FW沖縄2003−7
ウタキは、その昔、村が始まった場所であるとか、最初の祖先の墓跡であるとか言われています。多くのウタキの場所には、生活に必要な森の恵みと水がある場所でした。後にウタキとな る場所を中心として、一族の村は広がっていったと言われています。ですから、御嶽は祖先発祥の地であり、村の発祥の場所でもあるのです。そうした場所を霊域とし、子孫代々敬い、 村の祭祀儀礼もこの地から始まるのです。うっそうとした森の中の遊歩道を抜けるとまばゆいばかりに広がった白砂のビーチ、トゥマイ浜へと出てきました。あまりのまぶしさに目も開け
ていられない中、真っ青な海を見ながら昼飯をとり、一息ついてから、午後の部開始です。浜の中ほどの山手にある「中の御嶽」へと詣りました。この御嶽は、拝所として祀られていると 同時に村を発展させた祖神である「喜舎場子」の墓もあり、村の四御嶽のひとつとして古くから崇拝されている場所です。中の御嶽をあとにして、島の中央部へと進みました。島の北部は 広く畑などが広がっています。集落は、島の南西部に集中しています。集落のほぼ中央部分にある津堅殿内を見学し、島の一番の高台にある人参型の展望台へと登りました。島が一望でき
る巨大人参から眺める島は、まるで地球儀にへばりつくひょっこりひょうたん島のようです。展望台を降りた私は、昔ながらの素敵な小径を抜け、貝塚を横目で見ながら、島の東岸にあ る津堅貝塚へと向かいました。東海岸のアギハマの砂丘上に広がるこの貝塚には、今も土器、石器、貝殻などが出土しています。たくさんの遺物に混じり、ザン(ジュゴン)の骨も混じ っていると言われ、古代の人たちの生活が忍ばれます。貝塚を後にして、最後、島のあちらこちらで見ることができる地割制の跡を畑の中に見ることにしました。沖縄で長く土地制度
として機能していた地割制も明治の土地整理とともにその姿を消しましたが、離島などに渡るとその姿を留めている所があります。ここ津堅島でも地割の区画が形を留めている所があり、 その昔の琉球の耕地形態を彷彿させます。短冊形に区切られた各耕地をそこに住む住民たちの合議により、各家々の生産能力に合わせ配分し、地の能力の平等性も考え、何年か毎にローテ ーションし邑全体で、支え合うシステムだったそうです。実際、ヤマトにも似たようなシステムがあったわけですが、その性格の違いは歴然で、その比較については別の機会に紹介します
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