FW沖縄2003−14
「平和の礎」や「平和祈念資料館」などには、立ち寄るのですが、なかなか丘まで登るということがないので、摩文仁の丘を中心とした今回のフィールドワークは、非常によい機会である と思い、気持ちを引き締めて参加をしました。朝のまだ早い時間なのにもかかわらず、集合場所の資料館のホールは多くの人で埋まっていました。そこでまず、南部をめぐる慰霊碑にまつ わる話しを聞き外へと出ました。資料館を出て私たちが最初に向かったのは、資料館のまさに裏手にあたる場所にある韓国人慰霊塔です。韓国人慰霊塔の話は、他年度のFWでも解説をし
ているのでそちらを参照してください。次に訪れたのは、これも資料館の東側にある沖縄工業健児最後の壕です。当時、工業科の生徒たちは、土木や電気関係の技術を持っていたため軍事 作業でも重宝だっただけに多くの生徒たちが動員され犠牲となりました。昼休みを挟んで、資料館の前庭を横切り礎の出ました。資料館の前には、礎との連動性を断ち切るかのように酸素 魚雷の残骸が放置してあります。礎の前では、礎のもう一つの見方として、その亡くなった日にちなども見る必要性もあることを紹介してもらいました。礎で話しを聞いた後、摩文仁の丘
に向かって下から登っていくこととになりました。ここ摩文仁の丘は、全国唯一の戦跡国定公園となっています。丘の一番上に国立墓苑があり、そこの先にある「黎明の塔」を頂点として 各県の慰霊碑が上り道の両脇に立ちならんでいます。まさに国家を頂点としたピラミッド構造を表現した形になっているわけです。本来、沖縄における戦跡慰霊の中心の場所は、以前から 何度も書いている米須海岸近くにある「魂魄の塔」であったのです。それが国定公園の整備とともに摩文仁の方へと移動させられてきたわけなのです。各県の慰霊碑が立ちならぶ中で慰霊
碑のない県が1つだけあります。それは沖縄県です。沖縄の場合は、県内全域が戦場となったわけで、何もここだけが戦跡ではないのです。私たちは、沖縄県以外の各県の慰霊碑に刻まれ ている碑文を読みながら丘を登っていきました。各県の慰霊碑に書かれている碑文の多くは、名誉の戦死を讃えるもの多く、先の戦争行為を反省したる文を刻んだものは皆無であるという ことに気がつかされます。21世紀となった今、もうそういう時代ではないのに碑文を書き直そうという動きはないのでしょうか。現在進行形であるべき平和の意志はもう既に化石となっ
トップへ 1部へ  10|/10ページ