入さ
 れ、漢字だった言葉にローマ字読みの音がつけられるよ
 うになりました。ただ、中国語読みの漢字には、声調と
 いう音のアクセントがあるので、それを表現するために
 チョロチョロ印のような声調記号がつきます。

 このことは、ベトナムに2つのことをもたらしました。
 1つは、漢字時代の文献を読める人が少なくなってしま
 った。そして、もう1つは、逆に昔、漢字を読める人は
 限られた人だったのが、アルファベットが読めれば、み
 んな文字が読めるようになり、国語や文学が発展した。

 このように言葉っていうのは、なかなか難しいですね。
 一つの言葉が長く続くかないとその国の文化や歴史がそ
 の後の世代に引きつがられないですし、かといって、特
 権階級だけが使える言葉では、これとて大衆の文化や歴
 史が伝わりませんし、言葉がなくなれば、その地域の文
 化が失われることにつながるわけなので、国の文化とし
 て、とても重要な要素である気がします。

 世界の中では、自分の国の言葉を放棄してしまって、公
 用語を英語だけにしてしなう国などがありますが、そう
 いう国の伝統的な文化ってどうなっているんでしょうか。
 興味が湧きました。

 ともかく、ベトナムの場合は、漢字表記からアルファベ
 ット表記に換えたことによって、多くの大衆文化が育ち
 ました。また、ルーツは漢字ということで、日本語と共
 通した発音意味の言葉もいくつかあります。例えば、茶
 (チャー)、歌手(カーシー)、公安(コウアン)のよ
 うにです。

 外国に来ると生活の中で頻繁に使うことばがよくわかり
 ます。ベスト3は、1位(挨拶)、2位(数字)、3位
 (これとかあれ)というところでしょうか。挨拶は、先
 日書きましたように、たどたどしいとしても初対面の人
 に挨拶をするとしないとでは、その対応がまったく変わ
 ってしまうことがあります。やはり、自分の国ではない
 所に行くわけですから、せめて、相手の国の言葉で挨拶
 をするよう心がけたいと思います。要するに主体的に来
 て、あなたの国のことをよく知りたいんです。という意
 志表示になるような気がします。そして、数字、これも
 利用価値が大です。買い物から始まって、ご飯代を支払
 うとき、食事をオーダーするとき、乗り物に乗って代金
 を払ったり、行く先の住所を言ったりするとき。数字も
 最低限1〜10まで覚えれば、大きな位のときは、数字
 を並べれば、どうにか意味は通じます。そして、最後に
 指示語ということになるでしょうか。あれをくださいと
 か、これをくださいとか、これとこれなどいうように。
 指示語が使えると、タクシーなどで、どこかへ行きたい
 ときなどは、住所を書いた紙を運転手さんに見せて、こ
 こに行ってくださいと言えばokになるわけです。

 それでは、皆さんももう一度。
 シン・チャオ・オン
 シン・チャオ・チ
 タン・ビエット・アイン
 タン・ビエット・チ
 シン・カム・オン  ホン・コン・ジー

 モッ・ハイ・バー・ボン・ナム
 1・2・3・4・5
 サウ・バイー・タム・チン・ムオイ
 6・7・8・9・10

 チョー・トイ・カイ・ナイ
 チョー・トイ・カイ・ドー
 チョー・トイ・カイ・キア

 モッ・ハイ・バー
 モッ・ハイ・バー

【今日のジャーナル】
 戻ってきたホー・チ・ミン氏は、独立ののろしを上げる
 ときは、日本が敗戦をするときであると焦点を定めその
 ための準備にとりかかります。
 
 まず、彼が行ったことは、政策の転換でした。今までは、
 ベトナムの独立=インドシナ全体の独立という運動方針
 でしたが、この段階においては、まずは、ベトナムその
 ものの独立を先にしようという形にしました。

 そして、ベトナム正規軍であるベトナム人民軍の前身の
 ベトナム解放軍宣伝隊を結成します。

 その間、新しい占領国であった日本は、フランスが、ナ
 チスよりの政権を作ったことを理由に、そのまま、フラ
 ンスに統治をさせ、日本との共同支配の形をとりました。
 このことによって、農村部を中心に、2重の搾取をしら
 れたベトナムは、北の省を中心に闘い、植民地政策の及
 ばない解放区を作っていきました。

 1945年8月、日本降伏の知らせを聞いた、ベトミン
 (ベトナム独立同盟)は、ベトナム全土に蜂起の呼びか
 けをします。この呼びかけに対して、各地の大衆はよく
 応え、解放運動は進んでいきました。と同時にホー・チ
 ・ミンをはじめとするリーダーたちは、社会主義者だけ
 ではなく、各分野から幅の広い指導者たちを総選挙によ
 って集め、ベトナム民主共和国の設立を宣言します。

 ここで、この新しいというか、再スタートを切ったベト
 ナム民主共和国という国が、世界の国々から、すんなり
 と承認をされていれば、この後の長い闘いに乗り出さな
 くてもよかったと思います。がしかし、そのようにはい
 きませんでした。

 フランスは、インドシナ植民地の放棄の意志を持っては
 いず、さらにそれよりもやっかいな、冷戦の構図という
 ものに組み込まれていったのです。

 冷戦の構図については、次回説明したいと思います。

  飯の時間が近づいてきたので、今日はこのへんで。
                では、また。

 やばいほど涼しい。
 今日、無事にベトナムより帰国しました。
 気温差は、約30度、いや、もしかしたらそれ以上ある
 のかもしれません。ベトナムのあの熱い空気をうまく、
 日本へ持ってくることができたら、お互い助かるのにな
 と思うのでした。

 【今日の1日】
 帰国後、この間にたまった事務的な仕事に着手しました
 が、旅の疲れか目が痛いので、早々に撤退することにし
 ました。旅日記とベトナム現地報告は、まだ、残ってい
 ますので、明日からも少々続けます。

 それと、ベトナム関連のHPもいろいろ作成をしますの
 で楽しみにしていてください。
 
         ということで今日は、これまで。
            サラバ KAN

 朝、時計を日本時間に直すの忘れていて、やけに朝が遅
 いなと思っていたら、もう既に活動時間でした。
 南国ボケです。

【旅日記】
 語学研修を終えた後、ホーチミン市の中華街であるチョ
 ロンへと行きました。
 
 中華街と言っても日本のような感じではなく、むしろ、
 もっと大きく、中華系の人たちが暮らす街という感じで
 す。

 歩いて行くには、少々遠いので、タクシーを利用しまし
 た。さっそく語学研修が生きます。「チョー・トイ・デ
 ン・チョーロン」が、そうは簡単には通じません。声調
 が正しくないのです。チョーロンなのか、チョロンなの
 か、チョローンなのか、私たちにとっては、その変わり
 はなかなかわからないのですが、声調が違うとまったく
 通じないのです。何パターンか話すうちにどうにか通じ
 て、チョロンへと向かいました。

 元はと言えば、メコンデルタで取れる、米の売買などを
 商売の中心にするために中国から来た華僑たちがそのま
 ま住みつき一つの街を形成しました。

 たくさんの専門店が並ぶ、まさに喧噪の町です。中でも
 その中心にあるビンタイ市場の周辺は、どんちゃん騒ぎ
 のような感じです。ベトナムをはじめとする、おそらく
 周辺の国の商人たちも交じっていると思います。そんな
 買い付けの風のオヤジさんたちや日常の台所を仕切るお
 あばちゃんたちが、あちらこちらの露天のお店の前で、
 商談に花を開かせています。

