2002
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 コロンブスが持ち帰った唐辛子

唐辛子の原産地はインドあるいは中国だと信じている人も多いですが、実は南アメリカが原産地です。しかし、厳密な原産地を特定することは、植物学者の間でも今だに重要な研究課題の1つになっているそうです。有力な話しとしては、ボリビア中部地方というのが定説になっているそうです。トウガラシの原産地がインドだという勘違いは、インド国民があまりに熱狂的に唐辛子を好むために起こったものだと思います。 もう1つの有名なスパイスである黒コショウの原産地はインドのマラバール海岸です。この黒コショウの小さな粒は、インドの西海岸にある港町のカリカットとキロンから、アラブ商人によってギリシャ、そしてローマへと伝えられました。その後、ポルトガル、スペイン、イタリア、オランダ、イギリスなどのヨーロッパでコショウは珍重され、香辛料貿易を独占しようとヨーロッパ人たちは激烈な競争をしながら、未知の海岸へと乗り出して行きました。

コロンブスはヨーロッパから西方へ渡航し、1492年にカリブ海に到着しました。ところが、目的地であるインドへたどり着いたと信じ込んでいたため、「そこではガンジス川の香りがした」とのちに語っています。博識な植物学者であったディエゴ・チャンカ博士も、やはりオリエント発見を熱望して、コロンブスとおなじ船に医師として乗り込みました。同じようにチャンカ博士も到達した土地をインドだと思いこんでいたふしがあります。それというのも、「先住民は首の周りにショウガをつけている」と書き残しているからです。ショウガはアジア原産の植物であり、南アメリカ土着のものではありません。

こうして、コロンブスは先住民を「インディアン」と呼び、彼の船医であったチャンカ博士は、この土地固有の「インディアン・ペッパー」を発見したとスペイン王室に宛てた手紙の中に書きました。のちにはコロンブスも次のように報告しています。 「この土地ではアヒと呼ばれる植物がたくさん栽培されいています。アヒはこの土地の先住民のペッパーであり、一般的な種類(黒コショウ)よりも価値が高いものです。これを彼らは非常に有益なものと考え、何を食べるときでも使います。もし、この産物を交易の対象にすれば、毎年イスパニオラ島(カリブ海のハイチ島)からカラベラ船(快速小型の帆船)で50隻分のアヒを積み出すことが期待できるでしょう」 けれどもコロンブスが持ち帰った唐辛子は、ローマカトリック教会の司祭たちの印象に残ることはありませんでした。ジェノバの一市民であった冒険家のコロンブスがそうであったように、唐辛子もヨーロッパでは長い間忘れ去られてしまったのです。 一方ポルトガル人は、南へ南へと進路をとりながら航海を続けていましたが、偶然、ブラジル東海岸の交易地ペルナンブコで唐辛子をみつけます。この唐辛子を、ポルトガル人はガリオン船(軍船・貿易船として用いた大型帆船)に積み込み、つぎの交易地点であるアフリカ西海岸でタバコや綿花と一緒に運んで行きました。 その後、唐辛子を乗せた船は喜望峰を通ってインドの西海岸にあるゴアに到着しました。船につまれてきた唐辛子は、その地でベルナンブコ・ペッパーの名で知られるようになります。さらに、唐辛子はゴアを出航し、マレー半島とスマトラ島の間をまっすぐ通りぬけ、中国の南端に位置するマカオへ、日本の長崎へ、さらに南に向ってフィリピン諸島を通って、そこで、アフリカ人奴隷とともにオランダとイギリスの船に積まれた唐辛子は、インドネシアとニューギニアの間にある香料諸島(モルッカ諸島)へ向けて航海を続け、さらに、故郷のアメリカ大陸へ向けて太平洋を横断していきました。このように唐辛子は、50年足らずの間に、世界一周の旅を成し遂げたのです。

ヨーロッパでは、新大陸からもたらされた作物が人々に受け入れられるようになるまでに相当な時間がかかったようです。唐辛子だけでなく、ジャガイモやトマトもまた、そうでした。植物学者リンネがジャガイモを「悪魔の植物」と呼んだように、「ジャガイモは、ハンセン病や梅毒を引き起こす」とか、「トマトは有毒で精神異常を誘発させる」と当時のヨーロッパの医者達は公言してはばかりませんでした。


