フィールドワークベトナム2002
SPOT・REPORT−1
【独り言ベトナム−1】
 山もある、
 川もある、
 人もいる、
 アメリカに勝ったら
 築きあげよう、
 今よりも10倍も美しく


    ホー・チ・ミン


私がベトナムという国に最初に興味を持ったのは、今から30年ほど前の1970年代の頃だったと思います。当時、日本は高度成長の真っただ中でした。そうした、近代化=欧米化路線の仕上げの段階を突き進む日本という国から、南西方角に約3600キロほど行ったところにあるインドシナの国、中国文化圏における日本とも兄弟的な国の1つであったベトナムという国は、西側の巨大大国であったアメリカという国と独立のための闘いを続けていました。時おり日本で紹介をされるベトナムでの戦いの様子は、まるで象にいどむ蟻のような戦いぶりでした。しかし、人々は勇敢かつしなやかに闘い続けていました。そんな様子をテレビなどを通じて観ていた私は、彼の闘いの原動力はいったい何なのか非常に興味を持ったのでした。この興味は、今も続いているわけです。

近代におけるベトナムという国の歴史は、自由と独立のための闘いであったと思います。1887年のフランス領インドシナ連邦成立以降、独立のための闘いは続いていきます。20世紀に入ってからのそうしたベトナム独立運動を支えてきた指導者の一人にホー・チ・ミン氏がいます。彼は、1890年の生まれと言われています。まさに、近代におけるベトナム独立の歴史の中心にいた人物です。

様々な事情を経て、フランス船トレビュー号の船員としてサイゴン(現ホーチミン)から出国したのは、彼が21(1911年)の時でした。1917年に彼がフランスパリに腰を落ち着けるまでの時代は、彼にとって、旅の時代でした。この旅の時代が彼の土台を創った言ってもよいと思います。船員として、世界の各地をめぐり、その土地、土地にある文化や社会的差別、民族的差別、そしてそれらに対する闘いの歴史など多くのことを学びます。後に戦火を交えるアメリカにも滞在したことがあったのです。この旅の時代こそ、彼に愛国者としての火を灯させた時代であると言えるでしょう。
【旅のエッセイ(第1日)】
今は、成田からベトナム最大の都市であるホーチミン市にあるタンソンニャット国際空港に直行便が頻繁に出ています。飛行時間は約6時間、現地との時差はマイナス2時間なので、時計的には4時間感覚で現地に到着します。夕方の便で、日本を経った私たちは、その日の夜10時には、ベトナムに無事到着をしました。時間差は数時間ですが、それ以上に大きな違いは、気温差です。2月の日本は、まだ、冬です。1日の最低温度は、数度の日も珍しくありません。でも、ここベトナムホーチミンの気温は、夜だというのに30度を越えています。飛行機の扉が開き、機内に入ってくる空気は、夏そのものです。そうした温度と同時に私たちを包むのは、ヌックマムの臭いです。土地には、やはり土地それぞれの臭いがあります。ベトナムの臭いは、ベトナムの料理の味付けとして代表的な調味料である魚醤、ヌックマムの臭いだと思います。

この数年で、とてもデラックスになった空港の廊下を抜け、入国審査場へと向かいます。以前に比べて、窓口も多くなり、入国はスムーズになりました。しかし、今回は、テロ事件の影響か、各審査官はいつも以上の鋭い視線を投げかけていました。でも、毎年のように、しっかりとベトナム語で挨拶をすると緊張感ある表情を崩し、にこやかに応対をしてくれることに違いはありませんでした。入国審査を終え、出口近くのロビーへ向かいます。建物内の多くのセクションでアオザイを着た女性の職員がきびきびと働いています。むわっとした空気と臭い、アオザイの女性、ベトナム語の会話、忘れていたベトナムの記憶が、一気に復活をしてきます。荷物を受け取り、空港ロビーを一歩出ると別に私たちを出迎えにきているわけではないのですが、外が見えないほどの群衆が叫び声を上げています。客引きのタクシーの運ちゃんをふり切り、本当に私たちを出迎えに来ている車へとたどりつきました。

もう既に、体中から汗が吹き出しています。バイクや車のクラクションをはじめとする街の喧噪も私たちを迎えています。ようやっと宿にたどりつきました。少々、ぐったりして、ベッドに倒れ込みながら、「これがベトナムだ」とつぶやくのでした。
                 つづく


フィールドワークベトナム2002
SPOT・REPORT−2
【独り言ベトナム−2】
ベトナム建国の父であるホーチミン氏が出国した背景には、いろいろな思いがあったようです。その動機はともかく、この後、彼が腰を落ち着けるパリまでの6年間の世界各地での旅は、彼にとってのその後生き方を方向付けした、まさに学びの旅であったと言えるでしょう。こうした旅の経験によって、彼の中に間違いなく養われた精神は、2つあると思います。1つは、「愛国心」、そしてもう1つは、「広い視野」です。この2つの意識は、彼のその後の活動指針となるものでした。

パリに腰を据えたホーチミン氏、時は、第1次世界大戦終了後のヴェルサイユ体制構築の時期でした。いくつかの植民地が、民族自決の精神のもと宗主国からの独立を果たして、独自の国造りをはじめようとしていました。そうした雰囲気の中、愛国心に目覚めたホーチミン氏は他の活動家たちと共に、ヴェルサイユ講和会議に対し、「アンナン人民の要求」を提出します。フランス植民地における人民の権利保証を希求したこの要求は、まだ当時、1枚岩になっていなかった各独立運動を苦心して束ねた跡がうかがえます。まだ、若かったホー氏が、諸先輩方の意見を調節して作り上げたと思われるこの要求は、残念ながらフランスを動かすところまではいきませんでしたが、ベトナムの民族独立運動の存在を世界に知らせることとなります。
(アンナン人民の要求)
1.土着民政治犯、全員の恩赦。
2.インドシナの法律を改革し、土着民がヨーロッパ人と同じように法律によって保護される権利を享受できるようにする。アンナン人民の最も忠実な部分を弾圧し圧迫する道具となっているすべてのフランスによる特別法廷を完全に廃止する。
3.報道と言論の自由。
4.結社と集会の自由。
5.国外に居住する自由と外国へ行く自由。
6.地元民に必要な技術と職業教育を行う学校をすべての省に樹立をし、学習の自由を保証。
7.総督令制度を立法府が制定した法による制度にかえる。
8.フランス国会に土着民が選出した土着民の常設代表団を置き、人民の願望を国会に伝える。

このアンナン人民の要求を読む度に3つのことが思い浮かびます。1つは、独立運動の難しさ。そして、フランス市民革命。最後に沖縄のこと。次回はそんなこと書きましょう。

【旅のエッセイ(第2日)】
2日目の朝は、「コケコッコー」という鳴き声と、「ペッペー!」というクラックションの音で、目がさめました。一夜開けたら、もうここは違う国。熱気を覚悟していたのですが、朝の外気は案外、ひんやりしていました。もう街は、十分に目を覚ましていて、あちらこちらからクラックションの音や物売りの声がしています。寝ただけなのにへんに腹が減っているのです。ともかく飯だと宿の上階にある食堂へと向かいました。宿の朝飯は、多くの場合、バイキング形式と言いますか、沖縄風に言いますとバフェ形式とでも言いましょうか、ともかく好きなものを自由に取って食べなさいという形式です。

ベトナム朝食で、私としてはかかせないのは、3つほどあります。1つは、生ジュース、そして、お粥、最後はそば。生ジュースの中でも特に好きなのは、レモンジュースとマンゴジュースです。まずはこれを起き抜けの水分補給にと一気に飲み干します。で、料理が置いてあるテーブルに向かいます。まずはお粥、ベトナムは、お米の国です。主食は言わずと知れた米です。メコンデルタを中心のとれるお米はいろいろな種類があります。ふつう、一般のベトナムの人たちはそうしたいくつかの種類のお米をブレンドして食べているそうです。そんなお米で作られた朝粥は、これといった違いがあるわけではないのですが、日本人の私とて、なつかしい感じの味で安心して食べることができます。
お粥を食べるとき、私の場合は、付け合わせに塩から味のゆで卵を一欠片、万能ネギ、奈良漬けのような漬け物、唐辛子片を少々、そして最後に決め手のヌックマムを小さじ一杯ほど、よくかき混ぜるとゆで卵の塩味とヌックマムのこくがマッチして絶妙の味を創り出しています。そこに歯ごたえのある漬け物がパリパリと加わり、どんなに胃が重い朝でもサラサラと流れ込んでいきます。

しかし、最後の仕上げは、ふつう日替わりで出される、そばです。ベトナムではそばの種類やスープの味のバリエーションが山ほどあります。まず、お椀にそばを少々とります。今日のそばは、お米から作られた、フォーといううどんのような白い麺です。どちらというとモチモチしています。そこにまずスープをかけます。今日のスープは、鶏殻ベースのチキンスープです。そこに薬味をいろいろ入れ、やはり最後の締めは、ヌックマムです。南国の朝なのにも関わらず、熱いスープをふうふうしながら、そばをすする。お米の麺は、のどごしさわやかにサラサラと胃袋へと流れていきます。そして、鶏のだしが十分に効いたスープを飲み干す。えっ、朝聞いた鶏の鳴き声は、まさかこれに?!ともかく、正統的なベトナムの朝ご飯を終え、今日も1日、汗かきまっせ。

