Column2004
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 1月

「目的意識先行の社会」

 知らぬ間に1年が経っている。

 あけましておめでとうございます。

 1年(365日)という単位の何て短いこと。体感速度は年々速くなり、寄る年波には逆らえない自分が鏡の中にいるわけです。今年も毎日、毎日を大切に悔いのない日々を過ごしていきたいと思います。昨年は、1年を通して腹立たしいことのなんと多かったことでしょうか。昨年最後、この原稿を書いている時点で、これまた腹立たしいことが起きていました。11月末の日本の外交官が、イラクで殺されました。亡くなられたお2人のご冥福をお祈りいたします。この事件に対する日本政府の連中の対応は、まさに腹立たしいことこの上なしです。事件発生と同時に彼らは言いました。「テロ行為に対して毅然と対処していく」「イラクの再建のためにイラクの人たちと協力して復興していく」などななどと。一連の発言を聞き、本末転倒、奢り、勘違い、あきれて物が言えない状態になりました。

 仮に、日本で要請もしていない、それも鼻持ちならない、へたをすると殺傷能力も持つ集団が勝手に入国をしてきて、傍若無人な振る舞いをしたら、どうしますか?当然なんらかの形で排除をしようとすると思います。ある意味で、土足で人に家に上がり込んでいるのは、日本であり、アメリカであり欧米諸国なわけです。もしかしたら、自分たちが招かざる客であるとなぜ思えないのでしょうか。支援だ復興だと言いイラクに入り込んでいる欧米諸国は、本当にイラクの民衆にとって役に立っているのでしょうか。我らが大将のアメリカは、未だに民主化という名の戦闘行為を続けています。戦闘をすることが支援なのでしょうか。

 最初からボタンの掛け違いなのではないか。それに気がついてもらいたいと思うのです。仮にフセイン氏が、相当の悪者で、国民皆から嫌われていて、政権も恐怖政治で脅かしながら維持していたとします。だとしてもイラクを民主化するための選択肢は他にもあったはずです。しかし、アメリカ・イギリス・日本は、武力によって一気にリセットする方法を選択しました。それも欧米の価値観によって。結果として、現状はどうでしょうか。上述したようにイラクにおける真の民主化の道は未だ見えず、さらに戦後のいや戦中と言った方がよいかもしれませんが、ブッシュ氏が戦闘終了と宣言をしてからの時間や経費、一番は人命などの損失は、話し合いを続ける選択をした場合のそれと比べて小さいものであったのでしょうか。

 今回の事件は、明らかに日本が招いたテロであると思うのです。テロと毅然と闘うなどと言いながら、自らテロを呼び込んでいる。この転倒していることに何で誰も気がつかないのでしょうか。日本人の意識の中に俺たちは、イラク復興のために力を貸してやっているのだという傲慢な意識が存在してはいないでしょうか。人が傲慢である以上、その行為の裏側には、見返りやそれを梃子として利用しようと企む陰謀があると見るべきだと思います。

 イラクの現状、それは欧米諸国が持ち込んだ動乱によって民衆の生活が破壊され、無秩序で危険な世界となっています。俗的な言い方になるかもしれませんが、まさに戦場であると言わざるを得ないと思うのです。

 その戦場に小泉さんは、自衛隊を送りこもうとしています。イラクの人たちから見たら、自衛隊は、軍隊にしか見えないと思います。すなわち、イラクの残党勢力からしてみれば、敵以外の何者でもないと思うわけです。おそらく、何度かの戦闘状態が発生すると思われます。重武装で身動きがとれず、実戦経験も少ない自衛隊員の中には、犠牲者が出るかもしれません。むしろ、素人考えではありますが、犠牲者は絶対に出ると思う方がふつうです。素人の私でさえこう推測をするわけですから、政府の首脳陣が想定できていないはずはありません。つまり、政府の自衛隊派遣の判断は、犠牲者が出ることを前提とした決定であるとみるべきです。犠牲者を出してまで、自衛隊を派遣する。このことが何を意味するのでしょうか。

 今一度、外交官たちの事故後の政府対応を振り返ってみましょう。ある意味で、外交官たちの死も政府は想定していたに違いありません。その延長線上には、自衛隊派遣、自衛隊員の犠牲という事項も見え隠れしているに違いありません。外交官たちの死に対する対応は、政府の今後の思惑を照射する鏡であった可能性は大です。亡くなられた方々にはたいへん申し訳ないですが、政府は仰々たるセレモニーを行いました。小泉さんは涙まで見せられました。あのセレモニーを国民が見てどう思ったか、そこが問題です。個人の死は悲しいものです。その悲しみと国家が個人の死を体制の一貫としてのセレモニーとして演出するのではその意味がだいぶ違うのだということを何人の日本人が気づいたでしょうか。いやな例えではありますが、私の場合は、名誉の戦死とその姿がだぶったのです。名誉の戦死がたたえられた時代、最初のころは一人一人の戦死者に対して盛大に行われていたセレモニーもその数が増えるにつれ、形式化し、何よりも戦死に対する当事者以外の人たちの意識は一般化され遠のいていきます。気がつくと人々は、何の大儀もなくなった戦争へオートマティックに荷担をして流されていくことになったのです。ちょっと話がずれました。問題は、あのセレモニーを見てどう思ったのかということです。「過去の道をくり返すな、2度と戦争に荷担をしてはいけない」と思ったのか、「青年たちが犠牲になっている。もっと献身的に欧米諸国が言っている軍事的貢献に死を乗り越えて協力していかなくてはいけない」と思ったのか。今のところ、前回のコラムでも書きましたが、日本人の多数は後者であると思われます。前回の選挙の争点はこうしたことでもあったからです。

 この原稿を書いているとき、自衛隊イラク派遣の閣議決定がなされました。自衛隊(軍隊)のイラク派遣は実施される模様です。民主的に国民が支持をしているわけですから当然と言えば、当然の流れであるわけなのですが、その先に政府が想定していることを想像するに気が重くなります。いろいろなことが考えられますが、近いところの想像では、自衛隊に犠牲者が出た場合、その理由は彼らが軍隊ではないので行動や装備に制限があったからだと主張し、きちんと軍隊として認知をしなくてはいけないとなることです。つまり、この後の徴兵制や憲法の問題とつながっていかざるを得なくなるということです。

 それにしても何でここまで米英に追随する道を選択するのか、私にとってはたいへん不可思議です。いみじくも川口さんは、自衛隊をイラクに派遣する理由に1つとして、「日本の経済を維持、発展させていくためには中東原油の安定供給は必須であり、そのためにも日本は米英に協力していかなくてはいけない」と言われています。このことがもし真相なのだとすれば、日本社会維持発展の歴史の裏には、多くの他国人民の血が流されていることを日本国民は知るべきだと思いました。まあ、これは周知の事実ではありますが、それだけに他国とのこうした関係を換えていく努力をしていかなくてはいけないと、繰り返し繰り返しではありますが、自分には言い聞かせ続けています。新年早々、とりちらかった話ではありましたが、こんな調子の私と今年もおつきあいのほどよろしくお願いいたします。

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 2月

  「逃げるが価値」

 イラク派遣の自衛隊の先遣隊が派遣されていきました。とあるテレビのニューズキャスターが声をうわずらせながら、「これで日本もふつうの国になりました」と言っておりました。世界の中のふつうの国と言われている国が、今まで何をやってきていて、今、様々な問題で苦しんでいるということをキャスターなる者が知らないとは言わせません。今、求められていることは、今までの国がふつうの国と言うのであれば、もうふつうではない国を作っていこうという時代なのです。不勉強この上ない。しかしながら、市民の意識に対して少なからず影響を及ぼすと思われるテレビのニュースキャスター氏らが、不用意にこのような言説を口にできる日本社会は、まさに自由の国であることを今さらながら知らしめられます。彼がテレビの前の何百万人、いや何千万人の人に対して言うのと私が自分の知り合いに何かを言うのでは、その意味が違います。もしそれが分かっていてわざと言っているのだとすれば、それは「虚栄心」の何もでもありません。もし、こうしたキャスター氏も含めて、現在の日本市民の多くが、自分たちはあくまでも弱者であると言う立場から、憲法に許されている表現の自由などの意味をはき違えて、捏造的な価値観を吹聴するのだとすれば、そうした声が充満している日本社会は、ルサンチマンに支配された社会であると言わざるをえません。

