ポーランド独立への道−1


1824年、14才のショパンは、父親が教師をしていたワルシャ ワ中学に学んでいた。長い休暇になると彼は、ワルシャワ郊外のツァファルニアの村へよく遊びに行った。村には、大きな牧場があり、清らかな小川が流れていた。農場で働 く人々は、仕事をしながらポーランド民謡を歌い、収穫の時期には仕事の後、皆でひとしきり愉快な農民の踊りを楽しんだ。ショパンも農民たちと共に、こうした時間を共有したそうだ。
「ポーランド民謡」「ポロネーズ」「マズルカ」

軍事的な意味そして肥沃な土地としての価値、ポーランド平原は、
すきあらば活用したいと望む周辺大国の視線の延長線上にあった。
1763年、アウグストV世が死去する。
ポーランド王国の王位継 承問題を口実にして、
ロシアがポーランドの内政に干渉をしてくる。
1764年、ロシアのうしろだてをようする
スタニスワフ・アウグ スト・ポニャトフスキが新国王に着く。
彼は、学問好きであったので、国政の改革をおおいに進める。
行き過ぎた改革を懸念したロシアは、ポーランドに圧力をかけた。
国王はその圧力の前に妥協をし たが、
ポーランド大衆は、果敢に列強に対して対決を挑んだ。
がしかし、圧倒的な軍事力を持ったロシア軍、ポーランド国王軍の前に弾圧された。
1772年、ロシアの保護体制のもと第1次ポーランド分割が強行される。
1791年、ロシアの保護体制から脱することをめざし、
通称「5月3日憲法」が国会で採択された。
この憲法は、1787年のアメ リカ憲法、1791年フランスの憲法とならぶ
民主主義伝統の源流 となる憲法であった。
脱ロシア化を懸念したロシアは、
5月3日憲法を無効にさせるために軍事的圧力をポーランドにかけた。
国王は いくつかの妥協案を提示するも妥結されず、
革命フランスの動きを 憂慮したロシアとプロイセンは、
1793年、第2次ポーランド分割を強行した。


タデウシ・コシチューシコ、
アメリカ独立戦争も経験した
ポーラン ド騎士学校の出身の
壮年の愛国者は、
1794年3月24日

ポー ランド南部の古都である
クラクフで蜂起の声を上げた。

4月4日、
大鎌で武装をした農民兵2000人たちが
ロシア正規軍をロツワヴ ィツェで破る。
蜂起は成功したかに見え、
ワルシャワにコチシュー シコを首班とする
最高国民会議が設立される。


しかし、軍事的援助を期待をしていた革命フランスは、
自国のことで手一杯で、ポーランド支援まで手が回らず、
10月10日のマチェヨヴィツェの戦いで敗北をきっし、
負傷したコシチューシコは捕らえられペテルブルグに幽閉される。
勢力を回復したロシア軍によりその後、蜂起は衰退していった。
国王スタニスワフ・アウグストはペテルブルグへ連れ去れる。

1795年10月24日
ロシア、プロイセン、オーストリアの三国によって、
完全分割である第3次ポーランド分割が実施され、
ポーランド王国は地図上から消滅する。




  映画「パン・タデウシュ物語」アンジェイ・ワイダ監督
 今、日本で公開されています。観たら感想を書きますね。

そんなポーランドの旅で見つけた宝物

   
銀のブレスレット
5000円位〜


ポーランド伝統柄
洗濯バサミ 
6個500円位〜


   
銀のブローチ
5000円位〜

   
銀のブレスレット
5000円位〜



山民たちのタタラ
(シューズ)
1200円位〜


 
山民たちの伝統的布地
30×76cm
1500円位〜

  
銀のブレスレット
5000円位〜


ポーランド伝統柄
陶器2種
1個250円位〜


クラクフ伝統柄ショール
1500円位〜



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