第4章 オルタナティブ教育の定義化の試みを通じて考察をした オルタナティブ教育観 |
ここまで世界と日本におけるオルタナティブ教育とその実践者であるオルタナティブスクールの系譜を駆け足で眺めてきた。最後にオルタナティブな教育である意味について筆者の経験をふまえて、今一度、項目別に整理しておきたい。 1.教育理念・学習目標 オルタナティブ教育の理念ならびに目標を今一度考えるにあたり、その前提として明確にしておかなくてはいけないことは、「人が人間になるためには教育が必要である」ということである。もう少し厳密に言えば、「人が人間になるためには学びが必要である」ということになる。このことは、何も教育発達学などという学問的見地から難しく考える必要もないと思う。未熟な状態で、この世に生まれてくる人は、人間になるために教育(学び)を必要とすることは、あの狼少女の話しを思い出すもなく自分の成長の経験からも人間が社会的な生き物である以上は、社会の中で生きていく術として何らかの物の考え方や知識や技術を学ばなければいけないことは十分に理解できる。「人にとって教育(学び)は必要である」とするならば、問題はどこにあるのか。先走れば、教育の質の問題だとか教育の方法の問題だとか現実的な問題を掲げることは容易い。しかし、その前にもっと根元的な問題が横たわっている。それは、人間をどう見るかという点である。特に人間にとって、「学ぶ」ということや「学習」をするということはどういった意味を持つものなのかと言う点を最初に考えなければいけない。 人間は学ぶ動物である 「人間は学ぶなと言っても学ぶ動物である」。人間が学ぶことの本質とは、やはり、生きていくためには学ばざるをえなかったという事実と、好奇心の強い動物であったということが関係しているのかもしれない。どちらにしても人間にとって「学ぶ」という行為は、本能的なものであると筆者は信じる。とすれば、教育という営みの役割はどのように定義づけるべきか。人間にとって学ぶことが本能的なものなのだとすれば、子どもたちは、学ぶことが嫌いなはずはない。しかし、実際の国家的教育の場とされる例えば「学校」と呼ばれている所では、子どもたちの多くは学ぶことが嫌いなのではないかと言われる。「学ぶことが好きなはずの子どもたちが学ばない」。これは一体どうしたことか。いくつかの原因は考えられる。羅列的に並べてみる。@学習の体系が悪い。A教授の方法が悪い。B教員が悪い。C学習の環境が悪い。D家庭が悪い等々。確かに前述をしたように日本の国家的な教育現場の環境は、悪化している。しかし、そうした物理的原因を考える前に教育という営みを実施している者たちが、子どもたち(学習者たち)は「学ぶなと言っても学ぶ」という教育をするにあたっての大原則を理解していないことが最大の原因となっているのではないだろうか。簡単な言い方をすれば、学習者と教授者の信頼関係ができていない所に大きな原因があると見てよいであろう。重ねて言うことになるが、では、学習者たちは勝手に学ぶのだから放り放しにしておけばよいということなのかと言えば、そうではない。本来学習者たちは、学びたいと思っているし、学ぶ力もある。この理解を前提とした上で、どういった教育ができるのかを考えなくてはいけないということだ。教育という営みをするにあたり必要な原則としての人間観について確認をさせて頂いた上で、教育の理念だとか目標ということを考えてみたい。 教育の目的とは 教育の理念や目的を考えるにあたり、日本の場合は国家の教育の指針として、日本国憲法があり、その精神をいかした教育基本法がある。教育基本法の第1条(教育の目的)では、「教育は、人格の完成をめざし・・・」とある。これは、教育の本質的目標を明確に表現したものであると評価できる。こうした条文が挿入されている理由は、戦前の教育の目的が天皇の臣民を作るためのものであったことの反省からきていることは明白である。戦後の日本の国家教育の目標は、「個人の人格の完成」にある。先ほど述べた人間観の上に立ち、教育基本法にある目的通りに、日本の国家教育が実施されているのだとすれば、日本の教育に対するオルタナティブ教育はあまり必要ではなくなる。