午前中は、特設コースとして設定してもらったベトナム語会話初級コースです。毎年、お世話になっているハイ先生です。彼女は、日本への留学経験もあり、日本語はまったく不自由しません。今回の講義のテーマは声調です。ベトナム語には6つの声調があります。同じ単語でも、声調によって意味が変わってしまいます。日本人の私たちからしてみると全部同じに聞こえてしまうのですが、どうも微妙に違うようです。文字で書くときは、アルファベットの上に声調記号がつくので、要注意ということがよくわかるのですが、耳で聞く限りでは、聞き分けは難しいの一言です。本来、ルーツ的には似ている日本語にも声調というものがあったはずなのですが、そんなに目立ちません。どこにいってしまったんでしょうか。よく考えてみたら、日本人も知らないうちにかなり声調を使いわけているような気はします。口しか動かしていないのに腹は減ります。

お昼までの授業が終了したら、直ぐに頭に浮かぶのが、飯のことです。ベトナムに来るとその限られた滞在日数の中で、いかにしてたくさんの種類のベトナム料理をうまく食べるか、これは重要な課題です。食べ尽くして帰る。これはフィールドワーカーの心構えとして重要です。初日の今日は、軽く足慣らし、いや腹慣らしということで、一般的なところをせめようとホーチミン市のメインストリートのドンコイ通り方面へと足を向けました。街の様子は、毎年変化をしています。ドンコイ通り沿いにも新しいお店など立ち並んでいました。そうした新しくできたショッピングモール内にあるベトナム料理レストランに目をつけました。新しいレストランに入るとき目安にしていることは、地元の人たちの動向です。各テーブルに地元の人たちが座って賑やかに食事をしています。お誕生会でしょうか、ファミリーを中心に親戚の人たちの集まりのようなグループのいます。このように地元の人たちが集まっているレストランの場合は、基本的に大失敗はありません。

初日の昼ご飯としては、大ごちそうになってしまいました。チャー・ゾー、ゴイ・クォン、ボー・サオ・ボー・ソイ、カー・コー・ト、バイン・セオ、トム・スー・ハップ・ヌック・ズア、カイン・ザウ・ムォン・・・。テーブルの上に乗り切らないほどのごちそうの山です。地元の人たちも驚いたような視線を投げかけています。そんな視線も何するものぞと一気に食い散らかす私たち、小一時間後には、テーブルの上に散乱する海老やら蟹やらカエルやらという具合に気持ちよく食べさせていただきました。食後は、市内のメインの地理感を頭に入れるため、街の中心地にあるポイント、ポイントを見学しながら一時宿へと戻りました。頭と体、いや、頭と腹のフィールドワークの幕が切って落とされたのでした。数時間後には、シーフードのレストランに顔を出している私たちでありました。      つづく


フィールドワークベトナム2002
SPOT・REPORT−3
【独り言ベトナム−3】
独立運動と一言で言っても、そうした運動には様々な立場を取る人たちがいます。その昔から、一つの大きな大国が、発展途上の国とか地域を占領するという形態はよくありました。そもそも、古代の段階では、そうした占領政策は、どちらかというと権力誇示などの要素が強かったと思います。それが、中世、近代と時代が行くにつれ、市場価値、原材料確保、労働力確保などという搾取の対象へと変わっていきます。

そのよくわかる近現代の政策が、帝国主義であり、植民地政策であったわけです。帝国主義だとか植民地政策の一環における占領は、その目的が搾取であるだけに占領地域から、ありとあらゆる物を搾り取るためのシステムは巧妙です。地元の者たちからいかにして文句を出さずに搾り取るのか、そうした宗主国の多くは、まず教育に力を入れます。本国式の教育機関をつくり、同化させ学歴的階級を作り出します。占領地の民は、占領地の民に管理させようとしていくのです。占領政策の理想の形は、その全ての機関において地元の者が管理する間接的な統治スタイルです。こうした形態をとることによって、異民族が直接的に支配しているような露骨な、直接的な反感を買うような形は取りません。あくまでも身だけが本国にくればよいような形をめざすわけです。

しかしながら、こうした植民地政策は時と場合によっては、2つの効果を発生させます。1つは、その地域が発展途上であればあるほど、宗主国のシンパとなる地元特権階級を作りだします。また、もう一方は、欧米的な教育を受けたことによって、欧米的な物の考え方や行動をする者たちを生み出します。

ここベトナムでも同様です。宗主国であるフランスは、インドシナ半島におけるゴムなどの資源を確保するためベトナム、ラオス、カンボジアに進出し、これらの地域の間接管理者として、ベトナム人を使うことにしたのです。フランス式の教育を受けたベトナム人たちは、フランスの思惑通り、フランスのシンパとなる者も育つと同時に一方では、欧米式の民主主義や思想に目覚める者も出てくるようになるのです。

1900年代初頭におけるベトナム独立運動者の多くが、こうしたフランス式の教育を受けた者たちでした。したがって、初期の段階では、アンナン人民の要求にもあるように、直接的な独立を希望するものではなく、欧米的な権利の保証要求といったものだったのです。こうした雰囲気の中、おそらく世界の各地を見て回り、宗教差別、労働争議、人種差別の本質的な問題を肌身を持って感じとっていたホーチミン氏にとっては、宗主国の中だけにおける権利闘争では、本当の意味の自由と独立は得ることができないと歯がゆい思いでいたのではないかと思います。

【旅のエッセイ(第3日)】
昨日の夜もよく食いました。地元の人たちで大にぎわいのシーフード専門のレストランへ行き、シーフードがたっぷり入った鍋や蛤の酒蒸しなどを十二分に頂きました。暑い国にも関わらず、鍋ものは庶民の味の定番になっています。最後にミーとかフォーと呼ばれる麺類につゆをかけて食べるのが流儀です。汗をかきながら鍋を食う、その後、なぜか涼しくなるのです。

3日目の朝、いつものように朝飯にそばを食べ、午前中は大学に授業を受けに行きました。声調の方も、違うということがようやっとわかってきました。一通りの声調の練習を終えたところで、今日の授業は終わり、昼食は、近くの大衆食堂でとることにしました。ベトナムの大衆食堂のことをコム・ビン・ザンといいます。外の看板のところにCOMと大きく書いてあるので、直ぐにわかります。注文のシステムは、入り口の所にショーウインドウやら露天やらで、数々のおかずが並べられています。その中から好きな物を注文します。あれやこれや3品から4品頼み、ご飯とスープを付けて、約8,000ドンぐらいです。(100ドン≒1円)昼食の後は、事前に学習してあるベトナムの歴史をより確実なものにするために2つの博物館を訪れることにしました。最初に訪れた博物館は、戦争証跡博物館です。ここでは、ベトナム戦争当時の資料を中心に第1次インドシナ戦争からのベトナムの独立の歴史が展示されています。やはり、ホーチミン市の観光スポットの1つになっているようで、様々の国の観光客が大勢訪れていました。

今年は、アメリカ軍のアフガニスタン空爆の最中だけに、ベトナム戦争当時に開発され、今回のアフガニスタンでも使われている兵器が多々展示されている風景を見、人間の進歩のなさにほどほど嫌になるのです。
年々、展示場が拡大されています。長くつき合わさせてもらっている石川文洋さんをはじめとするベトナム戦争に関わった日本人ジャーナリストたちの紹介がされているなどされ、少なからず日本という国とのつながりというのも意識されています。ベトナムの独立のための闘い、長きにわたり多くの犠牲のもと達成されたことがよくわかります。フランス、日本、アメリカとの戦い、冷戦体制への巻き込まれ、中国やカンボジアなど周辺国の干渉と、ようやっと平和な時代が訪れたことを実感させます。

全員が集合をするまで、中庭のベンチで待っていました。今年は、日本からの若者の訪問者が多いように感じました。日本では、太平洋戦争が終わり、もう既に50数年経ちます。ベトナムは、最後のカンボジア紛争が終わってから10数年です。確かに、日本は戦争を起こした方の側で、ベトナムは受けた方の側ではありますが、その戦争の本質的構造は、数十年の時間差があるにも関わらず、大きな変化をしているわけではありません。いつも野心的な大国の経済発展願望のために小国が犠牲になるわけです。ある意味、今や叩く側に回っている日本という国の現状をどのくらいの若者たちが気がついたでしょうか。

戦証博物館の後は、ベトナムの先史から現代までの歴史を展示してある歴史博物館へと向かいました。途中、旧アメリカ大使館、今はアメリカ領事館(大使館?)として新装なった建物の前を通りました。ビザの申請などに来ている人たちでしょうか。領事館の中に長い列ができていました。歴史博物館は、センターのロビーを中心に星形に展示室が広がっています。古代から近代までのベトナムの歴史が歴史的資料とともに展示されています。目がいった展示物の1つにベトナム陶器があります。16世紀、17世紀のころのベトナムは、海のシルクロードの中継地点として、中部の町がおおいに栄えたそうです。中部にある町のホイアンには、当時、日本人街もあったそうです。日本や琉球と交易があり、古琉球の陶器などはベトナム陶器の影響を大きく受けています。初期に作られた透明釉だけをかけた神事に使ったと思われる小壺などは、シンプルなデザインではありますが、その丸みを持ったシルエットはベトナムの空気を感じさせます。