 そんな日本社会を見る度に、以前にも書きましたが、鉄人28号のことを再び思いだします。実は鉄腕アトムでもよいのですが、今回は鉄人28号を例にして、哲人として話をしましょう。鉄人28号は、ご存じにようにリモコンで動きます。ふつうは、そのリモコンを正太郎少年があやつります。正太郎少年は、正義の見方なので、彼が操作をするときは、鉄人28号は正義のために働きます。しかし、一度そのリモコンが、悪者の手に渡れば、鉄人はおくめもなく悪の手先となって働きます。つまり、鉄人は、リモコンを操作する人の意志によって正義にもなれば、悪にもなるというわけなのです。まあ、ここまでは直ぐにわかることです。今問題にしたいのはこの先の話しです。この話の中のポイントはいくつかあります。思いつくままに言えば、まず1つは、「正太郎君の正義は本当に正義か?」。そして、「鉄人28号が活躍をしてビルなどを壊すとき、その降り注ぐコンクリートの破片の下に逃げ遅れた子どもや老人たちはいないのか?」。この2つの問題をちょっと難しい言葉で言い換えれば、「社会の規律化」と「暴力」という課題ということになります。

 「社会の規律化」とは、鉄人の話をもとに説明をすると、リモコンを操作している正太郎君の正義の意識は、どのようにして確立されたのでしょうか。勝手な想像をすれば、彼の正義観は、彼の育った環境、つまりは家族だとか学校だとかというものを通して培われてきたに違いありません。ただ、そのことは彼自身が意識しているかと言えば、おそらく無意識的なものである可能性は高いと思われます。そこには、もう既に人間の何世代にもわたり意図的に作られ蓄積されてきた価値観が彼の無意識的な領域に自動的に刷り込まれていることを意味します。問題はそこにあります。次世代の若者たちに前世代の価値観を刷り込むための装置、特に近代国家がその装置としてフルに活用したのが、「家庭」や「学校」であったのです。もう既に近代社会は、人間の無意識的な領域まで、ある1つの価値観によって規律化されている社会であると見た方がよいと思われます。ようは、正太郎君の正義観であろうが、悪者の悪意であろうが、もう既にその根っこは、同じ規律化された価値観の上に乗っているということなのです。

 そして次に「暴力」のことですが、正太郎君と鉄人28号は、一蓮托生の仲です。様々な修羅場を共にしてきた同志的な存在です。同じ正義のもとに活動をしてきた仲間です。しかし、この「正義」は前述したように近代国家社会の中で規律化された正義です。率直に言えば、国家的正義なのです。国家的正義を守る活動は、時にして暴力的になります。世のため人のために正義を守るため日夜我々は活動をしていると思いこんでいる正太郎君と鉄人28号の活動は、その行為の影で破壊されたコンクリートの破片で負傷をしている人々への暴力性を無視します。こんな話をし出すとアメリカのこと沖縄のことイスラエルのことと話が広がり過ぎますので、ひとまずイラク戦争と日本の話に戻します。

 現在の日本社会をどう見るのか。自衛隊のイラク派遣に対する国民の反応などをみる限りでは、日本社会の規律化は完全に進み、そこには個人の主体などは存在しない。一時期流行った言い方をすれば、「日本人の主体は完全に解体された」。まあ、はなから人間社会には主体など存在しなかったという話もありますが、ともかく、日本社会の現状況が、そのような状態なのだとすれば、この次に来る価値観は、ニーチェが言わんとしたことはもう少し違ったところにあったと思われますが、彼の一面的な解釈の仕方であるニヒリズムへの傾斜ということになるわけです。ニヒリズムが頭をもたげかけている。そうなるとあのドイツ・ナチズムの時代を思い出さないわけにはいきません。この話をし出すとまた長い話となってしまうので、興味のある方は、私をお呼びください。

 確実にいつか来た道を歩みだしています。これは本当にヤバイ。根っこの問題として、規律化された社会を回避することはできるのかという課題を話出すと話が込み入りますので、ここでは、社会の暴力化の回避ということだけについて話をしますと、今までの話から薄々見当はつかれるかとは思います。例えば、「正義」とか「平和」とかを考えるときは、ひどく難しいことではありますが、国家や民族と結びつけないことです。ちょっと淡泊な言い方かもしれませんが、「合理的」に割り切る。つまり、「非暴力でない正義とか平和は偽物である」ということです。話はまたくり返します。今の日本社会に個人としての主体がないのだとすれば、非暴力でない正義と平和であるかの判断基準は、合理的に憲法第9条にゆだねるしかありません。これが民主主義国家たる前提です。皆さん賢明なご判断を。

 最後に、実は私たちが主体を取り戻す方法が唯一あるにはあると私は思っています。この話もその理由を説明し出すと長い話になってしまうので、他の機会にゆずりますが、人が生きるために無我夢中で行動をしているとき、このときの意識は主体的であると言えるような気がしています。変化をし続けているかぎり人間は主体的であると言えるのではないでしょうか。国家が押し進める社会の規律化は、社会の構造化であると思われます。したがって、その構造化の手から逃れるためには、拡散的変化をし続けることが重要であると私は見ています。その昔、領主が一番嫌った行為は、農民の逃散であったと言われます。国家の側から見れば、「逃げる」価値ほどいまいましいものはなかったと思います。そんな国家に対して、大衆はしたたかでありました「逃げるが勝ち」なる価値観は、まさにポスト構造主義的な表現であることに最近気がつきました。したがって、あえて私は言います「逃げるが価値」であると。

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 3月

  「切断したがっている国」

 牛肉も食べられない。鶏肉も食べられない。豚肉も食べられない。つまり、ステーキも、唐揚げも、豚シャブも食べることができない時代。今までの生活が贅沢だったので、日本人にとって食を見直すよい機会ということなのでしょう。日本人にかぎらず、現代人に対する警告なのかもしれません。

 私の場合、歳をとってきたせいか肉より魚とか野菜とかというあっさり系が好みになってきています。何が何でも肉を食わねばとはあまり思わないので、これを機会に粗食生活にでもするかと思っています。もう既に十分粗食生活ではありますが。ただ、好物の牛丼が食べられなくなるのはかなり寂しいものがあります。誰かが、牛丼が無くなったぐらいで騒ぐとは、死ぬわけでもないのになどと評していました。きっと彼は、空腹のときにポケットに数百円しか入ってなく、そんなときに噛みしめるように食べる牛丼の味など知るよしもないのでしょう。何度、牛丼によって救われたことか。庶民の食感覚を知らない人たちが、この国の政策を決めているのでしょう。

 しかしながら、今回のBSE関連の話は少しおもしろい側面を持っているように感じられます。アメリカでBSEが発生をした後のアメリカと日本における対応の仕方の違いです。アメリカは早々と国内の全牛の検査をすることは不可能として、発生をした牛の周辺だけの検査で事件を収拾させました。当然アメリカは、一番のお得意さんである日本の牛肉輸入再開を要請してきました。それに対して日本は、日本でBSEが発生をしたときの対応方法である全頭検査を実施するまでアメリカからの牛肉の輸入はしないと突っぱねました。いつもアメリカの言いなりになっている日本政府の対応が、少々違うなと感ぜざるをえませんでした。日本政府のこうした姿勢は、最近の政府の言動を見てみると案外いろいろなところに見受けられます。例えば、北朝鮮に対する姿勢であるとかも似たものがあります。