 東インド起源説

新大陸からもたらされて50年が経っても、長い間、唐辛子は誤ってアジアのインドが産出地として、考えられていました。16世紀に、ドイツ、チュービンゲン大学医学部のレオンハルト・フックス教授は唐辛子の素晴らしい図を描きました。この図は植物雑誌や医学雑誌などでも掲載されましたが、その果実はカリカット・ペッパーと説明されています。今でこそ唐辛子はインド全域で栽培されていますが、当時のカリカットはトウガラシの栽培地というよりはインドの重要な中継港の一つで、ドイツ行きの船に唐辛子を積み出していました。その証拠が、1542年にカリカットからドイツに到着した船の記録の中に残っています。

もう一つ、誤解の例をあげておきましょう。ドイツ生まれのオランダ人博物学者ゲオルク・エバーヘルト・リュンフの話です。当時の植物学における権威のひとりであった彼は「コロンブスが新大陸を発見するより数世紀も前に、唐辛子はインドで栽培されていた」と主張していたのです。リュンフは唐辛子の調査を新・旧両大国で行うという極めて貴重な経験をしていたので、この問題にかんする第一人者として評価が高かったのです。 彼は、1646年にオランダ西インド会社に入ってブラジルへ渡り、1653年にはオランダ東インド会社に加わって、ジャワのバタヴィア(現ジャカルタ)へ行っています。この植物学者は余生をモルッカ諸島中央部の島、アンボンで過ごし、そこでマレー半島の植物にかんする6巻の大著を著わし、その中でトウガラシの起源について自らの見解を述べています。これがトウガラシの初期の分類を記載した書物です。その中でリュンフは次のように言っています。 「現在、唐辛子は、ブラジルや西インド諸島のほか、東インド諸島からもたらされると人々は考えている」「しかし、本来、唐辛子の原産地は東インド諸島であり、そこから徐々にヨーロッパやアメリカ両大陸へ渡って行ったのだ。ただし、現在私達が手にしている唐辛子は、主としてアメリカ大陸からもたらされたものだ」 と。ところが実際は、彼の主張を証明する資料は何もなかったのです。唐辛子に関する資料は、コロンブス以前の時代の、サンスクリット、ローマン、ギリシャ、ヘブライ、アラビアのどの言語の文献にも出てこなかったからです。


 ハンガリーとパプリカ

最終的に唐辛子を調味料としてヨーロッパ中に広めたのは、トルコ人でした。それはトルコがインドを侵略したことに始まります。オスマン帝国の皇帝が率いるトルコ軍は、カリカットの北にあるジウというポルトガルの植民地を侵略し、「カリカット・ペッパー」を持ち帰えりました。さらにトルコ軍はハンガリーへも進軍して領土を広げましたが、そのとき唐辛子も一緒に北へ運んだと言われています。つまり、ヨーロッパで初めて唐辛子を受け入れたのは、この作物を新大陸から持ち帰ったスペインやポルトガルではなかったのです。ハンガリーがヨーロッパで最初に唐辛子を暖かく迎え入れた国となったわけです。それ以後ハンガリー料理の味つけは永久に変わってしまうことになったのです。 ハンガリーには唐辛子にまつわるこんな言い伝えがあります。 「もし一人の田舎娘がいなかったなら、熱帯以外の気候を大の苦手とする唐辛子が、この国で栽培されることは決してなかっただろう」と。 その娘はブダペストを占領していたトルコの武官のハーレムで強制的に働かされていました。そのとき、彼女は宮廷庭師がどのようにパプリカを育てるのかを観察していたのです。パプリカの栽培は彼女にとってとても興味深いものだったのです。やがて、ハンガリー軍が宮殿を攻撃し、包囲したのち勝利したので、娘は自由の身となりました。田舎の村に帰った娘は、その時覚えたパプリカの栽培方法を農夫たちに教えたのです。