その他、石文化の代表的な部族であったチャンパによる様々な石の彫刻類、各少数民族のいろいろな民族衣装など、中国との関わり具合からくる日本との共通性、また、似た環境だったにも関わらず、違う形で発展した文化の相違性など興味はつきませんでした。閉館時間にもなったので 博物館出てぶらりぶらり宿の方に向かって帰ることにしました。途中、ホーチミンに来たら必ず立ち寄る、牧場直営のプリン屋にて、自家製のバイン・フラン(プリン)とベトナム式アイスコーヒーを頂き一休みし、ドンコイ通りなどを経由して宿まで戻りました。

そして、夜は、食い倒れの旅はまだまだ続きます。この数年、ホーチミン市で流行っている食べ物、それは、ラウ・イエーです。なんだそれはと、それは山羊鍋です。日本で言うところのモツ鍋という感じでしょうか、宿からちょっと遠いので、タクシーで移動することにしました。運ちゃんに山羊鍋屋へと言うと、「ヘイッ」とばかりに露天の山羊鍋屋の前へとアッと言う間に私たちを運んでくれました。低いテーブルに風呂場で使うようなプラスティクの小型椅子、歩道はすべてそうした席で埋まっています。家族一同でやっている感じの鍋屋さん、外国人の扱い方も慣れたものです。では、さっそくと山羊鍋と山羊肉の焼き肉をたのみました。ささっと火の入った七輪を持ってきます。まずは、山羊の焼き肉、七輪の網の上で焼いて食べます。つけダレに特徴があります。おそらく秘伝のタレだと思います。独特の風味です。でも食べ慣れると病みつきになります。続けて、鍋が登場です。モツぽいのから何やらを土鍋の中に入れ煮ます。ここでも野菜はいろいろぶち込みます。春菊、オクラ、水イモ、青菜、筍、薬味にレモングラス、ショウガなど。アジアの国では、山羊の肉はよく食べるようです。沖縄などの場合は、お祭りのときなどに食べるそうです。そう言えば、沖縄の場合は、薬味にヨモギを入れて山羊汁を食らったな。山羊はいわゆる滋養強壮食材です。暑いベトナムを乗り切るにはこれにかぎります。最後のまったりとした濃厚な出しスープにミーを入れて、山羊汁ラーメンみたいにしてズルズルとやります。濃厚な豚骨ラーメンみたいなものです。これが沖縄そばなら山羊そばだ。これでスタミナばっちり、明日も問題なしです。
                 つづく


フィールドワークベトナム2002
SPOT・REPORT−4
【独り言ベトナム−4】
フランス市民革命の旗印は、何であったのか。例えば、1789年に起草されたフランス人権宣言を読んでみましょう。第1条、人間は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、また、存在する。社会的な差別は、共同の利益にもとづいてのみ設けることができる。第2条、あらゆる政治的結合(国家)の目的は、人間の自然で時効により消滅することのない権利の保全である。それらの権利とは、自由・所有権・安全および圧政への抵抗である。第3条、あらゆる主権の原理(起草・根源)は、本質的に国民のうちに存在する。いかなる個人も国民から明白に由来するのでない権威を行使することはできない。中略、第17条、所有権は神聖かつ不可侵の権利であるから、何人も適法に確認された公共の必要が明白にそれを要求する場合であって、また、事前の公正な補償の条件の下でなければ、それを奪われることはない。などと書いてあります。このフランス市民革命の1つの柱であったフランスの、「人間と市民の権利の宣言」では、人間の自由・平等の権利、自由・財産の安全および圧政に対する抵抗の権利、国民主権、法の支配、言論・出版の自由、私有財産の不可侵などを確認しているのです。つまり、フランス市民革命の精神は、このことからもわかるように、市民の、「自由」と「平等」の確保であったわけです。

こうしたフランスの伝統的な意識のもと、インドシナにおける植民地政策を見た場合、あきらかに矛盾をしているわけです。ここで言う市民とか人間とかいうのが、フランス人だけのことをさすのであればまだしも、そんなことあるはずがありません。アジアの人々とて、人間であり市民であるはずです。そうした自由と平等の国であるはずのフランスが、占領地において、最低限の人権も認めていない。いや、植民地政策そのものを推進している。これは矛盾を通りこして奇怪なことです。

しかしながら、このことは、近代社会における本質的な矛盾を表現していると思います。民主主義、民主主義と簡単に言いますが、こうしたフランスの民主主義、また、他の欧米諸国の民主主義、例えば、アメリカの民主主義、本当に不変的な民主主義なのでしょうか。各々の近代国にとって都合のよい民主主義になってはいないでしょうか。そうした矛盾に気がつくのは、いつも弱い立場の国の人々だったわけです。

【旅のエッセイ(第4日)】
4日目の今日は、少し遠出をします。朝早めに宿を出て、一路、ホーチミン市の北西、約70kmほどのところにあるクチという町をめざしました。サイゴン河の中流域にあるこの小さな町は、ベトナム戦争当時、南ベトナム解放民族戦線の拠点の一つがあった所です。昼間は、アメリカ軍やら南ベトナム政府軍などによって、制圧されていましたが、夜になると活発なゲリラ戦によって、抗米活動を展開していました。ここでのゲリラ戦の主たる戦い方は、総距離250kmにも及ぶ地下トンネルでした。3層構造になった地下トンネルは、地中を縦横無尽に走っていました。そんなクチをめざしてホーチミンを出た私たち、国道22号線を北上しました。喧噪の町を出ると風景は直ぐに、田園風景に変わります。行商でしょうか、農作物と思われる品物を山のように積んだバイクが、先を急ぐようにホーチミンをめざして走っていきます。

街道沿いには、墓石屋や家具屋など時折、一つの職種のお店が軒を連ねています。そうした風景の中、町はずれから目にするようになるのが、ライスペーパーを作っている家です。ベトナムの家庭料理には欠かすことのできないライスペーパー、各農家の庭先に竹で編んだすのこというかザルというか、そうしたものの上に貼られ、天日干しをされています。私たちが立ち寄った一軒の家では、石臼を使い粉状にしたお米の粉をといた原料にして、クレープを焼くような手つきで、おばあが上手にライスペーパーを作っていました。車で2時間も走ったでしょうか。小さな集落を抜けたところあたりの森林地帯の中に広い駐車場スペースが現れました。今は、人民軍の関係団体が管理をするクチのトンネル跡です。

駐車場のはずれにある会議室のような所で、はじめにクチでの戦いを知るための概要説明をしたビデオを観ます。日本語の他に英語、仏語などもあるそうです。ベトナム戦争は、1964年以降の宣戦布告のなきアメリカ軍参戦によって激化をきわめます。
アメリカ軍の得意とする戦い方は、あの沖縄戦を思い出してもらうとよくわかるように、大量の物資と最新鋭の兵器によって守られた物量作戦です。中でも戦闘機、ヘリコプター、戦車をはじめとする近代兵器を駆使した大規模な攻め方には、定評がありました。そうした物量、近代兵器による軍隊と互角に戦うためには、地の利を生かしたゲリラ戦しかなかったのです。

当初、アメリカ軍は、東南アジアの辺境の地にある小国であったベトナムの戦争をたいしたことないと軽くみていました。確かに、これといった兵器も持っていなかったベトナム人たちが近代戦において世界最強のアメリカ軍と互角に戦えるはずもありませんでした。結果として解放戦線は、徹底的なゲリラ戦にでます。アメリカ軍は、予想に反して厳しい戦いを強いられます。理由はいくつかありました。湿地や山岳地帯の多いベトナムの地形は、機械化部隊を投入しても思うようには走り回ることができず、機動力を生かすことができませんでした。いきおいヘリコプターなどを使った極地戦も夜など、ゲリラに回りを囲まれ孤立し、敗戦するパターンが多くありました。ここらへんは、オリバーストーン監督のプラトーンを観てもらえればイメージができると思います。さらに、アメリカ軍が誤算をしていたのは、解放戦線=ベトナム人民軍であると思っていた点です。南ベトナム解放民族戦線は、あくまでも南ベトナムの市民が中心となって作られた軍隊であって、北の正規軍は正式には参加をしていない状態でした。それが、アメリカ軍が参戦したことによって、北の正規軍も投入をされだしたわけです。つまり、アメリカ軍の予想以上の兵力が温存されていたということです。そして、最後に決定的な違いは、戦いに参加をしている兵士たちのモチベーションです。解放戦線側は、自国の自由と独立のための闘いであり、負けたら国を失うわけです。それに対して、アメリカ軍は、表面的には自由主義陣営の自由を守るためなどと言ってはいましたが、その実は、自国の資本主義的利益を守るための戦いであったわけです。アメリカ軍兵士としては、自分は何のために戦っているのようわからんという状態であったわけです。