 さらに最近ちょっとおもしろい報道もありました。沖縄の普天間基地の移設が代替施設なしでも実行するべきであるという意見がアメリカ側に出ているというもので、その提案も既に日本政府に対して非公式に打診されているというニュースです。この話は、一見聞くと「それみたことか、アメリカだって海外に基地を維持することは負担になってきている。いくら日本政府がアメリカ軍の駐留を希望したって、日本から基地がなくなるのは時間の問題だ」「国益のためにアメリカ軍の基地や日米安保条約が必要であると主張してきた政府の立場は、正当性を失う」などと考えられます。確かにこうした側面はあるかもやしれません。ただ、一方で思うことは、日本政府はこうした事態を想定していなかったのかということと、実際、国家財政から見たときアメリカ軍基地を日本においておくことのバランスシートはどうなっているのかという点が気になります。例えば、後者の点についていえば、基地を置くことにより発生をする現地沖縄県に対する国からの支出は、相当な額となっています。そして、その相当な額の支出が沖縄県にとっての生産的な原資となっているかと言えば、その大半が不労所得であり、場当たり的かつ本土資本への還流であるような公共事業への投資であったりしています。つまり、こうした形での国に対して負担の大きいわりにはメリットのすくない国家安全保障の仕方を今後永年にわたり続けていく必要があるのかという視点が、国家の中枢にあってしかるべきなのではないでしょうか。すれば、日本政府の中にアメリカがこういうことを言い出してくれることを期待する気持ちが無かったとは言い切れないのではないでしょうか。こうしたやり方は、ときの為政者たちがよくやる手口ではあります。状況が変わり、方向性を転換しようとするとき、大衆の力を逆に利用する。もし仮に、結果としてアメリカ軍が沖縄から完全撤退だということになった場合、沖縄に対する基地関連の支出が必要ではなくなります。現在、沖縄の実質経済構造は、基地経済依存型のものではありません観光事業等が基幹産業となっています。おそらく経済の規模は小さくなるかもしれませんが、不労所得が無くなる分自立型の健全な経済構造に転換するかもしれません。ましてや、アメリカ軍の基地が無くなるわけですから、長年基地反対運動をしてきた県民たちから基地が無くなることに対して、強固な反対意見が出るはずもありません。ということはもしかしたら、日本政府は、アメリカ軍が撤退してくれることを期待しているのかもしれません。

 アメリカ軍が日本から撤退をするということは、もう1つの意味を持ちます。それは、政府が言うところの自立した国家になるということです。つまり、国の安全保障、すなわち軍事力も自前で用意をして自前で行うということになります。したがって、アメリカ軍が撤退した後の基地の多くは、日本の軍隊(自衛隊)がそのまま使用することになると思われます。そのためには、自衛隊員の供給などを確実に確保できるシステムにしなくてはいけない。ああー、いろいろな断片がつながってきました。政府が言うところの経済的発展、経済的自立とは、例えばアメリカとの関係を対等なものとするためには、それ相応の軍事力を持たなければいけないということです。現にアメリカが行っているように軍事的プレゼンスによって、自国の企業の利権を保全する必要があるからです。

 長くなりました。強引ではありますがまとめます。日本が今後も経済的な発展を望むのでれば、アメリカとの関係を精算しなくてはいけない。日本が今後、自立的な経済を希望するのであれば、自国の安全保障なども自国の軍隊が担い、アメリカと対等な立場で話をしなくてはいけない。そこらへんが小泉さんの野心であるのかもしれません。

 BSEの対応、その他の話から鑑みるに、「日本はおそらくアメリカとの関係を切断したがっている」と見た方が自然です。この構造は何も特殊なことではありません。資本主義国家がさらなる経済発展を望むとき、今までの関係を一度切断して、今までの資本主義領域の境界線を内部に引き込み、領域を拡大して新たな境界線を引き直す必要が出てきます。実はそのときに「暴力」が発生する仕組みです。過去における近代資本主義国家の再コード化の歴史を振り返ってもらえればよくわかると思います。ここでもまた、選択が出てきました。21世紀の日本は選択の時代であると言えます。皆さんよき選択を。

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 4月

「民主主義と暴力」

 卒業を迎えた方、おめでとうございます。新しく入学された方、ようこそいらっしゃいました。学校としてはふつうのことなのかもしれませんが、こうした営みをもう9年間続けているわけです。ごくごくふつうのこうした営みが坦々とできることに感謝したいと思っています。これも私たちの活動を支持していただける方々が居続けていただいているからこその結果です。重ねて日頃のご支援に感謝いたします。

 最近、私は「民主主義と暴力」ということを考えています。国語辞典で「暴力」という言葉を引くと、「無法な力」と書いてあります。「無法な」と言うからには、法があれば暴力は防ぐことができるということなのでしょうか。だとすれば、法治国家である民主主義国家は「暴力」が発生しないはずです。では、実際はどうでしょうか。民主主義国家であると自負をしている例えば、わが日本であるとかアメリカであるとかという国をみたとき、そこに暴力は発生していないのでしょうか。どう見ても両国において民主主義国家であるから暴力はないとは言えないと思います。

 一言で暴力と言っても、その形態は様々であるかとは思いますので、本文では、あくまでも「無法な力」、すなわち無法であるというところにこだわりつつ話をすすめていきたいと思います。法があれば暴力が防げるのかということについては、実はかなり昔から論議がされてきています。そして、1つの結論としては、法によって暴力は防げないということになっています。その理由は、そんなに難しくありません。法を制定した途端、その法を破ったときの罰則規定が発生するからです。その罰則は、どのような形であれ、暴力的な要素を孕みます。だからと言って法を否定すると社会の規律が乱れます。では、社会の規律とは?などと話が膨らんでしまいますので、押さえ気味にして話をすすめますと、その昔、「悪法でも法は法」といい毒杯をあおり死んでいった哲学者がいました。彼の行為の意味することは、重要です。一般的な見方をすれば、悪法であっても法治国家たる国家としての社会規律を維持するためには、法に準じなくていけないということを示し、さもなければ、国家社会は無法地帯となり、まさに無秩序な暴力社会になってしまうということを意味していると説きます。

 確かにそうした一面も意味してはいます。しかし、本当の意味は、法には限界があるということを意味し、さらに踏み込めば「法は暴力を否定しない」、既に、ある法に基づき自分の権利を主張するということは、逆にその法が効力を発揮している範囲の中では、法による暴力を受けることがあることも覚悟しろということを意味しているのです。つまり、哲学者は、自分の身で表現する(指し示す)ことによって、法社会に生きることの両義性を指し示そうとしたわけなのです。少し過激な言い方をすれば、人間は、自ら作った規律に依存をした不自由な生き方をするのか、それとも主体的な意志を持った自由な生き方をするのかの選択を指し示したことにもなっているわけです。また、主体の問題が出てきてしまいました。そもそも人間に主体はあるのか?つまり、人間が社会的な動物である以上、人間は社会の中で生きていかなくていけません。独りでは生きていくことができないわけです。だとすれば、1人の人間が、ある社会、封建社会であれ、資本主義社会であれ、そうした既成の社会に生まれてきた途端、その社会の規律に準じて生きることを強いられるわけです。現在であれば、資本主義社会ということになります。現在の人々は、生まれたときから、もう既に、資本主義社会基準によって物事を判断するという前提のもとに生活をしているということになります。すなわち、人間にははじめから主体などない。もし、主体的な生き方をしようとすると、特に99%資本主義的規律化がすすんだ現代では、生きることができないという話になってしまいます。

 否定的な話で、主体の話が終わってしまうのは嫌なのですが、そうした視点から考えると現代の病理の原因がよくわかります。主体に対する結論だけ先に言っておきます。人間は本能的に、不自由に作られた既成の社会に準じて自分を押し殺してまで生きていくことはできないようになっている。したがって、自己防衛機能が自動的に働くことになります。無意識領域の話もしなくてはいけなくなりますが、今回はカットします。

 だいぶ話がずれてしまいましたので、暴力の話にもどします。少し整理をすると、少々厳しい言い方になるかもしれませんが、「民主主義は暴力を否定しない」ということになります。では、そうした社会の中で人間はどう生きていくべきかということについては、これまた話が長くなります。興味のある方は、5月より月に1回集中講義をやりますので、在校生・卒業生・保護者関係なく参加歓迎します。どうぞお越しください。今回は法と暴力を中心に話をします。では、日本の法の原則法である憲法をみてみましょう。憲法が制定され、国民主権としてその主語が我々という言葉になった途端、日本人が過去に行った様々な暴力が隠蔽されたことを日本人は知っておく必要があります。それを忘れないことを意味する意味でも憲法の第9条は存在しているのです。9条は少なからず、国家の暴力の1つである軍事力(戦争)を完全に否定をしています。これは、法は暴力を否定しないという性格からみれば、数少ない救いの1つです。もし、日本人がこの法を侵すことがあれば、9条は途端に暴力を否定しない法としての機能を指し示すと思われます。具体的に話をしましょう。9条では、明確に国の交戦権を認めていません。つまり、自衛隊は交戦権を持たない軍隊なのです。このことは重要です。軍隊なのにも関わらず人を殺す権利が与えられていないのです。その軍隊が日本の中にいるときはまだしも、国外に出て行ったときは、他の国の人々は、当然軍隊として自衛隊を見ます。すれば敵対勢力は、自分たちの主張を正当化するために、派遣されてきた軍隊である自衛隊を排除するための攻撃をします。すると、交戦権がない自衛隊員たちは対処する術はないのですが、正当防衛ということで反撃することとなります。まあ、それが法的に正当であると認められた場合はまだしも、不当な反撃であったとされた場合、そもそも戦場においてそんな線引きは、不可能ではありますが、現地の住民たちを殺傷した自衛隊員たちは、殺人罪等の刑事法で裁かれることになるわけです。こんなおかしな話はあるでしょうか。交戦権のない自衛隊の海外派遣を認めたのは、誰でもない国民なのです。つまり、覚悟はできているはずなのは国民だということになるわけです。したがって、この判断に対する代償として次に来る暴力の対象は国民であるということです。