しかし現実は、学びたい気持ちを持っているはずの子どもたちの多くが学校での学習嫌い、登校の拒否などという抗議行動に出ている。つまり、日本の国家的教育は、本来の教育の目標を実現するための努力を怠っている。そこに日本のオルタナティブ教育の主張ならびに現行の教育方法の代案となる教育実践を行うオルタナティブスクールの存在意義がある。さらに日本のオルタナティブ教育の役割を付け加えるのだとすれば、このような正しく明確な教育の目的が存在しているにも関わらず、戦後60年近くも現実的に実施保障されていない。少々厳しい言い方をすれば、ある意味で、戦前の国家のための教育を実質継続している国家教育を許してしまっている日本人の体質をも問うという役割も担っている。 2.学習観 前述をしたような本来の教育観に立ち教育だとか学習(学び)だとかを考えてみると、教育の本来の役割が明確になってくる。つまり、人間は元々、学ぶ動物である。その自ら学ぶはずの人間が、学ぶことを拒否している状態とはどのような状態なのかということを考える必要が出てくる。少し言い方を変えれば、その状態とは学ばさせない状態を作っているのではないかということである。そうなると教育の第1次的な役割は、学習者たちが自ら学びだす環境を整えることになる。現在の日本の状況を鑑みて少し積極的な言い方をすれば、自ら学ぶことの障害になっているものを取り除くことが教育の役割ということになる。この第1次的な役割を達成できれば、学習者たちの多くは自ら学びだすので、次の2次以降の教育の役割は、学習者の年齢や発達状況に即した「学習の仕方」を教えたり、体系的な「学習リソース」を提供したり、専門家たちとの「ディスカッション」や「質疑応答」の機会を設けたりすることが主なものになるであろう。 残念ながら、現在の日本の国家的な教育はこうした視点に立った営みがされていない。理由はいくつか考えることができるが、大きな理由は2つ考えられる。1つは、明治以降の日本の近代教育の成果であるということ。前の節でも書いたが、戦後の国家教育においてその目標は、本来の教育の目標へと表題は改められたが、実質は戦前の目標と同じ国家の人材を育成することがその主たる目標となっている。こうした国民にとって、一番多くの教育の機会として接する国家教育の場での、繰り返しのこのような教育観のすり込みは、オートマティックに間違った教育観を再生伝達していく。そしてもう1つの理由は、アメリカ型資本主義的社会観の定着である。日本社会そのものの目標が、より経済的に豊かな社会を目指すことが第1目標となっている。そうした社会観の中では、非営利、非効率であるべき教育の分野においても自由競争、経費削減の原理が適用される。すれば当然、お金をかけず、効率的に国家エリートの育成だけに力を入れた国家教育が実行されることとなる。これらの理由は、逆の見方とすればその正当性がさらに際だつ。お金や時間や手間をかけて、丁寧に多種多様な学習要求を持つたくさんの子どもたち(学習者たち)の学ぶ権利を保証するということは、国民の経済優先の価値観が変革しないかぎり非現実的なことである。 ここでもオルタナティブ教育の役割が明確になる。本来の学習観を保証する学び観と学びの場の提供である。この活動は、現在の特に日本においては、既存教育の代案ということになるが、本来の教育観へ戻れと言っているわけであるから、ある意味で教育のルネッサンスなのかもしれない。ただ、戻れと言ったところで、こうした学習者の学習権を国家教育レベルで保証をした国はないのだからやはりオルタナティブであると言うべきだと思われる。 3.学習方法論 次に学習方法論としての視点をオルタナティブ教育という立場から検討をしてみたい。前述をしてきた国家における教育観というものを見れば、その方法論がどういったものかおおよそ想像ができる。一般に教育方法論という言葉はあるが、学習方法論(学び方論)という言葉はあまり普及していない。