第2章オルタナティブ教育の試み(脱・国家教育の試み)


 1.もう1つの学びの場系譜(オルタナティブ教育)

 もう1つの学びの場、それを1つの学校という場所であると考えた場合、欧米でいうところのオルタナティブスクールという言葉を思い出す。単純にこのオルタナティブスクールという言葉を直訳的に説明をすれば、「国家などに管理を受けた伝統的な教育を行う学校ではなく、独自の教育方法やプログラムによって、子どもや家庭のためにデザインされた教育を行う学校」ということになる。このオルタナティブスクールの定義において、肝心なところは、国家の管理下にないということである。つまり、国家における教育観が反映されない学校ということとなる。この視点は、教育に関する重要な要素を数多く含む。例えば、「教育の目的」「学力とは何か」「学ぶことの意味は何か」、そして、大きく見れば「人間観」なども関わってくる。そこでまずは、学校という形態の歴史とオルタナティブという考え方が発生してきた背景などについて、紹介をしておきたい。


 2.ヨーロッパを中心とした学校という形態の歴史

 アカデメイア

 学校という言葉を聞き直ぐに想起するのは、古代ローマ・ギリシア時代において、哲人と呼ばれた名だたる哲学者たちが主催したアカデメイアのことであろう。しかしながら、こうしたアカデメイアは、よくご存じのとおり国家には所属をしない私塾であり、師と仰ぐ諸先生方のもとに興味のある者たちが集まり、サロン的に意見を交わしていた場所であった。そう意味では、古代ローマ・ギリシア時代にあったアカデメイアは、オルタナティブスクールの1つであったということが言えるのかもしれない。

 個人教授から学校へ

 その後、特にヨーロッパでは、キリスト教の影響を強く受けた時代となる。その時代において、教育を受けるということは、貴族連中の子弟が噂に高い各分野の教師を家庭教師として雇い教授させるものであった。そのように、家庭における個人教授の形が一般的であった教育形態が、中世の中ごろともなると徐々に変化をしだす。家庭教師による教育から、学校という形態における教育へと変化をしてきた原因として考えられることは、1つは、布教の場としての学校。次に宗教によって縛られていた学問が徐々にではあったが科学的な行為として発展をしてきたこと。そして最後に、学園都市を建設することは、都市経営という側面からみたときに新しい収入の形態となったこと。これらのことが考えられる。各要素をもう少し詳しくみてみるとしよう。最初の要素である布教の場としての学校という形態の歴史は古い。神の教えを導くと同時に社会規範としての宗教観を子弟に注入することは、教団経営の拡大ならび政治力の安定確保のためには、不可欠な事業であった。特にこの形態がより盛んとなるのは、ドイツにおけるプロテスタント発生以降である。ルター*1による宗教改革により発生した保守派のプロテスタントたちは、自分たちの考えを広めるための一環として、ドイツの各地に教会付属の学校を多くつくる。この試みはある意味で成功をする。1つの考え方を同時に多くの子どもたちに注入し、1つの価値観を何世代かにわたり継承させていく、こうした学校という装置の有効性は、この時代に認識をされ、以降、国家などの為政者たちが、国家的なイデオロギーを若い世代の者たちに注入せしむ時の形態として定着していくこととなる。こうした画一的な教育の場とは違う場として機能したのが、2番目に紹介をした要素である。この要素をさらに詳しくとみると2つの要素からなっていることがわかる。1つは、12・13世紀に入るとヨーロッパ全体の近代化が進み、特に商業の発展はめざましく、多くの実務的な知識を持つ人材が必要となってきたこと。そしてもう1つは、宗教観によって縛られていた学問に対する考え方が、宗教戦争の意義の喪失などによって、より開放的で自由なものとなり学問に対する純粋なる探求心が大いに芽生えてきたこと。これらのことをあげることができる。最後の点のついては、中世においてヨーロッパの各都市は、自由都市*2的な性格を持つものが多かった。したがって、何らかの形で、町の人口が増加することは、独立都市としての経営が安定することにつながった。したがって、各都市は、様々なその町ならではの特色を掲げて人を集めた。そう言う意味では、学園都市というのも元をただせば、学問の職人、すなわちマスターアーツを輩出する町であったわけだ。また、当初の学園都市、のちの大学都市の形態は、有名な先生たちが集まっている場所で、その領域学問の教授を希望する学生たちが、各先生と個人的な契約を結び学問をするスタイルであった。それが、多くの領域の先生たちが集まり、それに従い学生たちもあつまり、いわゆるユニバーシィティーとして発展をしていくこととなる。