 金物屋、生地屋、お菓子屋、魚屋、肉屋、乾物屋、靴屋、
 鞄屋、薬屋、文具屋、漢方薬屋、八百屋などなどとあり
 とあらゆるお店が集まり、町全体が、スパーマーケット
 というか百貨店のようになっています。その迷路のよう
 な店と店の間の路地を歩くと何か別の星に降り立ったよ
 うに思えてきます。
 そんな路地、路地で、子どもたちは鬼ごっこしたり、将
 棋をしたりして遊んでいます。おばちゃんたちは、店先
 で、例のお風呂場にあるプラスティクの椅子に座り、何
 を話しているのかわかりませんが、ともかく、楽しいそ
 うに近所の仲間と大声で会話をしています。

 今、ベトナムは、こうした中国系の人たちをはじめてと
 して、54の民族で構成されています。一番多い民族が、
 キン族です。その他には、南アジア語族のモン・クメー
 ル系、タイ系、メオ・ザオ系やマラオヨ・ポリネシア語
 族、シナ・チベット語族の漢語系、チベット・ビルマ語
 族などに分かれます。人数的には、一番多い、キン族を
 筆頭にして、中国系、クメール系と続き、その他の大多
 数が、様々な小数民族によって構成されています。

 このことは、ベトナムという国を知るにあたり、とても
 大事なことです。つまり、ベトナムは、他民族国家なの
 です。これは、国の中における政策を決定するには、こ
 うした、様々な民族の同意なしには、政策を進めること
 ができないことを意味しています。こうした国において、
 指導的な立場の人たちの役割は重要です。このような、
 他民族国家をまとめ続けていたのが、前出のホー・チ・
 ミンという人だったのです。

 彼は、ベトナムという国を独立させていくためには、多
 くの少数民族の人たちの理解と同意が必要であると考え、
 この案件に対して、非常に気を使いました。今、彼の死
 後も、ユーゴスラビアのように、チトー大統領亡き後、
 民族紛争が勃発してしまった国などとは対照的に、他民
 族国家としての機能は失われていないようです。彼が作
 った基礎がいかによかったのかということがよくわかり
 ます。

 少数民族の人たちは、いろいろな文化を継承しています。
 中でも各民族の持つ民族衣装などは、目見張るものが数
 多くあります。機会があれば、そんな村々を回る旅もし
 てみたいと思っています。

【現地報告】
 先日話しをしたように1946年に成立したベトナム民
 主共和国が、国際社会から承認をされていれば、その後
 のさらなるベトナム戦争は勃発しなかったかもしれない
 と言いました。

 では、なぜ、ベトナム民主共和国は、すんなりとは国際
 社会の中で承認されなかったのでしょうか。

 ここに何度も話しの中に出てくる、「冷戦」という問題
 が関わってきます。繰り返しの話しになってしまいます
 が、「冷戦」とは、第2次世界大戦直後からはじまった
 世界観の違いからくる陣取り合戦のようなものです。そ
 の争いの中心は、主に資本主義陣営のリーダー国を自認
 するアメリカという国と、「社会主義」国のリーダーを
 自認するソビエトという国でした。資本主義、社会主義
 については各自に学習をしてもらうとして、特にソビエ
 ト型社会主義に関しては、現在の状態からも分かるよう
 に本当に本来の社会主義であったのかと言うと、少々、
 疑問符がついてしまいますので、ここでは深入りをしま
 せん。

 さて、ベトナム民主共和国が成立をしようとしていたこ
 の時期の世界の情勢を簡単に説明をしますと、まずは、
 アメリカをはじめとというか、アメリカの話しそのもの
 ですが、アメリカをはじめとする西側資本主義陣営とし
 て言えることは、一つには、大戦で、生産力や消費力を
 失ってしまったヨーロッパ地域なのが早く経済的に復活
 してくれないとアメリカ経済としても困る。そして、今
 後のアメリカ経済の得意先になると思われるアジア市場
 を早く押さえたい。

 一方、ソビエトを代表とする社会主義陣営と言っても、
 これもソビエトと中国が中心ということになりますが、
 先に社会主義の国となった、ソビエトは、資本主義国の
 対抗の軸として、戦後の世界において、早く仲間の国を
 作りたかったと同時に世界の指導的立場を確立したかっ
 た。また、社会主義国のリーダー国としての経済力を早
 くつけたかった。ソビエトより遅く社会主義国になった
 中国は、やはり国際社会の中での発言力を回復したかっ
 た。

 まあ、早い話しが、両陣営とも早く自分たちの経済圏を
 確立したかったという状況だったわけです。

 そうした時期に社会主義者であるホー・チ・ミン率いる
 ベトナムという国が独立をしようとしている。これは、
 非常に微妙なバランスです。ただ、ホー・チ・ミン自身
 は、こうした国際社会の微妙なニュアンスは十分に理解
 をしていて、独立に先だって、共産党を解散したり、政
 府の閣僚は、先も書きましたように各階層からバランス
 よく登用したりして、あくまでも民主共同政府であるこ
 とを内外に宣誓します。しかしながら、そうしたベトナ
 ムの国の努力とは裏腹に、二つの陣営のもくろみに沿っ
 てことは進んでいったのです。

 当面の敵であった、フランスに対して抗戦を挑んでいた
 ベトナムの対して、アメリカは、上記の理由から影でフ
 ランスの支援をつづけます。ソビエト・中国は、ベトナ
 ム民主共和国を承認するも、あくまでも自分たちの仲介
 によって丸く収まったこと、つまり自分たちの外交手腕
 を内外に誇示しようとします。

 ベトナム側はフランスに対して徹底抗戦をした結果、難
 攻不落と言われた、ディエンビエンフーの戦いに勝利し、
 1954年ジュネーブ会議に臨みます。がしかし、ベト
 ナム側が勝利をし停戦のための会議であったのにも関わ
 らず当時国の他に、米・英・ソ・仏・中の両陣営の大国
 や、さらにこの間、アメリカが南ベトナムに傀儡政権と
 して作ってしまったベトナム国まで招かれていたのです。

 見るからに大国主導で停戦後のことが決めれそうなこの
 会議において、両陣営のベトナムに対する干渉は、露骨
 でした。アメリカと南の傀儡政権は拒否、東側は、自分
 たちの仲介力を見せるために不利な休戦案をベトナムに
 受諾させようとします。

 実行されることに何の保証もなかったこの停戦会議案の
 柱は、2年後に統一選挙を実施することを前提に北緯1
 7度線を暫定軍事境界線とするものでした。誰がどう見
 ても反故にされることが大であったこの案に妥協をせざ
 るを得なかったベトナムの状況は複雑でした。

 当時言われた、ベトナムの中心的な心情は、一つは、こ
 の時点でもう既に、10年近く経った戦争を早く終わら
 せたかったという気持ちと、いくら何でも世界の大国と
 よばれ民主主義の国を標榜しているアメリカが、アジア
 の片隅の国に軍事的な干渉などしてこないだろうという
 気持ちでした。

 そんなベトナムの人たちの思いとは別に歴史は動いてい
 ったのでした。

              長くなりました。
              今日はこのへんで。
        タンビェット・セー・ガップ・ライ!

