※ このレポートは、風の学園の学習の一環として、各ゼミ生が担当をして作成しています。



ベトナム生活


【レポートField Work VIETNAM 2001】


 2月18日(日)
 フィールドワークに参加するのは、去年11月のフィールドワーク神奈川が初めてでした。今回は、海外(しかも前々から行ってみたいと思っていたベトナム☆)ということで、とても楽しみにしていました。少しは事前学習をしておいた方が良いということで、急いで図書館から本を借りてきて読んだりはしましたが、バタバタしているうちに出発日になってしまい、言葉も、簡単な挨拶を3つ4つ覚えたくらいで、ベトナムへ飛び立つ日をむかえてしまったのでした?。3日前の15日に仙台から千葉まで出て来ていたので、この日は、ゆっくり起きて、電車で成田空港に向かいました。

 ベトナムは、東南アジアの中でも比較的日本から近いので、直行便だと6時間弱で到着します。離陸したと思ったら、あっというまにホーチミンのタンソンニャット国際空港に着きました。日本との時差は2時間(日本の正午がベトナムでは午前10時になる)とのことで、時差に関しては、まったく気になりませんでした。空港の到着口には、現地のガイドさんが迎えに来てくれていました。今回、空港や大学まで送り迎えをしてくれたり、時には通訳になってくれたり、ガイドをしてくれたりしたDungさんは、とても優しい雰囲気の人で、行く先々でベトナムのことを色々と説明してくれたり、教えてくれたりしました。ホテルに向かう車の中でも、最近は韓国製や中国製のバイクが売れていて、日本企業のバイクは値段が高いため、売り上げが低迷していること、ホーチミンは中心地のため、様々な人が集まっていて、夜中の2時?3時まで遊んでいる人もたくさんいるといったことなどを説明してくれました。その言葉の通り、夜中のホーチミンは、少し静かだけれど、人は結構うろついていました。道の真ん中の路肩のような所や歩道上のシクロの上などで熟睡している人たちがいて、「この人たちは家が無いのだろうか、それとも帰るのが面倒くさくて、こんなところで寝ているんだろうか」と、その様子に驚きました。バスは、サイゴン川沿いに建つマジョスティックホテルなどを経由して、ハムギー通りにあるリバティー2ホテルに到着しました。部屋の窓からは、有名なベンタイン市場が目と鼻の先に見え、そのまわりを、バイクの群がぐるぐると走りまわっています。エンジンやクラクションの音が夜通し鳴り響き、明け方になると、さらにバイクの数は増えて、けっこうな騒音でした。

 2月19日(月)
 今朝は、FW参加者の奈穂さんと一緒に、ホテルの10階にあるレストランに朝食を食べに行きました。景色がよく見渡せるガラス張りのレストランで、ビッフェスタイルの美味しい朝ご飯でした。様々な種類のパンや、お粥、ベトナム料理(日替わりの麺類、フライドライス、焼きそば、春巻きなど)、フルーツ(スイカ、マンゴー、パパイヤ、ミルクフルーツ、ドラゴンフルーツなど)、ヨーグルト(氷の上にのっかっているのでフローズンヨーグルトになっている)、チーズ、揚げ物、色々あって、ついつい食べ過ぎてしまいました。
 そして朝食のあと、9時頃にフロント前に集合して、それぞれ両替をしてもらい、語学研修のためHONG BANG UNIVERSITYへ。大学という言葉から、大きな建物と広いキャンパスを想像していたら、なんと日本の大学とは形も雰囲気も全く違う、吹き抜けの、塾のような小さな小さなビルでした。去年のフィールドワークの時も、ここの大学でベトナム語の語学研修を受けたそうで(今日は教室が空いていなかったらしく、分校のような、少し離れた場所にあるビルの中の教室で授業が行われました)、学長さん自ら、挨拶や自己紹介の仕方など、初歩的なベトナム語を教えてくれました。日本語で説明しながらではあるんだけれど、授業のテンポが速く、ノートをとるのも一苦労。私は、ベトナム語の発音記号に慣れてないので、耳で聞いて発音を把握し、ノートに読み方を書いておかないと、あとで読めなくなってしまうので、ベトナム語の上にカタカナで発音をメモったり、先生の口元に注目して、何度も何度も口に出して発音の練習をしました。でも、日本語とは口の使い方が全く違うようで、なかなか、言われるような発音を真似することができませんでした。途中から、学長さんは用事があるとのことで、少し若い別の先生にバトンタッチし、数や、買い物に行った時に使う表現、単語を少し習ったんだけれど、どの先生も、とても日本語が上手で、すごいなぁと思いました。