 宗教教育としての学校から国家教育への学校へ

 中世ヨーロッパにおける学校の形態の主流は、前述した大学相当を除けば、やはり、教会などが主催する宗教教育の場としての学校であった。その他の学校としては、社会の近代化に伴い拡大した第三身分の人たちからの要望により、一般教養としての基礎学力をつけさせるための学校というものが現れはしたが、その数は少なく、そうした役割も教会付属学校などが担っていた。こうした学校形態に明らかな変化が現れるのが、18世紀後半から起きる産業革命による影響であった。産業革命により、新しい階層としての労働者たちが出現をする。彼らは、労働力を資本家たちに提供すると同時に自分たちの権利も要求した。その要求の中の1つに少年労働者ならびに自分たちの子弟の教育を受ける権利の保証要求があった。この要求により保証された教育の場は、産業の担い手となるための基礎学力と社会生活における規範、すなわち宗教的な規範を背景とする躾教育が、その主たる目的であった。
 産業革命に成功をした国々は、次第にその利潤を蓄積をし帝国主義的な性格を帯びてくる。19世紀中頃ともなるとそうした各国において、義務教育制度なるものが脚光をあびるようになる。ここに国家が介入をし次世代を担う子どもたちに対して、国家的なイデオロギーを注入したる学校という装置の制度が確立されてくる。こうしたいわゆる国家教育の出現は、ある意味で、今まで教育を受ける機会を失っていた特に貧困層の子弟たちに対して、1つの学ぶ機会を提供した意味は否定することができない。しかし、その目的は、「富国強兵を実現したるための人材の輩出」であったことは衆知の事実である。その後、国家的教育制度、国家統制下における学校の存在は、国益を実現したる重要なシステムの1つであると理解した各国の為政者たちは、その制度の充実に力を入れるようになる。19世紀末ごろになると欧米諸国を中心として、国の政策の一環としての普通学校制度が整えられ、国家主導型の学校が次々と設立されるようになるのである。このような国益にそくした目的により教育をする学校制度ならびに教育の流れに対して、教育本来の目的のそくした学校設立や教育実施の動きはなかったのかという点については、次節以降で述べたい。

*1ルター(1483〜1546年)ドイツの宗教改革者。教会が発行する免罪符の問題を1517年に提起した。
*2地方領主から自立した、皇帝・国王に直属した都市のことをいう。



 3.日本の学校形態の歴史


 ここで少し日本の学校の歴史についても概観しておこう。日本における中世・近世代における学校は、欧州の学校が、十分に発達をした自由都市などを中心として広がっていったのに対し、その発展が不十分であった日本では、学ぶことの価値が一般化したのは、江戸時代に入ってからということになろう。中世までの公的な教育機関と言えば、やはり寺院などのがその中心となっていた。寺院付属の教育機関では、僧侶などになることを目的とした機関があったことは当然として、室町時代以降ともなると一般教養となる読み書きなどの手習いに対する庶民の需要にも対応するようになっていく。このような寺院を中心とした教育機関と合わせて、民間の教育機関として出現してきたのが、江戸時代以降現れる寺子屋である。こうした寺子屋では、下級侍の連中などが生活費を捻出するために始めたものが多かったという。また、一方では、学識者たちが私塾という形で開設した学校もあちらこちらに存在をした。特に各地の大都市を中心として広がった寺子屋の存在は、時の政府においても注目をされることとなり、庶民の学び場として、幕府も認めざるをえないものであった。こうした手習いの流行を基礎として、各藩においても藩政としての教育の重要性は理解され、各地に藩校が作られたのもこの頃である。しかし、こうした流れからもわかるように日本における国家教育としての教育制度の出現は、明治維新以降まで待たなくていけない。ただ、このように公的な教育制度も不整備であり、鎖国という状況の中であったにもかかわらず、日本独自の学問である和算などのレベルは、当時の世界的な水準から見ても、そうひけを取らなかったものであったことは付け加えておく。


 4.新教育(自由教育)*3の歴史

 前節でも述べたように、世界におけるいわゆる近代教育とは、産業革命以降国家の人材を育成したる「富国強兵」が目的の教育であり、教育制度の整備であったことは明白であった。その流れは、早急に欧米化を押し進める明治維新以降の日本とて同様であった。そこで、本節では、日本を含めたモダン国家とよばれた各国がその後どのような教育政策を実施し、そうした動きに対して、何らかの抵抗のようなものがなかったかということを中心に話しを進めてみたい。

