フィールドワーク沖縄2001現地レポート

現地レポート−1
1週間前のことが、昨日のことのよう、1年前のことのように感じます。きっと、浦島太郎もそんな生活だったに違いないと思います。まあ、鯛やヒラメの舞いはありませんが、この1週間の南国での活動報告を少しずつしていきたいと思います。

[6月18日(1)]
さあ、今年も始まりました。
思い起こせば、FW沖縄を始めたのは、96年ですから、今年で、もう6年目になります。本当に早いですね。毎年行っているFW沖縄ですが、1回として同じ表情であったことはありませんでした。毎年、毎年、それまでに見たことのない新しかったり、古かったりする新鮮な顔を見せてもらってきました。本来であれば、支えたり、支えられたりする関係を作っていけたら理想的なのではありますが、こと、沖縄に関しては、もらうばかりです。 よく、沖縄は基地の経済などに依存をしていて、日本の中でも経済的に貧しい地域だみたいなことが言われます。

しかしながら、今の沖縄の現状は、1972年に日本復帰をしてから30年近くを経て、細かいところの意味は別としても、大枠において、もう十分にいわゆる本土並みであると思います。むしろ、ヤマト(本州)にはない沖縄ならではの、貴重な財産が数多く存在しているだけに総合的に見たら、豊かな地域かもしれません。そんな沖縄に対して、私たちなりの恩返しを少しずつできるようになれればよいなと考えて、実践の報告本を出せた昨年度を一つの区切りとし、本年度からは新しいステージに入りたいと思っているわけなのです。まあ、その中身は、おいおい紹介をしていきたいと思います。

ともかく、今年も始まったFW沖縄は、初日は、例年の通り、現在の沖縄を見るということで、沖縄各地にある基地の視察を中心としたツアーです。

今年のコースは、那覇空港→那覇港湾→嘉数高地→キャンプシュワーブ→辺野古→キャンプハンセン→座喜味城跡→読谷補助飛行場→ゾウのオリ→トリイステーション→嘉手納基地(安保の見える丘)→コザでした。
朝一番の飛行機は、南の島々が見えるところまで来ると一気にその高度を下げ、もう直ぐ真下に海が見えるぐらいの超低空で、那覇空港へと機体を滑りこませます。到着時刻より早く、空港上空に着いたにも関わらず、空港の上で足止めを食らいました。那覇空港は、嘉手納基地のレーダー管制下にあると同時に、軍民共用の空港でもあります。要は、軍用機優先の空港なわけです。したがって、軍事的な何かがある場合は、民間機は後回しになるわけです。結果として、到着時間を過ぎてしまった私たちの飛行機は、ともかく無事に那覇空港に到着しました。

今年の沖縄は、早めの梅雨入りだったので、もうまもなく梅雨があける様相を呈していました。飛行機のドアが開けられるとその隙間から、南国特有の空気がドバッと侵入してきます。肌にまとわり着くような、熱く湿った空気です。まだ、その記憶がなかったころ、この熱く湿った空気は、異質なものでした。しかし、ひとたびこの感覚をインプットされた人の体は、何か心の底に懐かしさの意識を刻み込みます。もしかして、全ての人間は、南から移動してきたのかもしれません。懐かしさに包まれた空気の中、空港ロビーへと出ます。数年前の建て替 えによってデラックスになった空港のロビーには、毎回ツアーのガイドをお願いしている山内氏が待ちかまえていてくれました。バスに乗り込み、いざ、出発です。

沖縄の街に降り立つとまず、否応なしに目に飛び込んでくるのが、基地の施設です。先にも書きましたようにその表玄関である那覇空港そのものが、軍民共用空港なわけですから基地施設の中に降りたったようなものです。さらに、実は、私たちは、目に見えない基地の中を横切って来ていたのです。横切ったと言っても中を通ってきたわけではなく、覆われれている下をくぐってきたという方が正しいかとは思います。沖縄本島を中心とする広大な空域は、嘉手納基地の管制下ならびに訓練空域になっています。特に嘉手納基地を中心とする半径約80キロメートルの空域は、嘉手納基地を発着する軍用機のコースとなります。つまり、那覇空港に離発着する民間機のコースと完全に重なるわけです。これが、平面の世界であれば、年に何度も衝突をするほどの密度です。そうした衝突を防ぐために空域を上下に分けて使っているわけなのです。高度約300メート

ルを境にして、上と下ということになります。そうです。民間機は300メートル以下を飛ばなくてはいけないのです。

300メートルの高さと言えば、下の船の甲板にいる人までもはっきりと見ることができるような超低空です。これが安全かと言えば嘘になるのは明白です。その上を戦闘機たちが交差するように飛んでいくのです。

空港から、那覇の市街に向かう国道58号線もその両脇は、まさに基地のオンパレードです。自衛隊の基地から始まって、米軍の那覇港湾施設と続きます。港湾施設には、本土で行っている砲撃演習に使用される155ミリりゅう弾砲が荷積みのために並んでいました。港には、米軍がチャーターした民間の運搬船が停泊していました。おそらく、これらの武器は、神奈川に運ばれ、御殿場の演習場へと運ばれていくのだと思われます。

バスはまず、その返還移転問題で揺れているアメリカ海兵隊のヘリコプター基地である普天間基地が一望できる嘉数の丘に向かいました。ここから、北の方を見ると直ぐ目の下には、普天間基地、そしてその後ろに続く嘉手納基地、遠くは、ゾウのオリとして有名な礎辺通信所までのラインを見ることができます。このラインは、今を去ること60年近く前に起きた沖縄戦のアメリカ軍上陸作戦と日本側との攻防のラインでもあるわけです。

※18日の平和ツアーの報告だけで密度が濃いので、何日かかかってしまうことをお許しください。

フィールドワーカーの声
アメリカ本土では、野鳥の保護のために高度300メートル
より低く航空機が飛んではいけないのに、沖縄では300メートル以下の所を飛べという、「沖縄の人は、アメリカの野鳥以下なのか」という言葉が印象に残りました。読谷の人々の闘いで、不発弾処理場に使われていた場所を取り戻した運動などはすごいと思いました。非暴力と村ぐるみの運動で、基地の返還を勝ち取っているその方法論はすごいと思いました。
                 01年度生 T.O.

ディープ沖縄
ここでは、沖縄生活の中で気になることなどあまり難しく考えず、思いつきで書いてみたいと思います。

初回の今日は、食い物の話しでもしましょう。沖縄にかかわる食い物の話しは底なし沼のように広がります。きりがないので、これまた勝手に書き連ねます。私が沖縄の食堂に入り、注文をするメニューで一番多いのは、煮付けです。おっ、大事な定義を一つ言わねばいけませんでした。沖縄の食堂の場合、お品書きに、「煮付け」とか、「ゴーヤチャンプル」だとか、おかずの名前だけ書いてあってもそれは、必ず定食になって出てきます。知らずに、「ご飯もつけてね」などと言いますとご飯二膳になってしまいますのでご注意を。したがって、「煮付け」と言えば、「煮付け定食」、すなわち、ご飯と汁物とちょっとした小鉢がついてきます。

さて、このおかずの中身ですが、煮付けとは、まあ、いわゆる煮付けです。でもヤマトの煮付けとは違い、かつおだし風味のあっさりした感じの煮付けです。煮詰まった感じはありません。あくまでもあっさりです。煮付けてある材料は、お店によってかなり違います。そこがまた楽しみでもありますが、多くの場合の定番は、テビチまたは三枚肉、大根、インゲン、豆腐、人参、昆布です。テビチは豚の足です。軟骨まで食べられるほど煮付けたとろけるお肉です。豆腐は、ヤマトのに比べるとしっかりとしていてこしがあります。昆布は、その消費量は日本で一番多いそうです。はし休めには、ふつう、酢もずくあたりがつきます。さらに小そばがつく場合もあります。共通して言えることは量がヤマトの1.5倍ほどあるということです。大満足の一食なのです。

現地レポート−2
梅雨の開けた沖縄の空には、毎日、入道雲がモクモクと沸き立っています。強烈な日差しの中、今日は、沖縄本島中部にある読谷村というところに行ってきました。今日の一番の目的は、読谷村教育委員会の小橋川さんの話しを聞くことでした。昨日、事前に調査をしておいたので、概略もつかむことができ、かなりディープな話しを聞かせてもらいました。おもしろかったです。

【6月18日(2)】
嘉数高地から見ることができる普天間基地は、宜野湾市の中心部の大部分を占めます。沖縄占領と同時に建設され、日本本土攻撃のための飛行場として整備されました。現在は、海兵隊第1海兵航空団第36海兵航空群の本拠地となっています。

長さ約2800メートル、幅46メートルの滑走路を持ち、CH53、CH46、UH1、AH1などのヘリコプターを中心に約100機以上の航空機が配備されています。

高地から見る普天間基地は、まさに宜野湾市の一等地を占領し、市の多くの建物は、その基地の回りにへばりつくように細いドーナツ状に広がっているのがよくわかります。ということは、一般の人々の生活圏と背中合わせというかむしろ、重なりあっているような形で、存在しているのです。

基地の回りには、いくつかの小・中・高・大学や商店街等が存在をしているそうです。そんな環境の中、普天間基地では、ヘリコプターの離着陸訓練を頻繁に行っているといいます。数年か前には、空中において、ホバーリングした後、エンジンを停止し、再度エンジンを始動するという訓練を行っていたヘリコプターがそのまま墜落し基地と市街地との境まで転がって炎上するという事故が起きたりしたそうです。
このように、市民の生活の安全保障を脅かす存在になっている基地の存在は、あきらかに市民にとって不利益な存在になっているわけなのです。アメリカ本国では、こうした市街地において、基地を建設することは、一切禁じているそうで、本国においてできないことをここ日本では平然と行っているわけなのです。

こうした事態において、アメリカもその危険性を認めざるを得ないとみえ、普天間基地の返還を決めました。がしかし、代替地への移転を条件とするこの返還は、その移転先が決まらないがゆえに今だ実現されていません。

基地が自分たちの住んでいる所に存在をすることが、多くの不利益さを生むことは、日本の中においてはある意味、一般的な事実となっています。証拠に普天間基地の代替地は、国内において見つけることはできませんでした。そこで、日本政府は、新たに沖縄の中にその移転先を求める策に出ました。結果、その第1候補地として、クローズアップされてきたのが、沖縄本島の名護市にある自然豊かな海の村である辺野古の浜だったのです。貴重動物でもあるジュゴンが生息する辺野古の海。もう既に、キャンプシュワーブという基地を持つ同地区は、当初これ以上もう基地はいらないといっていましたが、経済援助という名の札びら攻撃をしかける政府の前に、市をはじめとする市民たちは動揺をきたしてきています。

ということで、嘉数の丘の後、私たちは、この普天間基地移設問題で揺れる辺野古のビーチをめざしました。

(沖縄自動車道を北上する米軍公用車・USMCナンバー。高速道路の通行料は日本のおもいやり予算から出ているそうです。)

フィールドワーカーの声
日本は、米軍基地維持のために莫大な金額を使っている。それは何も沖縄のためではなく、多くがアメリカや日本の一部の者のためであった。国民は日本をより良い国にするために税金を支払っているのに、期待を裏切られたような気持ちだ。
                99年度生 H.T.

ディープ沖縄
最近は、いろいろなところで沖縄に関することを見聞きします。このところ毎日のように目にする沖縄ものは、今、沖縄でも大きな話題となっているNHKの朝のテレビ小説、「ちゅらさん」でしょうか。ドラマに登場した、「ゴーヤマン」は、沖縄のどこを探しても売っていません。ゴーヤマンはいったいどこに!

昨日は、私が沖縄で一番口にする大衆料理である、「煮付け」について書かせてもらいました。食い物に関しては、まだまだたくさん話しがあるので、もうしばらくダラダラと書かせてもらいます。今日、紹介をさせてもらうのは、やはり、沖縄の大衆食堂に入ると目につき、いったいこれは何だと非常に興味を引くメニューの一つ、「おかず」という定番について書かせてもらいます。

そうです。読んで字のごとし、「おかず」というメニューなのです。お品書きに書いてある、「ゴーヤチャンプル」や、「テビチ」や、「フーチャンプル」などは、じゃー、おかずじゃないのか!?これもおかずにちがいはにわけです。でも、独立系のメニューとして、どこの食堂に入ってもしゃんとこの、「おかず」というお品書きが存在しているのです。

じゃー、「おかず」とは何かといいますと、中身は、お店によってだいぶ違います。代表的な、「おかず」は、煮付け定食に近いものがありまうす。煮付けと何が違うかといわれても釈然としません。しいて言えば、つゆ無しのおでんに近いという感じでしょうか。他の店で食べた、「おかず」は、豆腐入りの野菜チャンプルーが醤油味で出てきました。これにご飯と汁とおしんこうなどがつきます。そして、定価は500円前後で、たいへんリーズナブルでございます。
現地レポート−3
関東の方も暑いそうですが、こちら沖縄も想像を絶する暑さではあります。まあ、でも当地の方々から見れば、ふつうなのかもしれません。暑いのがあたり前なので、今日みたいに強い日差しの日は、日中はあまり人は出歩いていません。少し日が傾いてきたころからみんな家から出てきます。今日みたいな暑い日に昼間から出歩いているのは、観光客かビジネスマンぐらいなものです。

今日は、沖縄の産業の一つとして成長しつつある陶芸について、もう少し詳しく知ろうと若手の陶芸家さんのところに半日研修に行きました。初めてのろくろなどに悪戦苦闘しながらも、皆、自分の作品を作りあげていました。いつかみんなの作品展みたいなことができると楽しいと思っています。

昨日訪問をした、読谷村の産業の柱の一つもヤチムンです。焼き物のことがいろいろわかってきて、とてもおもしろいです。

【6月18日(3)】
バスは沖縄自動車道を北上します。北部特有のジャングル地帯へと道は進んでいきます。高速道路の回りの森はやはり、基地の続きです。うっそうと熱帯地方特有の木が生い茂った北部の地域は、キャンプハンセン、キャンプシュワーブと続き、北部訓練場へと連なります。

キャンプハンセンとキャンプシュワーブの訓練地域は、南北の1つのエリアとしてつながっています。今、辺野古へ向かう私たちの目に映っているジャングル地帯は、その訓練地域です。この訓練地域では、主に実弾を使った射撃訓練等が行われています。以前は、この高速道路と並行して走る県道104号線を頭越えに、155ミリりゅう弾砲の実射訓練も行われていました。今でも当時の着弾点であった、恩納岳やブート岳では、爆発によってできた赤く焼けこげた跡が山肌にはっきりと残っています。

その後、155ミリりゅう弾砲の実射訓練は、沖縄以外の日本の他の場所で行われるようになりましたが、実射以外の全ての訓練は今だ沖縄で行われています。

また、実射訓練の場所が日本の全国に散らばったことを米軍側はむしろ歓迎をしていて、様々な条件で実射訓練ができることは、有益だとも言っているそうです。

155ミリりゅう弾砲の実射訓練はなくなりましたが、沖縄では、新兵などのライフル実射の訓練は逆に多くなっているそうです。中でも、自分のライフルの精度をあげるための調節に、夜間、曳航弾を頻繁に使うため、最近では、山火事の発生が多くなっているそうです。

そうこうしているうちに高速道路を降りた私たちは、辺野古のビーチが一望できる高台にきました。昨日書きましたように普天間基地の代替地として、この地が指定されました。つい先だって、ここにヘリポートを作る際の3つのプランが提示されました。1つは、杭打ち方式、2つ目は、フロート方式。3つ目は埋め立て方式。その他、これらの組み合わせたもの。工法はともかくヘリポートを作ることを前提とした議論では、話しになりません。どんな工法であれ、今、私たちの目の前に広がっている視野の大部分が、人工的な2600メートル級の滑走路を持つ飛行場で覆われることになるのは間違いないからです。そうすれば、珊瑚礁も、ジュゴンもいなくなることは必至なわけです。これは、お金や政治の問題ではないような気がしました。

シンプルに社会や自然や生き方における人類にとっての価値観の問題のような気がしました。人類にとって、どういった価値を優先したいのか、ここ沖縄の人だけでなく、地球全体の人たちが21世紀の人類のあり方について問われているような気がしました。

青く美しい珊瑚礁、そして、そこに集まる様々な生物たちの営み、そこに人工のふたをした景色が美しいのか醜いのかそれだけの判断で十分です。お金が儲かるのか、経済が発展するのかなんて視点は関係ありません。単純に人が平和に暮らすためには何が一番必要なのか、大切なのか、そんな原則を考えれば答
えは直ぐに出るような気がしました。

現実的に見ても、ある種の公共事業である基地建設を推進したところで、他の公共事業同様、現実的な利益は少ないと思いますが、脱基地宣言でもやればいいのにね。

フィールドワーカーの声
今日の見学を通して、戦後の米軍基地の問題について、考えを新たにした。今まで、アメリカと沖縄の人たちとの関係について知らなさすぎた。それゆえに、安易に共存が理想的だなんて思うこともあった。しかし、共存という考えは、最低限、両者の関係の中で全ての事項において、対等でないかぎり有効性はないと今さらながら気づかされた。沖縄の立場は、全てにおいて、そのスタートの段階から理不尽な形から始まっている。米軍と日本の関係について、まだまだ勉強をしなくてはいけないと思った。
                 98年度生 T.H.

ディープ沖縄
食べ物の話しをするとなると、やはり、沖縄そばのことははずせないと思うのです。沖縄そばはそばと言っても蕎麦粉で作っているわけではありません。100%小麦粉です。したがって、本来はうどんの仲間であるはずですが、出てくるそばはうどんの味ではありません。不思議なそばです。沖縄そばに対する、私にとっての最初のカルチャーショックは、味などではなくて、沖縄の人が沖縄そば好きであるという事実です。大盛りの沖縄そばを頼むと、そのそばの量は半端ではありません。どんぶりのへりから、全体の3分の1ぐらいそばがはみだしたような状態で、中に入っているはずのつゆは見えません。がしかし、みんな果敢にそばにアタックしています。気がつくとどんぶりはからになっています。私なんぞが安易にも大盛りそばを頼むとたいへんなことになります。食べても食べてもどんぶりの底からそばが湧きだしてくるみたいな錯覚に陥ります。街のいたる所にそば屋さんがあり、自分の好みの味のそば屋を探すには食べ歩くしか手はないようです。

現地レポート−4

毎日、お暑うございます。
こちら沖縄も毎日、30度を越す真夏の日が続いています。街をただ歩いているだけなのに、日に焼け、顔の皮が剥けてきています。よく見ると顔だけでなく、腕も足も、まるで脱皮をしているかのようです。この歳になりますと、シミ、そばかすは大敵なのですが。

本日は、今回のFWの一つの目的である風力発電のことについて、沖縄電力の風力発電実験施設のある宜野座村へ視察に行ってきました。宜野座村は、今年の春の選抜野球大会で、ベスト4まで進んだ宜野座高校がある村です。宜野座村の沖電の風力発電実験施設では、各国の風力発電機を実際に稼働させ、その性能を比較研究しています。1つのエリアに6機の風力発電のプロペラが回る姿は、壮観です。風力発電のことについてもこの後、機会をみて報告しますので、どうぞお楽しみを。


【6月18日(4)】
波穏やかな辺野古のビーチでは、ジュゴンの餌となる海藻の束を確認をし、次なる目的地へと向かいました。次の目的地は、中部の4市町村にまたがり駐留されているキャンプハンセンです。

今現在、中部以北の主な基地は、キャンプハンセン、キャンプシュワーブ、北部訓練場です。どの基地も米軍にとっては、重要な基地ばかりです。北部訓練場では、パナマの訓練場が閉鎖されて以来、ジャングルでの訓練ができるのは、世界の中でここだけになっていますし、キャンプハンセン、キャンプシュワーブは、海兵隊の総合的な機能が集約され、様々な状況を想定しての訓練が可能になっています。

今、キャンプハンセンには、全体で6200名の隊員が駐在しています。金網越しに見る基地内には、独身寮、教会、劇場、野球場、将校クラブ、売店、食堂などいろいろな施設を垣間見ることができます。今、沖縄には、海兵隊、空軍、陸軍、海軍の4つの軍隊が駐屯をしています。ここキャンプハンセンは、海兵隊の基地です。アメリカの持つ4つの軍隊のうち、この海兵隊の役割は、紛争が起きたときのいわゆる先乗り部隊です。地球のあらゆる地域において、24時間以内で乗り込み、これから始まるであろう戦いにそなえ、その最初の足場を作りあげることが大きな任務です。アメリカの軍の中では、一番、死体に近い部隊として恐れられています。

金網越し見る基地の中を行き交う兵士たちは、とても若く見えます。まだまだ10代ぐらいの幼さを顔に残した兵士たちが、鉄棒で懸垂をしたり、ランニングをしたりと、黙々と自主トレーニングに励んでいました。彼らは、人の国まで来て、一体何を守ろうと思っているのでしょうか。

キャンプハンセンを後にして、私たちは、読谷村に向かいました。読谷村の詳しい報告は、今年のFWの重点地区でもありますので、後ほど報告させていただくとして、コース的には、最初に向かったのは、読谷村一体を一望でき、世界遺産に指定をされた場所でもある座喜味城の跡です。

この世界遺産に指定された座喜味城趾も以前は基地でした。しかし、日本への復帰と同時に機転をきかせた読谷村の人々により、文部省の文化遺産の指定をとりつけることによって、返還を勝ち取りました。この15世紀に築かれた古城の城壁の上にのぼり、読谷村の全景を見る度に、戦前、戦後を通して軍事的な干渉により翻弄をされた沖縄の歴史を振り返えざるを得ません。

フィールドワーカーの声
帝国主義的占領の過程は、世界のどの場所でも、どの時代でも同じだ。基地は、広いとか狭いとかというサイズの問題ではなく、機能としてどのような機能を持っているのかという視点も忘れてはいけない。基地を維持するために使うお金の単位が、億だとか兆だとか、たいへん大きい単位の数ばかりで、まったく無駄な使い方であると思った。
                 99年度生 I.A.

