FW沖縄2003−4
きました。基地の方に目を転じてみると、ゲートの左右には、各参加者たちが思い思いに考えた反戦の意思表示が金網沿いに展開されていました。それにしてもあっと言う間に多くの人が 集まっています。中高生ぐらいの子たちの姿も多くありました。少し話しを聞いてみました。「お金のために戦争はやってはいけない」「弱い立場の人たちが巻き添えを食うので、やっ てはいけない」「沖縄の観光等が影響を受ける。反対」「国連はあらゆる戦争を認めていない」などと集会への参加の思いを話してくれました。若い人もいろいろと考えているなと思わ
されました。集会では抗議の意味のダイインを行い、最後に金網の左右から半分の地球のモニュメントを手送りし、出会ったところで一つにするというセレモニーが実施されました。大い に盛り上がった集会も無事に終わり、皆、帰宅の途につきました。帰り道の道すがら、家路につくいくつかの家族の声を聞いていますと、どの家でもお父さんやお母さんやオジーやオバー たちが、いっしょに連れてきた、子どもや孫たちに沖縄戦の話やイラク戦争のことや平和についての自分の考え方などを語っていました。すごくふつうのことというように私の目には映り
ました。こんな沖縄における平和運動の歴史を少し紐解いてみましょう。詳しい運動史については、機会があるときにレポートとしてまとめます。沖縄における平和運動は、戦後の土地闘 争に始まり、反基地闘争、復帰運動、沖縄戦を語り継ぐ運動などと言うことになるでしょうか。これらの運動の特徴は、沖縄ならではの工夫された非暴力の運動であったということです。 たとえば、伊江島における阿波根昌鴻さんをリーダーとする島民の方々の土地闘争の闘い方は、日本における平和運動において先駆的な役割を担ったと言っても言い過ぎではないと思いま
す。生活の中に運動に対する意識が染み込んでいるような気がしました。

  −沖縄のお墓

次なる話は、沖縄の近世における葬式儀礼の話です。
5月のよく晴れた日、糸満市にある幸地腹門中のお墓に行く機会を得ました。今までのレポートでもお墓の形についての話はどこかでしたと思います。そこで、今回は、少し民俗学的アプ ローチをしてみたいと思います。近世以降の沖縄のお墓と一口で言ってもその形態はいくつかあります。@門中墓、A家族墓、B模合墓・寄合墓、C村墓などです。これらの墓の意味は、
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