 9条がある中で今回の一連の行為を認めた国民は、まさに民主主義国家を支えている法による暴力を受ける覚悟ができているのかを、突きつけられている状態であるということを知っておく必要があると思います。自衛隊は、そうした日本人の意識というものを試すための意味するものとして機能させられているように見えているのは、私だけなのでしょうか。日本人は選択が迫られている。哲人が説明するまでもなく、歴史はわざわざわかりやすく人々の前に考える材料を提示してくれています。新たな暴力を受ける覚悟をして物質的経済発展の道を撰ぶのか、暴力の発生しない精神性の高い豊かな社会への発展を望むのか。前者を選択すれば、当然、いつか来た道になるわけです。あの暴力を受ける覚悟はできていますか?

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 5月

「暴力の予感」

 もうそろそろ、ここ一連の話から抜け出したいと考えていたのですが、歴史というか時間は、私たちに休息を与えようとしません。今月もやはりイラクの話をせざるをえなくなってしまいました。日本人がイラクで人質となりました。幸いなことに全員の方々が無事帰国されました。けがをすることなく皆さん無事に家族のもとに帰られたこと、たいへんうれしく思います。同じ税金が使われるなら自動小銃の弾丸を買うのに使われるより、救出のために使われた方がよっぽどよいです。

 こうした人質事件をはじめ、私たちの身の回りで起きている様々な事象は、現在の社会を構成しているいろいろな要素どうしが作用し合い、反映し合って起きているわけです。特に最近は、情報や交通の技術が発達しているだけに一昔のように各地域で起きる現象にあまり時間差はありません。世界中のあらゆる所においてリアルタイムで連関した事象が発生をしています。

 そうした視点でこれらの世界で起きている事象を眺めてみると、これらの事象は全て何かを意味しているものであるということがよくわかります。この何かとは何か?大本はやはり「人間」ということになるでしょうし、大枠で言えば「社会」ということになると思います。話を少し戻しますと、昔であれば、「人間」ということを考えるにしても人々の生活範囲はそんなに広くありませんでしたから、自分の住んでいる回りを中心として考えればよかったわけです。それが、技術などの発展に伴い人間の生活範囲・意識範囲が広がっていきます。一番外側の境界線が広がる度に、より広い範囲で人間のことを考えなくてはいけなくなっていきます。つまり、最初は○○村のことだけでよかったのが、道ができたことによって、○○村と□□村を合わせた××町のこともというように、この調子で拡張していけば、日本国とアジア、アジアとヨーロッパ、世界、何ていうように生活領域が広がる度にそこに住む全体の人間のことを考えて、「人間」という存在について考えなおさなくてはいけなくなるのです。

 そんな視点から今回の人質事件をみてみるといろいろなことを意味していることがよくわかります。価値領域について、ここは少々微妙です。というのは、アルジャイーダを観てもわかるように欧米側であれ、イラク側であれ、これだけ情報網が世界中に張り巡らされている現実をみると昔の鎖国のように、周辺の国の情報を一切シャットアウトして国民に知らせないようにするということは限りなく不可能に近いと思われます。ということは、現代、世界の大多数の人々の主な価値観は、資本主義的なものを共有していると思われます。それは、キリスト教徒であれ、仏教徒であれ、イスラム教徒であれ同様です。とすれば、一見みえる今回のイラクにおける欧米的価値観対イスラム的価値観というような対立構造も実は、物質的な価値のパイの分け合いの争いという可能性も出てくるわけです。とすれば、今回の事件の意味しているものの1つは、「自分たちの利権領域に欧米の連中が勝手に入ってきて荒らすな!」という主張であると思います。ああ金の臭いがプンプンする。共にお金の争い。したがって、人質の対象は、自分たちの利権領域を荒らす人間であれば誰でもよいわけです。これは単なる陣取りゲームでしかないからです。理由は欧米諸国の知識人が勝手に後からつけてくれる。そう言えば連日テレビに出てしゃべっている人たちがたくさんいます。

 今、日本をはじめとする各国の復興支援団体と称している人たちは、厳しい言い方をすれば、資本主義的な安定した生活を送るための基礎固めをしているわけです。将来のよき消費者となってもらうための準備です。証拠に各国の支援活動の中で、モスクを再建したり、昔のよきイスラムの社会の復興を支援するという活動は見あたりません。ただ、誤解してもらいたくないことは、では、医療支援をするなとか、教育ではなく学びの方法支援をするなと言っているわけではありません。「人間」に関する支援ならいくらでもやってほしいのです。しかし、これは将来のお金にはなりません。逆に言えば、将来の資本主義的なお金にならない支援ならいくらでもやってよいと思うのです。

 ここが、今回の人質事件が意味していることの本当の意味です。日本では、マスコミなどを先頭にして、今回の事件のことをやれ自己責任だとか、自衛隊の派遣だとかと的外れの議論キャンペーンを張っています。まさに資本主義社会の2重拘束の原理です。問題はそこにあるわけではないのです。

 そもそも、自衛隊、これは違憲ですから派遣なんかできるはずがない。自己責任、日本は資本主義型民主主義国家ですから、自由の権利を主張する以上は義務が生じます。それを保証しているのが、憲法です。表現の自由、渡航の自由などと。だから、そんなものは当たり前、議論以前の話です。少し走りましたので、戻します。したがって、今回の事件は、資本主義的な価値観の上に立った利益分配の線引き争いだったのです。ですから、あちら側にとっては、原則として欧米諸国であればどの国でもよかったし、各人質の活動内容や所属などは関係なかったわけです。自分たちの利益を収奪する可能性のある者であれば誰でもよかったのです。

 そう、だから、この事件の意味するものを考えるときは、この全体を見なくていけないのです。別に神の声ではないですが、「人間たちよ!あなたたちが築いてきた豊かな社会、その社会を維持発展させるために人間どうしが無益な殺し合いをしている。そんな犠牲を払ってまで維持発展させる価値のある社会なのですか?今の社会は」こんなところです。「社会」や「人間」が問われている。

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 6月

「共同態と共同体」

 「共同態」も「共同体」も「きょうどうたい」です。ふつうは「共同体」を使います。最近私は、意識してこの2つの言葉を使い分けています。なぜ、そんなことをしているのかと言いますと、一般的に言って、「共同体」という言葉から連想するイメージは、せまい領域での話ですが、「地方公共団体」、すなわち地方自治体である市とか町とか村だとかを連想します。

 地方自治システムは、国家の近代化、主に近代以降の国家において、集権化するためのシステムであったのです。では、なぜ近代国家は地方の共同態を集権化システムの中に組み込む必要があったのでしょうか。このことは、国家の形成の歴史を思い返せばわかりやすいと思います。国家があって地方の共同態ができたのではなく(植民は別です。別ゆえに問題があるわけです。)、共同態があって、国家ができたわけです。つまり、地方の共同態が先にあって、後から国家というものができたわけです。ここで少し、そもそもの地方の共同態の性格について話をしておきましょう。

 日本にある各地方の共同態の歴史を詳しく紐解くことなく、地方の共同態の形成過程は、その地に腰を据えたある一族が、自分たちの縁者を中心として集団を形成し、お互いに支え合い生活を維持していくものであったのです。集団が大きくなれば、それを安全に維持するためには、それなりの人数も必要だったでしょうし、集団をまとめるリーダーも必要であったでしょう。また、「善いこと」「悪いこと」を判断する道徳たる法律に相当する「宗教」なども必要となったでしょう。こうした独自の文化や技術を蓄積していった地方の共同態は、徐々にその地において、縁故による資本を蓄積していくことになります。しかし、こうして蓄積された縁戚資本は、原則として、共同態の維持のために拠出されることになります。つまり、地方の小共同態においては、一族郎党が総出で農作業や漁業やその他の産業に関わらなければ生活が成立しなかったからです。