ディープ沖縄
食べ物の話しは、まだまだつきそうにありません。
おかず関係の話しをしてきたので、デザートの話しでもはさんでみましょう。デザートと言っても、いわゆる大衆的デザートは、これまた、たくさんあるわけです。単純にマンゴだとか、パパイヤやバナナという果物からはじまり、沖縄ならではのアイスであるブルーシールの各種アイスクリームなども捨てがたいものがあります。がしかし、何と言っても大衆的デザートの王様は、「ぜんざい」であると思うのです。さて、ヤマトの人々は、「ぜんざい」と聞き、あたたかいお汁粉のようなものを想像するであると思います。ハイ!間違えでした。沖縄で、「ぜんざい」と言いますと、それは、「氷ぜんざい」をさすのです。ふつうの食堂には、必ずこの、「氷ぜんざい」が置いてあります。氷と自家製の煮込んだ小豆、そして、白玉などが混在一体をなし、それもかなりの大盛りでドンと出てくるのです。多くのオバーたちは、「煮付け」などの定食を食べたあと、この、「ぜんざい」を食していたりします。かくゆう私も、もう腹がいっぱいでこれ以上はと悲鳴をあげながらも、入るところが違うみたいだと言い、「ぜんざい」を食べていたりするわけです。ちなみに私は、後半の小豆と氷が半溶けの状態で交じっているときが最高の食べ時と心得ています。
現地レポート−5 

ゴーヤ

連日の暑さに、ここ沖縄の人もこんちくしょうみたいな苦虫を噛みつぶしたような顔をして街を歩いています。こんなに暑い日が続くと、無性に体が欲してくるのは、あのゴーヤです。ゴーヤって聞いて、直ぐに、「あの野菜ね」とわかる人は、かなりの南国通です。

別名、ニガウリなどとも呼ばれています。見た目は、ゴジラの肌ような強面です。食べると、にがい!!!!!
まさに、顔が苦み走ってしまいます。特に本場、沖縄のゴーヤは、苦みが際だっています。逆に言えば、苦くなくてはゴーヤと言わないという感じです。

暑い日が続くと、当地の皆さんは、この苦いゴーヤをあえて食します。「にがい!!もう一杯!」という具合です。どうやら、ゴーヤの苦みには、滋養強壮のようなパワーがあるみたいです。暑さで体力が低下してくると体が、一度、記憶されたあのゴーヤの苦みを欲してきます。で、あの苦みを口にしたとき、「まだまだいけるぜ!」という気持ちになるのでした。

ちなみに最高の食べ方は、チャンプルにするのではなく、生のゴーヤの上に鰹節をかけ、醤油をたらして、そのまま食うという食べ方です。あまりの苦みに渋い男になるにはことうけあいです。

おっと、余計なことを書いて、今日の行動を書くのを忘れていました。午前中は、残りのグループが陶芸研修をしに大山というところへいきました。今年のFWのキーワードの一つに陶芸を上げているので、実際に陶芸をする機会を差し挟んだわけです。

陶芸
手びねりと電気ろくろに挑戦してきました。手びねりは、よく中華料理のテーブルにのっているような回転する台の上に、粘土を少しずつ積み上げ、形を整えていくやり方です。電気ろくろは、電気の力で回転するろくろの上に粘土を乗せ、指のつまみの強弱などを使いながら、

お椀などの形を一気につくりあげていく方法です。どちらも、なかなか難しいです。粘土が柔らかいものですから、作っているうちにイメージからだんだん遠ざかってしまい、湯飲みのはずが茶碗になったり、小鉢が灰皿になってしまったりするのです。陶芸のことについては、いろいろ調べてまた書きたいと思います。ちなみに私たちの先生は、八木さんと言い、彼女の作品は、スタジオの方で随時展示をしています。人気があって、直ぐに売り切れてしまう一品です。

佐喜真美術館
午後からは、普天間基地の返還地に建つ、私設の美術館である佐喜真美術館へ行きました。平和についてメッセージを出すために作られたこの美術館は、その屋上に6段と23段の階段を持つ展望台があり、その先に6月23日の夕日が沈むように作られています。6月23日は、沖縄慰霊の日です。常設の作品としては丸木夫妻の、「沖縄戦の図」が展示されています。

【6月18日(5)】
読谷村の歴史は、まさに基地闘争の歴史です。終戦時において、村の土地の9割方を米軍基地として接収され、避難先からもどった住民たちは、残った1割方の土地の中で戦後の生活を再開しました。それから強靱なねばりと工夫した戦術で土地返還運動を続け、今では、基地の面積を村の土地の45%にまで縮小させることに成功し ました。しかし、まだまだ0%ではありません。21世紀になっても読谷村村民の闘いは続いています。今現在、読谷村には、5つの基地が陣取っています。1.瀬名波通信施設、2.嘉手納基地弾薬庫、3.楚辺通信施設(象のオリ、ハンザタワー)、4.読谷補助飛行場、 5.トリイ通信施設の5つです。個々の基地の概要については、読谷レポートのときにでも紹介をさせてもらうとしまして、視察の順に少し話しをしましょう。座喜味城趾を後にした私たちは、村役場のわきをバスで通り、象のオリへと向かいました。村役場がある所が、読谷補助飛行場です。基地の中に村役場をはじめとする公共の施設をあえて作ってあるのです。
旧滑走路の回りは、黙認耕作地のさとうきび畑です。読谷補助飛行場では、以前、パラシュート降下訓練が頻繁に行われ、空から降下してきてトレーラーの下敷きになり、子どもが亡くなるなど多くの被害を出してきました。そんな米軍の行為に対して、読谷村民は、辛抱強く闘い続け、日米安保条約の地位協定第2条4項のAをうまく活用し、基地内にこうした設備を確保するところまできています。この他、基地返還運動によって村が獲得した土地は数多くあります。中でも爆弾処理場のあった所をオバーやオジーたちが体を張って、返還を勝ち取った話しは、たいへん有名な話しです。

村役場の西にある、楚辺通信施設、別名「象のオリ」 (地元呼称:ハンザタワー)は、1996年にその土地の一部所有者との賃借契約が切れたにも関わらず、国が返却をせず、不法占拠をしたことで全国に、その存在を知らせましたが、当時、国が一夜にして作った、グラスファイバー製の網はいまでも残り、直径約200メートルの巨大なアンテナ群は、今だその姿を維持しています。ただ、中身的には、その後、施設のリストラの対象となり、現在では、軍人ではなく民間のコンピュータエンジニアによって、運営メンテナンスをされているようです。キャンプハンセンへの移設を条件に返還されることが決まっています。ハンザタワーの前に立つ度に強烈に思うことは、不法占拠、その後の国の米軍用地特措法の改定などの流れを見るに、村民の一番の敵は、日本政府であるということ毎回思い知らされます。

フィールドワーカーの声
フィールドワーク沖縄は昨年に続き2度目の参加ですが、今一度説明を聞き、忘れていたことを思い出したり、去年とは微妙に変わった風景などを見られたりして、おもしろさをまた新たにしました。

             00年度生 K.T.

ディープ沖縄

看板
食い物の話しがだいぶ続きましたので、ちょっと違う話しをしましょう。沖縄、とりあえず那覇などの街を歩いていますと、いろいろとヤマトにはないシチェーションのものに多く行き当たります。たとえば、看板、沖縄の看板は、最高です。特に、お店のネーミングとキャッチのコピーは、想像をはるかに越えるものがあります。今回の旅の中で、印象に残っているコピーを一つ、二つ紹介しましょう。今回は、職業柄、学習塾のコピーに目がいってしまいました。一つは、読谷で見かけた塾、「勉強がしたくなって、止められなくなります」。これゃ絶対の殺し文句ですね。入塾したら最後、勉強が趣味になってしまうこと請け合いです。そして、もう一つは、浦添で見た塾、「あなたのこころを読んで教えます」。これまたすごい。先生は読心術かテレパシーか、前に座ればみたりと当たるという感じです。

マンガ喫茶
あと、お店でよく目にするものの一つに、「マンガ喫茶」なるものがあります。この手の喫茶店は街のいたる所にあります。システムは、マンガを読むコーナーと軽食(軽食と言っても沖縄関係の定食は全部揃っています)のコーナーがいっしょになっていまして、軽食を頼めば、2時間マンガを読むことができます。やはり外が暑いせいか、昼の時間帯などは営業マンなどでにぎわっています。ただ、マンガ本の種類が少々中途半端なところが多く、自分の家の延長で始めたという感じの店は欲求不満が残ります。マンガが多い喫茶店という感じになってしまうので。
現地レポート−6
久高島・セーファーウタキ
今日は、久高島と世界遺産の一つであるセーファーウタキに行ってきました。久高島は、神話による琉球国発祥の地として有名です。島には、多くの聖地が点在し、五穀豊穣の伝説が残ります。

中でもクボーウタキ周辺は、昼なお暗きうっそうとした木々の中、鳥の声と風の音、森のささやきがこだまします。何かの気配にふと振り返るとそこには、木々の間から差し込んだ南国特有の強い太陽の光線が、まるで、天空からの道しるべのように手をさしのべています。

久高島で、そうした祭事のすべてを司るのは、女性です。ノロと呼ばれる神女が中心となり一切の祭事を仕切っています。

琉球神話の故郷である久高島の海をへだてた対岸、久高の東から太陽が上がるとき、その太陽の光りの直線上にあたる小高い丘の上にセーファーウタキがあります。その昔は、そうしたノロの者しか近づくことが許されなかったセーファーウタキは、いくつかの聖地から成り立っています。いつ訪れても蝶の舞うウタキの海側にその空間を2つの巨大な自然石によって三角形に切り取られたセーファーウタキ最大のウタキがあります。

巨大な三角形の空間を通り抜け、海を眺めるとポッカリと切り取られた青い空間に久高島が浮かび上がります。その昔、この場から神々が降り立ったという久高島を臨み、多くの王族、神女たちが国の将来について拝んだと言います。何百年という時空を越えた今でも、この場に立つとそうした古代から脈々と受けつないできた琉球国の息吹を感じざるにはいられません。何度、訪れても不思議なパワーがみなぎる久高島とセーファーウタキです。

【6月18日(6)】
ハンザタワーを後にした私たちは、小高い丘のふもとにあるトリイステーション前を通りました。大きなトリイを2つ門前においているトリイ通信施設は、アメリカ陸軍の特殊部隊であるグリーンベレーのホームベースとして有名です。

グリーンベレーは、語学や医療、武器、通信などに秀でた12人ほどのチームを1チームとして、紛争地帯などに隠密で潜入をし、地下活動をやるプロフェッショナルの部隊です。ベトナム戦争時をはじめ、アメリカが絡んだ紛争の多くの場にグリーンベレーの足跡が残っています。最近では、各国の特殊部隊のトレーニングもここで行われているそうです。ちなみにランボーはグリーンベレーの出身で、沈黙の何とかのスティーブン・セガールは、海兵隊の特殊部隊であるレットベレーの出身として設定されているそうです。とにかく、たった12人のAチーム一つで、その破壊能力は、兵隊何百人分にも相当するそうで、ランボーの活躍もあながち嘘とは言えないそうです。

トリイステーションを横目で見ながら、初日、最後の視察場所である嘉手納基地が一望できる、「安保の見える丘」へと私たちは向かいました。この数年で、変に整備をされた安保の丘は、その高台に立つと極東最大のアメリカ空軍の基地である嘉手納基地の内部4分の1ほどが見渡せます。うーんと唸ってしまいます。見渡す限り嘉手納基地です。広すぎて全部は見えないのです。広さにして、東京太田区と同じくらいの大きさといいます。私たちの目の前には、4000メートル級の滑走路2本が堂々と横たわっています。当然、はじは見ることができません。滑走路のわきには、F15をはじめとする戦闘機やRC135、KC130、P3Cなどの後方支援機がずらりと並んでいます。

もともとは、一つの街の中心であったこの地域に巨大な基地が作られたことによって、今では、沖縄市、北谷町、嘉手納町の1市2町
に分割されてしまっています。この巨大な基地の中には、娯楽施設はもとより、生活に必要なあらゆる設備が整い、本国よりも快適に暮らせる環境が整備されていると言います。今現在、この疑似アメリカ空間の中に、軍人ならびにその関係者、約2万人が暮らしているそうです。

夕闇せまる安保の丘、私たちが立ち去ろうとした時、基地の奥にある射撃訓練場からは、兵士が打つ自動小銃の音がポンポンポーンとなり響いてきました。市民が暮らす街の真ん中で、射撃の訓練、それも人を殺すための射撃訓練を行っているわけです。こんな音が、街に響きわたっているうちは本当の平和は、訪れないなと確信しました。夕闇せまる嘉手納の街を今日の宿泊地であるコザに向かい急ぎました。

フィールドワーカーの声
今日の暑さは、かなりこたえました。聖なる水をたたえたヤクルガーの泉から見た海はとてもきれいでした。神々が降りたと言われるこの島は、沖縄の神話の舞台だそうです。セーファーウタキは、その巨大自然石のつくりが立派でしたが、セーファーウタキから見た久高島はウタキの本場のようなたたずまいでした。

                 01年度生 O.T.

ディープ沖縄
賃貸
食べ物以外の物をいろいろと思い出してきました。以前、沖縄に住む場合、その住宅事情はどうかと調べたことがありました。那覇などの物件も東京、神奈川に比べると賃借料はだいぶ廉価です。だいたい、7割ぐらいが相場でしょうか。これは、なかなか安いと思い、不動産屋に話しを聞いてみると難問が存在をしていました。それは、物件を借りるときに、その保証人が沖縄の人でなければいけないということです。つまり、ぽっと来て、気に入ったから直ぐに部屋を借りようとしてもなかなか難しいのです。ある程度、沖縄でのネットワークを作ってからでないと部屋を確保できないのです。当然、就職したり、学校に入ったりしたりした場合は、それが保証人になってくれるので問題はありませんが。


どうしてそうなっているのか、その後、沖縄の知人にたずねましたところ、「沖縄は離島だから、家賃など家賃などを踏み倒して、本州にもどらないようにするための保証だよ」と教えてくれました。

お風呂
次に家の間取りで、気づいたことがありました。それは、ふつうのアパートなどには、バスタブがついていないのです。シャワーオンリーです。どうやら、沖縄の場合は、あまり風呂に浸かるという習慣がないようなのです。それも友人に聞いたところ、「そうさね。暑い時は、直ぐに水のシャワーなどを浴びるから、あまり暑い湯に浸かることはしないね。まあ、冬は浸かりたいときもあるけどね」ということでした。この感覚は、毎年訪れているベトナムでも同じです。南国の場合は、湯に浸かるより、頻繁な水シャワーの方が快適なのかもしれません。水シャワーといっても、朝の段階で、水道は十分に暖まっていて、へたするとお湯よりも暑いときがあるくらいなのですが。

現地レポート−7

今日は、フィールドワーク沖縄2001最後の日になりますので、1日フリーにしまして、那覇の中心地、国際通りを中心に沖縄の特産物などを見て回りました。

それにしても連日暑いです。神奈川の方と何が違うかと言いますと気温そのものはあまり違いがないのですが、日射しの強さが尋常ではありません。日中の2時ぐらいに外に出るのは、よほど注意をしないと歩いているだけで、クラクラして、脱水症状になってしまいます。

帽子は必需品で、こまめに水分を供給しないとダメです。ということで、今日は、国際通り裏にある台湾からの方が多いエリアにある、台湾精進料理をバイキング500円で食べさせてくれる食堂でエネルギーを蓄えた後、ローカルのCDショップで、沖縄インディーズものを確認し、壺屋界隈では、ナイキの靴を見て、百円ショップで沖縄オリジナル日常雑貨に目見張り、裏通りをテクテク歩き、オ
リジナルTシャツ屋により、風水による幸運の黄色のTシャツを探し、沖縄ガラスの有名なギャラリーに立ち寄り、沖縄インディーズものを揃えている中古CDショップも横目で見て、沖縄のおみやげと言えば、誰もが知っているポルシェで、紅イモ関連を購入し、今回の特別グッズである、バイオ風船をバイオギャルからいただき、わしたショップで、つまみ食いをして、あまりの暑さにいつも休憩をする公園脇の南風そよぐカフェを目指したわけです。

そうそう途中、家の親父さんへのおみやげということで、泡盛をみたりもしまして、カフェへとヨタヨタとたどりついたのです。バイオ風船が飛ばないように、カフェのテーブルの下へ隠しておきましたところ、帰り際で、テーブルの下から風船をば取り出しのがマジシャンのよう な動きに見えたらしく、なぜか店内にどよめきが。となりに座っていたオバアは、「あらあら、気をつけないと飛んでいってしまうから、たいへんね」と気を使ってくれ、恐縮しながら店をあとにした私たちは、今、那覇の若者たちに熱い視線を受けている界隈のポップなお店を 訪問したのでしした。

H氏は、SONYのTシャツにおおいに反応し、K氏は、メッシュの蒸れない帽子に動揺したのでした。しかしながら、ギリギリラインで、行動をしている両氏とも、ぐっとこらえ、先へ急いだのでした。そんなこと言っているわりには、スタジオのスポットライトがほしいと言ってK氏は、いきつけの雑貨屋で、銀のライトを買う始末。知らず、知らずのうちに両手にやけに袋を持っている一行でした。

途中、那覇っ子も驚く、強行踏破を試み、直線的に宿泊先へともどってきたのでした。夜は、最後の夜であるということで、しめは、やはり山羊でしょということで、山羊汁を食らいに知る人ぞ知る、ディープな沖縄んローカル食堂へと乱入したのでした。

【6月18日(7)】
どうにも内容が濃くて、現地レポートの方は、1週間も書き続けているのに初日のレポートも終わらない有様です。まあ、それだけ、FW沖縄の内容が濃いということを証明しているわけなのですが、

隠れフィールドワークファンもいたりしますので、当分書き続けます。ご了承ください。

初日の最終地である宿泊場所のコザの街は、今でこそ沖縄市という市になっていますが、やはり地元の人たちの間では、コザと言った方が通りがよい街です。

コザ反米騒動
嘉手納基地の基地前街であるコザの街は、アメリカ軍基地ができる前は、基地も含めた一つの街でした。がしかし、基地ができたことによって、コザの街は、3つに分割を余儀なくされ、その一つの部分が、昔のコザの中心を含めた形で、沖縄市という新しい街を作ったわけです。極東最大の空軍基地の門前街であったコザの街は、60年代後半から70年代前半にかけてベトナム戦争の後方支援基地として機能します。

休暇などで来沖した米兵たちによって、基地の街コザは世界の各地のそうした街同様、にぎわいました。しかし、ながら、そうした戦争への加害者的立場を取らざるを得なかった沖縄の人たちの意識の矛盾は、何度か爆発します。

中でも、復帰前々年の70年の12月に起きたコザの暴動は有名です。米兵による交通事故がきっかけになって起きた暴動は、米軍人の車が約90台焼け打ちにされました。この沖縄の人たちのアメリカ軍占領に対する意志表示は、その後の日本への復帰を早めたとも言われています。

そんな熱いエネルギーを吹き出していたコザの街は、沖縄ロック発祥の地としても有名で、沖縄の音楽シーンのルーツの多くがここコザにあります。コザの夜は眠らないとよく言われましたが、1日中フルに行動をした私たちは、夕飯を取った後、アッと言う間に休眠に入ったのでした。
フィールドワーカーの声
今日の沖縄
特集は、「ハブ」です。

・大きいのは、1.5〜2.0mある。
・春から夏に元気で、マムシのように冬眠はしない。
・1mぐらいジャンプすることもある。
・ハブは接近するもので、自分より高温のものにすすんで攻撃をしかける習性がある。
・夜行性である。
・硫黄が嫌いだそうだ。
「つるの恩返し」ならぬ、「ハブの恩返し」という民話があるそうです。ある日、ある時、ハブを火事から救った女性は、そのハブに、「絶対ハブにかまれない呪文」を教えてもらったという話しでした。

          99年度生 A.I.

ディープ沖縄
今日は、何を話しするかね。食べ物の話しはまだまだあるのだけれど、あえて他の話しをし続けましょう。どうせ、いつかは知らず、知らずのうちに食べ物の話しにもどっていると思いますので。

現在、沖縄には電車はありません。昔、小さな鉄道が走っていた時代があったのですが、アメリカに占領されてからは、車中心の社会になりました。一家に1台以上、免許を持っている人に1台なんて割合で車が普及しています。

そこで、私たち旅人の移動手段は、バスかタクシーかレンタカー何てことになります。自転車では、あまりの暑さで直ぐにバタンキューになってしまいますし、徒歩の場合は、距離にしてせいぜい500m、時間にして7分ほどが限界でしょうか。直ぐに、胸の信号が点滅しだします。確かに、沖縄の人もあまり歩いている人はみかけません。

バス
今、沖縄には、那覇交通、沖縄バス、東陽バス、琉球バスの4社があります。さすが、マイカー時代になったせいか各社とも経営はたいへんらしく、何年か後には、1社に統合されるそうです。とはいうものの庶民の足らしく、本島の隅々までバス路線は、網羅されています。私も路線バスは、よく利用します。バスから見える風景やお客さんたちの会話は、その地でなくては、知るのことのできないローカル情報に満ちあふれています。特に、乗り合って会話を交わす、オバアやオジイとの話しは、沖縄を知るにはなくてはならない大事な要素です。

つい先だっても乗り合わせたオバアたちとIT革命について、会話をしたばかりです。オバアいわく、「IT革命は失敗さ。文字は表意文字でこそ意味があるのだけれど、キーボードで打つとみんな表音文字になってしまって、文字の意味が残らないから、みんな頭が悪くなってしまうさ」と意見されました。恐るべし沖縄んオバアたち。

バスに乗るときバス停で目に付く注意が一つあります。「手をあげなくてもバスは停まります」とバス停にかならず看板が出ています。ということは、みんな手を上げているのか、確かに、細かくバス路線がある沖縄の場合、一つのバス停に何本もの路線バスが停まります。意志表示をしないとバスが通過してしまう不安が残ります。でも、各バスはきちんと停まってくれます。いや、事実は、沖縄のバス、都心部では、わかりませんが、街を外れるとどこでも停まっているようなのです。オバアが自分の家の前で手を上げるとまず、バスは停まります。これはすばらしいサービスです。暑い日射しの中、老人がバス停まで歩くのはたいへんです。そんな人間ぽいサービスを見かけるとうれしくなります。本当はいけないのかもしれませんが。

また、各バスの運転手さんも個性的な人が多いです。長距離路線になると、途中でトイレなどに行く場合があります。すると、バスが急に停まり、「トイレ行ってきましょうね」と運転手さんは独り言のようにつぶやき、用を足しに行きます。残された乗客は一体何がと思うわけなのですが、そのように気をもむのは私たちだけのようです。
バスは、先乗り後払いです。乗る時に整理券をとり、降りるときに払います。千円札までなら機械で両替ができます。時間がある人は、一度はバスの旅をおすすめします。

タクシー
次に紹介をするは、やはり旅人の大きな足の一つであるタクシーです。鉄道などがない沖縄では、本島だけで、5000台近く走っているタクシーは市民の足として、確実に定着しています。ふつう初乗りは、小型車で450円、中型車で460円、さらに個人タクシーの場合は、少々安い設定になっています。東京などに比べると相当リーズナブルです。したがって、一般的によく活用されています。

那覇などの市内の場合は、どんな路地裏でもタクシーは走っていますので、直ぐにつかまります。多くの場合、手を上げなくてもアイコンタクトのみで、スーツとタクシーがよってきます。長距離の場合は、値段交渉ができたりします。外国風ではあります。乗り込むとふつう、サービスの一環としてだと思いますが、クーラーをガンガンに効かせてくれます。「沖縄は暑いでしょ」と言いながら、ここからが、運転手さんの独断場になるケースが多いわけです。観光
案内からはじまって、身の上話しまで、中には政治話しが好きなインテリ運転手さんや、副業で不動産屋や携帯電話屋さんをやっている人まで、長距離の場合は、濃密な時間が過ごせることもあります。最近は無口な運転手さんが多くなりましたけれど。

数年後には、モノレールなどが開通するので、よく運転手さんにモノレールなどが開通したら売り上げに響くでしょとたずねるのですが、皆一様に、「別に大丈夫なんではないですか」と答えが返ってきます。この自信はいったいどこから来るのでしょうか。確かに、沖縄のタクシー会社が倒産をしたという話しは聞いたことがないのであります。