教育方法とは、日本の教育観に照らしてみれば、教育をする方法、すなわち教育に強制を必要としないとする教育とは対極に位置する「国家の教育観を効率よく教え込む教育の方法」ということになる。学習指導要領もしかり、授業試案を作成するときもしかり、まず国家としての基準があり、その内容を理解させることに狭義の教育目標が設定される。限られた時間の中で100%の理解をも学習者は要求される。国家の教育にとって必要なことは、学習者の学習法を援助することではなく、決められた時間で決められた内容を効率よく学習者に教え込む方法を開発することなのである。そう言った視点でみると現在国家の教育現場で行われている方法の意味がよく理解できる。例えば、暗記中心の授業、減点法のテストなど。ここに国家教育たる公教育の限界性を垣間見ることができる。確かにあらゆる国民の最低限の学ぶ権利を保証したる公教育の役割は無視はできないし、そこまでフォローしたら労働者たる教員の生活権はどうなるんだなどの主張もよくわかる。しかし、その限界性を認識した上で子どもたち(学習者たち)の学ぶ権利を保証できる方法を考え出すのが、教育の使命の1つであると信じる。しかし、国家の政策起案の段階において、教育予算を軍事予算より優先して考えるような哲学が確立されないかぎり国家の側からのオルタナティブはあり得ないと思われるが。 本節でいう学習方法論とは、決められた時間内に決められた知識量を効率よく教え込む方法ではない。あくまでも学習者自身が、自ら学ぼうとしたときに体系的かつ、科学的に学んでいく方法である。日本で言うところの教育方法が外からの管理された教授方法であるのに対して、筆者が言っている学習方法とは、学習者が自ら行う学習を援助する方法であると同時に学ぶ喜びを引き出す方法であるとする。こうした視点に立った引き出す教育における学習方法論は、欧州でいうところの哲学的思索の歴史の中に見いだすことができる。古くは古代ギリシア時代における哲人たちの活動もそうした学習方法の1つだったのではないだろうか。例えば、ソクラテスが行ったという「産婆術」やデモクリトスが唱えた「原子論」的な物の見方などは、その1つの例であったと思う。学習の仕方と科学的な物の見方というもは、1つの対をなすものであると思われる。その後、宗教の時代へと入った中世のヨーロッパにおいて、科学的な物の見方、学習の仕方が社会の表に出てくるのは、最後の宗教戦争と言われた30年戦争の終了を待たなくてはいけない。1637年、真理を見抜く方法を説いた「方法序説」をデカルトが著す。その中で、デカルトは学習をするための方法として、「直観」「分析」「総合」「実証」の4つからなる視点を明らかにする。その後、こうしたヨーロッパにおける科学的認識方法は、時代的限界を含みつつも、ヘーゲルの弁証法、マルクスの史的唯物論等へと引き継ぎられていく。本論はヨーロッパ思想史や科学史を解説するものではないので、学習方法論の系譜はこのように単純なものではないが、大きな流れを述べるところまでに止める。20世紀に入ってからは、アメリカのプラグマティズムとの関連や構造主義とポスト構造主義、フーコー*1による国家の同化装置としての学校の存在の指摘などは学習方法論を考えるにあたり少なからず影響を与えている。 *1ミシェル・フーコー(1926〜1984年)フランスの哲学者。ポスト構造主義の代表的な哲学者と言われている。『狂気の歴史』『言葉と物』『監獄の歴史』などの著作。 こうした歴史的な背景などを考慮しつつ、実際の学習方法論として実行されているものが世界にどの程度存在しているのか、本来であれば、世界各国の教育の理念と方法について事例をもとに比較検討をしなくてはいけないと思うのであるが、多くの国の国家教育が現実として学習者中心主義ではないことと、おそらくそのアンチテーゼとなっていると思われる各国のオルタナティブ教育の思想とその実践を探る資料が少ないということから、今回は、確実である自らの事例をもとにして学習方法論の1つのモデルを示したい。 私たちの学校である「鎌倉・風の学園」における学習者の方々の提案をしている学習方法論は、前章でも既に紹介をした。