※ このレポートは、風の学園の学習の一環として、各ゼミ生が担当をして作成しています。



ホー・チ・ミン氏


【ホー・チ・ミン氏】グエン・アイ・コォック(1890?〜1969)
「独立と自由ほど尊いものはない」

【年表

1890 ゲアン省ナムダン県ホアンチョ村(現在キムリエン村)に生まれる。
1895 フエで生活する。
1910 ファンティエットのズクタイン校にて予備教員をつとめる。
1911 フランス船トレビュー号の船員として、サイゴンから出国する。
1912 船員としてアフリカ各地を訪問・ニューヨーク市近郊に居住
1913 ロンドンに居住
1914 第1次世界大戦勃発
1917 パリに居住
1919 フランス社会党に参加
     ヴェルサイユ講和会議に「アンナン人民の要求」を提出する。
1920 レーニンの「民族問題と植民地問題に関するテーゼ原案」を読む。
1921 フランス共産党第1回大会に参加
1923 ソビエトの到着
1924 コミンテルン東方局の部員になる。
     中国広州に到着
1925 ベトナム青年革命会結成
1927 蒋介石の反共クーデタのため、一時ソビエトに行く。
1928 タイシャムに到着
1930 香港でベトナム人共産主義グループの統一会議
1931 香港でイギリス官憲により逮捕 32年釈放され中国へ 34年上海からソ連へ脱出する。
1938 ソ連を離れて中国へ向かう。
1941 中国からベトナムカオバン省に入る。
     インドシナ共産党(ベトナム共産党)第1期第8回中央委員会を主宰しベトミンを結成する。

1944 ベトナム開放軍宣伝隊結成(ベトナム人民軍の前身)
1945 ハノイ蜂起・ベトナム民主共和国独立宣言・インドシナ共産党解散宣言
1946 第1次インドシナ戦争本格化
1951 ベトナム労働党へ改組
1954 ベトナム人民軍ディエンビエンフーでフランス軍を撃破・ジュネーブ会議開催
1960 南ベトナム解放戦線結成
1963 開放戦線軍、アプバックで南ベトナム政府軍を撃破
1965 アメリカ海兵隊、南ベトナムに上陸、戦争エスカレート
1966 「独立と自由ほど尊いものはない」とアピール
1968 テト攻勢
1969 9月 2日・ホー氏死去
1975 4月30日・ベトナム戦争終結



【本を訳しています】
フィールドワークベトナム2000の際に手に入れた、CRPH発刊の、英語版「THE MAN WHO MADE A NEATION HO CHI MINH」を学習として、授業でみんなで訳しています。少々、怪しい訳ではありますが、進むごとに訳を掲載します。

「国をつくった人 ホー・チ・ミン」
目次
1.植民地の発展。
2.国を救う方法を模索。(1911〜20)
3.レーニン主義へ。(1921〜24)
4.ベトナム労働者の党を準備し、世界的な革命の流れと交流をする。(1924〜30)
5.隣の国からホー・チ・ミン氏が指導したベトナム革命。(1930〜1940)
6.ホー・チ・ミン氏帰国、そして、8月革命へ。(1940〜45)
7.抗仏運動。(1945〜54)
8.北ベトナムにおける社会主義革命と南ベトナムにおける民主主義革命。(1954〜69)
9.ホー・チ・ミン氏は、ベトナムのみならず世界中の人々の心の中で生き続けるでしょう。



1.植民地の発展

 ホーチミン氏は、1890年5月19日、彼の母方の故郷である、ゲアン省ナムダン県ホアンチョのキムリン村で生まれた。彼の父の生まれ故郷もおそらく、キムリン村だと思われる。

 私たちの国が、フランスの帝国主義者たちによって侵略をされた時代に彼は生まれ育った。独立国であったベトナムから、封建的な植民地にされた。ベトナム人民は、国を失い、家族は崩壊した。フランス帝国主義者たちとその手先たちは、ベトナム人民を抑圧と搾取の下に置いた。ベトナム人民は、飢餓と奴隷のような生活を強いられた。ベトナム人民の間に階層的な矛盾が生じた。それは、主として、地主と小作人という関係、そして、独立国としてのベトナム国と宗主国としてのフランス国(フランス帝国主義)との関係においても基本的な矛盾が発生をした。これらの矛盾が互いにぶつかり合い、ますます混迷が深まっていった。

 ベトナムは立派な国だ。ベトナムの人々は、熱烈な愛国心と外国からの侵略者と勇敢に戦う伝統を持っている。フランス植民地主義者たちが、ベトナムを侵略したとき、ベトナム人民たちは、彼らに抵抗をしました。あらゆる場所で、封建主義者たちの取り巻き連中と戦いました。様々な形で、勇敢に戦いました。しかし、これらの愛国的行動、反フランス行動は、次々と失敗をしました。彼らには、闘うにあたり中心となる考え方が必要でした。1920年代において、人民における国家救済の方法は、深刻な危機に面していました。