 新教育の芽生え

 産業革命を終え、より一層の近代化が進んだ国々は、次の段階である資本主義的帝国主義の時代へと突入していくこととなる。当然のように、帝国主義的発展を国家としての目標として掲げている以上、教育の目的もそうしたことになる。国家の人材を育成することを目標とした公的な学校の多くは、各国とも中央集権的な思想統制の装置として機能したり、新しく手に入れた植民地における同化政策の一手法として利用されるようになる。このような国家統制的な教育制度の一翼を担っていた学校に対して、意義を申し立てる試みが現れたのが、第1次世界大戦後の各国であった。こうした20世紀初頭における教育の動きを全般として新教育というが、その性格は、初期と後期では、だいぶ違う。初期における新教育の目的は、富国強兵たる政策をより推進するためのエリート尖兵を育成することが目的であった。がしかし、第1次世界大戦など経験した各国は、その全面戦争たる惨状を反省して、もっと人間を中心とした人間教育をしなくてはいけないとして後期においては、その目的を変更していく。こうした方針がいわゆる「児童中心主義教育」であった。児童中心主義を理念とした学校は大戦前後に各国で創られる。しかし、こうした児童中心主義の学校は、当然の成り行きとして国家教育遂行の学校とはなりえなかったので、民間を中心として設立されていくことになる。欧米諸国を中心として開花をしたジョン・デューイ*4、エレン・ケイ*5、タゴール*6、モンテッソリー*7、ドクロリー*8、シャッキー*9、フェリエール*10、オニール*11、ニール*12らの実験学校において試みられた教育は、現代においてもその意義は失われてはいない。こうした欧米諸国における自由教育の試みは、大正デモクラシー華やかなる日本にも伝えられる。日本における自由教育の具現化の試みは、野口援太郎氏による「児童の村」(1924年)であった。

 第1次世界大戦後の各国において、国家教育とは別の流れではあったが試行された多くの新教育ならびにそうした主義によって設立された学校は、この後、世界中に台頭してくるファシズムとそれに対抗するため強化された国家教育によって排除されていくこととなる。新教育の学校が排除されていった流れの中において、注意をしておきたい点が1点だけある。それは、ファシズム下における教育ならびに学校における例として、ドイツ・ナチスが、まだ政権を奪取していなかったころから行っていた教育の運動の1つに、ヒットラー・ユーゲントなるものがあった。ヒットラーはこの教育運動を国家教育に対するオルタナティブな教育であると位置づけていた。各地域にフリースクールを作り、ワイマール憲法下における国家教育に不満を持つ青年たちを収容し、ナチズムを注入していた。彼らは、後の親衛隊エリートとして抜擢されていくこととなる。このことからもわかるように新教育が、本当の意味で国家教育に対するオルタナティブな教育であるのかどうか、その教育の理念と実践において、しっかりと見極める必要がある。

*319世紀末から20世紀初頭にかけて、西欧社会を中心として広がった、従来の教育を批判し新しい教育を模索する試み。
*41896年、アメリカシカゴの実験学校。『学校と社会』(1899年)。
*5スエーデンの教育思想家。『児童の世紀』(1899年)
*6インドの詩聖。ベンガルに「平和の家」(1901年)を開設。
*7イタリア。「幼児の家」(1907年)開設。
*8ベルギーのブリユッセル。「生活による生活のための学校」(1907年)開校。
*9ロシアのモスクワ郊外の実験校を開校。(1907年)
*10スイス。ルソー学院「幼年の家」(1912年)
*11イギリスのマンチェスターの公立学校での実験。(1919年ごろより)
*121921年にドイツのドレスデンで自由な学校を開校。その後、イギリスのライムレジスにて学校を開校。



 5.オルタナティブ教育の流れ


 第2次世界大戦後の各国の教育は様々であったが、いくつかの要素があった。1つは、先の大戦による教育の影響の大きかったことをふまえ、特に敗戦国であったドイツや日本では、平和に関する教育には、大きな注意が払われた。一方、大戦終了と同時に顕著化した冷戦は、両陣営においてその国際的主導権を握るための科学教育や技術教育に力が入れられた。しかしながら、戦後の各国の教育において、共通して特徴的であったことは、戦後の復興を支えるための国家的人材の育成が目的である教育であった。特に、日本などの場合は、戦前の富国強兵政策に代わり、戦後の復興を担う、企業人たる人材の育成に国家教育の主たる目的が置かれることとなる。1960年代・70年代の高度成長時代を経て、その後は、戦後資本主義社会の中でリーダーシップを担うことができるハイタレントな人材を育成することが日本の国家教育の大きな目標となったことは多く人が知る事実である。戦後の日本の教育状況については、次の節で述べさせてもらうとして、本節では世界的な視野の中でのオルタナティブ教育の概観について述べる。


 第2次世界大戦後のヨーロッパのオルタナティブ教育

 大戦によって戦勝国となった国々においても、戦後の旧植民地における独立運動は、戦前の帝国主義的資本主義の発展が行詰まっていることを理解させた。戦前からヨーロッパにあった新教育の火はけっして消えてはいなかった。国家のための教育から、個人のための教育への転換の試みは、いわゆる伝統校に対する革新的な試みとして、ヨーロッパのいくつかの場所で再び活動を始めていた。中でもイギリスにあったいくつかの革新的な学校は、その後の各国のオルタナティブ教育に対して大きな影響を与えることとなる。それらのヨーロッパにおけるオルタナティブスクールにおいて共通していた理念は、学習する権利は学習者の側にあるということと、教育の主体である学習者たちの自治を認めるということであった。

