南風旅情・メコンデルタ


遠くチベット高原に源を発し、中国、ラオス、ビルマ、タイ、そして、カンボジアを通り、ベトナムへと注ぐ、長さは4200キロメートル、東南アジアで最大の河である。その流域は、81万平方キロメートルにも及び、約3000万人の人が住むと言われている。
ベトナムのメコンデルタに入ってからは、いくつもの支流にわかれ、南シナ海へと注ぐため、ベトナムの人たちは、メコンと呼ばずにクーロン(九龍)と呼ぶ。メコンデルタ地帯はメコン河とフランス植民地時代などに掘られた無数の運河によって網の目のように結ばれている。メコン河沿いにあるいくつもの市場は、各地の産物が船によって運ばれてくる。
メコンデルタは今も昔もベトナムの穀倉地帯である。昔は、地主、小作人というような古い農村地帯であったが、今は、農民に対する農地分配も終わり、ベトナムにとって重要な輸出品の1つである米作の生産増に国をあげて取り組んでいる。


その昔、メコンデルタは、クメール族の地であった。カンボジアは、この地域をカンポチア・クロム(南部カンボジア)と呼んだ。一時は、アンコール・ワットを建設するなど勢力を誇示したクメール族もシャム(タイ)の攻撃を受け、衰退の一途をたどった。17世紀はじめ、執拗なタイの攻撃から国を守るため、ベトナム阮一族の娘を王妃に迎え、国を安定させようとした。 しかし、南下政策をとっていたベトナムに干渉させる口実をつくらせることとなり、プレイノコー(サイゴン)に貿易のための拠点を置くことを許してしまう。
17世紀末になると南下政策を強めたベトナムは、プレイノコー(サイゴン)の周辺をも植民地とする。中国明が、清によって滅ばされたとき、清による支配を嫌った明人は台湾に逃げた。台湾に拠点を作ったのは、明の鄭一族であった。しかし彼らは、清の支配強化によって制海権を奪われていった。ついに鄭一族の水軍がベトナム南部の支配者であった阮氏に亡命を願い出た。 当時、阮氏は、ベトナム北部のベトナム鄭氏と南北戦争を行っていた。そのことから、北部に明の強力な水軍を置いておくことは、政治上危険であると判断をし、彼らを南部に移住させ、土地を開拓して成功すれば官位を与えると約束して亡命を受け入れることとした。以降、中国明人のメコンデルタへの移住はすすみ、彼らが南部ベトナム華僑の先祖となるのである。
南部における領土拡大をもくろんでいた阮氏は、こうした明人や新規の開拓者たちを利用して、デルタ地域における領土を広げていった。当時の土地開拓を伝える文書は以下のように記している。「南部の土地開拓は、自由で勝手気ままに所有権を主張できた。耕すところはすべて自分たちのものだ。阮氏政権は、領土を拡張するために、開拓民を自由勝手に放置していた。開拓民はなんの制限なしに土地を所有できた。家も勝手につくって移り住んだ。 自分たちで村を勝手につくった。低地を選び、水がうまく入る土地を選ぶことができた。広い水田が生まれた。高い土地の農地を選ぼうと思えば、いつでも高い土地の水田を選択できた。開拓民たちは、雇われたものも、一生懸命に働いて、土地の所有権を確保した。したがって、生活はすぐに楽になり、ある地域では、40から50家族が、60人の雇人をもち、400頭の水牛や牛を飼っていた。彼らは休みなしに働いた」(撫邊雑録)


こうした南北時代を経て、政権争い激しい戦国時代へとベトナムは入っていった。19世紀に入ると阮福映がフランスの力を借りて、全国の統一をはかる。しかし、このことが後のフランスによる植民地化を許すきっかけとなったわけだ。
フランスの植民地時代、日本の占領時代、そして、再びフランスにより干渉された第1次インドシナ戦争時代を経て、大国アメリカと戦うベトナム戦争時代へ突入していく。1950年代、アメリカの傀儡政権であったゴ・ディン・ジェム政権の圧政はひどく、南部ベトナム人たちは、独立のための戦いに立ち上がろうとしていた。1959年のベトナム労働党第15回中央委員会決議を受け、1960年1月17日、南部メコンデルタのベンチェーにて、 素手の農民たちが、省委員会副書記であったグエン・ティ・ディン女史、指導のもと蜂起をする。はじめ7人しかいなかったゲリラは、サイゴン政府軍の陣地を攻略するにしたがい兵も増え、その動きは南部全体の独立運動として発展した。その後、南ベトナム解放民族戦線はよく戦い、ここデルタ地帯においても実質的な解放区を着実に広げていった。そうしたゲリラの活動に手を焼いたアメリカは、終戦まで執拗な空爆や枯れ葉剤など散布を続けた。
戦後27年、今、デルタ地域では、米作だけに頼らずに安定した収入を得るための農法、「VAC」が進められているという。畑(Vuon)、池(Ao)、家畜小屋(Chuong)それらの頭文字をとって、VAC農法と呼ばれている。畑で採れた野菜や果物を家畜に与え、家畜のふんを畑の肥料や魚の餌として活用する。米作以外に収入源を2つ確保したこのやり方は、理にかなっているという。 しかしながら、デルタの主力作物はやはり米であることに変わりはない。余剰の出た資金や時間をより質の高い、国際競争力のある米作りに生かそうということのようだ。


メコンの朝は早い。あちらこちらにある島というか中州から、学生やら、勤め人やら、行商の人やらが小舟やフェリーに乗って中心となる町に集まってくる。河面を渡る風は熱帯の地にもかかわらず、爽やかで朝の鋭気に満ちている。多くの家は、河に面して玄関がある。家の直ぐ前の河で水を浴び、洗濯をし、子どもたちは遊ぶ、1日の生活は、メコンから始まり、メコンに終わる。川辺の各地から集まる食材は豊富で、1日中市場を賑わせる。
豊かな自然の中で、子どもたちは遊び大きくなる。広く高い空に赤みがかかってくるころ、家々からは、楽しげな笑い声が聞こえてくる。平和な時代。
そんなデルタの町
カントーからのお土産です

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