【旅日記】
 喧噪の街チョロンを離れ、次に私たちが向かったのは、
 歴史博物館です。ベトナムの歴史が、各時代ごとに展示
 をしてあり、なかなか興味深いです。様々な国の博物館
 に行っているのですが、各時代の中でもいわゆる古代の
 時代は、どの国に行っても共通な部分が数多くあり、と
 ても不思議な気持ちになります。例えば、石器や土器な
 どの形状や模様などは、各国共通です。それは、道具の
 必然として共通なものになったのか、それとも、ルーツ
 が一緒で同じものになったか、継承されたものなのだと
 したら、世界は今より一つだったわけで、現在ある国家
 間の仕切など、ずーっと低い世界だったと思います。

 ベトナムの歴史の中で、異彩を放っている時代が一つあ
 ります。それは、2世紀〜15世紀にかけて、中部・南
 部で栄えたチャンパという国家です。インドの影響を受
 けた彼らは、南シナ海をその活動の中心として活躍する
 海洋民族でした。

 彼らの活躍の中でも、12世紀にその絶頂期を迎えるチ
 ャンパ美術、その彫刻やレンガを使った建築物は、独自
 の造形を生みだし、その周辺にある大乗仏教に属する仏
 像や神像とともに、今なお高い評価を得ています。

 博物館の中にあったチャンパの多くの石仏は、時代を越
 えて、何か安らぎと平穏の心を伝えています。これらの
 歴史的に重要な遺産の多くが、後世のベトナム戦争など
 によって、壊滅的に破壊されたと聞きます。まったく、
 もったいないことです。

 歴史博物館の見学を終えた私たちが最後に訪れたのは、
 ホーチミン市に来ると毎年、欠かさず訪れている、プリ
 ンの店、キムタインです。この店のプリンは、自分の内
 の牧場から仕入れてくる乳製品を材料にして、自家製で
 つくられています。フランス仕込みのプリンは、ベトナ
 ムでは、バイン・フランと呼ばれ、庶民的なデザートの
 一つとして、たいへん好まれています。中でも、ここキ
 ムタインのプリンは、その濃厚な味にファンも多く、店
 の席は空くことなく、いつも老若男女でにぎわっていま
 す。
 道路の見える席を陣取り、プリンをちびちび食べながら
 アイスコーヒーを飲む、しあわせ感と言ったら何も言う
 ことがありません。

【現地報告】
 冷戦構造の定着化は、ベトナムの独立をさらに困難化さ
 せました。特に、東南アジア地域におけるアメリカの利
 益性が高まるにつれ、アメリカのアジアに対する干渉度
 は、大きくなっていったのです。

 アジアにおける利権を手放したくなかったアメリカは、
 当時、中国の社会主義革命やソビエトの影響に増加によ
 って、反米独立の動きが活発化してきた、日本をはじめ
 とするアジア諸国に対して警戒心をいだくようになって
 きます。中でも、資本主義陣営と社会主義陣営の直接的
 な切り破となっていたベトナムに対して、ドミノ理論な
 る口実を盾にして、あからさまな干渉ならびに影響力の
 固定化をすすめます。結果として、アメリカの後押しに
 よってできた、南ベトナムの傀儡政府であるゴ・ディン
 ・ジエム政権は、安定度を増すことになり南北ベトナム
 の固定化がさらに進んでしまいます。

 ジュネーブ協定で、決められていた南北統一も実現でき
 ないままに、アメリカの影響によって、南北が固定化さ
 れていく状況を見たベトナムの人たちは、独立に対する
 意識を変更せざるを得なくなってきます。やはり、自国
 の独立は、自分たち自らの手で闘いとらなくてはいけな
 いと。

 腹が決まったベトナムの人たちが最初に決心をしたこと
 は、傀儡政権に牛耳られてしまった南ベトナムの解放で
 した。そこで、南ベトナムに住む様々な分野の人たちが
 自らの手で解放を勝ち取ろうと、1960年2月、南ベ
 トナム解放民族戦線を結成します。

 南ベトナム解放民族戦線は、その初期の段階において、
 軍事的には、専門ではない南ベトナムの一般の市民たち
 が中心になって結成された集団でした。つまり、この段
 階においては、南ベトナムの解放のために南ベトナムの
 人たちが中心となり対抗の組織を作ったわけです。

 一方、アメリカの方もこの段階では、直接的な関与は避
 け、傀儡の南ベトナム政府軍などに軍事顧問、民間人な
 どという立場で、裏から援助をしていました。

 ところが、傀儡政府のジエム政権が、独裁的な性格を強
 めた結果、南ベトナムの市民の意識は、解放民族戦線を
 支援する意識が強まっていきます。ゲリラ戦に徹した解
 放民族戦線が、1963年1月のアプバクの戦いにおい
 て、アメリカ軍事顧問団指揮する南ベトナム政府軍(サ
 イゴン軍)を破ります。この頃から、アメリカの直接的
 軍事介入が予想されるようになってくるのでした。

                では、また。
                明日。

【旅日記】
 2日間のベトナム会話の集中講義もどうやら終わり、3
 日めは、ここホーチミンから約北西へ約70kmほど行
 ったところにあるクチという街へ行きました。
 
 サイゴン河沿いにあるこの街というか、この地域は、ベ
 トナム戦争時、鉄の3角地帯と言われ、難攻不落の南ベ
 トナム解放民族戦線の拠点があった所です。そんな拠点
 がなぜ、有名なのかと言いますと、当時、アメリカの傀
 儡政府であったサイゴン政府の軍隊とそれを支援をする
 アメリカ軍は、アメリカ軍の伝統的な攻撃パターンであ
 る物量作戦で解放戦線側を一掃しようとします。陸から
 は、戦車や火炎放射器、空からB52の空爆、そして枯
 れ葉剤などとありとあらゆる近代兵器を使い攻撃をしま
 した。

 それに対して、一般の市民や農民たちが中心であった解
 放戦線部隊は、徹底したゲリラ作戦で対抗したのです。
 サイゴン政府のあるサイゴンまでは、河づたいでいけば、
 近い位置にあったこの地域は、戦略的にも重要な場所で
 した。

 昼間は、アメリカ軍やサイゴン軍が、その機械力に言わ
 せて傍若無人に暴れ回り、荒れ野原となったこの場所で
 も地元のゲリラたちは、夜になると地下に掘って待避を
 していたトンネルから這い出てきて、食料用に畑をつく
 ったり、敵に夜襲をかけたりしていました。
 そうです。この地域は、網の目と言いますか、蟻の巣と
 言いますか、3層にもなった地下トンネルが張り巡らさ
 れているのです。トンネルの中には、様々な罠があると
 同時に、会議室や台所、病院など生活に必要な設備がそ
 のまま準備をされていたのです。

 その総延長は、250kmにも及んでいました。

 対抗兵器の装備もあまりなかった解放軍側は、アメリカ
 軍やサイゴン軍が逃げていくときに残した武器や不発弾
 などを再利用して、自分たち流の武器を作り戦ったそう
 です。

 ここまでして、自分たちの国の独立のために戦ったベト
 ナム人たちは、独立の意味がそれだけ尊いということを
 身にしみてわかっていたのだと思います。

【現地報告】
 1963年ころになってくると、アメリカの援助によっ
 て作られた南ベトナム政府は、その独裁性を強めていき
 ます。南ベトナム市民の間でもそうした恐怖政治に対し
 て反抗する動きがあちらこちらで起き出します。その状
 態を危機的なものであると判断したアメリカは、軍部に
 クーデターを起こさせて、ジエム政権を打倒させます。
 こうした動きは、結果としてさらにサイゴン政府を市民
 から離れさせる結果となります。

 このように多大な援助をしているにもなかなか自立がで
 きないサイゴン政府の原因を北ベトナムからの援助の結
 果であると決めつけたアメリカは、(実は、この時点で
 は、北の方はあまり直接的な援助はぜず軍事力をはじめ
 勢力を温存していた)すこしずつその牙を直接、北ベト
 ナムに対して向けつつありました。

 その最初のちょっかいが1964年に発生した、トンキ
 ン湾事件と北ベトナムへの爆撃でした。しかし、こうし
 た脅かしも戦況を一新するまでにはいたらず、むしろ、
 サイゴン政府軍の敗退が目立ってくるようになります。

 そして、ついにアメリカは、解放戦線に対する報復攻撃
 をサイゴン軍にはまかせておけず、自らの手で行うこと
 を決定するのです。1965年、2月、3月を境にして、
 65年には18万人、66年には38万人、67年には
 48万人、68年には53万人というアメリカ兵がベト
 ナムに投入されていくのでした。

 このときのアメリカ軍の戦争介入の理由は、2つありま
 した。1つは、以前から言っていた、「自由を守るため」
 そして、もう1つは、ベトナムの中で起きている内戦、
 反乱軍の攻撃から、自分たちが支援をしている本政府を
 守るためというものでした。

