FW沖縄2003−5
門中墓とは、沖縄では一般的な言い方である門中と呼ばれている父系親族集団によって所有している共同墓のことです。今回、訪れた「幸地腹門中墓」もこのタイプになります。家族墓と は、家族単位で所有し、その成員だけで葬る墓です。代々長男によって継承されます。模合墓・寄合墓は、沖縄にある「模合」という社会集団が経費を出し合って作った墓です。「模合」 というシステムは、古くは鎌倉時代のヤマトで始まり全国に広まったものです。「模合」の取材は、別の機会に紹介します。村墓は、村落共同体で墓を所有している形です。墓自体の形は
古代においては、岩陰や洞窟を利用したものでしたが、首里王府時代以降は、亀甲墓(カーミヌクーバカ)や破風墓(ファーフーバカ)が作られるようになりました。ただし、これら の形の墓を庶民が作ることを許されようになるのは廃藩置県以降になります。したがって、近世琉球に作られた門中墓などの共同墓は、平葺墓が多いと言われています。今回取材に訪れ た糸満市にある幸地腹門中墓は、沖縄最大の門中墓です。幸地腹家系と赤比儀腹家系の一部が共同で使っている共同墓です。幸地腹家系4500名、赤比儀腹家系1000名と、幸地腹側
の構成員が多いので、幸地腹門中墓と呼んでいます。敷地は、約1800坪で、中にトーシー墓1基、シルヒラシ墓4基、ワラビ墓2基、納骨堂、洗骨場などがあります。トーシー墓は、 1684年10月9日に建造され、1935年に改築をされた洗骨後の遺骨を永遠に安置する第2次墓です。シルヒラシ墓は、遺骸を白骨化させる場所です。以前は、その洗骨儀式を行 っていました。ワラビ墓は、幼くして亡くなった子どもが入れられる墓です。納骨堂は、離島や海外などの遠隔地で亡くなった方の遺骨を安置する場所です。この共同墓のことを研究す
るだけで、沖縄の社会組織の一つである「門中」のこと、洗骨儀礼をはじめとする葬送儀礼のこと、当時の琉球王府の政策のことなどなどが推測され、興味はつきることはありません。こ うしたお墓に沖縄の方々は、年に何度も親戚一同集まり供養をします。あちらとこちらの近さを感ずる場所でした。

   −津堅島−
梅雨開け間近の6月の暑い日に訪れたのは、沖縄島の中部太平洋側に浮かぶ小さな島である津堅島です。与勝半島の先っぽ平敷屋港から船に乗り、白い波を蹴散らし、島をめざしました。
トップへ |5|10|/10ページ