辛味の強い唐辛子は、高価な黒コショウにかわるスパイスとして、貧しい人達の間で急速に受け入れられて行きました。実際に、1593年にイベリア半島を旅行したマキシミリアン皇帝の宮廷植物学者シャートル・ド・ルクルーズは、「カスティリア(スペイン)では、庭師や主婦がカプシクムつまり唐辛子を丹精こめて栽培している」と報告しています。 その後、ナポレオンが海上封鎖を行ったため、黒コショウなどのスパイス交易は中断されることになります。この結果、上流階級の人達も従来の黒コショウの代用品として唐辛子を使うようになりました。こうして、唐辛子は急速に広まっていきました。 1793年、ハンガリーを旅行したクント・ホフマンシェーグは姉に宛てた手紙にこう書き記しています。 「私はパプリカ風味の肉料理がとても気に入りました。これは健康にもよいに違いありません。というのも、昨日の夜は本当にお腹いっぱい食べたのですが、どこも痛くならなかったからです…パプリカを食べることは単なる習慣なのかもしれませんが、とても理にかなっていると思います。もし時間があれば、パプリカを植物鉢に植えてみてください。冬には料理に使ってみたいと思いますので」。 こんなハンガリーのことわざもあります。紹介しましょう。 「名声を欲する人もいれば、富を望む人もいる。しかしグラーシュ(牛肉とタマネギのパプリカ入りシチュー)は全ての人が切望する」

ハンガリー人は長い間、唐辛子の辛味より、その風味を好みました。かつて収穫の時期には、何百人もの女性が山積みにされた唐辛子の前に座り、辛さを和らげるために辛味成分の集中している胎座を取り除く作業を行ったものです。その後の1945年、農学者エルノ・オペルマイヤーが25年間にわたる選別と交配ののち、マイルドな性質の唐辛子を遺伝的につくりあげました。このおかげで、今日のハンガリーのパプリカ産業が繁栄しているというわけです。 現在、この光沢のある赤い甘味ト唐辛子は、主にハンガリーの2ヶ所で栽培されています。1つはハンガリー南部にあるティサ川河畔に位置するセゲド、もう1つはドナウ河流域のカロチャである。この2ヶ所がパプリカ栽培の中心地になった理由について、植物学的に「まわりの環境に非常によくあった」という記録が残っています。セゲドとカロチャでは、気温、日照量、雨量が完璧に「規則正しく循環」し、5ヶ月間にわたる生育期の後半には、日中の平均気温の合計が常に2900度に達します。このような気候条件は他では見られず、平均気温の合計が最高で2700度に満たないところでは、どんなにうまくいっても並程度のパプリカしか栽培できないと言われています。 ハンガリーで生産された唐辛子のほとんどは、乾燥して粉末にしたのち、パプリカの名で出荷され、魚のスープや煮込み料理グラーシュなどをハンガリー料理らしくするのに使われます。風味つけや色づけに使われるマイルドな唐辛子は、スペイン、ポルトガル、ユーゴスラビア、モロッコ、ブルガリア、ルーマニア、イタリア、ギリシャなどでも生産されています。中でも「ローズ」と呼ばれる品種は、甘い芳香と美しい色で知られており、グルメ達にもっとも賞賛されている種類です。

産業保護のため、ハンガリー農務省は国産パプリカの種子を厳しい管理化においています。部外者がこの種子を入手することは、国家機密を盗むことに匹敵する罪になるそうです。ミシガン洲カラマズーにあるアズグロウ種苗会社のボブ・ヘイジーは「もし、パプリカ畑の近くでつかまれば、撃ち殺されるだろう」と語っています。彼は唐辛子の育種に一所懸命でしたが、公的なルートでパプリカの種子の入手を試みたものの、結局手に入れることはできなかそうです。ヘイジーは次のように言っていました。 「当局は市場用サンプルをいくつか提供してくれましたが、いずれもブルガリア産やロシア産のものでした。私がほしかったハンガリー産は譲ってもらえませんでした。禁止されているからだめだというのです」。 しかしついに、パプリカの種子がアメリカに持ち込まれました。1941年10月10日、「数人の移民が少量の種子を持ちこむのに成功しました」と、アメリカの農業番組は臨時ニュースを流しました。そしてこの種子はワシントン州のヤキマ渓谷とルイジアナ州のセントジェイムズ郡でまかれることになりました。しかし、そこはパプリカを育てるには気候条件があまりに厳しかったので、高度に組織化されたハンガリーの唐辛子産業に成功することはありませんでした。アメリカのみならず他の国においても同様でした。 そののちの、世界の国々の関心は、パプリカのかわりに、カイエンヌと呼ばれる刺激のある赤唐辛子の粉末の生産に集中しました。ちなみに、フランス領ギアナにカイエンヌという町がありますが、カイエンヌ・パウダーはそこで生産された唐辛子という意味ではありません。実際、カイエンヌ.パウダーはインドやアフリカ、メキシコ、中国、日本、アメリカのルイジア州で作られています。