 さらに1960年代・70年代における戦後のアメリカ主導型の資本主義政策の停滞は、ヨーロッパにおける資本主義国の政策哲学を揺り動かすこととなる。その表れは、いわゆる帝国的資本主義国から福祉国家への政策転換であった。ヨーロッパ型の資本主義国家を構築するためには、利潤追求の社会から人間や環境保全中心の社会への転換が望まれた。こうした考えの背景には、先の大戦や戦後の冷戦構造がまさに地球人間社会における構造的な問題として引き起こされたものであるとの認識のもと、ポスト構造主義的な改革路線の一環であった。

 1970年代・80年代のヨーロッパにおけるこうした社会観の変革が教育に与えた影響は、前衛的に行われていたオルタナティブスクールの実践や考え方を国家教育の側が摂取するという形で現れることとなる。具体的なことを言えば、オランダ・デンマーク・イギリスなどを中心として学校設立の自由が大幅に認められることとなり、規模が小さくとも親や家庭や地域立の学校を作ることができるようになったことがあげられる。このようにして、ヨーロッパ全体において浸透したアメリカ型資本主義、つまり帝国型資本主義政策に対するオルタナティブなイデオロギーとして定着した考え方を教育の場で具現化したものがオルタナティブスクールであったわけである。

 こうしたヨーロッパにおけるヨーロッパならではの社会観であり価値観であったオルタナティブは、1980年代・90年代前半における冷戦構造の崩壊により、さらに自信が深まったように見えた。がしかし、実際は、そうした福祉国家思想を支える資本主義的経済システムは、アメリカや日本などの経済と連動しかつ、利潤を追求した資本主義社会の構造の上に成立しているということをヨーロッパの人々は、その後、世界を覆った経済的停滞から嫌と言うほど学ぶこととなる。

 21世紀に入った現在、ヨーロッパ諸国は、世界的経済停滞を昔でいうところの、各国が生産等の役割分担をして自分たちの市場を中心に経済を活性化していこうというブロック経済的な手法で乗り切ろうとしている。このような1990年代後半から現在に至るヨーロッパ諸国のさらなる政策転換は、先のオルタナティブスクールに対する視点をも変化させてきていると見ざるをえない。最近特に目立っていることは、学校設立の自由の権利にしても、学習者である子どもたちの学習権の保障のためというよりは、むしろ緊縮財政下における福祉・教育予算の削減の一環としての民間委託の1つの形として機能させられてしまっているように見える。また同時に、アメリカや日本に比べてヨーロッパ各国の生産能力や競争力が低下している原因は、国家教育力の低下であるとされ教育の再国家的統制の傾向が強まってきている。最近のイギリス政府におけるヨーロッパ自由教育の発祥校の1つであるサマーヒル・スクールのカリキュラムへの干渉はその表れの1つであろう。しかしながら、ヨーロッパにおいて、オルタナティブの考え方が少々後退している中、ドイツなどではオルタナティブスクールにおいて実践された教授方法や哲学を国家教育にフィードバックする試みが積極的に行われている。また、財政的な問題で困窮している旧東ヨーロッパ諸国を中心として、オルタナティブスクールの活動が、民間教育機関としての役割を担っている事実は注目に値する。

 第2次世界大戦後のアメリカのオルタナティブ教育

 こうしたヨーロッパにおけるオルタナティブ教育に、大きな影響を受けた国がアメリカであった。アメリカにおいて、ヨーロッパで盛んになりつつあったオルタナティブな考えが導入されることとなったきっかけは、やはりベトナム戦争であったと思う。それと同時にジョン・デューイの実践をはじめとする多くのプラグマティズム的な教育実践が蓄積されていたことも見逃すことはできない。1960年代後半から70年代前半にかけてのベトナム戦争がアメリカ大衆に与えたもの、いわゆるアメリカにとって初めての負け戦による政府不信は大きかった。政府の政策への不信は、このころに起きた公民権運動やヒッピーなどの出現などからもその動揺が容易に想像できる。
 こうした政府の政策に対する不信の1つに教育政策に対する不信があった。そもそもアメリカに移住をしてきたヨーロッパキリスト教徒たちにとって、その社会規範を担う学校教育、いわゆる公教育の重要性は、抜き出たものであった。自分たちの子弟の教育のため、移住をしてきた地に最初に教会と学校を建て、自分たちの手によって運営をした。こうした教育に対する自立心はアメリカの歴史の1つであると言えよう。こうした歴史を持った人々が、政府の不信を抱いたときに自分たちの子どもの教育は自分たちの手によって行うという選択をしたことはそう不思議なことではない。

