FW沖縄2003−15
てしまっているのでしょうか。立派なつくりの国立沖縄戦没者墓苑を横に見ながら、さらに丘を登っていくと公園の突端崖の上に「黎明之塔」があります。この塔は、この地で自決をした 牛島軍司令官と長参謀長を祀った慰霊碑です。この二人の自決を持って沖縄戦の終戦とし、6月23日を終戦日としています。がしかし、軍司令官の自決を持って終戦とすることは本来の 終戦定義からしたら不適切です。さらに、両司令官の自決の日は6月23日ではなく、22日であったことも慰霊碑手前にある首塚横碑に書かれている日にちを見れば直ぐに分かります。
重ねて言えば、軍司令官から出された最後の命令も降伏や停戦を命令したものではありませんでした。実質この後も戦闘は続き、米軍が沖縄作戦の終了を宣言したのは7月2日でした。終 戦の日が何日であったかはともかく、この沖縄戦の特徴は、国内で起きた唯一の地上戦の1つ(他には硫黄島)であったわけで、多くの住民が戦闘に巻き込まれ亡くなったのです。沖縄で の忘れていけない教訓は、軍隊は国体を守るのであって、国民を守るものではないということです。丘の直ぐ南側の海に迫った断崖に細い石段がついています。当時は、急傾斜の断崖絶壁
につく沢筋のような所だったそうです。海上から撃ってくる艦砲射撃の合間をぬって崖下に湧く水場へ行くための道でもあったそうです。細く長い石段を降りきった所に「沖縄師範健児之 塔」があります。1945年早々、敵が上陸すること必至の情勢になり、15歳から19歳までの多くの学徒たちが鉄血勤皇隊や通信隊として軍隊へと入隊させられていきました。中でも 師範学校の生徒は軍司令部直属であったため、司令部の移動とともに最後まで伝令や水くみ、食糧確保などの任務を課せられました。6月18日には、学徒隊の解散命令が出ていたにもか
かわらず、連絡が不徹底だったので最後の総攻撃まで参加をさせられた学徒たちは、ここ摩文仁の丘付近で200名近くが亡くなったと言われています。師範学校男子からは386名が動 員され224名が戦死をしています。今日のフィールドワーク参加者の中に当時の学徒隊に参加をされた方がいらっしゃいました。まさにこの塔の直ぐ裏側で捕虜になった方でした。戦争 が終わったと言われても出ていったら殺されると信じていたので、なかなか出ていくことができなかった。いっしょに逃げていた家族の1人が「もうこれ以上、死体を踏みたくない」から
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