あと、今注目しているタクシーがあります。おそらく白タクなんだと思うのですが、女子高生たちが携帯で、軽トラックの乗り合いタクシーを呼び出している風景に、突然の雨のときなどに出くわします。一体あれは?調べがつき次第、また報告します。

現地レポート−8
今日で、FW沖縄2001は終了になります。参加者たちは三々五々、家へと帰っていきました。

みんなの顔も日焼けと暑さのせいか引き締まって見え、たくましくなったように見えます。今年も沖縄は、例年にもまして、私たちに次なる課題とエネルギーを分け与えてくれたようです。

報告をしていない日の分のリポート、このあとも引き続き掲載していきますので、おつきあいのほどよろしくお願いいたします。

【現地報告6月19日】
今日から3日間は自由行動になります。各自の興味や学習対象をもとにして行動の予定を立て活動をしました。

ヤンバルクイナ≠がんばる食いな(沖縄の新聞広告)
私が行動をともにしたグループは、ヤンバルクイナを見に行く作戦を企てました。国の天然記念物に指定をされているヤンバルクイナは、沖縄本島の北部に生息をする貴重な鳥です。そう簡単には、見ることができない鳥なのです。いろいろ調べた結果、本島中北部の街である名護市の郊外にある名護ネオパークオキナワという自然動植物公園にヤンバルクイナがいるらしいということがわかりました。

さっそく私たちは、名護行きのバスに乗り込みました。本島北部の中心的な街である名護は、北部観光への拠点でもあります。また、沖縄ならではの民芸や特産物を多く輩出し、琉球の歴史と文化を色濃く残した地でもあります。最近では、昨年のサミット会場であったり、普天間基地の移設問題で揺れる辺野古が所属をしている市でもあります。

バスは、コザの街を過ぎると石川、宜野座、辺野古と通り、アメリカ軍訓練地域を横切って、東シナ海側に出ます。本部半島の付け根に位置する名護市には、コザを出て約1時間半で着きました。名護のバスセンターからタクシーに乗り、ほんの10分ぐらいのところ
 
にネオパークオキナワはありました。途中、タクシーの運転手さんとの会話の中で、「ヤンバルクイナを見に来ました」と言ったところ、「ネオパークにヤンバルクイナいたかね?」と衝撃的な情報を得、一抹の不安を胸にパークの正面玄関に立ったのでした。

いくつかのコースに分かれている園内を、ヤンバルクイナが見られると思われるコースを探すのでありますが、やはり、どこを見ても看板にヤンバルクイナという文字がないのです。貴重な動植物という説明はあっても、ヤンバルクイナという文字はどこにも・・・。不安は頂点になりながらも遭遇する可能性が高いと思われた、ドキドキコースを選び、足を進めました。

園内は思った以上におもしろく、かごの中にも外にも猿がいたりして、一体どこからが境なのかわからない作りになっていまして、飛ぶ鳥もよく見るとカラスのようでカラスでない鳥だとか、鯉のようで鯉でない魚だとかが行き交っており、この自然さというか計算された!?放 任さが、いけてました。

フラミンゴや猿やロバなどを見ながら、歩みを進めた私たちの前についに問題の場所が姿をあらわしました。ヤンバルクイナがいると思われる小屋が。手書きの看板には、手書きのヤンバルクイナと思われる絵が書いてあり、「飛べないヤンバルクイナは、道路を渡っているときなどに交通事故に合い、怪我をしたときのみ、ここで保護をされ治療をされます」とある。そう、天然記念物だから、当然捕獲することは許されず、治療のときのみここ来るらしいのです。

いるのかヤンバルクイナ!!!!金網で仕切られた小屋の中、どこを見ても鳥らしきものはいない。ダメか!タクシーの運ちゃんが言ったことは本当だったのか。暗闇に目こらす。岩の影に何らやら小さい黒い影が、チャボを一回り小さくしたような、小柄な鳥がいるではないか。ああ、幻のヤンバルクイナ、彼なのか彼女なのかよくはわからないが、ともかく、いた!天然記念物ヤンバルクイナ。

食い入るように見てみた。

思った以上に弱々しい、他の獣に狙われて、直ぐに絶滅したとしてもおかしくない弱々しさ、いつまでも生きながらえてほしいと念ぜるにはいられなかった。

園の外に出ると園の境目から逃げ出した鴨が日向ぼっこしていました。

ブラジル食堂
ヤンバルクイナを目撃できた私たちは、意気揚々と名護で有名な食堂であるブラジル食堂へと乗り込みました。戦後、アメリカ軍の基地により生活の場を失った沖縄の多くの人が、海外移住という道を選択しました。南米にも多くの沖縄の人たちが渡ったといいます。そんな移民先の一つであるブラジルから帰国をした方が、開いた食堂、それがこのブラジル食堂なのです。ブラジルの国旗の真ん中が、沖縄そばになっている食堂旗をくぐり、食堂に入りました。

いくつかあるブラジル料理の中から、ガリンニャアサードなるチキン料理とフェイジョアーダなる豆料理をオーダーしました。スパイシーな味のガリンニャアサード、小豆と牛肉を煮込んだフェイジョアーダともに南米の大地の臭いがつまった天然素材の味がしました。

その後、またバスに乗り込み、コザを経由して、今日の宿泊先である那覇まで一気に南下をしました。

フィールドワーカーの声
ネオパーク沖縄

名護自然動植物公園はいろいろな動物がいた。それも目の前でフラミンゴ等の鳥類を見ることができた。ヤンバル野生鳥獣保護センターも公園内にあり、めったに見られないヤンバルクイナも目にすることができた。他にもカラスバト、アカヒゲ、コノハズク、サシバ
なども飼われている。
            99年度生 H.T.

全体としておもしろかった。これだけ放し飼いに近い状態の動物園はなかなかないと思う。そういう意味では、珍しい動物を見ることができたと同時に貴重な体験だった。天然記念物のヤンバルクイナが事故にあうとは、もっと大切にしなくてはいけないのではないかと思った。

フェイジョアーダ
私が頼んだフェイジョアーダは、豆と牛肉を煮込んだものをご飯にかけて食べるというものだった。薄味だったが、ブラジルのような暑い所では、薄味の方が暑苦しくなくてよいのかしら。
            99年度生 I.A.


ディープ沖縄
地名
沖縄でバスやタクシーに乗ると最初に困ることは、地名です。何と読んだらよいかわからないのです。さらに似たような呼び方の場所があったりして、気がついたら全然違う場所に来ていたなんてこともあったりします。

(南部) 南風原 具志頭 与那原 糸満
(中部) 具志川 金武 北谷 中城
(北部) 本部 大宜味 今帰仁 国頭

いくつ読めました?順に、はえばる、ぐしちゃん、よなばる、いとまん、ぐしかわ、きん、ちゃたん、なかぐすく、もとぶ、おおぎみ、なきじん、くにがみ、ってな具合です。ここらへんまでは、どうにか法則性らしいものがありまして、例えば、原であれば、バルと読むらしいとか、城はグスクと読むとかわかるわけですが、仲村渠、慶佐次、勢理客などは、予想をだつかずということで、タクシーなどの場合、外国のように紙に書いて見せるはめになるわけです。ちなみに、上の3つは、順に、なかんだかり、げさし、じっちゃくと読みます。

現地レポート−9
【6月20日】
渡嘉敷島
ヤンバルクイナを見て感激をしたあと、那覇に本拠地を移し自由行動の2日目です。前夜、皆で検討をした結果、前半で帰京する人もいるので、沖縄に来たからには、海、それも離島を見ておこうということになりました。そこで、1日で行ってこられる離島をいくつか調べ、本島から船で約1時間ちょっとの所にある渡嘉敷島に行くことに決定しました。

朝、渡嘉敷島まで行く高速船に乗ろうと、那覇泊港へ行くと、残念なことに高速船は、整備のため運休中で、ゆっくりのフェリーしか出ていませんでした。でもフェリーでも1時間少々なので、やはり渡嘉敷島へ行くことにし、港の食堂で朝御飯を食べた後、渡嘉敷島行きのフェリーに乗船をしたのでした。

船には、夏の研修か何かで島を訪れる、近隣の小学生や沖縄水産高校の高校生たちが乗っていました。那覇のレインボーブリッチと言われる泊大橋を船はくぐり、一路東シナ海に浮かぶ渡嘉敷島へ向かったのです。

曇りだった天気も徐々に晴れてき泳ぐには絶好の日よりになってきました。最初のうちは大騒ぎをしていた小学生たちも大海原のうねりの中に沈没し、ゲロゲロ大合戦となっていったのです。

ここ渡嘉敷島では、沖縄戦のとき大きな犠牲を強いられた歴史が残っています。日本軍の予想を裏切って最初に上陸作戦をここ慶良間諸島で行った米軍に島全体が包囲され、逃げ場を失った多くの島民が、軍の指導のもと集団自決を行ったのです。その時の犠牲者の数、325名、手流弾や鍬やこん棒を使っての自決は、悲惨をきわめ、まさに地獄絵を展開したそうです。また、当時、強制連行でかり出された朝鮮の方が島には300名近くいたそうですが、彼らの消息は一切不明のままだそうです。
そんな慶良間諸島渡嘉敷島ではありますが、今では海の透明度のよさからダイビングのメッカとして日本だけでなく海外にまでその名を広めています。また、最近では、クジラの通り道として、ホエールズウオッチングのスポットとしても有名になってきています。

ちょっとしたクルーズを楽しんだ私たちを乗せたフェリーボートは静かに渡嘉敷新港に着岸しました。下船する直ぐに各ビーチから迎えのマイクロバスが来ています。帰りのことを考えて、港の近くにあるトカシクビーチに向かいました。ビーチに隣接をした所にシャワーやトイレはありますが、白いビーチそのものには、何もなく小高い山々に囲まれた小さなビーチはまさにプライベートビーチそのものです。

ビーチの前は、まるで海峡のように濃い青色の海が横たわりその向こうには、慶良間の他の島々が箱庭のように連なっています。砂浜は白く輝き、海はどこまでも青く透明です。こんな別天地に忌まわしい過去は本当に似合いません。もうすっかり晴れ上がった空のもと、各自、思い思いにビーチライフを満喫したのでした。

フィールドワーカーの声
トカシクビーチ
トカシクビーチで泳いだ。熱帯魚を見ながら泳ぐのは初めてだったので、いい体験をしたと思う。目的があって泳ぐのは楽しい。大きな珊瑚礁のまわりには、魚が集まっており、それをさがしながら観察をした。FW中にまた海で泳ぎたい。今度、魚を見るときはその種類なども調べてみたい。
                      A.

トカシクビーチは、波がとても穏やかで、静かで、とても泳ぎやすかった。底が透けて見えるほど海水が綺麗だった。砂浜の砂は、真っ白かった。ゴミなどもまったく落ちていなかった。とてもきれいだった。
                      H.
海がとても澄んでいて綺麗でした。海底には珊瑚があって足がいたいです。砂浜は真っ白で湘南の海とはぜんぜん違っていました。波打ち際には、珍しい珊瑚のかけらがたくさん落ちていました。日射しは強く、すぐに日に焼けてしまいます。恐ろしいくらいの強さです。
                      O.

ディープ沖縄
亀甲墓
バスや車で沖縄を移動していると、こんもりとした丘の中腹などに大きな亀の甲羅のような形をしたコンクリートの壁が見られます。これが、有名な亀甲墓と呼ばれる沖縄独特のお墓です。この形態は、日本では珍しいですが、アジアの他の国々では、似たような形式を見ることができます。一族郎党が入るお墓だけにとても大きなものになります。その昔は、風葬後、洗骨し琉球焼きの立派な骨壺に骨を納め、この墓の中に入れたそうです。

毎年、4月頃に沖縄に来ますとこのお墓の前で、シーミー祭(清明祭)と呼ばれる供養が行われているところに出くわします。お墓の掃除などをした後、お墓の前で一族郎党が集まって、にぎやかに先祖供養をする様子は、忘れてしまった日本の古きよき文化を思いおこさずにはいられません。

ちなみにこの亀甲墓のモデルは女性の子宮であると言われています。人間が生まれ、そして帰っていくところという意味が込められているそうです。
現地レポート−10
【6月21日(1)】
前半の自由行動最終日の今日は、那覇の周辺を中心にフィールドワークしました。

首里城
この日、沖縄地方は梅雨が開け、夏の強烈な日射しが射し込み、突き抜けるような青空が広がりました。私たちが最初に向かったのは、首里城周辺です。世界遺産のと書きたいところですが、最近の修復である首里城そのものは世界遺産ではありません、その遺構と周辺は世界遺産です。

ともかく現代復元の首里城へと向かいました。2000円札にもなり、有名になった守礼門をくぐり、城内へと足を踏み入れます。琉球王国のシンボルである首里城の歴史はある意味、琉球の歴史と言ってもよいかもしれません。特に、日本に併合されてからの首里城の経験は、痛みの多い経験であったに違いありません。

中でも、太平洋戦争下、軍の本部が置かれた関係で、連合軍からの徹底的な攻撃を受け、かろうじて残されていた、貴重な文化財が跡形もなくなってしまいました。城壁以外なくなってしまった首里城、元のままの形に復元をすることはたいへんな困難さをともない、最近の解釈で復元されたところも多くあります。

唯一、当時の面影を残し復元された城壁は、それを見るだけでも十分な価値があります。日本の城には珍しく、曲線を基調にしたつくりは、あのガウディのような暖かみを感じさせます。デザインとしての優秀さだけではなく、城としての大きさを誇張する細工などが至るところにほどこされており、琉球王国の建築者たちの技術水準の高さを感じさせます。


1992年に復元をされた正殿は、中国の紫禁城をモデルにした作りと言われています。当然、スケールはだいぶ小さなものですが、その広場に城関係者が一同に会したときは、盛大なもであったに違いありません。復元された正殿ならびにその回りには資料館も作られ、王朝時代の様子を思い起こすことができるようになっています。

那覇の街を一望できる城は、まさに琉球王国の頂点を意味していたように思います。思った以上に琉球王国の階級的なものははっきりしていたようで、首里城を中心とする一帯は、古くからの貴族たちの住居地区だったそうです。

玉陵
首里城を見た私たちが次に向かったのは、これも世界遺産の一つである王家の墓である玉陵(たまうどぅん)です。どうやら観光コースからは外れているようで、見学者は、私たちだけでした。石づくりの大きなお墓は、どことはなしにエジプトを思いださせます。行ったことは ありませんが。石の白と天を支えるシーサ、そういえばエジプトにもスフィンクスがいた。真っ青な空、傍らで花を咲かせるハイビスカス。一つ一つのパーツが絶妙なバランスでミックスされている南国の風景は、私たちを異次元空間に連れてきたようでした。
金城石畳
お墓を出た私たちは、首里城の南側に残る金城の石畳に行きました。沖縄戦のとき、ちょうど艦砲射撃の裏側に位置したこの一帯は、破壊を免れ、戦前の沖縄の風情を残した石畳があります。城から道なりに下ってきます。赤瓦の塀や南国特有の木々に囲まれたこの道は、まるでタイムトンネルのようです。坂を駆け上がってくる風も心なしか、昔の臭いをそのまま受け継いでいるかのようです。途中、キジムナーが住んでいそうな大きい古木などを横目で見ながら、石畳の終点というか起点にあるそば屋で休憩し昼食をとりました。メニューはもちろん沖縄そばです。

その後は、沖縄の焼き物の中心地であった壺屋界隈へと足を運んだのです。

フィールドワーカーの声
首里城
中途半端な印象を受けた。博物館の要素と建築としての要素が同時に扱われているので、どちらも集中して見ることができなかった。私としては建築としての首里城をじっくりと見てみたかった。しかし、それにしてもほとんどの部分が、少ない資料をもとに予測で復元をされたもので、しかも鉄筋コンクリートまで使用しているのは残念だった。
                     H.

沖縄は琉球だったんだなと思った。
首里城も石畳から見える風景も中国と日本の影響を受けた、それとは違った南国のそれだった。
                     A.


金城石畳
石畳は急だったが、途中で見え街並みとかは、写真撮影には絶好のポイントだった。
                     T.

ディープ沖縄
このリポートもだいぶ佳境に入ってきました。当初、食べ物だけの話しに終始するのかと危惧しておりましたが、思った以上に街の様子に耳と目を傾けていた私がいてホッとしております。

ユタ
さて、今日は、今日のお昼に隣の席で話しをしていたご婦人の会話が耳に入ってしまったことからです。その話しの内容は、「私の家族の調子が悪かったときにみてもらったいいユタがいるさ」「みてもらったおかげで、だいぶ家の中がおちついたさ」。こう言った話しは何気ない街の会話の中で、何度か耳にしました。

「ユタ」って、一体何なのさ?!
沖縄には、「ユタ」と呼ばれる霊能力者がいます。彼らは、幼いころからそういった能力を持っていたり、何かのきっかけで後にそういった能力が備わったりした人たちです。

病院や科学的な説明ができないことなどが起きたときに、「ユタ」の所に行って相談をするわけです。すると彼らは、「病気が直らないのは、先祖に無礼をはたらいているからだ」とか、「家の建っている場所がよくない」だとか助言をするのです。

毎年、沖縄のどこかで悪徳ユタに引っかかって、大金を取られたという話しが流れます。そのように一つ間違えれば、霊感商法のようになってしまうのですが、中には、本当にそういった力がある人もいるらしいのです。今風に言えば、カウンセラーではないかと思いますが、一度、本物の方にお目にかかってみたいと思っています。そういえば、「ユタ」って女性ばかりのような気がする。男性の「ユタ」っていないのかな。
現地レポート−11
【6月21日(2)】
壺屋
首里城周辺から壺屋界隈までもどってきました。
壺屋は、那覇の中心部にあるその昔陶器の街として栄えたところです。琉球王朝時代、当時、本島のいくつかの場所で、陶器は作られていました。そのいくつかの窯場をここ壺屋に統合しました。なぜ統合したかは詳しい理由はわかっていません。おそらく、産業的にも日常生活用品としても価値があった陶器を王朝の管理下に置こうとしたからであると考えられています。

琉球陶器の歴史は、もともとは土器を中心とした素焼きのものが中心でした。その後、琉球王朝がヤマトの方から日本に帰化した朝鮮の陶工を招聘したり、当時交流のあった安南や中国の技法を取り入れることによって、釉薬を使ったいわゆる上焼などもできるようになっていきます。

釉薬をあまり使わずに素焼きに近い形で焼き締める荒焼は、本来は安南(ベトナム)で使われていた魚醤(ヌックマム)を入れる壺が、琉球に渡ってきて泡盛を入れる壺となり定着をしたものであると言われています。

明治時代から近代になりますとヤマトで重宝がられている瀬戸焼きのようなものが中心に焼かれるようになり、さかんにヤマトの方に出荷されたと言われています。戦後は、沖縄の中でいち早く、この壺屋の街を中心にして焼き物産業が立ち上がり、さかんに生活雑器が焼かれるようになったそうです。

高度成長時代を迎え、那覇の中心部にあるここ壺屋では、登り窯などの煙害などがただされ、70年代に入ると多くの陶工が読谷など各地に散らばりました。今では、ガス窯、電気窯での作陶を中心とした窯元が残っています。しかしながら、ここ壺屋は、沖縄における焼き物(ヤチムン)の発祥の地であることに間違えなく、その歴史の証人としての地位は揺るがないものがあります。

しかしながら、その歴史からもわかるように沖縄独自の焼き物というか、琉球独自の技法や表現があったのはある意味、明治以前までと言われ、その後は、特にヤマトの影響を強く受けてしまっています。それだけに、今沖縄の中では、今一度、沖縄ならではの技法を見直そうという声が上がってきています。

現在、壺屋の街自体は、新しくできた焼き物博物館を中心にして、窯元や焼き物屋さんなどが軒を連ね散歩をしたり焼き物ショッピングをしたりするのにとてもよい場所となっています。

その壺屋の焼き物街を私たちは、東口の大きなカジュマルの木があるところから探索を開始しました。石畳の道少しいくと、右の裏手の方に一番最後まで使われていた北窯の登り窯を見ることができます。シーサーなどが埋め込まれた塀に囲まれた林の中に上焼を中心に焼かれていた北窯はあります。仕事を終えて隠居をしているご老 公の風情があります。

さらに通りを歩いていきます。様々な焼き物屋さんがあります。どのお店もその店独自のコンセプトで品物を揃えていて、街全体が一つの焼き物博物館になっているようです。通りの中ほどを過ぎた右側には、今度は荒焼を中心に焼いていたという南窯の跡を見ることができます。南窯の登り窯の上では、黒猫たちが、大きなあくびをして、時の流れの中にまどろんでいました。焼いた焼き物の破片が周囲には散乱をし、回りの木々の間からは、当時の陶工たちの声がこだましているようです。

南窯を出てさらに歩いていくと壺屋の街が終わらんとしている右側に、その昔の窯があった跡地に那覇市立の壺屋博物館が建っています。斜面の土地をうまく使ったコンクリートの打ちっ放しの建物は、シックでとてもおしゃれです。館内では、琉球の焼き物の歴史や昔の壺屋の様子を展示物やスライドで説明をしています。とてもわかりやすく、壺屋を訪れる度に私は、入って勉強をさせてもらっています。館内に常駐している学芸員の方もとても親切で、焼き物に関する質問を丁寧に答えてくれるのも魅力です。
博物館を出て、少し行きますと壺屋の通りも終わりになります。那覇の胃袋、雑貨のメッカである公設市場周辺を探索した後、各自宿舎にもどりました。

フィールドワーカーの声
壺屋
昔の沖縄の焼き物は、洗練されているように思える。特に呉酢須を使った上焼の色合いはすばらしいと思う。ある意味チャンプルーの思想なのかもしれないが、新しい手法が導入されるにしたがい美しさが違う次元に移行していったような気がする。それがよいことなのか悪いことなのかはわからないが、それが沖縄という場所なのかもしれない。博物館の中でのスライドにおけるシーサー職人のコメントが印象的だった。シーサーは職人によって表情が違うということを語っていた。自分も独自のシーサーを作りたいと言っていた。沖縄の焼き物職人は、芸術家と言った方がよいのかもしれない。
                  H.