 イギリスのオルタナティブ教育に学んだホルト*13、パット*14などのアメリカ人たちは、国家に頼らない教育の形態を模索する。その1つの形がフリースクールというスタイルであった。1980年代に入り、ある意味で、自分たちの学ぶ権利を取り戻すための権利闘争であったフリースクール運動は功を奏してアメリカ内において大きな力となっていき、各州においてその存在が認可されるものとなる。こうした運動の支えとなった考え方として、イヴァン・イリイチ*15による「脱学校社会」なども忘れることはできない。このようにアメリカにおけるオルタナティブスクールならびにフリースクール運動は、多くの国民に、学ぶ権利は学習者の側にあることを気がつきはさせたが、1つの限界性を持ったものであったと理解せざるをえない。それは、アメリカにおける教育は、それ自体が非常に実務的なものであったということである。デューイなどの実践からもわかるようにアメリカによる教育の主点は、アメリカ型資本主義社会の中で生活していくための実務的な手法、すなわち技術や資格を取得することであった。本来であれば、人間としての世界観を構築すること、すなわち個人の人格の完成を目指すことが教育の目的の主眼とならなくてはいけなかったのだが、そうした感性の育成は宗教教育に任されることとなり、公教育においてはもっぱら実務的な教育を推進することが主とされてきた。そういう意味で、その最も前衛的な形がアメリカのオルタナティブスクールであったのではないだろうか。

 このことは、アメリカという国が多民族国家であることが関係しているのかもしれない。各民族によってその背景にある国家イデオロギー、例えば宗教などは多様である。もし仮に彼らにとっての共通項である公教育の場において、ある特定のイデオロギーに基づく教育をしようとしたら大きな反発を受けることとなるであろう。ゆえに公教育の場では、アメリカにおける最大公約数的イデオロギーであるアメリカ型資本主義をその理念におき教育を行っていくということになる。もし仮に、こうした自由競争に参加するための切符取得の機会を公教育という場が保障しないのだとすれば、それに対するオルタナティブな学びの場として、フリースクールなどを自分たちの手で作るということになるのだと思う。このことは、アメリカにある多くのフリースクールにおける教育理念を見たときによくわかる。その理念の中に「平和」に対する態度を明確にしているものはあまり見ることができない。少し穿った見方かもしれないが、アメリカの平和を守るためには、軍事力の行使もやむを得ないという立場なのであろうか。

 昨今、アメリカにおける次の世代のオルタナティブスクールとして脚光を浴びているチャータースクールを見るとさらにわかりやすい。アメリカ政府にとってのチャータースクールの1つの目的は、教育事業を民間委託することによって教育財政の削減をはかることであるのは明白である。アメリカ型資本主義の原理を教育事業にも導入をし、自由競争の効果によってその質を高める。この時にアメリカの教育の本質がよくわかる。高まる質とは何なのであろうか。例えば、軍事的な教練を主とするチャータースクールは認可が降りるのだろうか。逆に日本の憲法のような教育理念を持った平和学専門のチャータースクールには認可が降りるのだろうか。おそらく、システム的に洗練され、軍隊のような形式によって実務化されたカリキュラムにより大学進学率も高い軍事専門のチャータースクールは、人気も集まり認可されやすいのではないだろうか。

 ともかく、アメリカにおけるオルタナティブ教育ならびにオルタナティブスクールは、教育技術としての手法は前衛的ではあるが、教育理念という点、言い換えれば教育思想という点においては、教育で何を伝えていきたいのかということについては、あまり明瞭でないような気がする。

*13ジョン・ホルト(1923〜1985年)アメリカの教育学者。『なんで学校にやるの』1984年
*141969年より、アメリカミシガン州アンアーバーにて、「クロンララ・スクール」を開校。
*15イヴァン・イリイチ(1926〜2002年)オーストリア生まれのユダヤ系社会評論家。『脱学校の社会』1977年



 日本のオルタナティブ教育

 それでは、最後に日本のオルタナティブ教育ならびに、オルタナティブスクールについて述べる。日本におけるオルタナティブ教育ならびに、オルタナティブスクールを前述したオルタナティブスクールなどの定義に照らし合わせて考えてみると、該当するものがとても少ない。オルタナティブな教育ならびに、その教育を実行する学校は、前述したように前衛的であり、なおかつ国家の教育とはある意味で対極の場所にいなくてはいけない。結果として国家に何らかの認定をされたとしても教育を実行する面において対等な立場でなければいけない。さらに、実行される教育は、教育としての体系を持つものでなければいけないと思われる。まあ、ここらへんの教育に対する考え方は、いくつもの論があると思われるので、教育ならびに教育理念論については別の節で述べたいとい思う。ここでは日本における歴史的系譜だけを概観することにする。