 語学研修の後は、みんなで戦争証跡博物館を訪れました。ベトナム語が分からないので、説明文は、英語と中国語(漢字)の単語から文章を想像して読み、あとは写真を眺めたり、今も残されている戦車や、ギロチン、牢屋などの展示物を見てまわりました。反政府の人々に対して実際に行われた数々の拷問の絵や、枯葉剤の影響によって生まれたホルマリン漬けの奇形胎児など、残酷で悲惨な戦争の過ちの歴史を示す展示内容だったけれど、中でも二枚の写真が記憶に残りました。小学生くらいの男の子が、3歳くらいの弟を連れて、土埃の舞う地面を這っている写真。ケガをしながらも、降り注ぐ砲弾や敵の攻撃から必死に弟を守ろうしている健気な姿が目にとまりました。でも、もう一枚の写真は、その兄弟を砲弾が貫き、血を流して道ばたに倒れ、息を引き取っている写真でした。お兄ちゃんの無念さ、恐怖が伝わってくるようで、とても悲しい写真でした。

 それから、ドンコイ通りにあるベトシルクという仕立て屋さんで、アオザイをオーダーメイドしました。最近は、アジア雑貨ブームのため、店内のお客さんの多くが日本人で、店員さんも半数以上が流暢な日本語を話して対応していました。たくさんある生地の中から好きな生地を選んで、サイズを採寸し、支払いをして、引き替えの紙を受け取りました。3日くらいで出来上がるとのことでしたが、人気が出てきたので、以前と比べると時間を要してしまうそうです(以前は1日あれば仕上がったらしい)。アジア雑貨に目をつけた日本人オーナーが経営する雑貨店が、日本にもアジアにも増えているけれど、よくよく考えてみると、そのほとんどが、ベトナム雑貨とはいうものの、最初から日本人をターゲットに作られているのが事実。実際に、その雑貨をベトナムの人々が買って使うことはなく、身につけているわけでもなく、日本人がベトナムに来て「ベトナムの物だ」と買っていくものは、実は日本人が、日本人向けに、ベトナムでベトナムの人に作らせているだけなのだということを、実際に現地に来て、初めて実感として感じました。

 2月20日(火)
 今日も、午前中はHONG BANG大学で語学研修でした。この学校の日本語初級コースの生徒たちと交流する時間もあり、すごく緊張したけど、恐る恐る話してみました。お互いにほとんど話せない日本語とベトナム語で会話するのは難しくて、最初は、言われている単語も理解できないし、なかなか通じなくて、どうしたらいいのか分からなかったけれど、みんなとてもフレンドリーだったので、何度もゆっくり話していくうちに、だんだんと打ち解けていくことができました。別れる時は、次に会えるのはいつになるか分からないから、とても寂しくて、「タンビエット!」「ヘンガップライ!」と、覚えたばかりのベトナム語でサヨナラをしました。

 午後からは、チョロンと呼ばれるチャイナタウンに行きました。金物屋さん、帽子屋さん、布屋さん、乾物屋さん、歯ブラシや文房具などの生活用品、食料品、同じ場所に同じような店が密集し、どの店も品物が溢れるくらい山積みにされていて、熱気と人混みに圧倒されてしまいそうでした。戦後まもなく、政策の失敗によって多くの華僑がベトナムを離れて海外に流出してしまったため、この地区も1975年以降は人気がなくなり、寂れていた時期もあったそうですが、ドイモイ政策によって市場経済となったことや、中国との国交正常化に伴って戻ってきた人々によって、ようやく、このような熱気や活気を取り戻し、今に至るとのことです。でも、実際に来てみると、そんな話が信じられないくらいの賑やかさでした。

 そんな1日を過ごし、夕飯のあとは、自然とベトナムやアジアの経済、企業についての話しになりました。日本やヨーロッパ諸国の企業がアジア市場を狙う理由(人件費などの費用が安く、生産率も高まることなどから、日本の企業はアジアに工場などを進出させ、規制や罰則が緩いことを良いことに、公害物質を垂れ流しているが、このままでは、いずれアジアの国々では、外国企業に対するボイコットの動きが起こるだろうと推測されるということ。実際、アジアの国々は次第に自国での生産能力を身につけてきていて、外国企業は撤退気味であり、果たして日本は、アジア経済の中で生き残るために、どういった対策をとっていくのか?)、ベトナムという国の移り変わり(戦争が終わってから、まだ十数年しか経ていないベトナム。戦後の日本のように経済的にも急成長を続け、街中の様子も日増しに変わっていっている。このように人々の生活や意識が急激に変化していく中で、今後のベトナムは、どのように変わっていくのか?)など、とても有意義な話し合いでした。