 こうしたアメリカの動きは、いくら何でも民主主義の国
 を標榜しているアメリカという大国が、こんなアジアの
 片隅の国へわざわざ軍隊をよこさないであろうと思って
 いたベトナムの人に腹をくくらせます。自国の独立は、
 自らの手で勝ち取らなくてはいけないと。今まで、温存
 されていた、北の正規軍の投入が決定し、物資を供給す
 る俗にいわれるホーチミンルートの整備もすすめられま
 す。

 北の一大攻勢を前にホー・チ・ミン氏が言った言葉は有
 名です。「戦争は、5年、10年、20年、あるいはそ
 れ以上にながびくかもしれない。ハノイ、ハイフォン、
 その他の都市、企業が破壊されるかもしれない。しかし、
 ベトナム人民は恐れない。独立と自由ほど尊いものはな
 い。完全な勝利の日が来たら、わが人民は、わが国土を、
 より立派に美しく再建するだろう」1966年7月17
 日。

 ここまで、アメリカを危険な賭に進ませた本当の理由は
 何であったのでしょうか。次回はそこらへんの話しをし
 たいと思います。

                 では、また。
                  明日。

【旅日記】
 クチのトンネルを見て、かなり体力を消費したので、今、
 ホーチミン市で流行っているヤギ鍋を食べに屋台へ、ヤ
 ギ鍋といい、屋台といいまさにディープなベトナムの夜
 です。暑さも吹っ飛ぶパワフルな夜でした。

 次の日は、朝も早から車に乗って、メコンデルタ方面へ
 と出かけました。メコン河は、インドシナ最大の河で、
 全長約4500km、流域面積約81万平方km、チベ
 ット高原に源を発し、中国、ミャンマー、ラオス、タイ、
 カンボジアの国々を流れ、最後にベトナムを通過する。

 最後とはいうものの河口に位置するベトナムでは、毎年
 のように氾濫をし、その河口の位置を変えてきた。そん
 な暴れん坊のメコンのことをベトナムの人たちは、9つ
 の龍の頭といい、クーロンと呼ぶ。

 しかし、そんな暴れん坊のクーロンも暴れた後に残して
 いく残土は、豊富な栄養分を含み、農耕、特に米栽培の
 土壌として、ベトナムの人たちに多大な恩恵を与えてき
 た。メコン流域は、世界でも最大級の米作地帯である。

 そんな肥沃なメコンデルタに目をつけたフランスは、デ
 ルタ地帯に無数の運河を掘った。今回のデルタの旅は、
 そんな運河を巡る旅でもある。

 ホーチミン市を出ること小1時間も車は走っただろうか、
 いつしか回りの風景も、二期作の刈り入れが近い田園風
 景へと変わっていた。南部の背骨である国道1号線を車
 ひた走る。ホーチミンに増して、日差しが強くなってく
 る。回りの木々は、ニッパヤシを中心とした南国特有の
 林に変化をしている。昨年は、フェリーボートで渡った
 メコンの支流の一つに、立派な橋がかかっていた、オー
 ストリアとの合弁で作った橋は、まさにメコンのベイブ
 リッチの様相を呈していた。橋の最上部から見るメコン
 デルタ一帯の景色は、地平線の彼方までジャングルがつ
 づく緑の絨毯を引き詰めた場所だった。

 さらに進んだもう、河口まで、そう遠くない街、ビンロ
 ンにつく、昼御飯を食べた後、そこからは、小船に乗り
 換えて、さらなる奥地をめざす。小さな運河に入り込ん
 だ。両岸の岸辺には、小さな家が立ち並ぶ、小径を子ど
 もたちが、歓声をあげて走りさる。川岸では、女たちが
 髪をすき、食事の支度をする。デルタの中にある小さな
 中州に船はついた。
 ただ、板をわたしただけの桟橋をおそるおそる渡り、島
 に上陸する。ニッパヤシの林、咲き乱れる原色の花々、
 野生なのか植樹なのか、枝枝にたわわに実った実をつけ
 た南国フルーツの木々、マンゴ、パパイヤ、バナナ、プ
 ラム、ドラゴンフルーツ、パイナップルなどなどなど。
 
 林の中にある一軒の家へと招き入れられた。母屋の隣に
 ニッパヤシで作られた庵がある。回りには、ハンモック
 が吊らされ、娘さんが気持ちよさそうな姿勢で器用に揺
 られている。家のご隠居様、いや、今でも現役のタン爺
 じが、まずは一杯と自家製のどぶろくをすすめる。「う
 まい」と言ったら最後、次々に自家製の酒が並ぶ。最後
 に出てきたのは、イモリというかトカゲが浮かぶ、強烈
 なやつ、爺じは、これで私は元気がいっぱいよと、80
 歳に到底見えない二の腕を私の目の前に突き出す。

 船に酔ったのか、酒に酔ったのかフラフラとした足どり
 で、船に戻る。小船はさらに奥地を目指す。

 運河の幅もさらに狭くなり、干潮とあいなって、船底を
 すらないために乗客が位置移動を繰り返す。ガイドのマ
 イさんの鼻歌が、デルタ旅情を盛り上げるのです。
【現地報告】
 アメリカは、ベトナム戦争に介入するにあたり、彼らは
 あくまでも内紛に対する支援という姿勢を崩しませんで
 した。これは、実はアメリカの利益のために動いている
 ということを国際世論に見せなくするためのカモフラー
 ジュでした。

 世界最強のアメリカ軍が直接的に介入すれば、こんなア
 ジアの片隅で起きている内紛などは直ぐ収まるであろう
 とアメリカは踏んでいました。

 しかしながら、アメリカの持つ大きな兵力を投入しても
 状況はなかなか変わりませんでした。これにはいろいろ
 な理由がありました。

 1つには、戦っている人たちのモチベーションの違いで
 す。ベトナムの人たちは、自国の独立と自由の確保のた
 め、必死です。それに対して、自分自身としてのモチベ
 ーションのはっきりしないアメリカ兵たちは、いくら世
 界の自由のためと言ったって、農民や市民を相手に攻撃
 をするわけですから、この攻撃に何の意味がるのか考え
 てしまうわけです。

 そして、現場に戦い方の間違えです。前にも書いたよう
 にアメリカ軍が得意とする戦い方は、豊富な物資を前面
 にたて、機械化部隊の力で前線を押し切る消耗線です。
 しかし、ここベトナムでは、その多くの場所がジャング
 ルの高山地帯であったり、河によって進行を遮られるデ
 ルタ地帯であったのです。頼りの機械化部隊も投入でき
 ず、空からの爆撃に頼りがちの攻撃は、地上で戦う対ゲ
 リラ攻撃に有効な手段としてはつながりませんでした。

 さらに、アメリカ軍が誤算をしたのは、アメリカが直接
 介入したことによって、総力戦を覚悟したベトナムは、
 今まで温存していた、北の正規軍を投入したということ
 です。これは、北側にとっても犠牲を拡大したことにも
 なりはしましたが、確実の兵力の補給をすることになっ
 たので、アメリカ軍が考えているような大きな打撃をベ
 トナム軍に与えることはできなかったのです。

 まだ、あります。それは、政策決定のプロセスです。ベ
 トナム側は先にも書きましたように、総力戦覚悟の必死
 の戦いです。したがって、戦争に勝利をするための政策
 決定は迅速かつ正確さが必要でした。状況、状況に合わ
 せた柔軟な対応が必要でした。一時の判断ミスが、多く
 の犠牲者や勝敗の分かれ道になるからです。すばやく決
 めて、すばやく実行する。それに対して、負けがこんで
 きてからのアメリカの政策決定は、遅々として進まなく
 なります。アメリカの政策史上、一度も負けたことのな
 いアメリカ軍は、初めて負ける大統領、政府になりたく
 ないという見えないプレッシャーが働きました。担当時
 の大統領たちは自分の在任中、もしくは最後の局面では、
 勝っている状況を演出して、次の指導者に印籠をわたし
 ました。このことが、アメリカの対応を後手後手に回す
 ことになります。