 やや厳しい見方によって、日本のオルタナティブ教育の歴史を眺めてみると、やはり1つの節目の動きとして無視ができないのは、大正デモクラシー時代に発生をした新教育運動であろう。ただし、いくつもあった新教育運動の多くは、外国教育からの模倣の域を脱しえなかったと思う。そうした中にあって、1924年、野口援太郎・下中弥三郎らが設立した「児童の村小学校」は、よりオルタナティブスクールに近いものであったと思われる。しかしながら、児童の村などの実践を含め、今でいうところの総合的な学習を中心に据えた児童中心主義的学校の多くは、その後派生したグループも含め、全体主義へとひた走る日本の体制からの圧力や社会の無理解、経営難、そして一番決定的な点は、実践をされた月日が短かったせいもあるが、国家の教育に対抗しうるだけの体系的な教育を作るところまでいけなかったことなどによって、それらの存続期間は、とても短いものに終わった。かれらの経験は、戦後の日本教育において、コアカリキュラム運動などに生かされることとなるが、それとて国家の教育に対する代案を提示するというところまでは育っていない。また、戦前の自由教育の系譜を受け継いだ私学が戦後も何校が存続し得ているが、彼らのその後の実践などについての印象は本論の主旨から若干ぶれるのでここでは述べないことにする。

 戦後、戦中・戦前の国家教育を反省し、日本国憲法ならびに教育基本法の精神に則り、平和で民主的な教育の創造といったものが模索された。しかし、そうした戦後の新しい教育の理論や方法を支えた民間教育運動や教職員組合などの活動も年を追うごとに低調となり、国家の教育の代案を提示するところまでは至らなかった。そうこうしているうちに日本は高度成長時代へと突入をし、国家の教育の第1目標は、前述したように企業人たる人材を輩出するものとなる。そのために整備されたピラミッド型の教育体系は、戦前の軍隊組織のように機能しだし、知識力や暗記力を重視した学力観が教育の主流となっていく。そして、教育と言えば、そうした内容を多くの子どもたちに一斉に効率よく教え込む教育技術論中心となっていった。このような日本の教育状況の中、オルタナティブな動きとして学校単位のものは、あまり見ることができないが、1970年代を中心に個人としての動きはいくつかある。中でも林竹二の試みは、国家の関与により変質してしまった教育の目的を今一度、本質的なところに戻す試みとして注目に値すると思う。80年代に入り、70年代後半より噴出していた国家教育の破綻現象は様々な形で教育現場を覆うことになる。80年代に入ると、70年代における「校内暴力」などの現象に引き続き、「いじめ」「不登校」「引きこもり」などという形の現象が顕著化し、そうした事態に対応しきれない政府側の教育機関に対して、民間レベルの活動が活発となる。ここで初めて、日本の市民に対して、欧米に存在をするオルタナティブ教育というものが紹介されるようになる。80年代以降の日本におけるオルタナティブ教育の流れについては次の節で述べる。


 6.1980年代以降の日本のオルタナティブ教育

 80年代に入り、破綻している日本の国家教育の場から避難をしてきている者たちを中心として、その代替の場の必要性から、一時的避難所の雛形として欧米の特にアメリカのフリースクールが日本へ紹介されることになる。一方、ニール、シュタイナー*16、フレネ*17などが推進していたヨーロッパでのオルタナティブ教育は、そのイデオロギー性の強さからか学術的なレベルにおける紹介が中心となっていた。この流れは、ある意味でわかりやすい構図ではある。日々の問題であるがゆえ早急に何らかの対処方法を必要としていた市民レベルの者たちにとって、実務性の高いアメリカ型フリースクールは、即応性と対応性を兼ね備えたものであったため、1つのシェルターとして機能させるにはうってつけのものであった。

 オルタナティブの意味

 80年代以降の日本のオルタナティブ教育を論ずるにあたり、ここで今一度し整理をしておきたい。まず、オルタナティブ教育の定義ではあるが、オルタナティブという言葉の持つ、代案という意味から考えるとわかりやすい。オルタナティブ教育とは、代案の教育ということになるわけだが、この代案には、2つの意味が含まれると考える。1つは教育方法の代案、そしてもう1つは教育目的(教育理念)の代案である。では、一歩踏み込んで具体的に表現をしてみよう。現在多くの国の国家教育がとっている教育方法の代案、例えば一斉授業法の代案であるとか教科学習中心カリキュラムの代案だとかというようになる。次の代案の表現はなかなか難しい。どこのレベルまでの代案を考えるかによって話しが変わってくる。表面的な表現をするのであれば、国家のための人材を育成するための教育の代案、すなわち個人の人格の完成を目指す教育への転換ということになるのだが、少なからず表面的には国家教育の目的においても同様な目標を標榜している。となると真の意味の代案は、社会観や価値観の代案ということまで掘り下げる必要が出てくる。少しわかりやすく言えば、原子力発電所は環境を破壊する要素が大きいので、太陽・風力発電所に代えようというのは方法的代案、電気の消費観念そのものを代えて無駄な電気は使わないようにしようというのが理念的代案である。このように考えると教育目的(教育理念)の代案は何かと言えば、「ルールなき資本主義的社会」の代案ということにまでさかのぼることは避けられなくなる。ここでは、あえてルールなきという言葉をつけてみたが、もしかしたら、資本主義社会という社会価値観の代案というところまで行き着かなければいけないかもしれない。となるとそれが、社会主義社会なのか他のものなのかそれは現時点ではよくわからない。しかし、日本のオルタナティブ教育には、そうした理念的代案を提案できる要素がある。このことについては後の節で述べるとする。では、今一度オルタナティブ教育の定義をまとめると「国家による管理を受けず、国家的教育方法に代わる方法を実施提案をして、現在ある社会価値観にとらわれずに本来の教育的目的を達することができる社会の創造をめざす教育」ということになろう。