 さて、そうした地方の共同態の営みとは別に、そんな各共同態を集権化して、自分たちの統治下に従えさせたいと望み、後の為政者たちは、様々な方法を考えるわけです。なぜ、後の為政者たちは、そうやって集権化を望んだのかということについては、話が長くなるので、また別の機会にしましょう。かのニーチェ氏などは、その欲望の根底にあるものは、「虚栄心」であると言っていますが、ともかく、簡単な構図を言えば、地方に蓄積された縁戚資本を国家資本へと組み込もうとする試みであったわけです。この試みは、日本の歴史を見るだけでも様々な所に見いだすことができます。例えば、関白秀吉が行った検地による石高制などは、よい例です。

 このような地方の共同態に蓄積されていた縁戚資本を国家資本へと組み込む際の手法として共通にある方法は、地方の民衆の中に芽生えた近代化への欲望をエネルギーに利用するという手法です。ただ、そうした民衆の意識の中に芽生えた近代化への欲望というもの自体が、為政者によって周到に準備された同化政策の成果であるわけなのですが。秀吉の検地の例で言えば、秀吉は、天下を統一し維持するために他のリーダーたちよりも多い兵糧米の確保を欲していました。一方、農民たちの方は、統治者が乱立したことによって、自分たちの耕作地に課せされた複数の支配者たちに対する税務によって苦しめられていました。そうした農民たちに対して、秀吉は、1耕作地に1耕作者という原則を設定し税務を1本化することを義務づけたわけです。ある意味で、税務が軽減される農民は、秀吉を頂点としたるピラミッドの中へと組み込まれていくわけです。結果、秀吉は、他のリーダーではなし得なかった莫大な兵糧米を手に入れることになるのです。つまり、縁戚資本の国家への集中化に成功したわけなのです。

 今までの話で、もうお分かりかとは思いますが、私が言うところの「共同態」とは、地方の集団がある意味で、自主独立で国家とは距離を置き自立している集団をさし、「共同体」は、国家の集権システムの中に組み込まれ、その下部組織として中央からのパイプによってコントロールされている状態の集団をさしているのです。私がなぜこうしたことを考えたのかというと、最近、地方の公共団体で耳にする合併の話が引き金となっています。合併の際によく出てくる話が、合併をして市などの規模になれば、より潤沢な助成金を国から得られるようになるので、サービスが向上するという話です。本当にそうなのでしょうか。現在の地方公共団体などでは、予算がなくてたいへんだという話をよく聞きます。でも一方では、何でもいいから使ったことにしてくれ、そうしないと次年度の予算がつかないといういう話も耳にします。中央とのパイプが太くなるということは、言い換えれば、金も出すけど口も出すということです。そして、中央が考えていることは、少しでも多く地方にある剰余資本を吸い上げることです。つまり、国家による共同体としてのシステムが強化されればされるほど地方の共同体は、枯渇していくのです。

 ゆえに、今だからこそ、地方の共同体は、より分裂をして、その地域ならではの特色を生かした自主独立の「地方共同態」をめざすべきなのではないかと思うわけなのです。

 本当は、もう1つの側面の話、国家が共同態を共同体とするときに暴力が発生をする話、すなわち国家による再領土化の話もしたかったのですが、紙面がつきました。次の機会に。

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 7月

「国家主体と個主体−精神鑑定をする者の鑑定は済んでいるのか−」

   佐世保の女子小学生、同級生殺害事件に思う

                                柳下 換

 本事件における個々の事象についての見解なり分析なりは、時間を追うにつれて明らかにされてくると思うので、本論では、少し視点を離して全体的な像についての感想を述べたいと思う。

 ここ数年間の中で起きている少年や少女をめぐる特殊な事件は、その多くが分析の結果、事件を起こした少年や少女における人間的な資質であるとか、背景にある家族との連関だとかの中で、発生の原因を説明されてきた。確かに、これだけの数の人間が存在をする社会において、何年かに1度、こうした特殊な因子を持つ人間が発生をし、人間社会の秩序を乱すという現象はありえる。がしかし、近年連続的に起きているこうした少年、少女たちが引き起こした重大事件には、共通した何かが存在しているような気がしてならない。その共通している何かとは、彼らの言動の背景の中に漂う「いつ死んだってかまわない」というような虚無的な空気である。これから、生を謳歌するはずの10代前半の子どもたちが、もう既に「自分はいつ死んでもかまわない」というような臭いを漂わせている。この空気は「もう十分満足いく生き方をしたから悔い無し」というような雰囲気とはまったく異なっている。少し短絡的な言い方をするのであれば、彼らはもう既に死んでいるのだ。もう既に死んでいる状態でこの世に生を受けている。生まれてくるということが生きるということなのであるから、生まれてきた途端死んでいるというのもおかしな話なのだが。 彼らの多くが生まれてきた20世紀末の日本社会は、国家教育などの成果によって十分に規律化された社会であった。生きるということは、予想ができない未来に対して自らの試行錯誤によって、人間社会における自分の存在価値を切り拓いていくことであったはずだ。だが、彼らが産み落とされた社会は、細部にわたり近代資本主義社会における価値観が何世代もの時間をかけ、広く深く何層にも堆積したシステム化された社会であった。もう既に何パターンかの生き方モデルが準備をされており、席が空いた所から順番に生まれ落ちた子どもたちをセッティングするだけの社会となっていたのだ。そうした組み込み社会の共通の価値基準は「貨幣」であった。そのような社会においては、既に個人としての「主体」は存在しない。存在する「主体」は、偽装された「国家主体」である。同一化された「国家主体」が充満されている社会へと生まれてきた子どもたちの多くは、成長に伴い失われていく生への本能と引き替えに「国家主体」としての意識を充填させていく。この過程は、まさに近代社会に同化をしていく過程に他ならない。少し前であれば、こうした彼らにとっての「同化」の過程の中にも逃避をするための接線が数多く存在をしていた。しかし、高度に情報化された現代では、未開の領域はもう既に無いに等しく、そうした逃避線も数少なくなってしまった。また、用意周到に準備をされた様々な選択肢、多様に見えるこうした選択肢も実は、「貨幣」という共通のコアの上に偽装されたものでしかない。 現代の子どもたちにとって、生きるとはこうした偽物の社会の中で、「偽物の自由」と「偽物の自律」を与えられ、自ら選択をしたと思わされて生きていくことを意味している。つまり、彼らはもう既に死んだに等しい状態で生まれてくるのだ。このような状況を生まれてくる子どもたちは、気がつかないのであろうか。私は十分に気がついているのだと思う。多くの子どもたちは、「生きたい」と欲している。

 問題は、そう気がついた子どもたちの生き返り方なのである。現代の子どもたちが、死んだ状態から生き返りたいと欲するところまでは、現在の日本の社会状況を鑑みれば、人間として健全であり、社会として真っ当な発展形態であると言えよう。少し話が広がってしまった。最近の事件を引き起こした子どもたちに限って言えば、彼らは生き返るために今一度自分を殺すという手段に出た。人を殺すという行為は、人の生きるという権利を奪う行為である。その報いとして、現在の日本において合法的に自分を殺すことができる方法の1つである(身体的であれ、社会的であれ)。死んでいる自分を今一度殺す。すなわち2度死んで生き返らせる。しかし、この方法は、資本主義社会における2重拘束性の罠にはまる典型的な形である。同一化の邪魔になる者は、自らを違反者、病人などとして宣言させ、国家は収容する。そして、彼らの発生によって起きた磁場の乱れを異物痕も残さずに修復する。いや修復だけではない。むしろ、同一化をより強度に進めるためのエネルギーとして利用する。こうした構図は、何も新しいことではないのかもしれない。60年前の記憶を思い起こさせる。

 今、大人の私たちにできることは、自分が死んでいると気がついた子どもたちに対して、生き返るための逃避線を数多く引くことと、漂流する時間と空間を保証することである。

 他のところに出したコメントを流用しました。字数に制限があったので、あまり詳しくは書けませんでした。少し解説を加えておきたいと思います。

 簡単に言えば、「現代に個としての主体はあるのか?」という問いかけです。現代に生まれてくる日本の子どもたちは、その昔、日本がアメリカと戦争をした何てことも知らずに「自由」と「平等」と「平和」が保証された民主主義国家に生まれてきます。彼らの回りには、見渡すかぎりの「自由」と「平和」が満ちあふれているはずです。そんな彼らが人を殺す自由まで保証されていると思っている。多くの日本人の大人たちがそんな彼らに対して、人の生きる権利を奪う自由はないということを説明することができない。交戦権のない軍隊の戦場への派遣を認めてしまっている大人たち。自由と民主主義の法のもとで、その暴力によって抹殺されていく人たちの存在。私たちの国にある「自由」とは、「平等」とは、「平和」とは、その基準は資本主義国家が規定をした定義に基づいたものなのではないだろうか。つまり、資本主義体制に依存をした価値観であり社会観なのです。国家が規定をした価値観を教育によって何世代にもわたり刷り込められてきた。