今一度紹介すれば、下記のようになる。 @問題提起(直観力養成)⇒A仮説形成力養成⇒B討論力養成⇒C実証力養成⇒D論理力養成⇒@問題提起 @問題提起(直観力養成) 学生たちの必須義務である学習記録(ポートフォリオ)書きに対して実施をされる徹底的なサポート。提出された記録に対して、教員は、学習領域、学習時間、学習内容、学びに対する主体的印象の4つの角度から徹底分析をして、アドバイスを出すようにしている。この共同作業は、生活の中に埋没してしまった学びに対する意識や感覚を今一度、甦させる作業である。月別学習記録を提出してくれた学生たちに対して、教員から、メール、はがき、手紙、FAX、電話、面談等を通じて、学習者の状況に合わせ、1ヶ月に1回以上の学習カウンセリングを実施する。 A仮説形成力養成 日常生活において、自分にとっての学習素材を見抜く力がついてくると、学習者の意識の中で自然と湧き上がってくるのが、「なぜ、そうなるのか?」と言う疑問の意識だと思う。そこで、なぜ、そうなるのかを自分なりに仮説を立ててもらう、この作業が、仮説形成力の養成である。この段階では、自分の立てた仮説が、結果として間違っていたとしてもさほど問題ではない。主体的な意識のもとに思考の方向性を自分なりに考えてみる。この作業が重要である。通常では、月別の学習記録から発生をした興味事項や月曜日〜金曜日に学校からメールで送られてくる日報に書かれている学習ヒントなどをもとにして、自分で立てた仮説事項をレポートなどにまとめ提出することを奨励している。 B討論力養成 各学習者たちが自分なりに立てた仮説などをもとにして、意見を言い合う場として、ゼミナール授業やウエッブ上に掲示板を用意している。その他シーズン毎の集中プログラムではあるが、巡回のスクーリングや短期のフィールドワーク授業、当然、平和学習フィールドワークの期間中もこうした討論をする時間が意識的に用意されている。 C実証力養成 私たちの学校で一番大事にしているのが、この実証力養成だ。自分の頭で考えたことを最後に実際の社会や生活で実行して確かめてみる。自分の立てた仮説が合っているのか、間違っているのか、部分的に合っていたのか間違っていたのか、きちんと自分で実行をしてみて、その中身を検証してみる。そうした、今まで培った、総合的な学習力を試す場として、フィールドワーク沖縄、フィールドワークアウシュビッツ(オシフェンチム)、フィールドワークベトナムや年度末の学習報告会などと言う総合学習の場がある。 D論理力養成 実証によって確かめられた様々な学びを1つの法則(論理化)として記録をしていく。ここで再び日々の学習活動の中心である月別の学習記録(ポートフォリオ)を作成するという作業へと戻っていくわけだ。こうした、一連の学習活動を通して、同じ学習記録であってもその中身は、質的に絶えず変化をし続けることになる。 前章でも述べたが、こうした5段階の学習の流れは単線系として閉ざされた系でない。図でも表現をしたように逆螺旋状に高め広げられるようにイメージされている。さて、このような私たちなりの学習方法論の確立は、日々の実践の試行錯誤の中から生み出されたものなのではあるが、私たちの学習方法論に大きな影響を与えた日本での教育実践が2つある。1つは、遠山啓氏の水道方式。そしてもう1つは、板倉聖宣氏の仮説実験授業である。両氏の理論と実践の記録は、多数著されているので、詳しくはそちらを参照していただくとして、現場主義であった私たちが多くの実践体験の結果を論理化してきたものと両氏の主張や実践がたいへん調和的であることに気がつかされた。彼らの理論と私たちのイメージが調和的であると気づいた後は、彼らの実践や理論を積極的に学ばさせてもらっている。彼らの主張と私たちの主張の共通点である学習方法理論は、学習方法の弁証法的展開である。これを学習方法論の1つのモデルとして提唱したい。 実はこの弁証法的展開がオルタナティブ教育の今までと将来に深く関係をしている。今までのオルタナティブ教育と思想的関連とオルタナティブ教育の未来について次の章で検討したい。 目次へ |