ディープ沖縄
昨日は、ユタの話しをしましたので、今日は風水について少々話しをしたいと思います。

風水
琉球はその歴史からもよくわかるように古くから中国の影響を強く受けています。中国との国交が成立しますと中国ある技術や文化をすすんで取り入れようとします。那覇にある久米という場所は、古くから中国から帰化した人たちが住む町として知られています。このように様々な中国文化の影響力の一つに風水というものがあります。

琉球王朝の歴史の中にも、18世紀、中国に留学をしていた琉球の役人の一人である蔡温が風水の知識を得て帰国し、土地政策に活用したと記されているそうです。首都である那覇の街を歩くといたるところで、そうした考えが反映した場所に出会う、鬼門である場所には、大きな天然の石が鎮座をしてあり、祀られていたり、昔の水はけの悪いところには、街がなかったりする。

さらに、こうした風水の考えが一般の家にも反映をしている場合も多い、古い琉球の家では、一番座になる床の間は、東か南に向けて太陽がよく入る明るい部屋にすることだとか、便所や台所は、家の後ろ側となる北西に小さく作るとかという条件があるそうだ。

こうした風水の考えは、よく見れば、現在の科学的な考えと一致するものが多い。より快適に暮らすために当時の人たちは、こうした法則を風水という条件で一般化したのかもしれない。

現地レポート−12
【6月22日(1)】
フィールドワーク沖縄ベーシック後半の山場である南部戦跡ツアーです。初日のツアーが現在の沖縄だとすれば、今日のツアーは過去の沖縄と対じをするためのものです。過去といっても沖縄戦当時です。今日のコースは、浦添城趾(前田高地)→ガラビ壕→韓国人慰霊塔→平和祈念資料館→平和の礎→ひめゆり平和祈念資料館→魂魄の塔→米須海岸というコースです。このコースは、沖縄本島に上陸をしたアメリカ軍が北と南への二手に分かれ、南にある日本軍の本部である首里城を攻略すべく進軍したコースと一致します。結果的には、首里城本部の陥落で戦争は終わらず、多くの民間人を巻き添えにしながら、日本軍は、最南端の摩文仁まで逃げるわけです。したがって、コースは、追う米軍、敗走する日本軍、逃げまどう民衆とが交錯する1945年の歴史のコースでもあるのです。

前田高地(浦添城趾)
宿舎を出発した私たちが最初に向かったは、浦添城の跡、その昔、前田高地と呼ばれていた場所です。米軍が上陸した読谷の浜と日本軍の本部があった首里との間に挟まれた、両側を屏風のような崖で切り取られたこの小高い丘は、まさに沖縄戦前半の状勢の優越を決める防御戦としての最大の攻防地でした。
前田高地から米軍の上陸地点側を見ますと海岸と高地との間にもう一つ、小高い丘があります。ここは嘉数の丘と呼ばれる高台です。上陸時には、大きな抵抗もなかった米軍も上陸後初の日本軍から総攻撃を受けます。米軍は得意の機械化部隊や物量にものを言わせた攻撃をしかけますが、夜襲などゲリラ戦に徹した日本軍にかなりてこずります。海岸から嘉数の丘までのラインの中で、米軍は、米軍の戦闘史上最大の損害を受けます。進軍をしていた戦車30台のうち22台を失います。ここでの戦闘では、米軍も1日100メートル進むのがやっとだったそうです。それでも嘉数の丘を攻略した米軍は次に前田高地へと攻め入ってきました。この前田高地のラインは、まさに首里の本部の最終防御ラインだったのです。前田高地の争奪における戦いで、日本軍側は、約6万4千名が戦死をし、アメリカ軍側は、2万6千名の死傷者を出しました。特に日本側は、当時持っていた主力部隊の8割をここで失いました。

そういう意味では、この時点においてもう既に沖縄戦の勝敗は決したといってもよかったわけです。むしろ、ここで、日本軍側が敗戦を認めていれば、この後に起きる民間人を巻き込んだ戦闘は起きなかったかもしれません。しかしながら、日本軍(皇軍)側は、天皇の疎開予定地である松代本営の工事が遅れていることもあり、南進をして時間かせぎする方向を選択します。かくして、日本軍は沖縄の民衆を巻き込んだ泥沼の戦いへと駒をすすめていくことになるのです。

この嘉数の丘における攻防戦において、戦闘に巻き込まれた嘉数部落の住民は、695名の住民のうち374名が戦死、一家全滅した家は、162戸数のうち54戸ののぼったと言われています。

私たちは、そのまさに米軍が進軍をしていった道と日本軍と沖縄民衆が撤退、避難をしていった道に沿いながら、首里を経由して南下をしていきました。

ガラビ壕
1945年4月の中旬になるとあちらこちらの戦闘が激しくなり、負傷兵の数も次第に多くなってきました。東風平村にあった野戦病院の本部も増加した負傷兵を本部の壕だけでは収容しきれなくなり、南部のいくかの自然壕などに分院を作りました。その一つが、具志頭村新城の南にある大きな鍾乳洞に作られた山部隊(第24師団)の野戦病院でした。この自然壕は、全長500メートルほどあり、東側をガラビガマ、西側をヌヌマチガマと呼んでいます。

このガラビ壕を私たちは、西側から東側にぬけます。ヌヌマチガマ側の入り口は、さとうきび畑の中程にポッカリと口を開けています。入り口から急な斜面を下り降りるとそこには、小さなホールがあります。入り口近くのこのホールには、多くの住民が避難していたそうです。残念ながらより安全な奥には住民は入ることができなかったわけです。しかし、安全なはずなガマの奥では、生き地獄のような光景が展開されていたそうです。続々と送りこまれてきた負傷兵は1000人近くにおよび、そうした多くの重症患者たちを動員された白梅学徒の女子高生をはじめとするわずかな数の衛生兵と医師でその面倒をみたそうです。入り口近くの手術室、室と言っても洞穴ですが、そこで処置を受けた患者たちは、担架で奥の病室相当の場所へと搬入されました。
担架で!?どこに、担架が通れるだけの通路があるでしょうか。あるのは、頭を低く下げた中腰の姿勢でないと前に行くことのできない迷路のような穴があるだけです。さらに病室部分、ベッドなどあろうはすもありません。当時は藁のようなものを引いただけだったそうです。あるのは、深淵な暗やみだけでした。後に生き残った方の証言で、「むしろ、暗やみだったからよかった。あの惨事をもし見ていたら正常ではいられなかったに違いない」と言っておられます。

ガラビ壕での惨劇はさらにつづきます。45年6月3日、敵が目前に迫ったということで、分院の解散命令が出されます。突然の解散命令です。特に学徒動員で来ていた女子学生たちは、鉄の暴風雨と呼ばれる砲撃吹きすさぶ中へ放りなげ出されたのです。また、収容されていた兵士たちのうち歩行不可能な兵士約500名に対しては、処置として青酸カリ注射が施されます。しかしながら、致死量に達せず、うめき苦しむ多くの兵を友軍みずからの手で処置をしていったそうです。

ちょうど中ほどのホールで、ライトの灯りを消します。まったくの闇の世界、時折響く水滴の音、当時は、この闇の世界の中にうめき声と悪臭がたちこめていたのだと思います。私は、毎年、この場所に立っているわけなのですが、来る度にこの1年間で忘れてしまったもの、流されてしまったものを思い起こさせてくれます。不思議と恐怖はあまりありません。沖縄のガマに入るといつも思うのですが、また今年も来てくれましたかと言っているように感じます。50数年前に明らかにここであった出来事、確かに、恨み辛み悔恨、懺悔などなど様々な思いが沈積している場ではあります。でも、そこに立つとき、明らかに自分の心の中に甦る感覚は、人としての原点です。根っこの部分です。決して忘れてはいけないことであると思うのです。幸いなことに、日本という国は、戦後60年近く、こうした戦いを国内はもとより国外でもしていません。この経験は、地球において貴重な経験であると私は思うのです。この精神を維持をするための行動と意志を失ってはいけないと肝に銘ずるのでした。

ガラビガマ側の出口が近くなってくると岩の天井から一筋に光りが射し込んできます。今まで体を覆っていた湿った陰湿な空気は、軽やかで新鮮な空気へと変わってきます。空と海の青さ、山の緑の深さを見たとき胸いっぱいの深呼吸をしないわけにはいられませんでした。




フィールドワーカーの声
皇軍は自分たちの機能を守ることだけしか考えていなかったのがよくわかります。ガマは、広い場所があって、そこに病人が置かれたわけだけど、大した治療も受けることができなかったそうです。このガマが占領されそうな頃、味方によって、病人たちが殺されたそうです。上からの命令だから、みんな言いなりになったそうです。悪いことには反対をして、うそを見抜く力は必要だなと思いました。
                      O.

ついにガマに入った。アウシュビッツ強制収容所を見学したときは、僕は考えてしまって、感じることが後まわしなってしまったけれど、今回は少し違った。僕は、想像力に少し頼りつつも、当時の様子を遠くから見ることができたような気がしている。この心境の違いは、おそらく、僕が沖縄戦について知らなさすぎることが関連しているのだと思う。自分の国のことなのに。
                      H.

ディープ沖縄
ウチナーグチ
今日は、沖縄の言葉について、少し話しをしましょう。一言で沖縄語、琉球言葉と言っても島や地域によって、また時代などによってもだいぶ違うようです。離島などに行き、オバアやオジイの話しを聞いていると数字以外はまるで何を言っているのかわからないことはままあります。なさけないことに訳してもらわないと皆目見当がつかないのです。
だからと言って琉球言葉が日本語でないかというとそうではないのです。むしろ、日本語のルーツを正しく引き継いだ正調日本語ということができると思います。本州の場合は、途中でいろいろな言葉が交じって、どんどん元々の形が失われていったと考えるられるからです。

沖縄の言葉を、「ウチナーグチ」といい、本州の言葉を、「ヤマトグチ」といいます。ウチナーグチには、悲しい歴史があります。一時、皇民化、東京化教育の犠牲で、ウチナーグチをしゃべってはいけないなんて、ナンセンスな時期がありました。言葉はやはり文化です。自分の国の言葉を失った民族は、自分たちの文化を失うことになります。このことは、世界の歴史が証明していると言えるでしょう。今では、琉球言葉も、文化として意義がだいぶ理解されてきて、残していこうという意識が根付いているように思います。年に一度開催される、「ウチナーグチスピーチコンテスト」確か、そんな名称だったような。などの盛り上がりを見ていると頼もしいかぎりです。

まあ、最近では、やはり正調の琉球言葉を話せる人は少なくなってきていて、いわゆる東京語とミックスをしたような感じで、若者などは使っています。例えば、ちょっと無理矢理会話ですが。
「あそこに、ともだちが2名いたよ」
「あがー、先に帰ったのか。いっしょに帰ると言っていたのに、デージ、ワジワジーする」
「もう、絶交だ」
「ヤー、真剣か?」
「ドゥー」
「メッタシカマス」
「とりあえず、いっしょに帰りましょうね」
なんて、かなり無理がある会話ですが、こんな雰囲気です。

簡単な会話その1
いらっしゃいませ→メンソーレー
ありがたい→ウーグトウ
雨が降りそうですね→アミガフィギサーヤィビーンヤー
遊びにいらっしゃいね→アシビーガクーヨー
いい加減→テーゲエ

思いやりの心→キムナサキ
おいしい→マーサン
おしゃべり→ユンタク
気をつけてね→チーチキリョー
さとうきび→ウージ
承知しました→ユタサンビーン
それでは失礼します→アンセーグブリーサビラ

まだまだありますが、とりあえずこのへんで。

現地レポート−13

【6月22日(2)】
韓国人慰霊塔
ガラビ壕を見た後、昼食をとり午後の最初に訪れた場所は、摩文仁の丘、平和祈念公園のとなりにある、「韓国人慰霊塔」です。円墳の形をした、この韓国人慰霊塔では、いろいろなことを考えさせられます。一つは、この慰霊塔がある場所です。新しい平和祈念資料館が目の前に建ったにも関わらず、ここの敷地はいまだ公園外にあるようです。そして2つめは、入り口のところに建っている石碑の向きです。正面が入り口なのに石碑は正面を向いていません。最後に慰霊塔手前にある慰霊文です。「1941年、太平洋戦争が勃発するや多くの韓国青年たちは日本の強制的徴募により大陸や南洋の各戦線に配置された。この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された一万余名があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは戦死、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった」と刻まれています。この文の中にははっきりと、「虐殺」、「犠牲」という言葉が刻み込まれています。こと沖縄戦などのことを考えるとどうしても大衆としては被害者という意識が強くなってしまいます。でも、この場所に来る度に再確認できることは、日本人として加害者であったという側面も忘れてはいけないと思い起こさせてくれることです。
 沖縄県立平和祈念資料館
次に私たちは目の前にある沖縄県立平和祈念資料館へと向かいました。2000年4月に新しく建て替えられた資料館は、たいへん立派な新館になりました。本来の構想では、前太田知事の時代、「平和の礎」「資料館」「国際平和研究所」という3つの施設が一体をなし、平和の発信地として機能させるというものでした。しかし、県政が変わり、その構想は中座しています。ということで、新しい資料館は、その前にある、「平和の礎」とともに連動して意義をなすものであったのです。そもそも、旧資料館からの理念として、この資料館は、何も郷土を紹介するような郷土資料館的な意味を持つものではなく、あくまでも平和の意志を伝え広めていくためのものだったのです。特に新館の意義は、その対になっている、「平和の礎」のバックボーンとしての沖縄の意義を再確認するためものであったわけです。はたして、本来の意義を伝え機能している施設となっているでしょうか。まあ、その構想を練った組長が変わってしまったわけですから、主旨が変更されてもしかたがないと言えば、しかたがないわけですが。その点、むしろ旧資料館の方が、観た後にずっしりとしたものが残ったように感じたのは私だけでしょうか。せっかくの沖縄の財産を生かしきっていないことに少々歯がゆさを感じました。


平和の礎(いしじ)
資料館を出るとその前には、「平和の礎」と呼ばれる石碑群が広がっています。海に面した広場の中心に燃える、「平和の火」を扇型の要として、その石碑群が水面に波紋を広げたような形で立てられています。「平和の礎」の基本理念は、@戦没者の追悼と平和祈念、A戦争体験の教訓と継承、B安らぎと学びの場となっています。そして、その石碑には、沖縄戦で亡くなったすべての人びとの氏名を刻んでいこうとしています。2000年6月23日現在で、その数は237,969名となっています。

平和の礎で印象深いことは、各国の犠牲者の氏名が並んでいるなか、韓国・朝鮮の方々の氏名が少ないことです。韓国人慰霊塔の文からもわかるように1万人以上の方々が亡くなっているにも関わらず、石碑に残されている数は、345名です。それだけ行方不明の方が多いということと日本軍関係者といっしょにならぶことをよしとしないということが原因なのかもしれません。そして、その大部分の氏名をしめている沖縄県の方々の部分です。沖縄戦において、一家が全滅してしまった方々や逃避行の最中に亡くなってどこで亡くなったかわからない方々の関係者の方々にとっては、この礎が墓標の代わりとなっているのです。一家が全滅してしまった家族の方の氏名の場合、特に幼い子どもたちは、その家族にいたことはわかっていても愛称で呼ばれていたりして、本名がわからないまま、愛称で記されていたりします。簡単に犠牲者何十万人という言い方をよくしますが、年々、その数を増やしている礎の人々の数は膨大で、これだけの人たちの人生や生活が戦争によって失われたのかと思うと複雑な気持ちが去来します。人類がやってはいけない最大の行為であると認識を新たにします。こうした気持ちになることを目的とした場所だけに、構想通り全ての施設が機能することを願うばかりです。

フィールドワーカーの声
今日はツアーに参加をしました。コースは昨年とだいたい同じで、話しや説明も昨年と同じ部分もありましたが、時々、忘れていたことを説明をきいて思い出したり、昨年とは微妙に変わった風景を見られたりして、とてもおもしろかったです。また、韓国人慰霊塔では、石碑の位置を考えずにそのまま移動した話しを聞き、本当にそんなこともあるんだとたいへん驚きました。
                K.
韓国人慰霊塔は、新たに作られた平和祈念資料館の駐車場の裏にありました。気づきにくい所です。入り口の石版も人が来る方向とは違う方向を向いています。広島の韓国人慰霊塔は、公園の中にあるのに、沖縄の韓国人慰霊塔は、公園の外にあります。その前に87億円かけた新平和祈念資料館があります。
                T.
ディープ沖縄
空手
那覇の街を歩いているとその路地裏へいくと必ず目にすることができるものに空手道場があります。

そう沖縄は、空手発祥の地であります。よく、琉球王朝は、中継貿易で飯を食っていたので、その得意先である中国や日本などの諸外国と武器を持って争うことはせず中庸をもって接していたなどと言われます。その昔のとある外国の琉球紹介には、アジアに一切の武器を持たない国があるなどと紹介されています。ただ、実際は、どこの国でもあったのですが、琉球の戦国時代には、武器を持っての争いはだいぶあったようです。

そんなこともあり、「武器を一切用いず、徒手空拳のみで護身をはかる武道である」とある空手は、まさに琉球にぴったりの格闘技であったと思われます。そのルーツは、どうやら中国拳法にあるようです。明治以前のそうした中国拳法から発展した琉球空手は、古伝唐手と呼ばれていました。明治以降、近代の空手として体系化されたということです。その呼び方もそうした発展にともない、「手→組合術→拳法→唐手→空手→空手道」となったそうです。

本家の空手道は、世界的にも有名のようで、私たちが泊まっていた宿舎にもフランスから空手修行に来ている青年がいました。彼に、「何のために空手をやってんの?」と質問をしたところ、彼は、「身体の鍛錬と精神の修養のため、特にスピリッツを鍛えるためにやっている」と答えてくれました。空手の極意は、他者との力を比べるためではなく、自己の精神を高めるためのものであるということだそうです。でも、宿のオヤジさんの高校時代の友だちは、沖縄の空手チャンピオンか何かで、占領時代は、飲み屋の用心棒みたいなことをやっていて、本当に滅茶苦茶、強かったそうです。海兵もびびったらしい。


現地レポート−14
【6月22日(3)】

ひめゆりの塔
平和の礎をあとにした私たちは、ひめゆりの塔へ向かいました。ひめゆりの塔には、財団法人「沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会」が設立した、「ひめゆり平和祈念資料館」があります。ひめゆりとは、当時の沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の校友会誌がそれぞれ、「白百合」、「乙姫」と名付けられていたことから、両校の併置後、同校友会誌が、「姫百合」となったことより使われました。現在のひめゆりの塔ならびにひめゆり平和祈念資料館は南風原にあった陸軍病院の避難分室先であった第三外科壕の上に建てられています。

米軍進攻に備える沖縄守備軍は、県下の女子中等学校の生徒らに看護訓練を強化しました。米軍が上陸しますと、ただちに学徒隊を編成し戦場へと駆り立てました。未成年者がゆえ、法的には動員することが困難であることを知りながら、保護者の同意を得て、彼らを巻き込んだのです。学校名からもわかるように女師、一高とも当時の沖縄におけるいわゆるエリート校です。家族の多くがそうした階層に所属しているがゆえ、皆、お国のためならと子どもたちを差し出すこととなるのです。1945年6月18日、突然、鉄の暴風の中で必死の活動をしていた学徒たちに解散の命令が出されます。戦場のまっただ中に放り出された彼女たちは、逃げる術もありませんでした。結果として、ゆめゆり部隊287名のうち194名が戦死をすることとなるのです。

この事実は、私たちに様々な思いを去来させます。私などの場合は、彼女たちの死が、その理由において、彼女たち自身にはまったくないことに強い憤りを感じます。彼女たちを取り囲む、大人や社会にその大きな原因があったことは明白です。確かに、社会全体が一つの方向に向かっているときに一人逆らうことは、たいへんなことです。しかし、子どもたちの命の価値を考えたとき、その優先順位はおのずと決まるものだと思います。たとえ真っ正面から抵抗をしなくても、何かやり方があったはずです。現場にいる教師などがもっと回避をするための工夫ができたような気がするのです。
ある意味、この状況は今の日本にも当てはまる部分があるような気がしています。みんながそうしているから、賛成と思われる人の数が過半数を越えているから、それが日本の常識だからなどなどそれが全て正しいとは限らないわけです。何がその時大切で大事なものなのか、何を最優先すべきなのか、特に大人たちが常々考えなくてはいけないことだと思うのです。

資料館の中に並べてある彼女たちの遺影の前に立つ度、彼女たちの姿が今の若者たちのそれと変わらないだけに、いわゆる青春を目前にして、人生が終わってしまったこと、終わらせてしまったこと、時代としての前後はありますが、大人としての責任を強く感じぜずにはいられません。

魂魄の塔
さて、私たちの南部戦跡フィールドワーク最後の地に向かうこととしましょう。ひめゆりの塔から車で5分ほどのさとうきび畑の中ほどに、「魂魄の塔」と呼ばれる慰霊塔があります。この慰霊塔は、戦後まもなくこの地域の収容所に収容されていた沖縄の方々が、野に散らばる骨を集めて作ったものだそうです。一体分の骨が全部きちんと揃っているわけではないので、何体分かはよくわかっていないのですが、民間人、軍人、外国人の区別もつけることができるわけもなく、全部でおよそ3万5千柱の遺骨が納められていると言われています。

先ほど訪れた、摩文仁の丘には、全国全ての都道府県の慰霊塔が建ってます。がしかし、唯一、沖縄県の塔はありません。沖縄全体が戦場となり、多くの犠牲者を出したわけなので、一カ所だけが慰霊の場所ではないということなのかもしれません。中でもここ魂魄の塔周辺の場所は、北の方から逃げてきた民間人、軍人たちが最後にたどりついた本島の南端の場所だったのです。さらに、この周辺は平野が広がっており、体を隠すようなものが一切ありませんでした。そうした場所を標的として、雨あられの砲火が集中したのでした。当然、被害は大きく、戦後、農地を開拓するのにこうした散乱する遺骨を収集することから始めなくてはならなかったのです。

沖縄で最大規模の収集場所となった魂魄の塔には、この周辺で亡くなったと思われる方の遺族の皆さんにとっては、大切な慰霊塔なのです。ある意味、本当の沖縄県の慰霊塔の一つであると言えるかもしれません。毎年、慰霊の日である6月23日は、多くの遺族の方々で塔の回りは、花やら供物やらで埋まります。

米須海岸
この塔の裏手には、もうこれ以上は逃げられない米須の海岸が広がっています。この海を見たとき、その当時は、絶望の気持ちでいっぱいになったと思います。でも、今は、この同じ海を見ても、多くのサーファーたちが波に戯れている様子を見るに、気持ちが開放される平和な場所の一つであろうと思います。同じ海でも、60年近い歳月が経つとその意味が180度変わるということを意味していると思います。こうした平和な空気を継続していくためには、やはり、国民の一人一人が、きちんとした主体的な意識を持って、こうした平和な環境を作り続けていくことが大事であると思うのです。沖縄の体験は、過去を振り返ることではなく、未来を創っていくためのスタートの場所であると強く感じるのでした。

フィールドワーカーの声
韓国人慰霊塔は目に付かないところにあった。沖縄に連れてこられた朝鮮の方々1万5千人のうち1万3千人が亡くなった。ここでは、沖縄も含めて、先の戦争に対する日本の加害者という側面をみることができる。魂魄塔にあった遺骨の一部を厚生省が無理矢理、摩文仁の方へ移動するという事件があったそうです。国としてきちんと反省をしているのだろうか。
                        O.
ディープ沖縄
そろそろ、また食べ物の話しへともどろうかと思っています。食べ物の話しは本当につきません。まあ、食べるという行為は、1日、何回か必ずする行為なので、否応なしに様々な経験をすることになるのだと思います。

山羊
沖縄ならではの食べ物の一つに山羊の肉というのがあります。
ただ、山羊の肉を食べるのは、何も沖縄だけではなさそうです。先日観ていたTVでも、アフリカのケニアではごちそうのようなことを言っていましたし、ベトナムホーチミンでは、今、市民の間では、モツ鍋ならぬ山羊鍋が流行っていました。そんな各国において、山羊における共通していることがあります。まず一つは、お祭りとか、おもてなしだとかという特別なときにつぶして食べるということ。そしてもう一つは、滋養強壮として、スタミナをつけるために食べるということです。

ということは、山羊の肉は、神聖で栄養価が高いということなのかもしれません。したがって、沖縄の場合でも、ちょっと体力が下降気味なときなどに、「ヒージャー、食いに行こう!」ということになるのです。

