沖縄のやちむん
瓦屋節

できよ押し連れて
眺めやり遊びが
今日や名に立ちゆる
十五夜でもの

おす風も今日や
心あてさらめ
雲晴れて照らす
月の清さ

月も眺めたり 
できやよ立ち戻ら
里や我が宿に
待ちゆらだいもの


土器を使って、煮て食べることを知った昔の人は、
それ以来、焼き物という日常生活に不可欠な道具を
実用、文化、科学という多くの分野から発展させてきた。

ここ琉球王国においても600年前ほどから、
中国や朝鮮、日本、東南アジアの国々の影響を受けながら、
その色彩、かたち、技法において、琉球独自のものを形成し発展させてきた。

島外からの陶磁器が下火になった16世紀のおわり頃より、
より琉球らしいオリジナルなものが作られるようになった。

【沖縄の陶芸の歴史】
1350年 このころ山田焼はじまる。
1422年 このころ喜名焼はじまる。
1500年 このころ作場焼、知花焼あらわる。
1579年 首里王府が瓦奉行所をおき、焼き物を管理する。
1600年 このころ古我知焼あらわれる。
1616年 このころ湧田焼、首里焼はじまる。
      瓦奉行所より焼物奉行所が分離される。
1617年 薩摩から3人の朝鮮人陶工が来島して、湧田窯で朝鮮式陶法の指導にあたる。
1670年 平田 典通が中国にわたり、赤絵の技術を学ぶ。
1682年 首里王府により各地の窯場が壺屋にまとめられ、焼物奉行所が再び瓦奉行所に統合される。
1724年 仲村渠致元が八重山にわたり、焼き物の技術を伝える。
1730年 仲村渠致元が薩摩で焼き物の技術を学ぶ。
1837年 仲村渠致真が中国で焼き物の技術を学ぶ。
1917年 壺屋陶器販売購買生産組合ができる。
1945年 沖縄戦後、ふたたび壺屋焼が作られる。
1970年 このころからガス窯が導入される。
1985年 金城次郎が重要無形文化財保持者に認定される。


  沖縄の古窯

【湧田焼(わくたやき)】
1616年、薩摩から連れて来られた朝鮮人陶工の指導によりはじまったとされている。
灰釉碗(かいゆうわん)をはじめとする釉薬をかけた施釉陶器(せゆうとうき)が、
代表的な製品として知られている。

【喜名焼(きなやき)・知花焼(ちばなやき)】
器面に泥釉(どろゆう)やマンガン釉かけている。

【壺屋焼(つぼややき)】
先行する喜名焼や知花焼、湧田焼の技術を受け継いで形成されたと言われている。

【古我知焼(こがちやき)】
飴釉(あめゆう)や黒釉(こくゆう)を用いた施釉陶器が多くある。
中でも、甕(かめ)や壺などの大型品では、
布やワラで釉薬を荒くぬる「布拭き」「藁拭き」といわれる独自の方法が使われている。

【作場焼(さばやき)】
碗、すり鉢、徳利、甕、壺などが多く作られました。

【八重山焼(やえやまやき)】
1724年、仲村渠致元(なかんだかりちげん)が国王から命を受け、八重山に陶器の製法を伝えた。
石垣島のいろいろなところの窯で焼かれた八重山陶器の総称。

【壺屋】


国際通りをひょいとまがる。
平和通りを抜け、桜坂下あたりから道なりに左へと向かう。














アーケードが切れたあたりから、
ひめゆり通りまでの石灰岩を使って作った石畳の道を
「やちむん通り」と呼ぶ。
通りに面して、たくさの陶芸のお店がならぶ。
一つ、一つのお店に顔があり、一軒、一軒見て歩いてもあきることがない。







通りの中ほどには、
その昔、1000個の荒焼を焼いたという
登り窯、「南ヌ窯(フェーヌガマ)」がある。














途中、脇道にそれてもおもしろい。
蔦のまきついた石垣の中には、陶器がはめこまれていたり、
赤瓦の屋根の上にはシーサがこちらを眺めていたりする。













ひめゆり通りに出る東口には、
大きなカジュマルの樹が井戸(東ヌカー)守るようにそびえている。














通りを囲む、木々の間からは、多くの陶工たちの息づかいが聞こえてくるようだ。

 【壺屋焼】
1682年、琉球の各地に点在していた窯場を国王が統合して、現在の壺屋に集められた。
なぜ、壺屋に集められたか、その真相はよくわかってはいないが、公共的な価値の高い陶器の生産管理等を国が管理するためと言われている。壺屋の場所がその統合の場所として選ばれたのは、当時、原料になる土と水に恵まれた土地だったからと言われている。

壺屋焼の種類は大きくわけて、2つある。
1つは、喜名焼・知花焼の流れをくむ、荒焼(アラヤチ)、
そして、もう1つは、湧田焼の流れをくむ、上焼(ジョーヤチ)である。

[荒焼とは]
釉薬をかけずに作る陶器、泥釉、マンガン釉をかけた陶器をまとめて呼ぶ。焼き上げる温度は、約1120度と言われている。水甕、味噌甕、酒甕など貯蔵を目的とした大型のものから小型のものまで多くの製品が作られている。

[上焼とは]
釉薬をかけて焼き上げる施釉陶器をまとめて言う。焼き上げる温度は、約1200度と言われ、碗、皿、急須などの日用雑器、抱瓶・カラカラなどの酒器、花びんなど、さまざまな製品が作られている。

 【壺屋から】

1970年代に入ると壺屋では、煙害問題などで、登り窯が使えなくなり、ガス窯が導入される。登り窯を使うことを希望した陶工たちは、沖縄各地に散り、個性ある工房を展開するようになった。

【読谷】


その昔から、多種な土に恵まれた、読谷の地に70年代以降、多くの陶工たちが移り住んだ。
今や40以上の窯元が集まるやちむんの里である。

遠くの高台に「象のオリ」、読谷村役場を見られる坂道を少し下っていくと、
やちむんの里に入る道がある。
里に向かって歩いていく。
うっそうと茂った南国特有の木々に囲まれた谷間に里はある。

里の中央には、空に向かって突き上げるがごとく、
読谷山焼の共同窯がその生き物のような姿を見せている。





窯を中心にして、その回りに多くの陶工たちの工房が、建てられている。











最近では、第2世代の若手の陶工たちが、
新たな大型の共同窯、「読谷山焼北窯」を建設し、
さらなる発展を続けている。












                                         参考にした文献等
                                        ・壺屋焼物博物館 常設展ガイドブック
                                        ・沖縄の伝統工芸 沖縄文化社

何かご質問ある方、下記までどうぞ。
info@kaze.gr.jp