解放戦線側は、まさに創意と工夫で戦っていました。そのことはトンネル地帯に入るとよくわかります。ジャングルの中には様々な罠がしかけられています。その多くは、アメリカ軍の兵器やその材料の再利用です。トンネルの各出入り口は、想像しないようなカモフラージュがされていて、指をさされ教えられるまで、その存在に気がつきません。また、3層構造のトンネル内部には、会議室はもちろん食堂や治療室などが設けられていました。試しに、1つのトンネルに入ってみます。中はサウナのように蒸し暑く、おまけに中腰の姿勢でなければ、前に進むことができません。こうしたトンネルの中をゲリラたちは、神出鬼没に小走りで移動をしたそうです。わずか数分の体験にも関わらす、外に出たときの外気のおいしさはまさにシャバの空気はうまいという感じでした。

この地に来る観光客は、様々な国の人たちです。日本人はもちろん、アメリカ人、フランス人、韓国人、中国人、ドイツ人などなどとその多くの国がその昔、戦火を交えた国の人たちです。彼らのクチのトンネルに対するリアクションはなかなか興味深いものがあります。これでは勝てっこないという反応とこれはシンパを増やすための共産主義者のデモンストレーションだという反応などというように、どちらにしてもベトナムの人の側から見れば、1つの誇りであることには違いありません。これだけ多くの国の圧力をはね除けて再独立を勝ち取ったわけですから。

クチのトンネルを後にして私たちは、再びホーチミンへと戻りました。昼御飯は、途中、これまたホーチミンというかベトナムの名物の1つではありますが、フランスパンを使ったサンドイッチ、バイン・ミーです。ベトナムはフランスに植民地化されていたので、フランスの文化の影響がいろいろなところに残っています。フランスパンもその一つだと思います。街道を車などで走っていると露天のフランスパン屋をたくさん見ることができます。今日の私たちは、そんなバイン・ミーも含めた菓子パンなどの販売で有名な市内のパン屋さんに立ち寄りました。フランスパンの間にいろいろな具が挟まれています。野菜、焼き豚、魚肉ハムなど、具がこぼれ落ちそうな大盛りサンドイッチになっています。一見、フランス風のサンドイッチですが、いやいや中身は、まさにメイドインベトナムです。香草などの野菜類も特徴的ではありますが、何と言っても味付けがポイントです。味付けは言わずと知れたヌックマム風味です。ベトナムテイストたっぷりのオープンサンドをほうばりつつ午後の活動に備えた私たちでした。
                   つづく


フィールドワークベトナム2002
SPOT・REPORT−5
【独り言ベトナム−5】
こうした植民地形態、日本という国自体もその近代化政策の中で、アジア諸国に対して実施をした経験を持っているわけなのですが、日本自体が占領をされた経験ということになると太平洋戦争後の日本という国になるのだと思います。なかでも、そうした占領政策が如実に現れた場所が日本の沖縄という場所だと思います。


最近の日本の状況を見てみると沖縄も含めて戦後の日本は、日本そのものがまだ完全に再独立を果たしていないような気がしますが、ともかく、戦後の日本の中において、アメリカという国に直接占領をされつづけた経験を持つ場所が沖縄という場所であったことは事実です。その占領形態を見るにまさに宗主国フランスがベトナムに行った植民地政策と重なるものがあるわけです。逆の言い方をすれば、宗主国が地元の民を押さえるつける方法というのは、時代は変われど同じようなものであるということになるのでしょうか。

ただ、沖縄という場所の難しさは、その昔、琉球国の時代からの日本との関係などもあるわけなので、ある意味、日本の中では日本とアメリカという2つの国の占領を経験したということにもなるかとは思います。さらに、戦後20数年を経て、日本に復帰をするわけなのですが、それが沖縄にとっての再独立、自立につながったかと言えば、はなはだ疑問が残ります。戦後から復帰までの間に限って言えば、その間にあった沖縄の独立運動は、やはり反基地闘争を土台とする土地闘争などが、その1つの運動であったと思います。

沖縄における土地闘争については、阿波根 昌鴻さんの著作などに詳しいですが、1950年に始まった朝鮮戦争の影響を受け、在沖縄米軍が、占領していることをよいことに1955年、沖縄の各地で基地拡張のため、戦後10年ようやっと生活の基盤を作りはじめていた農民たちから、土地を強制的に収容しました。こうした行為に対して、阿波根さんたちは、乞食行進などという非暴力の戦いで抵抗をしました。

精神的な部分において、ベトナムの独立運動と沖縄の独立運動の歴史の中には、多くの共通点が存在します。宗主国の占領政策のなか、親仏派が育成されたのと同様に、親米派が育成されたり、逆に自立の精神が確立されたりしたのです。一方では、当然違いも多々あります。特に際だった違いが出たのは、自分たちの独立をどのようにして勝ち取っていくのかという方法です。一概にこのプロセスを両者の間で比べることは性急ですが、民族的な自立と精神的な自律をホー氏などのリーダーと共に独立運動の中に求めたベトナムの人たちに対して、日本への復帰という形を一つの目標にした沖縄の人たち。今後、両者の間にあった政策論、リーダー論、運動論など様々な角度から比較分析することはとても興味深いものがありそうです。

【旅のエッセイ(第5日)】
昨日の書き残したところから話しをはじめますね。昨日は、昼食の後は何をしたかと言いますとベトナム料理教室に入いったんです。料理教室と言っても個人のお宅におじゃまして、キッチンを借り、ベトナム料理の代表的な作り方を教えてもらったんです。ホーチミン3区の路地裏にあるお宅の台所で、20代の女性ユンさんを先生にして、本場の味作りに励んだのでした。メニューはもりだくさんでした。チャー・ゾー、ゴイ・クォン、ザウ・ムォン・サオ・トイ、カー・コー・ト、ミー・サオ・メム、ベトナム名がわからないのですが、つみれ汁、ぜんざい、果物。私、とりあえず生春巻きを中心に作らせていただきました。まずは、いくつかの具をセッティングします。私としては、気になったのは、茹で豚、これだけでもおいしいのですが、これを生春巻きの中に入れるわけです。まずは、1枚のライスペーパーを用意します。少々水をつけ生乾き状態にします。そこに各具を巻き込んでいきます。最初に茹で豚、次にもやしやパパイヤの千切りなど野菜類、そして、米の麺ブン、味のアクセントにニラ、わざと長くはみ出させます。
最後に外から見えるように小海老を茹でたもの。うまく巻物のように包み込みます。具を欲張ってしまいいびつな巨大生春巻きが続出です。

と、悪戦苦闘の約2時間、あれやこれや自分たちで作っているのか、先生たちが作ってくれているのか、続々と料理ができあがってきます。みるみる間にテーブルの上は、ベトナム料理で埋まりました。さあ、食べます!食って食って食いまくりと言う状態です。中でも生春巻きは、一人6本は食べなくいけません。調子に乗って作り過ぎました。でも、うまい!多少、形はいびつですが、味は最高です。これで日本に帰ってベトナム料理店が開店できる。生春巻き専門店では、お客が来ないでしょうか。明日からは、メコンデルタへの小旅行です。腹をさすりながら宿へと戻りました。

やっと第5日目の報告です。
旅支度を整えた私たちは、一路、メコンデルタの町、ベンチェーをめざしました。日本で言うところの国道1号線を南下していきます。メコン河の河口域に位置するベンチェー省は人口約137万人で、省都ベンチェー市と7県からなるココナッツで有名な場所です。ベンチェーをはじめとするメコンデルタの河口域に私が強く興味を持つようになったきっかけは、本多勝一さんの「戦場の村」を読んだからです。彼は、その著書の中で、解放戦線との接触のことをリポートしています。このリポートのルートこそ、今、私たちが南下をしているこのルートと重なるのです。当時、メコンデルタ地域では、南ベトナム解放民族戦線と南ベトナム政府軍ならびのアメリカ軍が戦っていました。物量に物を言わせる南ベトナム政府軍に対して、十分とは言えない装備で解放戦線は、ゲリラ戦を中心にして戦いを挑んでいました。メコンデルタ地域は、自然の支流とその昔、フランスが作った運河が迷路のように入り組んでいて、ゲリラ戦を戦うには、都合のよい土地柄ではありました。昼間は、アメリカ軍のヘリコプターなどによる制空権に支えられた南ベトナム政府軍が進攻していましたが、夜は、解放区として解放戦線側が主導権を握っていました。

また、ベンチェーは、1960年に起きた、ベンチェー蜂起でも有名な場所です。素手の農民たちが蜂起をして、南ベトナム政府軍兵営を降伏させ、南部で最初の人民政権を樹立させたものです。南ベトナム解放民族戦線歌の1つとして、本多さんの本に書かれていた、「陣地の政府軍兵士に呼びかける歌」を紹介しておきましょう。当時の状況がイメージできると思います。