ハンガリーでパプリカが貴重な外資を稼いでいることを考えると、この国で唐辛子がトマトの2倍も栽培されていることは驚く事ではありません。1989年、ハンガリーは6万2000tのトウガラシを生産しています。世界最大の唐辛子生産国であるインドは、同じ年、80万tを収穫しており、その収穫物の95%は国内の消費に向けられています。唐辛子を栽培している国としては、中国、パキスタン、メキシコ、スリランカ、ナイジェリア、エチオピア、タイ、日本が知られ、これら全ての国の唐辛子の総生産量は1989年には約400万tにのぼりました。ちなみに、コロンブスが探し求めていたほうの香辛料、黒コショウの同年の総生産量は20万tにも満たなかったのです。



 辛い唐辛子と辛くない唐辛子
 
唐辛子には、実に多くの品種があります。あまりに多すぎて、困惑してしまうほどです。世界中に唐辛子が広がるなかで、それぞれの地方の土壌や降雨量、さらには気温などの違いによって新しい形や辛味を持つ品種が生まれた結果です。ちょっと例をあげただけでも、マメのような形をしたチリ・ピキン、さくらんぼのような形のチェリー・ペッパー、ランタンに似たハバネーロ、ずんぐりした先端のとがったハラペーニョ、ペパカボチャのような形のロコティーヨ、そして細長くて、もっとも一般的な形のアナヘイムなどがあります。  また、風味も品種によって様々です。ほとんどの唐辛子は1m足らずの低木ですが、野生種は3mにおよびます。ボリビアでは20mほどにも広く枝をはった野生種も報告されています。

唐辛子の果実は熟すのにつれて赤くなります。しかし未熟なうちは、明るい緑色、濃い緑色、青みがかった緑色、さらに茶色がかった緑色の果実もあります。この他、黄色や白っぽい黄色、紫がかった濃い緑色、黒紫色の果実もあります。同様に、 辛味の程度にも幅があります。同じ場所で栽培された唐辛子が形や大きさが同じでも、辛味の程度に大きな違いが生まれることがあります。だからこそ、辛味が一定でないことを知っている人びとは、唐辛子を市場で買うとき、見かけだけでは選びません。いくつかの唐辛子を切りとって、こっそり食べてみてから買うのです。もっとも一般的な傾向として、暑い気候の所で栽培されたものほど辛い。また、細くて、先端のするどくとがっている果実は辛いのが普通です。

世界のまったく違った場所で栽培される唐辛子なのに、形態が似ているせいで、おなじ意味の名前をもつものが少なくとも2つあります。 1つはメキシコで人気のある細長くて辛い唐辛子「ミラ・ソル」です。スペイン語で「太陽を見る」という意味で、その名のとおり、この唐辛子は太陽をそっと見上げるように枝に直立して実をつけます。もう1つは、インドのベンガル地方の唐辛子です。こちらは大きさが5cmほどのずんぐりした形で、「のみ」のように先端がとがっています。そして、やはり空を見上げるという意味の「アーカーシ・ランカ」と、太陽を見上げるという意味の「スルジャムキー」の名がつけられています。