「私たちの考えは個人の考えです」と言ったとき、その基準が国家主体なのか、個主体なのかの区別がつくのですか?少なからず子どもたちは、大人が言うこと、目の前にある社会の基準が国家主体に依存されているものであるということを薄々感づいているようだ。ゆえに、大人は個としての主体を取り戻すための手本を見せなくてはいけませんよ。という意味あいで書いてみました。

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 8月

 夏休みでお休みでした。
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 9月

  「二項対立ではない社会をめざす」

 残暑お見舞い申し上げます。

 今年の夏は、相当暑かったですね。年々、暑くなっているように感ずるのは私だけでしょうか。夜、寝苦しくてエアコンをつける日が多くなりました。昔は、エアコンなどなくても夏を乗り切っていたのにね。こう毎日暑いと、相当暑いはずの29度ぐらいでも今日は涼しいなどと感じてしまうわけです。こんな感覚って、世の中の「善いこと」「悪いこと」の基準と似ています。

 世の中にある「善いこと」とか「悪いこと」の基準ってどこにあるのでしょうか。賢明な方々なら直ぐに分かると思いますが、「善いこと」「悪いこと」の基準って相対的な話しです。場所だとか時代だとかによって、同じ事柄でも「善いこと」「悪いこと」の評価が180度違うことはたくさんあります。例えば、日本においても中世の時代の「自由」とは悪いことでした。安心して暮らすためには「不自由」でなくてはいけないとされていました。この感覚は、実はヨーロッパにおいても同じでした。「自由」の状態は、悪い状態であるとされたのです。なぜかと言いますと、うまく説明できませんが、中世の頃の人間社会は、国家や制度や法がまだ不整備で庶民の生活においては、何もない状態に近かったのです。つまり、原則的に人間はある意味で、「自由な状態」に置かれていたのです。これといった成文化された規律や規範もなく、全ての事柄を自分自身の判断で決めなくていけませんでした。この状態は相当厳しい状態です。なぜかと言えば、自分の判断の結果は、全て自分で請け負うことを意味していたからです。判断を1つ間違えば、命を失うことさえありました。毎日が生き抜くための闘いであったわけです。そうです、中世の時代における「自由」の意味は、「不安」という意味であったのです。

 民衆たちは思いました。不安のない安心した生活がしたいと。つまり、民衆たちは、自ら「不自由な生活」を要望したのです。そんな民衆たちの安定志向を時の為政者たちは見逃しませんでした。民衆たちに安全で安心した生活や社会を提供すると言い、「制度」や「法律」を制定していきました。確かに、為政者たちに対して忠誠を誓って、そうした秩序によって維持されている範囲の社会においては、「規律」を準拠していれば、民衆は、「安心」で「安全」な生活が保証されたのでした。

ちょっと話しはそれますが、そんな「善いこと」「悪いこと」の国家的な基準を制定するのに、為政者たちは「宗教」を利用しました。各地域にあった民族宗教による倫理観などを基盤にし、それを国家的な宗教と習合することによって、国家の末端にまで行き渡った統一的な倫理観を作りあげていったのです。そこらへんの話しは「学習曼陀羅」で話しをしてきました。

 話しが広がってきてしまったので、もとに戻しますと、「善いこと」「悪いこと」の基準は相対的なものであるということです。逆の言い方をすれば、1つの統一的な国家の中で起きている反体制的な動きも相対化することによって、本質的な問題を隠蔽するということにつながるわけです。この手法は、国家が成立したときから、為政者たちがよく使う手法です。今回のテーマにそくして、もっと具体的な言い方をすれば、「むしろ、権力は権力が掌握している領域(内部)において、事象を二項対立化(外部化)させることによって、問題を相対化し、問題の本質を隠蔽する」ということになります。

この手法の勝れているところは、権力にとって障害になると思われる反体制的な動きも、結果として自らの運動によって、権力側の基準によって回収をされていくということです。その時のシステムはオートマティックです。そう、為政者(国家)側は、直接に手を下さなくても問題が解決するようにプログラミングされているということです。

民衆は、このしくみを忘れてはいけない。目の前で起きている現象に対して、一時的には対処的に対応をしなくてはいけないケースは多いわけですが、問題は次の対応なのです。根っこの部分をしっかりと掴まなくてはいけないのです。それは、ある意味で、「生きるための戦略」であるのかもしれません。規律化された社会の中で起きている事柄を単純に「善い・悪い」という二項対立的な視点で理解し解決しようとすると間違えます。証拠に未だ世界で戦争や紛争は無くなっていません。今世界は、二項対立的な視点を超えた理解が求められています。皆さんも少し考えてみてください。

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10月

「監視家族」

 東京をはじめとする都市では、犯罪予防のためのビデオカメラの設置がすすんでいるそうです。まさに見える形での監視社会化が確実なものになってきています。

 この監視社会なる構造が、指摘をされるようになってから時間はだいぶ経ちます。はじめに、なぜ日本の社会が監視社会化するのかということについて少し話しをしましょう。ただ、監視社会化するという傾向は、何も日本だけのものではありません。世界的に、特に資本主義社会が発達している地域において、こうした監視社会化が強力にすすんでいます。

 そうです、監視社会化することと資本主義社会とは、大きな相関があります。

 ここらへんのことを具体的に説明をしたのは、かのフーコー氏でした。彼の話しをすると長くなってしまうので、ここでは日本社会のことを中心として話しをしてみます。日本の場合、監視社会という言葉を聞くと直ぐにイメージができる時代は、戦前・戦中です。いわゆる治安維持法によって、国家の政策にとって不利益な人を取り締まる体制でした。その仕組みは、直接的に取り締まる人たちはもちろん、一般の人々なども組織的にその取り締まる仕組みの中に取り込み利用するものでした。この仕組みにおける特徴的なことは、直接取り締まる警察官のように任務として、こうした仕事を一般の人たちに与えたわけではなく、一般の人々が、「自主的」に協力をしていくように仕組まれていったということです。つまり、社会そのものを自動的に監視し合う体制へと変えたことでした。

 こうした社会体制に社会を変えるにはどのようなことを行ったのでしょう。その1つの構造的な例はと言えば、フーコー氏は、監獄であると言います。1つの理想的な監獄の形として、彼はパプティコンという監獄の構造をあげます。この監獄は、監視塔を建物の中心に置き、その回りを囲むようにして円状に収容室を配置してあります。つまり、監視塔の方から見ると各収容室を見ることができ、逆に収容室の方からは、1対1で監視されている構造を作ってあるのです。この構造の優秀なところは、収容室側から見た場合の監視塔は強い光による逆光の中に配置されているので、収容者の側から見るとその中の様子までは見ることができません。したがって、最初に収容されている者に監視塔には監視者がいるということだけ印象づけておきさえすれば、後は、実際には監視塔に監視者がいなくても収容者は絶えず監視者の視線を意識し続けるという点です。

 ようは、一度こうした構造さえ作れば後は、こうした構造そのものが自動的に監視をし続けてくれるというわけです。

 つまり、いかにしてこうした構造を社会に作るのかということが重要になってくるのです。前述した戦前・戦中における日本の監視社会化に大きく貢献したのが、いわゆる「教育」であったことは否定できません。「教育」を通じて、大衆の意識の中にこうした監視構造を刷り込んでいったのです。一度、こうした構造が意識の中に刷り込まれると人々は、実際の管理者がいなくても、いわゆる自己管理のもと「主体的」に回りの者たちを監視します。この構造は相関的ですから、互いに監視し合うということになります。結果、日本の場合は、相互不信の社会ができていったわけです。このような構造が、戦後の日本においてはどのようになっていったのでしょうか。そのことを考えるにあたり、この監視社会なる構造が、社会においてどういった意味を持つのかということを考えなくてはいけません。市民をお互いに監視させることの意味として、直ぐに分かることは、1つは経費の削減です。国民を法的規制のもとに監視をするのには、相当な数の警察権力等が必要になってきます。そのためのコストはばかにできません。そして、もう1つ、そもそも「なぜ、国民を監視しなくてはいけないのか?」。それは、社会の階層秩序化の必要性です。なぜ、社会を階層秩序化しなくてはいけないのでしょうか。それは、無意識のうちに個人を国家に服従させる必要があるからです。では、なぜ国民を国家に服従させる必要があるのでしょうか。それは、資本主義社会を維持するためです。ということで、現在の資本主義社会をどう見るのかということまで考えなくてはいけなくなってしまいます。さて、このように監視社会の意味性を考えていくと相当大きな話しになってしまうので、ここでは、構造を中心に話しをすすめましょう。