山羊料理の代表的なものは、山羊汁、山羊さし、山羊そば、山羊のチーイリチャーなどとなります。味は、少々くせがありまして、人によって好き嫌いがはっきりと出ます。どのように表現をしたらよいでしょうか。マトンをもっと濃くしたような味だと言ってもよいと思います。新鮮な場合は、刺身で頂くのが通ではあります。山羊肉をフーチーバーでくるみ、ショウガ醤油にごま油かお酢を数滴たらして食べます。フーチーバーの苦みが山羊肉のくさみを消して、そのコリコリした食感とともに元気な源を体に入れているような気になります。

いきなり山羊そばはヘビーなので、初心者は、山羊汁をおすすめします。スープの味つけは塩のみで、汁全体に山羊のこくが行き渡っています。いっしょに煮込まれた、山羊の各パーツもまたコリコリした歯ごたえもおいしく熱いうちに一気に食べれます。どうぞ、お試しを。

現地レポート−15
【6月23日】

県主催慰霊祭
6月23日は、沖縄の方々にとって、1年の中でとても重要な日です。慰霊の日と言い、先の沖縄戦によって亡くなった方の慰霊をする日となっているからです。形としては、この1945年の6月23日が、沖縄戦終了の日となっていますが、実際のところは違う考え方もあります。どういう状況をもってして終戦とするのか、日本守備軍の組織的抵抗が終わった日であれば、「6月19日」ですし、米軍側の勝利宣言は、「6月21日」、また、米軍側の作戦終了宣言は、「7月2日」になり、さらに正式の降伏調印は、「9月7日」ということになるからです。この6月23日というのは、日本軍司令官の自決の日です。したがって、一般的な歴史的観点から言えば、いち司令官の自決の日をもって終戦とするのは、いささか無理があるようです。

この数年は、私たちもこの日に沖縄にいるようにしています。そして、摩文仁の平和祈念公園で行われる県主催の慰霊祭とそのそばにあります魂魄の塔への慰霊をやらさせてもらっています。今年も6月23日は、朝からバスに乗り継いで、平和祈念公園へと向かいました。梅雨明けした沖縄の天気は、真夏の様相を呈しています。平和祈念公園で行われる慰霊祭は、県主催の慰霊祭だけにいわゆる角界の関係者が多く参加をしています。ここ数年は、首相も献花に訪れています。昨年の森氏と本年の小泉氏とでは、登場したときの群衆の反応の違いに興味深いものがありました。昨年の森氏のときは、会場からヤジが飛んだのに比べ、今年の小泉氏のときは拍手で迎えられていました。また、事前から小泉氏が靖国神社への公式参拝をすることを口にしていたせいか、他の人の挨拶の中でもそうした動きを容認する話しが出たりしていました。よそ者の私ではありますが、少々、複雑な気持ちになりました。森氏であれ、小泉氏であれ。これだけの戦争経験をし、今なお多くの基地を抱え、戦後60年近く経ったにもかかわらず、その加害の気持ちを忘れていないはずのここ沖縄の地においても、その意識は風化をし精神よりも経済などということが優先されていってしまうのか。そんなに経済的に豊かになることがしあわせへの道なのだろうかと。
立派な祭壇を後にして、私たちは隣接する平和の礎の方へと足を向けました。以前の報告の中でも書きましたが、肉親の方々がどこで亡くなったかわからない方々にとって、亡くなられた方の氏名が刻まれているここ平和の礎は、まさに墓標の代わりなのです。碑の前には、多くの花が置かれ、供物が供えられています。中には、家族で来られ、その氏名の前に車座になりながら1年ぶりの亡き方々との会話をしている皆さんもいます。また、おそらく亡くなられた方と同年輩の方だと思いますが、ご老人が、刻まれた氏名の上に手を置き、何度も何度も指で氏名をなぞっている方などに出会いました。

たかが公園の中を移動するだけでも真夏の太陽は、容赦ない厳しさです。56年間同じように太陽は照り続けているに違いありません。でも、その下にいる人の環境は、どんどん変わっていくのです。変わってはいけないものもたくさんあるはずです。同じ太陽の熱さを感じるように平和への熱い気持ちは変えてはいけないものだと思いました。昼食をとった後、私たちは、魂魄の塔へと向かいました。

6月23日の魂魄の塔
昨日、魂魄の塔を訪れたときは、私たちしかいなかったこの地が、だいぶ様子を変えていました。続々と遺族の方々が参拝に訪れています。いつもは静かな塔周辺も多く人であふれています。皆、花やお供え物を手に持ち、塔の回りに次々と置かれていっています。また、いっしょに来ている家族、特に孫たちにオバアたちが、説明をしている風景にあちらこちらで出会います。何とはなしにそんな会話が耳に入ります。この魂魄の塔周辺は、たいへんな激戦地であったわけで、多くの方々がこの地域のどこでなくなったのか具体的なことはわからないのです。おそらくこの周辺で亡くなったのであろうということしかわかっていないのです。だから、オバアたちの会話は、最後に見た肉親たちの様子を坦々と孫たちに聞かせているのです。こうした行為こそ、平和を維持していくための原点だと思うのです。何よりも戦争などで受けた痛みを、自分たちの主体的な意識なものとして受け継

いでいく、これほど確実で、一人一人の心の中に平和の意識が染み込んでいく作業はないと思います。その世代の方々にとっては、辛く、たいへんで早く忘れたい経験だったかもしれません。でも、一つの事柄でよいので、次の世代の者たちに言い伝えてもらえればたいへんうれしいことだと思いました。

しかし、こうした沖縄においても年々、家族で参拝をする方々の数が減ってきているそうです。これもまた、ある意味、沖縄が誇れる一つの財産だと思うのです。こうした習慣を風化させることなく、永くつづいてくれることを願わずにはいられませんでした。

2つの慰霊の日を見て思います。沖縄の人の本当の心はどこにあるのか、日常の中で見るオバア、オジイたちはにこやかで、親切で、話し好きで、本当に心やさしく朗らかな人が多いわけです。でも、この日のオバア、オジイを見てわかるように、その多くの人たちが様々な厳しい経験をしているのです。こうした意識をさわやかに坦々と次の世代に申し送っていくのには、どちらのセレモニーがふさわしいでしょうか。日常の生活の中で、きちんと次の世代へと語りついでいくという主体的な伝承ほど確実なものはありません。公のセレモニーをやるなと言っているわけではありません。もっと原点に立った手法があるのではないかと思いました。

本当に熱い、熱い1日でした。

フィールドワーカーの声(慰霊の日)
今日はとても暑い中、ずっと外を歩き回っていた。慰霊のセレモニーは、どちらも外でやっていたわけだが、祈念公園の方は、小泉首相が来たときを頂点として、とても騒がしく、たくさんの報道陣がいた。一方、魂魄の塔では、言い方は悪いかもしれないが、町内の催しもののように静かで、特に報道陣もいず対照的でした。韓国・朝鮮人の人の名前が刻まれた碑には、あまり花などは供えられておず静かであった。
                      A.
今日は最初に慰霊祭に向かいました。今年は、バスで会場に向かいました。今日は、道がけっこう空いていて、今年は昨年より人が少ないのかなと思っていたら、会場は、昨年より人が多く、日陰に入ることもできませんでした。また、今年の総理大臣である小泉氏の献花のときは、昨年の森氏のときとは違い、ヤジもなく、逆に大きな拍手などが起きていました。小泉人気はすごいなと思いました。
                      T.

今日は昨日訪れた場所を再び見学した。その違いについて考えた。しかし、その場所を訪れる人々の気持ちに対して、自分の物見遊山的な態度はいささか、居心地が悪かった。
                      H.

慰霊祭にはたくさんの人が来ていました。小泉首相の来ていましたが、人が多くてよく見えませんでした。魂魄の塔に移動のためにタクシーに乗ったとき、運転手さんがいろいろな話しをしてくれました。慰霊祭の日は、いつも暑い。運転手さんも戦争を体験した一人でした。15才のとき、米兵に、「おまえは軍人か?」と聞かれ、両手を上げながら、「違う」と言ったら開放された。仲間では殺された者もいた。そのときの米兵と後で仲良くなって、手紙をやり取りするような間になったそうです。
                      M.

ディープ沖縄
またまた食べ物の話しにもどってきてしまいましたね。今日は、定食というか、ランチというかそんなものを頼むとなぜかついてきたりするサイドの料理に注目してみましょう。

スープ
ランチとかステーキだとかを頼むと必ずついてくるのにスープがあります。スープと言っても、何スープというように形容するのが難しいのであります。ポタージュスープのようでもあり、コーンスープのようでもあり、似ているようで似ていないスープがつくのであります。一説によるとあれは、キャンベルの缶スープということなのですが、何か違うように感じているのは私だけでしょうか。

ジューシー
和食系のお昼のランチなどには、ジューシーが1つ、2つつくことがあります。最初にジューシーと聞いたとき、ジュースつきか、この定食はと思ったわけですが、違いました。ジュースではなくジューシーでした。アクセントはどちらかというと後ろの方につきます。それは、味のついたご飯でした。定食などについくのは、炊き込みご飯系の混ぜご飯が、おむすび型をして出てきます。これを、正確には、クファージューシー(ホロホロジュシー)と言います。ご飯の中に細かく切った豚肉や人参、シイタケ、かまぼこなどが入り、豚のだし汁で炊き込んであります。これだけでも十分に満足するご飯です。

そして、もう一つのジューシーは、昨年のお月見のときに食べたのですが、そうそう、どちらかというとお供え物という感じなんだと思います。雑炊型のもあります。雑炊型のジューシーのことをヤファラージューシー(ボロボロジューシー)と呼びます。つまり、ジューシーには、ホロホロとボロボロの2種類あるということです。ちょっと涼しくなったころに野外で食べたボロボロジューシーは、ホクホクしていて胃にとてもやさしい感じのジューシーでした。

モズク
まあ、これはいわずと知れた、海藻です。ヤマトのほうで食べているモズクも大部分は、沖縄産だそうです。定食の付け合わせによく出てきます。ヤマト産のモズクに比べて、太くて歯ごたえがあるような気がします。海にいくとモズクを養殖している場所によく出会います。網から電気掃除機のようなもので、モズクを吸い取っています。モズクには、抗腫瘍作用のあるフコイダンという成分が含まれているということが最近判明し、沖縄の産業界でも注目を浴びています。
現地レポート−16
【6月24日】
本日は、ベーシックとプラクティカルの区切りの日なので、明日からの予定を話し合った後は、休息日としました。
【6月25日】
今回のフィールドワーク沖縄2001の後半の目的は、今後、沖縄において、その生活者のレベルで長くつきあっていくためには、どう言った基盤を作っていったらよいのかということの基礎データ調べという目的がありました。こういったレベルで、沖縄にベースを作っていくことは、沖縄とのつながりを強化すると同時に世界の中での日本の位置だとか、大げさに言えば、地球的な視野に立って、私たちが活動をするときに基盤をつくるということにもつながっています。ある意味、私たちの活動、特に学習活動のアイデンティティーの確立のための基礎的試みということとなると思います。

ということで、今回の私たちが注目をしたのは、地域的には、読谷村、宜野座村、知念半島周辺(久高島)、そして、特定要素としては、風力発電、陶芸にしぼりました。こうした要素を順次フィールドワークしていったわけです。

で、初日の今日は、明日、地域テーマの一つである読谷村へ行くので、そのための資料集め等を手分けして実施をしました。村だとか町などの市町村のことを調べる場合、その基礎資料を入手するには、役場や地元の図書館などに行くのが一番です。明日、役場の方に行くので、今日は、那覇にある県立の図書館などを中心にして、読谷村に関係をするデーター等を取材し、各自がリポートとし提出報告することとしました。また、明日は、読谷村教育委員会の小橋川さんの話しも聞けるので、質問などの要旨について意見を交換しました。

フィールドワーカーの声
今日は、明日行く予定の読谷村のことについて下調べをしました。県立の図書館へ行き、資料集めをしました。自分の調べるテーマが、「読谷村の文化について」だったのですが、図書館には資料があまりなく、やっと見つけた本も少々古く、最近の資料は見つかりませんでした。それでもなんとか資料を集め、宿舎にもどり、まとめました。いろいろ調べていくうちに、去年調べた沖縄の文化との関係でいろいろと気付いたこともあり、たいへん勉強になりました。
                 T.

県立図書館で、沖縄戦のことが書かれている本はたくさんありました。しかし、読谷村に関係していることが書いてある資料は少ししか見つけることができませんでした。宿舎にもどり、「観光コースでない沖縄」などの著作をもとにして、読谷村の沖縄戦について調べました。米軍の上陸地点となった読谷村では、村民が動員されて苦労して作った飛行場も日本軍には使われないまま、米軍の手にわたり、ガマにおける住民の集団自決なども経験しています。ふだん、全然しゃべっていなかったので、声がうまく出せるか心配でした。ミーティングののとき、暑さと空腹でボーッとしてしまいました。もう少し気合いを入れなくてはいけないです。
                 O.

図書館で、読谷村の産業について調べました。資料が少なく断片的にしか理解することができなかったが、山内前村長の話しが掲載されていた本は、産業だけにとどまらず、全体としての読谷村の方向性などについて知るのに役だった。結局、レポートは時代的にかたよった内容になってしまい、現在の産業の全体像をえがききれなかった。明日以降学んだことをまとめることもしたいと思う。
                 H.
県立図書館は1Fがふつうの図書館、2Fが郷土資料室となっていた。資料室の資料は主に本で、少し古いものを中心にそろっていた。読谷のみの本というのは少なく、沖縄についての本を読みながら調べていった。読谷という場所は、紅いも、焼き物、織物といろいろなものの発祥の地だそうだ。とても興味深いと思った。また、いろいろ遺跡などが存在するそうで、そちらも見てみたいと思った。一口メモ、花織りを復活させたヨナミネさんの記録映画が先日、上映されたそうだ。よいところらしい。サメと泳げるダイビングスクールがあるらしい。読谷では、村おこしの一環で、紅イモをもりあげようと、「紅イモ料理」「紅イモ娘」コンテストなどを企画実施しているらしい。紅イモ菓子のポルシェは、紅イモ御殿を作ったらしい。
                  A.

※ 読谷村の特集は、この後、HPに登場すると思います。

ディープ沖縄
やきそば
沖縄で飯を食うときは、なるべく地元の大衆食堂で食べるようにしています。うちの方だと、そうした大衆食堂は、味などの当たり外れがあり、一歩間違えるとただ単に腹に何かを詰めたという感じになってしまうことがあります。でも、沖縄の場合、あまり期待はずれのところはありません。時々、メニューのイメージが実際と違うことぐらいで、ヤマトでのメニュー名と中身が違うものっていくつかあるんですが、今回の旅の中で、新発見をしたのは、「やきそば」です。うちの方で、焼きそばというと、まあ、かた焼きそばと柔らかい焼きそばがありますが、ふつう、大衆食堂で出されるやきそばは、やわらかいソース焼きそばです。


今回とある食堂で、メンバーの一人が焼きそばを頼んだところ、それは見た目は、ナポリタンというかトマトソースのスパゲッティーという感じだったんです。さらによく見てみると、麺は、沖縄そばを使っています。上には、やはりトマトソース味の野菜と肉がかかっています。確かに、味はまずくはありません。よく昔の給食に出た、ミートスパゲッティーナポリタン風みたいな味です。一同、それを眺めて、意見が一致をしました。「これはネーミングが間違っている。例えば、沖縄そばナポリタン風とかにすればよいわけよ」と。

後日、一軒だけではと思い、他の店でも焼きそばを食べている人の料理を観察しましたところ、やはり、あきらかに違いました。ソース焼きそばではありません。その店の焼きそばは、どちらというと焼きうどんのような和風づくりでした。

この他に、ちょっと違うものってたくさんあります。「カツ丼」とか「すき焼き」とか、またの機会に紹介します。

現地レポート−17
【6月26日(1)】
シュガーローフ
本日は、終日、読谷村方面へのフィールドワークに出かけました。今、私たちが滞在しているところは、那覇ですので、読谷村に行くには、バス等で移動する必要があります。那覇バスセンター発の29番、読谷行きに乗り込みました。那覇の市街を抜けた、まあ、市街といっても国道58号線沿いに走っているかぎりでは、町並みが途切れることはありません。バスでの移動は、以前のレポートにも書きましたようにフィールドワーカーとしては、なかなか貴重な時間です。乗り合った地元の人たちとの会話やゆっくりとした走りの中、バスの窓からならではの視点など、情報収集のための機会は数多くあります。那覇市街を出て、国道58号線を右手に少しいくと、国道の東側一体に広々とした区画整理中の原っぱが広がります。マンションや郊外型の店舗が立ち始めています。そこは、那覇副都心として再開発をされているところです。沖縄戦のときは、シュガーローフという大激戦地でした。戦後、米軍が接収して基地があり

ました。復帰後、すぐに返還されたのですが、実際に使えるようになったのは、見ての通り最近です。なんで返還後、そんなに時間がかったかというと、基地の場所を返還されたからといって直ぐには使えないわけではないのです。沖縄戦当時の不発弾の処理も必要です。いわゆる生活インフラの整備も必要になります。そして最後に造成をして、やっと使えるようになるのです。

返還が決まってから実際に使えるまでの時間をきちんと計算をして、跡地利用を考えなくてはいけないということになります。天久の副都心開発地を過ぎますと浦添市に入ります。

ハンビータウン
バス路線(国道58号線)の東側には延々と牧港補給地区が広がります。普天間基地のある宜野湾市を過ぎ、さらに行きますと左側の奥に観覧車が見えてきます。やはり基地の跡地に作られた、ハンビータウンというモール街です。映画館やショッピングセンター、その他、いろいろな種類の郊外型の大型店舗が並んでいます。最近では、一番の若者たちの街になっています。休日ともなりますと家族連れをはじめ、若者たちのグループなどでおおいににぎわっています。ちなみにバスに乗っていたオバアたちのグループも、「来月は、北谷いきましょうね」と誘いあっていました。右側には、読谷村と同じく、基地の中に街役場を建てた北谷村役場が見えます。

そして、嘉手納基地の西の端に位置し、その飛行機の騒音で悩ませられている砂辺の街を通り抜け、嘉手納ロータリーへと出ます。ロータリーを左に折れ、キロロの出身校で有名な読谷高校の入り口を左に曲がります。しばらく走ると紅イモのお菓子で有名な、ポルシェのお店が左手の見えてきます。読谷村特産の紅イモを使ったお菓子は、今や全国ブランドです。バスの終点もだんだん近づいてきました。沖縄そばで有名な花織そばを通り過ぎ、村の商店街に入るとほどなくして、終点の読谷バスセンターへと到着しました。那覇から約1時間ちょっとのバスの旅でした。

読谷村立歴史民族資料館
今日、最初の訪問場所は、先日、訪れた座喜味城跡にあります村立の歴史民族資料館と美術館です。残念ながら美術館は展示物の入れ替えのためお休みでしたが、資料館の方は、読谷の古代からの歴史をわかりやすく展示してあり、十分に見応えにある展示になっていました。資料館を見ることでよくわかることの一つは、この読谷という場所が、沖縄本島において、その古代から豊かな自然に育まれた住みよい環境の場所であったということです。その昔から、そのような人が生活するのに住み易かったこの地が、近代戦争というものによって分断破壊されていくわけです。本来であれば、近代化とは人の生きる権利を保証していくものであったわけですが、ここ読谷では、逆に生存権を侵害していくことになるのです。しかし、村民たちは、戦後、立ち上がり、奪われてしまった社会権を取り戻すための闘いを今日までやり続けています。戦後の読谷村の歴史は、まさに生きる権利獲得のための闘いの歴史なのです。

読谷村役場
資料館を後にして、私たちは、村の統計データーをもらいに村役場へと向かいました。新村役場は、読谷補助飛行場の基地の中にあります。なぜ、基地の中にあるのかは、この後の小橋川さんの話しの中で説明をします。道路かと思わせる滑走路の端に役場をはじめとする村の施設がいくつも建っています。私たちが訪れたときもその一角のグランドでは、ゲートボール大会が開催されていました。回りは、よく育ったサトウキビ畑です。これらの畑もいわゆる黙認耕作地というやつです。訓練中に何かあっても補償などはしない。それでよければ、どうぞという場所です。まず、役場に着くと目に付くのは、正面玄関にある憲法第9条の碑です。読谷村は、日本国憲法、それも第9条に準拠して村政を押し進めていくということの宣言です。その宣言碑が、アメリカ軍基地の中に建っているわけです。この現実の矛盾、日本の政府はどのように説明をするのでしょうか。先にも書きましたように読谷村は戦後、米軍基地があることに
よって、様々な被害、権利侵害を受けてきました。復帰後、日本国憲法下に入ったにも関わらず、その不利益は解消しませんでした。失われた権利を回復するためには、自分たち自らの闘いで取り戻すしかなかったわけです。

第9条の碑を読んだあと、私たちは村の統計的データをもらいに役場の総務を訪ねました。お昼休みが近かったにも関わらず、丁寧な応対で、村の各データを記載した資料集やら村のパンフレットやらを各自に頂き、これに相当するだけの学習をせねばと気持ちを新たにしたのです。午後からは、教育委員会の小橋川さんのレクチャーがあるので、それまでに昼食を済ませ、さらに村の図書館で下調べと思ったのですが、図書館は休館日でした。村の食堂で、ゆっくり昼食を済ませ、旧村役場跡にある教育委員会へと向かいました。

フィールドワーカーの声
今日は読谷へ行った。歴史民族資料館では、戦時中の物などいろいろなものが展示されていた。村役場では、村の政策や産業などの資料をもらった。役場の人はとても親切で、様々なことを教えてくれました。
                  Y.

資料館には、昔使われていた道具がたくさん置いてありました。今では、使われていない道具ばかりでしたが、その名称などは本土のそれとはあきらかに違いました。例えば、桶のことをウーキとか、臼のことをウーシーだとか言うそうです。また、実物大に近い亀甲墓の模型も置いてあり、豪華な感じがしました。その後に訪れた役場は、言われるまで気がつかなかったのですが、基地の中にありました。基地の中に役場を作る発想はすごいと思いました。
                  O.