息子よ。(「戦場の村」本多勝一著(朝日文庫)より)
どうしてお前は村を離れてしまったの?
お母さんは、千秋の想いで待っているのだよ。
もう涙も涸れてしまった。
どうしてお前は
金につられて銃をとる敵に加わって
お前の故郷を踏みにじるのだろう。
村はもうめちゃめちゃになってしまった。
私たちの肉親も大勢殺されてしまった。
息子よ。
お前の心は、なぜ痛まないのだろう。
焼けてしまった家の跡をみるたびに、気も狂いそうだ。
やつらは大切な米を焚物のように燃してしまった。
幼い子どもたちが、夜中に母を呼ぶとき
虫の声が答えるんだよ。
「母は敵に殺された」
「母はこの世にいない」
帰っておくれ、息子よ。

いつしか私たちを乗せたマイクロバスは、ホーチミンの喧噪の市街を抜け、一面が田んぼの緑のじゅうたんの中を走っていました。ときおり、当時のB52の爆撃の跡でしょうか、丸く開いたクレーターのような池には、アヒルが泳いでいました。
                     つづく


フィールドワークベトナム2002
SPOT・REPORT−6
【独り言ベトナム−6】
独立運動のその先に何をめざすのか、国家的な運動を展開するにあたって大切なことです。再独立を果たした後、どんな社会を作るのか、確かに、大衆は、目の前にある不条理を性急に解決したいと思うでしょう。しかし、そうした日々の苦しさの中にある否人間的な状況を堪え忍んで打破するためには、その先の夢がなければならないのです。おそらく、ホー・チ・ミン氏は、アンナン人民の要求など作成する過程の中で、いろいろなことを学んだのだと思います。独立のためなら、他の支配勢力とも組むだとか、崇高な考え方でも民族が変われば適応外になるだとか、人として普遍的な考え方の柱、これが独立運動には必要だと思ったに違いありません。

ホー・チ・ミン氏は、社会主義に近づいていきます。彼の社会主義者への道を決定づけさせたのは、1920年の7月にフランス、ユマニテ紙に発表された、レーニン氏の「民族問題と植民地問題に関するテーゼ原案」に接したからと言われています。1917年にロシア革命を行い、新しい同士を世界に求めるためレーニン氏は、社会主義との連帯を呼びかけたわけです。

独立運動を推進する普遍的な哲学を探していた、ホー氏にとって、このレーニン氏の呼びかけは、まさにその一つのヒントであったに違いありません。たぶん、世界の中にある様々な抑圧や差別は、現在ある資本主義的な社会構造からくるものであると直観的に理解をしていた彼は、構造そのものを変える理念の1つが社会主義であると理解したのだと思います。当時の欧米諸国に従属をさせられ再独立をめざしていた多くの国の指導者たちが、社会主義という考え方に影響を受けましたが、中でもアジア人という立場から地球規模で人類を考えた指導者はそう多くなかったと思います。彼が1921年に発表をした、「国際共産主義運動・インドシナ」と題する論文の中で、「アジア人は、ヨーロッパ人からは後進的とさげすまれているが、現代社会の全面的な改革の必要性を誰よりも理解している」と記されています。アジアの先見性やオリジナル性、アジアならではの価値観を重視した運動論、つまり、アジアの独立運動は、欧米の市民革命や独立運動の下請け、二番煎じではないという意志が明確に打ち出されています。

1923年、ホー氏は、祖国の解放運動の組織化を具体化するために、フランスを離れ、一路、モスクワをめざしました。7月には、モスクワ入りをし、延期された第5回コミンテルンが開催されるまでの間、精力的に活動やら学習やらをし、24年4月には、コミンテルンの東方局の部員に任命をされています。そして6月に行われた第5回コミンテルン大会に参加した後、帰国をする予定でしたが、(コミンテルン:1919年、モスクワで結成される。世界の革命政党・組織の指導機関であった。(43年に解散))中国における独立運動との連帯重視の中、足止めを食らい、1924年11月、ようやっと中国広州への情報収集のために派遣されました。

【旅のエッセイ(第6日)】
昨日後半の報告が済んでいませんでしたね。

国道1A号線を南下した私たちは、ミトーに到着しました。ホーチミンからわずか2時間ほど来ただけなのに、日射しはさらに強さを増しています。ミトーは、メコンデルタへの入り口的な町です。ここから南は、その昔、クメールの人たちの力が強い場所でした。

ミトーの街の前をメコン河の支流というか、南シナ海に注ぐ9つの頭(九龍)の1つティエン河が悠々と流れています。この川の流れの中に4つの島があります。クイ島(亀の島)、ロン島(龍の島)、フーン島(フェニックスの島)、タイソン島(こまいぬの島)です。今日はこれらの島をめぐりながら、対岸のベンチェをめざします。ミトーの船着き場に着いた私たちは、動力付きの小型船に乗り込みました。目の前をとうとうと流れる河を斜に横切り、目の前にあるタイソン島をめざします。河は、大きめな船から手こぎの船まで、様々なタイプの船が行き交っています。デルタ地域の多くの家は、その間口をみな河の方に向けて建てられています。河の方が表玄関となるわけです。最近では、運河などの河の上に橋が渡され、道路網が充実してきているので、道側が玄関の家もだいぶ多くなってきましたが、まだまだ、生活の表玄関は河側である家は多いです。
人々の暮らしは、河が中心となっています。その昔の江戸がそうであったように庶民の暮らしと川は切っても切れない関係にあるのです。ここデルタに来ると私の場合、なぜか山本周五郎さんの青べか物語を思い出してしまいます。メコン河の水の産湯に浸かり、生活水はもとより、生活の糧や交通路として一生涯、デルタの人たちはこの河とつき合っていきます。人と河との関係は、世界各国に共通してある人間の歴史と言ってよいと思います。

メコンの流れは、ここデルタの地域に肥沃な土地を提供し続けています。米をはじめとする様々な作物がここデルタ地域から出荷されいます。これから私たちが渡ろうしている島や対岸のベンチェ省は、その豊かなデルタの土地を利用した果樹栽培が有名です。水しぶきを浴びながら、タイソン島に着いた私たちが、いろいろな果樹の林を抜け、最初に訪れたのは、くだものやそれらから果樹酒などを作っているお宅です。確かに、この地域における観光の目玉コースの一つに入っているわけなので、観光商業の一翼であることは確かではあります。がしかし、ここ地域の人たちは、豊かな自然の実りがあるからでしょうか、何か精神的な余裕を感じさせられます。まあ、中には、商売気たっぷりなオヤジさんたちもいたりして、それはそれで、彼らとのやりとりは十分に楽しませてもらえます。もう一つ、果樹園を見させてもらい、さらに私たちは島の奥地へと進みます。島の子どもたちの遊びは自然とともにあります。デルタ出身の今日のガイドさんから、葉っぱを使った子どもの遊びを教えてもらいました。その葉の習性を利用した子どもらしい遊びでした。

様々な果樹の生い茂る森を抜けると島の中にも網の目のようにめぐらされている運河の一つに突き当たりました。そこには、手こぎのボートが数艘つながれています。ここから、運河を伝いながら奔流に出ることができます。さっそく、私たちは、その手こぎの小船に乗り込みました。まさにカヌーのような手こぎのボートは、水面近くの目線から、小川の両岸に生い茂るニッパヤシを見上げる形になるので、南方独特の空気の中に包みこまれたような気になります。その昔、解放戦線の人たちは、こうした小船をあやつり、アメリカ軍の雨あられの砲弾の中を物資を運んだり、移動をしたりしたそうです。そうしたときの船頭さんは、今日と同じように若い女性の船頭さんが多かったと聞きます。

船頭さんは、たくみに小舟をあやつりながら、河を下っていきます。まるで、水面を滑るように小舟は進んでいきます。カイを入れるときの水音、森の間から聞こえてくる鳥の声、そして吹き抜ける風の音、すべての時間がゆっくりとゆったりと河の流れと調和的に流れていきます。

河口に着いた私たちは、小型の動力船に乗り換え、フーン島を横目に見ながら、対岸をめざしました。横に見えるフーン島には、一見テーマパークにように見える、ココナッツ教団の旧施設が見えます。ココナッツ教団の歴史は、何かもの悲しいものがあります。支流とは言え、堂々たる流れのティエン側を横切り、対岸のタンタック村へと到着しました。河から駆け上がった所は、ベンチェーの名産の一つであるココナッツキャンデーの製造工場でした。ココナッツの甘い匂いに包まれたその工場は、家内制手工業の小さな工場ではありましたが、おいしいキャンデーを作っているんだぞと言わんばかりの自信に満ちていました。目の前で作られている手製のキャンデーを1つ頂き、口に入れると化学的な味はしない自然のままの風味が口いっぱいに広がりました。

名産を堪能した私たちは、ベンチェーの街の入り口であるフェリーボート乗り場まで向かいました。船から降りた私たち移動の足は、バイクタクシーです。バイクタクシーと言ってもいろいろなタイプがありますが、ここで乗ったバイタクは、ホンダカブ改造のバイクとリヤカーが渾然一体化したサイドカーみたいな、耕耘機みたいな、バギーみたいな、まったくエキサイティングな乗り物でした。2台のバギーに乗り込んだ私たちは、まるで討ち入りに行く集団のように、喜びの奇声をあげ、ベンチェーの田舎道を疾走したのでした。 つづく