 戦後の日本においては、戦前・戦中の経験から、多くの国民が監視社会の危険性を学びました。したがって、国家はそう容易く、監視社会を構築し社会の階層秩序化をすすめることはできなくなりました。そこで、戦後においてこうした社会を構築するための方便として最近出てきていると思われるのが、「防犯」という言葉です。犯罪を防ぐために、前述したように街のあちらこちらに監視カメラが設置させられています。今や、道路を通る不審車両などは、24時間体制で全てビデオカメラに収められているそうです。毎日の私たちの行動が知らないうちに誰かに監視をされている。ひとたび、そうしたシステムが稼働していることを私たちが知れば、実際にはビデオが入っていなくてもカメラだけが置いてあれば、実質同じ働きをします。まさにパノプティコンと同じことになります。本来は、こうした「防犯」の意味を考えるには、「なぜ、犯罪が起きるのか?」そして、「起きた犯罪に対して、どのように対処するのか」という二つの面から意味を考えなくていけないものです。このバランスが重要です。監視社会がいやだから、自分の安全は自分で守るということだけが強調されるとアメリカのような銃社会になりかねません。

 結論を出すには難しい問題であるとは思われますが、気にしておいてほしいことがあります。社会の情勢がこうした方向にあることを認識しつつ、こうした構造を家族の中にまで浸透させてほしくないということです。今、私の目には、社会の監視化と同時に、家族の監視化、すなわち監視家族化がすすみつつあるように見えます。そのことが、昨今多く起きている子どもの虐待とも関係しているのではないかと私は見ています。現在の親たちは、自分が生まれたときから、巧妙にセッティングされた監視社会の中で育っています。知らず知らずのうちに相当の規律化が進んでおり、そのレベルは、無意識のうちに自分自身も含め、回りの人間を国家的秩序を基準にして監視をしています。子どもたちは、特に小さい子どもたちは、こうした規律化基準で行動をするのではなく、本能的な情動領域で行動をします。ゆえに、親の意識の中にある脅迫的な監視意識が規律に沿えない子どもたちに対して暴力を振るわせるのではないでしょうか。しかも、そういう親自身も過度にすすんでしまった監視社会に対して、本能的に服従できない意識が働いているに違いありません。これは親にとっての2重のストレスとなっていることでしょう。まさに、暴力の相乗効果がここに存在します。年々ひどくなっていく児童虐待がこのことを証明しているのではないでしょうか。

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11月

「誰も知らない」を観て

 映画のことをしゃべるには、まずは映画という表現手法についての話しからはじめなくてはいけません。現在において映画というと、総天然色のトーキー映画が直ぐに連想されます。今や、サイレント映画や白黒映画は相当に少なく過去の物となりました。しかし、映画という表現手法の特徴を考えるには、そうしたサイレント映画や白黒映画をイメージしていただいた方が分かりやすいかと思います。

 それはなぜかと言うと、映画という表現方法の根本は、映像表現であるということです。つまり、映画はそもそも音声や色を使った表現ではなく、映像と映像をつなぎ合わせたもの、すなわち映画でいうところのカットをいくつにもつなぎ合わせて1つの表現を創り出しているのです。この特徴は、映画という表現手法を考えるにあたってとても重要な視点です。こうした特徴は、映画を制作するときの流れを思い浮かべていただければより一層明確になります。映画制作では、1つ1つのシーンのカットをストーリーに合わせて順序立てて撮影をしたりはしません。季節や俳優さんの予定などに合わせて、バラバラに各カットを撮影してから、最後に編集をして1本の映画へと完成させるわけです。映画は、不連続な各カットを連続させて作られているのです。

 映画という表現方法の特徴を少し整理してみると、「映画とは、不連続な各カット(絵)を連続させることによって、1つのテーマを表現しているのかもしれない」ということになります。後年、技術の進歩によって付加された音声や色などは、あくまでもそうした映像表現の補完的なものなのです。

 このような映画の特徴をもう1つの別の角度から言えば、「映画とは、プロパガンダである」とも言えると思います。こうした特徴を持つがゆえに、映画とはプロパガンダ(宣伝)としての表現方法ととても相性がよいということになります。この特徴をいかんなく利用した人間の一人にかのヒットラーがいるわけです。

 映画の持つ前述した特徴とは、実際にはどのようなことになるのでしょうか。その実際について、先日観た「誰も知らない」という映画の感想を書くことで説明していきたいと思います。この映画は、主演をしている中学生の柳楽優弥くんが、カンヌ国際映画祭で最優秀男優賞をとったことで一躍脚光を浴びました。監督の是枝裕和さんは、テレビで社会派のドキュメント番組やCMなど制作している方です。映画のストーリーを簡単に説明すると、都会の小さなアパートで、母と4人の子どもたちが住んでいます。4人の子どもたちの父親は全部違い、学校などにも行っていません。社会的には存在が認知されていない子どもたちなのです。ある日、お母さんに新しい恋人ができます。彼らの世話を一番年上の明くんにまかせて、お母さんは恋人の所へと出ていってしまいます。特に連絡はなく、忘れた頃に十分ではない必要経費分のお金が送られてきます。都会の片隅で誰に知られることもなく生きていく子どもたちの話しです。

 観に行ったのが平日の夜という時間帯だったので、観客層は、若いカップルとご年輩の女性のグループなどが目立っていました。映画がすすむにつれて、劇場のどことはなしに、「かわいそう」だとか「切ない話しね」とかという言葉がもれてきます。確かに、この映画では、そもそも責任のない子どもたちが、理不尽な状況に置かれ、生きていくために知恵をしぼり、支え合って生活をしていきます。その様が、けなげで「切なさ」を遺憾なく引き出します。さて、こうした観方は、おそらく一般的で、監督の意図したことの1つであったのかもしれません。

 初めのうちは、私は、何で児童相談所とか、区の福祉窓口とかに相談をしに行かないのかと、ずーっと思いながら観ていました。きっと、子どもたちだけだからそうした仕組みを知らないにちがいない。誰か教えてあげればいいのにと思い続けながら観ていたのです。しかし、あるシーンからそうした仕組みのことを彼らはよく知っていた、ということがわかります。おとなのそうした勧めに対して、明くんは、こう答えました「4人がいっしょにいる方が大切なんだ」と。そのセリフを聞いた途端、私のこの映画に対する観方が、180度変わります。これは相当ギリシヤ的な映画であると、この映画の本来のテーマは、「自由と逃走」だったのではないか?なぜ、そんなことを思ったのでしょうか。いくつか気がついた点があります。1つは、観客に意識させた「切ない気持ち」とは、裏を返せば、観客の「やましい心」の裏返しです。そして、規律化された社会にあって、子どもたちはあえて「漂流」する生活を選択します。さらに、恋人のもとに去るお母さんは、社会的には許されない母親ではありますが、人間的には情動の領域において生きようとする漂流者の一人でもあり、階層秩序化される生き方を拒否した子どもたちとある意味で、同志であるとも言えます。実は、ヒューマニズムとは、近代においては階層秩序化された社会に回収される機能の1つであると言えます。この映画では、最後まで社会的なヒューマニズムは差し挟まりません。

 ここまで、話しを進めてくると映画という表現の性格がよく分かってきたかとは思います。映画という表現は、その構造からもあきらかなように不連続のものを連続させたコラージュ的な表現をしています。つまり、映画にはもともと、一貫したストーリーというものが存在しないということです。しかしここで勘違いをしてはいけないことは、結果としてそうなるということです。また、監督の哲学によって、意図的にそういう性格を使う人もいれば、わざと一貫したテーマ性を脚本に反映させる監督もいます。特にハリウッドの監督たちは、後者に所属をします。彼らは「貨幣」という主テーマをストーリーに埋め込むからです。

