ベルリンの壁



1944年6月、英・米連合軍は北フランスのノルマンディーに上陸進行し、 東ヨーロッパ戦線を進撃しているソ連軍と呼応した。
1945年3月には、バルカン諸国を解放していたソ連軍は、オーデル・ナイセ川の線に達し、 同年4月には、ライン川を突破してきた米英軍とエルベ川で出会った。 この間、米・英・ソ各国首脳は、クリミヤ半島南部の保養地ヤルタで会談をし、 戦後のヨーロッパ・アジアのあり方を話し合っていた。

1945年2月ヤルタ会談
・ドイツの占領は、フランスを加えた4カ国の分割管理にする。
・国際連合設立。
・ポーランドの政権問題。

(秘密協定)
・戦後日本の領土問題の再確認。
・ソ連の対日戦の参戦。
・日本、東アジア地区における中国の主権、ソ連の領土問題等。
東西から連合軍に包囲されたベルリンでは、1945年4月ヒットラー自殺。
5月には、ベルリン陥落。
1945年5月7日、ドイツは連合軍に対して無条件降伏をし、
ここに第2次世界大戦のヨーロッパ戦争は終結した。


敗戦後ドイツは、米・英・仏・ソの4ヶ国によって分割占領され、
東部のソ連占領地区にあった首都ベルリンも4国の共同管理下におかれた。

東西陣営の主導権確保のための綱引きが始まる。冷たい戦争(冷戦)。

1948年、4ヶ国で構成をされていたドイツ管理理事会が機能停止になると同時に
西側占領地区と東側占領地区で違う通貨が導入された。
2つの通貨が競合する形になったベルリンでは、
ソ連は東ドイツ通貨を防衛するためベルリン封鎖を実行し、
それに対して、西側は、空輸作戦などで対抗した。

1949年9月、ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)が成立。
同年10月、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)が成立した。

その後、旧西ドイツは、奇跡の経済復興をとげ国際的地位を高めていった。
一方、旧東ドイツでは、ソ連の指導者であったスターリン亡き後、
反ソ・反政府運動が一時高まったが、 逆の体制管理の強化が進んだ。
結果として、旧西ドイツへと逃れる農民や技術者、知識人が多くなってしまったので、
旧東ドイツ政府とソ連は、その通路となっていた西ベルリンへの脱出を拒むため、
西ベルリンの周りを壁によって囲んだ。

1961年8月、ベルリンの壁構築
・西ベルリンを囲む壁の長さ       155.0キロメートル
・監視塔の数                302箇所
・番犬の数                 259頭
・亡命に失敗して犠牲になった人     239人
・亡命に成功した人           5,075人
・亡命に失敗して逮捕された人   約3,130人

その後、70年代にはデタント政策などの推進があったにも関わらず、
ベルリンの壁は存在し続けた。

1988年3月、ソ連ゴルバチョフ氏、
新ベオグラード宣言により社会主義諸国に対するソ連の指導性を否定する。
1989年9月、言論・デモ・旅行の自由などをうったえた
非暴力な運動のうねりが旧東ドイツで起こりだした。
9月11日、ハンガリーがオーストリアとの国境を解放した。
旧東ドイツ政府が出した、「出国についての決定」(草案)がきっかけとなったと言われている。
直接、西ドイツへ行くことができるようになったと理解した東ドイツ市民が国境に集まった。
検問所での流血事件を恐れた政府は、検問所からの問い合わせに対して、
「情報も指令もない」と回答したそうだ。
市民たちは、国境を越えた。

1989年11月9日、ついにベルリンの壁は開放された。
1990年10月3日、ドイツ連邦共和国誕生(首都ベルリン)




一体、壁の意味は何だったんだろう。



ドイツの街で見かけた小物たち



知る人ぞ知るBirkenstock
6500円位〜



壁博物館にあった布袋
300円位〜


知る人ぞ知るゾーリンゲンの
ハサミ
1000円位〜



詳しく知りたいことがある時は下記までお問い合わせを
info@kaze.gr.jp