フィールドワークベトナム2002
SPOT・REPORT−7
【独り言ベトナム−7】
こうして、ようやっと祖国ベトナムの近くまで行くことができたホー氏でしたが、彼が実際に祖国の帰れたのは、1941年です。1911年に出国して以来、実に30年近くの月日をようしたのです。1924年11月、中国に到着したホー氏はベトナム独立のための行動を開始します。まず初めに彼が接触したのは、ベトナムから逃れてきていた反体制活動家たちでした。さあ、ここから1945年の独立までの道のりは決して平坦なものではなかったのですが、その歴史は、いろいろな本で書かれていますので、興味のある方は、調べてみてくだい。間違っているかもしれませんが、この時代に対する私なりの印象を少し書いておきましょう。

やはり、集団を束ねていくということは本当にたいへんだということです。民主主義の原点ではありますが、多数の意見がいつも正しいとは限らないわけです。選択の節目、節目において、何年か先のことを考えたら、今は少数派かもしれないが、少数派なりの布石を今打っておくという判断が必要であったり、損して得取れではないですが、今は、損かもしれないが、10年先では、得になるというような見通しを持っていなければいけなかったりするわけです。その点、ホー氏は、非常にフレキシブルであったと言えると思います。まさに、弁証法的な運動を展開したと言ってよいと思います。

彼の発言や行動を見るにそこには、変化に対応するだけ柔軟性、創造性が必ずあります。そして、そうした行動や考えの根底には、いつもベトナムという国、ベトナム人としてどうすべきかという思いがあったのです。ベトナムにはベトナム式の運動がありきということが大前提になっていたょうな気がします。

【旅のエッセイ(第7日)】
あれゃ、あれゃれゃ。完全に1日ずれてしまいました。まあ、ともかく話しを先にすすめましょう。ミトーの対岸にあるベンチェーのデルタへと無事に渡った私たちは、宿のある市街へと向かいました。数年前に訪れた様子とはだいぶ変わり、新しい建物がだいぶ増えていました。その多くが、学校とか病院であるということです。こんなところに町づくりの1つの政策が見えたりします。近代的な建物などが増えたとは言え、地方の町の雰囲気が消えてしまったわけではありません。地方都市にあるゆったりとした時間の流れや町を包む色濃いデルタの緑などもまだまだ十分に残っています。灌漑用の池なのか、おそらく人工の池だと思いますが、小さな池の畔に今日の宿は建っています。以前、訪れたときは、コンクリートの打ちっ放しのような造りであったのですが、エレベーターも付き、部屋の洗面室もタイル張りになるなどし、デラックスな装いになっていました。ここ宿のベランダというか通路に椅子を出し、333などを飲みながら、メコンの風に吹かれて夕焼けを見るのが最高に気持ちがよいわけです。

街の探索は明日にし、さっそく夕飯にベンチェー名物の海老を食べに行くことにしました。食べる話しばかりで申し訳ありませんが、旅と言えば、食べることは重要な要素でありますので、あえて書きつらさせてもらいます。町で行きつけのレストランは、町のはずれにあるシーフードレストランです。シーフードと言った方がよいのがベトナム食レストランと言った方がよいのか、よく解りませんが、ともかく、ベンチェーの名物である魚介類をたらふく食べさせてもらえます。そして、さらにホーチミンに比べると断然安い!ここベンチェーのシーフードのメインは何と言っても海老です。数種類ある中でも特にベンチェーの一押しは、手長海老です。伊勢エビのような胴体に小さな長めの手がついた海老です。これを茹でたものをまるごと、皮を剥いて食べます。ベトナムでは海老を食べるとき、塩と胡椒を混ぜたものにライムをきゅっと絞って、プリプリの海老の身をつけいただきます。

バリ、バリと皮を剥き、一口では食べきれない海老にむしゃぶりつきます。なんたる幸せ、海老いがいの魚介類もすべてデリシャスで、本場ならではの味を堪能したわけです。しかも安い!当然と言えば、当然ですが、言葉はベトナム語しか通じません。メニューも全てベトナム語だけです。片言のベトナム語と他の人が食べているものを指さして、「同じのを」と頼むとかするしかないのですが、従業員のお姉さんたちは日本人、いや、外国人に興味があるのか、とてもフレンドリーに応対してくれて、一つ一つの料理の食べ方まで丁寧に教えてくれました。おなかがいっぱいになった私たちは、早々に宿に引き上げ、宿のベランダに椅子を出し、ココナッツ椰子の葉陰から見え隠れする月やら星を眺めつつ、メコンの河風に吹かれたのでした。

明けて本日は、街の探索へと出かけました。街のメインストリートを抜け、私たちが最初に向かったのは、市の戦証博物館です。ベトナムの主だった町には必ず、こうした戦証の博物館があります。抗仏の時代から始まって、対米戦まで、よく考えてみれば、100年以上、独立のための闘いをしていたわけで、闘いこそ歴史の国なわけです。ここベンチェーも解放戦線発祥の地の一つとして有名であったことは先に書きました。当時、住民の3分の2以上は何らの形で解放戦線に参加協力をしていたそうです。
そうした地にある戦証博物館は、その昔、フランスの領事館であった建物です。メコン河の支流に面したフランス式の建物の中に各時代の解説がジオラマや現物資料によって展示をされています。外国人の私たちも入場料は無料です。どうぞと手招きされたうえ、学芸員の方が英語で説明をしてくれます。様々な展示物の中、印象的だったのは、ベトナム戦争初期の頃の戦いぶりです。村人たちの装備といっても近代的な兵器は一切ありません。いつも生活で使っている鍬や鎌を手にあの世界最強と言われたアメリカ軍に対して抵抗をしていったのです。 ひんやりとした博物館を出るとちょうど日曜日のせいか、博物館の回りや川辺のプロムナードでは、家族連れの人たちが笑いながら散策をしていました。本当に平和っていいなと思うわけです。食べる、寝る、話しをする。ふつうの生活がふつうにできる。そうした環境を確保することのたいへんさ、ベトナムの人たちは、身をもって体験し、勝ち取ったわけです。それだけにこれからの未来に対して、エネルギーを感じずにはいられませんでした。実は、敗戦ではありましたが戦争の経験をしたのは、日本人とて同じです。戦後50年以上経ち、日本人の何人の人が、こうした平和のありがたさを自覚しているのでしょうか。戦後の日本の発展は、50年以上戦争をしないで、そのエネルギーを経済発展にかけたからこそ、かけれたからこそ今の日本があるわけです。それを忘れてはいけないと思います。ありきたりですが。ふつうに生活できることの大事さを忘れずに。

ベンチェーには、手作りのような小さな橋があります。橋の向こうは、まさにメコンデルタのジャングルに吸い込まれていくようなダウンタウンです。小さな橋を私たちは渡りました。細い路地を先に進みます。小径を入った直ぐ脇にカフェがありました。ふつうのお宅の庭を解放してオープンカフェにしたような感じです。庭には南国の花が咲き乱れ、蓮の花の池に畔にタイル張りのカフェスペースがあります。庭を吹き抜ける風は、河面を渡ってくる涼風です。緑に囲まれたそのカフェで一休みをすることにしました。ベトナムのお茶とベトナム式のアイスコーヒーを頂きました。特のベトナム式アイスコーヒーは、あの濃厚なベトナムコーヒーをクラッシュアイスにかけ、溶けるのを待ってから飲みます。ゆっくりと時間をかけて飲むのこのコーヒーは、まさにベトナム時間を過ごすのに最適な小道具です。

カフェで談笑をしていると近所の高校生たちが、話しかけてきました。地元の若者たちと話しができるこんな機会は願ってもないチャンスです。名前の交換から始まって、将来の夢や若者の最近の流行など、学校で習っただけにしては流暢すぎる英語で交換をしました。相当各自が自分で勉強をしているのだと思います。一人の学生は、将来はアメリカに行って医者になりたいと言っていました。発展途上国の若者の夢や希望は、多くの場合2つに分かれます。一つは、アメリカなどという先進国と呼ばれている国へ行き、成功すること。そしてもう一つは、故郷に留まり、国のために役立つことをすることというようにです。しかしながら、ベトナムの青年のみならず、世界の情報が、世界の隅々まで行き渡るようになってきた現在、発展途上の国の若者たちもいわゆる先進国と呼ばれている国々とて、よいところばかりではないということに気が付けさせられてきています。自分の故郷にある他の場所にはない価値、これに気づきだしている若者が多くなってきているような気がします。さて、さて日本はどうでしょう。