 映画とは、そうした性格から、監督の意図があろうとなかろうと、観客の観る位置によって、その意味が大きく揺れます。映画という表現はそもそも「両義的」な表現であると言えるのです。

 さて、そんな映画に似たものが私たちの日常生活にも存在します。それは、「歴史」です。「歴史」は、まさにそんな映画的な表象です。「歴史」の終焉の問題はさておき、歴史をみるときは、映画と同じように自分の立つ位置によっていろいろな見え方がするということを忘れてはいけません。「歴史」の両義性については、他の機会に書きましょう。

 ということで、映画を観るだけで、様々なことが思い浮かびます。どうぞ、皆さんも是非機会があれば、映画館に足を運んでみてください。最近は、レディースデイだとかメンズデイだとかカップルデイなどという割引の日も数多くありますので。

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12月

「アメリカの言う平和と日本の言う平和は同じなのか違うのか」

 何でこんなことを思ったのかと言いますと、11月にあったアメリカ大統領選挙の内容を見ていて思いつきました。

 そもそも何でアメリカ大統領選挙だけ、日本のマスコミは大々的に取り上げるのか不思議に思っていました。ニュースとして採りあげるのであれば、各国の大統領選挙や国家元首級の選挙も同様な扱いをしてほしいものです。で、結果としてブッシュ氏が再選をしたのですが、報道を観ているかぎりでは、今回の大統領選挙の争点は、イラク戦争ではなかったようです。あるテレビニュースでは、今回の選挙の動向は、「日曜日に教会に行く人がブッシュ氏に入れ、行かない人がケリー氏に入れた」と言っていました。なるほどそういうことかと妙に納得してしまいました。

 なぜ、すんなりと納得してしまったのかというと、これも大統領選挙前の何かの特集番組で観たのですが、今、イラクにおいて、アメリカの占領政策を支えているのは、民間企業であるという報道番組を観たからです。そのアメリカの企業は、業種的にはコンサルティング会社ということになるのかとは思いますが、警備みたいなことから始まって、現業的な仕事まで、様々な業種に人材を派遣していました。テレビでは、その人材募集の様子を紹介していました。相当数の人が、その募集に応じていました。運良く、会社に採用されてもその後の研修でよい成績を残さないと現地に赴くことはできません。その研修は、まさにサバイバル技術の修得でした。つまり、どの業種で派遣されるにしても仕事は命がけであることを前提としているのです。証拠に、研修会場には、保険会社の勧誘ブースが当然のように併設されていました。少しでもよい収入を得るため、命を切り売りしてでもイラクへ行きたいと希望している人たちが大勢いるのです。もし、仮に命を落としても、残った家族のためには保険金がおりる仕組みになっているわけです。

 「何のために、この危険な仕事に応募したのですか?」というインタビュアーの質問に対して、多くの参加者は、「子どもたちによい教育を受けさせたいから」とか「経済的に豊かな生活をしたいから」などと答えていました。

確かに今アメリカ社会では、いわゆる貧富の差が拡大していると言われています。生活をするため、家族を養うためには、業種などを選んでいるような余裕はないのかもしれません。現代アメリカ社会において、貧富の差が拡大している理由についてはちょっと置いておいて、それにしても応募の理由が転倒していることに驚かされます。命よりお金が大事ということなのでしょうか。子どもにとってのしあわせとは、家族にとってのしあわせとは、一体何なのでしょうか。例えば、その1つはお父さんがいるということなのではないでしょうか、生命保険によって多額な保険金が入り、経済的に豊か生活ができたからと言って、子どもは死んでしまったお父さんに感謝をするのでしょうか。

 こうした、視点を裏付ける話しが、前述した「日曜日に教会へ行く人たちがブッシュ氏に入れた」につながるわけです。ふつうに考えて、命よりお金が大事という考え方は、どう考えても転倒しています。でも、今のアメリカ社会は、その転倒した価値観を無理にでも納得しなくては生きられない社会になってしまっているのではないでしょうか。無理にでも納得させるために宗教の力を必要とする。今回、ブッシュ氏に票を投じた人たち、報道で言うところの教会へ行く人たちは、転倒したアメリカ社会、転倒したアメリカの政治政策を正当化させ自分の精神を宗教の力で癒す人たちであったと言えるのではないでしょうか。

 こうした、アメリカ社会の構造は、実は何も目新しいものではありません。いわゆるアメリカにとっての「平和」とは、彼らの物質的な豊かさを保証するものでなくてはいけません。そのために軍事力を行使することは、当たり前、むしろ前提のことなのです。したがって、アメリカ人にとって、アメリカという国の外で、アメリカの平和を維持するために行われている行為は、それが戦争であれ、外交であれ、文化活動であれ、自分たちの平和が保証されるためのことであれば、正当化され、逆に言えば国内における政治的政策とは直接関係のない別次元ことになってしまうのです。つまり、外と内で相当に分裂せざるをえない構造となっているわけです。その分裂具合を国内において緩和をするために宗教という安全装置が稼働するというわけなのです。

 このことをより分かりやすく説明する例が1つあります。紹介をしておきましょう。現在もその主力部隊としてイラクで活躍しているアメリカ軍の1つに海兵隊という部隊があります。海兵隊はアメリカ軍の中でも一番勇猛果敢な部隊、逆に言えば殺戮部隊として恐れられている部隊ですが、彼らのことを英語で言うと、「Marine Corps」と呼んでいます。一方、キリスト教における共同体(家族・兄弟のような)を意味する言葉としてあるcorpusは、corpsと同じ発音し、ラテン語における同語源からなります。したがって、軍隊は彼らにとっては、聖戦を闘う、聖集団、まさに家族・兄弟のようなものであるのでしょう。

 このようなアメリカの平和観に対して、私たち日本人がよく口にする平和とは、アメリカのそれとは違うのでしょうか。先日、機会があって、皆さんも知っているかとは思いますが、今年の8月、沖縄県の大学に米軍のヘリコプターが墜落をした事件に関係するシンポジウムにいってきました。その中での話しの中心は、今や米軍が地球規模で、軍隊を縮小しているのだから、在沖縄米軍も駐屯する意味が薄らいできている。ゆえに今こそ基地を追い出すチャンスだというものでした。確かに、以前の沖縄の米軍基地は、先にも書きましたように、アメリカの経済的発展のためにその存在が、特に沖縄に関してはアジアにおけるアメリカの利権維持のために必要でした。しかし、現在はイラクでのアメリカの占領政策を見れば一目瞭然のように、あのような露骨なアメリカの利権拡大のための動きは、もうアジアの他の地域ではできません。アジアで軍隊に経費をかけ動かすことは、アメリカの経済的発展を促すには、あまり賢明の策ではなくなってしまっています。問題は、それがいつ頃からなのという点です。おそらく相当前からそうした状態になっているのだと思われます。確かに、アフガンのときもイラクのときも沖縄から先ほどの海兵隊は出ていっていますが、彼らは出ていったきりで沖縄には戻ってきていません。ある意味で、当時よりアメリカは沖縄の基地はあまり必要ではなかったのかもしれません。北朝鮮との関係で、相当に必要があると思われる韓国の米軍は、その大部分が撤退することが決まっています。ということは、今、沖縄に米軍が駐屯しているのは、「日本の経済的発展のために必要なのだ」ということになりはしないでしょうか。つまり、日本政府が日本の発展のために米軍基地を置いておくようにアメリカに頼んでいる状態なのではないでしょうか。とすれば、本来であれば、徹底的に基地撤退の交渉をする相手は日本政府ということなります。この構造は、注意が必要です。日本の経済的に豊かな社会を維持、発展させるということが前提の上で、「平和」という言葉を持ち出してくると、その「平和」は、アメリカのそれと変わらなくなってしまうからです。したがって、平和を維持するためには、軍事力も必要だということになります。そのためには、アメリカ軍を雇っているのもしかたがない、彼らが出ていくと言うのなら、その後は自衛隊で守らなくてはという話しになってしまいます。つまり、より大きな経済的な発展を前提とした平和観は危ういのです。真に平和を望むのであれば、そこの違いを明確にしなくてはいけません。物質的に豊かな社会を第一優先にするのではなく、精神的に豊かな社会を中心に考えていく世紀であると。では、その精神とは何だということで話しは終わりませんが、今月はこのへんで。よいお年を。

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