FW沖縄2003−10
それは若い皆さんの手にかかっていると。早いもので、日本の戦争が終わってからかれこれ60年近く経ちました。今では、若い人たちの中には、日本が過去に戦争を起こしたことを忘 れてしまっている人もだいぶいると思われます。歴史としての事実は忘れないでほしいと思うと同時に軍事力による解決は解決にはならないということは知っておいてほしいと思います。 礎の回りでは、今年も例年と同じ光景を見ることができました。沖縄戦中、どこで亡くなったかわからない遺族の方々にとって、礎は一つの記憶の場であることにまちがいはありません。
オジーやオバーが、孫たちにここに名のある○○叔父さんはこんな人だったんだよ。だとか、○○叔母さんは、こんなことが得意だったんだよとか、故人の思いでを孫たちに伝え語ってい ました。今まさに当時の記憶が薄らいでいくことと同じくして、当時のことを語れる人そのものが少なくなりつつあります。平和の思いを伝えていく正念場だと思います。伝える場の一つ としてここ礎が存在していることをたいへん心強く感じるのでした。そんな光景を見ているうちに中央のテントでは、県主催の慰霊祭が始まっていました。各界から参列している方々の毎
年の挨拶を聞くことが毎年の習慣となってしまっています。毎年、毎年同じような挨拶かと思うと、年によって微妙にニュアンスの違いがあります。時代の意識の反映とでも言いましょう か、挨拶者が意識的にそう語っているのか時代がそう語らせているのか、年々、平和を維持するための危機意識が薄らいでいっているように感ずるのは私だけでしょうか。慰霊祭が終わっ た後、昼食を済ませ、例年ですと魂魄の塔へ行くのですが、今年は、轟の壕へ行くことにしました。摩文仁の丘からほど近い、糸満街道沿いにあるこの壕は、沖縄戦時沖縄県庁の最後の所
在地になったことや、軍と住民が混在したことによって、特に民間人に犠牲者を出したことで沖縄戦史に名を残しています。壕の前に立ち、まず驚かされます。というのは、アメリカ軍が 撮った沖縄戦記録映像にこの壕が映っています。何もない岩や土のむき出しとなった土地にクレーターのようにポッカリと口を開けた壕、その底の小さな穴から列をなして這い出してくる 住民たち、まるで異次元の世界の出来事を観ているかのようです。そんな風景を思い描き壕を見ると、そうしたイメージのかけらも今はありません。60年間の時間が壕を緑深いジャング ルの中へと再び押し戻しているのです。鬱蒼と繁った南国特有の木々の間に黒々とした口を開けた壕は、その経験した時間を押し込めたかのように存在をしています。【第2部へ続く
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