 ベトナム各地で、優位に戦いをすすめていた解放戦線側
 は、一気に局面をすすめるがため、1968年1月にテ
 ト攻撃という作戦に打ってでます。

            結果については、また次に。
             では、また。

【旅日記】
 ビンロンの沖というか、中州にあるアンビン島を後にし
 て、私たちはさらにメコンの中心部へと足を踏み入れま
 した。今日の泊まりは、ホーチミン市から車で約5時間
 のところにある、カントー省の省都であるカントー市で
 す。人口約33万人のメコンデルタの中心都市は、メコ
 ンデルタの米が集まってくる場所としても有名です。

 カントー河をフェリーで渡ると直ぐにカントーの中心街
 に入ります。ホーチミンに比べれば、やはり、地方都市
 なので、人やオートバイの往来は少な目ではあります。
 しかし、その分、町には、落ち着きがあり、気持ち的に
 は、休まります。

 カントー河の畔に建つホテルに宿をとり、さっそく、メ
 コンデルタで一番と言われているカントーの市場へと繰
 り出してみました。一歩、足を踏み入れてみるとそこは、
 まるで、アミューズメントパークのような場所でした。
 ありとあらゆる食材が揃っています。果物、野菜、魚、
 肉、乾物、お菓子、薄暗い路地の奥にもまだまだ、お店
 が連なります。服屋、金物屋、生地屋、帽子屋、ラジオ
 屋、まるで、何か巨大な生き物の腹の中の入ったような
 底なし感です。
 足下で、海老がはねます。ネズミが横切ります。肉屋の
 姉さんは、笑いながら包丁を研いでいます。臭いと熱気
 にやられフラフラになりながら、ホテルへともどりまし
 た。ホテルの前がちょうどカントー河です。明日は、河
 の上流で毎朝行われている水上マーケットへと行きます。
 朝、5時起きなので、あっと言う間に今日寝ることにし
 ました。10時のチャイムとともに街はなぜか、静まり
 かえりました。

【現地報告】
 戦いを有利に展開していた解放戦線側が、一気に攻めよ
 うと1968年に行われたテト攻勢は、戦闘的には、残
 念ながら解放軍側の失敗に終わります。
 
 それは、どういったことかと言いますと、思った以上に
 サイゴン政府軍ならびにアメリカ軍の抵抗がなかったの
 で、解放戦線側は、進撃をつづけました。結果、最前線
 と後方支援部隊との関係が細長い地域に分布をすること
 になりました。つまり、前線が前に行きすぎてしまい、
 後方支援部隊と前線部隊との間に隙間が出来てしまった
 のです。その隙間にアメリカ軍などに回りこまれ、都市
 部に侵入をした前線部隊が囲まれてしまい孤立し、やら
 れるという事態を招いたのです。

 戦略的には、失敗をしたテト攻勢でしたが、違う形での
 効果が発生しました。

 1960年代の後半ともなりますと第2次世界大戦時と
 は大きく違い、いわゆるマスコミなるものの進歩が著し
 い時代でした。アメリカなどでは、各家庭にテレビなど
 が普及し、世界の出来事がライブでもう見られる時代と
 なっていたのです。

 西側の報道機関がこぞって、このテト攻勢の模様をテレ
 ビ等で流しました。この報道を観て、一番動揺をしたの
 はアメリカの市民でした。政府の発表では、西側の自由
 を守るため、内戦に窮しているアジアの片隅の国へ、簡
 単にケリがつくであろうという憶測のもと支援にいって
 いるはずのアメリカ軍が、政府の発表とは裏腹に、負け
 戦のようなことをやっている。しかも、独立のために戦
 っている農民や市民に対して、残虐な行為をしているよ
 うだ。と見えたのです。

 60年代後半から70年代前半にかけてのアメリカは、
 思った以上に費用ならびに軍事力を消耗してしまってい
 るベトナム戦争が、いろいろな意味で国政に影響を及ぼ
 していました。さらにアメリカをはじめとする西側諸国
 に対して、第3国などの勢力の拡大にともなうオイルシ
 ョックなど、経済的な発展も翳りが見えてきていました。
 
 アメリカは、国の安全保障ならびに経済などの視点から
 見てもベトナム戦争をつづけることが困難な状況になり
 つつありました。また、アメリカ国内の市民の声も、先
 のテレビ報道などの情報から、どうも政府の言っている
 ことは信用ならないと反体制運動にも火がつきはじめて
 いました。

 そうした背景の中、アメリカは、1969年6月に撤退
 をはじめます。その後、徐々に撤退をし、1972年に
 は、2万4千人ほどの規模にまで縮小されます。

 さて、ここで、見ておかなくてはいけないことは、一度
 も負けたことがない。要するに撤退をしたことがないア
 メリカ軍が、どんな理由をつくり撤退をしたかという点
 です。

 大枠というか形式的というか、アメリカが言った撤退の
 理由は、一つは、「今まで支援をしていたサイゴン政府
 軍が十分に力をつけたので、もう支援をする必要がなく
 なった」、そして、「西側陣営の仮想敵国であった社会
 主義国との対話がすすみ共存が可能になってきた」。つ
 まり、戦う理由がなくったということでした。

 こうした、理由を裏付けるため、アメリカは、サイゴン
 政府軍に対する資金ならびに武器供給を強化すると同時
 に対外外交としては、社会主義各国に訪問し、雪解けの
 雰囲気を演出します。

 当初、ベトナム側は、最後の終戦を話し合いによって決
 定しょうとしていましたが、その間においてもアメリカ
 は話し合いを有利に進めるために空からの爆撃を中止し
 ようとはしませんでした。

               では、また。
               明日。

【旅日記】
 カントー(カントーと語尾が下がるとベトナムの人には
 通じない。カントー↑とちょっと大げさなくらい上げる
 と、おおー、カントーねってわかる。やはり、声調は難
 しい)の朝は早い。もう既に、薄暗いうちから、街中の
 人が活動をはじめている。露天の屋台は、朝飯をスタン
 バっているし、ホテルの前の川岸公園では、バトミント
 ン、セパタクローみたいの、太極拳みたいな運動の同好
 の士たちが、朝練にぬかりはない。個人では、目の前の
 カントー河で、朝の一泳ぎをする者もいる。

 カントー河が朝焼けに染まる頃、私たちも河の上流で行
 われている水上マーケット、ようは水上市場の見学に出
 かけた。スパルタンな音を響かせながら、私たちを乗せ
 た船は、上流を目指した。向こうの島や支流からは、学
 生や物売りのおばちゃんたちを乗せた小さい船が、カン
 トーの中心部を目指して、押し寄せてきていた。
 河から見るカントーの街は、どの家も河に面した方にも
 出入り口がある。その玄関先で、朝の食事を作る者、水
 浴びをしている者、洗濯をしている者など様々な生活活
 動が営まれている。その昔、今ほど道路網が整備をされ
 ていなかった頃は、こうした河の道が、庶民の唯一の足
 だったそうだ。当然、中には一生をこうした船の上で過
 ごす者もいる。何本かの支流が合流する所は、たいへん
 な混雑である。小舟の上にもうこれ以上は積めないくら
 いに満載をしたありとあらゆる品物を乗せ、船同志のヘ
 リを付けながら商売をしている。

 少々大きめな船には、家族全員と必ずと言ってよいほど
 犬が乗っている。河の揺れを利用した小さなハンモック
 には、乳飲み子がゆれている。
 まさにメコンは、全てを生みだしている源であるようだ、
 悠々と流れる流れの中に、無数の庶民の命を抱きかかえ
 ている。まさに、メコンに生まれ、メコンに死すという
 人生。メコンは彼らにとって、人生そのものであろう。