 2月21日(水)
 今日は、車でクチに行きました。片道1時間半?2時間かかったんだけれど、とても揺れて、さらに排気ガスと土煙で、車酔いしてしまいました。でも、ガイドのDungさんにベトナムのことを色々と教えてもらいながら、ずっと外の景色を眺めいると、おもしろい光景をたくさん目にすることが出来ました。二人乗りのバイクで走りながら物を売り買いしている商人のお兄さんとかもいて、一人が目の前のバスにピタリと張りつくように運転し、もう一人が、窓から手を出してくる客に品物(Tシャツや帽子)をいくつか手渡して選んでもらい、お客さんの方はその品物が気に入らなければ「別のを見せて」といった感じで、バイクのお兄さんに品物を返してよこし、また別な品物を手にとっては返し?。踏切りなどで止まっている間も、走り出しても、延々と10分くらい交渉をしていて、「すごいテクニックだなー」と思いました。それから、数少ない踏切りで、ちょうど列車が通過する場面に出くわしたんだけれど、これまた遮断機は手動で、係員が手で降ろしている光景にびっくり。さらには、遮断機が降りているのに平然と進入して線路を横断してしまうオバサンとかもいて、近代的なもの(車やバイクなど)と古いもの(馬車や荷車など)が、当たり前に入り乱れている光景が、昔の日本のようだな?なんて思いました。大学や小学校など、いくつか学校の前も通ったんだけれど、ベトナムの学校は、小学校が5年間、中学校が4年間、高校が3年間あるそうで、先生を敬い、お正月には先生に花などをプレゼントしたりするとか。また、小学校高学年?中学生くらいの子供たちは、みんな制服の首もとに赤いリボンをつけていて、これは、戦争で小さい子供もたくさん亡くなったことを忘れないよう、心に刻み込む意味合いもあるらしいです。やがて、しばらく走っていくと、だんだん風景が変わってきて、日本の田園のような景色になりました。米の収穫は1年に一度と決まっている日本とは違い、メコンデルタでは、1年に2?3回は収穫ができるとのこと。農家に関しては、また機械が普及していないので、ほとんどの仕事が手作業で行われていて、水牛を使ったり、カモやアヒルを使ったり、動物の力を借りた農法が主流だそうです。また、今は栄えているように見える町々も、戦時中は多大な被害を受けた場所であり、最近ようやく畑などができてきたといった感じで、まだホーチミンなど都会の生活と比べると、貧しい人が多いとも聞きました。それから、田舎の方へと近づくにつれて、お墓が目に付くようになってきて、しかも、墓地があるのではなく、田んぼの真ん中や家の庭などに、ぽつんぽつんと1基か2基ずつ建っているのが、すごく不思議でした。ベトナムでは、都会の方では土地が狭くなってきているため、火葬をすることもあるそうですが、遺体を燃やすことに抵抗感を持っていて、基本的には土葬だそうです。都会には、お墓がほとんどないので、田舎に持ち帰って埋葬します。墓石を作っている墓石屋さんも見かけたんだけれど、ベトナムの墓石は、同じ形のものがあるのかな? と思うくらい、いろんな形、いろんな色(灰色、水色、クリーム色、ピンク色、黄色など薄い色が多かったかな)があって、たまに中国っぽい赤とかオレンジとかの奇抜なデザインの墓石もありました。

 クチに向かう途中の町で、いったん車を降り、ライスペーパーを作っている小屋を見学する時間がありました。そこは旅行者が立ち寄ることが出来る観光スポットの一つらしく、おばさんが気前よく作り方を教えてくれて、私もチャレンジしてみることにしました。最近では日本でも人気が出てきて、スーパーなどで気軽に買うことができるようになったライスペーパー。てっきり工場などがあって大量生産しているのかと思っていたら、工場というものは存在せず、米が豊富にとれる農村を中心に、こういった小屋で一枚ずつ手で焼き、天日で干して作られているとのこと。そんなこんなで、ライスペーパー作りに挑戦してみたのはいいんだけど、ふにゃふにゃしているので意外に難しくて、焼いて持ち上げた時にくっついてしまい、きれいな形になりませんでした。おばさんは慣れた手つきで、しかもすごい速さで焼き上げていて、さすが熟練のワザだなと感心しました。まだ乾いていない出来たばかりのライスペーパーを食べてみたけれど、塩辛いクレープのようで、乾いたものは、パリパリしていて、ノリを乾かしたみたいな感じでした。