一方、唐辛子には同じ品種でも異なった性質をもつ特徴があり、それが品種に新しく名前をつける人に誤解を生じさせている場合があります。実際はおなじ品種に属するものであっても、外見上は異なった系統の名前をつけてしまうのです。このようにして、唐辛子の品種には、むやみやたらとたくさんの名前が考え出されてしまいました。 1920年、唐辛子の品種に関して、米国農務省は特に言及し「俗称があまりにも混乱して使われており、品種を区別するのに困惑を覚える」と述べました。1976年になると米国農業委員会は、命名システムを改善するための仲介の労をとらざるを得ない事態になりました。世界中の唐辛子なのか、それともまったく異なる種なのか、ひとつひとつはっきりさせようとしたのです。

最初の分類によれば唐辛子の品種の数は1600におよび、それらのほとんどは2つの種(スピーシス)のいずれかに分類されます。そのうちの1つの種、カプシクム・アンヌームには、大半の商業用品種の200品種が属しています。商業用に栽培されているたいていの品種が交配するといずれも確実に実をつけるため、これらの品種は植物学的には同一の種とみなしてよいのです。
メキシコでは、この国固有の品種が数多く栽培されており、唐辛子市場に行くと目をうばわれんばかりです。メキシコで毎年栽培される5万3000tの唐辛子のうち、辛味のほとんどないのがベル・ペッパーの名で知られる品種です。このベル・ペッパーはもっぱら香辛料としてより、野菜として扱われ、収穫されるとほとんどすべてがアメリカに輸出されます。

そのアメリカでもベル・ペッパーの生産は、唐辛子の総生産量68万7000tのうちの6割を占めています。そして、この甘味唐辛子には一般の市場向けに、驚くほど多くの名前がつけられました。その名前はしばしば、初めて作り出された土地や育種家の趣味を反映しています。たとえば、レディ・ベル、ヨロ・ワンダー、キーストン・レジスタント・ジャイアント、カナッペ、グリーン・ボーイ、ビッグ・ベルサ、E・カルワンダー、シャムロック、ビッグ・ジム、ルビー・キング、そしてカリフォルニア・ワンダーといったようにです。

その他に辛くない唐辛子と言えば、ピーマンがあります。ピーマンは、アメリカではベル・ペッパーについで、大量に栽培されている品種で、心臓のような形をし、多肉質で、缶詰にされたものは肉厚のトマトを連想させます。アメリカでピーマンが最初に栽培されたのは、1911年、ジョージア州のスポールディング郡でのことでした。農夫のS・D/リーガルと息子のジョージが好奇心でフィラデルフィアの種子会社から少量の唐辛子の種子を買い、菜園に植えてみたのでした。リーガル家でできたピーマンは、一見したところ、ちょうどそのころジョージア州でも手に入るようになったばかりのスペイン産の缶詰のピーマンにそっくりでした。ところがその品種はまったく劣っていたので、彼らは、ピーマンをアメリカ国内でも栽培できるように在スペインのアメリカ領事に取り計らってもらえないかと地元の下院議員に頼みにいきました。すると、すぐにスペインからリーガル親子のもとへ種子が送られてきました。この種子を植えて出来たピーマンは、試験的につくったものとしては「非常によいでき」だったし、リーガル親子にとってその果実が理想的な大きさであることも、とても喜びました。これが今日知られている「完璧なピーマン」のはじまりです。

アメリカでもっとも早く唐辛子の栽培に力を入れたのは、かのジョージ・ワシントンでした。ワシントンは1785年6月13日、ヴァージニア州にあるマウント・ヴァーノンの彼の植物園に「バードペッパー」を2列、「カイエンヌ・ペッパー」を一列植えました。しかし、妻のマルサ・ワシントンが書いた「料理の本」にこの刺激に富む唐辛子を用いた献立表は載っていません。それから判断すると、ワシントンは単なる好奇心だけで唐辛子を植えていたに違いないと思います。