 朝焼けの光りの中を私たちを乗せた船は、力強く河を登
 る。

 メコンデルタの臭いを満喫した私たちは、再び都会ホー
 チミン市へと帰途についた。途中、その昔、ここメコン
 デルタをその活動の中心にしていたクメール族の人たち
 の村によった。前にも書いたように、ここベトナムは、
 様々な民族が住む多民族国家だ。クメールの人たちも南
 部を中心にして、生活をしている。クメールの人たちは、
 たいへん信心深く、村には必ず寺院がある。若者たちは、
 成人になる前には、必ず僧侶になり修行をすることが義
 務づけられている。本来、ベトナムは社会主義の国なの
 で、宗教は禁じられているはずだ。しかし、もともと仏
 教が、その文化の中心であったベトナムでは、現在では、
 緩やかな形で共存をしている。こうした柔軟な政策も多
 民族国家を維持できている理由なのかもしれない。

 私を乗せたワゴンは、国道1号線をひたホーチミンへ向
 け走るのでした。

【現地報告】
 ベトナムから撤退をはじめたアメリカは、最後の置きみ
 やげとして、多くの援助をサイゴン政府にしていきまし
 た。そうした援助の結果、サイゴン政府の自立を期待し
 たアメリカでしたが、軍事的な経済に依存していたサイ
 ゴン政府は、当時、世界を襲っていた不況の波まで遮る
 ことはできませんでした。サイゴン政府軍の多くの兵士
 が家族を養うために軍隊の他にも収入源を探さなくては
 いけませんでした。こうした、見えない重圧は、南に住
 んでいる人たちに対して精神的な攻撃となりました。

 また、軍事的な面においてもアメリカから援助された最
 新兵器で身を固めたサイゴン政府軍ではありましたが、
 はじめのうちは、優位に立っていた地方戦線において、
 徐々にその主導権を解放戦線側に奪取されていきます。

 一度、撤退を決め、アメリカ国内における市民の声も戦
 争不支持が主流となる中、アメリカは、再軍事介入は、
 絶対のできない状況でした。そこで、アメリカは、空爆
 の強化とパリにおける協定の有利な締結へと力を入れま
 す。特に和平協定においてアメリカが主張したことは、
 この場におよんでもというか、戦争に介入したときの理
 由はどこかにいかせ、あくまでも2つのベトナム、南ベ
 トナムの独立を認めろ、北の外国軍の撤退などを条件に
 してきました。

 こうした、アメリカの無理難題をベトナム側が了承でき
 るはずもなく、交渉と並行して戦闘は継続しました。和
 平協定においても当面、アメリカ軍の撤退という点を重
 点にして、交渉をすすめていった結果、1973年1月
 27日、パリ協定が成立します。この協定の柱は、アメ
 リカ軍の撤退でした。

 正式にアメリカ軍の撤退が決まった南ベトナムでは、前
 述をしたように、その経済的な柱をアメリカに依存をし
 ていただけに梯子をはずされてしまった形のサイゴン政
 府は、為す術もなく迷走します。当然、サイゴン政府軍
 の兵士の志気も低下し、市民たちの意識も完全独立の方
 がよいという気持ちになっていきます。

 こうした、社会の質の変化を感じとった解放戦線側は、
 76年中にどうにか統一をなしとげようと計画します。
 75年には、中部の解放をめざして、攻勢が開始されま
 す。結果として、なだれを打つようにサイゴン軍は敗走
 していきました。解放戦線側が考えていた以上に、サイ
 ゴン軍側の志気の低下は著しく、中部の主な都市を無抵
 抗のまま解放します。

 この状態を見た革命側は、当初の計画を変更して、75
 年の雨季到来以前において、サイゴン解放をめざすホー
 チミン作戦を決行することを決めます。かくして、19
 75年4月30日、革命軍がサイゴン政権の大統領官邸
 に突入して、戦争は終わりました。

 当時、サイゴンにいた人の報告では、
 4月29日
 銃砲火は、街の境まで達した。
 サイゴン第11区などの底辺住民地域では、武装した男
 女とともの解放戦線の二色金星旗が一斉に掲げられた。
 アメリカ海兵隊のヘリコプター数百機が、空に舞い、ア
 メリカ大使館員や親米派ベトナム人をつぎつぎに南シナ
 海の艦船に運んだ。
 4月30日
 午前10時すぎ、砲声が突然止んだ。
 街路樹にいる小鳥の声が新鮮だった。
 午前11時半、大統領官邸前の大通りを解放軍の戦車隊
 がばく進してきた。先頭の1台が鉄門を破って官邸前庭
 に突入し、やがて、屋上に二色金星旗が高々とひるがえ
 った。

 ともかくこれで、ベトナムは一つのベトナム、自分たち
 だけの国へと戻りました。しかしながら、本当の意味の
 ベトナムの戦後は、この後、89年のカンボジアからの
 ベトナム軍の撤退までお預けとなるのです。

                  では、また。
                   明日。

【旅日記】
 メコンデルタ戻ってきた夜は、だいぶ体力を消耗した
 ので、先日紹介したヤギ鍋を食い、体力を回復させ、
 次の日からの自由行動に向かい体力を温存しました。

 次の日、朝から快晴です。ギンギラギンに太陽は照り
 つけています。ホテルから一歩、外へ出ると、なまく
 らな私の体からは、汗がドバッと吹き出します。

 今回の旅の目的の一つに、「むかしを紡いで今を織る」
 プログラムのリサーチというものがあります。その主旨
 はHPを読んでもらえればわかるとして、ベトナムに伝
 わる伝統的で今でも生活に使用をしているような品物を
 探すという目的があります。

 今回の私が一つの目当てにしていたものは2つありまし
 た。1つは、「陶器」、そして、もう1つは、「少数民
 族が作り使用している織物関係」、リサーチをするにあ
 たり、基本的なイメージを作らなくてはいけません。日
 本において、最低限の文献は読んできているつもりでは
 ありますが、実際のものがどうなっているのかは、現場
 で見てみないことにはどうにもなりません。そこで、最
 初に訪れるのは、歴史博物館や美術館です。前にも書き
 ましたように、ここホーチミン市には、いくつかのそう
 した博物館が点在しています。

 そういった博物館を訪れ、まず目を慣らします。そして
 次に向かうのは、本屋です。特に私が好きなのは、古本
 屋です。美術関係の本を中心に扱っている本屋はホーチ
 ミン市の中にも数軒あります。地元の人に情報を聞き、
 目当てをつけた本屋へと向かいます。本屋の主人や店員
 さんは、たいてい英語が話せます。片言の会話で、こう
 いう本を探していると言うと店のあちらこちらから関係
 している本をひっぱり出してきてくれます。椅子まです
 すめてくれるところまであります。持ってきてくれた本
 をじっくりと眺めます。そう、英語の本ならまだしも、
 ベトナム語の本は眺めるしかないのです。

 今回は、まず陶器に関しては、近代になってから有名に
 なったバッチャンというところの陶器ではなく、その少
 し前の時代の陶器を探してみることにしました。という
 のは、以前、訪れた沖縄の陶器博物館で、沖縄のグスク
 (城)跡から、ベトナム中期の時代の陶器が多く発掘さ
 れると記してあったからです。つまり、琉球に運ばれて
 きたベトナム陶器に似たものがあれば、いいなと思った
 のです。

 そして、日本の絣のパターンやアイヌの文様に似たパタ
 ーンを衣服に生かしているベトナム少数民族の布地を探
 そうと思ったのです。

 手始めにいくつかの土産物屋さん風のところを覗いてみ
 ました。なかなか、当時の焼き方のような陶器や少数民
 族の衣装パターンを生かしたような布地はみつかりませ
 ん。陶器に関しては、そうか、骨董屋に行けば似たよう
 な陶器がるかもしれないと気がつきました。
 