 重ねての付け加えではあるが、本来の教育目的とは、日本の教育基本法の言葉を借りれば、「個人の人格の完成」ということになると思われる。もしこうしたオルタナティブ教育の理念を実施していくにあたり、その障害となっているものが、現在のルールなき資本主義体制下における社会観を拠り所とした国家教育の実質的目的にあるのだとすれば、そうした社会観との対決もオルタナティブ教育の推進において避けられない要素となるであろう。

*16ルドルフ・シュタイナー(1861〜1925年)ドイツの神秘主義の思想家。
*17セレスティン・フレネ(1896〜1966年)フランスの教育者。子どもたちの手によって制作された新聞や通信物を学習リソースとして活用した。



 1980年代以降の日本のオルタナティブ教育

 1980年代不登校の子どもたちのシェルターとして設立をされた場所の多くが、その後フリースクールという名称を使うようになる。そうしたフリースクールの数が増加してくるにあたり、アメリカ型オルタナティブスクールをイメージした日本のフリースクールは、代案方法としての場的オルタナティブスクールの性格を帯びてくるようになる。今までの話しから理解できると思うが、正確に言えば、シェルターとしての場だけではフリースクールと言うことはできない。そういった場や要素を持つオルタナティブスクールの存在も大切なことではあるが、場だけの提供では、オルタナティブ教育をするオルタナティブスクールというカテゴリーに入れることはできない。この視点は80年代後半ともなってくると日本のフリースクール運動家たちの間にも理解されてくるようになる。したがって、80年代後半の日本のフリースクールと呼ばれるものは、オルタナティブスクールのいくつかの段階のものが混在するようになる。

 A.一時的避難所としてのシェルタータイプ。B.カリキュラムとして体系的ではないが不十分ながらも教育方法的オルタナティブを提案実行するタイプ。C.方法的オルタナティブならびに理念的オルタナティブの両者を提案実施するタイプ。ただし、80年代後半の段階では、Cのタイプのフリースクール(よりオルタナティブスクールに近いもの)もまだまだ試行の初期的な段階ではあった。1990年以降、前述したオルタナティブ教育定義に基づき、オルタナティブスクールとしての活動を2003年の段階において継続をしているスクールの中から筆者の印象に残っているものを3つほどあげておく。各校ともその詳細については関係著作等が出されているので、それを参照していただくとして、ここでは概要と筆者の若干の印象を述べるにとどめる。

 東京シューレ

 はじめに「東京シューレ」、1985年より元教員であった奥地圭子氏がご自分のご子息の不登校をきっかけにし、不登校の子どもたちの居場所として設立する。日本における不登校問題のリーダー的存在場所である。2000年よりは、NPO法人として認可を受け運営されている。日本のフリースクールと言えば東京シューレという言い方をされるが、フリースクールの1つの雛形を提示した東京シューレの存在は大きい。活動の内容も子どもたちを中心とした多彩なカリキュラムの存在、教育問題に対する政治的な働きかけなど、オルタナティブスクールとしての定義の多くを満たしている日本で唯一の存在であると言ってもよいと思われる。ただ、オルタナティブスクールとしての教育体系のオルタナティブ、教育理念としてのオルタナティブについての考え方については詳細は不明なので、一度機会があれば、聞いてみたいところである。

 きのくに子どもの村学園

 次に元大学教員でニール研究者の堀慎一郎氏が1984年からの「新しい学校を作る会」の活動を経て1992年より認可学校法人として開設した「きのくに子どもの村学園」。 ニールの研究者である堀氏が、サマーヒルスクールなどを手本にして日本で開設をしたある意味で、日本初の本格的なオルタナティブスクールである。さすが研究者が構想した学校であるだけに教育体系とカリキュラムの設定の仕方などは論理的であり実用的である。理念的にもニールの志を継いでいるのだとすれば、近代社会変革へのアンチテーゼは折り込まれていると思われ、今後の日本の中での活動発言が注目される。ただ発言をしなくても存在だけで十分な価値があると思われるが。設立後10年が経ち、日本で唯一の認可オルタナティブスクールとして運営されてきているのであるが、最近では、国の管理との関係がどのようになってきているのか知りたい。前述したように本家のサマーヒルスクールでは、近年国家からの干渉がひどくなってきていると伝え聞く、日本ではどうなのであろうか。