ディープ沖縄
豚肉
琉球の食べ物の話しをすると止まるところがないわけさ。ということで、今日は、沖縄の食べ物の食材ナンバー1ではないかと思われる豚肉についてです。

沖縄料理に欠かせないのがこの豚肉だと思われます。ラフテー、テビチ汁、ソーキ汁など必ず豚肉が入っているわけです。ただ、どの料理も脂ギタギタなんて風には、出されません。必ず、丁寧にあく抜き、脂抜きがされていて、脂ぽっさや豚臭さがない状態で出されます。ですから、さらっと食べられてしまいます。沖縄の豚肉の自給率は、139%だそうで、県民1人当たりの豚肉消費量は、1万3500グラムだったそうです。(平成11年度)

豚肉の部分の名称を解説しておきましょう。

テビチ
豚足のことをさします。

ソーキ
骨付きアバラ肉です。もっとも一般的な食べ方は、ソーキ汁です。じっくりと煮込みますと骨や肉のうまみが十分に出て、すばらしい味になります。

三枚肉
脂身が適度に挟まれ、人気の高い肉です。煮付けにするのが一般的です。これを泡盛で角煮にしたのが、ラフテーです。

中味
豚の胃や腸を言います。まさに中身です。徹底的に汚れやあくを取り除き使うそうです。あっさり味の中味汁は、なかなか通な味です。

チラガー
豚の面の皮です。市場などに行きますと寂しげな顔で、置いてあります。耳の部分千切りにして、をピーナツバターで和えたミミガーは、酒のさかなには最高です。
現地レポート−18
【6月26日(2)】
旧村役場跡にある教育委員会へと向かいました。読谷村のことを学習するときは必ず、話しを聞く人がいます。それが、読谷村教育委員会の小橋川さんです。まさに、読谷村の生き字引のような人です。今回のレクチャーでは、読谷村の闘いの歴史についてじっくりと話しを聞きました。

沖縄戦当時の読谷村
いくつかの空中写真を並べながら彼の説明は始まりました。まずは、太平洋戦争の戦前、戦中の話しです。戦前、読谷村の海岸段丘の上の場所には、日本軍が建設した北飛行場がありました。その飛行場の存在は、沖縄戦の始まる前にアメリカ軍偵察機が撮った写真によって正確に把握されていました。本土攻撃のための足がかりとして沖縄占領を考えていたアメリカ軍にとっては、かっこうの標的地でした。というのも上陸占領後、ただちにこの飛行場を活用することを考えたからです。また、同時に南北に長い沖縄本島を攻略するのには、その中部である読谷村周辺に上陸し、南と北にわかれ進軍をした方が効率的によいとも考えました。かくして、1945年4月1日、米軍は、沖縄本島中部西海岸一帯に約10万発の艦砲弾を撃ち込み、午前8時30分、読谷・北谷海岸から上陸を開始しました。さしたる日本軍の抵抗はなく、午前中には、北(読谷)飛行場、中(嘉手納)飛行場を占領し、4月3日には、東海岸に到達して、沖縄本島を南北に分断したのでした。

45年3月25日になると米軍からの艦砲射撃が激化したため、多くの住民が北部への避難を開始しました。そうした状況の中、村内各地のガマや壕には、まだまだ多くの村民が潜んでいました。字波平にあったシムクガマには、約1,000人の人が避難をしていました。4月1日の午後、米兵がガマに来て、投降を呼びかけました。そこには、ハワイ移民帰りの村民が2名おり、彼らが米兵に対して、このガマには兵隊がいないことなどを説明し、村民にも米軍が

民間人には危害を加えないことを説明し、ガマに残っていた住民全員の収容を実現しました。一方、4月2日、同じ波平にあるチビチリガマでは、捕虜になることを拒み、避難をしていた約140名の住民のうち、83名が死亡するという集団死が起きていました。こうした悲惨な事件を引き起こした原因として、投降することを許さなかった日本軍の作戦、そして、皇民化教育の成果がその背景にあったことは言うまでもありません。

米軍に収容された人々は、本島各地に作られた収容所に送られました。きびしいテント生活の中、亡くなる方もだいぶあったそうです。1945年の10月頃になると、少しずつ自分の村などに帰ることが許されだします。しかしながら、読谷村の場合、米軍が上陸占領と同時に日本軍の飛行場を整備し、かつ、大型爆撃機のための新たな飛行場を建設するなどし、村の大部分を占領し基地化していたため、なかなか自由に帰村することを許されませんでした。読谷村民が初めて帰村を許されたのは、1946年8月のことでした。しかしながら、村民に返された土地は、村の面積の5%にしか過ぎませんでした。それでも少しずつ許可をされた居住区に村民たちもどり、生活の基盤を作っていこうとします。がしかし、朝鮮戦争の勃発などは、また新たな強制接収を引き起こし、戦争が終わったにも関わらず、読谷村の多くの人たちがもとの生活にもどることができなかったのです。さらに、1952年のサンフランシスコ平和条約により、沖縄がアメリカの占領下に入ることが決まってしまいます。このことにより、村民たちの苦難な歴史は引き続き終わることのないものへと確立されていくのです。この時点で、読谷村における米軍基地が占める割合は、全体の約80%でした。

1972年5月15日、沖縄は日本への復帰を実現します。平和憲法下の平和な日本へ復帰することを意味していました。意味するはずでした。復帰と同時に、核も基地もない平和な島に生まれ変わるはずでした。がしかし、現実は何も変わりませんでした。読谷に基地は、復帰後もなくなることなく居座りつづけ、村土に占める米軍基地の割合も約73%に達したままでした。ここに村上げての米軍基地返還の闘いが本格化していくのでした。
読谷村の米軍基地
今現在、ここ読谷村には、5つの主な基地が存在しています。
1.嘉手納弾薬庫(総面積2,884ha)(6市町村内読谷村面積:1,066.6ha)
この施設は、空軍が管理をし、4軍(空軍・陸軍・海軍・海兵隊)の各種兵器が貯蔵されています。西太平洋地域のアメリカ軍の弾薬補給センターや支援施設となっています。また、かねてから言われている核兵器の貯蔵疑惑も消えてはいません。


2.トリイ通信施設(面積198ha)
この施設にはもともと、アジア社会主義圏の通信情報を傍受したり、解読したりする部隊が駐屯していましたが、軍事衛星などの発達により、その部隊は減少をし、今は、陸軍特殊部隊(グリーンベレー)が配備されています。グリーンベレーは、いわゆる陸軍の中のエリート部隊で、各分野の専門家からなる6名ずつのダブルで12名のチームからなる特殊部隊です。その1チームで、軍事能力は、兵隊何百人分に相当すると言われています。紛争が起きそうな地域に先に潜入し、現地のゲリラなどを組織化し軍事組織を作ることができるからだそうです。各国の特殊部隊に対しての訓練などもやっているとも聞きます。

3.楚辺通信施設「象のオリ」「ハンザタワー」
円形状に並んだアンテナ群は、直径200m、高さ28mあります。その姿から、「象のオリ」と呼ばれていますが、地元ではハンザタワーという呼称の方が一般的です。航空機や船舶通信に使われている長距離通信用の電波を傍受するための施設です。一部用地の使用期限切れに伴う、国の不法占拠で多々報道され、有名になりました。米海軍安全保障グループが管理していると言われます。民間のエンジニアたちが中心のようです。

4.瀬名波通信施設(面積61ha)
この施設は、1949年、アメリカ国防省所管の海外放送情報サービス(F.B.I.S)として建設されました。西太平洋諸国の公共放送および各種報道機関の通信を傍受し分析をしていると言われています。

5.読谷補助飛行場(面積191ha)
この飛行場は、もともと旧日本軍の北飛行場として建設されたものでしたが、米軍が占領した後は、本土侵略のための拠点として整備拡張されました。戦後は、米軍のパラシュート降下訓練地として利用されてきました。数々の事故を起こしています。滑走路を除く大部分が黙認耕作地となっています。新読谷村役場等も敷地内に建設されています。

こうした多くの村内における基地に対して、読谷村村民は返還の運動を続けてきた結果、今現在、軍用地は、村面積の45%にまで縮小されてきてはいますが、この後の返還を予定されている多くの基地が、他の場所や基地への移転もしくは併合ということが条件になっているので、そう簡単には進まないと思われます。また、移転ということは、基地の面積は縮小したとしても基地としての機能が低下するわけではなく、本当に意味での基地撤廃とは言えません。

読谷村における米軍基地被害
村の中央の北の所に、不発弾処理場があったそうです。そこでは、パワーショベルで掘った溝に不発弾を並べて埋め、爆破して処理をしていたそうです。中には、大きな爆弾も含まれていて、その破片が周囲に飛び散ることもあったそうです。1973年1月には、その処理場で、毒ガス弾の処理も行われていたらしく、ガスが漏れたことによって、風下にあった読谷高校、古堅中学校などで授業中の生徒たちに被害が出ました。グランドで体育をしていた生徒は倒れ、教室内の生徒はくしゃみが止まらなくなるなどの症状が続出したそうです。ただち、村では米軍側
に抗議をしたところ、何年間かは使用しませんでしたが、1975年にまた再開をしようとしたので、処理場の入り口にオジー、オバーをはじめ多くの村民たちが24時間体制でピケを張り、侵入を阻止しました。

また、補助飛行場周辺では、パラシュート降下訓練に伴う、事故が続出しました。たくさんあった事故の中でも、1950年8月に起きたヒロコちゃんや1964年6月に起きたタカコちゃんの事件など、子どもの命を奪った事故は悲惨なものでした。ヒロコちゃんは、落ちてきた補助タンクに当たり、タカコちゃんは、物資投下演習のトレーラーの下敷きになり命を落としました。

こうした、事故や事件が起きる度に読谷村では、村をあげて、抗議、要請を政府関係機関、米軍などに対して行ってきたのです。

読谷村の基地返還運動などの3原則
「闘いの3原則」
1.役場執行部、職員が村民一体となって行動する。
2.常に冷静沈着に整然と行動し、非暴力の闘争をする。
3.軍用地とはいえ村民の土地であり、行政のきちっとした計画の下に文化的・平和的跡地利用をはかる。
読谷村は、こうした闘争原則のもとにたゆまない運動を展開をしてきているのです。その結果として、先に出た不発弾処理場の撤去や長浜ダムの建設によって発展しつつある農業生産、焼き物の里としての地位を確立しつつあるヤチムンの里、補助飛行場内における役場建設などなどの多くの成果を勝ち取っているわけなのです。米軍地位協定2条4項(a)の規定をうまく利用した野球場や役場の建設などは、他にはない、とても創造的な運動だと思います。

今後の読谷村
自分たちの住んでいるところは、自分たちの力で変え、創っていかないといけないという思いのもと、「平和なむらづくりの推進」と「軍用地跡地利用の推進」を柱にして、ゆいまーるの心で世界の恒久平和をめざし、日本国憲法第9条の理念を世界に広げていくとのことです。

その他、前村長の山内氏のことや境界線等がはっきりしていない返還地の所有権の問題や読谷村による基地関係収入の占める意味などについての質問をさせてもらい本日のレクチャーを終了しました。何度聞いても読谷村の実践はすごいの一言ではあります。よくぞ、一つの村でここまでの運動を維持し続けることができていると今さらながら思うのでした。

外に出るとちょうど子どもたちの下校の時間でした。子どもたちは一様に目を輝かせていて元気がよく、なぜか私たちにも挨拶などをし、いきいきとしているのです。何か未来があるのかなここには何て思いました。「もう、心配しないで・・・」と「キロロ」が出るのもうなづけるのでした。今日も十分に行動しました。今日聞いたことをまとめるはたいへんな作業ですが、やりがいのある学習活動です。

フィールドワーカーの声
沖縄のアメリカ軍は、アジアへ投下したアメリカの資本を守るために駐屯しているということでしょう。F.B.I.S.では、外国の情報と言うよりは、日本の情報を集めることが主になっているらしいです。9割方米軍に取られた土地を45%にまでした住民の運動はすごいと思いました。神奈川県の基地の場合は、どのようになっているのでしょうか、神奈川県のことも調べなくてはいけません。地位協定などをうまく利用し、基地内に役場などをつくり実質、基地機能を低下させ返還させるという発想はすごいと思いました。世代を越えて取り組んでいる読谷の運動はこれまたすごいと思いました。
                  O.

小橋川さんのお話しは、とても興味深ったです。たくさんいろいろ聞けて、とてもよかったです。実際の写真パネルや図など具体的な資料が見られて、わかりやすかったです。一番印象に残ったのは、実際に沖縄で使用された砲弾の破片を手にとることができたことです。ものすごく重く、両手で持ってもたいへんなこんな破片が当たったら、ひとたまりもないと思いました。読谷は村というより、小さな市のような感じでした。村でいるこだわりは何なのだろうと知りたくなりました。
                  A.
教育委員会の小橋川さんに、読谷村の歴史や基地問題についての説明を受けました。話しの中でも印象に残ったのは、パラシュート降下訓練による住民の事故の話しです。事故が多いのは以前から知ってはいましたが、こんなにたくさんの事故があったのかということとその事故のひどさに驚きました。
                  T.

ディープ沖縄
ポークおにぎり(オニポー)
今回の旅の中で食べたもので印象深いものはたくさんあるのですが、中でも気に入ってしまったのは、久高島に行くときに港で食べたポークおにぎりです。ポークというコンビーフの缶詰のような肉を5ミリほどの厚さに切り、パンならぬご飯と海苔ではさんであるんです。具はポークだけでなく、鮭のフレークやら玉子焼きやら油みそやらがいっしょにはさんであります。また、その形はおにぎり形ではなく、四角形をしているので、おにぎり版のホットサンドみたいな形をしています。歯ごたえも心地よく、あまりのおいしさに売店にあったのを買い占めてしまいまいました。

ポーク玉子
ポークと言えば、沖縄大衆食堂、いや家庭の味としてはずせないのが、このポーク玉子だと思います。作り方は、ポークランチョンミートを適当な厚さに切って、フライパンで焼き、玉子焼きとサラダをそえる。まあ、これだけなわけです。誰でも作れるわりには、確実におかずになるのです。さらに、食堂などで食べるときは、非常に安い!お金がなくて、でも、きちんとご飯が食べたいときは最適なメニューです。

ポーク
この沖縄でポークと呼ばれているのは、ポークランチョンミートという缶詰のことです。豚のくず肉をミンチにして固めたものです。どうやら、第2次世界大戦の野戦食が持ち込まれて、そのまま沖縄で定着をしたもののようです。最近では、本土のスパーマーケットでも見かけるようになりましたが、沖縄では、このポークはいろいろなところに登場します。各種チャンプルの中に入っていたり、みそ汁の具になっていたりと、その応用範囲は想像以上です。私もよく買いだめしておいて緊急食料として活用しています。

現地レポート−19
【6月27日】
ソーメンチャンプルー
今日は、午前中は宿泊先のママさんが、ソーメンチャンプルーを作り、みんなに振る舞ってくれました。毎年、毎年、同じ宿泊先でお世話になっています。勝手知ったる人の家みたいな状態ではあります。とても居心地がよく、毎年、お世話になってしまっています。私たちのように、あっちこっちを歩き回り、帰ってきてミーティングをしたりする団体にとっては、すごく使い勝手がよい場所なんです。まだ、まだ当分通わせてもらうつもりなので、場所は教えません。私たちの沖縄での本部です。ということで、いつもいつもお世話になりっぱなしなんですが、さらに今回は、沖縄伝統の味、ソーメンチャンプルー、やらなんやらをごちそうして頂きました。ママさんの工夫とこだわりが行き届いているこのソーメンチャンプルーは、今まで食した中で、一番の味でした。そんな、ママさんのソーメンチャンプルーにはおよびませんが、一般的なソーメンチャンプルーの作り方をご紹介しましょう。

ソーメンチャンプルー

ソーメンチャンプルーと一言でいっても、いくつかの種類があります。俗に言う、「ソーメンチャンプルー」とは、ソーメン+豆腐+野菜+αのものです。今回は、もう一つのソーメン+ニラ+かつおぶしのタイプ(ソーミンタシヤー)を食べましたので、そちらの作り方を紹介します。この他にソーメン同士がくっつきあって、固まった状態のものをソーミンプットゥルー(プットルー)ともいいます。

ソーメンには、植物油を入れて伸ばしたものと、植物油が入っていないものの二通りがありますが、どちらでも大丈夫です。今回は、オーガニックのソーメンを使いました。
材料(2人分)
ソーメン2束(100g)、ニラ(ネギ)、かつおぶし少々、好みによっては野菜だとかツナを入れるとおいしいです。今回はツナを入れました。

作り方
1.ソーメンをたっぷりのお湯で、ちょっと固めにゆでます。私の場合は、ソーメンにもよりますが、150秒ぐらいです。ゆであがったら水でよく洗います。植物油入りのソーメンの場合は、手でもむようにして、よく洗ってください。植物油が入っていないのは、切れやすいので、やさしく洗ってください。

2.ソーメンの水をよく切り、そこに塩を少々ふって、かきまぜます。ソーメンはくっつきやすいので、ムラになりにくい、今のうちに全体に塩味をつけてしまいましょう。

3.フライパンに油をひき熱します。今回は、オリーブ油を使いました。弱火でさっとソーメンを炒め、ニラ(ネギ)を加えてさらに炒めます。

4.味をみて醤油を加え、お皿に盛りつけ、その上からかつおぶしをたっぷりかけて完成です。
注意:他に野菜などを入れる場合、火の通りにくいものから炒めましょう。

実際に何度が作ってみて、難しいのは、ソーメンをダマにしないで、さらっと炒めるところです。ソーメンのゆで具合を少し固めにゆでるのが、いいような感じがしています。

ソーメンチャンプルーをおかずにして、あれやこれや食べまして、お腹がいっぱいになったところで、今日の午後は、陶芸をやりに大山の方にでかけました。

ヤチムン
今年になってから、沖縄の文化、経済などの視点から、注目をしている要素の一つに、「陶芸」というものがあります。昔を紡いで今を知るプログラムでも先行をして、那覇の壺屋、読谷のヤチムンの里を調査してきました。合わせて、併設の、「STUDIO鎌倉第四次空間」では、「琉球の器展」を継続しています。今回のFWでも、事前学習として、壺屋の街や焼物博物館で学習を経てきています。さらにここで実際に焼き物を作るという体験をしようというわけなのです。今日は最初のチームが、陶芸家の先生の所へと向かいました。「てびねり」と「電気ろくろ」を使って、器づくりに挑戦です。

琉球の焼き物の歴史
沖縄の焼き物の歴史は、今からおよそ6600年前と言われています。いわゆる土器の時代です。土器の使用は、16世紀ごろまで続きますが、12世紀ごろになりますと、カムイ焼きと呼ばれる灰黒色の焼き物が出現します。しかし、このカムイ焼きは、15世紀ごろには姿を消します。12世紀ごろからは、中国陶器をはじめとする外国物の陶器が琉球にも輸入されだします。14世紀末から15世紀初めのピーク時には、中国産の他に朝鮮、タイ、ベトナム、日本産などの陶器も多く輸入されるようになります。一方、14世紀後半から16、17世紀になりますと器などの他に瓦などもたくさん焼かれるようになります。16世紀の終わりごろ、海外陶器の輸入が下火になるころから、琉球独自の焼き物が焼かれるようになってきます。湧田焼、喜名焼・知花焼、壺屋焼、古我知焼、作場焼、八重山焼などという古窯の存在が確認されています。こうした各窯では、さかんに壺や瓦、生活雑器までと様々な陶器が焼かれました。
1682年には、このように各地にあった窯が、首里王府の手によって、壺屋に集められ、以後、壺屋が沖縄の焼物の中心地となったのです。明治以降は、本土磁器の影響などを受け、琉球らしさが失われた時期もありましたが、戦後は、沖縄らしさを求めた作品なども復活しだし、煙害問題などで登り窯が使えなくなった壺屋の状況とも関連し、沖縄全県に工房などが広がっていきました。中でも米軍基地の跡地利用の一環として、村を上げ窯元の誘致をした読谷村では、多くの陶工が集まる、「やちむんの里」を建設し、沖縄における焼き物の新しい中心地の一つとなっています。

各古窯の特徴
湧田焼
1616年に薩摩から連れてこられた朝鮮人陶工の指導により始まったと言われています。釉薬をかけた施釉陶器が代表的な製品です。透明な釉薬をかけたシンプルなつくりの椀(マカイ)などは、どんな食材にも合う涼しげな陶器です。

喜名焼・知花焼
器面に泥釉やマンガン釉をかけてあります。したがって、全体的には、濃い焦げ茶のような色をしています。壺やカメなどの大型品から、椀などの小型品まで作られています。


壺屋焼
先行していた、湧田焼や喜名焼・知花焼の技術を継承しているといわれています。大きくわけ、荒焼(アラヤチ)と上焼(ジョーヤチ)の 2つの種類からなります。

古我知焼
飴釉や国釉が用いられ、カメや壺などの大型品では、布やわらで釉薬を荒くぬる、「布拭き」「藁拭き」と言われる独特の技法が使われました。

作場焼(さばやき)
大宜味村謝名城に窯があったと言われています。椀、すり鉢、徳利、カメ、壺などが作られていたとされています。

八重山焼
1724年に仲村渠致元(なかんだかりちげん)が国王の命を受けて、八重山に陶器の製法を伝えたのがそのルーツであると言われています。荒焼、上焼両方の技法が伝えられたと言われていますが、現在の伝えられている製品の多くは、荒焼だそうです。

壺屋焼の2つの技法
荒焼
釉薬をかけないか、泥釉およびマンガン釉をかけて焼いたものを言っています。焼き上げる温度は、約1120℃です。見た感じは、黒っぽい色で光沢はなく質実剛健な、素朴な味がある陶器です。大型の壺やカメなどによく見られるます。

上焼
釉薬をかけて焼きあげる施釉陶器をまとめて呼びます。焼きあげる温度は、約1200℃と言われています。日用雑器から酒器まで、様々な用途の器が焼かれています。赤や緑、黄色などの色を使った上絵、その上から透明釉がかけられています。表面に光沢があり、南国特有の伸びやかで特徴ある絵柄が書かれている上焼は、琉球の陶器らしい雰囲気を持っています。
ということで、将来的には、ぜひ一度、登り窯を使って陶芸をやりたいと思ってはいるのですが、まずは基礎からということで、ともかく体験をしようと1日陶芸となったわけです。私たちの先生は、まだまだ若いキュートな女性の先生でして、彼女の作品は、モダンでさわやかな感じがする透明感がある焼き物です。そんな彼女の作品を個人的ではありますが、非常に気に入りまして、勢い作ることも教わろうとセッティングしたのです。彼女の工房は、大山というところにあり、もとの米軍住宅を工房としています。

この日、私たちが体験をした作り方は、以前の報告にも書きましたが、「手びねり」と「電気ろくろ」です。「手びねり」は固定されたろくろの上に、粘土を積み重ねていって形を作っていきます。「電気ろくろ」は、よく皆さんもテレビなどで観たことがあるかとは思いますが、電動でクルクル回るろくろの上に、少々、水気を含んだ粘土を置き、回転とともに手で力を加え、形を変形させ、器やら壺やらを作っていく方法です。私としては、「手びねり」より、「電気ろくろ」の方が難しい、まあ、どっちも難しいのですが、力の入れ加減が難しかった、「電気ろくろ」の方がより難しかったです。まだ、たった1回の私たちがとやかく言える筋合いではありません。ともかく、数日後、焼き上がってきた器たちを見るなり、次は、ここをもっとこうゆう風にしなくてはいけないと直ぐに思ったのでした。つまり、当分は、はまりそうだということです。子どもが土いじりが好きなのと同じように、これは、おそらく人間の本能として、土をこねるということは何かが満たされる行為なのではないかと思ったのです。今後は、自分たちも作るということと沖縄の産業や文化、芸術などとして、どういった意味を持つものなのかという点についてもさらに学習を進めていきたいと思っています。

フィールドワーカーの声
午前中、ソーメンチャンプルーをごちそうになった。以前、自分の家で作ったときとは全然、味が違っていた。おいしかった。また、家で作ってみようと思う。午後は陶芸をした。簡単なようで難しい。
                   Y.