 ホーチミン氏の故郷であるニャーティン地域においても、当然のように全ての世代の人々が、きびしい状況と戦いました。こうした戦いの経験の中、人々は、外国からの侵略者たちに対して、抵抗していくための伝統を明確に持つようになったのです。彼らが、ベトナムにおける抵抗運動の担い手の一つのなっていったのでした。

 ホーチミン氏は、愛国的知識人の家庭に生まれました。父親の名前は、グエン・シン・フー、別名グエン・シン・サック(1863〜1929)と言いました。彼は子どものころに両親を亡くし、勉強をしながら、生活のために働かなくていけない環境にありました。彼は、彼の師である、ホンスードン先生の学問に対する情熱や高い知性による丁寧な指導のおかげで、文学博士となり、先生の娘さんと結婚し、一教師として、質素に暮らしていました。彼は、多くの子どもたちに、労働を愛する気持ちやヒューマニズムを理解する勉強を指導しました。彼は文学博士号を取得後、政府の繰り返しの要請により、公務員になりました。しかし、公務員在勤中、彼は、否定的で非協力的な態度を当局に対して見せるようになっていきました。彼は、しばしば、「公務員は当局の手先みたいなもので、続けていると、より卑屈な人間になってしまう」と言いました。

 愛国者としての誇りのあった彼は、公務員としてフランス植民地主義者のゴマすりになることを断固として拒否をしました。結果、当局から解雇させられました。解雇された彼は、ナンボーへ行き、伝統的な医者となり、死ぬまで質素で清潔な暮らしを続けました。

 ホー・チ・ミン氏の母親は、ホアン・ティ・ロアンと言いました。優しくて勤勉な彼女は、人生を農耕と彼女の子どもたちの教育に捧ました。ホー氏には、グエン・ティ・タン(バク・リー)というお姉さんとグエン・シン・ハイエ(グエン・タッ・ダット)というお兄さんがいました。2人とも反仏運動に参加をしていました。ホー・チ・ミン氏は、家族の中で3番目の子どもでした。子どもの時の名前は、グエン・シン・クンといい、後に、グエン・タット・タインに変わりました。彼は、賢くて、向学心のある勉強好きな生徒でした。教科の勉強以外では、愛国小説や詩を読むことが好きでした。地方出身のヒーローの物語を読んだり、父親と彼の仲間たちとの会話を聞いたりすることは、彼の気持ちを奮い立たせました。こうした子どものころの経験が彼に国や人々を愛する気持ちを芽生えさせました。

 「夜の昼も、私は国の歴史に自分の活動の記録が残ることを夢みた。私にとって、ただ単に抽象的な理論家として名前が残ることは最も不名誉なことだ」

 ホー・チ・ミン、彼は、地代の取り立て、無理失理な労役などが人々の暮らしを圧迫している不幸な光景を毎日目撃しました。こうした光景を見たことが、侵略者やその手先たちに対する憎しみの炎を彼の心に燃えあがらさせました。彼が15歳のとき、彼は反仏活動に従事をしていました。愛国的学者たちに対する伝令として働いていました。

 フォン・ディン・フンの指導によるホン・カー蜂起に象徴される勤王運動。フォン・ボイ・チャウによるドンズー運動。東京義塾運動とホアン・ホー・タム指導によるイエンテーの反乱。フォン・チュー・チン指導による制度改変は、中部農民たちの税金の不払い運動に発展しました。こうしたベトナムにおける改革運動全てが、ホー・チ・ミンに心の底から影響を与えました。彼の人生の中でも、特に、彼がフエのクオック・ホック校で学んでいたときこうした過去の運動が彼に強い影響を残しました。結果として、彼は、フランス植民地主義者たちをベトナムから追い出すことを胸に抱いたのでした。

 前述した様々な改革運動は、大いなる勇気によって、瞬く間に全国へと広がっていきました。しかし。こうした運動の多くは、正しい方針がなかったために多くは失敗をしてしまいました。社会科学的な視野が発展していなかったがゆえの歴史的限界性によって、彼らはフランス植民地主義者ならびに彼らに関係する労働者と自国の労働者たちを区別することができませんでした。当時の運動家たちは、フランス帝国主義者たちを駆逐し、国家の独立と農地解放というベトナム革命に課せられた本質的な役割に気づいていませんでした。そして、そうした革命の原動力たるエネルギーと意識が、労働者と小作農民の間にあるという現実を理解していませんでした。

