死亡広告
死亡広告などと言うと、少々縁起が悪いと思われる方もいるかもしれません。でも、沖縄に来て沖縄の2大新聞である「沖縄タイムス」「琉球新報」を開けてみると、何面かのところに紙面いっぱいの死亡広告が掲載されていることに気がつきます。この死亡広告がたいへん興味深いのです。ヤマトの方で連想する死亡広告は、お葬式などの日取りや喪主などの氏名が掲載されている小さなものです。それに対して、沖縄の死亡広告はまったく違います。お通夜やお葬式の日時の掲載はもちろんとしても、その他の事項として、死亡をした方の一族一門の氏名がずらりとならび掲載をされています。亡くなられた方の縁戚関係と言いますか、ある意味で、人生の系譜みたいなことまでもはっきりと解るようにできているのです。
ある時、ある方の死亡広告をリソースにさせていただき、その方の出自を連想させていただきました。人生の様々なドラマを想定することができました。どうして、こんなに丁寧は死亡広告を出すようになったのでしょうか。その背景の1つとして考えられることは、地縁親戚関係を大切にする沖縄の文化が関係していることは想像に難しくありません。
「門中」
沖縄では、親戚一同の一族一門のことを「門中」と言います。現在、「門中」と呼ばれている人々は、その一族の出自の系譜図を持ち、ルーツを同じくする一族の集団を形成しています。彼らは、その一族により年中の各種の行事をやり、自分たち一族の墓を守っています。沖縄の「門中」というしくみのことをしゃべりだすとそれだけで一冊の本になりますので、ここでは、上面のことだけを話します。そもそも制度として沖縄にこうした概念が出現をしたのは、近世琉球以降ではないかと言われています。近世琉球とは、薩摩の侵入があった1609年から1879年までの沖縄をさします。
「系図座」
「系図座」とは、琉球王府が1689年に設置をした役所の1つです。士族たちに、始祖から代々の生没・業績を系図(家譜)として作成させ王府に提出させました。このことにより、それまでは大雑把に大名・士・百姓と分けられていた身分制度の中の士族連中をさらに厳密に分けることとなり、より一層明確な身分制度を確立しました。なぜ、このように士族連中たちの出自をより明確にさせることになったのかと言いますと、理由はあまりよく分かっていませんが、王国の扶養能力を越えて増加をし続ける士族連中の扶持対策の一環であったのではないか、と言われています。つまり、王府が扶養するしないの線引きを明らかにしたということだと思います。こうした試みが、当時より積極的に導入されていた儒教の考えと相乗して、広く琉球社会に定着していくことになるのです。
このような自分たちの一族一門の出自を明らかにして「門中」として、結束し何かにあたっていくように民衆たちまでもがなったのは、琉球王国の身分制度が崩壊をした近代以降です。今では、多くの「門中」が自分たちの家譜を再現をし、大切に守っています。ただし、当時の王府が公認した家譜については、王府の公認印がおされています。どちらにしても沖縄社会が、一族一門のつながりを大事にして社会を構成してきたことに間違いはありません。
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