 ホーチミンから北西70qに位置するクチという小さな地区。戦争が始まる以前は、たくさんの木々や作物に囲まれた自然が豊かな農村でしたが、ひとたびベトナム戦争が始まると、激烈な破壊と攻撃にさらされ、アメリカ軍の兵士を含めて、大勢の人々が犠牲になりました。今日は、そんなクチの郊外にある、今では観光地としても有名なベンディンの地下トンネルを見学してきました(もっと西の方に、もう一箇所、見学できるトンネルがあるようです)。この地下トンネルは、現在のクチの町から数十キロ離れた場所にあるそうで、ベトナム戦争の当時、この地域には解放戦線の拠点が置かれ、激しい戦闘が展開されました。戦争が終わってからは、その一部が、観光用として残されるに至り、広く一般の人々に公開されているので、世界各国から大勢の観光客が訪れています。最初に、観光客用に用意されたビデオを視聴できる場所があり、日本語のビデオを見ました。そのあと、トンネルの模型を指さしながら、ガイドさんのような人が、「トンネルは三層構造になっていて、地下1階は地面から約3m、2階は6m、3階は8m?10mくらいの深さでした」などと、内部の構造を説明してくれました。アメリカ軍は、地上に大量の爆弾や枯葉剤を撒き散らして解放軍を脅かしましたが、解放勢力は、総距離が約250qにも及ぶ手掘りの地下トンネルを構築し、生活を守りつながら、たくさんの罠を作っては仕掛け、戦車や毒ガスなどの近代兵器を武器に襲いかかる米軍を相手に、ねばり強いゲリラ戦を続けました。トンネルには、十数メートルごとに目立たない出入り口が作られていて、付近の集落と集落を結んでいたそうですが、内部は迷路のように入り組んでおり、米軍の進入を防ぐため、所々に落とし穴などの罠も仕掛けてありました。トンネルを掘ったことによって大量にあまった土は、米軍に探し当てられぬよう、蟻塚の形に積み上げたり、爆撃で深くえぐれた場所に埋め立てたり、畑仕事の時に使ったりしたそうです。ただ、アメリカ軍は軍用犬を使っていたので、積み上げた土の周りにはアメリカ軍の服や靴下を切ったものや唐辛子をまいたりして、犬の嗅覚を攪乱させる作戦をとったとも言われます。地下への空気供給については、地上の目立たない場所に空気穴を作り、取り入れていたとのことです。"ベトコンゲリラ"と呼ばれた解放軍の人々は、本来は軍人ではなく、一介の農民達でしたが、アメリカ軍の軍事行動パターンを読み、知恵を絞って考え出した戦法で、なんと一人で数百人のアメリカ兵を倒したベトコンゲリラもいたそうです。また、親を殺されてしまった女の子は、その憎しみを武器に、勇敢に戦って戦果を挙げたと言います。さらに、「食料が十分に足りてこそ兵は強くなる」と信じていた彼らは、昼間は戦い、夜中になると畑を耕して、食料を生産し続けました(爆撃が激しく、畑を耕す余裕がなくなった地域では、山中に生えているタロイモを主食としていたそうです)。このように、ベトナム戦争中において、クチという地域全体がアメリカの侵略に対する巨大な罠となったことによって、アメリカ軍にも多くの死傷者が出ました。当時のアメリカ軍の将校は「ベトコンゲリラは何処にも見えないが、何処にでもいる」との言葉を残しているそうです。また、ヨーロッパの専門家たちの間でも、この地下トンネルの設計構造について、とても評価されているそうです。

 入り口を入ると、まず「自製武器陳列室」があり、ゲリラ戦で使われた数々の仕掛けの模型が展示されていました。竹や落ち葉などで巧妙に隠された落とし穴の奥に、串のように尖った竹槍や鉄の針山、トゲトゲのボールのような罠が仕掛けてあり、実際に人が落ちる光景が想像できないくらい、どれもこれも怖ろしい仕掛けばかりでした。自製武器陳列室を通り過ぎると、今度は、生い茂る木々の中に、爆弾で直撃された跡だという、直径5?6mはあるかと思われる大穴が出現。それを目にした時、何となく沖縄戦の激戦地となった摩文仁のジャングルの風景を思い出しました。

 ベトナム戦争中、実際に使われていた塹壕や地下トンネルの中に潜って、中を歩くこともできました。歩くといっても、幅も高さも1m無いくらいの細い通路なので、中腰にならないと進むことができず、もっと狭い所などは這わないと進めないとのことでした。小柄なベトナム人には通ることができても、体の大きなアメリカ軍の兵士たちでは、入り口でつっかかってしまったり、トンネルの細い部分を通り抜けることができず、素早く逃げ隠れするベトコンを追跡することができなかったのだそうです。トンネルの中には電気が通されていましたが、当時は真っ暗だったとか。また、雨が降った時などは水が流れ込んできて、とても大変だったそうです。雨の多い雨期などは特に、亡くなった人も少なくなかったといいますが、地上にいても殺されてしまうため、我慢して地下に隠れ続けて、地下トンネル内で出産した女の人などもいたそうです。というのも、病院や司令室、会議所、武器の貯蔵庫、食堂、井戸、市場など、生活の場としても、そこそこの環境ができあがっていて、地下に潜んで暮らす人々は、大変な生活を強いられながらも、休息をとったり、食事をしたり、買い物をしたり、勉強をしたりすることもできたそうです。料理をする時は、細い通気口を通して、煙を最小限に細くして、分からないように少しずつ地上へと出していた(さらに、その上に落ち葉をかぶせた)とのことでした。