 鎌倉・風の学園

 そして最後に、手前味噌で申し訳ないが、1983年に開設した民間教育団体「鎌倉地域教育センター」の活動を基盤とし、1996年より開校された「鎌倉・風の学園高校」。鎌倉・風の学園の詳細については、後の節で述べる。

 最近の日本の教育政策

 最後に2000年代における日本のオルタナティブ教育動向を考えるにあたり、直接的なオルタナティブスクール動向ではないが、教育政策における政府の動向をコメントしておきたい。
 日本政府は、90年代の後半から2000年の初頭にかけ、教育政策に関する答申を矢継ぎ早に出した。その外装は、80年代・90年代における知育偏重・偏差値重視の教育観を改め、「ゆとり」と「生きる力」を養成する教育への転換を答申したものであった。そしてその手法の目玉は、総合学習の導入であった。一見、幅が広がったように見える政府の教育政策であったが、その本当の意味はどうも違うところにあるように思われる。

 本来、20世紀後半に発生をした日本の特に国家教育における様々な問題は、当然教授の中身や方法の問題もありはするが、何よりも突出した問題は、教員採用の仕方の問題や1クラスの生徒の数の問題など、制度や物理的な問題であった。もし仮にいわゆる知識や成績重視ではない教員採用の仕方や1クラスの生徒の数を20人程度にすることなどをしたならば、当時発生をしていた現場における多くの問題が解決していたと思われる。そうした点についての改革は一切せずに教育の内容変更のみを答申している改革の本当の目的は何であろうか。

 その背景として、2つの事柄が見え隠れしている。1つは教育財政の問題。もう1つは、公教育の効率性の問題。ある意味で前者の教育財政の問題は、後者の問題をも含む、今回の答申の根底にある絶対的要素であるかもしれない。80年代後半バブル経済が崩壊した後、日本は長期にわたる不況の時代に入ったと言われた。そうした為政的認識のもと、国家財政を緊縮するために予算の再検討がなされ、その削減の一番の標的にされたのが、福祉予算と教育予算であった。この諸相は、福祉国家論が破綻をしたヨーロッパ諸国が現実的なブロック経済へと移行した過程と通ずるものがある。つまり、90年代後半以降の日本の教育政策の暗黙の前提は、金をかけないということであった。しかし、経済的不況下にある政府にとってこうした局面を打開する一番有効な方法は、資源のなかった日本が世界経済の中でやってこられた理由でもある人材の育成であった。特に、他の国にはない独創的な発想を持った技術や知識を開拓しうる人材を育成することは、こうした事態の国家にとって非常に重要なことであった。しかし、今までのような画一的な国家教育では、このような人材を育成することは難しいということを一番よく理解していたのも政府や財界であった。

 これらの状況を今一度加味をして、90年代後半から2000年代初頭における政府の教育政策の本音を検討してみると「教育関係予算を圧縮して、世界に通用する独創的な発想を持った人材を育成する」ということになるのではないか。このキーワードを元にしてこの時期に行われた教育的な政策や財界からの提言をみていただければ、その真意がよくわかる。本論の主旨とは若干ぶれてしまうので、ここでは、その1つ1つの具体的な事例を検討をすることは避ける。上記の政策をもう少し具体的に表現すれば次のようになる。「教育予算を削る。有限な予算を効率よく使うために、国益確保と思われる世界に通用する独創性の高いニューエリート育成のために予算や制度を特化する」。このことは同時に次のことも意味する。「ニューエリートに相当しない者たちの教育は、国家の直接経営はやめ、できるかぎり民間委託をし、資本主義的自由競争の中で自力で教育の質を高めてもらう」。教育特区における会社法人等による学校経営認可・国立大学の民営法人化など思いあたることは多々ある。これらのことを考慮した上で、再び最近の教育答申の柱である政府がいうところの「ゆとり」だとか「生きる力」だとかというキーワードを読み返すとその本当の意味が、国民が多様な価値観を望む時代となったのだから、その多様性を認める教育というような幻想を抱かせつつ、実は国家のニューエリート育成路線に該当しない者たちは、コスト削減を目的としてアウトソーシングをした民間機関などや、従来通りの画一的で効率のよいマスプロ教育の公教育でやっていただき、それが嫌なら自己責任で自分のお金を投資をしていただくというものであることがよくわかる。

 なぜ日本のオルタナティブ教育の最後のところで、日本における最近の教育政策について論じたかというと、こうした日本の教育的状況をふまえた上で、これからの日本オルタナティブ教育やオルタナティブスクールの役割を考えていきたかったからである。

 本節では、戦後の世界ならびに日本のオルタナティブ教育の流れについて概観した。次章以降では、こうした世界ならびに日本のオルタナティブ教育の潮流をふまえたうえで、筆者の主宰しているオルタナティブスクール「鎌倉・風の学園高校」の理論と実際、そして、オルタナティブ教育の中におけるその位置と今後の展望について論じたい。

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