 あるんです。ホーチミン市の裏通りに骨董屋さん街が、
 とりあえず偵察に行くことにしました。角を曲がると、
 あります。あります。いかにも古そうな品物を並べた店
 店が、ショーウインドウや店の棚に飾ってある品々は、
 本や美術館で見たような形式のものばかり、これゃ手強
 い、ともかく店を一軒一軒見て回りました。古いのか新
 しいのか、何がなんだか。そこで、気を取り直して、頭
 の中を整理してみました。そうそう、別に私は骨董を探
 しに来ているわけではなく、ベトナムの昔からのデザイ
 ンや形式をくんでいるデザイン的にいいなと思う陶器を
 探しているのです。ということは、古いとか新しいとか
 ではなく、デザイン的にいいと自分で思う物を探せばよ
 いのだと自分に言い聞かせ、店を見て回りました。しか
 し、いかんせん多くあるので、初日は見るだけで数軒の
 店に目星をつけて帰りました。

 一方、布地の方は、昨年なかった店がありました。その
 店は、北の方の少数民族であるモン族の衣装の古着のき
 着れをリサイクルして、パッチワークのように縫い合わ
 せ、バックや服を作っている店でした。古い布をそのま
 ま生かした品物は、モン族の衣装が現代に再び甦ったよ
 うな、趣があり、たいそう気に入りました。そのバック
 類は、いくか購入してきましたので、皆さんにもご紹介
 できると思います。
 さて、陶器の方は、意を決して、次の日、目星をつけた
 店に行きました。店先には娘さんが店番をしていて、買
 うとなると奥からお父さんらしい主人が出てくるという
 システムです。娘さんは、私の顔を覚えていてくれたら
 しく、直ぐに店の中の様々な陶器を見せてくれました。
 たくさん見た中に、琉球で見たような形式の器をいくつ
 か発見し、「もっとよく見せてほしい」と言いました。
 店なかのテーブルに数点の器を並べました。そこからは、
 お父さんが登場です。片言のベトナム語で聞いてみます。
 「カイ・ナイ・ザー・バオ・ニュウ?」「一つ25ドル」
 「ダッ・クア!!」と言うと親父さんは、電卓を私に渡
 し、自分で打ってみろと言います。いくつか買おうと思
 ったので、とりあえず、10と押してみました。すると、
 親父さんは、そそくさとokと言い、包装をはじめまし
 た。どうやら、年代物ではなさそうです。まあ、でも形
 式が気に入ったからよいかと自分に言い聞かせました。
 
 帰り際に、期待値ゼロ状態で、娘さんに、「ちなみにこ
 れはいつ頃の作品?」とつぶやくようにたずねました。
 娘さんが通訳をしてくれ、親父さんに聞いてくれました。
 親父さんはピクリとも表情を変えずに、「700年前」
 と答えました。訳した娘さんも驚きをかくせず、「とい
 うことは、14、15世紀のものだよね」と確認をする
 私に黙ってうなずくだけでした。んー確かに、琉球で出
 たベトナムの陶器と同じ年代ではある。

 娘まで驚かれた親父さんは、権威付けのためにか古い本
 を出してきて、この形式と同じであると、ベトナムリー
 朝時代の陶器を指さすのであった。
 夢をありがとうオヤジとつぶやきながら店をあとにした
 私でした。ホテルの窓からこの骨董屋街が見えるのです
 が、夜、他の店は、まだ開店しているのに、この店のシ
 ャッターだけがもう既に閉じられていました。また、来
 年も訪ねるぜと心に誓ったのです。勉強してからいこう。

【現地報告】
 ベトナム戦争終了後のベトナムのことについても少し触
 れておこうと思います。
 
 1975年 サイゴン(現ホーチミン市)解放
       ベトナム戦争終結
 1978年 ベトナム軍、カンボジア進攻
 1979年 中越戦争(約1ヶ月)
 1986年 ドイモイ提唱
 1989年 カンボジアから撤退
 1991年 中国と国家間関係を正常化
 1995年 アメリカとの国交正常化
       ASEAN正式加盟
 
 ベトナム戦争後のベトナムにおいて、注意をしておかな
 くてはいけないことは、3つほどあると思います。1つ
 は、中国との関係、そして、カンボジアの問題、最後に
 ドイモイについてです。

 中国との関係については、現在では関係修復がなされて
 いますが、戦後まもなくのころは、ベトナム国内にいた
 華僑の人たちの扱いをめぐり、険悪な状態になりました。
 この見解が正しいかどうかはわかりませんが、ベトナム
 戦争が終了するまでは、今までの関係上、ベトナム国内
 にいる中華系の人々の帰属問題はあまり注目されていま
 せんでした。したがって、中華系の人たちもある意味、
 中途半端な立場にあったわけです。そのため、戦後のベ
 トナム政府は、中華系の人たちに対してベトナムに属す
 るかどうか態度をはっきりしてくれと言ったのです。

 結果として、財産などを没収されると思った中華系ベト
 ナム人たちが、いわゆるボートピープルとして、多く出
 国したのです。こうした中華系の人々に対する政策など
 に対して、本国中国は干渉したわけです。

 ただ、おそらく、ここで他の要素、特にベトナムの側か
 ら見たときに中国に対する感情は、他にもいくつかある
 と思います。もともと、中国の干渉から脱するために努
 力をしてきた側面があったわけですが、ベトナム戦争に
 よって、協力的な関係にならざるを得なかったわけです。
 実際、ベトナム戦争時においても、後でわかることなの
 ですが、中国自体は、背景で自国の外交力の強化のため
 に、ベトナム問題をしたたかに利用した側面は否定でき
 なかったわけです。これは、あまりベトナムの人たちか
 らみれば、おもしろい話しではありません。

 そして、もう一つの話しとしては、カンボジアの問題で
 す。ベトナム戦争末期におけるカンボジアは、自国の独
 立などのためには、インドシナ全体の平和と独立が必要
 であると判断し、ベトナムに対して協力的でした。ホー
 チミンルートの確保などインドシナ半島全体にまで、戦
 域を拡大したアメリカに対して共同で戦いました。が、
 しかし、終戦とともにそのバランスがくずれます。それ
 は、ポルポト派が発言力を持つようになったからです。
 皆さんもご存じの通り、ポルポト派は、カンボジアの独
 立を目指す急進的過激派でした。彼らは、昔から影響力
 を持っていたベトナム系カンボジア人を嫌ったわけです。
 昔、まだ教育などのシステムが確立されていないカンボ
 ジアの人たちは、ベトナムから多くのことを学びました。
 ある意味、影響力が強かったベトナムの人たちは、カン
 ボジアなどにも渡り、指導的な立場になったりしました。

 結果として、ベトナム人やベトナム系の人たちがカンボ
 ジアにおける知識人や指導的な地位を占めるようになっ
 たのです。このことは、少なからず、戦前のベトナムの
 小中華主義(大国主義)を臭わせ、カンボジアの人たち
 をおもしろくなくさせていたと思います。ただ、こうし
 た感情もベトナム戦争を共に戦うことで一体感が発生し
 克服したかに見えました。

 しかし、野心的だったポルポト派は、ベトナム人ならび
 にベトナム系カンボジア人の排斥に乗り出すのです。こ
 れが、いわゆるポルポトの虐殺の始まりです。こうした
 動きに手を貸したのが、時を同じくしてベトナムに干渉
 をした中国だったのです。戦後まもなくのベトナムに対
 して、中国とカンボジアがゆさぶりをかけたわけです。