 この辺りは、激しい砲撃によって地上の木々が燃え尽きてしまったので、枯葉剤は、それほど散布されなかったそうですが、今、生い茂っている木の殆どは、戦争が終わってから植えられたもの(なので、樹齢はまだ20年そこそこくらい)だそうです。また、アメリカ軍が埋めた地雷が残っていて、戦後も、そのために多くの人が犠牲になったという話も聞きました(今では、かなり取り除かれているそうですが、まだ一部、残っているものもあるそうです)。そのほか、この一帯では、たくさんの人が亡くなっているため、ベトナム人の間でも「霊がいる」と噂される場所もあるようです?。

 この地下トンネルは、有名な場所ですが、ホーチミンから少し離れているので、ツアーじゃないと来るのが難しいみたいで、FWに参加して良かったなぁと改めて思ったのでした。

 2月22日(木)
 今日は、ホーチミンのホテルをチェックアウトして、南部のカントーという街に移動することになりました。カントーへは、今までは大きな川を2つ、それぞれフェリーで渡らなければならなかったそうなんだけれど、オーストラリアが手伝って2年がかりで作っていた立派な橋「THE MY THUAN BRIDGE」が、去年の5月21日に完成したので、川の一つは、その橋を使って行き来できるようになり、ベトナムの人はとても喜んでいるそうです。また、ベトナムのカレンダーやポストカードなどの風景としても使われているとのことで、Dungさんも「たぶん、この橋はベトナムで一番立派」だと言っていました。歩いて渡るのは無料だけれど、バイクと車が通過する場合は、道路使用税を払わなくてはならず、その支払所のまわりは物売りの人々でごった返していました。橋の上にもたくさんの物売りの人たちがいて、橋の手すりなどに座って休んでいました。それから、もう一つの川は、今まで通り、フェリーに乗って渡りました。乗り場の周辺にも、フェリーの中にも、少年からお年寄りまで、たくさんの物売り(雑誌や軽食、オモチャなどを売っていた)の人がいて、車の窓に貼り付くようにして、必死に商品を勧めてきました。

 そんなこんなで、カントーに程近いヴィンロンという街まで辿り着き、昼食を食べたあと、すぐ隣にある船着き場から船に乗って、メコンクルーズというものを体験しました。マイさんという現地のガイドさんが同行してくれて、マイさんがベトナム語でガイドしてくれたことを、Dungさんが日本語で説明してくれました。最初は、深さが13?14m程あるという広大なコチエン川を進み、どんどん草木の生い茂る奥地へ。大きな支流があり、枝分かれしたいくつもの細い水路があって、進むにつれて川の幅も狭くなっていきました。水路の脇には、細い根がびっしりと張っていて、まわりの土が水の流れによって崩れてしまわないように支えているようでした。水は土色でしたが、今は乾期なので、にごっていなくてキレイだとのこと(雨期は泥水になるらしい)。あちこちに仕掛けの網が張ってあり、日常的に魚を捕って生活しているのが、よく分かりました。水面には、たくさんの水草が漂っていたんだけれど、親が結婚を決めるベトナムでは(今でこそ恋愛結婚も当たり前になってきたけれど、少し前までは、昔の日本のように、結婚も全て親が決めていたらしいです)、水の流れに身を任せるように生きることから、よく女の人のことを水上を漂う水草に例えたそうです。船でクルージングしてメコンデルタの景色を眺めながら、何カ所か、付近の島々に上陸して立ち寄るツーリストスポットもあり、果樹園や盆栽園、集落のようなところにも行きました。果樹園には、様々な熱帯の植物や果物の木が生えていて、熱帯気候を温室がわりに、タイなどに輸出する植物の苗なども育てているみたいでした。そのほか、日本では聞き慣れない"ドリアンの木の伝説"というものがあるらしく、その話というのは、"戦争で、旦那さんが留守にしている間、奥さんはドリアンの実を食べた。やがて、旦那さんは戦地から帰ってくるが、嗅ぎ慣れないドリアンの匂いがしたので、てっきり奥さんが他の男の人と関係したと勘違いして、怒って家を飛び出ていってしまった。奥さんは、悲しみに暮れながら、ドリアンの木の下に座っていた。そこに旦那さんが来て、訳を知って仲直りした"?とDungさんが説明してくれました(ちなみに、匂いがしないドリアンは、まだ食べごろではないということらしい)。それから、そこに住むMR.TIGERと名乗るお爺さんが、フルーツやら果実酒やら色々と御馳走してくれて、終いには、あやしげな蛇酒とトカゲ酒まで勧められて飲んでしまいました。周囲の木々には、ハンモックがぶらさげてあって、少し揺られてみたら、もぉそれはそれは「このまま、ここで昼寝できたらなぁ」と思うほど気持ちよかったです。その後、盆栽園にも行きました。一面の盆栽、花々、木々が、南国の雰囲気を醸し出していて、黄色い梅の花もありました(ベトナムでは、梅は正月の花で、南部は黄色、北部の方ではピンク色をしているそうです)。気温が高くて、すごく暑かったけど、ここでも、熱いお茶やフルーツが振る舞われ、食べたことのないフルーツを食べることが出来ました。裸足の子供たちが椰子の実を手でほじくって食べている様子は、人間の自然のままの姿を見ているようで、どうしてもサルと動きが似ているような気がして仕方ありませんでした。