辛い唐辛子でよく知られているのは、次のようなものです。カイエンヌ、セラノ、カスカベル、ハラペーニョ、ハバネーロ、ロコト、タバスコ、サンディーア、バード・アイ、ピキン、日本の三鷹と本鷹、アンチョ、ドゥ・チリ、コラル・ジャム、デビル、ルイジアナ・スポーツ、チルテビン、サンナム、ムンドゥ、コインバトレ、ボンベイ・チェリー、中国の天津(ティアンジン)などである。これらの唐辛子は大きさ、形、色、風味、刺激の強さがとても変化に富んでいます。メキシコ産、アメリカ産、ルイジアナ産の品種はほとんどは、野生の辛味種と似ており、長さは3cm足らずで刺激が非常に強いものです。カリフォルニア産のものは10cmあまりと比較的長く、赤いがさほど辛くはありません。 ハラペーニョは、今やアメリカの辛味唐辛子として、確固たる地位を築いています。ずんぐりとした濃緑色のこの唐辛子は肉厚で、辛すぎずもマイルドすぎもせず、アメリカ人がちょうどよいと感じる辛さです。ハラペーニョは酢漬けにされたり、野球場で売られる「ナチョ(トルティーヤのチップス)」やホットドッグにのせられたりします。こうして、ハラペーニョはアメリカの唐辛子としてますます存在感を増し、辛い唐辛子の代表格となっています。 ところがアメリカは、消費するハラペーニョの90%近くをメキシコから輸入しています。そのため、メキシコでのハラペーニョの生産量は、唐辛子総生産量の5分の1近く占めています。メキシコといえば、唐辛子の栽培を数千年前にはじめた土地で、このハラペーニョの名もメキシコ、ベラクルス州のハラパに由来したものです。

一方、アメリカの農民は国内で需要が多くあったにもかかわらず、自分の国でこのハラペーニョをうまく栽培することはできませんでした。
アメリカで広く栽培されている辛味種は、長く曲ったグリーン・ペッパーで、長さは8cmから20cmまでといろいろなタイプがあり、様々な名前がついています。その先祖となる種子は、1597年、メキシコ州を植民地化したファン・デ・オニャーテ将軍がニューメキシコにもたらしたといわれています。しかし、この主張に考古学者たちは反論しています。というのも、何千年も前に発達したニューメキシコと中央メキシコを結ぶ交易ルートに沿って、唐辛子の考古学的遺物が出土しているからです。この唐辛子の子孫は現在、アナヘイム、カイエンヌ、サンディーアなどの品種として知られています。 これらの子孫の品種のうち、アナヘイムに目をつけ広めたのが、エミリオ・オルテガでした。彼は、ニューメキシコで牛を飼いアルフォルファを栽培する牧場主でした。1896年、彼が、カリフォルニア州のヴェントゥーラ川の西岸にある日干しレンガ造りの実家に帰ったとき、数種のトウガラシの種子を持ち帰りました。そして2、3年もしないうちに、彼はサンタアナで唐辛子の缶詰業を手がけ、せっせと働いていました。その結果、オルテガが缶詰用に使った唐辛子は、すぐにアナヘイムとして知られるようになったわけです。これが、今やカリフォルニアでもっとも広く栽培される品種であり、この唐辛子がオルテガを地元の名士にしたのです。ヴェントゥーラの『デイリー・デモクラット』紙は1902年8月1日号で、オルテガを「名声あるグリーン・チリ紳士」と誉め譛えています。

カリフォルニアやアメリカ南西部では、唐辛子好きのための辛口の食品や現代人好みの辛味の強い品種を開発しています。これはニューメキシコ農業技術大学(現ニューメキシコ州立大学)の園芸学者、ファヴィアン・ガルシア博士の力に負うところが大きいです。博士は、近所のラス・クルーシスでできる唐辛子が、見かけふぞろいで、好ましくないと感じたので、あらゆる形と大きさのトウガラシを集めて、根気良く品種交配と改良を繰り返しました。結果、1907年、つぎつぎとすばらしい品種を生み出す可能性を秘めた「もっとも理想的な果実」をつくりだすのに成功しました。そのおかげで、農夫たちはそれまで何を栽培していようがお構いなしに、どこの谷でも畑を整地しガルシア博士の唐辛子に作物を切り替えていきました。それから数十年、今やその人気はニューメキシコ州の唐辛子愛好家たちが食料品の店員やレストランのウェイターに「ファヴィアン・ガルシアをください」というまでになったのです。


                         参考文献:「とうがらしの文化誌」アマール・ナージ(晶文社)

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