楽しく歓談をした後、市場を見ながら宿に戻り、行きつけのレストランで昼食をまたまたたらふく食い、午後は、ベンチェー出身のガイドさんの実家に招待していただいたので、皆で押し掛けることにしました。ガイドさんを待っていると宿のいきなり大型バスが横付けされました。ベトナムの地方都市で大型バスを見ることはなかなかないわけです。バスの中から、ガイドさんが現れました。何とガイドさんのお父さんは、バスの運転手さんだったのです。自分のバスで、私たちを迎えに来てくれたのでした。「オラオラオラー」と声をかけながらバスはベンチェーの街を進みます。駐車場にバスを止め、小径を入ったところにガイドさんの実家がありました。ちょうど、東京の下町のような雰囲気の場所です。お母さんの手料理に舌鼓を打ちつつ、お父さんと談笑しました。まあ、談笑と言ってもまさに談笑で、微笑み返しをするだけなのですが、言葉の壁は高いですわ。翻訳コンニャクがほしい。でも、こうした下町ではご近所の人が支え合って生活をしていることがよくわかります。ご近所の方々が、私たちのためにいろいろなものを持ってきてくれたりします。路地に人は皆顔見知りであるに違いありません。家の前を通っていく度に皆声をかけていきます。子どもたち全員を大学に行かせ、育てあげた、お父さん、お母さん、年のころからいって、必ずベトナム戦争を体験している世代です。言えない苦労も多々あったにちがいありません。でも、お二人ともニコニコと突然の外国人の訪問にもかかわらず歓迎をしてくれたのでした。

今宵もまたまた、ベランダ歓談です。椰子木陰から見え隠れする満月を眺めながら、メコンデルタの小旅行を満喫しました。
                つづく


フィールドワークベトナム2002
SPOT・REPORT−8
【独り言ベトナム−8】
1941年1月28日、ほぼ30年ぶりに祖国の地を踏んだホー氏は、壊滅的なダメージを被っていたインドシナ共産党の残った幹部を集め、中央委員会を開催します。この委員会において、現在行っている闘いを、「民族解放革命」とし、インドシナ全体の独立運動ではあるが、当面はインドシナ3国、各国がそれぞれの独立をめざすという方針を固め、ベトナムの共産党は、独立を達成するための民族統一戦線組織として、ベトナム独立同盟(ベトミン)を結成しました。

そして、独立の勝機は、当時、インドシナを占領していた日本が負けるときであるとして、ベトミンは、着々と準備をすすめます。1945年8月、日本の敗北という知らせを受けたインドシナ共産党は、ただちに行動を開始します。8月13日から15日にかけ行われた共産党全国会議において、全国的な蜂起を決めます。各都市での権力接収がすすむ中、8月16・17日両日には、臨時政府における政府機関を作る準備委員会を選出するための国民大会も開催され、8月28日には、最後に残っていたハーティエン、上ドンナイ両省の権力接収も完了して、蜂起は終結しました。

8月26日には、臨時政府の閣僚も公表され、9月2日にハノイのバーディン広場にて、ホー氏によってベトナム民主共和国の独立宣言が読み上げられました。ベトナム民主共和国は、主席がホー氏ではありましたが、何も社会主義者の国であったわけではありませんでした。

こうして、困難な運動のすえ設立されたベトナム民主共和国、世界の各国、とりわけ日本をはじめとする西側諸国が承認をすれば、この後さらに続く戦争をやる必要はなかったかもしれません。再独立後のことは次回書きましょう。いわゆるベトナムにおける1945年の8月革命が成功したことについての印象としては、やはり、ホー氏の戦略眼を無視することはできないと思います。特に印象深いことは2つあります。1つは、革命を直視するがゆえに視野が狭くなり独善的になるところを世界的な広い視野に立ち、革命の時期などを推察した感覚はたいしたものだと思いました。そしてもう1つは、30年代において、その運動論において差異があったがゆえ、若手から突き上げられ失脚しそうになりながらも、しっかり軌道修正をし、再び革命のリーダーとして祖国に復帰したあたりの柔軟でねばり強い精神力、これも凄いと思いました。

本当の意味の愛国心とヒューマニズム、そして、信念、洞察力がなければ、ここまでの忍耐力は出なかったと思います。こうした少数の人たちの発想を多数の人たちに理解をさせ、賛同させていくこれほど困難な仕事はないと思います。それだけにホー氏をはじめとする当時のベトナムの指導者たちの仕事ぶりは、現代の日本においても多くの学ぶ点があると思います。

【旅のエッセイ(第8日)】
1日ずれたままなので、ちょっと修正をしますね。昨日、メコンデルタの小旅行を終え、再びホーチミンへと戻ってきました。メコンデルタでの数日は、ホーチミンに来ていること自体が夢のようなのに、さらにまた夢の夢という感じでした。浦島太郎ってきっと南国に行っていたんだと思います。昨夜の夕飯は、まだ本格的には食べていなかったバインセオを食べに行ってきました。ベトナム風お好み焼きは、お好み焼きと言うよりは、タコス風と言った方がよいでしょうか。

中華鍋のような鍋で、揚げると言うか、焼くというか米粉をココナッツジュースで溶いた生地をうすくパリっと焼き上げます。大きい丸状の生地の上に豚肉、エビ、タマネギ、モヤシ、サラダ菜、レタス、香草などをお好みではさんで、これまたお好みのタレにつけて食べます。私の場合は、揚げたてのパリッとした感じより、ちょっと時間が経ち、しなっとした感じの方が好きです。どうも邪道のようですが。いつも行く屋台のバイセオ屋さんは、年々立派になり、日本語のメニューなども登場していました。最初の頃の渾然一体とした喧噪な雰囲気が好きだったのですが、だいぶこじゃれた食堂になってきました。バインセオだけでなく、焼き肉なども食べて、またまた満腹状態、腹ごなしに夜風に吹かれながら歩いて宿まで帰りました。

明けて、本日は、午前中にホーチミンの中華街であるチョロン地区へと向かいました。ホーチミン市は、サイゴンとチョロンの2つの町からなっています。ホーチミン市で言うところの第5区がチョロン地区となります。チャンフンダオ通りを通り、チョロン地区へと入ります。
東南アジア最大の華僑の街であるチョロンは、17世紀末、明から渡ってきた華人たちが中心となって作られた町です。南部から送られてくる米の集散地として発展し、大きな市場(チョロン)と呼ばれました。1975年の南北統一の際、多くの華僑がベトナム国外に流出したため、一時、チョロンの経済活動は低下しましたが、ドイモイ政策以降、再び華人たちが戻るようになり、経済的な活動も徐々に回復してきています。ベトナムの南部経済にとって、無視することのできない経済地区です。

チョロンの中心にあるビンタイ市場が近づくにつれ、バイクやら人やらの流れは、異常な数に膨張して、まるでお祭りというか行列というか、とにかく人人人の大洪水状態へとなっていきます。ビンタイの市場にたどり着くころには、群衆に人酔いしている始末です。ヘトヘトになりながらも、まるで映画のセットの一部のような市場前に立ちます。ビンタイの市場は、とても好きな場所の1つです。デラックスなのか朽ち果てているのか、わからないコンクリート2階建ての市場を中心にして、その回りを2重3重の露天の店が囲んでいます。正面玄関から入ります。中庭のある回廊的な造りの建物です。まずは、一度も動いているところを見たことのないエスカレーターを横目で見ながら、2階へと上がります。反時計回りに回廊を巡ります。間口が一間ほどに区切られた、ブースといいますか、まさに小店が、ぎっしりと詰まって店開きをしています。ありとあらゆる品物があふれだしています。まるで、おもちゃの缶詰状態です。洋服屋から始まって、生地屋、下着屋、帽子屋、靴屋、鞄屋、ぐるっと回って、今度は1階です。同じように回廊を巡ります。雑貨屋、お菓子屋、金物屋、食器屋などなど。そして、さらにこうした店を囲むように外側には、肉屋、八百屋、乾物屋、食堂と軒を連ねています。まるで、迷路のようです。

どの品物もホーチミンの中心地に比べると何割か安くなっています。私も思わず小型のコーヒーメーカーを買ってしまいました。市場の隅から隅まで見終わり、外へと出ました。まるで市場を台風の目のようにして、人の渦巻きは、同心円状に広がっています。漢方屋街を抜け、様々な品物の問屋街を通り抜け、華僑の人たちのお寺の1つであるティエンハウ廟に向かいました。途中、今日はちょうど何か祀られている人の祭日にあたったようで、龍や太鼓のパレードに飲み込まれました。人の流れに押し流されていくうちに廟につきました。

廟内は、蚊取り線香のような渦巻き型のお線香が天井から吊され、その煙で幻想的な空間がつくられていました。皆、手に手に、長くて太い祈念用のお線香を持ち、祭壇に向かってお祈りをしていました。ベトナムは、社会主義の国なのですから、本来は、宗教は少ないはずです。しかし、実際は、仏教徒をはじめ、キリスト教徒、新興宗教のカオダイ教などいくつかの宗教が存在をします。あるクメール教徒に、「政府と宗教の関係は?」と尋ねたら、「現在はとてもよい関係にあります」と答えてくれました。アジア人と仏教などの関係は、切っても切れないものだなと改めて感じました。