 カントーは、メコンデルタ最大の街ということで、川沿いに続くカントー市場も、すごいにぎわいぶりでした。魚介類・肉類・野菜・果物・乾物・食器・雑貨・洋服etc...品揃えも豊富で、安そうだったけれど、その光景に圧巻されてしまい、見ているだけでいっぱいいっぱいでした。肉はパーツごとに売られていて、一つの店に1頭?2頭分の耳、皮、内臓、足、と一揃い。日本のように一部分だけ食べるのではなく、一頭丸ごと食べているんだなというのが分かりました。夕方、川沿いのベンチに座って雑誌を読んでいたら、小学2年生くらいの小さな女の子が裸足でピーナツを売り歩いていて、こんなに小さいのに働かなくてはならないほど貧乏な家も、やっぱりたくさんあるんだな?と思いました。

 2月23日(金)
 今日は、早起きして、水上マーケットへレッツゴー。ということで、朝6時にロビー集合だったのに、思いっきり寝坊してしまい、奈穂さんからの電話で目を覚ましました?。

 カイラン水上マーケットまでは、モーター付きの船で約30分。水上生活を営む人々、魚を捕獲するための仕掛け、行き交う船など、見慣れぬ景色を眺めながら、「水上マーケットってどんなんだろう?」とワクワクしていると、いきなりゴツッという音がして、私たちの乗っている船に、ジュース売りの小舟が貼り付いてきました。そして、言葉が通じない異国の観光客を相手に、平然と飲み物の押し売りを始めるお兄さん。様々な種類のジュースを手にとっては、しばらく「これはどう?」「美味しいよ!」と売り込むも、誰も買ってくれないと分かると、ようやく船を離し、去っていきました。その後も、こういった船が近づいてきてドンッと船をくっつけては商売を始め、去っていき?(そういえば、カゴいっぱいの商品を持って船を渡り歩いている強者おばちゃんもいた)。気付けば、どんどん船の数が増えてきていて、「ここが水上マーケットかな?」と思うような、船と船がギュウギュウにひしめき合っているポイントに到着しました。小さな船から大きな船まで、どの船にも山盛りの品物(たまに、カゴとか、食料品ではないものを売っている船もあったけど、やっぱりフルーツや野菜が多かったです)。船と船がくっつき合って、盛んに売り物の売買が繰り広げられています。船で生活している人もたくさんいて、船の上を駆けまわっている犬や、お母さんの腕の中で眠っている赤ちゃんもいました。どの果物も野菜も新鮮そうだったけれど、毎朝、どこから運ばれてくるんだろう、売れ残ったものはどうなるんだろう、このたくさんの人々は何時に起きて仕事をしているんだろう、どこに帰るんだろう、と疑問が尽きない光景でした。ヴィンロンでも目にしたように、ベトナムの船の先頭部分には、よく顔が描いてあるんだけれど、これはワニなどが攻撃してこないように、大きな魚のふりをしているんだそうです。ベトナム人の発想って面白いな。

 その後、午前中のうちにホテルをチェックアウトし、もともと南部地域の先住民族だった言われるクメール族が暮らす村へと向かいました。北部の少数民族は、今でも、普段から民族衣装を着ているそうですが、クメール族に関しては、最近は、服装もキン族と変わりなく、普段はTシャツなど、ごく普通の服を着ていて、おまつりの時だけ(お正月と、旧暦の10月に行われる月の祭りなど)民族衣装を着るそうです。日本人も、たま?にイベントの時だけ着物や浴衣、袴などを着るといった意味では、似たようなものかな?

 この村にはキン族の人々も住んでいるとのことでしたが、思ったほどキン族とクメール族の顔立ちの違いは分かりませんでした。家々の屋根は茅葺きのような草、たまにタイルやコンクリートで作られたの立派な家もあり、その差が激しく、小さな掘っ建て小屋のような家もあれば、テレビやラジオ、自転車やバイクがある家もありました。犬、豚、鶏、どの家にも何かしら動物がいて、特に鳥類(種類は様々で、チャボみたいな鳥から、シャモみたいな鳥から、烏骨鶏みたいな鳥から、ヒヨコからアヒルから、いっぱい)があちこちにいました。クメール人は、16歳になると、2?3年間お寺で修業を行うのが義務になっているとのことで、その間にクメール語やベトナム語、お寺の仕事など様々なことを学習するそうです。そして、その修業期間が終わって家に帰ると、ようやく一人前として認められ、結婚もできるようになるのだそうです。