 こうした周辺国の干渉に対して、ベトナムは、軍事力で
 対抗せざるを得ませんでした。ベトナム国内まで進攻し
 てきた中国に対しての攻撃はともかく、ベトナムとカン
 ボジアの国境近くまで逃げてきたベトナム系のカンボジ
 ア人を助けるため進攻したカンボジア進攻は、西側諸国
 から、侵略というレッテルを貼られてしまい戦後の復興
 のために必要であった国際協力という力をフイにしてし
 まいました。ベトナムのカンボジア進攻に対する西側の
 こうした間違った見方に対して、日本でも何人かのマス
 コミ人などが指摘をしましたが、残念ながら、アメリカ、
 日本は、こうしたキャンペーンの旗振りをむしろやった
 わけです。

 そして、最後にドイモイです。
 ドイモイ(刷新)、ホーチミンの街などを歩いています
 とベトナム歌謡の曲の中にやけにドイモイという言葉が
 出てきます。ここまでキャンペーンをしているのかとよ
 くよく聞いてみますと、どうも恋の刷新ということみた
 いです。ある意味、一般的な言葉なのだなということが
 よくわかります。

 ベトナム戦争が終了した後、ベトナム政府は当然のよう
 に戦後の復興プランを掲げます。しかし、北を中心とし
 た復興プランは、社会主義的な色が濃く、特に、自由経
 済を経験している南の方では、うまく機能しませんでし
 た。そんなところにさらに、回りの国の干渉や西側諸国
 の経済制裁などが重なり、思うに任せない状況だったわ
 けです。

 その中で起きたのが、冷戦の終焉でした。ソビエトの崩
 壊は、ベトナムにおいてもより独自の路線を進めていか
 なくてはいけないことを意味していました。そんな意識
 の反映か、最近では、独自路線の一つの形として、「ホ
 ーチミズム」という考え方が出てきていますが、ともか
 く、ベトナムの経済等を立て直していくためには、より
 柔軟な、政策が必要であると認識されました。その結果、
 導入をされたのが、この、「ドイモイ政策」なのです。

 ドイモイ政策の特徴的なことは、市場経済主義の導入で
 す。社会主義的な計画経済だけでなく、民間の経済活動
 を認めるというものです。政策としては、経済分野に限
 定をしたものではありますが、様々な分野において、自
 由化が進む原動力にはなっています。

 ドイモイ政策のおかげで、特の南部の方の経済力はだい
 復活をしました。一時、国外に出ていた中華系のベトナ
 ム人も帰国しだし、再び商売を始めたりしています。9
 0年代の中期において、成果のあったドイモイではあり
 ますが、ここに来て新たな課題もいろいろ発生はしてき
 ています。若者世代のアメリカ化だとか金権主義だとか
 のような。今後のベトナム政府の対応が注目されます。

 ようやっと、終わりが見えてきました。
 あと1日ぐらいで、FWベトナムの報告は終わります。
 長い間、あつきあいのほどありがとうございます。

              では、また明日。

【旅日記】
 最終日、私は、ホーチミン在住の知り合いであるT氏の
 会いました。1年ぶりで会うT氏は、ベトナム社会にと
 け込み、ちょっとすれ違っただけでは、日本人とは気が
 つかない雰囲気を醸し出していました。最近のベトナム
 事情についていろいろ尋ねてみました。いくつか聞いた
 話の中で記憶に残った話しを一つ二つ紹介したいと思い
 ます。

 やはり、ここホーチミン市において、全体的に言えるこ
 とは、若者たちを中心にして、急速に欧米化が進んでい
 るということでした。ただ、当局としては、節度ある自
 由化を望んでいるようで、締めるところは締めているよ
 うです。

 こうした状況の中、日本企業としてのベトナムブームは
 一段落した感があるが、若い女性を中心とした、ベトナ
 ム雑貨などを目当てにした旅行ブームはつづいているよ
 うです。最近、こうした日本人旅行客をターゲットにし
 た犯罪が多くなっているそうです。毎日のように被害届
 けがある事件は、街で出会った、ベトナム人ではない外
 国系ベトナム人が、フレンドリーに近づいてきて、「じ
 ゃー、私の家でお茶でも」と、家に行き、談笑をしてい
 るとトランプ賭博の話しになり、ちょうど、そこに訪問
 してくるお金持ち風の外国人と賭をやることになって、
 負け、大金を巻き上げられるという犯罪だそうです。

 都会の街であった知らない人の家へ、直ぐに行く日本人
 の油断をうまく使われているそうです。

 それから、引き締めの一つのあらわれなのかもしれませ
 んが、先日、アメリカのクリントン大統領の訪越の際の
 各新聞社の記事は、非常に小さいものだったそうです。
 戦争には勝ったが、アメリカ的文化が押し寄せてきてい
 る現状について、皆、どう思っているのでしょうか。

 現在日本企業でそれなりの収益を上げているのは、生活
 インフラの整備に必要な電線などを作っている会社だそ
 うです。以前は、あこがれの的であったホンダのバイク
 も、韓国製などの性能は同じで安い製品が多量に出回る
 ようになり、需要はホンダ以外の会社にシフトされたよ
 うです。

 一時、ブームであった日本語熱もだいぶ冷め、今はやは
 り、英語ブームだそうです。観光客は、アメリカ人、日
 本人、フランス人、韓国人、台湾人が多いそうです。ベ
 トナム人も最近、海外にグループのパック旅行などに行
 くようになってきたそうです。

 ホーチミンでは、あまり贅沢をしないのであれば、部屋
 を借りて、1ヶ月、700ドルぐらいあれば、生活がで
 きるそうです。ここ、ホーチミンでも在留邦人は200
 0人ぐらいいるそうです。ただ、家族できた場合、日本
 人学校はなく、インターナショナルスクールも授業料が
 とても高いので、現地校+補習校という組み合わせにな
 るのが、ふつうで、子どもがいる家族は、少したいへん
 かもしれないということでした。

 何か違うチャンネルでのベトナムとの接点が作れたらい
 いなと思いました。
 

【現地報告】 
 ベトナムを巡る歴史の話しは一段落しました。最後にベ
 トナムと日本の関係について、少し話しをして今回の報
 告を終わりにしたいと思います。

 日本とベトナムとの交流が本格的に始まるのは、16、
 17世紀のころの朱印船貿易のころからです。ベトナム
 中部の町であるホイアンには、日本人街が形成され、交
 易の地としておおいに栄えたそうです。当時の記録をみ
 ると、ベトナム人女性などと結婚をし、ベトナムに留ま
 った日本人もだいぶいたそうです。

 その後、フランス植民地時代の交流は少なく、ただ、1
 900年代の初頭などに独立するための運動を日本に学
 ぼうなどという動きがあったりします。

 そんな日本人との関係が、鮮明になる事件の一つは、第
 2世界大戦終了時のことです。当時、ベトナムに駐留し
 ていた日本軍の一部が、そのままベトナム独立同盟(ベ
 トミン)に参加をし対仏独立戦争に参加をしたことだと
 思います。1954年のジュネーブ協定後も約450人
 以上がベトナムに留まり、人民軍の武装勢力養成に貢献
 したと言われています。クアンガイの陸軍士官学校は、
 日本兵が創設した学校だそうです。

 その後、日本との交流が再びさかんになるのは、やはり、
 ベトナム戦争当時です。日本の政府は、当然のようにア
 メリカの同盟国としての立場をとります。アメリカ軍が
 後方支援の物資を日本の企業に発注したおかげで、日本
 はベトナム戦争景気で儲けます。しかし、沖縄県をはじ
 めとするアメリカ軍の基地などを有する自治体市民など
 が中心となり、ベトナム戦争反対の大衆運動は盛り上が
 ります。こうした民間レベルの連帯の動きは、今でもベ
 トナムの人たちの記憶に残っています。

 現在では、経済的には、ベトナムにとって最大の援助国
 にはなっています。長い目で見たよい関係作れるとよい
 です。

 細かいこと、まだまだ書きたいこともあるのですが、そ
 れは、次の機会にゆずりたいと思います。

                それではまた。
                  KAN