午前中は、ソーメンチャンプルーなどをごちそうになった。その後、陶芸をしに大山まで行きました。多少、早く着いたので、予定より少し早くはじまりました。まず説明を聞いた後、手動のろくろを使って作ることになりました。手動のろくろは難しく、なかなか思うような形にはなりませんでした。次に電動のろくろで作ってみました。電動ろくろは使いやすく、かなり自分の思った通りの形が作れたと思います。
                   T.

陶芸をしたら、すごくのどが乾きました。手動の台と電動の台ありました。電動の台は、うまくいけば綺麗な形を作ることができますが、失敗すると全部をやり直さないといけないので難しいです。先生の作品はきれいですばらしいのですが、自分のは、中途半端なものになってしまいました。私が住んでいる鎌倉の海岸にも昔の陶器の破片が打ち上げられるという話しを聞き驚きました。
                   O.

ソーメンチャンプルーを食べました。ソーメンにいろいろ混ぜて炒めたものでした。おかわりをしたら、すごい量だったので、食べきれるかなと思いしたが、食べてみたら見た目ほど量は多くなく、食べれてしまいました。味付けはそんなに濃い味ではなったので、これが健康によいのかもしれないと思いました。
                   S.

陶芸はおもしろかった。指先を使うからボケ防止によいそうだ。ボケ防止でなくても、土を触っていたら体調が良くなった。やはり自然のものは体に良い。陶芸は焼き方も釉薬などでだいぶ変わったりするらしい。繊細というか奥が深いなと思った。
                   A.
ディープ沖縄
シーサー
今日は陶芸の話しをしましたので、その関連で、シーサーの話しをしましょう。 沖縄の街を歩いておりますと、ふと見上げると、家の屋根の上に見慣れない動物の像がちょこんと座っているのに気がつくと思います。そう、そいつがシーサーです。焼物でできた猫のような犬のような獅子のような、あぐうと口を開けて、番犬のような顔つきです。


似たようなやつをヤマトでも見たことがあるとすぐに気がつく人もいると思います。そうです。神社の入り口にいる狛犬。そうなんです親戚です。今を去ること約500年ぐらい前、さかんになった中国との貿易とともに大陸から渡ってきたそうです。沖縄のシーサーは、神社の狛犬とは違って、一般の家の屋根の上に対で座っています。意味は、やはり厄除けで、この家、全体に不幸が訪れないようバリヤを張っているそうです。もとはおそらく獅子だと思います。獅子はいつの時代にも厄除けの動物としていろいろな所に出てきますよね。そうそう、ピラミッドにもスフィンクスという獅子がそばにいます。エジプトの獅子は、獅子座と関係があり獅子座が天空に出てくる季節が古代エジプト人にとって、重要な意味があったそうです。他にもインドネシアやチベットにも獅子はいるそうです。どの地域も、もし、獅子がライオンであれば、ライオンが生息していない地域ばかりです。そのライオンがアジアの方に伝播していくについれて、厄除けの動物になるというのはとても興味深いです。

ちなみに沖縄で最も古いシーサーは、先日紹介をした、首里にある玉陵にあるシーサーだそうです。玉陵は、琉球王朝・第二尚氏王統のお墓なので、16世紀の前半であろうと思われます。
今度、うちにも小さなシーサーつけてみるかな、自分がはらわれてしまうか。貧乏神な私。

現地レポート−20
【6月28日】
今日は宜野座村へ行きました。宜野座村は、知っている方も多いと思います。今年の春の選抜高校野球でベスト4まで残った、「宜野座高校」がある村です。高校野球で一躍全国区になりました宜野座村とは、村のパンフレットによりますと。

宜野座村
【位置および地勢】
沖縄県の中央海岸側、東経127度58分42秒、北緯26度28分40秒と那覇から55kmの本島北部に位置している、東は太平洋に面し、南は、金武町、北西に恩納村、北東に名護市の1市2町村の面しています。宜野座村の南北を縦走する一連の山々は、北から古知屋岳、宜野座岳、ガラマン岳、漢那岳です。それらの分水嶺によって、市町村を分けています。これらの山々は、本村のバックボーンであり、水源の涵養と台風の季節をさえぎる自然の屏風です。海岸部では、慶武原川、鍋川、宜野座川、漢那川が太平洋にそそぎ込み、変化に富んだ海岸線を作っています。
【面積】
宜野座村の総面積は、31.27平方kmです。東西7km、南北8kmとほぼ同距です。村の総面積の約50%にあたる山手の山林原野地域が、米軍用地として接収されています。
【人口】
宜野座村の人口は、約4,900人、世帯数は1,520世帯で昭和47年以降、年々増加しています。これは、沖縄自動車道をはじめとする交通網が整備され中南部への通勤が可能になったり、近代化農業の導入により活発化してきた、畜産、花き園芸、果樹栽培やその他、水産業などの産業における後継者育成の成果があらわれているからだと言われています。
【環境】
宜野座村は、年の平均気温が22.2度で、湿度が80%という高温多湿な地域です。しかし、季節感にあふれた自然環境は素晴らしいものだそうです。なかでも初夏には、三方向の山々が、新緑で覆われ、爽快で美しいそうです。真っ白ないじゅの花が咲き、小鳥のさえずりが絶え間なく聞かれる田園的でこじんまりとした静かな村です。
そんな宜野座村へ、私たちは、那覇から沖縄自動車道を利用して向かいました。思ったより時間はかからず、約50分ぐらいで宜野座村へ到着しました。初めての場所に来ると私たちが最初に向かうのは、前にも書きましたが、役場です。役場には、その地域の様々な情報が集まっているからです。宜野座村の役場は、なかなかモダンで立派な建物でした。さっそく、担当部署に行き資料をもらうことにしました。担当部署と言っても村などの場合は、いろいろなセクションを兼ねている場合が多いです。観光課や統計課や総務課、企画課などの、村の様々な資料を頂くことができました。後ほど、これらの資料に目を通すだけでもたいへんな学習になります。役場を後に私たちが向かったのは、これまた初めての場所の場合、定番の場所ですが、博物館です。村立博物館は、村の歴史や文化について、わかりやすくまとめたなかなか好感の持てる場所でした。さて、次に私たちが向かったのは、今年のFWにおいて、1つのテーマになっている風力発電の実際の現場へ行きました。

風力発電
ここ宜野座村には、沖縄電力の風力発電実証研究設備があります。宜野座村の太平洋に面した松田地区に、各国の6基の風車が設置され回っています。風速2.5m/sから発電を始め、最大で250〜500kwの発電量を持つ、風車群です。真っ青な空と海をバックに悠々と回る、大きな風車の風景は圧巻で、未来を感じさせます。ここ宜野座実証研究設備では、いくつかのタイプの違う風車を実際に稼働させてみて、環境の変化等によって、どのように稼働性能やメンテナンスが違うかという、将来の実用化に向けての基礎データを収集しているそうです。

この研究施設にある風車は、1号機(メーカー:ラガウェイ(オランダ) 定格出力:250kw 起動/停止風力:3/25m/s 羽の枚数:2 ローター直径:30.0m タワーの高さ:40.0m)、2号機(ジェイコブス(ドイツ) 500kw 3.2/25m/s 3 37.5m 40.3m)、3号機(三菱重工(日本) 500kw 3.5/24m/s 3 39.5m 38.0m)、4号機(ファーランド(ドイツ) 300kw 2.5/25m/s 3 29.5m 30.9m)、5号機(ノルデックス(デンマーク) 250kw 3/25m/s 3 29.7m 31.7m)、6号機(エネルコン(ドイツ) 280kw 2.5/25m/s 3 26.0m 36.0m)です。メーカーは、やはり、風力発電の先進国であるドイツの会社が多いです。

沖縄電力が風力発電に注目をしているのは、沖縄県のように多くの離島を抱えている地域では、その島々に電気を供給するのに様々なコストがかかっているので、そういった点を少しでも軽減しようとしているからです。今のところ島の電力を100%風力にしてしまうのは不可能なので、その他の方法とうまく組み合わせ、いわゆるハイブリッドなシステムにしたいということでした。しかし、現実的には、塩害や風力を安定させるための設置場所など、まだまだ研究をしなくてはいけないことが多くあるそうです。公的な立場として、電力を供給しなくてはいけない電力会社としては、常時、平常時の10倍ぐらいの電力供給力を持っていないと突然のピーク時に絶えきれなくなって停電になってしまう可能性が出てきてしまう、これを避けるために様々な発電方法を確保しておくことは重要だということでした。

ということで、沖縄での風力発電は、環境保全ということもさることながら、むしろ、他の地域にはない地域性がゆえ、現実的な選択の一つとして、風力発電というシステムを取り込もうとしているように感じました。ちなみに1機の風車を設置するのに、もろもろで
約1億円ぐらいかかるそうです。市民や自治体などがやる場合は、国から半分ぐらいの補助が出るそうです。ちょっと試算をしてみました。500kwの風車を1つ設置した場合、1ヶ月の稼働日数を20日ぐらいとふみますと20日×24時間=480時間、500kw×480時間=240,000kw時となります。学園の場合、夏の時期で、1ヶ月約800kw時の電力を使っているので、240,000kw時÷800kw時=300となります。つまり、単純計算をした場合、風車1機で、学園300軒分の電力をカバーできることになります。電気代に換算すると1ヶ月約2万円ですから、300軒×2万円=600万円分になります。年間にすれば、600万円×12ヶ月=7,200万円に相当するわけです。ということは、7,200万円−24万円(自家用分)=7,176万円、もし、この価格の50%で電力会社等が買い取ってくれれば、約3,500万円の利益があがることになります。すすごい。直ぐに元が取れる。これは、まさに取らぬ狸の皮算用です。電力事業の難しい点は、電気は溜めておけないということです。そして、風車のメンテナンスや自然条件の変化など一定の環境を計算に入れ保証できない点です。

にも関わらず、風力先進国であるドイツなどでは、風力発電の需要が伸びていますし、民間の市民団体などが数多く設置をしています。どうして可能なんでしょう。とても不思議に思いました。今年のFWEUでは、ドイツにおいてそこらへんの状況などもリサーチしてきたいと思っています。興味のある方はどうぞご参加を。

また、代替エネルギーの問題は、地球にとっての環境問題、人類にとってのエネルギー問題など未来における重要な課題だけに、私たちとしても今後とも継続的に関わっていきたいと思っています。将来的には、学校のエネルギーなどを風力などで自前でまかなえるようになれたら最高と思っているのですが、風の学園だけに。

研究施設で、働いているさわやかな青年たちに見送られて、私たちは昼食をとりに村の産物の直売センターである、「未来ぎのざ」へ向かいました。村の特産物である果物やさとうきび、ジャガイモを

はじめ、観葉植物、各種食品、陶芸、工芸、薬草など数多くの品物が販売されています。最近は特に、ジャガイモに力を入れていて、ジャガそば、ジャガもち、ジャガアイス、ジャガアンダギーなどが店頭を賑やかせています。さっそく食堂で、ジャガそばやらジャガアイスやらを食べて、クールダウンをしました。

午後からは、宜野座村の周辺の自然を見ようと漢那ダムへ行くことにしました。あまりの暑さにもうろうとしながらダム周辺の探索コースを歩き、ダムの脇に併設されているダム資料館では、近辺の河川に住む、大うなぎなどを観てさすが、やんばる自然が濃厚だなと感激したのでした。今回のFWでは、沖縄の自治体として、読谷村と宜野座村に注目をしました。どちらの村も、まだまだ、奥が深くもっと定点的な調査が必要だと痛感しました。

今年は、両村ともさわり程度でした。

その後、無事に那覇へと戻りました。

フィールドワーカーの声
100万kwの電力を作るのには、100万kwの発電力のある発電基を1基つくるより、故障などのことを考えると10万kwの発電基を10基つくった方がよいとのことなど興味深い話しでした。
                     O.

今日も自分の力不足を痛感した。数字などに弱い。単純にわかったことは、1人の人が、1日で大体0.6〜0.8kwぐらいの電力を消費するそうだ。沖電の方が、「日本人は、水と電気はただだと思っている」と言っていたが、確かに、スイッチを入れば必ず電気はつくと思っている。パッチとつくまでは、裏では色々な苦労があるんだと思った。

                     A.

ディープ沖縄
ビーチピープル
夏と言えば海水浴ですな。まあ、沖縄の場合、真冬の時期を除けば、どこかで泳げはします。私も何度か真夏のビーチに泳ぎに行ったことがあります。ビーチはどこも素晴らしいです。私の育った湘南海岸とは海の質が違います。比べてはいけない違う海です。珊瑚礁の粒々でできた浜はどこまでも白く、空は底抜けに青く、海の水は澄んで透明です。海に浮かぶ船をパッと見るとまるで、空中に浮かんでいるように見えるときもあるほどです。陸には、ヤシをはじめとする南方の植物が緑々と生い茂り、緑、青、白、透明のコントラストは、その強烈な太陽光線の下、まるで線を引いたかのようにくっきりと浮かび上がるのでした。

さて、ビーチの大敵は、何と言ってもこの強力な太陽光線です。ただでさえ強い沖縄の太陽光線、夏、それも昼時なんてことになりますと役がついて超強力になっているわけです。そこに、本土からきた若者たちなんぞが、美しい海につい開放的になり素肌をさらすとまったく取り返しがつかないことになるのです。やけど、そう健康的な日焼けではなく、それはやけどです。

沖縄のビーチに1日いますと、昼時には地元の人は誰もいません。ローカルの人たちが、ビーチに出てくるのは、陽も少し傾きかけた夕方です。皆、水着の上にTシャツや長袖のシャツを着たまま、元気に海に飛び込んでいきます。子どもたちは、服のまま、海の中で 大騒ぎをしています。年輩の方々も職後のひと泳ぎとザンブリと漂っています。陽が沈むまでには、まだまだ時間があります。気温も水温も泳いだところで何ら問題はありません。ちょうど、泳ぎ疲れたころ、ようやく陽が沈みはじめます。海面はにわかにオレンジ色に覆われだします。暗くなってきたことにも気がつかずに波間で漂っている子どもたちの顔をオレンジの光りが包みます。波紋の一つ、一つに様々な太陽の色がつきます。

そうです。沖縄でビーチに行くのは、午後からそれも夕方近くになってからの方が断然いいわけさ。

現地レポート−21
【6月29日】
今日は、陶芸体験のチームや地域探索のチームやらに分かれて行動をしました。私たちのチームは、午前中、陶芸の体験をした後、宜野湾にある佐喜真美術館へ行きました。普天間基地に隣接するこの私設の美術館は、丸木位里さん、俊さんの、「沖縄戦の図」があることで有名です。また、この美術館が建つ場所は、元々は、普天間基地の軍用地の中で、館長である佐喜真さんが返還交渉をして、設置をした場所でもあります。


普天間基地

普天間基地飛行場は、第1海兵航空団(司令部:キャンプ端慶覧)のヘリコプター部隊である第36海兵航空群が司令部をおき、使用している飛行場として知られています。キャンプ端慶覧のすぐ南に位置し、国道58号線と国道330号線にはさまれた場所にあります。行政的には宜野湾市に属します。北東に走る2800m×46mの滑走路を有しています。基地は、「普天間海兵隊航空基地」(MCAS FUTENMA)という名の部隊によって管理をされています。「普天間海兵隊航空基地」は、施設の名前としても使われるので、わかりずらいのですが、同じ名の部隊が存在します。かつては、キャンプバトラーの管理下にありましたが、現在は独立した部隊だそうです。したがって、基地の司令官は、普天間海兵隊航空基地司令官ということになります。キャンプ端慶覧にいる司令部中隊と第17航空団支援群をのぞいて、第1海兵航空団のほとんどの部隊が普天間飛行場に駐留しているそうです。第36海兵航空群隷下の様々な飛行中隊、第18海兵航空管制群隷下の管制中隊や対空ミサイル大軍などが主な部隊です。普天間飛行場は、嘉手納飛行場の補助的役割も果たしていて、第1
海兵航空団以外の海兵隊機、さらに米空軍機や米海軍機の離発着も多いそうです。岩国海兵隊のA−6イントルーダー、FA−18ホーネット、空軍の大型輸送機C−5ギャラクシー、C−141スターリフターや海軍のP−3Cオライアンなどがしばしばこの基地を利用しています。 (参考文献 沖縄の米軍:梅林宏道:高文研)

軍用地
沖縄の町を歩いていると軍用地なる言葉を度々目にします。軍用地とは、いったいどのような土地なんでしょうか。ここで少し、沖縄における土地の話しをしたいと思います。土地の話しと言っても、別段、一般の土地の話しではなく、基地にからむ土地の話しです。まず、大略の話しです。太平洋戦争以前、日本軍が沖縄の各地に基地を建設しました。その際、軍は、地主たちと簡単な契約やら口約束で土地を供出させました。多くの地主たちは、戦争が終われば返してもらえるであろうと非常時のお国のためにと土地を提供しました。沖縄戦が始まり、以前にも書きましたようにアメリカ軍は、日本軍の基地を利用するためいち早く、日本軍の基地を占領をしました。戦争も終わり、自分たちの土地は返されるものと思っていたところ、日本軍の供出した場所は、そのまま占領軍の基地の中になってしまいました。当然、土地はもどってはきませんでした。

占領中、アメリカ軍は、度々、自分たちの占領を合理化するために法令等を配布します。1952年「契約権」、1953年「土地収用法」「軍用地域内の不動産の使用に対する補償」、1956年「プライス勧告」、しかしながら当然のようにこれらの法律は、アメリカ軍のためのものであるために、沖縄の人たちから見れば、不平等なものの何ものでもありませんでした。アメリカ軍にとっての軍用地の恒久化、拡張の背景には、冷戦の開始、朝鮮戦争等、東アジアにおけるアメリカの利益を守るための拠点確保の必要性が高まったことがあったわけです。

好きなように土地を使っていたアメリカ軍に対して、沖縄の人たちは、「新規土地接収反対」「損害賠償」「適正補償」「地料の一括払い反対(永久的取得)」というスローガンを掲げ、島ぐるみの闘争を展開しました。結果、50年代の後半にもなりますとアメリカ

軍もまずいと思ったのか、サンフランシスコ講和条約発効後、支払われていた少ない地代を一気に大幅に引き上げます。

このような状況の中、1972年の本土復帰とともに新たなというか、あたり前の問題が浮上してきます。沖縄の人たちから見れば、戦前、戦後を通して占領されてしまっていた自分たちの土地が復帰と同時にもどってくると思っていました。しかし、日米安全保障条約に基づき日本政府は引き続き、軍用地をアメリカ軍に提供することになるわけです。その中で、発生してきた国にとっての問題は、占領下において、アメリカ軍が強制で使用をしていた用地を持つ地主さんたちと日本の法令下における正式な契約を結ばなくてはいけなくなったことです。今までの経過からみて、契約に応じてくれる地主さんが少ないとみた日本政府は、復帰時には、公用地法なる法律を制定し、軍用地を公用地として軍用地を復帰後5年間は契約なしで強制使用が可能であるとし、その後、さらにこの公用地法を利用して、10年間にわたり強制使用を続けます。その後は、それまで実質運用されていなかった米軍用地収用特措法を持ち出し、強制使用と県知事の代理署名を繰り返していたのです。それが、97年〜98年にかけて、前沖縄県知事の太田さんの代理署名拒否から発し、特措法の改正へと至った流れは記憶に新しいと思います。ということで、結果を言えば、戦後半世紀以上経った現在においても多くの軍用地、中でも民間の土地は、強制的に使用されつづけているのです。

土地問題にからむ考察ポイント
土地問題にからむ考察ポイントだけ列記しておきましょう。国は、賃借料を一般と比べて、かなり高い水準に設定している。沖縄の経済は基地経済で持っていると言われている。こうしたポイントに対 して、国は金で解決をしようとしている。復帰後の沖縄経済は、実は、基地経済が中心ではない。ということで、とにかく日本政府がどうして、そこまでして基地を沖縄におきたがっているのかという
ことが最大なポイントではあります。どうぞ皆さんも調べてみてください。

米軍の強制使用時代における、「島ぐるみ」の闘争については、伊江島の闘いで著名な阿波根昌鴻さんの著作や彼のドキュメント映画などを観てもらえると当時の様子がよくわかります。機会があったらどうぞご覧ください。

美術館を観た後、宿舎に戻りました。

ディープ沖縄
名前
沖縄に来て、電話帳を見ると多い名字は、比嘉、金城、大城、宮城、新垣となります。順番に、ヒガ、キンジョウ、オオシロ、ミヤギ、アラカキです。さらに名前となりますと、これが難しいのです。どう読めばよいのかおおいに迷います。政賢、安真、正忠、良孝、ふつう、順にセイケン、アンシン、セイチュウ、リョウコウなどと読みます。特に名前の場合、このように音読みにすることが多いのです。どうして、そうなっているのかと知り合いに聞いてみました。

聞くところによりますと、一つの理由は、やはり、中国の影響であろうということでした。そして、もう一つは、「門中」という制度の影響ではないかということでした。この門中という制度は、どのような制度かと言いますと、近世の沖縄の支配層であった氏族連中が、定めた父系の血縁集団の総称を指したものです。その中に血縁集団としてのしきたりがいろいろ決められていたそうです。その一つに、門中ごとに自分たちの一族には、決められた漢字を1字入れることになっていたそうです。例えば、その一族の名乗り頭の漢字が、「安」であったとすれば、子孫には全てこの「アン」と言う読みの漢字が入れられるわけです。そう言えば、チュラさんに出てくる一族は、「恵文」「恵尚」「恵達」だったですね。古波蔵家の名乗り頭は、「恵」ということなのでしょうか。

現地レポート−22
【6月30日】
久高島
ヘーイヘーイヘー
キューガ
ホーイホーヌーイハーイ
トゥチノーチ

ヘーイヘーイヘー
ナマガ
ホーイホーヌーイハーイ
トゥチノーチ

ヘーイヘーイヘー
ウリティ
ホーイホーヌーイハーイ
ウリナーチ

ヘーイヘーイヘー
ニライヌ
ホーイホーヌーイハーイ
アマミゥティジ

ヘーイヘーイヘー
ニライヌ
ホーイホーヌーイハーイ
アマミウティジ

ヘーイヘーイヘー
クニチャシャヌ
ホーイホーヌーイハーイ
ニガンウティジ
今日は、最後の遠出です。那覇から車で小1時間ぐらい南に下った所にある知念半島、その先っぽにある安座真港をめざしました。なぜ、その港を目指したかといいますと、その港から、琉球神話発祥の地である久高島へいく船が出ているからです。人数がちょうどよい人数だったので、今日はタクシーを利用しました。ワリカンで払えば、バス代にちょっと出るぐらいで済みます。車は、与那原、佐敷を通り、知念半島の東側に出ました。最近、新しく整備をされた安座真港は、小さいながらも綺麗な待合い所を持つ港でした。港の前に広がる太平洋は、真っ青な海原を海の彼方まで広げていました。待合い所で島までの往復の切符を買います。船は2艘あって、旧型の新龍丸と新型高速船のニューくだかです。この2艘がかわりばんつに行って帰ってを繰り返しています。ニューくだかで行くと約15分です。旧型の新龍丸だって、約25分です。まあ、港から目と鼻の距離にあるわけです。でも、あなどってはいけません。実は、この間には、深い溝のような所があって、潮の流れが急なのです。一度、波が出ると小船など波間に隠れてしまうほどの大波が立ちます。10時の新龍丸に間に合った私たちは、おにぎりポークなどを食べてから元気に乗船しました。新龍丸は、20人も乗ったらいっぱいになってしまうでしょうか。小さな遊覧船のような船です。まさに波をいっぱい蹴散らせてという感じで、エンジンの音もスパルタンに大海原に乗り出していきました。