 2月24日(土)
 今日は、一日を通してフリータイムということで、まずは近くにある革命博物館へ行くことにしました。革命博物館は、ホテルから歩いて5?10分くらいのところにあり、門のところでチケットを買って敷地内に入ると、入り口で小休止している20人くらいの団体のグループと目が合いました。みんなニコニコしていたので、「ハーイ!」と手を振ってみたら、お兄さんが笑顔で走り寄ってきて、英語で話しかけてきました。中国系の顔をした人もいたので、最初は中国人の観光客かと思っていたんだけれど、話していくうちに、彼らはホーチミン在住のベトナム人で、全員が同じ会社の同僚だということが分かりました。そして、「これから自分たちも博物館を見てまわるから、一緒に行かない?」と誘われたので、同行することにし、一緒に館内を見学したり、バイクの後ろに乗せてもらって、動植物園に連れていってもらったりしました。意思の疎通は、英語を中心に、たまにベトナム語を教えてもらったり、どうしても通じない時はジェスチャー、最終手段で紙に絵や文字を書いて説明し合ったりもしました。動植物園内にある、看板に大きな文字で「Com」と書かれた、屋台のような食堂のような吹き抜けのレストランで、大人数だったのでテーブルを3つか4つくらいくっつけて、お昼ご飯を食べました。ライスと、魚や野菜がたくさん入った酸っぱいスープ(パイナップルにオクラにトマトに?日本では考えられないような組み合わせ)、牛肉と玉ねぎとインゲン豆の炒め物、ベトナム風チキンの生姜焼きetc…。何度も「おかわりは?」と、た?くさん盛ってもらって。

 帰り際に「ホテルまで送るよ」と言われた時は、さすがに自分たちでも帰れない距離でもないし、騙されて連れ去られても怖いし、すごく迷ったんだけれど、結局、「せっかく送ってくれるって言ってくれているし、騙しているような様子もないから、連れ去られたら、それはそれでその時に考えよう」と腹をくくって、ホテルまで送ってもらうことにしました。そうしたら、本当に全員でホテルの目の前まで送ってきてくれて、「E-mail送ってね!」「今日はLucky dayだね!」「Bye Bye!」と、一言二言、話をすると、すぐにブブンッとエンジンをふかし、何台もバイクを連ねて走り去っていきました。どうして見ず知らずの外国人にこんなに親切にできるのか、「果たして東京だったら、こんな人たちがいるだろうか?」と考えた時、「う?ん、いなそうだなぁ?」と思ったりして、もちろんホーチミンにも悪い人や危ない人はたくさんいるし、東京にも親切な人はいると思うけれど、このフレンドリーさは一体?? 

 私も日本で外国人に会ったら親切にしようと心に誓ったのでした。

 2月25日(日)
 今日も、終日フリータイムということで、ホテルの近くにある美術博物館に歩いて行きました。建物は3階まであって、様々な近代アーティストの絵(サインが2000年とかいうのもあったら、本当に新しいものらしい)や彫刻、像、ホーチミン氏のポートレート、帽子や靴などの展示品、中国から伝わったと思われる19?20世紀の瀬戸物、木のおぼんや仏像などの展示もあり、ゆっくりと見てまわりました。絵は、全体的に、濃くて、絵の具にも厚みのある感じのものが多く、版画もあり、貼り絵のようなものもあり、石のような不思議な素材を使った絵もありました。美術館の中で、ベトナム人の女の子と目があったので、挨拶をしたら、笑顔で近づいてきてくれて、「あなたは日本人ですか?」と、カタコトの日本語で話しかけられました。よくよく話を聞くと、彼女は、HONG BANG大学で日本語を勉強しているそうで、挨拶や単語、漢字も少しだけ知っていて、日本語とベトナム語、英語や筆談も交えて、立ち話をしました。すると、だんだんと他の学生たちも集まってきて、お互いにカタコトの日本語やベトナム語で、質問をし合って、楽しい時間を過ごすことが出来ました。

 それから、「ホーおじさん記念館」へ行き、歩いてホテルまで帰る途中、ポストカードを持った男の子と出会いました。最初は物売りだと思ったんだけれど、どうやらスリだったらしく、やたらベタベタと近づいてきてポストカードを広げるからあやしいな?と思った瞬間、バッグに触れられているような気配?。すぐに側を離れて、「No thank you!」と言ったら、さっと離れて素早く去っていったけれど、バッグを見たらジッパーが3pくらい開いていました。これはきっと、よくガイドブックにも書いてあるような、ポストカードに気を取られているすきにバッグを開けて財布を取る"スリ"というものに違いない、と思いました。すごく立派な家もあれば、ボロボロの家もある。ちゃんとした職業についている人もいれば、物乞いをして生活している人もいる。ベトナムは社会主義だけど、こんなに貧富の差が激しくて、日本は民主主義だけれど、社会主義的な発想もたくさんあるし、少なくともベトナムよりも、収入の差による多少の違いはあるにしろ、人々が、一定の生活基準を持って生活していて(日本でも、ホームレスとかスリとか、多少はあるけれど、基本的に、ほんの少しのお金持ちと、ほんの少しの貧乏と、ほとんど大多数を占める一般市民という感じだから)、社会主義という言葉の理想から思えば、もっと平等になれるはずなのに、それはどうしてなんだろう?と悲しく思いました。