人混みで疲れた私たちは、早々に宿に戻り休息をした後、夕食をとりに少しいつもとは違った雰囲気のレストランへと向かいました。ベトナム料理のそのレストランは、リゾート感漂う、グレードの高めのレストランなのです。なぜ、そんなレストランへ行くことになったかと言いますと、1つはベトナム音楽のライブをしているので、音楽を聞くためともう1つは、このFWの期間中に誕生日を迎えた人が3人もいたので、合同誕生会も兼ねてということだったのです。ベトナムならではの楽器を奏でる楽士の人たちは、市内にある音楽学校の学生さんであると聞きました。不思議な形をした一弦琴から出てくる音色は、古きよきインドシナの歴史を感じさせます。伝統的なベトナム料理を堪能したあと、オーダーしたバースデーケーキが登場するとインドシナ風バースデーソングが生で演奏されました。何かとても気持ちのよい夜となりました。

サイゴン河から吹き上げてくる川風に吹かれながら、ぶらりぶらりと宿に帰っていったのです。   つづく


フィールドワークベトナム2002
SPOT・REPORT−9
【ベトナム独り言−9】
1945年9月2日、ホー氏がベトナム民主共和国の独立宣言を読み上げたとき、国の閣僚15名のうち、共産党員は6名で、残りの9名は、非共産党員でした。このことからもわかるようにホー氏は、国の独立こそ最優先されることと意識し、民主国家としてのベトナムを世界に宣言したわけです。

しかしながら、連合軍のポツダム宣言は、ベトナムにおける日本軍の武装解除に対し、北部は中国軍、南部はイギリス軍が実施することとします。こうした状況の中、45年9月23日には、早くもフランスがイギリス軍の援助を受け、インドシナの復帰を開始します。依然、事実上の宗主国であったフランスは、植民地の放棄を考えていたわけではなかったのです。こうしたフランスの背景には、アメリカという国が見え隠れしていました。

そもそも太平洋戦争は、日本に奪われてしまった東南アジアの利権をアメリカが取り戻そうとした戦いでした。せっかく取り戻しつつあった東南アジアの利益地帯を欧米諸国はそう簡単に手放すはずはありませんでした。おりしも戦後まもなくから始まった、東西冷戦はこうした利権争いに合理的な説明を与えることとなるのです。 こうして、ベトナムは、この後、第1次インドシナ戦争を経て、ベトナム戦争というように再び、独立のための闘いを続けることとなるのです。

このようなベトナムの歴史を振り返る度に資本主義経済体制における構造的な矛盾を何度も思い起こさせずにはいられません。では、21世紀となった現在、こうした資本主義的構造矛盾が解決されているのでしょうか。現在、アメリカは、アジアの地において、テロ行為に対する報復という名のもとにアフガニスタンの空爆を続行しています。アメリカはこうした軍事行動を当時のベトナム戦争と同じように、自由のための闘いであると称しています。中近東や中央アジアで発生をしている問題の根元的なものは、その地に豊富に眠る地下資源等の利権であることは明らかです。そうした利権を確保するために東西の大国と称した国々が、冷戦という名のもとに戦闘を大儀化し、正当化してきたわけです。しかし、現在その一方の雄であったソビエトという国がなくなり、冷戦というバリヤーを使えなくなったアメリカは、文明の衝突などという古い大儀を持ち出し、自分たちの行動を正当化しようとしています。

こうした、ある意味、ルールなき資本主義の肥大化に対して、私たちの国、日本は、いつも後方支援的な位置をキープしながら余剰の利益を享受してきました。ベトナム戦争のときの後方支援基地として、沖縄をはじめとする在日米軍基地は、フルに稼働をしました。湾岸戦争のときもそうでした。そして、今回のアフガン紛争においてもそうです。湾岸戦争のときなどは、アメリカ軍に、日本の物資にわたる献身的な援助がなければ、アジア地域における軍事的なプレゼンスをアメリカは維持できないであろうとまで言わしめました。

次の日本の国会において、有事関係の法案審議が予定されています。有事とは何であるかという定義すら出来ない政府が、アジアにおけるアメリカの軍事的プレゼンスに寄り添うために法律まで変えようとしています。また、その先には、資本主義的経済の活性と言う大儀のために、ミニアメリカ化をめざし、その安全保障を確保するための軍事力強化という前近代的な政策がまかり通ろうとしています。本来、ベトナムをはじめとするアジアの国々に対して、加害者の立場であった日本という国がその経験をどれだけ真摯に学び、未来のアジア、ならびに世界の平和のために貢献をしていくのか、その意識と行動力が問われているときだと私は思っているわけです。皆さんもできることをやっていきましょう。風の学園に入学して、学ぶこともそうした実践の1つとなると思うのですが、手前味噌ではありますが。

【旅のエッセイ(第9日)】
今日はついに最終日となりました。最後の日なので、今日は予定を何も入れずにホーチミンの街をブラブラすることにしました。もう一度行っておきたいところがいくつもあるのですが、欲張ってもしかたがないので、街の中をゆっくり見ることにしました。こうして、ホーチミンの街をゆっくり見直してみると、私がこの街を訪れるようになって、たかが4、5年のことなのにも関わらず、だいぶ変化をしています。
80年代の終わりから本格化したドイモイ政策は、確実に社会に変化をもたらしています。街の中心にあるベンタイン市場にしても豊富な品数は、そう変わってはいませんが、お客さんたちに外国の人が多く見受けられます。そういったせいか、各品物の定価も少々高くなっているような気がします。相場の値段が分かってきたということなのでしょうか。もしかしたら、こうした所で大量に仕入れる、日本人のバイヤーなどが引き上げさせたのかもしれません。

また、ドンコイ通りなどのメインストリートも年々、コジャレたお店が多くなっています。ショッピングモールなどもあちらこちらにでき、日本の県庁所在地のような雰囲気になってきています。豊かになるということはこういうことなのでしょうか。いわゆる近代化が進むと街の様子は、みな似たような感じになっていってしまいます。若者たちの服装も日本と何ら変わりがありません。こうしたことがいわゆるグローバル化というやつなのでしょうか。ベトナムにおいても戦争を体験していない若者たちが20代の半ばにさしかかってきています。何も戦争を経験しないと平和の価値だとか、伝統的な文化の価値だとかが分からなくなるとは言いません。しかしながら、不幸にも経験してしまったことを何らかの形で、次の世代の人たちにきちんと教え伝えていかないと新しい価値観は育っていかないような気がします。

さいわいなことにここベトナムでは、国の政策の1つとして、小さな国の安全保障は、肥大化した軍事力ではなく、会話と協調を基盤とした平和外交であるとしていると聞きました。そうした意味では、例えば私たちの住む日本という国は、平和憲法のもと、戦後50年以上、他国において戦争をせずに経済的発展に打ち込んできました。こうした経験は、インドシナの国々においても1つの模範となるべくものなのはないでしょうか。確かに、経済的な援助もそれはそれで大事ですが、もっとこうした文化的な援助というか対等な関係の意見交換などを特の若い世代の人たちが活発にしていけるような環境が必要な気がしました。

ホーチミンの街な中をうろうろした結果、私がたどり着いたのは、サイゴン河の畔に建つ古いホテル、マジェスティクホテルでした。歩き疲れてちょうど喉も乾いたので、一休みすることにしました。古いエレベーターに乗り屋上のラウンジに出ました。サイゴン河が一望できるラウンジの片隅に座り、レモンジュースを頼みました。河の向こう河には、うっそうとしたジャングル地帯が目の前まで迫ってきています。その昔、ベトナム戦争を取材に日本から来た何人かの若者たちが、メコンデルタ地域で起きている紛争を命がけで取材した後、このホテルの最上階にあるバーでビールを飲みながら骨休めをしたそうです。当時は、そうしたときでもサイゴンの街の中のあちらこちらから砲声が聞こえてきたそうです。ベトナム戦争終了後、中国やカンボジアの紛争に巻き込まれ、本当の意味で、戦争が完全に終わるのは、89年まで待たなければいけませんでした。まさに、冷戦の終結とともにベトナムという国の戦後は始まったと言ってもよいと思います。

それから十数年、インドシナが植民地化された以降、最も平和な時間を過ごしているのだと思います。平和であること、平和を維持し続けること、そこには、主体的な意識のもと手に入れるための努力が必要であると思うわけです。そう言う意味では、日本もベトナムも軍事的な力技では、真の平和を手に入れることはできないということを経験したと思います。これからは、違う形の維持取得の方法を考える時代だと思うのです。そう意味で、日本とベトナムが、連帯できていけたらいいなとホーチミンの喧噪の中で思ったのでした。

飛行機に乗るまでの間、少々時間があります。宿でシャワーなどを浴び、最後のディナーにフエ料理のレストランへ行きました。ベトナム最後の王朝があったフエでは、宮廷で出されていた料理が大衆化し、一つのスタイルとして定着をしました。今回の旅のサブテーマは、食文化だったかもしれません。まさに食い倒れの旅でもあったようです。

空港までの道、いつものようにオートバイの洪水が私たちを飲み込みました。あっちこっちからクラックションの音や大声が聞こえてきます。最近の日本にはないアナログ的な騒音です。こうした喧噪をうるさいと思うのかどうか。まっ、私は、「これが、ベトナムだ」と思うのです。では、また次の機会に。

   タン・ビエット。
   (おしまい)