静かな港を出ると海の色が刻一刻と変化をしていきます。透明だった水の色がいつしか、深いブルーへと変わっていきます。右手を見ると白い珊瑚の砂だけの無人島が、海面に姿を表しています。真っ青の海の中にまるで、ゼラニュウム糖をまぶしたような島です。どうやら船は深いところに到達したよ

うです。潮の流れも早いのでしょう。だんだん見えてきた島に対して、斜めに船首を向け、斜に海流を突っ切っていきます。波のしぶきが飛んできます。近いながらも離島へと渡っているという気分は十分です。波にもまれ、クラクラしだしたころ、船は波静かな徳仁港へと滑りこみます。水はますます澄んでいます。港に停泊をしている船たちは、まるで空中に浮かんでいるようです。

フラフラしながら島に第1歩を踏み出しました。昼にはまだ早めなのですが、島探索に出かけてしまうと食事を食べるところがなくなってしまうので、早めの昼食にすることにしました。以前は、島唯一の食堂だった、「けい」に向かいました。今は違うといっても2軒ですが。食堂で特製カレーを食べまして、いざ島探索へと、おっと、その前に足を確保しましょう。歩いても十分な広さなのではありますが、機動力を増すためには、文明の力です。そう、自転車。自転車を借りに島唯一のレンタルショップへ、各自、マイチャリを確保して出発です。さて、最初にどこへ行きましょうか。いきなり、水やら食料を買いたいということになり、これまた島で唯一の店へ、ふつうの家の庭先に店があります。外から見ただけではわかりません。さあ、今度こそスタートです。島の地理を知るには、まず、久高小中学校の正門前に行きます。そこに壁新聞のように島の詳しい地図が掲げてあります。その地図を見ながら島の概要について説明を読みます。

まず私たちが最初の向かったのは、島の祭事のときの会場になる、「外間殿」「久高殿」です。小さな広場の回りを囲むように社のような家が建っています。広場の作りや建物の配置、それぞれに意味があるはずです。ふうつの日である今日は、よく村にある集会所のような雰囲気ではありますが、空
間としての凝縮した密度を感じる場所です。さらに細い路地を先に進みます。昔ながらの形式の家々が軒を連ねます。家並みが切れたところあたりに亀甲墓の一群があります。南国の強い日射しの中、真っ青な海を背景にした亀甲墓群です。お墓というより、モニュメントといったような明るさがあります。お墓を過ぎるとあたり、熱帯植物が生い茂った、うっそうとした森になってきます。左の方を見るとそのうっそうとした木々の間から、真っ青な海がかいま見えます。森の緑と海の青、そして、空の紺と白い雲、それらの組合せがまるで、初めて観た総天然色の映画の一場面のように目に焼き付きます。

そんな細い砂利道を進んでいきますと、ふと海に降りられる小径の場所に出ます。急な階段の小径を海岸に向かい降りていきます。小径の下は、真っ白な砂の小さな入り江になっています。浜の前には珊瑚礁が沖に向かって広がっています。どう見ても綺麗な場所です。自然は、なぜ綺麗なものを知っているのでしょうか。この創造は偶然のものなのでしょうか。そんな入り江の奥まったところに清水が湧きだしている所があります。聖なる清水である、「ヤグルガー」の泉です。島には川がありません。その昔、島人たちの大事な水場の1つであったといいます。

ヤグルガーをあとにして、森の中の砂利道をさらに進んでいきますと、「フボーウタキ」の入り口に突き当たります。このウタキは、男子禁制の場所であるため、私は入ることができません。話しによりますとクバが生い茂るジャングルの一画に小さな広場があり、そこに一筋の太陽光が射し込んでいるとのことです。「フーボーウタキ」では、大漁祈願や害虫払い祈願などが行われます。島の真ん中を背骨のように走っている道に出て、島の北端にある、「カベール岬」を目指します。

途中、道の両側のカベールの森には、多くの、「クバ」が植生し、久高島がびろうの島であると言われる理由がよくわかります。突き刺すような太陽の光りの中、もうこれ以上先のない荒々しい岬に出ました。ここ、カベール岬では、「ヒータチ」という大漁祈願がされます。この先がまさにニライカナイ、あの世とこの世の境なのでしょうか。この岬に琉球の創世神・アマミキヨが上陸したと言われています。


最後に私たちが向かったのは、島の東側の広がる伊敷浜です。ニライカナイより五穀の種が入った壺が流れついたと言われるこの浜は、まぶしいほどの白砂が、ゴツゴツした岩の間に続いています。浜の白さと岩の焦げ茶、そして、その岩礁の上に群生する浜の植物、浜の背後には、背の高い南洋植物が生い茂っています。浜を作っている一つ、一つの構成物に無駄なものはありません。こうした全ての構成物が絶妙な組合せで、聖地の一つであるここ伊敷浜を創りあげているのです。ニライカナイの方角を臨み、ただただ、私たちは浜にたたずむのでした。でも、スゲー暑い!


汗をちょちょ切りながら、森の中の道を自転車で疾走し、ヤギ橋くんに声援をもらいながらも島を一周したきた私たちは、自転車を返すと島の休憩所へと飛び込み、冷水器から浴びるように水を飲み立て続けにアイスをむさぼったのでした。帰りもちょうど戻ってきた新龍丸です。私たちにとっての未知との遭遇は、南国の強烈な太陽の下、その光線以上に鮮烈な印象を私たちに残し、無事、本島へと戻っていきました。

この後、那覇に戻るまで、少々時間の余裕があったので、琉球開びゃくの七ウタキの一つで世界遺産にも指定されている、「セーファ
ウタキ」にもよりました。セーファウタキのこともいくつか報告したいのですが、まだまだ久高島のことを報告したいので、次の機会にゆずります。

久高島の神話
久高島には多くの神話が残されています。

島創り神話
「昔、アマミヤ(女神)とシラミキヨ(男神)が東方の海の彼方(ニラーハラー)から久高島にきた。ところが、久高島は東の波は西に越え、西の波は東に越え、海水の中にたゆたい、まだ島の形はなかった。そこで、アマミヤが持参のシマグシナーと称する棒を立て、神に頼んで天から土、石、草、木を降ろしてもらった。それで久高島ができた」

人創り神話
「昔、久高島の対岸にある百名からシラタル(兄)、ファガナシー(妹)が船で久高島に渡ってきた。最初は島の南端(徳仁港)で、寝る場所を七回かえながら魚介類を採って暮らしていた。その後、島の東海岸沿いアグルタキに移り住み、最後は始祖家の一つ、タルガナー家に落ち着いた。そうして二人は夫婦になり、子どもを創った。この子どもたちが久高人の始祖である」

穀物伝来神話
「昔、大里家にシマリバー(女)とアカツミー(男)が住んでいた。ある日、アカツミーがイシキ浜で漁をしていたところ沖の方から白い壺が流れてきた。アカツミーは壺を拾おうとするが沖に戻されてなかなか取れない。そこでアカツミーは一度帰り、そのことをシマリバー話しをした。シマリバーは、まずヤクルガーで、身を潔めて白い着物を着て挑めば取れると教えてくれた。アカツミーはその教えのとおりにして再びイシキ浜へ向かった。さきほどまでどうしても取れなかった白い壺が、不思議なことに難なくアカツミーの白衣の袖に入った。その白い壺には、麦、粟、アラカ、小豆の種が入っていた。麦と粟はハタスというところに植え、壺はそこに埋めた。麦、粟はここからシマ中、クニ中に広められた」

久高島の祭事
久高島では、前述した神話などに基づいた祭事が1年を通して、多く行われてきました。多くの祭事の中でも12年に一度行われていた、「イザイホー」はとても有名です。

イザイホー
12年ごとの午年に行われていました。島で生まれ育った30歳から41歳までの主婦である女性が神女に就任する儀式です。イザイホーをして神女になった女性は、死ぬとそのマブイはひとまず他の一般のシマ人と同じく、東方の海の彼方にあるあの世のニラーハラーへ行き、ニラーハラーの神々の承認を受けて守護力を備えた神霊になるとすぐに、島を守るためにウタキに帰され、そこに鎮まっています。そして、自分の孫娘が神女になると祖母にあたる彼女の霊が孫娘の守護神になるため孫娘と合体するのです。

1日目
早朝、イザイニガヤー(イザイホーをする者)が、聖泉に行って禊ぎをし、髪を洗います。洗い髪のまま身なりを整えると、家の祭祀を司る巫女ティンユタに伴われて、亡祖母の出自家を訪問します。そこで、亡祖母が生前、家族守護の拠り所にしていた香炉から、持参した新香炉に灰を三つまみ移し入れて、帰宅します。これは、ウタキに鎮まる祖母霊が孫娘の家に再生する場所として香炉が用意され、霊の継承の準備ができたことを意味します。夕刻、洗い髪に白装束の孫娘たちは、シマの祭場である久高殿に設定された他界空間ともいうべき、「籠り小屋」(七ツ屋)に、中にいるそれぞれの祖母霊に会うため、小屋の前にる七ツ橋を渡って入ります。そして、それぞれの祖母霊と一夜を過ごします。(夜籠り)
2日目
祖母霊と一夜を過ごしたイザイニガヤーが午前中に、ふたたびこの世に登場して、ハシララリアシビ(洗い髪たれ遊び)という舞いの儀式を行います。

3日目
午前、孫娘たちは、それまでの白色の内衣に上からウプジン(大きい着物)という白色の神衣を羽織り、髪は結い上げたものに銀のかんざしをさし、頭にはシルサージ(白いはちまき)をしめて籠り小屋からこの世のミヤ(庭)に登場します。これは、祖母霊を頭部に憑依させている状態をしめし、祖母霊の守護力を備えたナンチュ(成女)として、一人前のタマガエー(神女)となったことを意味しています。この一連の儀式をシユリイキ(朱付)と呼んでいます。

4日目
午前中は、ニラーハラー遥拝などのあと、祖母霊と合体し守護力を備えた神女が、わが家に帰り、守護される者の象徴であるイシキャー(兄)から酒盃を受けます。(アサンマーイ)(家まわり)午後にかけては、フカマトウン(外間殿)、久高殿において、イザイホー無事終了の祝宴(グウキマーイ)(桶まわり)が開催されます。

参考文献:日本人の魂の原郷沖縄久高島 比嘉康雄 著(集英社)

これらは、久高島の例祭のほんの一部です。興味を持った人は、いろいろと調べてみてください。

フィールドワーカーの声
今日は、かなり濃い場所をたくさん回った。七ウタキのうち2つに行った。2カ所とも素晴らしい場所で、たくさんの植物が生えていました。たくさんの植物が生えたいたわけだけれど、それが野放図ではなく、人工でもないのに自然と調和的に育っていた。とても不思議な感じがした。
                        A.

ディープ沖縄
マブイ
沖縄では、何かショックなことなどを受けて、自失呆然となったり、腑抜けのような状態になったりすると、「マブイ(魂)を落とす」なんていう言い方をします。落としたマブイは、拾ってもとの状態に戻さなくてはいけません。拾ってもとの状態に戻す儀式をマブイグミ(魂込め)の儀式と言います。それは、マブイを落としたと思われる場所に落とした人と行き、「マブヤー、マブヤー、ウーティクーヨー(魂よ、魂よ、追ってきなさいよ)」と唱え、そこに落ちている小石を3個拾って、落とした人の懐に入れてマブイを戻すそうです。落とした人が歩ける状態でない場合は、その人の服を持っていって同じ儀式をし、拾った小石を服に包んで持ち帰り、家でその服をマブイを落とした人に着せ、小石を懐に入れてマブイを戻すそうです。どこでマブイを落としたかわからない時は、いくつかいる神様の中でもマブイグミの力を持つと言われているフル(トイレ)の神様に頼むことになります。フルの神様は、すべての神様を束ねることができる強い力を持っているとされています。

ところで、マブイは体のどこにあるかといいますと、どうやら心臓のあたりにあるそうです。

現地レポート−23
【7月1日】
早いもので、今年のFW沖縄も最終日になりました。この2週間、毎日が再発見の連続でした。もう6年間もフィールドワークを続けてきているのに次々と新たな学習素材が生まれてきます。沖縄特有の素材もしかり、私たちが行っている他のフィールドワークとのつながりもしかり、当然、日本の持つ様々な課題とも、ある意味、無限に広がっていく学習フィールドと言ってもよいと思います。今年も次なる学習の切り口であるヒントをたくさん頂きました。まさに、どうにも止まらないという状況ではあります。

最終日の今日は、最後の休息日とし、各自が帰宅のための準備をする日としました。2週間の荷物整理をしつつ、途中で家族へのおみやげなどを買いに那覇の中心地である国際通り方面へと出向きました。
国際通り
「奇蹟の1マイル」と呼ばれたここ那覇国際通りは、沖縄の戦後復興のシンボル的な通りです。県庁所在地である那覇のまさにメインストリートです。東西に通じるこの通りは、全長約1.6kmで、東の端の安里から西の県庁前のデパート「パレットくもじ」あたりまでをさします。様々な種類の土産物屋さんや洋服屋さん、飲食店などが軒を連ねています。ざーっと西方面から歩いてみましょう。私の場合、いつも立ち寄るところはだいたい決まっていまして、ワンパターンではありますが、そのパターンを少し。

安里の交差点を曲がり国際通りに入ります。交差点から少しいくと右側にホテル西部オリオンがあります。このホテルに泊まったことはないのですが、国際通りを歩いた後、汗だくだくの体をクールダウンするためにここの喫茶コーナーをよく利用します。クーラーがよく効いているので、休憩にはもってこいなのです。さらに進みますと左右にいろいろなお店があるのですが、とりあえず私がよく利用するお店だけ紹介です。それも国際通りに面しているお店だけ。安里川を渡った右路地裏には、カレーが食べたくなったときに立ち寄る洋食屋Naturaがあります。昼のランチなどもおいしいです。そして、左側に牧志の郵便局が見えてくると、おっそうそう、牧志の郵便局はよく利用するのですが、沖縄ならではのオリジナル切手を毎回ここでチェックをしています。向かいの右側の牧志バス停の前にある球陽堂書店も沖縄関係の本をチェックするために来ると必ず立ち寄ります。「チュラさん」の中でも出てきていましたね。さらに歩いていくと、今度は左側にレコード屋さんがあらわれます。高良レコードです。ここも沖縄関係にインディーズ物のCDを見るために寄るところです。ついつい、新譜が出ていると買ってしまうわけです。その通りを隔てた向かいにある雑貨屋さんは、よくポストカードを買います。

だんだんと中心部へと近づいてきました。右に沖縄三越が見えてくるとその周辺は、まさに那覇の中心としての入り口です。公設市場への入り口をはじめ、那覇の沖縄ワールドへの入り口がここにあります。三越の手前にある琉球物のお土産では有名な久高民芸館は、沖縄物の入門コーナーとしてははずせないお店です。また、三越もなかなかあなどれません。中でも私がよく立ち寄るのは、地下です。

いわゆるデパートの地下です。ここには、沖縄特産の物が集まっていて、その味を試食するにはもってこいの場所なのです。

通りの中央部を通り過ぎますと老舗といいますか、有名なお土産物屋さんが続きます。陶器、ガラス器で有名なキーストン、泡盛ならクースー屋などと、また、国際通りに通じているいろいろな小径も実は見逃せません。細い路地を曲がった向こうにはこれまた予想をだしない異次元空間が待ちかまえています。皆さんも機会があるようでしたら探検を。国際通りも終盤にさしかかってきたあたりには、アジア関係の雑貨屋さんである地球雑貨をはじめ、沖縄の民芸関係のお店などが軒を並べています。パレットくもじあたりが見えてきたころ、沖縄の特産物を専門に扱っている、「わしたショップ本店」が右手に見えてきます。選ばれた沖縄特産の品物を見るには、ここに立ち寄るのが一番です。沖縄各地の特産物が一同に集められていて、ここでの価格をもとに他の店と比較し買うことを決めるといいと思います。最近、わしたショップで買っているのは、スパイス等唐がらし関係の品です。そこからちょっと行きますと国際通り最後の大きな十字路にぶつかります。手前にバイオ風船をもらったベスト電器、左手奥に県庁、右手には、那覇のテレビ中継のときによく出るパレットくもじ前です。

デパートやギャラリー、劇場、映画館が入っている総合ビルのパレットくもじは、私もよく利用します。中でも私がよく利用しているのは、無印ショップと本屋と最上階にある手打ちそば屋です。本屋さんは、沖縄関係の本が那覇で一番多く揃えてあります。また、他の書籍も本土ではなかなか手に入らないものが置いてあったりして重宝です。そして、本を手にいれた後、行くのがそば屋さんです。ふつうの沖縄そば屋なのですが、そこに煮付け定食を食べるのが、定例になっています。ということでざっと国際通りを歩いてきました。まだまだいろいろあるんですが、あとは秘密です。お土産物ベスト3は、1位泡盛、2位ちんすこう、3位サーターアンダギーかポルシェの紅いも菓子、食い物ばかりになってしまいましたが、他のもいろいろあります。

公設市場
そうだ、ついでに公設市場界隈もちょこっと紹介しておきましょう。しかしながら、この界隈を紹介すると言っても、もう何度も来ている私でさえ、来る度に新しい路地を発見し、こんなところに店があったのかという発見の繰り返しばかりです。ということで、三越前から入る、「平和橋通り」とOPAわきから入る。「市場本通り街」あたり、それもそのさわりだけ紹介しておきましょう。


この界隈は、戦後まもなく焼き物の街、壺屋を中心に居住が許可されたのがきっかけになって、市場街が形成されていきます。いわゆる米軍の払い下げ品や横流し品を扱った闇市というやつです。米軍からもらってきたテントを使った間口半間のテント小屋のようなものだったそうです。1950年には、精肉・鮮魚の第1公設市場ができ、その後、第2公設市場、牧志公設市場と続き、今のようなコンクリート建ての市場が中心にできたのは、1972年以降だそうです。

まず先に三越前の平和橋通りの方から入ってみましょう。アーケード街になっている商店街に入ると各店舗の冷気が道に出ているようで、外よりも若干、ひんやりします。外の太陽光線があまりにも強烈のせいか、目が慣れるまで少し時間がかかります。様々なお店がぎっしりと並んでいます。隣の市場本通りよりも少し間口が広いお店が多いでしょうか。この通りで私がよく立ち寄るところは、通りの中ほどでしょうか、日用雑貨が売っている金物屋さんというのか雑貨スーパーというのか金物やら陶器やら薬やらを売っているお店です。つい先日もここで、沖縄でしか売っていない鍋を買いました。そこを出てもう少しいくと左手に坂があります。この坂あたりを桜坂といいます。この坂の上には、映画館があります。なんか懐かしい感じのする映画館です。この回りには、ローカルな食堂などがたくさん存在します。どの店も大衆食堂なんですが、味もよく量も多く、とても満足できます。平和橋通りを先に行きますと壺屋や開

南方面へと商店街は続いていきますが、ここらで、生地屋さんが集まっている十字路を右におれます。すると、間にあるむつみ橋通りを突き抜け、市場本通りへと出ます。ここらへんのお店はどのお店も間口が一間ほどのお店ばかりです。荷物の出し入れの荷車が通りやすいようにこの幅が最小単位になっているそうです。むつみ橋通りと市場本通りの間には、ガーブ川という川が流れているのですが、今は暗きょになっていまして、その上に店舗が立ち並んでいるわけです。市場本通りとぶつかった十字路の角が牧志第一公設市場です。精肉、鮮魚を中心とした市場です。あらゆる種類の肉がところ狭しと並んでいます。以前、紹介をしましたが、豚の肉などは、頭の先から足の先まですべて揃っています。魚屋には、南国特有に原色をした魚たちやシャコ貝をはじめとする貝類、蟹や伊勢海老などと山盛りの魚介類が並んでいます。ここで買った魚介類は2階の食堂で直ぐに食べることができます。

ということで、市場の2階は食堂街になっています。コの字形にお店が並んでいるのですが、私の場合、一番奥のすえひろさんで食べることが多いです。何でもおいしいのですが、私的定番である煮付けはやはりついつい頼んでしまいます。そして、とどめはぜんざいです。公設市場にくるとだいたいこんな感じでフルコースを食べてしまうのです。公設市場の回りには、八百屋さんやら天ぷら屋さんやらお惣菜屋さんやらがたくさんありまして、見ているうちにあれもこれもということになってしまうのが慣例です。で露天ショッピングに疲れますと、十字路の向こう側にあるカウンターだけのアイスクリーム屋なのかホットドック屋なのかよくわからないのですが、そこでいつも生マンゴジュースを一気に飲み干すのでした。
その後、国際通りに向けてプラプラと歩いていくわけなのですが、その途中でだいたい立ち寄るのが丸一ミートさんです。まあ、肉屋さんを中心としたスーパーマーケットなんですが、試食品をつまみつつ、最近、私の中で流行っている沖縄料理のレトルトパックなどを買ったりします。さすればOPAの脇へと出てくるのでした。ほんの上滑り市場界隈でした。公設市場あたりで買って帰るものベスト3は、1位レトルトパック、2位島唐辛子入り醤油、3位島らっきょという具合です。私は。

沖縄最後の夜はなぜかまた、山羊の刺身でしめくくられたのでした。

フィールドワーカーの声
今日は最後なのでありません。でも、帰宅してから参加者全員にアンケートを実施しています。おそらく年度末の学習報告会でも報告がされると思います。そんな機会にまた。

ディープ沖縄
まだまだ発見はあります。でも今回はこんなところにしておきます。また1年間、情報を集めておきますので、どうぞお楽しみに。興味を持ってくれたことを自分なりにさらに深めて、レポートなど提出してくれるとありがたいです。

現地レポート−24
【7月2日】
終わってみれば、今年もあっと言う間のフィールドワーク沖縄でした。昨年のサミットフィールドワークとは違い、もとのペースに戻った沖縄ではありました。しかし、一見穏やかそうな表面とは別に政府のある意味、札束攻撃による同化政策の前、そうした価値ではないところで、きちんと自分たちの自立の道を探り実行していこうとする人たちが沖縄の各地で動きだしていました。とかく、井の中の蛙になり、隣の芝生がよく見えるように地方では、東京化という

道を目指してしまいます。国からの援助であっても本当に地元で必要なものとして活用されるのではなく、東京と同じものを作るというだけにお金の使い方をしてしまいます。沖縄ならではの特性を活かし、自分たちのこれからの生活に価値のあるものを残しかつ創っていく、そんな沖縄になってくれればよいなと思いました。私たちが沖縄という地とどのように主体的な意志として関わっていけるのか、様々な切り口やヒントを頂いたフィールドワーク沖縄2001でした。不思議と全てのフィールドワークの場所がリンクしながらステップアップした形でつながっていきます。神奈川−沖縄−ポーランド−ベルリン−ドイツ−ベトナム−日本、今年の後半もじつに楽しみです。


最近は、ある種、現地解散みたいなんですが、各々の目的地に向かって、那覇空港を飛び立っていきました。山のような宿題を抱えて。では、また。











             おしまい。 KAN