 そんなこともありつつ、今日は、柳下さんが、ホーチミン在住の鈴木孝之さんと一緒に昼食を食べる約束をしていて、「ベトナムの話を色々と聞かせてもらえるよ」とのことだったので、12時半にホテルのロビーに集合し、同伴させてもらいました。ホテルの近くの中華料理レストランに行き、スープや点心、チャーハンなど美味しい中華料理を食べながら、鈴木さんがベトナムという国で暮らし始めた経緯(旅行で何度か訪れて魅了され、やがて日本での仕事を退職して、移り住んだそうです)、旅行者の話(ベトナムを訪れる旅行者を国別に見ると、アメリカ人とフランス人と日本人が多いらしいです。ベトナムの人は、最近こそ海外旅行をするようになってきているものの、ほとんどがツアー旅行で、個人旅行をする人は少ないとのこと。ただ、外国に留学するベトナム人は増えているそうです)、経済の話(ベトナムは、豊富な食料に恵まれた生産国ではあるけれど、ベトナムでとれたものをシンガポールなどが買い上げて加工し、売ったりしていて、結局は海外の利益になってしまっているといったことなど)、日本人旅行者の被害の話(何というか、観光旅行でベトナムに来た日本人女性が、ベトナムで知り合ったベトナム人や外国人の男性と恋人のような関係になり、帰国後も遠距離交際を続け、日本から仕送りをするようになるが、実は外国人の方は、お金をもらうことだけを目的としていて、それを知らない日本人女性が、騙されて、延々とお金をだまし取られるという新手の詐欺のような被害が急増しているという話でした)、交通に関する話(青信号に変わる前に動き出さないと、クラクションを鳴らされるというホーチミン市の交通事情。「みんな交通ルールを守らないので、何とかして欲しい」とは鈴木さん談)、バイク社会と車社会の話(現在はバイクと自転車が主流のホーチミンだけれど、やがて日本や欧米諸国のように、車社会になっていくのか?)等々、生々しい話しをたくさん聞くことができました。私がベトナムの交通事情で気づいたのは、基本的に日本と正反対に右側通行で左ハンドルだということ(国道では4車線あったけれど、走り方は適当で、道路の真ん中を走ったり、無理な追い越しも日常茶飯という感じで、正面衝突しないのが不思議でした。私なんか鈍いから、前方から来た車を避けようとして脇にいる人とかバイクと接触してしまいそうだ?ベトナム人は反射神経や運動神経がいいのかなぁ?)、多くの人々が帽子をかぶっているということ(10人のうち7人くらいの割合でかぶっているんじゃないかな?)、また、排気ガスを少しでも吸わないようにスカーフを口元に巻いていたり、日焼け防止のために腕に長い手袋のようなものをしている人もいました。また、ホーチミンでは、ガソリンの値段は、1?およそ5千ドンとのこと。日本の半値くらいということは、現地の人たちにとっては決して安くはないんだろうけれど、バスや電車などの交通網が発達していないので、バイクは欠かせない交通手段となっているそうです。

 2月26日(月)
 今日は、ついに最終日。いつもニコニコ、とっても親切だったリバティー2のホテルマンの皆さんともお別れです。どの人も、とても優しく、荷物を抱えていると、さっと持ってくれたり、ドアに近づくとすぐにドアを開けてくれたり、このホテルの人は、仕事をしている時が本当に楽しいのか、はたまたよっぽどマニュアルが厳しくて作り笑顔をしているのか分からないけど、いつも楽しそうに働いていて、こんなふうに仕事をしている人たちって素敵だなぁ、自分もそうなりたいなぁ?と痛切に思いました。

 物乞いや、スリや、危ない人がたくさんいるから気を付けた方が良いと聞いていたので、すごく用心していたんだけれど、思っていたよりも、親切な人や優しい人が多くて、特にホーチミンは都会なのに、笑顔が素敵な人がたくさんいて、とても感激したし、大人も子供も、こんなに楽しそうに笑えるっていいな、と思いました。今、思い返してみて、やっぱり一番心に残っているのは、ベトナムの人々の無邪気な笑顔です。
 

それから、今回まわったのはホーチミンやカントーなど南部だけだったけれど、町々を訪れて、見て歩いて、ベトナムという国は今、成長の中にいるんだなというのを本当に感じました。バイクの波をかき分けるように道を横断するのが、慣れなくて疲れるけれど、帰ってきてすぐに、またベトナムに行きたいな、思いました。その時までには、せめてもう少しだけベトナム語を話せるようになりたいです。

それでは、長くなってしまったので、このへんで。
最後に、FWベトナムでお世話になった皆様、どうもありがとうございました。

                                                       98年度生 A・K