  勤王運動は、失敗しました。なぜならば、幅広く大衆や小作人たちを結集できなかったからです。中でも、フランス植民地主義者たちに屈した多くの富農家たちは、人々が残忍な圧政と搾取を受けている間にも彼らに依存し堕落してしまっていました。

 ホアン・ホー・タムの指導による小作人たちの反乱は、その計画が漏らされたことによってまねいた警察の権力外介入、幅広く大衆運動としての組織化することができなかったこと、国全体としての支援体制作りの不足などにより失敗しました。

 ファン・ボイ・チャウは国家救済運動の活動家でした。しかし、彼は、日本がフランスをぐらつかせることをあてにしていました。言うなれば、「豹を招待して、虎を追い出す」ということに等しかったのです。

 ファン・チュー・チンはフランス植民地主義者を倒すことだけを主張しただけでなく、ベトナムの旧制度の改革も主張しました。しかし、封建制度全体を倒すというところまでは、主張しきれず、高級官僚の廃止を強く要求したところまでにとどまりました。とは言え、彼もまた愛国者の一人でした。

 ホー・チ・ミン氏は、深く彼らを尊敬はしましたが、彼らの示した方向をなぞるようなことはしませんでした。ドン・ズー運動によって主張をされたような、「東へ行く」、つまり、日本に学ぶことを断固拒否し、ヨーロッパ方面へと目を向けました。ヨーロッパの自由で、理想的な民主主義や近代化学、技術などが彼を魅了しました。彼が13歳ぐらいのころに聞いたフランスの言葉、「自由」「平等」「博愛」という言葉は、後に彼に大きな影響を与えます。それらの言葉の本当に意味を正確に理解をしているはずのフランス市民たちのように、自分自身を高めていくことを望みました。

 1908年の夏、ホー・チ・ミン氏は、彼自身の学業とフエを出て南へ行き、外国へ行く方法を見つけだすことを断念しました。彼は、ファンティエットにとどまり、デュクタインという名の学校で短い期間でしたが教諭をしました。この学校は、何人かの愛国的な知識人によって設立されたものでした。ここで彼は、彼の持つ知識だけを子どもたちに教えるのではなく、自分の国を愛する方法もまた教えました。

 その後、ホー・チ・ミン氏は、サイゴンを訪れます。そこで彼は、フランスの植民地である南ベトナムであろうが、フランスの保護下にあった中ベトナムであろうが、準保護下にあった北ベトナムであろうが、その状況に大きな違いはないことに気がつきます。ベトナムのどの場所でも民衆は、圧政と搾取を受け、悲惨と屈辱を味わっていました。ヨーロッパ民主主義の考え方を支持していたホー・チ・ミン氏の考え方を尚一層前進させたサイゴンでの経験は、彼のベトナムを独立させたいという気持ちをさらに強くさせました。ファンティエットに戻ると直ぐに彼は、フランス植民地主義者を追いだすために闘っている同志たちの支援をします。こうした彼の決断は、国救済のために奮闘している各地の民衆たちに新たな展望を投げかけることになりました。

2.国家救済の方法を知る

 サイゴンに短い間滞在した後、ホー・チ・ミン、仮名バ氏は、フランスのALT運送会社の持つ蒸気船に料理人見習いとして乗り込む仕事を得ました。

 それから、彼は長い旅を続けることとなります。最初に訪れたフランスには長くは滞在しませんでした。彼は、ヨーロッパの様々な国のみならずたくさんの国を訪れました。アフリカ、アメリカ、スペイン、ポルトガル、アルジェリア、チュニジア、コンゴ、ダホメイ、セネガル、リユニヤン、イギリスなどというように。彼は、様々な事柄を目撃し、多くのことを考え、その状況を分析するという、彼にとっての試練と呼ぶべきこうした実践を彼の持つベトナムへの熱烈な愛国心と植民地主義者とその手下たちに対する憎しみによって形成された彼の大志を実現させるための固い決心が、冷静に平然と対処することを実現させました。

 フランスにおいては、彼はLe Havre portのそばのSainte-Addresseで住み込みで庭師や料理人などの肉体労働に従事していました。イギリスでは、学校の雪かき仕事、ロンドンでは、ホテルのカマ焚きやウェイターをしていました。イギリスに滞在をしている間、彼は、政治家や思想家、外国人労働者組合などが主催をした演説会に参加することを楽しみにしていました。また、彼はアイルランド人たちの愛国的な闘いを支援しました。さらにフランスに滞在しているファン・チャウ・チンのようなベトナム人愛国主義者たちとも連絡を取っていました。彼は、イギリスで暮らし、労働をしている間に、イギリス植民地政策反対運動から反体制運動の初歩を学ぶこととなりました。